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tiandaoの自由訳漢詩

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     盛唐89ー岑参
       登總持閣            總持閣に登る

      高閣逼諸天     高閣(こうかく)  諸天(しょてん)に逼(せま)り
      登臨近日辺     登臨(とうりん)すれば日辺(じっぺん)に近し
      晴開万井樹     晴れては開く  万井(ばんせい)の樹(じゅ)
      愁看五陵烟     愁えては看る  五陵(ごりょう)の烟(けむり)
      檻外低秦嶺     檻外(かんがい)に秦嶺(しんれい)低く
      窓中小渭川     窓中(そうちゅう)に渭川(いせん)小なり
      早知清浄理     早(つと)に知る  清浄(しょうじょう)の理
      常願奉金仙     常に金仙(きんせん)を奉ぜんことを願わん

      ⊂訳⊃
              高殿は  二十八天に逼るほど高く
              登れば  日輪に近づく
              晴れた空の下  一望する長安の街
              愁えて眺める  五陵の街の霞む色
              欄干のそとに  秦嶺は低くつらなり
              窓枠になかで  渭水の野は小さい
              清浄の教えの事は  かねて私も聞いていた
              み仏に仕える事を  いつも心に念じていよう


     ⊂ものがたり⊃ 天宝十四載(755)十一月、安禄山の乱が起きたとき、岑参は北庭都護府(新疆ウイグル自治区破城子)にいました。ただちに帰国して粛宗の陣に加わり、乱後、右補闕に任じられます。同じく粛宗朝に仕えていた王維や賈至、杜甫らと交わります。
     詩は粛宗朝に仕えて長安にいたときの作品で、詩題の「總持閣」(そうじかく)は長安城内の西南隅にあった大總持寺の高殿です。はじめの二句で總持閣の姿を描きます。「諸天」は仏教にいう二十八天を指しますので、単なる天ではありません。
     中四句は總持閣の窓からの眺めです。「万井の樹」は市井と樹木のことで、ここでは長安の街でしょう。「五陵の烟」は裕福な人の住む五陵(五つの陵邑)のあたりに立ち込める霞であり、それを愁えて眺めるのです。そこには時代を憂慮する気持ちが込められています。「渭川」は渭水に添った平野、関中盆地のことです。
     結びの「清浄の理」は清らかな教えで、仏教のことです。「金仙」は金色の仙人ということになりますが、仏像のことです。岑参は安思の乱後に仏法への帰依の心を抱いたことが窺えます。
     長安での勤務の後、岑参は虢州(河南省霊宝県の南)長史や嘉州(四川省楽山県)刺史に任じられます。大暦五年(770)、嘉州での三年の任期を終えて長安にもどる途中、成都(四川省成都市)で病没しました。享年は五十六歳です。
     

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     盛唐90ー高適
       田家春望          田家の春望

      出門何所見     門を出(い)でて何の見る所ぞ
      春色満平蕪     春色(しゅんしょく)   平蕪(へいぶ)に満つ
      可歎無知己     歎(たん)ず可(べ)し  知己(ちき)無きを
      高陽一酒徒     高陽(こうよう)の一酒徒(いちしゅと)

      ⊂訳⊃
              わが家の門を出れば  何が見えるのか

              見渡す限りの平原に  春の息吹が満ちている

              嘆かわしいのは  おれを知る者がいないこと

              儒者ではないぞ  高陽に一酒徒だ


     ⊂ものがたり⊃ 高適(こうせき:707?ー765)は滄州勃海(河北省滄県)の人。若いころには定職につかず、遊侠の徒と交わったといいます。王之渙(おうしかん:4月3日のグログ参照)と親しんだと言われていますので、詩にも目覚めていたと思われます。
     詩題の「田家」(でんか)は田舎の家。「出門」は出世のためにわが家の門を出ることで、「知己」は自分の才能を理解する者の意味です。結句の「高陽の一酒徒」は漢の高祖劉邦が天下を取る前の故事を踏まえています。
     劉邦が軍を率いて西進していたとき、高陽(河南省杞県)の酈食其(れいいき)が劉邦に面会を求めました。取りつぎの者が儒者には会わないことになっていると告げると、酈食其は「おれは高陽の一酒徒だ。儒者ではない」と怒鳴りつけたといいます。その言葉を引いているのです。

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     盛唐91ー高適
        栄州歌               栄州の歌

      栄州少年厭原野   栄州(えいしゅう)の少年  原野(げんや)に厭(あ)く
      皮裘蒙茸猟城下   皮裘(ひきゅう)  蒙茸(もうじょう)として  城下に猟(かり)す
      虜酒千鍾不酔人   虜酒(りょしゅ)千鍾(せんしょう)  人を酔わしめず
      胡児十歳能騎馬   胡児(こじ)  十歳  能(よ)く馬に騎(の)る

      ⊂訳⊃
              栄州の若者たちは  広い野原を知り尽くし

              皮衣をなびかせて  砦のそばで狩をする

              酒を千杯飲もうと   酔うこともなく

              胡児たちは十歳で  馬を上手に乗りこなす


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「栄州」は遼寧省のあたりをいい、契丹族と境を接しています。そこにでかけた高適が胡族の印象を書きとめた詩です。「原野に厭く」というのは原野のことをよく知っているという意味です。「蒙茸」は乱れる、ばらばらになることで、「皮裘」(皮ごろも)が風になびくさまをいいます。
     当時、辺境を訪れた詩人は見分を記録して内地に送る務めがありました。そうした活動が官に認められる切っ掛けになるのであり、若いころ、生家に近い東北辺境を訪れたときの作とみられます。

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     盛唐92ー高適
       邯鄲少年行            邯鄲少年行         (前半八句)

      邯鄲城南游侠子   邯鄲(かんたん)城南  游侠(ゆうきょう)の子(こ)
      自矜生長邯鄲裏   自ら矜(ほこ)る   邯鄲の裏(うち)に生長せしを
      千場縦博家仍富   千場(せんじょう)  博(はく)を縦(ほしいまま)にして  家  仍(な)お富み
      幾度報讎身不死   幾度か讎(あだ)を報(むく)いて   身(み)  死せざる
      宅中歌笑日紛紛   宅中(たくちゅう)の歌笑(かしょう)  日に紛紛(ふんぷん)
      門外車馬常如雲   門外の車馬(しゃば)  常に雲の如し
      未知肝胆向誰是   未(いま)だ知らず   肝胆(かんたん)  誰に向かってか是(ぜ)なる
      令人却憶平原君   人をして却(かえ)って平原君(へいげんくん)を憶(おも)わ令(し)む

      ⊂訳⊃
              邯鄲城内の南部に住む  私は街の男伊達
              邯鄲に生まれて育つと  胸を張る
              思うがままの賭場歩き  それでも家は金持ちで
              喧嘩出入りを重ねたが  死ぬこともなく生きている
              家では毎日宴会つづき  歌声と笑いに満ち溢れ
              門前にはお客の馬車が  雲のように並んでいる
              ところが自分の胸の内  誰に打ち明けようもなく
              かつての趙の平原君を  心の内で慕っていた


     ⊂ものがたり⊃ 高適は遊歴の旅をつづけ、李白が都から追われたと聞いて面会しようと駆けつけます。天宝三載(744)の秋、李白と杜甫の梁宋の交遊に参加して旅を共にします。高適は李白より六歳ほど年少、杜甫より五歳ほど年長でした。岑参よりは八歳ほどの年長です。
     詩題の「邯鄲」は戦国時代の趙の都。漢代にも栄え、遊侠と歌舞の盛んな街として有名でした。高適は邯鄲の生まれではありませんが、邯鄲のある河北の生まれですので、物語としての自己を邯鄲に比定したのでしょう。
     はじめの四句は自分の若いころを描いて人物を設定します。「邯鄲城南」は城内の南部で、南門に近いところは繁華街でした。「游侠の子」は正義を重んじ弱きを助け強きを挫く若者のことであり、やくざではありません。
     つぎの四句は若いころは宴会つづき、馬車に乗った客が雲のように押し寄せる賑やかさであったといいます。だが、心の内を打ち明けるような真の友はいなかったと回顧します。「平原君」は戦国時代の趙の王族で、人材を大切にして多くの食客を抱えていました。その平原君のような人を知る人物を慕っていたと詠います。
      

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      盛唐93ー高適
        邯鄲少年行            邯鄲少年行         (後半六句)

      君不見今人交態薄  君(きみ)見ずや  今人(きんじん)  交態(こうたい)の薄きを
      黄金用尽還疎索   黄金(おうごん)  用い尽くせば還(ま)た疎索(そさく)
      以茲感歎辞旧遊   茲(ここ)を以て感歎して旧遊(きゅうゆう)を辞し
      更於時事無所求   更に時事(じじ)に於いて求むる所(ところ)無し
      且与少年飲美酒   且(しばら)く少年と美酒を飲み
      往来射猟西山頭   往来(おうらい)  射猟(しゃりょう)せん  西山(せいざん)の頭(ほとり)

      ⊂訳⊃
              君も知っているだろう   今の世のつき合いの薄いことを
              有り金を使い果たせば  おさらばだ
              ご時世に溜め息をつき  つき合いもやめ
              この世のあれこれに   何も求めぬことにした
              しばらくは若者たちと   おいしい酒でも飲み
              駆け回って狩をしよう   あの西の山のほとりで


     ⊂ものがたり⊃ 後半六句のはじめ四句は、「君見すや」と問いかけて現状を批判します。最近は人情が薄いことを述べ、「更に時事に於いて求むる所無し」といいます。「時事」は世の中のあれこれでしょう。そして結びの二句では、「少年」(十八歳から三十歳くらいをいう)たちと酒でも飲み、狩でもして楽しもうと諦めの口調で詠います。「西山」は邯鄲あたりからみた西の山裾でしょう。 

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     盛唐94ー高適
       別董大二首 其一      董大に別る 二首  其の一

      十里黄雲白日曛   十里の黄雲(こううん)  白日(はくじつ)曛(くら)し
      北風吹雁雪紛紛   北風(ほくふう)   雁(かり)を吹いて  雪紛紛(ふんぷん)
      莫愁前路無知己   愁うる莫(な)かれ  前路(ぜんろ)に知己(ちき)無きことを
      天下誰人不識君   天下  誰人(たれびと)か  君を識(し)らざらん

      ⊂訳⊃
              黄砂は煙る十里の間  真昼の太陽もほの暗い

              雁を吹き飛ばす北風  雪も盛んに降ってきた

              だが旅立つ君よ  前途に知己がいないと心配するな

              この広い天下に  君を理解する者がいないはずはない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「董大」(とうだい)は董廷蘭(とうていらん)といい、琴の名手として有名だったといいます。制作時期は分かりませんが、董大との別れに際して前途を励ます詩です。
     はじめの二句で場所を述べます。北の辺境地帯と思われ、「黄雲」は黄砂の雲または日暮れの雲ですが、ここでは「白日」(輝く太陽)ですから、黄砂の雲でしょう。北風も吹き荒れ、雪が降っています。それらは人生の苦難の比喩でもあるのです。
     後半の「知己」は心から語り合える友のこと。君ほどの才能があれば、きっと認めてくれる人が現れ、召し抱えてくれよと励まします。

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     盛唐95ー高適
         除夜作           除夜の作

      旅館寒燈独不眠   旅館の寒燈(かんとう)  独り眠らず
      客心何事転凄然   客心(かくしん)  何事ぞ  転(うた)た凄然(せいぜん)
      故郷今夜思千里   故郷(こきょう)  今夜  千里を思う
      霜鬢明朝又一年   霜鬢(そうびん)  明朝  又(ま)た一年

      ⊂訳⊃
              寒々とした宿の灯火  ひとり眠れずにいると

              旅の寂しさが  なぜか凄然と湧いてくる

              大晦日の今夜  はるか千里の故郷を思う

              明日の朝には  鬢の白髪も増えてまた一歳


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「除夜」(じょや)は大晦日の晩。制作時期は不明ですが、高適は天宝八載(749)に四十三歳くらいで科挙の有道科に及第します。汴州封丘(河南省開封市)の県尉になりますが、地位の低さに失望して辞任し、放浪生活にもどります。詩には失意がにじみ出ており、そのころの作品ではないでしょうか。
     前半二句は、みすぼらしい宿に泊まったときの心境です。後半は「転た凄然」であることの理由を述べます。寂しさは大晦日の夜に故郷を思うことから湧いてきます。故郷を思うことは、故郷で自分を思っている家族を思うことでもあります。新年になればまた一歳、年も増え白髪も増えると歎きます。

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     盛唐96ー高適
         九曲詞               九曲詞

      鉄馬横行鉄嶺頭   鉄馬(てつば)横行(おうこう)す  鉄嶺(てつれい)の頭(ほとり)
      西看邏娑取封侯   西のかた邏娑(らさ)を看(み)て封侯(ほうこう)を取らん
      青海只今将飲馬   青海(せいかい)  只今  将(まさ)に馬に飲(みずか)わんとす
      黄河不用更防秋   黄河(こうが)用いず  更に秋を防(ふせ)ぐを

      ⊂訳⊃
              鉄嶺のあたりを  鉄騎に跨って勇んでゆく

              ラサを西に望み  功名を立てようと思う

              いままさに  青海のほとりで馬に水をやり

              秋に備えて  黄河の岸に布陣する必要もない


     ⊂ものがたり⊃ 県尉を辞任して放浪中、高適は隴右河西節度使哥舒翰(かじょかん)に認められて幕下に参じ、西域に勤務します。詩題の「九曲詞」(きゅうきょくし)は新楽府題で、天宝十三載、哥舒翰は吐蕃(とばん)を撃破し、黄河の源流「九曲」(青海省化隆県付近)地方を取りもどしました。そのころの作と思われます。
     「鉄嶺」は西北塞外の山と見られますが、位置は不明です。「邏娑」は西蔵の首都ラサのことであり、武功をめざすと詠うことで、戦意を鼓舞するのです。「青海」は青海湖のこと。「将に馬に飲わんとす」と詠うことで、吐蕃を破った戦を祝うのでしょう。
     「秋を防ぐ」は秋になると侵入してくる異民族に備えて黄河の守りを固めることを意味し、その必要もなくなったと戦勝を祝うのです。

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     盛唐97ー高適
       塞上聞吹笛          塞上にて笛を吹くを聞く

      雪浄胡天牧馬還   雪浄(きよ)し   胡天(こてん)    馬を牧(ぼく)して還(かえ)れば
      月明羌笛戍楼?   月は明らかに  羌笛(きようてき)  戍楼(じゅろう)?(しず)かなり
      借問梅花何処落   借問(しゃもん)す  梅花  何(いず)れの処(ところ)よりか落つる
      風吹一夜満関山   風吹いて  一夜  関山(かんざん)に満つ

      ⊂訳⊃
              清らかな雪景色  胡地の空  牧場から馬がもどれば

              月明かりの砦に  羌笛の音は流れて静かである

              はて  何処から来たのか  梅の花  梅花落の曲は

              風に吹かれて一夜の間に  国境の山に満ちている


     ⊂ものがたり⊃ この詩も高適が哥舒翰の幕下にいたときの作とみられます。前半二句は胡地の塞の静かな夕暮れを詠います。馬を牧して還って来たのは住民でしょう。夜になって月明かりの「戍楼」に羌笛の音が流れます。
     後半の二句は感慨を詠うもので、「梅花」は落梅の花びらに「梅花落」(ばいからく)の曲を重ねています。一夜のあいだに「関山に満つ」のは梅の花びらではなく、「梅花落」の曲によってひき起こされた望郷の思いでしょう。辺塞詩の秀作のひとつです。
     安禄山の乱が起きると、高適は哥舒翰の軍とともに粛宗の旗下に参じ、一軍を与えられて江南に派遣され、軍功を立てます 乱後、侍御史に任ぜられ諌議大夫に昇進しますが、左遷されて蜀州ついで彭州(四川省彭県)の刺史になります。そのころ成都に移って来ていた杜甫の生活を援助しました。
     やがて赦されて西川節度使になり、晩年には刑部侍郎、散騎常侍に至り、永泰元年(756)に亡くなりました。享年は六十五歳ほどです。

           ※ 本日で「盛唐」をおわります。次回は、
              7月19日(土)から、「中唐」を始めます。

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      ☆ ティェンタオの自由訳漢詩 ⊂ブログ案内⊃

     
          盛唐の有名詩人

           王 維  平成20年11月13日ー平成21年 3月12日 ブログ参照
           李 白  平成21年 3月20日ー平成21年10月23日 ブログ参照
           杜 甫  平成21年11月 1日ー平成22年 8月 5日 ブログ参照

          中唐の有名詩人

           白居易  平成22年 8月11日ー平成23年 2月16日 ブログ参照
           李  賀  平成23年 3月 1日ー平成23年 7月 4日  ブログ参照

          晩唐の有名詩人

           杜  牧  平成23年 7月11日ー平成23年12月19日 ブログ参照
           李商隠  平成24年 1月 1日ー平成23年 3月20日  ブログ参照
            

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     中唐1ー銭起
        逢俠者            俠者に逢う

      燕趙悲歌士     燕趙(えんちょう)  悲歌(ひか)の士
      相逢劇孟家     相逢(あいあ)う   劇孟(げきもう)の家
      寸心言不尽     寸心(すんしん)   言い尽さざるに
      前路日已斜     前路(ぜんろ) 日 已(すで)に斜めなり

      ⊂訳⊃
              劇孟のような  俠者の家で

              燕趙  悲歌慷慨の士に逢う

              胸のうちを   語り尽くせないでいるうちに

              路のゆく手に  夕日はすでに傾いている


     ⊂ものがたり⊃ 今日から中唐の詩人にはいりますが、盛唐と中唐の区分については困難があります。政事的には天宝十四載(755)に安禄山の乱が起こると、盛唐の栄華は一変します。しかし、盛唐期に活躍した詩人の多くは安禄山の乱、史思明の乱をくぐり抜けてそのあとまで活躍しています。
     盛唐の有名詩人を死亡年のはやい順に列記しますと、王維が粛宗末年の上元二年(761)、李白が代宗初年の宝応元年(762)、高適は永泰元年(765)、杜甫と岑参は大暦五年(770)になります。だから詩文の盛唐期は代宗の治世初期まで及ぶと考えるべきでしょう。
     粛宗の上元三年(762)四月、玄宗上皇が崩じ、つづいて粛宗も崩じました。皇太子が即位して代宗になり、宝応と改元されます。しかし、しばらくは吐蕃の侵入、僕固懐恩(ぼっこかいおん)の乱などが発生し、平穏を取りもどすのは大暦元年(766)になってからです。詩文の中唐期は大暦元年に始まるとされていますが、大暦年間(766ー779)に活躍する詩人の多くは、玄宗の天宝末年に進士に及第し、乱後に新しい詩の傾向を示す詩人として登場するのです。
     銭起(せんき:722ー780?)は呉県(浙江省呉興県)の人。天宝十載(751)に三十歳で進士に及第しますが、なかなか任官できませんでした。やがて藍田(陝西省藍田県)の県尉になり、藍田で輞川荘(もうせんそう)を営んでいた王維のもとに出入りして影響を受けます。安史の乱前後、粛宗・代宗に仕えて校書郎から尚書省考功郎中を歴任し、大暦年間には翰林学士になっていました。
     詩題の「俠者」(きょうしゃ)は義俠の人といった意味です。「劇孟」は洛陽の俠者で、『史記』游侠列伝に伝があります。「燕趙」は戦国時代に河北にあった二つの国のことで、悲歌慷慨の士が多いことで有名でした。なかでも『史記』刺客列伝に登場する荊軻(けいか)は「易水の歌」で知られています。
     だからここでは、旅先で憂国の士と出逢い、「寸心」(自分の心)を語り合っている内に日暮れになったと、憂国の思いを詠うのです。制昨年は不明ですが、結びの「前路 日 已に斜めなり」に比喩を読むとすれば、安史の乱後の唐朝の衰退を憂えていることになりますが、進士及第前の若いころの作品とも思われます。

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     中唐2ー銭起
         帰雁                帰雁

      瀟湘何事等?囘   瀟湘(しょうしょう)  何事ぞ  等閑(とうかん)に回(かえ)る
      水碧沙明両岸苔   水は碧(みどり)に  沙(すな)明らかに  両岸苔(こけ)あり
      二十五絃弾夜月   二十五絃  夜月(やげつ)に弾(だん)ずれば
      不勝清怨却飛来   清怨(せいえん)に勝(た)えずして  却飛(きゃくひ)し来たる

      ⊂訳⊃
              雁よ 瀟湘の地を見捨てて  どうして北へ帰るのか

              水はみどり  砂浜は明るく  岸辺は苔むして住みやすい

              夜半の月明かりのもと    二十五絃が奏でられると

              悲しげな音に堪えきれず   飛んで行ってしまうのか


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「帰雁」(きがん)は北へ帰る雁。起承句は雁への問いかけです。「瀟湘」は洞庭湖の南、瀟水と湘水の流れる湖南の地で、自然が美しく雁の好きな苔もあるのに、どうして「等閑」(なおざり)にして北へ帰るのかと問います。
     転結句では、北へ帰る雁の心境を想像して詠います。「二十五絃」は二十五本の絃が張ってある瑟(しつ:大型の琴)で、神話上の皇帝伏羲(ふつぎ)が作ったとされています。その「清怨」(もののあわれ)な音色に堪えきれずに北へ引き返すことにしたのかと想像します。 楚辞「遠遊」に「湘霊をして瑟を鼓せしめ」という句があり、湘霊は湘水に身を投げて女神になった舜帝の妃湘君のことです。この故事を踏まえて、「夜月」に哀しみの曲を奏でる湘君が想定されています。
     詩は銭起が瀟湘地方に左遷されていたとき、内輪の宴会で披露した作品と推定されており、政事への批判や絶望が遠まわしに表現されています。しかし、銭起が湖南に左遷されたということは伝記的には不詳です。山水詩を装いながら、そこに仲間内だけに分かる政事批判を混ぜ合わせるのは大暦の詩の一傾向でした。

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     中唐3ー張継
        楓橋夜泊             楓橋夜泊

      月落烏啼霜満天   月落ち  烏(からす)啼いて 霜  天に満つ
      江楓漁火対愁眠   江楓(こうふう)  漁火(ぎょか)  愁眠(しゅうみん)に対す
      姑蘇城外寒山寺   姑蘇(こそ)城外  寒山寺(かんざんじ)
      夜半鐘声到客船   夜半の鐘声(しょうせい)  客船(かくせん)に到る

      ⊂訳⊃
              月は隠れ  烏は啼いて  空に寒気が満ちている

              川辺の楓樹や漁り火が  夢うつつの目に映る

              姑蘇の城外  寒山寺

              夜半を告げる鐘の音が  舟の上まで聞こえてくる



     ⊂ものがたり⊃ 張継(生没年不詳)は南陽(河南省南陽市)の人とも襄州(湖北省襄陽市)の人ともいいます。天宝十二載(753)に進士に及第し、はじめ節度使の幕僚になりました。大暦年間に朝廷に入り、検校祠部員外郎、洪州塩鉄判官などを勤めます。
     『唐詩選』に、この七言絶句一首だけが載っている詩人ですが、その一首が名作中の名作として万人に愛唱されています。詩題の「楓橋」(ふうきょう)は蘇州の西、約五十kmのところにある橋で、運河に流入する水路に架かっています。
     楓橋のほとりで舟泊まりした翌日、前夜の「夜半」(真夜中)に目覚めたときの景を詠いました。詩中に「客船」とあるので、小舟での孤独な旅ではなく、大きな船で一泊したあと船内での宴会か何かの席で披露した詩でしょう。
     起承句で詩を作ったときの状況を詠います。「愁眠」はもの思いのために寝つくことができず、まどろんではすぐに目覚める浅い眠りのことです。夜半に目覚めると月は落ち、烏が鳴いています。烏が鳴くのは明け方の風物ですが、「烏夜啼」(うやてい)という楽府題があって、烏が夜中に鳴くのは吉兆とされていました。
     「霜 天に満つ」は中国古代の考え方で、霜や露は空気中の気が凝結して地上に落ちてくると考えられていました。だから、いまにも霜が降りて来るような寒い夜だったというのです。「江楓」は岸辺の楓樹。楓は秋に紅葉するので、それが「漁火」に映えていっそう赤く見えるのでしょう。水路は広くないので、近くの岸辺に繋がれた漁舟のかがり火と思われます。
     転結句では「寒山寺」(楓橋寺ともいう)から鐘の音が聞こえてきます。「姑蘇」は春秋時代に呉王夫差(ふさ)の宮殿があった台の名ですが、ここでは蘇州城を雅して言うのでしょう。寒山寺は楓橋の近くにあり、寒山・拾得が住んでいたという伝説のある寺です。
     この詩には銭起の詩にあるような現状批判と見られる暗喩はありません。この詩が名詩とされるのは、濃密な抒情と中国語で読んだ場合の声調の美しさにありますが、筆で書いた場合の字並びの美しさもみごとであると評されています。総合的な詩美が時代を越えて愛されるのです。

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     中唐4ー元結
       賊退示官吏        賊退いて官吏に示す          (前八句)

      昔年逢太平     昔年(せきねん)  太平に逢(あ)い
      山林二十年     山林(さんりん)  二十年
      泉源在庭戸     泉源(せんげん)  庭戸(ていこ)に在り
      洞壑当門前     洞壑(どうがく)   門前に当たる
      井税有常期     井税(せいぜい)  常期(じょうき)有り
      日晏猶得眠     日(ひ)晏(た)けて猶(な)お眠るを得たり
      忽然遭世変     忽然(こつぜん)  世変(せいへん)に遭い
      数歳親戎旃     数歳(すうさい)  戎旃(じゅうせん)を親(みずか)らす

      ⊂訳⊃
              かつて  太平の世に巡り合い
              山林で  二十年を過ごす
              庭の入口に  泉の水源があり
              門の前に   ほら穴があるように涼しい
              むかしは納税にも  一定の時期があり
              日が高くなっても   眠っていることができた
              ところが突然  世の異変に遭い
              数年のあいだ  軍隊生活を送る


     ⊂ものがたり⊃ 元結(げんけつ:719ー772)は河南魯山(河南省魯山県)の人。天宝六載(747)の玄宗皇帝の制科に挑みましたが、杜甫も受験したこのときの制科は、宰相李林甫(りりんぽ)の画策によって全員落第となりました。
     天宝十三載(754)に三十六歳で進士に及第。安史の乱の討伐に参加して戦功があり、代宗の広徳元年(763)に道州(湖南省道県)の刺史になります。そのころから困窮した民に重税を課す役人の立場に悩みを抱くようになったといいます。
     詩題の「賊」は自序に湖南各地を荒らしまわる賊のことが触れられており、詩中に「山夷」とありますので、安史の乱後、山地の異民族が漢族の町を襲った事件を指すと思われます。賊を退けたあと、官吏が集まる宴会の席で披露した作品と思われます。
     まず、はじめの四句で自分の人生を振り返り、若いころの生活を述べます。「山林 二十年」は進士に及第するまでの二十年間、農業に従事していたことを示しています。三十六歳で進士に及第していますので、十六歳のころから山林で自活しながら勉学に励んでいたのでしょう。
     つぎの四句では、安史の乱が起こって討伐に参加したことを語ります。「井税」は畑や住宅にかかる税金のことで、昔は納税に一定の規律があり、むやみに取り立てられることはなかったと詠います。ここで税金が出てくるのは、後の句の布石です。

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     中唐5ー元結
       賊退示官吏        賊退いて官吏に示す          (中八句)

      今来典斯郡     今  来たりて斯(こ)の郡を典(つかさど)るに
      山夷又紛然     山夷(さんい)  又(ま)た紛然(ふんぜん)たり
      城小賊不屠     城(まち)小にして  賊(ぞく)屠(ほう)らず
      人貧傷可憐     人(ひと)貧にして  傷み憐れむ可し
      是以陷隣境     是(ここ)を以て隣境を陥(おとしい)るるも
      此州独見全     此の州(しゅう)  独り全(まった)きを見る
      使臣将王命     使臣(ししん)   王命を将(う)く
      豈不如賊焉     豈(あ)に賊に如(し)かざらんや

      ⊂訳⊃
              やがてこの郡を  治めることになったが
              またもや山賊が  騒ぎはじめる
              この町は小さくて  皆殺しにならなかったが
              貧しさを憐れんで 見逃してくれたのであろう
              となりの州は  踏みにじられ
              この州だけが  無事であった
              朝廷の使者が 天子の命を受けてやってくる
              かれらは  山賊と同じではないか


     ⊂ものがたり⊃ 中八句のはじめ四句は、現在のことです。刺史(州の長官)として道州に赴任してきましたが、またもや「山夷」(山地の蛮族)が騒ぎはじめました。道州は小さな町で皆殺しには遭わなかったが、それは賊たちが人々の貧しいのに同情して見逃してくれからだといいます。この部分も布石です。
     つぎの四句のはじめ二句は、近隣の地域は賊に踏みにじられたが道州だけは無事であったと前段を強調します。そして「使臣」(朝廷の使者)が「王命」(天子の命令)を受けてやって来たといい、「豈に賊に如かざらんや」と詠います。つまり、朝廷の使者は賊と同じではないかと二重否定の語法で強調するのです。     

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     中唐6ー元結
       賊退示官吏        賊退いて官吏に示す          (後八句)

      今彼徴斂者     今  彼(か)の徴斂(ちょうれん)の者
      迫之如火煎     之(これ)に迫ること火煎(かせん)の如し
      誰能絶人命     誰(たれ)か能(よ)く人命(じんめい)を絶ちて
      以作時世賢     以て時世(じせい)の賢(けん)と作(な)らん
      思欲委符節     思欲(しよく)す  符節(ふせつ)を委(す)てて
      引竿自刺船     竿(さお)を引いて自ら船に刺(さ)し
      将家就魚麦     家を将(ひき)いて魚麦(ぎょばく)に就(つ)き
      帰老江湖辺     江湖(こうこ)の辺(ほとり)に帰老(きろう)せんことを

      ⊂訳⊃
              あの徴税の役人たちは
              火であぶるように取り立てる
              人の命を断ち切るようなことをして
              どうしていまの世の賢者となれよう
              そんなわけで  私は役人の身分を捨て
              釣り竿を手に  舟を漕ぎ出そう
              家族を連れて  田園にゆき
              江湖の辺りで  隠居したいと思うのだ


     ⊂ものがたり⊃ 後八句のはじめ四句は前段を説明する部分で、徴税の厳しさを詠います。そして、人の命を断ち切るようなことをして「以て時世の賢と作らん」と政府を批判します。つぎの四句は結びで、自分への反省です。思えば自分も税を取り立てる役人の仲間です。「符節」は役人の身分を示す札で、それを投げ棄てて家族とともに「魚麦」(田園)に隠居したいものだと思いを述べます。「竿」は楚辞「漁父」を踏まえており、釣り竿でしょう。
     時世を批判する詩は杜甫にもみられますが、元結は大暦の世になって社会詩の分野を切り開いた詩人として評価できます。銭起よりも直截で分かりやすい言葉を用いていますが、あからさまな政事批判には身を危うくする危険があります。
     大暦四年(769)、元結は母親の死をきっかけに官を辞し、郷里に隠棲しますが、大暦七年(772)に亡くなりました。享年五十四歳です。

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     中唐7ー韓翃
        宿石邑山中          石邑山中に宿す

      浮雲不共此山斉   浮雲(ふうん)も此の山と斉(ひと)しからず
      山靄蒼蒼望転迷   山靄(さんあい)蒼蒼(そうそう)として望めば転(うた)た迷う
      暁月暫飛千樹裏   暁月(ぎょうげつ)暫(しばら)く飛ぶ 千樹の裏(うち)
      秋河隔在数峰西   秋河(しゅうか)隔(へだ)たりて    数峰の西に在り

      ⊂訳⊃
              空に浮く雲も   この山ほどに高くはなく

              薄暗い靄の中  見下ろしても迷いは増すばかり

              明け方の月が  樹々の間にしばらく浮かび

              天の河は遠く  連なる峰の西によこたわる


     ⊂ものがたり⊃ 韓翃(かんこう:生没年不詳)は南陽(河南省?県)の人。天宝十三載(754)に元結と同年で進士に及第し、淄青節度使侯希逸(こうきいつ)の幕下に属します。そこを辞して十年ほど閑居するあいだに詩名を高め、「大暦の十才子」のひとりに数えられるようになりました。建中のはじめに召し出され、徳宗の時代に駕部郎中・知制誥、中書舎人に至ります。
     詩題の「石邑山」(せきゆうさん)は獲鹿(河北省石家荘市の西)のあたりにある山。旅の途中、山中に宿泊したときの作でしょう。承句の「山靄蒼蒼として望めば転た迷う」は個人の迷い心と解してもいいのですが、先ゆきの見えない時代の混迷をいうと解することもできます。西の山にかかる「秋河」(天の河)も長安が西方遠くにあることを思うと、政府から遠ざかっていることの暗喩と考えることができます。 

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     中唐8ー韓翃
         寒食                 寒食

      春城無処不飛花   春城(しゅんじょう)  処(ところ)として飛花(ひか)ならざるは無く
      寒食東風御柳斜   寒食(かんしょく)   東風(とうふう)  御柳(ぎょりゅう)斜めなり
      日暮漢宮伝蝋燭   日暮(にちぼ)  漢宮(かんきゅう)  蝋燭(ろうそく)を伝え
      軽烟散入五侯家   軽烟(けいえん)散じて五侯(ごこう)の家に入る

      ⊂訳⊃
              長安の春の街は   どこへ行っても花吹雪

              寒食節の春風に   堀の柳もなびいている

              日暮れになると   蝋燭の火が宮城を出て

              薄煙を上げながら  権臣の家に入っていく


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「寒食」(かんしょく)は寒食節のことで、はじめは清明節(陰暦三月はじめ)の前日一日間でしたが、のちに三日間に拡大されました。寒食の日は火を焚くことが禁じられ、あらかじめ調理した冷たい食事を取る慣わしでした。
     「漢宮」は漢を借りる表現で、唐の宮中のことです。「蝋燭を伝え」は清明節のために火をつけた楡柳を近臣に賜わるのが慣わしでした。その火が宮中から「五侯」の家に散っていくさまを詠っています。
     「五侯」も漢代の故事を踏まえていて、権臣、特に宦官を指します。この詩には宮中に靡く人や権臣の横暴を批判する寓意があり、政事批判の詩と思われます。起句の「春城 処として飛花無ならざるはなく」は名句として名高く、この句が評判になって宮中に召されたという伝えがありますが疑問です。
     天宝末年に進士に及第した四人の詩人、銭起・張継・元結・韓翃によって、中唐の三つの詩の方向が顔を出します。ひとつは山水詩の方向ですが、自然の風物を描くなかにひそかに政事批判の心懐をひそませます。もうひとつは山水詩の抒情を深化させていく方向です。三つめは杜甫の社会詩の精神を受け継ぐもので、元結はそのはやい例です。韓翃もそのひとりでしょう。

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     中唐9ー顧況
        囝                囝           (前半十一句)

      囝生閩方      囝(けん)は閩方(びんぽう)に生まる
      閩吏得之      閩(びん)の吏  之(こ)れを得て
      乃絶其陽      乃(すなわ)ち其の陽(よう)を絶つ
      為臧為獲      臧(ぞう)と為(な)し  獲(かく)と為し
      到金満屋      金(きん)を到して屋(おく)を満たす
      為髠為鉗      髠(こん)と為(な)し  鉗(けん)と為し
      如視草木      草木(そうもく)を視(み)るが如し
      天道無知      天道(てんどう)知る無く
      我罹其毒      我れ其の毒に罹(かか)る
      神道無知      神道(しんどう)知る無く
      彼受其福      彼れ其の福(ふく)を受く

      ⊂訳⊃
              閩の地では子が生まれると
              地元の役人が取り上げて
              男根を断ち切る
              奴隷にし
              金を儲けて家にため込む
              髪を剃り落とし  首枷をはめ
              草木同然のあつかいだ
              「おれたちはひどい目に逢うが
              天道さまはご存じない
              あいつらは儲けるが
              神様はご存じない」


     ⊂ものがたり⊃ 中唐の社会詩は白居易の諷諭詩にいたって大きく開花することになりますが、その前に顧況・載叔倫という二人の詩人がいて、元結と白居易の間をつないでいます。顧況(こきょう727?ー816?)は海塩(江蘇省蘇州市)の人。粛宗の至徳二載(757)に三十一歳くらいで進士に及第します。
     実はその年の春、粛宗はまだ長安を回復しておらず、鳳翔の行在所にいます。だから科挙の試験は江淮と成都と江東の三府で行われ、顧況は江東府の受験生でした。任官の時期は不明ですが、徳宗のときに秘書郎になり、著作郎に転じました。
     詩題の「囝」(けん)は自注に「閩の俗、子を囝といい、父を郎罷(ろうは)という」とありますので子どものことです。「閩」(福建省一帯)の略奪奴隷の風習をそしる四言古詩で、意識して古風な形式を用いています。
     前半十一句のはじめ七句は略奪奴隷の悪習を描きます。「臧」と「獲」は男と女の奴隷のことです。「髠」は髪を剃り落とす刑、「鉗」は首枷をはめることですが、逃亡を防ぐためでしょう。つづく四句は囝の怒りの言葉で、詩経風に書かれています。

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     中唐10ー顧況
        囝                囝           (後半十一句)

      郎罷別囝      郎罷(ろうは)  囝(けん)に別る
      吾悔生汝      吾(わ)れ汝(なんじ)を生みしを悔(く)ゆ
      及汝既生      汝の既(すで)に生まるるに及び
      人勧不挙      人  挙(あ)げざるを勧(すす)む
      不従人言      人の言(げん)に従わず
      果獲是苦      果(はた)して是(こ)の苦を獲(え)たり
      囝別郎罷      囝  郎罷に別れ
      心摧血下      心(しん)摧(くだ)け  血下(くだ)る
      隔地絶天      地を隔(へだ)て   天を絶(た)ち
      及到黄泉      黄泉(こうせん)に到るに及ぶまで
      不得在郎罷前   郎罷の前に在るを得ざらん

      ⊂訳⊃
              父親は子に分かれるときに言う
              「お前を生んだことを後悔する
              お前が生まれるとき
              人々は生まないように勧めた
              人のいうことを聞かなかったので
              この苦しみを受けるのだ」
              子は父親と別れるとき
              心は砕け  血の涙が流れる
              「天と地ほどに遠くはなれ
              あの世へ逝ってしまうまで
              もはやお側にお仕えすることはできません」


     ⊂ものがたり⊃ 後半十一句のはじめ六句は、囝がいよいよ遠くへ連れ去られるときの父親の言葉、つぎの五句は囝の別れの言葉です。「前に在るを得ざらん」を「お側にお仕えすることはできません」と訳して囝の健気な心映えを示しました。
     宋代の呉曾(ごそう)が書いた『能改斉漫録』という書によると、徳宗の貞元三年(787)に十六歳の白居易が初めて長安に赴き、顧況に面会しました。そのときすでに六十歳を越えていた顧況は、若い白居易の名刺をみて「長安 米貴(たか)し、居(きょ) 大いに易(やす)からず」と言ったそうです。だが、白居易が差し出した作品(平成22年8月12日のブログ参照)に目を通すや、その詩句に感心し、「箇(こ)の語を道(い)い得れば、居 亦た何ぞ難(かた)からんや、前言は之れに戯(たわむ)れしのみ」と言って称賛したといいます。

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