盛唐44ー常建
塞下曲四首 其二 塞下の曲 四首 其の二
北海陰風動地来 北海(ほっかい)の陰風(いんぷう) 地を動(ゆる)がして来たる
明君祠上望龍堆 明君(めいくん)の祠上(しじょう) 龍堆(りゅうたい)を望む
髑髏尽是長城卒 髑髏(どくろ) 尽(ことごと)く是(こ)れ長城の卒(そつ)
日暮沙場飛作灰 日暮(にちぼ) 沙場(さじょう) 飛んで灰と作(な)る
⊂訳⊃
湖上からの北風が 大地を揺るがして吹いてくる
王昭君の祠の辺で 龍堆の砂漠を見わたしている
散乱する頭蓋骨は 尽く長城守備の兵士たち
砂漠に夕闇が迫り 骨は飛び散って灰となる
⊂ものがたり⊃ 常建(生没年不詳)は長安(陝西省西安市)の人といいますが、詳細は不明です。開元年間二十九年のうち、開元十五年(727)は中間の年に当たりますが、この年に王昌齢、常建という二人の詩人が進士に及第しています。ふたりは対称的な人生を送ることになります。
常建も若いころは王昌齢と同じように辺塞詩を作り、宴会の席などで披露していました。詩題の「塞下」(さいか)は砦の下。起句の「北海の陰風」は北の砂漠から吹く陰鬱な風とも解せますが、承句に「龍堆」(白龍堆)とあり、ロブノール(新疆ウイグル自治区東部にある湖)の東に広がる砂漠を差します。したがって、ロブノールの湖上を渡って吹いて来る北風と解することができます。
「明君」は漢の元帝時代に匈奴の単于に嫁がせられた王昭君のことですが、その祠と称する地は数か所にあり、唐代は漠然としていたと思われます。龍堆を西に望むあたりは漢の長城の東端でした。そこを捉えて西域守備の陰惨な結末を詠うのです。ただし、常建が西域に従軍したとは考えられませんので、多くの辺塞詩と同様、想像の詩です。
塞下曲四首 其二 塞下の曲 四首 其の二
北海陰風動地来 北海(ほっかい)の陰風(いんぷう) 地を動(ゆる)がして来たる
明君祠上望龍堆 明君(めいくん)の祠上(しじょう) 龍堆(りゅうたい)を望む
髑髏尽是長城卒 髑髏(どくろ) 尽(ことごと)く是(こ)れ長城の卒(そつ)
日暮沙場飛作灰 日暮(にちぼ) 沙場(さじょう) 飛んで灰と作(な)る
⊂訳⊃
湖上からの北風が 大地を揺るがして吹いてくる
王昭君の祠の辺で 龍堆の砂漠を見わたしている
散乱する頭蓋骨は 尽く長城守備の兵士たち
砂漠に夕闇が迫り 骨は飛び散って灰となる
⊂ものがたり⊃ 常建(生没年不詳)は長安(陝西省西安市)の人といいますが、詳細は不明です。開元年間二十九年のうち、開元十五年(727)は中間の年に当たりますが、この年に王昌齢、常建という二人の詩人が進士に及第しています。ふたりは対称的な人生を送ることになります。
常建も若いころは王昌齢と同じように辺塞詩を作り、宴会の席などで披露していました。詩題の「塞下」(さいか)は砦の下。起句の「北海の陰風」は北の砂漠から吹く陰鬱な風とも解せますが、承句に「龍堆」(白龍堆)とあり、ロブノール(新疆ウイグル自治区東部にある湖)の東に広がる砂漠を差します。したがって、ロブノールの湖上を渡って吹いて来る北風と解することができます。
「明君」は漢の元帝時代に匈奴の単于に嫁がせられた王昭君のことですが、その祠と称する地は数か所にあり、唐代は漠然としていたと思われます。龍堆を西に望むあたりは漢の長城の東端でした。そこを捉えて西域守備の陰惨な結末を詠うのです。ただし、常建が西域に従軍したとは考えられませんので、多くの辺塞詩と同様、想像の詩です。