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tiandaoの自由訳漢詩

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     盛唐29ー王之渙
       登鸛鵲楼           鸛鵲楼に登る

      白日依山尽     白日(はくじつ)  山に依(よ)って尽(つ)き
      黄河入海流     黄河(こうが)   海に入(い)って流る
      欲窮千里目     千里の目を窮(きわ)めんと欲して
      更上一層楼     更に上(のぼ)る  一層の楼

      ⊂訳⊃
              輝く太陽は  山肌に寄り添うように消えていく

              黄河の水は  海へ向かって何処までも流れる

              この広大な眺めを見きわめたくて

              さらに一階  高楼の階を上る


     ⊂ものがたり⊃ 王之渙(おうしかん:688ー742)は幷州晋陽(山西省太原市)の人。絳郡(山西省新絳県)の人ともいいます。玄宗の封禅の翌年、開元十四年(726)に三十九歳ですので、崔国輔と同世代です。
     科挙に及第せず、経歴は定かでありませんが、作品に浮かれたとろがなく高い精神性が認められます。開元年間に冀州衡水県(河北省)の主簿になりましたが、他人とうまくいかず、辞職して十五年間無官で過ごします。晩年に文安県(河南省)の尉になり、天宝元年(742)に亡くなりました。享年は五十五歳です。
     詩題の「鸛鵲楼」(かんじゃくろう)は蒲州(山西省永清県)の西、黄河の中洲にあった河中府城の三層楼です。楼は城壁の西南隅に建っていて、眼下に黄河が南流しています。詩は前二句と後二句がそれぞれ対句になっており、前半は眼前の広大な眺めを「白日」と「黄河」の動きによって描きます。単に景色を描くのではなく、想像を加えて自然を観念に高めていることに注目してください。
     後半では眺めに触発された感動を「更に上る 一層の楼」と自分の行動で示しています。そこには詩人としての志も込められていると読むべきでしょう。この詩は唐代五言絶句の秀作として高い評価を得ており、王之渙の代表作です。 

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     盛唐30ー王之渙
        涼州詞              涼州の詞

      黄河遠上白雲間   黄河(こうが)  遠く上(のぼ)る  白雲の間(かん)
      一片孤城万仭山   一片の孤城  万仭(ばんじん)の山
      羌笛何須怨楊柳   羌笛(きょうてき)  何ぞ須(もち)いん  楊柳を怨(うら)むるを
      春光不度玉門関   春光(しゅんこう)  度(わた)らず  玉門関(ぎょくもんかん)

      ⊂訳⊃
              黄河を遡って  遥かに白雲の棚引くあたり

              横たわる孤城  高い山が取りかこむ

              羌笛よ      なぜ悲しげに「楊柳」の曲を吹くのか

              玉門関には   春の陽ざしもとどかないのに


     ⊂ものがたり⊃ 「涼州詞」は楽府題。当時流行の詩題でした。前半二句は西方への旅の描写です。緊密に構成された映像、視覚的に典型化された詩句が凝縮されています。「一片」(いっぺん)はひとかけらではなく、一面に横に広がる形容です。
     後半では胡族の笛「羌笛」を出し、「羌笛 何ぞ須いん 楊柳を怨むるを」と詠います。「楊柳」(ようりゅう)は春に芽吹く木、都を思い出す木です。砂漠地帯の「玉門関」に楊柳は生えておらず、春の陽ざしも届きません。そんな西の果てで「楊柳」の曲を吹いても、ただ悲しいだけじゃないかと知的に凝った抒情で結びます。

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     盛唐31ー王昌齢
         閨怨                閨怨

      閨中少婦不知愁   閨中(けいちゅう)の少婦(しょうふ)  愁(うれ)いを知らず
      春日凝粧上翠楼   春日(しゅんじつ)   粧(よそお)いを凝(こ)らして翠楼(すいろう)に上る
      忽見陌頭楊柳色   忽ち陌頭(はくとう)  楊柳(ようりゅう)の色を見て
      悔教夫婿覓封侯   悔(く)ゆらくは夫婿(ふせい)をして封侯(ほうこう)を覓(もと)め教(し)めしを

      ⊂訳⊃
              閨の若妻は   この世の悲しみを知らない

              春の日に    化粧を凝らして翠楼に上る

              すると路傍で  風に揺れている楊柳が目に止まり

              出世のために  戦に出した夫を後悔する


     ⊂ものがたり⊃ 王昌齢(おうしょうれい:698ー757?)は京兆長安(陝西省西安市)の人。また江寧(江蘇省南京市)の人ともいいます。開元十五年(727)、盛唐の真っ盛りに三十歳で進士に及第します。
     掲げる詩の詩題は「閨怨」(けいえん)とありますが、いわゆる閨怨詩とは異なる社会性があります。「閨中」は女性の部屋。「翠楼」は青く塗った楼で、貴門の邸でしょう。春の日に化粧をして屈託もなく二階に上ると、風に揺れる路傍の柳が見えました。そこで初めて、出世のために戦場に出した夫のことが心配になると女心を詠います。

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     盛唐32ー王昌齢
        西宮春怨              西宮春怨

      西宮夜静百花香   西宮(せいきゅう)  夜静かにして百花(ひゃくか)香(かんば)し
      欲捲珠簾春恨長   珠簾(しゅれん)を捲(ま)かんと欲して春恨(しゅんこん)長し
      斜抱雲和深見月   斜めに雲和(うんか)を抱(いだ)いて  深く月を見れば
      朦朧樹色隠昭陽   朦朧(もうろう)たる樹色  昭陽(しょうよう)を隠す

      ⊂訳⊃
              長信宮の夜は静かで 花々の香りがただよう

              簾を捲こうとするが   春の歎きは深くて重い

              琵琶を斜めに抱えて  遠くの月を眺めると

              朧にみえる樹々の影  昭陽殿は見る由もない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「西宮」は漢の長信宮の別名で、成帝の寵妃であった班嫜?(はんしょうよ)が住んでいました。詩の前半では帝の寵愛を趙飛燕(ちょうひえん)・趙昭儀(ちょうしょうぎ)姉妹に奪われた班嫜?の歎きを詠います。
     後半の「雲和」は山の名で、その山の木で作った琵琶は名器とされていました。気を紛らそうとして琵琶を抱えてみますが、気になるのは未央宮の「昭陽」殿です。そこには趙姉妹が住んでいて、今夜も成帝のお成りがあると思われます。しかし、樹々に隠れて宮殿を見ることはできません。 

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     盛唐33ー王昌齢
        西宮秋怨              西宮秋怨

      芙蓉不及美人粧   芙蓉(ふよう)も及ばず  美人の粧(よそお)い
      水殿風来珠翠香   水殿(すいでん)   風来たって珠翠(しゅすい)香(かんば)し
      却恨含情掩秋扇   却(かえ)って恨む 情を含んで秋扇(しゅうせん)を掩(おお)い
      空懸明月待君王   空(むな)しく明月を懸けて君王(くんのう)を待ちしを

      ⊂訳⊃
              化粧した美人の姿に  蓮の花は及ばない

              庭の池から風が吹き  珠翠の簪が匂い立つ

              秋の扇はしまい込み  思いを胸に秘めながら

              月の光に照らされて  無駄に待つ身が恨めしい


     ⊂ものがたり⊃ 昨日の詩が春の歌であるのに対して秋の歌です。前半は長信宮の班婕?を描きます。「水殿」は水辺の御殿、「珠翠」は真珠と翡翠で飾った簪のことです。後半の「秋扇」は秋になると不用になる扇のことで、帝の寵愛を失ってみずから身を引いたけれども、慕う心は断ち切れないと詠います。

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     盛唐34ー王昌齢
        青楼曲               青楼曲

      白馬金鞍従武皇   白馬(はくば)金鞍(きんあん)   武皇(ぶこう)に従い
      旌旗十万宿長楊   旌旗(せいき)十万  長楊(ちょうよう)に宿る
      楼頭少婦鳴筝坐   楼頭(ろうとう)の少婦(しょうふ)  筝(そう)を鳴らして坐す
      遥見飛塵入建章   遥かに見る  塵(ちり)を飛ばして建章(けんしょう)に入るを

      ⊂訳⊃
              白馬に黄金の鞍  武帝に従う十万の兵は

              軍旗をつらねて  長楊宮に宿泊する

              妓楼の遊女達は  笛を吹きつつ遥かに眺める

              馴染みの若者が  塵を蹴立てて建章宮に入るのを


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「青楼」(せいろう)は遊女のいる妓楼のことです。「武皇」は漢の武帝のことで、漢を借りる詩です。「長楊」は漢の離宮で、現在の陝西省周至県の東南にありました。「楼頭の少婦」は妓楼の遊女のこと。「建章」は長安の西郊にあった武帝の宮殿ですので、前半と後半では場所を異にしています。
     前半は皇帝の軍隊の華やかな行軍を詠い、後半は行軍から帰ってきた兵士を待っている妓女たちを詠います。閨怨詩ではなく、長安の遊女を詠う詩です。

          ※ 都合により明日10日と11日は休みます。

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     盛唐35ー王昌齢
       出塞二首 其一          出塞二首 其の一

      秦時明月漢時関   秦時(しんじ)の明月  漢時(かんじ)の関(かん)
      万里長征人未還   万里(ばんり)長征して  人  未(いま)だ還(かえ)らず
      但使龍城飛将在   但(た)だ龍城の飛将(ひしょう)をして在ら使(し)めば
      不教胡馬度陰山   胡馬(こば)をして  陰山(いんざん)を度(わた)ら教(し)めじ

      ⊂訳⊃
              秦の明月  漢の城塞  変わることなく戦はつづき

              万里の地に遠征して  人は故郷に帰れない

              だが  龍城の飛将軍  李広のような人がいるならば

              胡族の騎馬に陰山を  越えさせたりはしないであろう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「出塞」(しゅっさい)は楽府題で、出征兵士の気持ちを詠います。まず秦漢時代から変わらないものを挙げて、戦がつづいていることを示唆するのでしょう。後半は時代に対する批判で、優秀な将軍がいないことを嘆きます。
     「龍城」は匈奴の地名、「飛将」は前漢の名将李広(りこう)をさします。李広は武帝時代に匈奴の討伐に活躍し、飛将軍と称されて匈奴から恐れられました。

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     盛唐36ー王昌齢
       出塞二首 其二          出塞二首 其の二

      白草原頭望京師   白草(はくそう)  原頭(げんとう) 京師(けいし)を望む
      黄河水流無尽時   黄河(こうが)    水流れて尽(つ)くる時無し
      秋天曠野行人絶   秋天(しゅうてん) 曠野(こうや)  行人(こうじん)絶え
      馬首東来知是誰   馬首(ばしゅ)    東へ来たる   知んぬ是(こ)れ誰(た)ぞや

      ⊂訳⊃
              白草の草原に立ち  都のかたを望めば

              黄河の水は流れて  果てしない

              澄みわたる秋の空  曠野に旅する人も絶え

              東へと向かう騎馬  あれはいったい誰だろう


     ⊂ものがたり⊃ 「白草」は砂漠に生える草。草の生い茂る野原に立って、都のある東の方角を眺めています。果てしない黄河の流れと秋の空、人影もない草原に東へ向かう一頭の騎馬が見えました。あれは誰だろうと目を見張るのですが、想像の詩です。

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     盛唐37ー王昌齢
       従軍行七首 其一       従軍行 七首 其の一

      烽火城西百尺楼   烽火(ほうか)   城西(じょうせい)  百尺(ひゃくせき)の楼
      黄昏独上海風秋   黄昏(こうこん)  独り上る  海風(かいふう)の秋
      更吹羌笛関山月   更に羌笛(きょうてき)を吹く  関山月(かんざんげつ)
      無那金閨万里愁   那(いかん)ともする無し  金閨(きんけい)  万里(ばんり)の愁い

      ⊂訳⊃
              烽火台の西に  百尺の楼がある

              日暮に上れば  湖から吹く秋の風

              誰が吹くのか  羌笛の調べは関山月

              万里のかなた  妻を想えばどうしようもない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「従軍行」(じゅうぐんこう)は楽府題です。「烽火城」を城の名とする説もありますが、城のように大きな烽火台と考えました。「海風」、砂漠を海という場合もありますが、ここでは次回の「其の二」の詩によって青海湖から吹く風でしょう。「関山月」は出征の悲しみを詠う歌曲の名です。「金閨」は女性の寝室の美称で、ここでは家に残した妻のことです。

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     盛唐38ー王昌齢
       従軍行七首 其二       従軍行 七首 其の二

      青海長雲暗雪山   青海(せいかい)の長雲(ちょううん)  雪山(せつざん)暗し
      孤城遥望玉門関   孤城(こじょう)  遥かに望む  玉門関(ぎょくもんかん)
      黄砂百戦穿金甲   黄砂(こうさ)   百戦  金甲(きんこう)を穿(うが)つも
      不破楼蘭終不還   楼蘭(ろうらん)を破らずんば  終(つい)に還(かえ)らず

      ⊂訳⊃
              青海湖上に長い雲  雪山はほの暗い

              孤城に立って     遥かに望む玉門関

              砂漠に百戦し     鎧にも穴が開いたが

              楼蘭を破らずんば  死すとも還らず


     ⊂ものがたり⊃ 「青海」はココノール(青海省西寧市の西)、「雪山」は祺連山(きれんざん)とみられます。青海湖付近からすると「玉門関」(甘粛省敦煌市の西北)は西北の方角にあり、「楼蘭」(新疆ウイグル自治区ミーラーンの北)はさらにその西にあります。
     漢の武帝のつぎ昭帝のときに、傅介子(ふかいし)が楼蘭王を暗殺した話は有名です。楼蘭のあとに興った鄯善国(ぜんぜんこく)も後漢の班超(はんちょう)によって服属させられますので、ここでの「楼蘭」は西域の異国と言った意味で使われていることになります。
     いずれにしろ、王昌齢の経歴に西域勤務の事実は認められませんので、その辺塞詩はすべて想像の作品とみられます。

          〇 「ものがたり」中の「祺」は外字になるので同音の字に変えてあります。
            本来の字は旁の「其」が「阝」です。


          ※ 明日からは毎週、木曜・金曜を休みとします。

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     盛唐39ー王昌齢
       芙蓉楼送辛漸         芙蓉楼にて辛漸を送る

      寒雨連江夜入呉   寒雨(かんう)   江(こう)に連って  夜  呉(ご)に入る
      平明送客楚山孤   平明(へいめい) 客を送れば  楚山(そざん)  孤(こ)なり
      洛陽親友如相問   洛陽(らくよう)の親友   如(も)し相問(あいと)わば
      一片冰心在玉壺   一片の冰心(ひょうしん)  玉壺(ぎょくこ)に在りと

      ⊂訳⊃
              冷たい雨が夜半には  江から呉へと降ってきた

              明け方君を見送ると  楚山がぽつんと見えている

              洛陽の友が尋ねたら  心があると伝えてくれ

              氷のような清らかさ   玉壺のうちに満ちていると


     ⊂ものがたり⊃ 王昌齢は七言絶句にすぐれ、閨怨詩・辺塞詩・離別詩など広い分野に作品を残しています。しかし、官歴はよく分かっていません。流入(官職に就くこと)して校書郎になりますが、罪を得て嶺南に流されます。赦されて都にもどりますが、争いがもとでまた江寧(江蘇省南京市)の県丞(県令とする説もある)に出されました。
     詩題の「芙蓉楼」(ふようろう)は閏州(江蘇省鎮江市)にあった城楼で、北に長江を見おろす景勝地でした。「辛漸」(しんぜん)は友人と思われますが、伝は不明です。王昌齢が江寧に左遷されていたとき、都へ帰る辛漸を閏州まで見送ったときの作品でしょう。
     起句「寒雨 江に連って 夜 呉に入る」については諸説がありますが、ここでは日暮れに江上で降っていた冬の雨が夜になって「呉」(閏州の方)に降って来たと解します。「楚山」は長江対岸の山、江南で孤独に暮らしている自分を楚山に喩えるのでしょう。
     後半、伝言を述べますが、詩そのものが伝言です。結句の「一片」は広がっていること、「冰心」は氷のように清らかな心を意味し、南朝宋の詩人鮑照(ほうしょう)の詩句に「清きこと玉壺の氷の如し」とあるのを踏まえています。   

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     盛唐40ー王昌齢
        重別李評事           重ねて李評事に別る

      莫道秋江離別難   道(い)う莫(な)かれ 秋江(しゅうこう)  離別難(かた)しと
      舟船明日是長安   舟船(しゅうせん)   明日(みょうにち) 是(こ)れ長安
      呉姫緩舞留君酔   呉姫(ごき)緩舞(かんぶ)して君を留(とど)めて酔わしむ
      随意青楓白露寒   随意(ずいい)なり  青楓(せいふう)白露(はくろ)の寒(かん)

      ⊂訳⊃
              秋の川辺の   別れは辛いといわないでくれ

              明日には船は  長安に着くだろう

              呉姫の舞いで  君を引き止め酔わせよう

              楓の青葉の白い露  寒さなどは気にしない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「李評事」(りひょうじ)は不明ですが、評事は大理事(刑罰の役所)の属官です。「重ねて」とあるのは、長安に帰る李評事を見送った先で二度目の送別会を開いたのです。
     王昌齢が江寧に在勤していたときの作とされ、承句の「舟船 明日 是れ長安」は座を引き立てるために、すぐに長安に着くと詠ったものです。「呉姫」は呉の舞姫のことで、宴会には妓女が侍っていました。「楓」は江南に多い木で、日本のカエデとは違う落葉高木です。

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     盛唐41ー王昌齢
       送薛大赴安陸          薛大の安陸に赴くを送る

      津頭雲雨暗湘山   津頭(しんとう)の雲雨(うんう)   湘山(しょうざん)暗し
      遷客離憂楚地顔   遷客(せんきゃく)  憂(うれ)いに離(かか)る  楚地の顔(かんばせ)
      遥送扁舟安陸郡   遥かに扁舟(へんしゅう)を送る  安陸郡(あんりくぐん)
      天返何処穆陵関   天返(てんぺん)  何(いず)れの処か穆陵関(ぼくりょうかん)ならん

      ⊂訳⊃
              舟つき場の雲と雨  湘山はほの暗い

              左遷の身は憂いに罹り  屈原のような顔色だ

              遥かなる安陸郡よ  わたしは小舟を見送る

              空の彼方の穆陵関  どの辺りにあるのだろうか


     ⊂ものがたり⊃ 王昌齢の離別詩のなかに岳陽(湖南省岳陽市)や武陵(湖南省常徳市)で作られたものがありますので、岳陽や武陵のあたりに流されていたとする説もあります。また、李白の詩によって晩年に龍標(湖南省黔陽県)の県尉に貶されたことが分かっていますので、その途中、岳陽や武陵にとどまったことがあるとも解されています。
     詩題の「薛大」(せつだい)は不明です。薛大という人物が「安陸」(湖北省安陸県)に赴くのを見送る詩です。起句の「湘山」は洞庭湖中の島、君山(くんざん)のことですので、「津頭」は岳陽(湖南省岳陽市)の渡津(としん)でしょう。
     「遷客」は左遷中の旅人であり、作者自身です。「楚地の顔」は楚辞「漁夫」の句を踏まえており、屈原の憔悴した顔を意味します。「安陸郡」と「穆陵関」は岳陽の北にあり、都にもどる道筋にあたります。薛大は安陸を通って長安に帰るのかも知れず、詩にはそれを見送る悲しみがあります。

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     盛唐42ー王昌齢
        送別魏二              魏二を送別す

      酔別江楼橘柚香    酔うて江楼(こうろう)に別れんとすれば  橘柚(きつゆう)香る
      江風引雨入舟涼    江風(こうふう)雨を引き  舟に入って涼し
      憶君遥在湘山月    君を憶(おも)うて   遥かに湘山(しょうざん)の月に在り
      愁聴清猿夢裏長    愁(うれ)えて聴かん  清猿(せいえん)の夢裏(むり)に長きを

      ⊂訳⊃
              川辺の楼で別れ酒   酔えば蜜柑の花が香る

              川風が雨を呼び    舟も涼しくなってきた

              湘山の月に照らされ  遥かに君を想うだろう

              猿の清らかな長嘯を  愁えつつ夢うつつに聴くだろう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「魏二」(ぎじ)は不詳。魏という名の友人でしょう。起句の「江楼」は転句に「湘山」とあるので、岳陽のあたり、長江に臨む楼でしょう。「橘柚」は蜜柑の類で夏に花が咲きます。承句に「江風雨を引き 舟に入って涼し」とあるので、江楼で宴のあと舟で湖上に出たのでしょう。
     「憶君」を「君を憶う」と読むか、「憶う君は」と読むかによって、湘山の月下にいる者が違ってきます。ここでは「君を憶う」と解しました。つまり「魏二」が旅立ったあと作者が残って、「君を憶う」と未来を想像して詠うのです。江南の夜に鳴く手長猿の声は、哀切であることで有名です。  

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     盛唐43ー王昌齢
        盧渓別人             盧渓にて人に別る

      武陵渓口駐扁舟   武陵(ぶりょう)の渓口(けいこう)  扁舟(へんしゅう)を駐(とど)むれば
      渓水随君向北流   渓水(けいすい)  君に随(したが)い  北に向かって流る
      行到荊門上三峡   行(ゆ)いて荊門(けいもん)に到り   三峡を上らば
      莫将孤月対猿愁   孤月を将(もっ)て猿愁(えんしゅう)に対せしむること莫(な)かれ

      ⊂訳⊃
              武陵渓の出口で  小舟を停めると

              川の水は   君といっしょに北へ流れる

              やがて荊門  三峡を上れば空に月

              猿の鳴き声  同時に見聞きするのは避けたがよい


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「盧渓」(ろけい)は、「武陵」(湖北省常徳県)のあたりを流れる川。起句の「武陵渓口」は谷川が武陵のあたりで平野にでる出口をいうと見られ、そこに小舟を停めて見送ったときの詩でしょう。
     見送られる人(不明)は沅江(げんこう)を経て洞庭湖に入り、長江を西北に遡って「荊門」(湖北省宜都県の西北)に至ります。そこから「三峡」(長江の難所)に向かうことが詩から窺えます。三峡の「孤月」と「猿愁」を同時に見聞きするようなことは避けたがよい、愁いが多過ぎると同情の言葉を送って送別の辞とします。
     安禄山の乱が起こったとき無断で故郷に帰ったことから、王昌齢は刺史の閭丘暁(りょきゅうぎょう)と争いになり、殺されたと伝えられています。享年は六十歳くらいでした。

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     盛唐44ー常建
       塞下曲四首 其二        塞下の曲 四首 其の二

      北海陰風動地来   北海(ほっかい)の陰風(いんぷう)  地を動(ゆる)がして来たる
      明君祠上望龍堆   明君(めいくん)の祠上(しじょう)   龍堆(りゅうたい)を望む
      髑髏尽是長城卒   髑髏(どくろ)  尽(ことごと)く是(こ)れ長城の卒(そつ)
      日暮沙場飛作灰   日暮(にちぼ)  沙場(さじょう)  飛んで灰と作(な)る

      ⊂訳⊃
              湖上からの北風が  大地を揺るがして吹いてくる

              王昭君の祠の辺で  龍堆の砂漠を見わたしている

              散乱する頭蓋骨は  尽く長城守備の兵士たち

              砂漠に夕闇が迫り  骨は飛び散って灰となる


     ⊂ものがたり⊃ 常建(生没年不詳)は長安(陝西省西安市)の人といいますが、詳細は不明です。開元年間二十九年のうち、開元十五年(727)は中間の年に当たりますが、この年に王昌齢、常建という二人の詩人が進士に及第しています。ふたりは対称的な人生を送ることになります。
     常建も若いころは王昌齢と同じように辺塞詩を作り、宴会の席などで披露していました。詩題の「塞下」(さいか)は砦の下。起句の「北海の陰風」は北の砂漠から吹く陰鬱な風とも解せますが、承句に「龍堆」(白龍堆)とあり、ロブノール(新疆ウイグル自治区東部にある湖)の東に広がる砂漠を差します。したがって、ロブノールの湖上を渡って吹いて来る北風と解することができます。
     「明君」は漢の元帝時代に匈奴の単于に嫁がせられた王昭君のことですが、その祠と称する地は数か所にあり、唐代は漠然としていたと思われます。龍堆を西に望むあたりは漢の長城の東端でした。そこを捉えて西域守備の陰惨な結末を詠うのです。ただし、常建が西域に従軍したとは考えられませんので、多くの辺塞詩と同様、想像の詩です。
     
      

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     盛唐45ー常建
       三日尋李九荘          三日 李九の荘を尋ぬ

      雨歇楊林東渡頭   雨は歇(や)む  楊林(ようりん)  東渡(とうと)の頭(ほとり)
      永和三日盪軽舟   永和三日(えいわさんじつ)  軽舟を盪(うご)かす
      故人家在桃花岸   故人(こじん)  家は桃花(とうか)の岸に在り
      直到門前渓水流   直ちに到らん  門前  渓水(けいすい)の流れに

      ⊂訳⊃
              雨は止み  東の渡し場のほとりに楊柳の林

              三月三日  永和のような麗らかな日に舟を出す

              友の家は  桃の花咲く岸辺にあり

              谷川の流れに沿って  門前に直接着こう


     ⊂ものがたり⊃ 常建ははじめ盱胎(くい:江蘇省盱胎県付近)の県尉になりますが、仕事に興味が持てなかったようです。次第に風雅を愛するようになり、詩は開元前半の軽く華やいだものから、静かで奥深いものに変化していきます。
     詩題の「三日」は三月三日、上巳の節句の日。その日に「李九」(経歴不明)の別荘を訪ねたときの舟上での作でしょう。はじめの二句で状況を述べます。「永和」は東晋の永和九年(353)上巳の日に、書家の王羲之(おうぎし)たちが会稽(浙江省紹興市)の蘭亭で宴を催し、有名な「蘭亭序」を書きました。その故事を踏まえるとともに、日が長く穏やかという「永和」の意味をかけたものでしょう。
     後半は「李九」の別荘が桃の花咲く岸辺にあり、流れに面して門があることを詠います。舟で直接に乗りつけられる風雅を褒めるのです。

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     盛唐46ー常建
       題破山寺後禅院     破山寺の後の禅院に題す

      清晨入古寺     清晨(せいしん)  古寺に入れば
      初日照高林     初日(しょじつ)  高林(こうりん)を照らす
      曲径通幽処     曲径(きょくけい) 幽処(ゆうしょ)に通じ
      禅房花木深     禅房(ぜんぼう)  花木(かぼく)深し
      山光悦鳥性     山光(さんこう)は鳥の性(さが)を悦(よろこ)ばしめ
      潭影空人心     潭影(たんえい)は人の心を空(むな)しうす
      万籟此都寂     万籟(ばんらい)  此(ここ)に都(すべ)て寂(せき)として
      但余鐘馨音     但(た)だ鐘馨(しょうけい)の音を余(あま)すのみ

      ⊂訳⊃
              清らかな朝  古びた寺に入ると
              朝の光が   樹々の梢を照らしている
              ほそ径は   曲がりながら奥に通じ
              禅房の辺り  花咲く木々が生い茂る
              山の輝きは  飛びまわる鳥を悦ばせ
              澄んだ淵は  人の心を洗い清める
              音はすべて  ひっそりと謐まりかえり
              遠く微かに  鐘馨の音が聞こえるだけ


     ⊂ものがたり⊃ やがて常建は隠者の生活に憬れるようになり、名山を歩きまわります。晩年は鄂渚(がくしょ:湖北省武漢市の西郊)に隠棲して、自由な生活を送ったと伝えられています。
     詩題の「破山寺」(はざんじ)は破山(江蘇省常熟県)にあった興福寺のことで、寺を訪ねたとき、寺の奥の禅院の壁に書きつけた詩です。「山光」は朝日を浴びた明るい山、「潭影」は淵の水が湛えている光、「万籟」はすべての物音です。「鐘馨」は鐘と馨(石板で作った打楽器の一種)のことで、共に寺で用いるものです。
     盛唐の世にあって不遇な常建でしたが、この詩には王維の晩年の詩に通じる禅詩の風格があります。宋代の詩人に愛唱され、のちに石碑に刻まれて破山に建てられたと伝えられます。

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     盛唐47ー常建
        送宇文六             宇文六を送る

      花映垂楊漢水清   花は垂楊(すいよう)に映じて漢水(かんすい)清く
      微風林裏一枝軽   微風(びふう)   林裏(りんり)  一枝(いっし)軽(かろ)し
      即今江北還如此   即今(そっこん) 江北  還(また)た此(かく)の如し
      愁殺江南離別情   愁殺(しゅうさつ)す  江南  離別(りべつ)の情(じょう)

      ⊂訳⊃
              花はしだれ柳に垂れて  漢水の流れは清く

              そよ風が吹けば  林の枝は微かに揺れる

              君のゆく江北は  いまごろこんな春景色

              江南では別れを惜しみ  深い愁いに沈むのだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「宇文六」(うぶんろく)は不詳です。常建が鄂渚(湖北省武漢市の西郊)にいたころ、北へ旅立つ宇文氏を「漢水」の岸辺まで見送ったときの詩でしょう。二句目の「一枝軽し」は陸凱(りくがい)の有名句(平成25年10月14日のブログ参照)を踏まえているとみられます。結句は江南に残る常建が自分の思いを述べて送別の辞とするのです。

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     盛唐48ー孟浩然
       送朱大入秦        朱大の秦に入るを送る

      遊人五陵去     遊人(ゆうじん)  五陵(ごりょう)へと去(ゆ)く
      宝剣直千金     宝剣(ほうけん)  直(あたい)千金
      分手脱相贈     手を分かつに  脱して相贈(あいおく)る
      平生一片心     平生(へいぜい)  一片(いっぺん)の心

      ⊂訳⊃
              君はこれから  栄華の都へと旅立つ

              この剣は    ちょっとした値打ちものだが

              別れに望んで  餞別としよう

              いつもの俺の  ほんの心のしるしだよ


     ⊂ものがたり⊃ 孟浩然(もうこうねん:689ー740)は襄州襄陽(湖北省襄樊市)の人。開元元年(713)に二十五歳になっていますので、崔国輔や王之渙と同年齢です。王昌齢よりは十歳ほど年長になります。若いころから科挙を目指しますが及第できず、諸方を遊歴したあと郷里の鹿門山(ろくもんざん)に隠棲します。
     詩題の「朱大」(しゅだい)は朱去非(しゅきょひ)という人物という説がありますが不詳です。「入秦」とあるのは唐を秦と言い換えたもので、長安へ行く朱氏を見送る詩です。「五陵」は渭水北岸の漢の陵邑で、貴顕の屋敷が多かったことから栄華の都という語感があります。「一片心」は自分の心使いを謙遜していう語です。
     詩は盛唐のはじめころの五言絶句の風合いを色濃く残しており、若いころの作品でしょう。

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