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ティェンタオの自由訳漢詩 1915

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 盛唐9ー張説
    送梁六             梁六を送る

  巴陵一望洞庭秋   巴陵(はりょう)一望す  洞庭(どうてい)の秋
  日見孤峰水上浮   日々(ひび)に見る 孤峰(こほう)の水上に浮ぶを
  聞道神仙不可接   聞道(きくなら)く   神仙(しんせん)は接す可(べ)からずと
  心随湖水共悠悠   心は湖水に随って共に悠悠(ゆうゆう)たり

  ⊂訳⊃
          巴陵の山に立って  洞庭湖を一望すれば

          湖上に浮ぶ君山が  いつもこの目に飛び込んでくる

          聞けば人と神仙は  交われないというではないか

          君を思う私の心は  湖水のように果てしないのに


 ⊂ものがたり⊃ 神龍元年の政変で都に呼びもどされた張説は、兵部員外郎(従六品上)になり、中宗期に多くの応制の詩を作ります。睿宗復位後は同中書門下平章事(宰相)に任じられ、玄宗の初政には中書令(正三品)になっていました。
 開元の初政に玄宗を補佐した宰相は姚崇(ようすう)と宋?(そうけい)が有名ですが、張説は睿宗復位のころから二人と競い合う地位にいました。開元になって張説は姚崇との政争に敗れ、相州(河南省安陽県)刺史ついで岳州(湖南省岳陽市)刺史に左遷されます。
 詩題の「梁六」は潭州(湖南省長沙市)刺史であった梁知微(りょうちび)ではないかとされており、刺史を辞任後に君山(洞庭湖中にある島)に住んでいたのでしょう。張説は訪ねて来た「梁六」を見送り、洞庭湖の景色に託して友情を述べます。
 張説が岳州刺史のときの作品で、「巴陵」は洞庭湖東北岸の郡名で、岳州の旧名です。君山には洞庭湖の女神が棲んでいるという伝説があり、君山に隠棲している「梁六」に隠棲などやめて世間に出て来いと言っている詩でしょう。

ティェンタオの自由訳漢詩 1916

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 盛唐10ー張説
   幽州夜飲            幽州の夜飲

  涼風吹夜雨     涼風(りょうふう)  夜雨(やう)を吹き
  蕭瑟動寒林     蕭瑟(しょうしつ)として寒林(かんりん)を動かす
  正有高堂宴     正(まさ)に高堂の宴(えん)有りて
  能忘遅暮心     能(よ)く遅暮(ちぼ)の心を忘る
  軍中宜剣舞     軍中(ぐんちゅう)  宜(よろ)しく剣舞すべし
  塞上重笳音     塞上(さいじょう)  笳音(かおん)を重んず
  不作辺城将     辺城(へんじょう)の将と作(な)らずんば
  誰知恩遇深     誰か恩遇(おんぐう)の深きを知らん

  ⊂訳⊃
          涼しい風が  夜の雨を吹き散らし
          冬の林が   寂しげに揺れている
          いまここに  高堂の宴がひらかれ
          老いる事の  悲しみを忘れさせる
          陣中だから  剣の舞がふさわしく
          辺塞だから  葦笛の演奏が好まれる
          辺境の城に 将軍となって初めて
          皇帝陛下の 手厚い御恩がわかるのだ


 ⊂ものがたり⊃ 開元四年(716)に姚崇(ようすう)が失脚して張説は岳州から都に呼びもどされます。新たに任命されたのは幽州都督でした。「幽州」(北京の南付近)は北辺の地で、中央で活躍したかった張説は不満でした。しかし、赴任せざるを得ません。
 詩は中四句を前後の二句で囲む形式で、はじめの二句は導入部。雨後の夜の寂しげなようすが描かれます。中四句では宴の楽しさが老いの悲しみを忘れさせると感謝の言葉を述べ、余興の剣舞や葦笛の演奏を褒めます。「高堂」は立派な広間という意味で、新都督の歓迎の宴が開かれたのでしょう。
 そして結びでは、辺地に赴任してはじめて陛下の御恩の有り難さがわかると、不満の心を隠すのです。詩は宴会で披露されたもので、一座の者は張説が不満を抱いて赴任して来たのではないかと思っています。それをうまく否定し、詩が朝廷に伝わることを計算に入れています。 

ティェンタオの自由訳漢詩 1917

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 盛唐11ー張説
   幽州新歳作            幽州新歳の作

  去歳荊南梅似雪   去歳(きょさい)  荊南(けいなん) 梅 雪に似たり
  今年薊北雪如梅   今年(こんねん)  薊北(けいほく)  雪 梅の如し
  共知人事何嘗定   共に知る  人事は何ぞ嘗(かつ)て定まらん
  且喜年華去復来   且(しばら)く喜ぶ  年華(ねんか)の去って復(ま)た来たるを
  辺鎮戍歌連夜動   辺鎮(へんちん)の戍歌(じゅか)   夜を連(つら)ねて動き
  京城燎火徹明開   京城(けいじょう)の燎火(りょうか)  明(めい)に徹(てつ)して開く
  遥遥西向長安日   遥遥(ようよう)として西のかた長安の日に向かい
  願上南山寿一杯   願わくは上(たてまつ)らん  南山の寿一杯(じゅいっぱい)

  ⊂訳⊃
          去年の春は江南  梅の花が雪のように咲いていた
          今年の春は幽州  雪は梅花のように降りしきる
          人の世は      定めがたいと知っていたが
          春がふたたび    もどって来たのは嬉しいことだ
          辺境の城では   夜ごとに軍歌がわき起こり    
          都のお城では   夜を徹して篝火が燃えているだろう
          西方はるか     長安の空に向かい
          一杯の酒を奉り  聖寿の万歳をお祈りしょう


 ⊂ものがたり⊃ 詩題に「新歳の作」とありますので、幽州に赴任した翌年の新春の作です。「荊南」は湖南をさしますが、左遷されていた岳州のことですので、広く江南としました。「薊北」は幽州をさし、まず両者の春の相違を描きます。
 中四句は辺地で春を迎えた感懐です。「年華」は春の季節、新年を迎えた喜びを詠います。加えて幽州の城と都長安の新春のようすを描きます。結び二句の「長安の日」は晋の明帝が幼児のころ太陽よりも長安の方が遠いと言った故事を踏まえており、遥かな長安に目を向けます。
 「南山の寿一杯」は長安の南にある終南山が変わらぬ姿を保っているように、天子の寿命が永遠であることを祈って乾杯をすることです。詩は新年の祝宴で披露された奉祝歌と思われます。
 このあと張説は都にもどって中書令に返り咲き、開元九年(721)には宰相になります。開元十三年(725)に張説の発議で玄宗皇帝の封禅の儀が行われ、鳳輦は泰山に至りました。張説の威光が一世を風靡したのはこのころでしょう。
 最後は宦官高力士の権勢が強まった開元十八年(730)に、右丞相(従二品)・集賢学士で亡くなります。享年は六十四歳です。

ティェンタオの自由訳漢詩 1918

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 盛唐12ー蘇頲
   汾上驚秋          汾上にて秋に驚く

  北風吹白雲     北風(ほくふう)  白雲(はくうん)を吹き
  万里渡河汾     万里(ばんり)   河汾(かふん)を渡る
  心緒逢揺落     心緒(しんしょ)  揺落(ようらく)に逢い
  秋声不可聞     秋声(しゅうせい)  聞く可(べ)からず

  ⊂訳⊃
          北風が   白い雲を吹き払い

          万里の地  汾河を渡る

          もの皆の  衰えていく音 秋に逢い

          心は辛く  耳を塞いでしまいたい


 ⊂ものがたり⊃ 蘇頲(そてい:670ー727)は雍州武功(陝西省武功県)の人。高宗の調露二年(680)の進士との伝えがありますが、十一歳ですので疑問があります。武后の神功元年(697)に二十八歳で科挙の諸科に及第したというのが正しいのではないでしょうか。
 武后に認められて左司禦率府冑曹参軍になり、観察御史、給事中などを歴任します。詩題の「汾上」は汾水(山西省の大河)のほとり、若いころ公用でこの地を訪れたときの作品でしょう。
 前半二句で自分の状況を述べます。汾水は洛陽よりも北になりますので、秋は早く来ます。「揺落」は木の葉が散ることで、秋を意味します。風の音、汾水の流れの音も聞こえていたはずで、秋の寂しい音を耳にするのが辛いと若者らしい旅の感傷を詠います。
 この詩は、張説の秋の詩「蜀道にて期に後る」(3月6日のブログ参照)と並んで早い時期の五言絶句の双壁と言われています。二句目にサンズイの字が三つ重なっており、筆で書くといい形になるそうです。

ティェンタオの自由訳漢詩 1919

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 盛唐13ー蘇頲
   奉和春日幸            「春日 望春宮に幸す」
   望春宮応制            に和し奉る 応制

  東望望春春可憐   東に望春(ぼうしゅん)を望めば  春 憐(あわ)れむ可(べ)し
  更逢晴日柳含煙   更に晴日(せいじつ)に逢(お)うて 柳 煙(けむり)を含む
  宮中下見南山尽   宮中下(しも)に見る     南山の尽(つ)くるを
  城上平臨北斗懸   城上平(たい)らかに臨む 北斗(ほくと)の懸かるを
  細草偏承囘輦処   細草(さいそう)偏(ひと)えに承(う)く 輦(れん)を囘(めぐ)らす処
  軽花微落奉觴前   軽花(けいか)微(わず)かに落つ   觴(さかずき)を奉ぐる前
  宸遊対此歓無極   宸遊(しんゆう)  此(こ)れに対して歓(よろこ)び極まり無し
  鳥哢声声入管絃   鳥哢(ちょうろう)声声(せいせい)  管絃(かんげん)に入る

  ⊂訳⊃
          東に望春宮を望むと  春景色が美しい
          好い天気に恵まれて  春の霞が柳に立ちこめる
          宮殿からは    終南山の尽きるあたりまで見わたせ
          城壁の上には  北斗の星がま近に懸かる
          御車の行く所  一面の草の新芽が迎え
          散る花びらは  杯の前を軽やかに舞う
          遊覧の楽しみは尽きることなく
          鳥たちの囀る声も  管絃の調べに和して聞こえてくる


 ⊂ものがたり⊃ 沈佺期や宋之問が宮廷詩の寵児だった中宗の神龍年間に、蘇頲は中書舎人になり、張説と並んで多くの宮廷詩を作っています。掲げた詩はそのころの応制の詩です。
 詩題の「望春宮」(ぼうしゅんきゅう)は長安の東郊外にあった宮殿で、滻水(さんすい)の東岸と西岸に二宮があったといいます。当時は立春の日に天子が東の郊外に出て春を迎える「迎春」の儀式があり、望春宮に幸して宴会もありました。
 中宗が「春日(しゅんじつ) 望春宮に幸(みゆき)す」と題する詩を作って群臣に唱和を求めました。「宸遊」は天子の遊覧であり、蘇頲はその模様を詠っています。詩には宮廷詩につきものの故事や雅語の使用もなく、素直にまとめられた七言律詩です。
 蘇頲は中宗の神龍年間に父を亡くし、父親の爵位を継いで許国公に封じられています。玄宗の時代になって工部侍郎、中書侍郎に進み、宰相宋?(そうけい)と心を合わせて政事につくしました。開元四年(716)に宰相になり、開元八年(720)には礼部尚書に進みました。
 益州(四川省成都市)大都督長史になって蜀に赴任する途中、二十歳の李白に面会を求められ、文才を認めた話は有名です。開元十五年(727)に亡くなり、享年は五十八歳でした。

ティェンタオの自由訳漢詩 1920

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 盛唐14ー張九齢
   感遇十二首 其四     感遇 十二首  其の四

  孤鴻海上来     孤鴻(ここう)  海上より来たり
  池潢不敢顧     池潢(ちこう)  敢(あえ)て顧(かえり)みず
  側見双翠鳥     側(かたわら)に見る  双翠鳥(そうすいちょう)の
  巣在三珠樹     巣くうて三珠樹(さんしゅじゅ)に在るを
  矯矯珍木巓     矯矯(きょうきょう)たる珍木(ちんぼく)の巓(いただき)
  得無金丸懼     金丸(きんがん)の懼(おそ)れ無きを得んや
  美服患人指     美服(びふく)は人の指ささんことを患(うれ)え
  高明逼神悪     高明(こうめい)は神の悪(にく)みに逼(せま)る
  今我遊冥冥     今  我(わ)れ冥冥(めいめい)に遊ぶ
  弋者何所慕     弋者(よくしゃ)  何の慕(した)う所ぞ

  ⊂訳⊃
          一羽の大鳥が  海のほとりから飛んできた
          池や水溜りは  振り向こうともしない
          視線の端に   三珠樹が見え
          番いの翡翠が  巣をかけている
          高く伸びた     珍木の梢は
          矢玉の的の   恐れがないとは言えないだろう
          美しい服は    うしろ指が心配で
          立派な建物は  神さまから憎まれそうだ
          いまわたしは   遥かな空に飛び立っていく
          猟師たちは    どうしてそれを追いかけられようか


 ⊂ものがたり⊃ 張九齢(978ー740)は韶州曲江(広東省韶関市)の人。幼いころから文章に勝れ、張説が欽州に流されたときに詩才を認められました。武后の長安二年(702)に二十五歳で進士に及第、左拾遺になります。 
 玄宗時代に左補闕、司勲員外郎、中書舎人などを歴任し、張説の腹心として活躍します。そのころ多くの応制、贈答の詩を作っています。開元十八年(730)に張説が亡くなると、玄宗は張九齢を秘書少監に任じ、二十一年(733)には中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に任じます。翌年に中書令、二十三年には始興県伯に封じられますが、そのころ台頭してきた李林甫(りりんぽ)と対立し、二十五年(737)に荊州(湖北省江陵県)長史に左遷されます。
 詩は李林甫と対立し、中央から追われることが確定的になったころの作品で、身近な人との宴会の席で披露したものでしょう。四、四、二句に分けて読むことができ、自分自身を「孤鴻」に喩えています。
 はじめの四句は、広い海から飛んできた誇り高い鳥の自分はちっぽけな「池潢」(池や水溜り)には関心がなかったが、「双翠鳥」が「三珠樹」に巣をかけているのを目にとめたといいます。双翠鳥は政敵の李林甫と牛仙客(ぎゅうせんきゃく)のことです。
 つぎの四句では政敵たちの価値観や生き方に疑問を投げかけます。「珍木」は三珠樹のことで仙人の世界にある木、「高明」は高くて明るい建物のことです。結びの二句で、これから自分は遥かな大空に飛び立っていくと決意を述べます。
 張九齢から李林甫への政権移行は、武后時代に始まった寒門出身者の登用、開元の初政以来つづいてきた姚崇・宋?・張説・張九齢など進士及第者の高官への登用が終わりを告げ、門閥出身者が政事を牛耳る時代になる折れ目の出来事でした。        

ティェンタオの自由訳漢詩 1921

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 盛唐15ー張九齢
   照鏡見白髪        鏡に照らして白髪を見る

  宿昔青雲志     宿昔(しゅくせき)  青雲(せいうん)の志
  蹉跎白髪年     蹉跎(さた)たり   白髪(はくはつ)の年
  誰知明鏡裏     誰(たれ)か知らん  明鏡(めいきょう)の裏(うち)
  形影自相憐     形影(けいえい)    自(おのず)から相憐れまんとは

  ⊂訳⊃
          むかしは青雲の志があったが

          何たることだ はや白髪の年だ

          思いをしなかったな  おいお前

          鏡に向かって苦笑い  憐れむようになろうとは


 ⊂ものがたり⊃ この詩は制作年不明ですが、「白髪」とあるので老年になってからの作品でしょう。前半二句は対句になっており、昔と今を比較します。「蹉跎」はつまずく意味ですが、具体的なつまずきをいうのではなく、自省の言葉でしょう。
 後半結びの「形影 自から相憐れまんとは」は、生身の自分と鏡の中の自分とが互に憐れみ合っていることで、ウイットのある表現です。詩は後世に影響を与え、李白はこの詩を意識して作ったと思われる五言絶句を残しています。
 開元二十八年(740)、張九齢は配地の荊州で亡くなりました。享年は六十三歳です。

ティェンタオの自由訳漢詩 1922

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 盛唐16ー王翰
   涼州詞 其一           涼州の詞 其の一

  葡萄美酒夜光杯   葡萄(ぶどう)の美酒(びしゅ)  夜光(やこう)の杯(はい)
  欲飲琵琶馬上催   飲まんと欲すれば  琵琶(びわ)  馬上に催(もよお)す
  酔臥沙場君莫笑   酔うて沙場(さじょう)に臥(ふ)す  君  笑うこと莫(なか)れ
  古来征戦幾人囘   古来(こらい)  征戦  幾人(いくにん)か回(かえ)る

  ⊂訳⊃
          夜光の杯に葡萄の美酒

          飲もうとすれば     馬上で始まる琵琶の曲

          沙上に酔い潰れても  笑わないでくれ

          古来 遠征の戦から  無事に帰った者は幾人もいない


 ⊂ものがたり⊃ 玄宗の時代は「開元の治」と称されます。唐の文華が最盛期を迎えた時代です。盛唐を代表する詩人といえば、王維・李白・杜甫であり、唐代のみならず中国を代表する詩人です。しかし、開元元年(713)に王維は十五歳、李白は十三歳、杜甫は二歳でした。詩人として登場するのは後のことです。
 ただし、この三人の詩人については、別途、個人の伝記としてブログに掲げていますので、つぎの「ティェンタオの自由訳漢詩」を参照してください。

   王 維 (平成20年11月13日 NO.131ー21年 3月12日 NO.249)
   李 白 (平成21年 3月20日 NO.250ー同年10月23日 NO.467)
   杜 甫 (平成21年11月 1日 NO.468ー22年 8月 5日 NO.745)

 王翰(おうかん:687?ー726?)は并州晋陽(山西省太原市)の人。玄宗即位の前年、睿宗の景雲二年(711)に二十五歳くらいで進士に及第し、張説に認められて駕部員外郎に任じられます。張説の失脚にともなって左遷されますが、西域に遠征したという記録はありません。開元十四年(726)ころに四十歳くらいの若さで亡くなりました。
 詩題の「涼州詞」(りょうしゅうし)は西方から伝わってきた新曲の名で、その曲に詩をつけたものです。葡萄酒は新しい飲み物で、涼州産は高級品でした。「夜光杯」は西域渡来のガラス杯とも玉杯とも言われ、最先端のモダンな道具立てで詩を盛り上げています。
 前半二句で戦陣での宴会の場を設定し、後半二句で戦場の不安を訴えます。王翰自身もかなりの酒飲みであったようです。辺塞詩の傑作としてはなはだ有名ですが、宴会の場などで披露された想像の作品でしょう。   

ティェンタオの自由訳漢詩 1923

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 盛唐17ー王翰
   涼州詞 其二           涼州の詞 其の二

  秦中花鳥已応闌   秦中(しんちゅう)の花鳥  已(すで)に応(まさ)に闌(たけなわ)なるべし
  塞外風沙猶自寒   塞外(さいがい)の風沙  猶(な)お自(おのず)から寒し
  夜聴胡笳折楊柳   夜に聴(き)く胡笳(こか)  折楊柳(せつようりゅう)
  教人意気憶長安   人をして意気  長安を憶(おも)わしむ

  ⊂訳⊃
          都はいまごろ  春たけなわのころだろう

          国境の外では  砂を巻き上げて寒風が吹く

          夜に聞く     胡笳の調べは「折楊柳」

          人の心に泌々と長安の街がよみがえる


 ⊂ものがたり⊃ 其の二も「塞外」(辺塞の外)に出征している兵士に成り代わって詠う詩です。「折楊柳」は楽府のひとつで、人を見送るときの歌です。その曲を演奏している「胡笳」(胡人の芦笛)の音が聞こえて来ると、長安を発ったときの別れの情景がよみがえって来ると詠います。以来、胡笳と折揚柳は辺塞詩の重要な道具立てになります。

ティェンタオの自由訳漢詩 1924

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 盛唐18ー張敬忠
     辺詩                辺詩

  五原春色旧来遅   五原(ごげん)の春色(しゅんしょく)  旧来(きゅうらい)遅く
  二月垂楊未挂糸   二月(にがつ)  垂楊(すいよう)   未(いま)だ糸を挂(か)けず
  即今河畔氷開日   即今(そくこん)  河畔(かはん)   氷(こおり)開くの日
  正是長安花落時   正(まさ)に是(こ)れ長安  花落つるの時

  ⊂訳⊃
          五原の春は  遅く来るのがならわしだ

          二月になっても  しだれ柳は芽吹かない

          黄河の岸で  やっと氷が融けはじめた日

          都長安では  まさに落花の季節であろう


 ⊂ものがたり⊃ 張敬忠(ちょうけいちゅう:生没年不明)は観察御史として将軍張仁愿(ちょうじんげん)に従い、北辺で功を立てました。帰還後、吏部郎中にすすみ、開元七年(919)に平盧(内蒙古自治区土黙特右旗)の節度使に任じられています。
 詩題の「辺詩」は辺境の詩という意味です。辺境は北の荒涼とした国境地帯をいい、南の国境には用いません。詩中の「五原」(寧夏回族自治区塩池県付近)には突厥(とっけつ)を防ぐ受降城のひとつが置かれていました。平盧からは離れていますので、張将軍に従ったときの作品かも知れません。

ティェンタオの自由訳漢詩 1925

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 盛唐19ー王湾
   次北固山下           北固山下に次る

  客路青山外     客路(かくろ)    青山(せいざん)の外(そと)
  行舟緑水前     行舟(こうしゅう)  緑水(りょくすい)の前
  潮平両岸闊     潮(うしお)は平らかにして両岸闊(ひろ)く
  風正一帆懸     風は正しうして一帆(いっぱん)懸(かか)かる
  海日生残夜     海日(かいじつ)  残夜(ざんや)に生じ
  江春入旧年     江春(こうしゅん)  旧年に入る
  郷書何処達     郷書(きょうしょ)  何(いず)れの処(ところ)にか達せん
  帰雁洛陽辺     帰雁(きがん)    洛陽の辺(ほとり)

  ⊂訳⊃
          旅の航路は  島を巡ってつづき
          緑の水上を  舟は滑らかに進む
          広がる岸辺  満々と潮は満ち
          風を受けて  帆は舟上にふくらむ
          夜が明けない内に  海上に朝日が昇り
          年が明けない内に  江上に春が来る
          故郷からの便りは  どこまで来ているだろうか
          北に帰る雁たちは  洛陽の辺りに着いただろうか


 ⊂ものがたり⊃ 王湾(692ー750?)は東都洛陽の人。玄宗の先光二年(713)に進士に及第、江南を遊歴して文名を挙げます。地方官を務めたあと校書郎になり、宮中の図書の校訂に従事しました。天宝九載(750)ころに亡くなり、享年は五十九歳くらいです。
 詩題の「北固山」(ほくこさん)は潤州(江蘇省鎮江市)の北をながれる長江中の島です。当時は島を山と呼ぶならわしでした。詩は四句ずつ前後に分かれ、前半は舟航の描写です。「青山」は北固山のこと。当時の長江は潤州のすぐ東に河口がありましたので、満潮のときは川幅が大きく拡がったといいます。
 後半は北固山の下で「次」(やど)ったときの感懐です。張説は「海日 残夜に生じ 江春 旧年に入る」の対句を高く評価し、みずから墨書して政事堂に掲げ、能文の士の手本にしたといいます。結びの「帰雁」は漢代の蘇武の故事を踏まえており、故郷へ出した書信という意味を含んでいます。

ティェンタオの自由訳漢詩 1926

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 盛唐20ー崔?
   長干行四首 其一     長干行 四首  其の一

  君家住何処     君(きみ)が家は何(いず)れの処(ところ)にか住む
  妾住在横塘     妾(しょう)は住んで横塘(おうとう)に在り
  停船暫借問     船を停(とど)めて暫(しばら)く借問(しゃもん)す
  或恐是同郷     或いは恐る  是(こ)れ同郷ならんかと

  ⊂訳⊃
          あなたの家は何処かしら

          わたしの住まいは横塘よ

          舟を停めて  ちょっとお尋ねいたします

          もしかしたら  同郷の人ではないかしら


 ⊂ものがたり⊃ 盛唐の新しい詩は、開元になってから進士に及第した若い知識人から湧き起こってきます。時代が清新の気を呼び起こし、詩賦の制作能力を重視した科挙によって、詩は官途をめざす者たちの間で急速に普及しました。以下、進士に及第した年の順に詩人を取り上げます。
 崔?(さいこう:704?ー754)は汴州(河南省開封市)の人。開元十一年(723)に二十歳くらいで進士に及第しました。若いころの崔?は才気の人であったらしく、新しい詩を作っています。
 詩題の「長干行」(ちょうかんこう)は楽府題で、「長干」や「横塘」は古都建康(江蘇省南京市)の南郊にあり、長江渡津の盛り場です。其の一は四句すべてが女性の言葉で、横塘の妓女になりかわって民謡調で詠います。「是れ同郷ならんか」というのは客を引く妓女の言葉です。

ティェンタオの自由訳漢詩 1927

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 盛唐21ー崔?
   長干行四首 其二     長干行 四首  其の二

  家臨九江水     家は九江(きゅうこう)の水に臨み
  来去九江側     九江の側(かたわら)に来去(らいきょ)す
  同是長干人     同じく是(こ)れ長干(ちょうかん)の人なるに
  生小不相識     生小(せいしょう)  相識(あいし)らず

  ⊂訳⊃
          家は長江の流れに臨み

          舟で岸辺を  行き来している

          同じ長干の生まれというのに

          幼い頃から  君と出会ったことはない


 ⊂ものがたり⊃ 其の二は其の一の詩に対する男の答えです。「九江」は長江の下流一帯をいい、小舟で荷を運ぶ仕事でしょう。おれは長干の生まれだが、「生小 相識らず」といいます。ここが落ちで、女は他国者なのに同郷ではないかしらと男を誘ったのです。
 宴会の席で座興に作られた遊びの詩であり、宮廷詩に見られない軽妙さに新しさがあります。若いころの王維に似た作品(平成20年11月30日のブログ参照)がありますので、当時、五言四句の小品連作が流行していたようです。

ティェンタオの自由訳漢詩 1928

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 盛唐22ー崔?
     黄鶴楼               黄鶴楼

  昔人已乗黄鶴去   昔人(せきじん)  已(すで)に黄鶴(こうかく)に乗って去り
  此地空余黄鶴楼   此(こ)の地(ち)   空(むな)しく余(あま)す  黄鶴楼
  黄鶴一去不復返   黄鶴(こうかく)   一たび去って  復(ま)た返らず
  白雲千載空悠悠   白雲(はくうん)   千載(せんざい)  空しく悠悠(ゆうゆう)
  晴川歴歴漢陽樹   晴川(せいせん)  歴歴(れきれき)たり  漢陽(かんよう)の樹(き)
  芳草萋萋鸚鵡洲   芳草(ほうそう)  萋萋(せいせい)たり  鸚鵡(おうむ)の洲(しゅう)
  日暮郷関何処是   日暮(にちぼ)   郷関(きょうかん)  何(いず)れの処か是(これ)なる
  煙波江上使人愁   煙波(えんぱ)   江上(こうじょう)   人をして愁え使(し)む

  ⊂訳⊃
          昔の人は  すでに黄鶴に乗って去り
          跡地には  黄鶴楼だけが空しく残る
          黄鶴は去って  二度ともどらず
          白雲だけが   千年変わらずに浮かんでいる
          川の向こうに  漢陽の樹々がくっきりと見え
          鸚鵡の洲には  かぐわしい草が生い茂る
          暮れ方に  長安はどの方角かと見まわせば
          長江の岸  立ち込める靄が私を悲しませる


 ⊂ものがたり⊃ 「黄鶴楼」の詩は李白が激賞したことで有名です。黄鶴楼は鄂州城(湖北省武漢市武昌区)の西南隅、長江を見おろす黄鶴磯の上に立っていました。昔ある人が黄鶴楼の壁に描いてあった黄鶴に乗って飛び去り、仙人になった話などいろいろな伝説があります。
 詩は前後四句ずつに分かれ、前半は黄鶴楼伝説から説き起こして、人生の無常に及びます。後半は一転して眼前の景を詠い、長安を思う心で結びます。「晴川」は晴れた日の長江で、対岸に漢陽の街が見えます。「鸚鵡洲」は長江の中洲で、眼下に見えました。
 「芳草」は香りのよい草ですが、楚辞以来、君子に喩えられます。人材がいても用いられないのを嘆く意味があり、それが結びの「日暮 郷関 何れの処か是なる」に結びつきます。「郷関」は故郷であると同時にしばしば都長安を意味しました。
 崔?は観察御史などをへて天宝年間に司勲員外郎、太僕寺(牧馬と車輿を司る実務官庁)の丞を歴任し、安禄山の乱が勃発する前年の天宝十三載(754)に亡くなりました。享年はおよそ五十一歳です。
  

ティェンタオの自由訳漢詩 1929

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 盛唐23ー祖詠
   終南望余雪         終南に余雪を望む

  終南陰嶺秀     終南(しゅうなん)  陰嶺(いんれい)秀で
  積雪浮雲端     積雪(せきせつ)   雲端(うんたん)に浮ぶ
  林表明霽色     林表(りんぴょう)  霽色(せいしょく)明らかに
  城中増暮寒     城中(じょうちゅう) 暮寒(ぼかん)を増す

  ⊂訳⊃
          終南山  高く聳える北の峰

          積雪が  浮雲の端に浮かんでいる

          林の表面が  明るく晴れた色になり

          長安の街に  夕べの寒さが増してくる


 ⊂ものがたり⊃ 租詠(966ー746?)は東都洛陽の人。王維と親交がありました。開元十二年(724)に二十六歳で進士に及第しますが、「終南望余雪」は科挙に出題された課題です。答案は五言六韻(十二句)の排律に作らなければならないのですが、租詠は四句作っただけで提出し、尋ねられると「これで意は尽くした」と言ったといいます。
 進士に及第しますが流入(官職に就くこと)できなかったのは、詩のせいかもしれません。「終南」は終南山のこと。長安の北にありますので、「陰嶺」(北側の峰)が見えます。「林表」は林の上空と解する説もありますが、麓の林の上面に日が射して明るくなったのでしょう。これで言い尽くしたと、租詠は頑固な詩人でした。
 流入できなかった租詠は汝水(河南省の川)のほとりに引き籠もって農耕生活を送り、四十八歳くらいの若さで亡くなりました。

ティェンタオの自由訳漢詩 1930

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 盛唐24ー崔国輔
   長楽少年行          長楽少年行

  遺却珊瑚鞭     珊瑚(さんご)の鞭(むち)を遺却(いきゃく)して
  白馬驕不行     白馬(はくば)    驕(おご)りて行かず
  章台折揚柳     章台(しょうだい)  揚柳(ようりゅう)を折り
  春日路傍情     春日(しゅんじつ)  路傍(ろぼう)の情(じょう)

  ⊂訳⊃
          珊瑚の鞭を忘れてきた

          白馬もだだをこね  進もうとしない

          色街の   柳の枝を折り取って

          春の日に  路傍でうごく婀娜心


 ⊂ものがたり⊃ 崔国輔(さいこくほ:687?ー755)は越州山陰(浙江省紹興市)の人。開元十四年(726)に四十歳くらいで進士に及第しました。この年は玄宗の封禅の儀が行われた翌年に当たり、長安は平和と繁栄を謳歌していました。
 「長楽少年行」(ちょうらくしょうねんこう)は崔国輔の代表作とされており、盛唐の長安の雰囲気を伝える秀作です。「珊瑚鞭」は珊瑚で飾った鞭。鞭を忘れて来たのは妓楼でしょう。鞭がないので乗馬も動こうとしません。だが、進もうとしないのは馬だけでしょうか。
 「章台」は漢代の町の名ですが、唐代では遊里の意味に用いました。柳の枝を折るのは別れがたい心の表現です。「路傍情」は難解ですが、路傍でふと心が動くのでしょう。忘れて来たのは鞭だけではないようです。

ティェンタオの自由訳漢詩 1931

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 盛唐25ー崔国輔
   採蓮曲              採蓮曲

  玉漵花紅発     玉漵(ぎょくじょ)  花は紅(あか)く発(さ)き
  金塘水碧流     金塘(きんとう)  水は碧(あお)く流る
  相逢畏相失     相逢(あいあ)えば相失うを畏(おそ)れ
  並著采蓮舟     並びて著(ちゃく)す  采蓮(さいれん)の舟

  ⊂訳⊃
          漵水の岸に  真っ赤な花が咲き

          美しい堤    流れは碧く澄んでいる

          逢えば別れを畏れるように

          寄りそっている採蓮の舟


 ⊂ものがたり⊃ 崔国輔は多くの民謡調の詩を作りました。詩題の「採蓮曲」は楽府題で、蓮の実採りの歌です。蓮の実は食用になり、小舟を出して採るのは若い娘の仕事でした。蓮の音「れん」が恋と通じるので、夏から秋にかけての風物詩として、恋をからめた多くの詩が作られました。「漵」は湖南の川。岸辺に咲く赤い花は、恋の花でもあるでしょう。採蓮の舟が岸に並んでもやっているように、恋人が寄りそっています。
 崔国輔は集賢院直学士、礼部員外郎などを歴任しましたが、天宝年間に御史大夫の王?(おうこう)が死罪になったとき、親族であったために連座して地方の司馬に流されました。天宝十四載(755)に亡くなり、享年は六十九歳くらいです。
 

ティェンタオの自由訳漢詩 1932

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 盛唐26ー儲光羲
   洛陽道五首         洛陽道 五首
   献呂四郎中 其三     呂四郎中に献ず 其の三

  大道直如髪     大道(だいどう)   直(なお)きこと髪の如く
  春日佳気多     春日(しゅんじつ) 佳気(かき)多し
  五陵貴公子     五陵(ごりょう)の貴公子(きこうし)
  双双鳴玉珂     双双(そうそう)   玉珂(ぎょうか)を鳴らす

  ⊂訳⊃
          都大路は  髪の毛のように真っ直ぐで

          春の日は  めでたい気分に満ちている

          五陵の街の貴公子たちは

          馬を並べ  玉珂を鳴らして駆けていく


 ⊂ものがたり⊃ 儲光羲(ちょこうぎ:700?ー768)は兗州(山東省西部)の人、一説に閏州(江蘇省鎮江市)の人ともいいます。玄宗封禅の儀の翌年、崔国輔と同じ開元十四年(726)に二十七歳くらいで進士に及第しました。
 詩題の「洛陽道」は楽府題で、必ずしも洛陽を意味しません。「呂四郎中」(りょしろうちゅう)は尚書省礼部の主客郎中呂尚(りょしょう)のことと言われています。漢代の皇帝陵「五陵」には陵邑が置かれ、高官や富者の住地でした。そこから出世を約束された貴門の地という語感が生まれ、貴公子の枕詞のように用いられます。
 「双双」は二人ならんで。「玉珂」は馬の轡につける玉飾りのことで、馬が走れば澄んだ音を立てます。開元盛時の長安の華やかさを五言四句で描いて見事です。中国語で吟唱する場合の心地よさも想像されます。 

ティェンタオの自由訳漢詩 1933

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 盛唐27ー儲光羲
   長安道             長安道

  鳴鞭過酒肆     鞭(むち)を鳴らして酒肆(しゅし)に過(よぎ)り
  袨服遊倡門     袨服(げんぷく)して倡門(しょうもん)に遊ぶ
  百万一時尽     百万  一時(いちじ)に尽くるも
  含情無片言     情を含んで片言(へんげん)無し

  ⊂訳⊃
          鞭を鳴らして飲み屋に立ち寄り

          着飾って  妓楼で遊ぶ

          百万銭を  一夜で使い果たすが

          想う心を  決して口に出すことはない


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「長安道」も楽府題のひとつです。鞭を鳴らして行くのは乗馬の貴公子でしょう。「倡門」は遊女のいる妓楼のこと。結びの「情を含んで片言無し」は使った金のことではなく、慕情は胸中に秘めて口に出したりはしないと、侠気のあるところを示します。 

ティェンタオの自由訳漢詩 1934

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 盛唐28ー儲光羲
    釣魚湾             釣魚湾

  垂釣緑湾春     釣(つり)を垂る   緑湾(りょくわん)の春
  春深杏花乱     春(はる)深くして  杏花(きょうか)乱る
  潭清疑水浅     潭(ふち)清(す)みて水の浅きを疑い
  荷動知魚散     荷(はす)動きて魚(うお)の散(さん)ずるを知る
  日暮待情人     日暮(にちぼ)   情人(じょうじん)を待ち
  維舟緑楊岸     舟を維(つな)ぐ  緑楊(りょくよう)の岸

  ⊂訳⊃
          春の日に   緑の入江で釣りをする
          春は深まり  杏の花も乱れ散る
          澄み切った淵は  浅いかと思われ
          蓮の葉が動けば  魚が逃げたと分かる
          日が暮れて  思う人を待っている
          柳の岸辺   緑の木陰に舟を繋いで


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「釣魚湾」(ちょうぎょわん)は釣りをする入江といった意味でしょう。ただし、この五言六句の詩は含意が深く、猟官の巷といった意味になります。詩は中二句の対句を挟んで左右の二対が対称的な字並びになっています。
 はじめの二句で春の盛りに「緑湾」で釣りをすると状況を述べます。春は官吏の任命・異動の季節です。中の対句は釣りを装っていますが、猟官の難しさや失敗を暗喩するものでしょう。
 結び二句の「情人」は恋人ですが、自分を推薦してくれる人と解することができます。その人を「緑楊」の岸に舟を繋いで待つのです。若いころは元気いっぱいであった儲光羲にも官途の苦労があったようです。
 儲光羲は累進して観察御史になりますが、安禄山の乱のとき反乱軍に捕らえられ、賊の朝廷に仕えたため、戦後、広州方面に流されて亡くなりました。享年は六十九歳くらいでした。    

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