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tiandaoの自由訳漢詩

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     初唐35ー沈佺期
       遥同杜員外          遥かに杜員外審言の
       審言過嶺            「嶺を過る」に同ず

      天長地闊嶺頭分   天は長く地は闊(ひろ)くして嶺頭(れいとう)分かれ
      去国離家見白雲   国を去り家を離れて白雲(はくうん)を見る
      洛浦風光何所似   洛浦(らくほ)の風光   何(いず)くにか似たる所ぞ
      崇山瘴癘不堪聞   崇山(すうざん) 瘴癘(しょうれい) 聞くに堪(た)えず
      南浮漲海人何処   南のかた漲海(ちょうかい)に浮かんで人は何処(いずく)ぞ
      北望衡陽雁幾群   北のかた衡陽(こうよう)を望めば雁幾群(かりいくぐん)
      両地江山万余里   両地(りょうち)の江山  万余里
      何時重謁聖明君   何(いず)れの時か重ねて聖明(せいめい)の君に謁(えつ)せん

      ⊂訳⊃
              天は遠く地は広がって   峰は並び立つ
              国を立ち去り家を離れ  白雲を仰ぐ
              洛水の岸辺のような    美しい景色は何処にもなく
              崇山の毒気のはなしは  聞くに堪えない
              南に漲海を渡った人は  いまどこにいるのか
              北に衡陽の空を望めば  幾つもの帰雁の群れ
              都は山川に隔てられ   万里のかなた
              再び天子に謁する日は  来るのだろうか


     ⊂ものがたり⊃ 「文章の四友」と同時代に宮廷に仕え、後世「沈宋」と並称される沈佺期(しんせんき)と宋之問(そうしもん)も張兄弟の宮殿に出入りしていましたので、神龍元年の政変に連座して嶺南(広州方面)に流されます。
     沈佺期(?ー714?)は相州内黄(河南省内黄県)の人。高宗の上元二年(675)に二十歳くらいで進士に及第し、武后の長安年間(701ー704)には通事舎人になっていました。考功員外郎のとき神龍元年の政変に遇い、驩州(ベトナム・ハノイ付近)に流されます。
     詩は沈佺期が配地に赴く途中、宿舎の壁に書きつけてある杜審言の「嶺を過(よぎ)る」という詩を見て唱和したものです。杜審言は流される前、膳部員外郎であったので「杜員外」(といんがい)と呼びます。
     中四句を前後の二句で囲む形式で、二句尾の「白雲を見る」には流れる雲のように頼りない旅の身という思いが込められているでしょう。「洛浦」は洛水の岸辺で、都の風景とは異なるあたりの風景を眺め、驩州に向かう途中にある「崇山」が「瘴癘」(高温多湿の不健康な風土)の地であることを思います。
     「漲海」は南海のことで、ベトナムに行くには広州から舟で渡りました。「人」は杜審言を指すと見られます。「衡陽」(湖南省衡陽市)の北に衡山があり、その一峰を回雁峰といいました。北から渡ってきた雁は、この山から北へもどると考えられていましたので、北をかえりみて望郷の思いを詠うのです。

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     初唐36ー宋之問
       至端州駅 見杜五        端州駅に至り 杜五審言
       審言沈三佺期閻五       沈三佺期 閻五朝隠 王
       朝隠王二無競題壁       二無競の壁に題するを見
       慨然成詠             慨然として詠を成す

      逐臣北地承厳譴   逐臣(ちくしん)  北地(ほくち)に厳譴(げんけん)を承(う)く
      謂到南中毎相見   謂(おも)えらく  南中(なんちゅう)に到って毎(つね)に相見んと
      豈意南中岐路多   豈(あ)に意(おも)わんや  南中  岐路(きろ)多くして
      千山万水分郷県   千山万水  郷県(ごうけん)を分かたんとは
      雲揺雨散各翻飛   雲揺らぎ  雨散じて各々(おのおの)翻飛(ほんぴ)し
      海闊天長音信稀   海闊(ひろ)く  天長くして音信(おんしん)稀なり
      処処山川同瘴癘   処処の山川  同じく瘴癘(しょうれい)
      自憐能得幾人帰   自ら憐れむ  能(よ)く幾人(いくにん)か帰るを得んと

      ⊂訳⊃
              追放の臣下  北の都で厳しい裁きを受ける
              南へ行けば  いつも会えると思っていた
              ところが    南方は分かれ道が多く
              幾山川が   村や町を隔てている
              雲が流れ   雨が降るように吹き飛ばされ
              湖水は広く  空は果てしなく便りも稀だ
              どの山川も  毒気が立ちこめ
              いったい幾人が  無事に都へ帰れるだろうか


     ⊂ものがたり⊃ 宋之問(656?ー712)は汾州(山西省汾陽県)の人。また、虢州(河南省霊宝県)の人とも言います。高宗の上元二年(675)、二十歳のころに進士に及第、武后に認められて尚方監丞になります。張兄弟に親しんでいたため神龍元年の政変に遇い、瀧州参軍に流されますが、貶地の苦しみに堪えきれず、逃げ帰って洛陽の知人の家に隠れていたといいます。
     詩題中の「端州」(広東省高要県)は広州市の西にあり、配地の瀧州(広東省羅定県)に赴く途中、宿舎の壁に杜審言・沈佺期・閻朝隠・王無競の詩が書きつけてあるのを見て、この詩を吟じました。
     七言八句の詩ですが換韻によって前後の四句ずつの分けられ、七言古詩になります。「逐臣」は都を追放された臣下、「北地」は北の地ですが暗に都を指します。宋之問は嶺南の田舎のことなど思ったこともなかったらしく、「千山万水」が村や町を隔てていると驚いています。
     後半のはじめ二句は、広大な嶺南の地に友人たちが散り散りばらばらになっていることを、雲や雨に喩えます。終わり二句では嶺南の地が「瘴癘」(マラリア)の気に満ちていることを述べ、生きて帰れるだろうかと心配するのです。

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     初唐37ー李嶠
       長寧公主東荘        長寧公主の東荘にて
       侍宴応制           宴に侍す 応制

      別業臨青甸     別業(べつぎょう)  青甸(せいでん)に臨み
      鳴鑾降紫霄     鳴鑾(めいらん)   紫霄(ししょう)より降(くだ)る
      長筵鵷鷺集     長筵(ちょうえん)  鵷鷺(えんろ)集(つど)い
      仙管鳳皇調     仙管(せんかん)   鳳皇(ほうおう)調(しら)ぶ
      樹接南山近     樹(き)は南山に接して近く
      煙含北渚遥     煙は北渚(ほくしょ)を含みて遥かなり
      承恩咸已酔     恩を承(う)けて咸(みな)已(すで)に酔うも
      恋賞未還鑣     恋賞(れんしょう)  未(いま)だ鑣(くつわ)を還(さず)さず

      ⊂訳⊃
              公主の別荘は  都城の東にあり
              鈴を鳴らして   宮中の奥から降りてくる
              盛大な宴に   百官がいならび
              鳳凰が      仙界の笛を奏でる
              庭の木は     終南山に触れるほど近く
              たなびく霞が   北の渚を遠くにあるように見せる
              君恩を受けて  列坐の者は充分に酔ったが
              風物を愛でて  帰ろうとする者はいない


     ⊂ものがたり⊃ 復位した中宗の治世は神龍が二年、景龍が四年、あわせて六年に過ぎません。ところで武后は中宗に譲位したので、高宗の皇后の地位を認められ、武后亡きあとも武氏一族の勢威は保たれました。
     加えて中宗の皇女安楽公主は武崇訓(ぶすうくん)に降嫁しており、一方、武后所生の太平公主は母親似の権力好きでした。この二人に加えて、中宗の皇后韋氏も政事に口ばしを挟むようになり、中宗のまわりは女性が権力を争う場に化していました。中宗はそうした女性たちの驕奢を止めるどころか、自分もいっしょになって享楽に耽り、遊宴に明け暮れる毎日でした。
     神龍元年の政変に連座して貶謫された詩人たちは、ほどなく赦されて都に復帰しますが、まず崔融が亡くなり、杜審言も景龍二年(708)に亡くなりますので、中宗朝で活躍するのは李嶠、沈佺期、宋之問です。
     中宗は景龍のころまでに皇居を長安に移していましたので、中宗の遊宴の地は長安とその近郊でした。詩人たちは天子の宴遊につき従い、競って詩を賦して宴席に華を添えました。なかでも高官になった李嶠(りきょう)は宮廷詩人の冠首でした。
     詩題の「長寧公主」(ちょうねいこうしゅ)は中宗の皇女で、母親は韋后です。長寧公主は洛陽と長安に豪華な邸宅を構え、「東荘」は長安の東郊にある別荘のことでしょう。中宗と韋后が別荘を訪れたときの宴会の席で、中宗の求めに応じて作ったのがこの詩です。「応制」というのは天子の命を受けて作った詩を意味します。
     「別業」は別荘のことで、東荘のことです。「青甸」の甸は王城をかこむ地域のこと、青は東を示す色ですので、東荘が長安城の東郊にあることの雅称になります。「鳴鑾」は車につける鈴。「紫霄」は紫の雲、瑞祥であるところから皇居をさします。つまり高貴な人々が鈴を鳴らしながら宮中からやってくると導入します。
     中四句では宴の盛大なことと庭の広いことを褒めます。「長筵」は宴席のことですが、盛大な宴という意味が被せられています。「鵷鷺」は鳳凰と鷺のことで、整然と列をつくって飛ぶことから居並ぶ百官に喩えられます。「仙管」は仙人の吹く笛のことで、それを霊鳥の「鳳皇」(鳳凰)が吹いています。
     つぎは庭に目を移します。「南山」は長安の南に聳える終南山のことで遠くにある山ですが、庭の樹が触れるほど近くに見えると詠います。「煙」は霞のことで、「北渚」(北の汀)は庭にある池の北岸のことですが、近くにある北渚が霞に包まれて遠くに見えると詠います。遠近を交差させて庭が大きくて素晴らしいことを褒めるのです。
     結びの「恩を承けて」は宴会に招かれてという意味と天子の恩顧を受けての両方を含んでおり、列坐の者は別荘の美しさと君恩のあり難さに皆酔ってしまったが、帰ろうとするものはひとりもいないと、宴席の心地よさを寿ぐのです。

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     初唐38ー沈佺期
         古意               古意

      盧家少婦鬱金堂   盧家(ろか)の少婦(しょうふ)   鬱金堂(うっこんどう)
      海燕双棲玳瑁梁   海燕(かいえん)双(なら)び棲む 玳瑁(たいまい)の梁(はり)
      九月寒砧催木葉   九月  寒砧(かんちん)  木葉(ぼくよう)を催(もよお)し
      十年征戍憶遼陽   十年  征戍(せいじゅ)  遼陽(りょうよう)を憶(おも)う
      白狼河北音書断   白狼(はくろう)河北  音書(いんしょ)断たれ
      丹鳳城南秋夜長   丹鳳(たんぽう)城南  秋夜(しゅうや)長し
      誰為含愁独不見   誰か為(おも)わん   愁(うれ)いを含んで独り見ず
      更教明月照流黄   更に明月をして流黄(りゅうこう)を照さ教(し)めんとは

      ⊂訳⊃
              盧家の若妻は  鬱金香の薫る部屋
              つがいの燕は  鼈甲飾りの梁の上
              九月は砧の音  落ち葉を促して寒々と鳴り
              遼陽の戦から  もどって来ない夫を思う
              白狼河の北   便りも来なくなり
              長安城内に   秋の夜は長い
              思いもしなかった  月の明るい帳のなかで
              夫にも会えず  ひとり愁いに沈むとは


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「古意」(こい)は伝統的な内容の詩であることを言う語で、古い内容を新しい形式で表現したという意図を示しています。二組の対句からなる中四句を前後の二句で囲む形式で、七言律詩が整斉された初期の代表的作例として学問的に注目されています。
     内容は閨怨詩に属しますが、語句は宮廷詩にふさわしく極めて装飾的です。まずはじめの二句で主人公と場を設定します。「鬱金」は西域伝来の香草で、貴人の邸宅の壁に塗りこめる習慣がありました。「玳瑁」は鼈甲のことで、天井の横木には鼈甲の装飾が施してある。つまり「盧家の少婦」は豪邸に住む貴族の若妻ですが、燕のようにつがいではありません。
     中四句は夫と別れて暮らす妻の心境です。晩秋九月になると砧(きぬた)の音が落ち葉の散るのを急き立てるように聞こえて来ます。「十年」は永い間という程度の意味で、「遼陽」(遼寧省西北部)に遠征に行ったままもどらない夫を想っています。「白狼河北」は夫のいる場所、「丹鳳城南」は長安城内で、妻のいる場所。夫からの便りも絶えて秋の夜長を恨んでいます。
     結びの二句は若妻の気持ちを強調するもので、明月に照らされている「流黄」(絹の布の色)の中で、ひとり愁いに苦しんでいると詠います。「流黄」は帳(とばり)を意味し、帳を垂らした寝台を思わせます。
     南朝以来、宮廷の詩人たちによって練り上げられてきた宮廷詩は、中宗期において美しく整えられた形式を完成します。巧みな語句の照応、韻律の諧和、その場にふさわしい典故の引用、これらが極限にまで推し進められ、宮廷文学として典雅な様式が整斉されるようになりました。その様式・規律を七言律詩において完成したのが沈佺期とみられ、律詩の規律はやがて七言四句の絶句にも適用されるようになっていきます。

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     初唐39ー沈佺期
         邙山               邙山

      北邙山上列墳塋   北邙(ほくぼう)山上  墳塋(ふんえい)  列(つら)なり
      万古千秋対洛城   万古(ばんこ)千秋  洛城(らくじょう)に対す
      城中日夕歌鐘起   城中  日夕(にっせき)  歌鐘(かしょう)起こり
      山上惟聞松柏声   山上  惟(た)だ聞く   松柏(しょうはく)の声

      ⊂訳⊃
              北邙山の頂には  大小さまざまな墓が並び

              はるかな昔から  洛陽の街に向かい合う

              日暮れの街では  歌舞音曲のにぎわいだが

              北邙山の頂では  松柏が風に吹かれて泣くばかり


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「邙山」は洛陽の北にある北邙山のことで、漢代から墳墓の地として有名でした。「墳」は土饅頭、「塋」は囲いのある墓で、大小さまざまな墓になります。前半の二句で、墓は遠い昔から「洛城」(洛陽の街)に向き合っていると状況を示します。後半二句では、日暮れになると街は歌や音楽で賑わうが、北邙山の山頂では松や柏の風に鳴る音が聞こえるだけだと人生の無常を詠います。
     唐代になってこの七言絶句が人生の無常をを詠う詩の手本になるのは、宮廷詩の形式偏重に対して個人の抒情や精神性の萌芽があるからでしょう。「松柏」は墳墓に植える習慣の樹として多くの詩に歌われ、人生の無常を語る道具立てとして欠かせないものになります。

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     初唐40ー宋之問
       奉和晦日幸        「晦日 昆明池に幸す」
       昆明池応制        に和し奉る 応制

      春予霊池会     春予(しゅんよ) 霊池(れいち)の会
      滄波帳殿開     滄波(そうは)   帳殿(ちょうでん)開く
      船凌石鯨度     船は石鯨(せきげい)を凌(しの)いで度(わた)り
      槎払斗牛廻     槎(いかだ)は斗牛(とぎゅう)を払いて廻(めぐ)る
      節晦蓂全落     節(せつ)は晦(かい)にして 蓂(めい) 全く落ち
      春遅柳暗催     春は遅くして 柳 暗(ひそ)かに催(うなが)す
      象溟看浴景     象溟(しょうめい) 浴景(よくえい)を看(み)
      焼劫辨沈灰     焼劫(しょうごう)  沈灰(ちんかい)を辨(べん)ず
      鎬飲周文楽     鎬飲(こういん)  周文(しゅうぶん)の楽しみ
      汾歌漢武才     汾歌(ふんか)   漢武(かんぶ)の才
      不愁明月尽     愁(えれ)えず   明月の尽くるを
      自有夜珠来     自(おのず)から夜珠(やしゅ)の来たる有り

      ⊂訳⊃
              うららかな春  池のほとりの宴
              御座所の幕は 波打つ水にひるがえる
              天子の船は   石鯨の上を越えてゆき
              宮中の筏は   牽牛織女の星をかすめる
              時節はみそか 蓂の莢は落ちてしまい
              柳の新芽が   春を促すように膨らむ
              池の向こうで  太陽の水浴みが見え
              池の底では   劫火の灰も見わけられる
              鎬都の酒宴   文王の愉しい集い
              天子の才能は 武帝の「秋風の辞」に劣らない
              月が無くても   終夜の宴に心配はない
              この池には   夜光の珠があるのだから


     ⊂ものがたり⊃ 宋之問(そうしもん)は配流先から逃げ帰って隠れていましたので、李嶠や沈佺期よりも少し遅れて中宋朝に復帰します。中宗を取り巻く詩人のひとりに上官婉児(じょうかんえんじ)という女性がいました。
     上官婉児は上官儀(じょうかんぎ)の孫で、高宗の麟徳元年(664)に祖父が武后を廃位にする詔勅を起草した罪で死罪に処せられたとき、婉児は官婢に落とされ宮中で育ちました。長ずるに従って才知が認められ、武后に用いられました。中宗になると天子の寵愛を受けて婕?(正三品)になり、景龍二年(708)には昭容(正二品)に進みます。中宗の宴遊には常に従って詩を献じ、華をそえていました。
     景龍三年正月晦日、中宗は昆明池に幸(みゆき)し、群臣は中宗の「晦日(かいじつ) 昆明池に幸す」という詩に和し、詩百余篇が献上されます。池のほとりには綵台(飾り台)が設けられ、上官昭容が台に上って群臣の詩の品定めをして下に落とします。詩篇がつぎつぎと落ちてくるなか、沈・宋二人の詩が降ってきません。
     しばらくして落ちて来たのは沈佺期の詩で、その評に沈・宋の詩は力量匹敵するが沈詩の結びに「微官 朽ちるに雕(ちょう)するの質 予章(よしょう)の材を覩(み)るを羞ず」とある。そのことが気力の尽きた感じを与えるとして、宋之問の詩が入選の栄を得ました。その詩が掲げた詩です。
     詩は五言排律で、四句ずつ三段に分けて読むことができます。はじめの四句は宴の場を大きく描きます。「春予」は春の遊び、「霊池」は昆明池の雅称です。「帳殿」は幔幕を張り巡らした御殿という意味で、行幸の際の仮宮でしょう。その幔幕が池を波立たせている風に煽られて翻っています。「石鯨」も「斗牛」も漢代の昆明池にあった石像で、「斗牛」は牽牛と織女の像のことです。唐代には埋もれて無くなっていましたが、漢を借りて行幸の盛大さを褒めるのです。
     中四句は昆明池の素晴らしさを褒めるもので、「蓂」は帝堯の宮殿の庭に生えていたという伝説上の木です。月はじめから一日にひとつずつ莢を生じ、十六日以後はひとつずつ莢を落として晦日には全部の莢を落としたといいます。「象溟」は昆明池が海のように広いこと、「浴景」は天地の東の果てに咸池という池があり、太陽は日の出前に咸池で水浴をすると信じられていました。「焼劫」にも故事があり、漢の武帝が昆明池を掘らせたとき、地底から黒い灰が出て来ました。その灰は大昔、世界が劫火に焼きつくされたときの名残りだという。その灰が池の底に見わけられると詠います。
     結びの四句では宴と天子の詩才がたたえられます。「鎬飲」は周の都鎬京での酒宴のことですが、周の武王の酒宴を文王の時代に変えて用いるのは唐代の習慣です。「汾歌」は漢の武帝が汾水で遊んだときに作った「秋風の辞」のことで、中宗の詩才は武帝に劣らないと詠います。
     「夜珠」にも武帝にかかわる説話があり、ある人が昆明池で釣りをしたとき、魚が糸を切って逃げました。その魚が武帝の夢に現れ、鉤を取ってくれと言います。武帝が池へ行ってみると、切れた釣り糸を咥えた魚がいたので取ってやりました。後日、武帝が池にゆくと一双の明珠が岸に置いてありました。宋之問は今日は晦日で月が出ていなくても池には夜光の珠があるから、終夜の宴には差し支えないと明珠に結びつけます。
     以上、宮廷詩の典型のような作品で、故事伝説を多用して行幸の盛大さ、宴の素晴らしさを詠い上げます。天子を称えるのが応制の詩の役割です。

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     初唐41ー宋之問
       題大庾嶺北駅      大庾嶺の北駅に題す

      陽月南飛雁     陽月(ようげつ) 南に飛ぶ雁(かり)は
      伝聞至此囘     伝(つた)え聞く  此(ここ)に至って囘(かえ)ると
      我行殊未已     我が行(こう)   殊(こと)に未だ已(や)まず
      何日復帰来     何(いず)れの日か   復(ま)た帰り来たらん
      江静潮初落     江(こう)   静かに  潮(うしお)初めて落ち
      林昏瘴不開     林(はやし) 昏(くら)く  瘴(しょう)開かず
      明朝望郷処     明朝  望郷の処(ところ)
      応見隴頭梅     応(まさ)に隴頭(ろうとう)の梅を見るべし

      ⊂訳⊃
              初冬の十月  南へ飛んできた雁は
              この山から  北へもどると聞いている
              それにひきかえ  わたしの旅はこれからだ
              いつになったら  北へ帰れるのか
              江は静かに流れ みずかさは落ちたが
              林は薄暗く  瘴癘の気が立ちこめる
              明日の朝は  故郷を望む峠に立つ
              梅嶺の梅も  きっと目にすることだろう


     ⊂ものがたり⊃ 景龍四年(710)六月、宮廷で大事件がありました。政権を独占しようと考えた韋后と安楽公主は共謀して、毒を入れた饅頭を事もあろうに中宗に食べさせて毒殺しました。夫であり父である天子を暗殺したのです。韋后は温王李重茂(りじゅうも)を立てて皇帝とし、安楽公主を皇太子に立てるつもりでした。
     ところがそのとき、廃帝睿宗(中宗の弟)の第三子、二十六歳の臨淄王李隆基(りりゅうき)は、太平公主の支持を取り付けた上で宮中に攻め入り、韋后とその一派を誅殺しました。そのとき上官昭容も兵に追われて殺害されました。
     七月、李隆基は父睿宗を復位させ、みずからは皇太子になります。宋之問は太平公主に賄賂をあばかれて、景龍の変のときには越州(浙江省紹興市)に流されて都にはいませんでした。変後、宋之問は罪を加重され、欽州(広西壮族自治区欽県)に再貶されます。
     詩題の「大庾嶺」(だいゆれい)は江西・広東両省の省境に横たわる山で、梅の発祥地とされ梅嶺ともいいます。詩は宋之問が越州から欽州に移されるときの作で、応制の詩とは打って変わったもの淋しい調子です。

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     初唐42ー盧僎
       南楼望           南楼の望め

      去国三巴遠     国を去って三巴(さんぱ)遠く
      登楼万里春     楼(ろう)に登れば  万里(ばんり)春なり
      傷心江上客     傷心(しょうしん)   江上(こうじょう)の客
      不是故郷人     是(こ)れ故郷の人ならず

      ⊂訳⊃
              故郷を離れて  遥か三巴の地にやってきた

              南楼に登れば  見わたす限りの春景色

              江上の旅人の  心は悲しみに満たされる

              この春景色も  私にとっては異郷なのだ


     ⊂ものがたり⊃ 睿宗在位三年目の太極元年(712)は五月に延和と改元され、その八月、睿宗は皇太子に位を譲って太上皇になりました。李隆基は即位して第八代の皇帝になります。延和元年も八月から先天元年になります。
     太平公主は韋后の誅殺に功績があり、兄睿宗のもとで権力を強め、若い李隆基を凌ぐ勢いを持とうとしていました。玄宗李隆基は翌先天二年(713)七月、兵を出して太平公主を攻め、自殺に追い込みました。そのとき武氏の一族も宮廷から一掃されます。
     玄宗は十二月に先天を開元に改め、二十九歳の青年皇帝の親政がはじまります。初唐が終わり盛唐が始まることになりますが、ここで宮廷詩人でない詩人の作品を掲げます。盧僎(ろせん)は相州臨漳(河南省臨漳県)の人。生没年は不詳ですが、進士に及第したと見られ、聞喜(山西省)の県尉を務めたあと、中宗の景龍元年(707)ころに集賢院学士、吏部員外郎を歴任しています。
     巴蜀(四川省)の地に左遷されたことがあるらしく、「南楼の望(なが)め」はそのときの作品と思われます。詩題の「南楼」は城壁の南門上の望楼でしょう。「三巴」と言っているのは後漢末に巴・巴東・巴西に分けられたからです。
     転句の「江上の客」については川辺を行く人と考え、それが見知らぬ異郷の人ばかりと嘆いていると解する説もあります。ここでは江上を舟で来た旅人(作者自身)と考え、美しい春景色も異郷であり、自分の故郷ではないと境遇を悲しんでいる詩と解しました。

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     初唐43ー張若虚
       春江花月夜           春江 花月の夜        (前八句)

      春江潮水連海平   春江(しゅんこう)の潮水(ちょうすい)  海に連なって平らかなり
      海上明月共潮生   海上(かいじょう)の明月(めいげつ)  潮(うしお)と共に生ず
      灔灔随波千万里   灔灔(えんえん)  波に随う  千万里
      何処春江無月明   何(いず)れの処か  春江  月明(げつめい)無からん
      江流宛転遶芳甸   江流(こうりゅう)  宛転(えんてん)として芳甸(ほうでん)を遶(めぐ)り
      月照花林皆似霰   月は花林(かりん)を照らして  皆  霰(あられ)に似たり
      空裏流霜不覚飛   空裏(くうり)の流霜(りゅうそう)  飛ぶを覚(おぼ)えず
      汀上白沙看不見   汀上(ていじょう)の白沙(はくさ)  看(み)れども見えず

      ⊂訳⊃
              春の長江は  漫々と水を湛えて海につらなり
              明るい月が  満ちてくる潮と共に海上に昇る
              月の光は   波に砕けて万里の彼方へつづき
              春の長江は  月の明かりで満たされている
              ゆるやかに  川は流れて花咲く野原をめぐり
              樹々の花は  月に照らされて霰のようだ
              霜の気配も  月の明かりに紛れて見えず
              波打ち際の  砂の白さも見分けがつかない


     ⊂ものがたり⊃ 詩が七言律詩の形式的整斉というかたちで完成されていたころ、宮廷の外では劉希夷(りゅうきい)の「白頭を悲しむ翁に代る」(1月22日のブログ参照)に代表されるような歌行(かこう)の伝統はどうなったでしょうか。
     張若虚(ちょうじゃくきょ)は揚州(江蘇省揚州市)の人。生没年は不詳です。中宗の神龍年間(705ー707)に活躍したといいますが、宮廷詩人ではありません。開元年間に賀知章(がちしょう)と並んで「呉中の四傑」と称されますので、開元年間まで活躍した詩人でしょう。ただし、残された詩は二首。『唐詩選』に載るのは「春江 花月の夜」一首です。
     詩題は楽府題のひとつで、陳の後主が作った曲名と言われています。七言古詩三十六句の長篇で、四句ずつ九段に分けて読むことができます。前八句のはじめ四句は出だしで、「春江の潮水」と「海上の明月」を描いて場所と時間を設定します。
     つぎの四句は、月の照らす空間をさらに細かく描きます。「芳甸」は花の咲く野原、「花林」は花の咲く木立です。古代の中国では「霜」は空から降ってくると考えられていましたので、空中を流れる霜の気配もわからず、「汀上の白沙」も見分けがつかないと、月の明るさを幻想的に詠います。
     

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     初唐44ー張若虚
       春江花月夜           春江 花月の夜       (中?八句)

      江天一色無繊塵   江天(こうてん)一色  繊塵(せんじん)無く
      皓皓空中孤月輪   皓皓(こうこう)たり   空中の孤月輪(こげつりん)
      江畔何人初見月   江畔(こうはん)  何人(なんびと)か  初めて月を見る
      江月何年初照人   江月(こうげつ)  何(いず)れの年か  初めて人を照らす
      人生代代無窮已   人生(じんせい) 代代  窮(きわ)まり已(や)むこと無く
      江月年年秖相似   江月(こうげつ)  年年 秖(た)だ相似たり
      不知江月待何人   知らず  江月  何人(なんびと)をか待つ
      但見長江送流水   但(た)だ見る   長江の流水を送るを

      ⊂訳⊃
              江天一色   光に満ちて塵もなく
              皓皓と     夜空に浮かぶ月ひとつ
              川の岸辺で  誰が最初に月を見たのか
              月が初めて  人を照らしたのはいつなのか
              人の一生は  移り変わって果てしないが
              江上の月は  同じ姿で浮かんでいる
              江上の月よ  いったい誰を待っているのか
              いたずらに  長江の流れを見送るだけなのか


     ⊂ものがたり⊃ 中?八句のはじめ四句、「江天一色」は月の光で長江の流れも天空も一様に明るいということです。そのなかにぽっかり浮かんでいる月そのものに目を移します。そして月はいったいいつからあるのだろうかと空想します。
     つぎの四句は前半のまとめです。人の人生は移り変わっていくが、月は変わらずに存在する。月は何のために存在するのか、と疑問を差し挟みます。そこには不遇を嘆く気持ちが隠されているでしょう。
     

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     初唐45ー張若虚
       春江花月夜           春江 花月の夜      (中?十二句)

      白雲一片去悠悠   白雲(はくうん)一片(いっぺん)  去って悠悠(ゆうゆう)
      青楓浦上不勝愁   青楓(せいふう)浦上(ほじょう)  愁いに勝(た)えず
      誰家今夜扁舟子   誰が家ぞ  今夜  扁舟(へんしゅう)の子
      何処相思明月楼   何(いず)れの処(ところ)か相思う   明月の楼
      可憐楼上月徘徊   憐(あわ)れむ可(べ)し  楼上  月  徘徊(はいかい)し
      応照離人粧鏡台   応(まさ)に照らすべし  離人(りじん)の粧鏡台(しょうきょうだい)
      玉戸簾中巻不去   玉戸(ぎょくこ)  簾中(れんちゅう) 巻けども去らず
      擣衣砧上払還来   擣衣(とうい)   砧上(ちんじょう)  払えども還(ま)た来たる
      此時相望不相聞   此の時  相望んで相聞かず
      願逐月華流照君   願わくは月華(げっか)を逐(お)うて  流れて君を照さん
      鴻雁長飛光不度   鴻雁(こうがん)   長飛(ちょうひ)して  光  度(わた)らず
      魚龍潜躍水成文   魚龍(ぎょりゅう)  潜躍(せんやく)して  水  文(あや)を成す

      ⊂訳⊃
              白雲ひとつ  遥か彼方へ流れゆき
              入江に楓樹  悲しみが満ちわたる
              この宵に    小舟でゆくのは誰なのか
              妻の住む   明月楼はどこにあるのか
              哀れにも    楼上に月はたゆたい
              ひとり妻の   化粧台を照らしている
              戸口の簾は  月の光を遮ることができず
              払っても    また砧の上に降りそそぐ
              お互いに   想い合っても言葉は交わせず
              月の光と   いっしょに流れて君を照らしたい
              雁たちは   遠くへ飛んで光もとどかず
              魚たちは   水に隠れて波紋を描くだけ


     ⊂ものがたり⊃ 中?十二句から後半になります。詩は一転して、故郷に残してきた妻を想う旅人の歌になります。旅人は作者本人でしょう。小さな舟に乗って移動しており、空の雲、岸辺の楓(ふう)にも淋しさを感じます。「明月楼」は恋人もしくは妻の住む家を雅していうもので、遠くの妻を思いやるのです。
     つぎの四句では、月影のなかでひとり自分を待っている妻の姿を想像しながら、そこに照っている月の光に託して妻のもとへ帰りたい思いを描きます。
     つぎの四句は前の四句を直叙で述べ、月の光といっしょになって「君」(妻)のもとへ行きたいと詠います。「鴻雁」も「魚龍」(魚類の総称)も便りを運んでくれる使者で、雁も魚も姿を隠して協力してくれないと嘆きます。      

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     初唐46ー張若虚
       春江花月夜           春江 花月の夜        (後八句)

      昨夜?潭夢落花   昨夜  ?潭(かんたん)  落花(らっか)を夢む
      可憐春半不還家   憐(あわ)れむ可し 春半ばにして家に還(かえ)らず
      江水流春去欲尽   江水(こうすい)   春を流して    去って尽きんと欲し
      江潭落月復西斜   江潭(こうたん)   落月(らくげつ)  復(ま)た西に斜めなり
      斜月沈沈蔵海霧   斜月(しゃげつ)  沈沈(ちんちん)として海霧(かいむ)に蔵(かく)る
      碣石湘瀟無限路   碣石(けつせき)  湘瀟(しょうしょう)  無限(むげん)の路
      不知乗月幾人帰   知らず 月に乗じて幾人(いくにん)か帰る
      落月揺情満江樹   落月   情を揺るがして江樹(こうじゅ)に満つ

      ⊂訳⊃
              昨夜は舟を  淵にとどめて落花の夢
              春も半ば   今年も家には帰れないのか
              長江の水に  春は流れて尽きようとし
              淵の上に   月は今夜も西へかたむく
              月は斜めに  深く沈んで海上の霧の中
              北の果て   南の果てへの限りない路
              月明りの下  幾人が家路をたどり得たであろうか
              落月に心は揺らぎ  樹々に愁いは満ちわたる


     ⊂ものがたり⊃ 後八句のはじめ四句では、「?潭」(静かな淵)で舟泊まりし、花びらの散る夢を見たと作者が姿を現します。今年も春の半ばを過ぎたというのに故郷に帰れないと嘆き、長江の水の流れと西に傾く月を描いて自分のいる場所と感慨を示します。
     つぎの四句は全体の結びで、まず海上の霧のなかに沈んでいく満月を描きます。「碣石」は中国の北の果て、「湘瀟」は南の果てを意味し、隔たりの大きいことをいうのでしょう。自分と妻を隔てている距離の大きさを誇張して言いながら、遠くにいる妻のもとへ帰れないと嘆きます。落月が「情」(心、愛情)を揺るがして、月の光が岸辺の樹に満ちているように、自分の心にも妻への思いが満ちわたると詠って結びます。
     この詩には劉希夷の有名な対句「年年歳歳 花 相似たり 歳歳年年 人 同じからず」を模した部分(2月20日のブログ参照)があり、劉希夷の歌行の伝統を継ぐものです。伝統を継ぎながら、詩は夫が妻を想う個人的な詩に変化している点に注目すべきです。


            ◎ 本日で「初唐の詩人たち」を終わります。つぎは
              三月一日(土)から「盛唐の詩人たち」を始めます。

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     盛唐1ー賀知章
         詠柳               柳を詠ず

      碧玉粧成一樹高   碧玉(へきぎょく)  粧(よそお)い成って一樹高し
      万条垂下緑糸縧   万条(ばんじょう)  垂下(すいか)す  緑糸縧(りょくしとう)
      不知細葉誰裁出   知らず  細葉(さいよう)  誰か裁(た)ち出(いだ)す
      二月春風似剪刀   二月の春風(しゅんぷう)  剪刀(せんとう)に似たり

      ⊂訳⊃
              碧玉のようだ  装い新たに一本の柳の木

              無数の枝が   緑の絹帯のように垂れている

              細い枝葉は   いったい誰が切り出したのか

              二月の春風は  鋏のように鋭い


     ⊂ものがたり⊃ 唐代の詩を初唐・盛唐・中唐・晩唐の四期(「四変」ともいう)に分けて論じる考え方は、すでに定着しています。盛唐のはじめを開元元年(713)とする説に異論は見られません。唐代の詩は玄宗皇帝の開元年間に著しく変化し、個性豊かなものになっていくからです。
     ただ、人は時代を越えて生きるものですので、前代の朝廷に仕えていた知識人で開元期に用いられて活躍する詩人は幾人もいました。そのなかで、開元初政の朝廷で高官になった人物の開元元年の年齢を示すと、つぎの通りです。
     賀知章55歳、張説47歳、蘇頲44歳、張九齢41歳。
     賀知章(659ー744)は越州永興(浙江省蕭山県)の人。武后の証聖元年(695)に三十七歳で進士に及第。玄宗の開元年間に要職を歴任します。開元十三年(725)には礼部侍郎になり、秘書監に至ります。
     天宝元年(742)に李白が朝廷に召されたとき、賀知章が李白の宿舎を訪ね、「謫仙人」の名を呈して推挙した話は有名です。天宝三載(744)に八十六歳で官を辞し、故郷の越州にもどってその年に亡くなりました。なお、天宝三載から至徳二載(757)までは年を載といいます。
     詩は初唐の詠物詩の名残をとどめています。ただし、出だしの「碧玉」はエメラルド色のほかに南朝時代の美少女を意味しており、美少女碧玉が綺麗に化粧して立っているようだと春の柳の美しさを比喩的に描きます。後半二句はウイットのある感懐で、鋏のように鋭い春風が柳の繊細な枝葉を作りだしたのだろうかと詠います

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     盛唐2ー賀知章
       題袁氏別業        袁氏の別業に題す

      主人不相識     主人(しゅじん)   相識(あいし)らず
      偶坐為林泉     偶坐(ぐうざ)するは林泉(りんせん)の為なり
      莫謾愁沽酒     謾(みだ)りに酒を沽(か)うを愁うること莫(なか)れ
      嚢中自有銭     嚢中(のうちゅう)  自(おのず)から銭(ぜに)有り

      ⊂訳⊃
              ご主人と  お会いするのははじめてですが

              上がり込んだのは  見事な庭があるからです

              どうか    お酒の心配などなさらぬように

              いやいや  財布に銭はつきものですから…


     ⊂ものがたり⊃ 賀知章は酒を好み、晩年は「四明狂客」などと称して飄々と暮らしました。詩題の「別業」は別荘のことですが、日本のように縁側に腰掛けるわけではありません。知らない人の別荘に上がり込んで「偶坐」(さし向いに坐る)し、その場で書いた詩と思われます。
     賀知章の酒好きは有名でしたので、袁氏がそのことを知っていることが前提になっており、三好達治は結句の「嚢中 自から銭有り」を、自他の嚢中を云々しているのではなく、なんとなく笑って誤魔化す口吻と解しています。

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     盛唐3ー賀知章
       囘郷偶書 其一         郷に囘って偶々書す 其の一

      少小離家老大囘   少小(しょうしょう)にして家を離れ  老大(ろうだい)にして囘(かえ)る
      郷音無改鬢毛衰   郷音(きょうおん)  改まること無く  鬢毛(びんもう)衰(おとろ)う
      児童相見不相識   児童(じどう) 相見て相識(あいし)らず
      笑問客従何処来   笑って問う  客  何(いず)れの処(ところ)従(よ)り来たるかと

      ⊂訳⊃
              若いころ家を離れて 年老いてもどってきた

              お国なまりは抜けていないが 髪の毛は真っ白だ

              子供らは どこの誰ともわからずに

              笑いながら「おじさんはどこから着たの」と問いかける


     ⊂ものがたり⊃ 五十年振りに故郷に帰って身内で宴会を開いたとき、二首の詩を披露しました。賀知章は長安では少しは人に知られた存在でしたが、故郷に帰れば「児童」(孫や曾孫であろう)たちが「客 何れの処従り来たるか」と尋ねる。ほろ苦い笑いと故郷への親愛の情がこもる作品です。

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     盛唐4ー賀知章
       囘郷偶書 其二         郷に囘って偶々書す 其の二

      離別家郷歳月多   家郷(かきょう)に離別(りべつ)して歳月(さいげつ)多し
      近来人事半銷磨   近来(きんらい)  人事   半(なか)ば銷磨(しょうま)す
      唯有門前鏡湖水   唯(た)だ門前   鏡湖(きょうこ)の水有るのみ
      春風不改旧時波   春風(しゅんぷう) 改めず  旧時(きゅうじ)の波

      ⊂訳⊃
              古里を離れて   多くの歳月が過ぎ

              近所のようすも  変わってしまった

              変わらないのは  門前の鏡湖の水

              春風が吹くと   昔と同じ波が立つ


     ⊂ものがたり⊃ 賀知章は長安で職を辞するとき、玄宗から恩賞として望むものを聞かれ、郷里にある鏡糊(浙江省紹興市の湖)を貰い受けたいと言いました。「人事」は家や近所の事柄のことで、それらはすっかり変わってしまったが、鏡湖のたたずまいだけは変わらないと詠います。

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     盛唐5ー張説
       蜀道後期          蜀道にて期に後る

      客心争日月     客心(かくしん)   日月(じつげつ)と争い
      来往預期程     来往(らいおう)   預(あらかじ)め程(てい)を期す
      秋風不相待     秋風(しゅうふう)  相待(あいま)たず
      先至洛陽城     先(ま)ず至る    洛陽城(らくようじょう)

      ⊂訳⊃
              旅する心は  日月の運行と競うようだ

              旅の日程は  あらかじめ決めていたのだが

              秋の風は   待ってはくれず

              ひと足先に  洛陽の街に着くのであろう


     ⊂ものがたり⊃ 張説(ちょうえつ)は東京(とうと)洛陽の人。睿宗の垂拱四年(688)に二十二歳で科挙の諸科(学綜古今科)に及第しました。寒門の出でしたが、武后の人材登用策によって太子校書郎(従九品下)から累進して左補闕に進みます。
     詩は二十代の作品で、任務を帯びて蜀(四川省)に出張し、秋までに都洛陽に帰るつもりでした。それが何かの事情で遅れたのを弁解するように同行の人に披露した詩でしょう。
     二句目が口籠もる感じになっており、遅れた理由を説明する句が抜けてしまったのか、省略されているという説があります。なお、詩は筆で書いて人に見せるものであり、この詩の第一句「客心争日月」は筆で書いた場合、格好がいいとされています。
     

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     盛唐6ー張説
       酔中作              酔中の作

      酔後方知楽     酔後(すいご)   方(まさ)に楽しみを知り
      弥勝未酔時     弥々(いよいよ)  未(いま)だ酔わざるの時に勝る
      動容皆是舞     容(かたち)を動かせば  皆  是(こ)れ舞(まい)
      出語総成詩     語(ご)を出(い)だせば  総(すべ)て詩と成る

      ⊂訳⊃
              酔ってはじめて  酒の楽しさがわかり

              飲めば飲むほど  酔わないときより気分がいい

              体を動かせば   それがそのまま舞となり

              言葉を吐けば   それがそっくり詩句となる


     ⊂ものがたり⊃ 張説(667−730)は五言絶句を自家薬籠中のものにしていたようです。この詩は制作時期不明ですが、宴会の座興に作ったものでしょう。自分の才能に自信があり、余裕のある詠い振りから三十歳前後の作品と思われます。酔いを詠って軽妙。李白などに影響を与えたと思われます。

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     盛唐7ー張説
       春雨早雷           春雨 早雷

      東北春風至     東北より春風(しゅんぷう)至り
      飄飄帯雨来     飄飄(ひょうひょう)  雨を帯びて来たる
      払黄先変柳     黄(こう)を払って先ず柳を変ぜしめ
      点素早驚梅     素(そ)を点じて早(つと)に梅を驚かす
      樹藹懸書閣     樹(き)は藹(あい)たり  書を懸(か)くるの閣(かく)
      煙含作賦台     煙(もや)は含む  賦(ふ)を作るの台
      河魚未上凍     河魚(かぎょ)   未(いま)だ凍(とう)に上(のぼ)らず
      江蟄已聞雷     江蟄(こうちつ)  已(すで)に雷(いかずち)を聞く
      美人宵夢著     美人(びじん)   宵夢(しょうむ)著(ちゃく)し
      金屏曙不開     金屏(きんぺい)  曙(あけぼの)に開かず
      無縁一啓歯     一(ひと)たび歯を啓(ひら)くに縁(よし)無く
      空酌万年杯     空しく酌(く)む   万年杯(まんねんはい)

      ⊂訳⊃
              東北の方から  春風が
              雨と一緒に   そよそよと吹く
              新芽を撫でて  柳の木を促し
              梅をつついて  白い花を咲かせる
              緑の木は    書庫のまわりに鬱蒼と茂り
              白い靄は    作賦台のあたりに立ち込める
              河の魚は    凍った流れをまだ遡らず
              雷の音で    川辺の虫や蛇が冬眠から覚める
              美女がひとり  昨夜の夢に捉われて
              朝になっても  金の屏風が開かない
              にっこり笑う  気分になれないまま
              ひとり空しく   飲んでいるのは万年杯


     ⊂ものがたり⊃ この詩も宴会のときの作であることが、最後の一句でわかります。
     詩は四句ずつ三段に分けて読むことができ、はじめの四句は春の到来を示すごく普通の出だしです。つぎの四句では目を転じ、「河魚」(「ふぐ」とも読めます)や「江蟄」(川辺の土中で冬籠りしている虫など)に及び、つぎに何が出て来るかと期待を持たせます。
     すると最後の四句で美女が出て来て、ひとり寝を悩む風情です。ひとり空しく杯を傾けているのは「万年杯」でした。万年杯というのは酢をついだ杯で、健康ドリンクです。ここで一座はどっと笑いこけるわけで、さんざん気を持たせておいて最後はドンデン返しで結ぶ機知の詩、遊びの詩です。       

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     盛唐8ー張説
       還至端州駅前       還りて端州駅に至る 前に
       与高六別処         高六と別れし処なり

      旧館分江口     旧館(きゅうかん)  分江(ぶんこう)の口(ほとり)
      凄然望落暉     凄然(せいぜん)として落暉(らくき)を望む
      相逢伝旅食     相逢(あいあ)うて旅食(りょしょく)を伝え
      臨別換征衣     別れに臨んでは征衣(せいい)を換(か)えたり
      昔記山川是     昔は記す  山川(さんせん)の是(ぜ)なるを
      今傷人代非     今は傷む  人代(じんだい)の非(ひ)なるを
      往来皆此路     往来  皆  此の路(みち)なるに
      生死不同帰     生死  帰るを同(とも)にせず

      ⊂訳⊃
              駅舎は今も   川筋の分かれる岸にあり
              悲しい思いで  沈む夕日を眺める
              旅で出会って  食事を分け合い
              別れに際して  旅の衣を交換した
              むかし見た   山も川も変わらぬが
              人の世の    移り変わりに心は痛む
              行きも帰りも  同じ路を通るのに
              生死は変じて  帰りを共にできないとは


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「端州」(広東省高要県)は広州の西にある宿駅です。武后の長安三年(703)、宰相の魏元忠(ぎげんちゅう)と高戩(こうせん)が張易之兄弟に誣告されました。そのとき張説は二人を弁護したため、欽州(江西壮族自治区欽県)に流されます。
     詩題の「高六」は高戩のことで、高戩の配所は不明ですが、二人は流謫の旅の途中で出会い、端州まで旅を共にしたのでしょう。端州駅で別れ、張説は西へ高戩は南の配所に向かいました。
     神龍元年(705)の政変で張兄弟が誅されると、張説は赦されて都にもどることになりますが、高戩はすでに配所で亡くなっていました。詩は帰途、端州駅まで来たとき、高戩(高六)を偲んで作ったものです。端州は西江のほとりにあり、「分江口」は川筋の分かれるところを意味します。「征衣を換えたり」はお互いの無事を祈って旅の衣を交換するのです。

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