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ティェンタオの自由訳漢詩 1975

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 盛唐69ー賈至
   送李侍郎赴常州     李侍郎の常州へ赴くを送る

  雪晴雲散北風寒   雪晴れ雲散じて北風(ほくふう)寒く
  楚水呉山道路難   楚水(そすい)呉山(ござん) 道路難(かた)し
  今日送君須尽酔   今日(こんにち)君を送る   須(すべか)らく酔(よ)いを尽すべし
  明朝相憶路漫漫   明朝(みょうちょう)  相憶うも路は漫漫(まんまん)

  ⊂訳⊃
          雪は止み 雲は晴れて  寒い北風が吹いている

          楚から呉へ行く山と川  旅路はきっと辛いだろう

          君を見送る今日の宴   存分に酔おうではないか

          思い合っても明日朝は  遥かに道を隔てている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「李侍郎」(りじろう)は元刑部侍郎の李曄のことです。李曄が岳州から常州(江蘇省常州市)に移されたときの送別の詩でしょう。岳州は旧「楚」の地、常州は旧「呉」の地ですので、「楚水呉山 道路難し」と詠います。

ティェンタオの自由訳漢詩 1976

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 盛唐70ー賈至
   岳陽楼重宴別王       岳陽楼にて重ねて王八員外の
   八員外貶長沙         長沙に貶せらるるに宴別す

  江路東連千里潮   江路(こうろ)東に連なる 千里の潮(うしお)
  青雲北望紫微遥   青雲(せいうん)北に望めば紫微(しび)遥かなり
  莫道巴陵湖水闊   道(い)う莫(な)かれ     巴陵(はりょう)  湖水闊(ひろ)しと
  長沙南畔更蕭条   長沙は南畔(なんぱん)  更に蕭条(しょうじょう)たらん

  ⊂訳⊃
          長江は東へと流れ  千里の間に満ちわたる

          北に青雲を望めば  都の空は遥かに遠い

          湖水が広いなどと  巴陵を褒めないでくれ

          長沙は南の果て   もっと寂しいところだよ


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「岳陽楼」(がくようろう)は岳陽城西門の上にあります。そこから眺める洞庭湖は天下の絶景とたたえられていました。「王八員外」は伝不明です。尚書省の員外郎(従六品上)の王某が「長沙」(湖南省長沙市)へ流される途中、岳陽に立ち寄り、岳陽楼で宴を催したときの詩です。
 承句の「青雲」は高い志の喩え、「紫微」は皇居、ここでは都を指します。共に貶謫の身になり、志を果たせないことを歎くのでしょう。「長沙」は洞庭湖の東南、「巴陵」(岳陽)から150kmほどの南にあります。そこへ赴く王員外郎が巴陵は湖水が広くて美しいと褒めたのでしょう。それに対して賈至は、無理をして褒めなくていいよ。長沙はもっと寂しいところなんだからと言います。
 賈至はその後、赦されて都にもどり、大暦五年(770)に京兆尹蒹御史大夫になり、右散騎常侍に至ります。大暦七年に亡くなり、享年は五十五歳です。

ティェンタオの自由訳漢詩 1977

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 盛唐71ー李華
    春行寄興           春行 興に寄す

  宜陽城下草萋萋   宜陽(ぎよう)城下  草(くさ)萋萋(せいせい)たり
  澗水東流復向西   澗水(かんすい)東流し  復(ま)た西に向かう
  芳樹無人花自落   芳樹(ほうじゅ)人無く   花(はな)自(おのず)から落ち
  春山一路鳥空啼   春山(しゅんざん)一路  鳥(とり)空しく啼(な)く

  ⊂訳⊃
          宜陽の街の郊外に   春の草は豊かに茂り

          谷川の水は東に流れ  また西へと向かう

          花咲く樹々は      見る人もなく花は散り

          春山にひとすじの道  鳥は空しく鳴いている


 ⊂ものがたり⊃ 李華(715?−766)は趙州賛皇(河北省趙県)の人。開元二十三年(735)、二十一歳くらいで進士に及第し、天宝十一載(752)に監察御史になりますが、楊国忠に逆らい右補闕に左遷されます。
 安禄山の乱のとき賊軍に捕らえられ、鳳閣舎人に任ぜられたため、戦後、杭州の司戸参軍に流されます。節義を汚したことを恥じ、職を辞して江南に隠棲しました。その後は召しに応ぜず、山陽(江蘇省淮安県)で農耕に従事し、代宗の太暦元年(766)に亡くなります。享年は五十二歳くらいです。
 『唐詩選』には一首を載せるのみで、制作時期は不明です。「宜陽」(河南省宜陽県)は洛陽の西南、洛水のほとりにあり、「澗水」は洛水に流れ込む谷川でしょう。春の山道での感興を詠う詩ですが、全体として虚しさが漂っており、右補闕に左遷されたころの作品かも知れません。

ティェンタオの自由訳漢詩 1978

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 盛唐72ー李頎
    送劉?              劉?を送る

  八月寒葦花      八月(はちがつ)  寒葦(かんい)花さき
  秋江浪頭白      秋江(しゅうこう)  浪頭(ろうとう)白し
  北風吹五両      北風(ほくふう)   五両(ごりょう)を吹き
  誰是潯陽客      誰か是(こ)れ潯陽(じんよう)の客ぞ
  鸕鵄山頭微雨晴   鸕鵄(りし)山頭  微雨(びう)晴れ
  揚州郭裏暮潮生   揚州(ようしゅう)郭裏(かくり)  暮潮(ぼちょう)生ず
  行人夜宿金陵渚   行人(こうじん)  夜  宿す   金陵(きんりょう)の渚
  試聴沙辺有雁声   試(こころ)みに聴け  沙辺(さへん)に雁(かり)の声有りや

       〇 五句目の「鵄」は外字になるので同音の字に変えてあります。
          本来の字は 至 の部分が 茲 です。

  ⊂訳⊃
          秋八月  葦の花が咲き
          長江に  白い浪が立つ
          北風が  旗の向きをかえ
          潯陽へ旅立つ者が君であるとは
          鸕鵄山のあたり  小雨はやみ
          揚州の城内まで  夕べの潮が満ちてくる
          金陵の汀に    舟を泊めた夜
          浜辺で鳴く雁の声  耳をすませば聞こえるだろう


 ⊂ものがたり⊃ 李頎(りき:690−751?)は趙州(河北省趙県)の人。開元二十三年(735)に四十六歳で進士に及第し、新郷(河南省新郷県)の県尉になりました。しかし、役所の雑務を嫌って道士らと交際し、伝は不明です。
 詩題の「劉?」(りゅういく)は不明です。劉?が潯陽(江西省九江市)へ旅立つのを揚州(江蘇省揚州市)で見送る送別詩です。詩は五言絶句と七言絶句を合わせた形になっており、雑言古詩になります。
 前半の「八月」は陰暦、秋の酣。「五両」は風向きを見る風信旗ですが、「秋江 浪頭白し」と合わせると左遷されての旅立ちと思われます。「誰か是れ」の口調には、あってはならないという語感があります。
 後半の「鸕鵄山」は閏州(江蘇省鎮江市)付近の山と見られ、「鸕鵄」は鵜を意味します。当時の長江河口は閏州・揚州の近く、つまり海が現在よりも陸側に寄っていましたので、満ち潮のときは海水が上って来ました。
 最後の二句は別れの悲しみを詠うものです。「金陵」(江蘇省南京市)の汀に舟を泊めた夜、浜辺で鳴く雁の声が聞こえるだろう。それは君との別れを悲しむ僕の声だよと言っているのでしょう。


ティェンタオの自由訳漢詩 1979

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 盛唐73ー李頎
    題盧五旧居          盧五の旧居に題す

  物在人亡無見期   物在れども人亡くして見(まみ)ゆる期(き)無し
  ?庭繋馬不勝愁   閑庭(かんてい)に馬を繋いで愁(かな)しみに勝(た)えず
  窓前緑竹生空地   窓前(そうぜん)の緑竹(りょくちく)  空地(くうち)に生じ
  門外青山如旧時   門外(もんがい)の青山(せいざん)  旧時(きゅうじ)の如し
  悵望秋天鳴墜葉   悵望(ちょうぼう)する秋天(しゅうてん)  墜葉(ついよう)鳴り
  鑽岏枯柳宿寒鴟   鑽岏(さんがん)たる枯柳(こりゅう)  寒鴟(かんし)宿(やど)る
  憶君涙落東流水   君を憶(おも)えば涙落つ  東流(とうりゅう)の水
  歳歳花開知為誰   歳歳(さいさい)花開くも   知んぬ誰(た)が為(ため)ぞや

    〇 六句目の 鑽 は外字になるので同音の字に変えててあります。
       本来は 金扁 ではなく 山扁です。

  ⊂訳⊃
          物は変わらずに在るが 人は死ねば会うときはない
          静かな庭に馬を繋いで  私は悲しみに沈む
          窓前のみどりの竹は   踏む人のない土地に生え
          門外のみどりの山は   在りし日の姿のままだ
          悲しみつつ仰ぐ秋空に  落ち葉の音
          天をつく柳の木には   みそさざいの巣
          君を想えば涙は流れ   帰らぬ川の水となり
          年ごとに花は咲いても  誰のために咲く花か


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「盧五」(ろご)は別に「司勲盧員外に寄す」という詩があり、同輩の詩人盧象(ろしょう)ではないかとされていますが、詳細は不明です。盧五が死んだあと家を訪れ、壁に書きつけた詩です。
 首聯の二句は序の部分で、「物在れども」は物が変わりなく存在すること。盧五の家の「閑庭」(静かな庭)に馬を繋いで悲しみに堪えずと詠います。
 中四句二聯の対句は、庭の景を描いて悲しみを表現します。「空地」は人けのない土地、まず庭の竹を見て、遠くの山を見ます。ついで秋空に落ち葉の散る音を聞き、葉の落ちた柳の大木に「鴟」(みそさざい)が巣を架けていると詠います。二連とも整った対句です。
 尾聯は結びで、「東流の水」(中国の太河)が東へ流れ、海に注いで帰らないことを詠い、年ごとに花は咲いても見る人はすでにいないと歎きます。詩からは不遇の人生が窺われ、天宝十載(751)に亡くなりました。享年は六十二歳くらいです。 

ティェンタオの自由訳漢詩 1980

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 盛唐74ー岑参
    山房春事              山房春事

  梁園日暮乱飛鴉   梁園(りょうえん)の日暮(にちぼ)   乱れ飛ぶ鴉(からす)
  極目蕭条三両家   極目(きょくもく)  蕭条(しょうじょう)たり  三両家(さんりょうか)
  庭樹不知人去尽   庭樹(ていじゅ)は知らず  人の去り尽すを
  春来還発旧時花   春来(しゅんらい)還(ま)た発(ひら)く  旧時(きゅうじ)の花

  ⊂訳⊃
          梁園の日暮れ  鴉は乱れ飛び

          見わたす限り  荒涼として二三の家がある

          庭の木々は   住む人のいないのを知らず

          春になると    昔のままに花を咲かせる


 ⊂ものがたり⊃ 開元二十八年(740)、玄宗は息子寿王の妃楊環(ようかん)を召して道観(道教の寺)に入れ、太真(たいしん)の号を与えました。李白は天宝元年(742)の冬、召されて都に上り、翰林供奉に任じられます。
 李白は天宝三載(744)の春に都を去り、杜甫は李白と交流したあと、天宝五載(476)の春、長安に出て来ます。天宝十一載(752)の十一月に宰相李林甫が亡くなると楊国忠が宰相になり、安禄山と対立するようになります。天宝十四載(755)十一月九日の早暁、安禄山は幽州(北京)で兵を挙げます。
 岑参(しんじん:715−770)が三十歳で進士に及第するのは、天宝三載、李白が長安を去った年で、御史台に配属されます。詩題の「山房」は山中の庵のことです。「梁園」は漢代梁の孝王の庭園が有名ですが、岑参は梁(河南省商丘県付近)に住んだことがありませんので、若いころ勉学に励んでいた嵩山(河南省登封県の北)少室山中の家の庭を「梁園」と称したのであろうと推定されています。
 孝王の「梁園」であれば、孝王はそこに平台という楼台を築き、多くの文人を招いて遊宴の日々を送りました。この場合は転句の「人の去り尽す」はかつて華やかに集まった文人たちも去って無人になったという歴史懐古になります。詩としては、単に住む人のいなくなった家の庭と解するよりもこの方が面白いようです。

ティェンタオの自由訳漢詩 1981

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 盛唐75ー岑参
    春夢                春夢

  洞房昨夜春風起   洞房(どうぼう)   昨夜  春風(しゅんぷう)起り
  遥憶美人湘江水   遥かに憶(おも)う 美人  湘江(しょうこう)の水
  枕上片時春夢中   枕上(ちんじょう)  片時(へんじ)  春夢(しゅんむ)の中(うち)
  行尽江南数千里   行き尽くす  江南(こうなん)数千里

  ⊂訳⊃
          奥まった部屋で  昨夜春風の吹くのを聞き

          遥かに思い出す  湘江の水辺の友を

          枕の上で      しばしまどろむ春の夢

          江南の路を幾千里  歩きつくして訪ねていた


 ⊂ものがたり⊃ 制作年は不明ですが、任官してほどないころの作品でしょう。「湘江」は湖南を北流して洞庭湖に注ぐ川で、江南に赴任した友人を思う詩です。「洞房」は奥まった寝室で、女性の部屋という語感があります。「美人」は君子の意味で、友人を指しますが名はわかりません。春の夜に友人を訪ねて江南を歩く夢を見たと、友人を思う気持ちを詩に書いて送ったものです。
 

ティェンタオの自由訳漢詩 1982

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 盛唐76ー岑参
   胡笳歌 送顔           胡笳の歌 顔真卿が使
   真卿使赴河隴          して河隴に赴くを送る

  君不聞胡笳声最悲  君聞かずや  胡笳(こか)の声  最(もっと)も悲しきを
  紫髯緑眼胡人吹   紫髯(しぜん)緑眼(りょくがん)の  胡人(こじん)吹く
  吹之一曲猶未了   之(こ)れを吹いて  一曲猶(な)お未(いま)だ了(おわ)らざるに
  愁殺楼蘭征戍児   愁殺(しゅうさつ)す  楼蘭(ろうらん)  征戍(せいじゅ)の児(こ)
  涼秋八月蕭関道   涼秋(りょうしゅう)  八月  蕭関(しょうかん)の道
  北風吹断天山草   北風(ほくふう)  吹断(すいだん)す  天山(てんざん)の草
  崑崙山南月欲斜   崑崙山南(こんろんさんなん)  月  斜(なな)めならんと欲し
  胡人向月吹胡笳   胡人(こじん)  月に向かって胡笳(こか)を吹く
  胡笳怨兮将送君   胡笳は怨(うら)んで  将(まさ)に君を送らんとし
  秦山遥望隴山雲   秦山(しんざん)  遥かに望む  隴山(ろうざん)の雲
  辺城夜夜多愁夢   辺城(へんじょう)  夜夜(よよ)  愁夢(しゅうむ)多からん
  向月胡笳誰喜聞   月に向かって 胡笳(こか)  誰れか聞くを喜ばん

  ⊂訳⊃
          聞こえるでしょう  胡笳の悲しげな調べが
          紫髯緑眼の  胡人が吹いている
          吹き始めて  まだ一曲が終わらないのに
          楼蘭に旅立つ者は  すっかり沈みこむ
          涼秋の八月  蕭関の道
          北風が吹き荒れて  天山の草も千切れ飛ぶ
          崑崙山の南に  月が斜めに沈もうとするとき
          月に向かって  胡人は胡笳を吹くだろう
          歎くような胡笳の音が   いまあなたを送り出そうとし
          秦山から望む隴山には  部厚い雲がかかっている
          辺境の町では  夜ごとに悲しい夢をみるでしょう
          月に向かって吹く胡笳を  誰が好んで聞くだろうか


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「顔真卿」(がんしんけい)はこのとき監察御史、岑参(しんじん)の上司でした。天宝七載(748)に顔真卿が「河隴」(かろう)に赴くのを見送る詩で、「河隴」は河西節度使の使府(甘粛省武威県)と隴右節度使の使府(青海省西寧県)のことです。
 全体は四句ずつ三段に分けて構成されています。はじめの四句で「紫髯緑眼」の胡人を登場させます。送別会の宴会で笛を奏していたのでしょう。「楼蘭征戍の児」は西域に赴任する者を一般的に言うもので、河隴は楼蘭より手前にあります。楼蘭は漢代の国で、すでに滅んでいますので、楼蘭を攻めに行くわけではありません。
 つぎの四句は顔真卿が行く道の風景を想像して詠うものです。このときはまだ、岑参は西域に行っていませんでした。「蕭関」(甘粛省固原県)は長安の西、河隴の入口にあたります。「天山」は河隴の遥か西になりますが、西域の北風を誇張して言うのでしょう。「崑崙山」は想像上の山で、中国の極西にあると考えられていました。
 最後の四句は結びで、「秦山」は長安付近を指す語です。長安の西の「隴山」(蕭関付近の山)には部厚い雲がかかっていると、前途の苦労を詠います。そして、辺城の「愁夢」と月夜の「胡笳」を出して西域の憂愁を詠いあげるのです。
 送別会の宴席で披露された作品と思われますが、送別詩としては大作であり、七言絶句が多かった辺塞詩に七言古詩で挑戦した意欲作です。

ティェンタオの自由訳漢詩 1983

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 盛唐77ー岑参
   戯問花門酒家翁      戯れに花門の酒家の翁に問う

  老人七十仍沽酒   老人  七十  仍(な)お酒を沽(う)る
  千壺百甕花門口   千壺(せんこ)  百甕(ひゃくおう)  花門(かもん)の口
  道傍楡莢仍似銭   道傍(どうぼう)の楡莢(ゆきょう)  仍(な)お銭(ぜに)に似たり
  摘来沽酒君肯否   摘み来たって酒を沽(か)う  君  肯(がえ)んずるや否(いな)や

  ⊂訳⊃
          七十歳というのに  老人は店で酒を売る

          幾百千の酒甕が   花門楼の入口に並ぶ

          道端の楡の実が   酔った私には銭に見え

          摘み取って酒を買いたいが  よろしいかな


 ⊂ものがたり⊃ 顔真卿を見送った翌年の天宝八載(749)、こんどは岑参自身が安西節度使高仙芝(こうせんし)の幕僚になって安西都護府(新疆ウイグル自治区トルファン)に赴任することになります。このころ玄宗皇帝は西域方面にしきりに兵を出していました。
 詩題の「花門」は涼州(甘粛省武威県)にあった酒楼の名で、西域に赴任する途中、花門楼に立ち寄って書いた作品です。「楡莢」は並木の楡の実で、丸い莢になっています。それが銭のように見えると戯れて、摘み取って酒を買いたいが、よろしいかと詠います。

ティェンタオの自由訳漢詩 1984

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 盛唐78ー岑参
   玉関寄長安李主簿     玉関にて長安の李主簿に寄す

  東去長安万里余   東のかた長安を去って万里余(ばんりよ)
  故人那惜一行書   故人(こじん)那(いか)んぞ一行の書を惜(お)しむ
  玉関西望腸堪断   玉関(ぎょくかん)  西望すれば腸(はらわた)断つに堪(た)えたり
  况復明朝是歳除   况(いわ)んや復(ま)た明朝(みょうちょう)は是(こ)れ歳除(さいじょ)なるをや

  ⊂訳⊃
          東の長安から  一万余里

          友よどうして   一行の便りもくれないのか

          玉門関の西を望めば  腸も千切れるほど

          まして明日は大晦日  また一歳を重ねるのだ


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「玉関」(ぎょくかん)は玉門関のことで、唐代は敦煌(とんこう)の北東160kmのところにありました。「李主簿」(りしゅぼ)は長安県の主簿(事務官)と見られますが、伝不明です。岑参が安西都護府に赴任する途中、玉門關に滞在したときの作品でしょう。

ティェンタオの自由訳漢詩 1985

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 盛唐79ー岑参
    逢入京使            京に入る使いに逢う

  故園東望路漫漫   故園(こえん)   東に望めば路(みち)漫漫(まんまん)
  双袖龍鍾涙不乾   双袖(そうしゅう) 龍鍾(りょうしょう)として涙(なんだ)乾かず
  馬上相逢無紙筆   馬上に相逢(あいあ)うて紙筆(しひつ)無く
  憑君伝語報平安   君に憑(よ)る   伝語(でんご)して平安を報ぜよ

  ⊂訳⊃
          遥か東に故郷を望めば  路は果てしなくつづき

          涙はとめどなく流れて   両袖の乾くひまもない

          馬上でお逢いしたが    紙筆の用意もなく

          無事でいる私のことを   どうか家族に伝えてほしい


 ⊂ものがたり⊃ 安西都護府への路は、玉門関を抜けると砂漠地帯になります。来た路を振り返りながゆくとき、都へ向かう使者に遇いました。「伝語」は口頭で伝える意味ですので、家族に伝えてほしいというのです。 

ティェンタオの自由訳漢詩 1986

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 盛唐80ー岑参
    磧中作              磧中の作

  走馬西来欲到天   馬を走らせて西来(せいらい)  天に到らんと欲す
  辞家見月両囘円   家を辞して  月の両回(りょうかい)円(まど)かなるを見る
  今夜不知何処宿   今夜  知らず  何(いず)れの処(ところ)にか宿(しゅく)せん
  平沙万里絶人煙   平沙(へいさ)万里(ばんり)   人煙(じんえん)を絶(た)ゆ

  ⊂訳⊃
          馬を走らせて  西へ行けば天空に達するほどだ

          家を出てから  まんまるい月を二度もみた

          さて今夜は    どこに泊まることになるのだろうか

          万里の砂漠に  人家の煙は絶えている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「磧」(せき)は小石まじりの砂地、ここではゴビ砂漠でしょう。「月の両回円かなるを見る」は月が二度満月になることで、二か月経ったことを意味します。顔真卿を送る「胡笳歌」が想像の作品であったのに対して、この作品は実際に西域に赴いての辺塞詩です。実感が籠もっているのを感じることができます。

ティェンタオの自由訳漢詩 1987

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 盛唐81ー岑参
    経火山            火山を経

  火山今始見     火山  今  始めて見る
  突兀蒲昌東     突兀(とつこつ)たり  蒲昌(ほしょう)の東
  赤焔焼虜雲     赤焔(せきえん)  虜雲(りょうん)を焼き
  炎氛蒸塞空     炎氛(えんぷん)  塞空(さいくう)を蒸(む)す
  不知陰陽炭     知(し)らず  陰陽(いんよう)の炭(たん)
  何独燃此中     何ぞ独り此の中(うち)に燃ゆる
  我来厳冬時     我れ来たるは厳冬(げんとう)の時なるに
  山下多炎風     山下(さんか)に炎風(えんぷう)多し
  人馬尽汗流     人馬(じんば)   尽(ことごと)く汗(あせ)流る
  孰知造化功     孰(たれ)か知らん  造化(ぞうか)の功(こう)

  ⊂訳⊃
          名高い火焔山を  はじめて見た
          蒲昌の東に    高く聳えている
          まっかな焔が   異国の空を焼きつくし
          燃え上がる炎は  国境の空を蒸すようだ
          天地の中心にあるという炭火は
          どうして   ここだけで燃えているのか
          私が来たのは   冬の最中なのに
          山麓では  熱風が吹き荒れている
          人も馬も  共に汗を流し
          これが造物主の仕業だと  どうして信じられようか


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「火山」は火焔山(新疆ウイグル自治区トルファンの東)のことで、安西都護府へむかう路の北、すぐ近くに横たわっています。火山ではなく、赤い山肌が浸食されてむき出しの筋になり、陽に照らされて全体が炎のように見えます。
 はじめの四句で火焔山を見た驚きを詠います。「蒲昌」はトルファンのことです。つぎの四句は火焔山の不思議を空想的に解釈しようとするもので、「陰陽の炭」は天地の中心にある炭火という意味です。地球の奥にマグマが存在しているという知識があったようです。
 厳冬の季節であるのに暑いというのは、いまではトルファン盆地が海水面以下の低地であるので、昼間は気温の上昇が激しいことが知られています。岑参は「陰陽炭」のせいで暑いのだろうと解して、「孰か知らん 造化の功」と結びます。

ティェンタオの自由訳漢詩 1988

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 盛唐82ー岑参
    送人還京           人の京に還るを送る

  匹馬西従天外帰   匹馬(ひつば)  西のかた天外(てんがい)より帰り
  揚鞭只共鳥争飛   鞭(むち)を揚げて只(た)だ鳥と飛ぶを争う
  送君九月交河北   君を送る  九月  交河(こうが)の北
  雪裏題詩涙満衣   雪裏(せつり)  詩を題すれば  涙(なんだ)衣(ころも)に満つ

  ⊂訳⊃
          馬に乗って  西のかた天の果てから帰り

          鞭を揚げて  飛ぶ鳥と速さを競う

          晩秋の九月  交河の北で君を見送り

          吹雪の中で詩を書けば  涙で衣は濡れ果てる


 ⊂ものがたり⊃ 安西都護府に着いたあと、都へ帰る人を見送る詩です。誰を見送ったのか不明です。詩中の「交河」(新疆ウイグル自治区トゥルファンの西)は交河という川に囲まれた断崖の上にあり、いまも交河故城遺跡として残されています。当時はここに安西都護府が置かれていました。
 都に帰る人は交河のさらに西からもどって来たらしく、使者でしょう。陰暦「九月」、交河の北まで見送りますが、はやくも雪が降っていました。

ティェンタオの自由訳漢詩 1989

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 盛唐83ー岑参
   熱海行 送崔          熱海行 崔侍御の
   侍御還京             京に還るを送る        (前半八句)

  側聞陰山胡児語   側聞(そくぶん)す  陰山(いんざん)の胡児(こじ)の語るを
  西頭熱海水如煮   西頭(せいとう)の熱海(ねつかい)  水  煮(に)るが如し
  海上衆鳥不敢飛   海上  衆鳥(しゅうちょう)  敢(あえ)て飛ばず
  中有鯉魚長且肥   中(うち)に鯉魚(りぎょ)の  長くして且つ肥(こ)えたる有り
  岸傍青草常不歇   岸傍(がんぼう)の青草(せいそう)  常に歇(か)れず
  空中白雲遥旋滅   空中の白雲(はくうん)  遥かに旋(たちま)ち滅(めっ)す
  蒸沙爍石燃虜雲   蒸沙(じょうさ)   爍石(しゃくせき)  虜雲(りょうん)を燃やし
  沸浪炎波煎漢月   沸浪(ふつろう)  炎波(えんぱ)    漢月(かんげつ)を煎(に)る

  ⊂訳⊃
          私は聞いた事がある  陰山の胡の若者が語るのを
          西にある熱海の水は  煮えたぎるように熱いと
          鳥たちは     湖上を飛ぼうとせず
          湖中には     肥えた大きな鯉がいるらし
          岸辺の青草は  枯れることなく茂り
          大空の白雲は  遠くに流れてふと消える
          蒸し熱い砂    焼けた石は異国の雲を燃え立たせ
          湧き立つ浪    燃える波は漢の月を煮るようだ


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「熱海行」(ねつかいこう)は熱海の歌という意味で、安西都護府の西にある「熱海」(湖)について述べるものです。「崔侍御」(さいじぎょ)は崔という姓の侍御史のことで、二つの場合が考えられます。多分、殿中侍御史(正七品上)でしょう。
 安西都護府の同僚の崔氏が御史台にもどるのを見送る詩で、はじめの四句は熱海のイメージを大まかに述べます。岑参は熱海を見ておらず、「胡児」(胡の若者)から聞いた話として描きます。つぎの四句ではより細かく熱海の状況を想像しますが、「虜雲」と「漢月」を出すことによって、異国と中国、つまり世界にかかわる問題であることを示唆します。 

ティェンタオの自由訳漢詩 1990

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 盛唐84ー岑参
   熱海行 送崔          熱海行 崔侍御の
   侍御還京             京に還るを送る        (後半八句)

  陰火潜焼天地爐   陰火(いんか)  潜(ひそ)かに天地の爐(ろ)を焼くも
  何事偏烘西一隅   何事ぞ 偏(ひと)えに西の一隅(いちぐう)を烘(あぶ)る
  勢呑月窟侵太白   勢い   月窟(げつくつ)を呑(の)んで太白(たいはく)を侵(おか)し
  気連赤坂通単于   気(き)  赤坂(せきはん)に連なって単于(ぜんう)に通ず
  送君一酔天山郭   君を送って一(ひと)たび酔う  天山の郭(かく)
  正見夕陽海辺落   正(まさ)に見る  夕陽(せきよう)の海辺(かいへん)に落つるを
  柏台霜威寒逼人   柏台(はくだい)  霜(しも)威(たけ)くして 寒(かん) 人に逼(せま)り
  熱海炎気為之薄   熱海(ねつかい)の炎気(えんき)  之(こ)れが為に薄し

  ⊂訳⊃
          地中の火熱が 天地の炉を燃やしているというのに
          どうしてこの   西の一隅だけをあぶるのか
          熱の勢いは   月の出る穴を飲み込み 金星を攻め
          熱気は      赤坂に連なって匈奴の土地におよぶ
          君を見送って  私は天山のほとりで酔い痴れ
          いままさに    夕陽は砂漠の果てに沈もうとする
          御史台に勤める君は  冬の霜のように厳格であり
          その厳しさは  熱海の熱も弱まるほどに人を打つ


 ⊂ものがたり⊃ 後半八句のはじめ四句で、熱海のイメージはさらに膨らんで幻想的になります。「陰火」は地下のマグマのことで、岑参の意識には火焔山での驚きが重なっています。「月窟」は月が洞窟から出てくるとされていた神話上の考え方であり、「太白」は金星のことです。「赤坂」は西域の地名、「単于」(匈奴の王)は匈奴の土地を示しますので、大地の熱気が天と地、異国の土地まで熱していると、ある種の危機意識を暗喩していると見るべきでしょう。
 最後の四句は結びで、あなたはこれから御史台にかえって国政に与かる身だから、厳格に事を処してほしいと言っています。厳しく対処することによって西域の問題も鎮火できるだろうと言っており、安西都護府での岑参の毎日が辺塞の感傷に浸るだけの日々でなかったことを示しています。

ティェンタオの自由訳漢詩 1991

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 盛唐85ー岑参
   送劉判官赴磧西       劉判官の磧西に赴くを送る

  火山五月行人少   火山  五月  行人(こうじん)少(まれ)なり
  看君馬去疾如鳥   看(み)る  君が馬(うま)去って疾(と)きこと鳥の如くなるを
  都護行営太白西   都護(とご)の行営(こうえい)  太白(たいはく)の西
  角声一動胡天暁   角声(かくせい)一(ひと)たび動いて胡天(こてん)暁(あ)く

  ⊂訳⊃
          火焔山の五月  旅する人はまれだが

          君の乗馬が   鳥のように駆けてゆくのが見えるようだ

          安西都護府は  金星のかがやく西にあり

          角笛がひとたび鳴れば  胡地の空は夜明けとなる


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「劉判官」(りゅうはんがん)は劉単という人と推定されていますが、経歴は不詳です。「磧西」(せきせい)は安西の別称で、安西都護府へ向かう劉判官を送る詩です。どこで見送ったかについて、岑参が河西節度使(甘粛省武威県)の幕下にいたときとする説もありますが、安西都護府の任を終えて長安に帰っていたときの作とするのがいいようです。
 承句の「看る」は目に見えるようだと旅先を想像して励ますのでしょう。「都護の行営」は安西都護府のことですが、このときは庫車(クチャ:新疆ウイグル自治区)に移っていたようです。「太白」については金星(明けの明星)説と太白山(陝西省眉県の南)説がありますが、長安にいれば太白山説も可能です。しかし、金星説は結句の「胡天暁く」と馴染みますので金星説によりました。

ティェンタオの自由訳漢詩 1992

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 盛唐86ー岑参
   封大夫破播仙凱歌       封大夫の播仙を破る凱歌 
   其四                其の四

  日落轅門鼓角鳴   日(ひ)は落ちて  轅門(えんもん)  鼓角(こかく)鳴り
  千群面縛出蕃城   千群(せんぐん)  面縛(めんばく)して蕃城(ばんじょう)を出づ
  洗兵魚海雲迎陣   兵を魚海(ぎょかい)に洗えば  雲  陣(じん)を迎え
  秣馬龍堆月照営   馬を龍堆(りょうたい)に秣(まぐさか)えば  月  営(えい)を照らす

  ⊂訳⊃
          日暮れの軍門で  鼓笛が鳴り

          夷狄の群れは   後ろ手になって城を出る

          魚海の水で武器を洗うと  雲は湧いて軍を迎え

          白龍堆で馬を休ませると  月は明るく陣営を照らす


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「封大夫」(ほうたいふ)は北庭節度使封常清(ほうじょうせい)とみられます。岑参は天宝十三載(754)には封常清の幕下に属していて、北庭都護府に赴任しています。そのときの作でしょう。詩は封常清が「播仙」(はせん:新疆ウイグル自治区孚遠県)を撃破したときに捧げた戦勝祝賀の詩で、六首連作の四首目です。
 軍が野外で宿営するとき、戦車を並べて囲いとするのは古い習わしで、その野営の門を「轅門」といいます。ここでは野営の門ではなく、駐屯地の軍門を雅して言うのでしょう。「面縛」はみずからを後ろ手にしばり、降伏することです。
 「魚海」は甘粛省の湖、「龍堆」は新疆ウイグル自治区の砂漠白龍堆のことで、ウルムチの近くの北庭都護府や播仙とは離れています。後半二句は凱旋して「兵」(武器)を洗い、馬をやすめる場所として象徴的に詠っているのであり、祝賀の詩としての形式を整えるものです。
 

ティェンタオの自由訳漢詩 1993

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 盛唐87ー岑参
   白雪歌  送            白雪の歌 武判官
   武判官帰京            の京に帰るを送る       (前半十句)

  北風捲地白草折   北風(ほくふう)  地を捲(ま)いて白草(はくそう)折れ
  胡天八月即飛雪   胡天(こてん)八月  即ち雪を飛ばす
  忽如一夜春風来   忽(こつ)として一夜  春風(しゅんぷう)来たり
  千樹万樹梨花開   千樹万樹  梨花(りか)の開くが如し
  散入珠簾湿羅幕   散じて珠簾(しゅれん)に入って羅幕(らばく)を湿(うりお)し
  狐裘不煖錦衾薄   狐裘(こきゅう)煖(あたた)かならず  錦衾(きんきん)薄し
  将軍角弓不得控   将軍の角弓(かくきゅう)  控(ひ)くを得ず
  都護鉄衣冷難着   都護の鉄衣(てつい)    冷たくして着(ちゃく)し難し
  瀚海闌干百丈冰   瀚海(かんかい)  闌干(らんかん)として百丈(ひゃくじょう)冰(こお)り
  愁雲黲淡万里凝   愁雲(しゅううん)  黲淡(さんたん)として万里(ばんり)凝(こ)る

  ⊂訳⊃
          北風は大地を巻き上げて吹き  白草は折れ
          八月というのに    胡地の空には雪が舞う
          一夜にして雪景色  春風が吹いて
          幾千万の樹々に   梨の花を咲かせたようだ
          雪は簾から入って  兵舎の垂れ幕を潤おし
          狐の皮衣でも寒く  錦の布団でも薄過ぎる
          将軍の角飾り弓も  引くことができず
          都護の鉄の鎧も   冷たくて着ることができない
          広大な砂漠には   いたるところに厚い氷が張り
          雲は低く垂れ込め  万里の彼方まで凍えている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「白雪(はくせつ)の歌」は琴曲の古典の名で、楽府題です。詩中後半に「輪台」の地名がありますので、岑参が北庭都護府に勤めていたとき、同僚の「武判官」(経歴不明)が都に帰ることになり、送別の宴で詠った詩です。
 はじめの四句で砂漠の珍しい天候が描かれます。「白草」は砂漠特有の草です。三句目と四句目は雪の情景で、一夜の雪で樹々に梨の花が咲いたように白くなると詠います。つぎの六句は寒波の襲来によってあらゆるものが凍えたようになるのを描きます。
 「珠簾」は真珠の簾と訳されることが多いのですが、「珠」は美称でしょう。「羅幕」は兵舎の垂れ幕で、「蘿」(薄絹)も美称でしょう。「角弓」は角飾りのある弓、「都護」はこの場合、北庭都護の封常清でしょう。「瀚海」(砂漠)も「愁雲」(鬱陶しい雲)もすべてが凍えています。

ティェンタオの自由訳漢詩 1994

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 盛唐88ー岑参
   白雪歌  送            白雪の歌 武判官
   武判官帰京            の京に帰るを送る       (後半八句)

  中軍置酒飲帰客   中軍(ちゅうぐん)  置酒(ちしゅ)して帰客(ききゃく)に飲ましむ   
  胡琴琵琶与羌笛   胡琴(こきん)と琵琶(びわ)と羌笛(きょうてき)と
  紛紛暮雪下轅門   紛紛(ふんぷん)たる暮雪(ぼせつ)  轅門(えんもん)に下り
  風掣紅旗凍不翻   風は紅旗(こうき)を掣(ひ)くも   凍(こお)って翻らず
  輪台東門送君去   輪台(りんだい)の東門(とうもん)  君の去るを送る
  去時雪満天山路   去る時  雪は満つ  天山の路(みち)
  山廻路転不見君   山(やま)廻(めぐ)り  路(みち)転じて君を見ず
  雪上空留馬行処   雪上(せつじょう)   空しく留む  馬の行きし処

  ⊂訳⊃
          本陣で酒宴を催し  旅立つ君を見送る
          胡琴 琵琶 羌笛  音楽も賑やかだ
          日暮の雪は舞って 本陣の門に積もり
          風は軍旗を吹くが  旗は凍って翻らない
          ここ輪台の東門で  去りゆく君を見送れば
          そのとき雪は    天山の路に満ちているだろう
          山は連なり路は曲がって  君の姿は見えなくなり
          雪の上に空しく残るのは  馬の蹄の跡ばかり


 ⊂ものがたり⊃ 後半八句のはじめ四句は、一転して自分たちがいる「中軍」(本陣)のようすに移ります。「置酒」は宴の席を設けること。送別の宴が開かれ、賑やかに音楽が奏されますが、外は吹雪です。「紅旗」(軍旗)も凍りついてはためきません。
 最後の四句は結びで、「輪台」(新疆ウイグル自治区孚遠県)は北庭都護府のある地です。ここで「武判官」を見送るのですが、武判官が去ったあとの情景を詠って別れの言葉とします。本来は最後の四句だけで送別詩になるのですが、送別の機会に北庭都護府の厳しい自然環境を詠ったものであり、詩は武判官によって都へ持ち帰られ、中央に届くのを期待するのです。正式の報告でない情報伝達になります。
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