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tiandaoの自由訳漢詩

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     南宋23ー楊万里
         憫 農               農を憫む 

      稲雲不雨不多黄   稲雲(とううん)   雨ふらず  多くは黄(き)ならず
      蕎麦空花早着霜   蕎麦(きょうばく)  空(むな)しく花さきて  早(つと)に霜を着(ちゃく)す
      已分忍飢度残歳   已(すで)に分(ぶん)とす  飢えを忍んで残歳(ざんさい)を度(わた)るを
      更堪歳裏閏添長   更(さら)に堪(た)えんや  歳裏(さいり)  閏(うるう)の長きを添うるに

      ⊂訳⊃
              一面の稲穂も  雨が降らねば黄金色にはならず

              折角花をつけたのに  蕎麦は霜にやられてしまう

              飢えをこらえながら   歳末を過ごしているのに

              今年は閏年   ひと月多いのに堪えねばならぬ


     ⊂ものがたり⊃ 楊万里(ようばんり:1127ー1206)は吉州吉水(江西省吉安市)の人。建炎元年(1127)、南宋建国の年に生まれ、范成大より一歳の年少です。二十八歳で范成大と同年に進士に及第します。地方勤務のあと抗戦派の宰相張浚(ちょうしゅん)に迎えられて臨安府の教授になりますが、父の喪のために帰郷します。
     除服後、左遷や中央勤務、母の喪などで低迷し、淳煕十一年冬、召されて吏部員外郎から郎中にすすみます。枢密院検詳官蒹太子侍読のとき朱熹ら六十人の正士を推薦しました。淳煕十四年(1187)に秘書少監になりますが、天子の不興をこうむって帰郷します。光宗の即位によって秘書監に返り咲き、紹煕元年(1190)に煥章閣学士として金の賀正使の接伴役をつとめます。
     ついで実録検討官になりますが、上皇孝宗に嫌われて江東転運使に左遷され、建康(江蘇省南京市)に移ります。鉄券の施行に反対して廉州(江西省贛州市)の知県事を命じられますが受けず、祠官(恩給)を拝して帰郷します。やがて祠禄も返上して召しに応ぜず、寧宗の開禧二年(10206)になくなります。享年八十歳です。
     詩題「農を憫(あわれ)む」は農民の苦労を詠う社会詩です。孝宗の隆興二年(1164)に霊陵の県丞であった三十八歳のときの作品で、范成大と同じように詩を社会詩の本道にもどそうとしました。
     まずはじめの二句で稲や蕎麦が旱害や冷害にあって稔らないことを指摘します。そして後半二句で、飢えに堪えながら歳末をすごすのを「分」(甘んじて受ける)といいます。結句は楊万里の着目がうかがえる部分で、今年は「歳裏」(年内)に閏月があり、飢えに堪えなければならない日がひと月ながくなると詠うのです。

         ※ パソコンの空き領域をつくるため、「初唐」の三分の二ほどを削除しました。

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     南宋24ー楊万里
       居初夏午睡起          居の初夏 午睡 
       二絶句 其二            より起く 二絶句  其の二

      梅子留酸軟歯牙   梅子(ばいし)  酸(さん)を留(とど)めて歯牙(しが)を軟(なん)にす
      芭蕉分緑与窗紗   芭蕉(ばしょう)  緑を分かちて窓紗(そうしゃ)に与う
      日長睡起無情思   日(ひ)長く     睡起(すいき)して情思(じょうし)無く
      見児童捉柳花   (かん)に見る  児童の柳花(りゅうか)を捉(とら)うるを

      ⊂訳⊃
              梅の実は酸っぱい味を残して  歯が浮くようだ

              芭蕉の葉は   窓の薄絹に緑の影を映しだす

              夏の日は長く  昼寝から覚めてぼんやりと

              子供たちが   柳絮を追うのを眺めている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「居」(かんきょ)には仕方なく引き籠もっているという語感があります。乾道二年(1166)、四十歳のときの作品で、父の喪のために帰郷していた時期の作品でしょう。初夏、昼寝から覚めて梅の実を食べました。口中に「酸」(すっぱい味)が残っていて、歯が浮きそうです。
     窓の方をみると、庭の芭蕉の葉の緑色が「窓紗」(窓に張ってある薄絹)に映っています。転句の「情思」は気持ち、思いのことで、それが「無」であるのはぼんやりした状態をいいます。そんなのどかな気分で、子供たちが「柳花」(柳絮)を追いかけているのを眺めているというのです。
     この詩は楊万里の代表作とされていて、楊万里の個性、ちょっとひねったアンニュイな感じや描写のスタイルがよくあらわされている作品として高い評価を受けています。ただし、異論もあります。

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     南宋25ー楊万里
         凍 蝿                凍 蝿

      隔窗偶見負暄蝿   窓を隔(へだ)てて偶々(たまたま)見る  暄(けん)を負(お)うの蝿(はえ)
      双脚挼挲弄暁晴   双脚(そうきゃく)挼挲(ださ)して暁晴(ぎょうせい)を弄(ろう)す
      日影欲移先会得   日影(にちえい)  移らんと欲すれば先(ま)ず会得(えとく)し
      忽然飛落別窗声   忽然(こつぜん)  飛落(ひらく)して別窗(べっそう)  声(こえ)あり

      ⊂訳⊃
              窓のむこうに  日ざしを浴びている蝿をみつけた

              両方の脚を擦り合わせ  冬の朝日を満喫する

              陽射しが移りかけると   いちはやく察知して

              いきなり飛んで別の窓  音を立ててとまる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「凍蝿」(とうよう)は冬の蝿。蝿は夏の虫ですので、冬まで生き延びたしたたかな蝿という意味があります。淳煕五年(1178)、常州(江蘇省常州市)に左遷されていた五十二歳のときの作品で、特異な題材をとらえています。
     起句の「暄を負うの蝿」は暖かい日の光をあびている蝿のことです。それを窓のむこうに見つけました。よくみると両脚を「挼挲」(擦り合わせ)て朝の陽光を存分に味わっています。後半、やがて日ざしが移りかけると、日の動きをいちはやく察知して、さっと飛んで別の窓に「声」(音)を立ててとまります。
     詩はしぶとく生きる蝿に好感を抱いて描いているとも考えられますが、蝿は媚びへつらう人物の比喩として用いられる場合が多く、「日影」(日の光)は天子の威光や世の移り変わりの喩えになります。そこから、時世の変化を敏感に感じとって居場所をかえる世渡り上手の人間を揶揄している詩とも考えられます。
     左遷中の憤懣を吐きだした詩ともみられ、特異な観察と表現が評価されて代表作のひとつにあげられています。

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     南宋26ー楊万里
         寒 雀               寒 雀

      百千寒雀下空庭   百千の寒雀(かんじゃく)  空庭(くうてい)に下(くだ)り
      小集梅梢話晩晴   梅の梢に小集(しょうしゅう)して  晩晴(ばんせい)に話(わ)す
      特地作団喧殺我   特地(とくち)    団(だん)を作(な)して  我(われ)を喧殺(けんさつ)す
      忽然驚散寂無声   忽然(こつぜん)  驚き散じて   寂(せき)として声(こえ)無し

      ⊂訳⊃
              無数の雀が  ひとけのない庭におりてきて

              梅の梢にしばし集まり  晴れた日暮れを鳴きかわす

              わざわざ群れをなして  やかましく騒ぎたて

              なんに驚いたのか  さっと飛びさり物音ひとつしなくなる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「寒雀」は冬の雀のこと。「凍蝿」と同じ常州での作品で、「晴」と「声」、同韻を踏んでいることが繋がりを示しています。起承句は無数の雀が「空庭」(ひとけのない庭)におりてきて、梅の木の梢にとまって鳴きかわしています。「晩晴」は晴れた夕暮れのことで、それを喜んで鳴くのです。
     転句の「特地」はことさらに、わざと、という意味の俗語で、わざわざ群れをなして「我」を攻め殺すかのように鳴きたてます。すると突然、なにかに驚いたのでしょうか。雀の群れはさっと飛び去って、あとは「寂として声無し」です。
     蝿とちがって雀は悪い喩えには用いませんが、後半の二句からは、いろいろと騒ぎたてて自分を弾劾した者たちが急にいなくなったという感じが読みとれます。左遷地での感懐が皮肉まじりに詠われているようです。 

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     南宋27ー楊万里
       初入淮河三首 其一  初めて淮河に入る 三首  其の一

      船離洪沢岸頭沙   船は洪沢(こうたく)岸頭(がんとう)の沙(すな)を離る
      人到淮河意不佳   人は淮河(わいが)に到って  意(い)  佳(か)ならず
      何必桑乾方是遠   何ぞ必ずしも桑乾(かんそう)を方(はじ)めて是(こ)れ遠しとせんや
      中流以北即天涯   中流以北  即ち天涯(てんがい)

      ⊂訳⊃
              船は洪沢湖岸の砂浜をはなれ

              淮水に至ると気分が悪くなる

              桑乾河に行って初めて  故郷の遠さがわかると詠うなかれ

              流れの真ん中から北は  天の果てだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題「初めて淮河に入る」の「初」は、宋金国境の淮水にはみだりに立ち入ることが出来なかったことを示しています。「洪沢」は江蘇省盰眙県の北にある洪沢湖のことで、淮水の流路に属する湖です。洪沢湖の砂浜から舟を出して金使を迎えるのですが、淮水が国境線であることを思うと「意 佳ならず」、気分がよくありません。
     「桑乾」は北京の西を流れる永定河の上流のことで、金はいまの北京の地に都を置いていました。唐詩などでは桑乾河までゆかないと故国は遠いという感じがしないなどと詠っていますが、いまは淮水の流れの真ん中から北は天の果てのようなものだと、華北が失われていることを嘆くのです。

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     南宋28ー楊万里
         道旁店              道旁の店

      路旁野店両三家   路旁(ろぼう)の野店(やてん)    両三家(りょうさんか)
      清暁無湯況有茶   清暁(せいぎょう)に湯(ゆ)無し  況(いわ)んや茶(ちゃ)有るをや
      道是渠儂不好事   道(い)う  是(こ)れ  渠儂(かれ)は好事(こうじ)ならずと
      青瓷瓶挿紫薇花   青瓷(せいじ)の瓶(へい)に挿す  紫薇(しび)の花

      ⊂訳⊃
              街道にそって     宿屋が二三軒

              爽やかな夜明けに  お湯もなく茶はもとよりだ

              宿屋の主人は    仕事いちずの人ではないらしい

              見れば青磁の瓶に 百日紅の花一輪


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「道旁の店」(どうぼうのてん)は「路旁の野店」と同じ意味で、街道筋の旅館のことです。光宗の紹煕二年(1191)、江東転運使になって地方を巡視していた六十五歳のときの作品で、承句によると明け方に旅宿に着いたようです。爽やかな朝ですが、お湯もわかしてなく、茶も出てきません。役人一行のお着きですのでお湯や茶を準備して待つのが常識ですが、なんだかおかしい。
     詩のみどころは後半二句で、「好事ならず」は仕事一本やりではないらしいという意味です。見れば、青磁の壺に「紫薇」(さるすべり)の花がいけて置いてあります。そのもてなしのセンスがいいと褒めるのです。この詩も楊万里の佳作のひとつとされており、風流を解する文化が芽生えていたことを示しています。

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     南宋29ー尤袤
         落 梅                落 梅

      清渓西畔小橋東   清渓(せいけい)の西畔(せいはん)  小橋(しょうきょう)の東
      落月紛紛水映空   月に落ちて  紛紛(ふんぷん)  水(みず)空(そら)を映す
      五夜客愁花片裡   五夜(ごや)の客愁(かくしゅう)  花片(かへん)の裡(うち)
      一年春事角声中   一年の春事(しゅんじ)  角声(かくせい)の中(なか)
      歌残玉樹人何在   歌は玉樹(ぎょくじゅ)に残(ざん)するも  人(ひと)何(いず)くにか在る
      舞破山香曲未終   舞(まい)は山香(さんこう)を破るも  曲(きょく)未(いま)だ終わらず
      卻憶孤山酔帰路   卻(かえ)って憶(おも)う  孤山(こざん)  酔帰(すいき)の路(みち)
      馬蹄香雪櫬東風   馬蹄(ばてい)の香雪(こうせつ)  東風(とうふう)に櫬(しん)せしを

      ⊂訳⊃
              清らかな谷川に  小さな橋  一面の花吹雪
              月の光のなか   夜空を映す水面に落ちていく
              旅の寂しさが        花びらのひとつひとつに宿り
              過ぎゆく春の悲しみは  角笛の音とともに沁みわたる
              玉樹後庭花は残っても  人はどこにいってしまったのか
              舞姫が梅の香を払っても  曲はまだ終わらない
              想い出すのは  酔って孤山から帰る路
              路上に散り敷く梅の花  春風に抱かれているようだった


     ⊂ものがたり⊃ 尤袤(ゆうぼう:1127ー1194)は常州無錫(江蘇省無錫市)の人。南宋建国の年、楊万里とおなじ年に生まれ、幼くして奇童と称されました。太学に入ってからは詞賦で知られ、高宗の紹興十八年(1148)に二十二歳で進士に及第します。
     泰興(江蘇省)の県令のあと中央に移り、累進して太常少卿にいたります。光宗の即位後、周必大の党として弾劾され、一時退官します。ほどなく婺州(浙江省金華市)の知州事になり、太平州(安徽省当涂県)に移りますが、召されて中央にもどり給事中から礼部尚書に昇進します。しかし、国事の苦労が重なり、光宗の紹煕五年(1194)に疾に倒れ、享年六十八歳でなくなりました。南宋四大家のひとりですが、作品は散逸してわずかしか残っていません。
     詩の制作年は不明です。詩中に「孤山」(杭州の西湖西北岸にある小島)がでてきますが、思い出として描かれるものです。まず、はじめの二句で眼前の景を叙して場面を設定します。中四句二聯の対句、はじめの対句は「五夜の客愁」と「一年の春事」を対比しながら、旅の夜明けの寂しさと過ぎゆく春の悲しみを倒置表現で暗示的に詠います。
     つぎの対句の「玉樹」は南朝陳の後主(こうしゅ)作「玉樹後庭花」のことで、亡国の歌は残っていても、それを歌った人はどこへ行ってしまったのかと詠います。「舞は山香を破る」にもなんらかの出典があると思われますが未詳です。舞袖が梅の香を払って薫りは散ってしまったが、曲は終わらずにつづいていると人生の儚さを詠います。
     結びの二句では人生は悲しいことばかりではなかったと詠います。懐かしく思い出されるのは「孤山 酔帰の路」です。路には「香雪」(香りのある雪)、つまり梅の花びらが散りしき、花びらを馬蹄で踏んでゆきながら「東風」(春風)に包まれていたようだったと詠嘆します。 

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     南宋30ー伝・朱熹
         偶 成               偶 成

      少年易老学難成   少年  老い易(や)く   学  成り難し
      一寸光陰不可軽   一寸の光陰(こういん)  軽(かろ)んず可からず
      未覚池塘春草夢   未(いま)だ覚(さ)めず  池塘(ちとう)  春草(しゅんそう)の夢
      階前梧葉已秋声   階前(かいぜん)の梧葉(ごよう)  已(すで)に秋声(しゅうせい)

      ⊂訳⊃
              若者は老い易く   学問は成就しにくい

              わずかな時間も  無駄にはできないのだ

              池の堤の草の上  春の夢から覚めないうちに

              はやくも秋風が   庭の青桐の葉を鳴らしている


     ⊂ものがたり⊃ 南宋の時代、士大夫の拠って立つ倫理は儒学でした。一般民衆のあいだでは仏教や道教を信仰する者も多く、現世を消極的にとらえて偶像崇拝にはしる仏教や道教は、儒学にとって否定すべき淫祠・邪教でした。なかでも仏教は彼岸の世界を説いて深遠でしたので、現世的な聖人君子の道を説く儒学は仏教の哲理に対抗できるだけの哲学をもつ必要がありました。
     儒学を理念として体系化する動きは北宋洛陽の道学(理学)にはじまりますが、それを大成するのが朱熹(しゅき)です。朱熹は後世、朱子と尊称され、朱子学は儒学の本流を形づくることになりますが、当初は偽学として迫害されます。朱熹は詩人としてはみずから「僕は詩を能くせず、平生の僥倖(ぎょうこう)多くこれに類す」といっています。
     朱熹(1130ー1200)は徽州婺源(江西省婺源県)の人。高宗の建炎四年(1130)に尤渓(福建省)で生まれます。十四歳のとき父を亡くし、紹興十八年(1148)、十九歳で進士に及第します。李延年(りえんねん)に師事して道学を学び、紹興二十三年(1153)、二十四歳のとき同安(福建省)の主簿になりますが、在任四年で帰郷します。
     家居すること二十余年、孝宗の淳煕六年(1179)に南興軍(江西省)の知事になり、白鹿洞書院を復興します。寧宗の慶元初年(1195頃)、召されて待制院侍講になりますが、韓侂冑(かんたくちゅう)に排斥されて退きます。朱子学は偽学と称され、その大成者であった朱熹は迫害を受けました。慶元六年(1200)、偽学の徒の汚名のまま亡くなります。享年七十一歳です。
     詩「偶成」(ぐうせい)は日本では朱子作としてはなはだ有名ですが、中国では朱熹の作品と認められていません。日本で爆発的に有名になったのは明治時代のことで、「伝・朱熹」とするのが妥当でしょう。詩は名作といってよく、起承句はひろく愛唱されています。
     前半でまず教訓をのべます。「少年」は中国では二十代のことで、十代は弱年といいます。「光陰」は太陽と月のことで時間を意味し、「一寸の光陰」(わずかの時間)もないがしろにしてはいけないと詠います。
     後半、「春草」は春の若草のことで、池の堤に寝そべってまだ若いと思っていると、人はいつの間にか年をとってしまうと諭します。「階前」は中国の建築様式で中庭から堂に上がる階段のことです。その中庭に生えている「梧葉」(梧桐の葉)には、すでに秋風が吹いていると歳月が速く過ぎ去ることを詠います。

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     南宋31ー朱熹
       試院雑詩五首 其二   試院雑詩 五首  其の二

      寒燈耿欲滅     寒燈(かんとう)  耿(こう)として滅(めつ)せんと欲し
      照此一窓幽     此(こ)の一窓(いっそう)を照らして幽(ゆう)なり
      坐聴秋簷響     坐して秋簷(しゅうえん)の響きを聴(き)けば
      淋浪殊未休     淋浪(りんろう)として  殊(こと)に未(いま)だ休(や)まず

      ⊂訳⊃
              寒々と  灯りはまたたき消えようとし

              部屋にひとつの  窓を照らしてほの暗い

              坐して軒端の   雨だれの音を聞けば

              秋雨は  いつ止むともなく降りつづく


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「試院」(しいん)は科挙の試験場のことで、二十四歳のとき任官して地方官になり、任地の州で行われる解試に従事したときの作です。試験にかかわる役人は試験問題の作成中から試院に泊まり込み、合格者発表のときまで外出禁止でした。
     前半二句は試院の一室で、夜遅くまで仕事をしているのでしょう。部屋にひとつしかない窓を眺めて沈鬱な感じです。後半の「秋簷」は秋の軒端のことですが、「響」とあり、次句に「淋浪」(しとしとと降るようす)とありますので、秋雨が降っているのでしょう。部屋に坐して軒端から落ちる雨だれの音を聞いています。音はいつ止むともなくつづいていると、閉じこめられていることの退屈と閉塞感を詠います。 

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     南宋32ー林升
        題臨安邸            臨安の邸に題す

      山外青山楼外楼   山外(さんがい)の青山(せいざん)  楼外(ろうがい)の楼
      西湖歌舞幾時休   西湖(せいこ)の歌舞(かぶ)  幾時(いつ)か休(や)まん
      暖風熏得游人酔   暖風(だんぷう)  熏(くん)じ得て   游人(ゆうじん)酔(え)い
      直把杭州作汴州   直(ただ)ちに杭州を把(もっ)て汴州(べんしゅう)と作(な)す

      ⊂訳⊃
              山の彼方に青山あり  高楼は林立する

              西湖の歌舞音曲は   いつになったらやむのか

              暖かい風に吹かれて  ほろ酔い歩く人々よ

              杭州を都汴州とでも  思っているのか


     ⊂ものがたり⊃ 林升(りんしょう)は生没年不詳。経歴もつまびらかではありませんが、南宋四大家の時代に野にあった無名の知識人で、朱熹と同時代人です。孝宗の淳煕年間(1174ー1189)に士人であったといいます。詩題の「臨安(りんあん)の邸に題す」は、「臨安」(南宋の都:杭州)の旅宿の壁に書きつけた詩を意味します。
     はじめ二句は臨安の景です。遠くに緑の山々が幾重にも重なり、近くには幾つもの楼閣が競うように立ち並んでいます。「西湖」は西湖にのぞむ臨安の街を象徴的に呼んだものでしょう。都臨安は歌舞音曲に明け暮れていますが、いつやめるのかと政府当局者を批判します。
     後半、「暖風」は春の風。暖かい春風に包まれて人々はいっときの平安に酔って遊んでいるが、杭州を都「汴州」(北宋の都:河南省開封市)とでも思っているのか、と失地回復を忘れている人々を慨嘆します。 

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     南宋33ー辛棄疾
       青玉案 元夕            青玉案 元夕

      東風夜放花千樹   東風(とうふう)  夜(よる)放つ  花千樹(はなせんじゅ)
      更吹落星如雨     更に吹き落し  星  雨の如し
      宝馬雕車香満路   宝馬(ほうば)   雕車(ちょうしゃ) 香(こう) 路(みち)に満つ
      鳳簫声動        鳳簫(ほうしょう)は声(こえ)動き
      玉壺光転        玉壺(ぎょくこ)は光(ひかり)転じ
      一夜魚龍舞      一夜  魚龍(ぎょりゅう)舞う

      蛾児雪柳黄金縷   蛾児(がじ)   雪柳(せつりゅう)   黄金の縷(る)
      笑語盈盈暗香去   笑語(しょうご)  盈盈(えいえい)として暗香(あんこう)去る
      衆裏尋它千百度   衆裏(しゅうり)  它(かれ)を尋ぬ  千百度(せんひゃくど)
      驀然廻首        驀然(ばくぜん)  首(こうべ)を廻(めぐ)らせば
      那人却在        那(か)の人  却(かえ)って在り
      燈火闌珊処      灯火(とうか)  闌珊(らんさん)たる処(ところ)に

      ⊂訳⊃
              元宵節の夜に  春風は無数の花を咲かせ
              夜空の星を   雨のように吹き散らす
              飾立てた馬車  脂粉の香りは道にあふれ
              笛は   鳳凰のように鳴りわたり
              灯籠は  玉壺のように光りかがやき
              一晩中  魚龍の舞はつづくのだ

              さまざまな髪飾り   美女たちは
              笑いさざめきつつ  あでやかな香りを残していく
              一人を追いかけて  幾度となく行き来する
              見失い    ふと振りかえると
              そのひとは  ちゃんといた
              灯火の届かない  片隅に


     ⊂ものがたり⊃ 周必大や范成大は孝宗の心情にかなった政事家でした。淳煕十四年(1187)に上皇高宗が八十一歳の高齢で亡くなると、その二年後の淳煕十六年(1189)、すでに六十四歳になっていた孝宗は皇太子趙惇(ちょうとん:光宗)に譲位し、父高宗にならって上皇になります。
     そのとき光宗は四十三歳になっていましたが、以前から心疾をわずらい政務に不安がありました。ところが光宗の皇后李氏は上皇の政事介入を好まず、光宗を擁して実権を握ろうとします。紹煕五年(1194)六月、上皇孝宗が六十七歳で亡くなると、李皇后はいよいよ自分の天下がきたと思いますが、そのころ宰相の地位にいた趙汝愚(ちょうじょぐ)がそれをさえぎります。
     趙汝愚は呉太皇太后(高宗の皇后)を動かして光宗に譲位をせまり、皇太子趙拡(ちょうかく)が即位して南宋第四代の天子寧宗になります。趙汝愚が右丞相に就任して政権の中枢に立ったことはいうまでもありません。光宗の治世五年間は孝宗から寧宗に移る過渡期で、孝宗崩御の前年、紹煕四年(1193)九月に范成大が六十八歳でなくなっており、このことは南宋四大家時代の終わりを告げるできごとでした。
     生き残っていた陸游や朱熹、周必大らは寧宗初期の政事混乱に巻き込まれることになりますが、辛棄疾(しんきしつ)もそのひとりでした。辛棄疾は朱熹より十歳若い人ですが、孝宗期の詩人といえます。
     辛棄疾(1140ー1207)は斉州歴城(山東省済南市)の人。金の占領下に成長し、高宗の紹興三十一年(1161)、二十二歳のとき、金の海陵王軍が采石磯(さいせきき)の戦に敗れて動揺するなか、郷党の若者二千余人を集めて抗金に立ちあがり、耿京(こうきょう)の軍に投じます。耿京が味方を裏切った張安国(ちょうあんこく)に殺されると、辛棄疾は張安国を襲って捕らえ、金軍と戦いながら長江をわたり、建康(江蘇省南京市)で張安国を処刑し、臨安にいたって南宋に仕えました。
     孝宗の乾道四年(1168)に辛棄疾は建康通判に任じられ、滁州の知州事などを務めたあと、淳煕二年には江西の提点刑獄になります。頼文西(らいぶんせい)のひきいる茶商の暴動を鎮圧し、そのご各地の按撫使を歴任しますが、しばしば上書して対金主戦論をとなえたために講和派から弾劾されました。
     孝宗の淳煕九年(1182)、四十三歳のときに職を辞し、以後二十年間、信州(江西省上饒市)に隠棲しますが、寧宗の嘉泰三年(1203)、再び起用されて浙東安撫使兼知紹興府事になり、山陰(浙江省紹興市)に赴任します。その年末には都に召されて知鎮江府事になりますが、その抗戦論は韓侂冑(かんたくちゅう)に無視され、開禧三年(1207)、憂憤のうちに世を去りました。享年六十八歳です。
     詞題の「青玉案」(せいぎょくあん)は曲名で、その曲につけた詞です。「元夕」(げんせき:元宵節の夜)という副題がついており、元宵節は陰暦正月十五日、上元の節句のことです。元宵節は元宵観灯ともいわれ、その日は夜から宮殿や寺院、庶民の家の軒先にいたるまで、街路には灯籠がともされ、それを見物して歩く人で賑わいました。都臨安にきてはじめて元宵節に接した二十三歳のころの作品と思われます。
     上片のはじめ二句は灯籠が樹に花が咲いたように、あるいは星が空から降るように街中を飾っているさまを詠います。その夜は普段街にでない女性も着飾って観灯を楽しむことが許されていましたので、「宝馬 雕車 香 路に満つ」のです。また人々は魚や龍のお面をつけ、笛に合わせて踊り歩き、まるで龍宮城に遊ぶようでした。
     下片の「蛾児 雪柳 黄金の縷」は女性のさまざまな髪飾りのことで、女性たちをあらわします。美女たちが笑いさざめきながら脂粉の香をのこしていくのです。以下の四句は街ゆく女性たちのなかにひとりの娘をみつけ、あとを追って幾度も大通りを行き来するさまです。「驀然」は一散にすすむさまですが、心の動揺をしめすのでしょう。
     追いかけていた娘を見失って振り向くと、「那人」(その娘)は「燈火 闌珊たる処に」いました。「闌珊」は物事が尽きて衰えるさまで、娘が灯火のとどかない目立たない場所にいるのを見出したのです。  

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     南宋34ー辛棄疾
         鷓鴣天                鷓鴣天

      壮歳旌旗擁万夫   壮歳(そうさい)  旌旗(せいき)  万夫(ばんぷ)を擁(よう)し
      錦襜突騎渡江初   錦襜(きんせん)  突騎(とっき)  渡江(とこう)の初(はじ)め
      燕兵夜捉銀胡録   燕兵(えんぺい)  夜  銀胡録(ぎんころく)を捉(と)り
      漢翦朝飛金僕姑   漢翦(かんせん)  朝  金僕姑(きんぼくこ)を飛ばす

          ※ 三句目の「捉」と「録」は外字になるので同音の字に変えてあります。
             「捉」は女偏です。 「録」は革偏です。

      追往事         往事(おうじ)を追い
      歎今吾         今の吾(わ)れを歎(たん)ず
      春風不染白髭鬚   春風(しゅんぷう)も染めえず  白髭鬚(はくししゅ)
      卻将万字平戎策   却(かえ)って万字(ばんじ)の平戎(へいじゅう)の策を将(もっ)て
      換得東家種樹書   換(か)え得たり  東家(とうか)の種樹(しゅじゅ)の書(しょ)

      ⊂訳⊃
              若いころには  万余の兵を率いて旗を立て
              甲冑の騎馬と  江を渡って朝廷に帰す
              夜には  金の兵が矢袋をつかみ
              朝には  わが軍が翦を飛ばす

              昔を思い出すたびに
              今の自分が嘆かわしい
              春風も   私の白髭鬚を染めてはくれぬ
              かつては  一万字の対外策を献じたが
              いまでは  近所の農家に畑仕事を教わる身だ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「鷓鴣」(しゃこ)はキジ科の鳥で、ウズラに似てやや大きい鳥です。中国南部にひろく分布する種で、その鳴き声を聞くと江南にいることを実感するといいます。この詞には序に「客有り慨然として功名を談る。因って少年の時の事を追念して、戯れに作る」とありますから、晩年になってからの回顧作です。
     上片は若いころに抗金の兵をおこし、長江を渡って南宋の朝廷に帰したことを語ります。「燕兵」は金の軍隊。「銀胡録」は銀色の矢袋。「漢翦」は宋を漢に喩え、その箭。「金僕姑」は箭の名前です。
     下片では、昔を思うといまの自分が嘆かわしいと詠います。「春風」は万物を甦らせる風ですが、春風が吹いても白い口髭や顎鬚は黒くなりません。「万字の平戎の策」は「美芹十論」「九議」といった金軍侵攻の平定策を論じた自著をさし、それらの献策も採用にならず、「東家の種樹の書」つまり近所の農家から農作業を教わる身になったと嘆くのです。   

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     南宋35ー姜夔
        疏 影                疏 影        (上片十句)

      苔枝綴玉        苔(こけ)むす枝に玉(ぎょく)を綴(つづ)り
      有翠禽小小      翠禽(すいきん)の小小(いとちさ)き有り
      枝上同宿        枝上(しじょう)に同宿(どうしゅく)す
      客裏相逢        客裏(かくり)  相逢(あいあ)う
      籬角黄昏        籬角(りかく)  黄昏(こうこん)
      無言自倚修竹     言(げん)無く自(みずか)ら修竹(しゅうちく)に倚(よ)る
      昭君不慣胡沙遠   昭君(しょうくん)  胡沙(こさ)の遠きに慣(な)れず
      但暗憶江南江北   但(た)だ暗(ひそ)かに江南江北を憶(おも)うならん
      想佩環月夜帰来   想うに佩環(はいかん)  月夜(げつや)  帰り来たり
      化作此花幽独     化(か)して此の花と作(な)って幽独(ゆうどく)ならん

      ⊂訳⊃
              苔むす枝に  玉とつらなる梅の花
              青い小鳥が  飛んできて
              小枝の上で  共寝する
              旅の宿で   出逢った人のように
              黄昏どきに  籬の隅で
              竹に凭れて  無言でひとり立っている
              王昭君は   胡地の砂漠に慣れないまま
              ひたすらに  故国を偲んでいたというが
              思うに彼女の佩び玉が  月夜にひそかに帰ってきて
              ひとりひっそり  この花になったのだろう


     ⊂ものがたり⊃ 姜夔(きょうき:1155?ー1221?)は饒州鄱陽(江西省波陽市)の人。詩は黄庭堅(こうていけん)の詩風に学び、のち陸亀蒙(りくきもう)に傾倒しました。姜夔は辛棄疾(しんきしつ)よりも十五歳若い人ですが、辛棄疾とおなじ過渡期の詩人といえます。
     進士に及第せず、音律に明るかったので、朝廷の雅楽を正そうと上書しましたが用いられませんでした。一生仕官せず、長沙・漢陽・揚州・杭州の間を往来し、范成大(はんせいだい)や楊万里(ようばんり)と交わりました。楽曲にくわしく、自作の詞にみずから曲をつけるほどでした。詞では柳永(りゅうえい)・辛棄疾らと並んで四大家のひとりに数えられています。寧宗の嘉定十四年(1221)ころ平江(江蘇省蘇州市)で病没し、享年六十七歳くらいです。
     詞題の「蔬影」(そえい)はまばらな影のこと。光宗の紹煕二年(1191)、三十七歳の冬、石湖に隠棲していた范成大を訪れ、「暗香」「蔬影」の二曲をつくったと序にあり、いずれも梅花を主題とする詞です。
     上片のはじめ六句は梅の花の咲くさまを描くもので、「客裏 相逢う」と旅先で出逢った人(女性)に思いを重ねます。つづく四句は「昭君」(王昭君)の説話を援用し、匈奴の単于に贈られた王昭君が故郷(四川省興山県宝坪村)を思うあまり、彼女の「佩環」(佩び玉)が空を飛んでもどり、梅の花になったのであろうと幻想をくりひろげます。

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     南宋36ー姜夔
        疏 影                疏 影       (下片十一句)

      猶記深宮旧事     猶(な)お記す  深宮(しんきゅう)の旧事(きゅうじ)を
      那人正睡裏      那(か)の人   正(まさ)に睡裏(すいり)にありしとき
      飛近蛾緑        飛んで蛾緑(がりょく)に近づきしを
      莫似春風        似る莫(なか)れ  春風(しゅんぷう)の
      不管盈盈        盈盈(えいえい)たるに管(かん)せざりしに
      早与安排金屋     早く与(ため)に金屋(きんおく)を安排(あんばい)せよ
      還教一片随波去   還(ま)た一片をして波に随って去らしめ
      又卻怨玉龍哀曲   又(ま)た却(かえ)って玉龍(ぎょくりゅう)の哀曲(あいきょく)を怨(うら)む
      等恁時         恁(そ)の時を等(ま)って
      重覓幽香        重ねて幽香(ゆうこう)を覓(たず)ぬれば
      已入小窗横副     已(すで)に小窓(しょうそう)の横副(おうふく)に入れり

      ⊂訳⊃
              また思い出す  王宮での古い話を
              あの姫君が   眠っていたとき
              梅の花びらが  蛾眉の黛の近くに飛んできた
              春風よ       むやみに花を吹き散らすではない
              それよりも     はやく立派な宮殿をつくり
              なぜ大切に    守ってあげなかったのか
              また一ひらが  波のまにまに流れてゆき
              玉龍の笛が   哀しい音色で送っているのが怨めしい
              花の散るときになって
              ふたたびあの  奥深い香りを尋ねようとしたら
              すでに小窓の上の  横額のなかにはいっていた


     ⊂ものがたり⊃ 下片も故事が援用されています。「深宮の旧事」は南朝宋の武帝の娘寿陽公主が人日(正月七日)に含章殿の軒先で眠っていると、梅の花が公主の額に落ちて張りついたまま三日間も落ちませんでした。詞では「蛾緑に近づき」と書いてあり、梅花粧のおこりを伝える説話です。
     七句目の「金屋」は漢の武帝が幼いとき、のちに皇后となる阿嬌という幼女をみて、もしも阿嬌を妻にすることができたなら、美しい御殿を建てて住まわせようといったという「金屋蔵嬌」の故事をさします。また、つぎの二句もなんらかの故事を踏まえているかもしれませんが不明です。「玉龍」は笛の名で、笛の名曲に「梅花落」があるのを踏まえるものでしょう。
     結びの三句は花の散るときになって、ふたたびあの「幽香」(微かな香り)を訪ねようとしたら、梅の花は小窓のうえに架かっている「横副」(横額)のなかに納まっていた。つまり絵に描かれていたというのです。
     范成大は姜夔の二詞の出来栄えに感心して、自家の歌姫で小紅(しょうこう)という美女を姜夔に贈ったという話が伝わっています。

        ※ すでに初唐は、魏徴(1861ー1862)、駱賓王(1877)、劉希夷(1879ー1882)、
           陳子昂(1887・1889)しか残していません。
           南宋をつづけるため、以下の各時代についても重要でない作品は逐次
           削除する予定です。 

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     南宋37ー趙師秀
         約 客              客と約す

      黄梅時節家家雨   黄梅(こうばい)の時節(じせつ)  家家(かか)の雨
      青草池塘処処蛙   青草(せいそう)の池塘(ちとう)  処処(しょしょ)の蛙(あ)
      有約不来過夜半   約(やく)有るも来たらず  夜半を過ぎ
      敲棋子落燈火   (かん)に棋子(きし)を敲(たた)いて燈火(とうか)落つ

      ⊂訳⊃
              梅の実の熟する季節  降りつづく雨

              春草茂る池のほとり  いちめんの蛙の声

              碁を約束しているが  夜半を過ぎてもまだこない

              静かに碁石をうてば  灯火の燃え滓がぽとりと落ちる


     ⊂ものがたり⊃ 寧宗を擁立して右丞相に就任した趙汝愚(ちょうじょぐ)は、当時、道学の大成者として有名になっていた朱熹とその学派を中央に召し出して活躍の場を与えます。趙汝愚のねらいは、学者グループを登用して政事改革の姿勢を示すことにありました。
     寧宗擁立のとき趙汝愚は呉太皇太后の権威を借りましたが、太后の甥に韓侂冑(かんたくちゅう)という武官がおり、自分の姪を皇太子妃に立てていました。寧宗が即位すると韓侂冑の姪は皇后になり、たちまち権力を握って趙汝愚と対立します。
     慶元元年(1195)二月、韓侂冑は趙汝愚を弾劾して流罪に処し、朱熹らも在任四十五日で解任となります。翌年には朱子学は偽学の刻印を押され、朱熹の学徒は登用禁止になります。
     寧宗の前半、慶元・嘉泰年間(1195ー1204)は韓侂冑が政権基盤を拡充する時期です。孝宗期の安定した政事によって長江下流域の開発がすすみ、農業をはじめ陶磁器や絹織物など消費生活を豊かにする産業が爆発的に発展します。
     産業の発展とともに都市が拡大し、出版業が商業ベースに乗るようになり、日本でも有名な詞華集『三体詩』が刊行されました。『三体詩』は唐代の詩の名作集であるにもかかわらず、初唐や盛唐の詩はほとんど採択されていません。時代の好みは中唐や晩唐の詩に移っていました。
     その傾向を代表するのが趙師秀(ちょうししゅう)・翁巻・徐照・徐璣を併称する「永嘉四霊」(えいかしれい)です。四人はともに永嘉(浙江省温州市)の出身で、いずれも字(あざな)に霊の字を含むことから「永嘉四霊」と称されます。その詩風を四霊体といい、政事的な大議論とは無縁なところで日常の小さな世界のなかに安らぎをもとめる傾向の作品をつくりました。官職につかない者が多く、民間の詩のグループに詩作を教えたり、詩文を売ったりして生活していたようです。職業詩人のはじまりといえます。
     趙師秀(1170ー1219)は永嘉の人。宋の太祖八世の子孫で、光宗の紹煕元年(1190)に二十一歳で進士に及第します。江西方面の地方官を転々とし、筠州高安(江西省高安県)の推官を最後に隠退します。故郷に帰って閑居し、寧宗の嘉定十二年(1219)になくなります。享年五十歳です。
     詩題の「客(かく)と約す」は友人との約束です。碁をうつ約束をしましたが、約束の時刻が過ぎて夜半になってもやって来ません。そんな夜のひとときを詠います。はじめの二句は対句になっていますがシンプルな表現で、梅雨の季節、雨が降っていて蛙が鳴いています。戸外の音を聞きながら相手の来るのを待っていますが、いらだつようすはありません。
     結句の「」は静か、くつろぐという意味の語で、ゆったりした気分でひとり碁をうっていると、「燈火」(灯心の先の燃え滓)がぽとりと落ちました。中国では灯火の先が落ちるのは慶事の前兆とされており、友人が来なかったのを不吉に思っているわけではありません。

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     南宋38ー趙師秀
         数 日                数 日

      数日秋風欺病夫   数日の秋風(しゅうふう)    病夫(びょうふ)を欺(あざむ)き
      尽吹黄葉下庭蕪   尽(ことごと)く黄葉を吹いて  庭蕪(ていぶ)に下(おと)す
      林疎放得遥山出   林は疎(まば)らに放ち得て遥山(ようざん)出(い)で
      又被雲遮一半無   又た雲に遮(さえぎ)られて  一半(いっぱん)無し

      ⊂訳⊃
              秋風は病人の私を  あざ笑うように吹きつづけ

              樹々の枯れ葉を   庭の草むらに落としてしまう

              林を透かして  遠くの山が見えるようになったが

              雲に遮られて  また半分が見えなくなる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「数日」(すうじつ)は冒頭の語をとったもので、無題とおなじです。全体として老いの憂愁を詠っているようですが、表現は柔和です。「病夫」は自分のことで、数日来、秋風が病気の私を「欺」(あざむく、あなどる)、つまり小馬鹿にしたように吹き、樹々の黄葉(こうよう)も庭の草むらに落ちてしまいました。
     その結果、視野がひらけて遠くの山が見えるようになりましたが、すぐに雲に遮られて半分が見えなくなりました。強いて比喩を求める必要もなく、庭の眺めをとおして季節の変化をうたうものでしょう。

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     南宋39ー翁巻
        郷村四月              郷村の四月

      緑遍山原白満川   緑は山原(さんげん)に遍(あまね)く  白は川に満つ
      子規声裏雨如烟   子規声裏(しきせいり)   雨は烟(けむり)の如し
      郷村四月閑人少   郷村(きょうそん)の四月  閑人(かんじん)少(まれ)なり
      纔了蚕桑又插田   纔(わずか)に蚕桑(さんそう)を了(おわ)れば  又(ま)た田(でん)に插(さ)す

      ⊂訳⊃
              山も野原もみどり色  川は白くかがやき

              煙るような雨の中を  不如帰が鳴きしきる

              四月の村に  暇な人間は稀である

              蚕がすめば  田植えが待っている


     ⊂ものがたり⊃ 翁巻(おうけん)は生没年不詳。永嘉(浙江省温州市)の人といいます。孝宗の淳煕十年(1183)に郷薦(きょうせん)をうけ、寧宗の嘉定四年(1211)に徐照(じょしょう)が死んだとき存命でした。だから孝宗から寧宗の時代にかけて在世したことになります。生涯官職につかず、趙師秀をたよって筠州に旅したり、閩地(福建省)に遊んだりしました。晩年は妻子とともに永嘉の山中にこもりました。
     詩は住んでいる村のようすを描きます。はじめ二句は自然のたたずまいです。山野の緑と川の白、「子規」(ほととぎす)の声と煙雨が描かれます。後半農民を思いやるのですが、政事批判をするわけではなく農家の忙しさを詠うだけです。

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     南宋40ー翁巻
       即事言懐           即事 懐を言う

      賦得拙疎性     賦(ふ)し得たり  拙疎(せっそ)の性(せい)
      合令蹤跡賖     合(まさ)に蹤跡(しょうせき)をして  賖(とお)から令(し)むべし
      相親惟野客     相親しむは  惟(た)だ野客(やかく)
      所論是詩家     論ずる所は  是(こ)れ詩家
      聴雨眠僧屋     雨を聴いて  僧屋(そうおく)に眠り
      看雲立釣槎     雲を看ては  釣槎(ちょうさ)に立つ
      秋来有新句     秋来(しゅうらい)  新句(しんく)有るも
      多半為黄花     多半(たはん)は  黄花(こうか)と為(な)す

      ⊂訳⊃
              詩に詠うのは  世渡りべたのことばかり
              結局は     世間と遠い場所にいる
              親しい友は   在野の人ばかり
              論じ合うのは  詩人のこと
              雨の音を聞きながら  寺で眠り
              雲を見ながら  筏で釣りをする
              秋になって   一句浮かんだと思ったら
              おおかたは   菊の花のことだった


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「即事」(そくじ)は眼前の事柄を詠うことで、自己をかえりみて田園閑居の感懐をのべます。はじめの二句でまず自分の性(さが)を概観します。「拙疎」は世渡りの拙さと世事に疎いこと、「蹤跡」は足あと、行跡です。「賖」は遠い、遥かの意味で、俗世間からかけ離れていると反省、もしくは自任するのです。
     中四句ではそんな自分の日常を語ります。親しい友人は在野の者ばかり、語り合うのは詩人のこと。雨の日は寺で居眠りをし、晴れた日には雲をみながら「釣槎」(筏での釣り)をします。結びの二句では、だから秋になって「新句」(気のきいた新しい句)が浮かんでも、多くは「黄花」(菊の花)のことばかり、世間とは関係ないと詠います。 

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     南宋41ー徐照
       過鄱陽湖            鄱陽湖を過ぐ

      港中分十字     港中(こうちゅう)  十字を分(わか)ち
      蜀広亦通連     蜀広(しょくこう)も亦  通じ連(つら)なる
      四望疑無地     四望(しぼう)   地(ち)無きかと疑い
      孤舟若在天     孤舟(こしゅう)  天に在るが若(ごと)し
      龍尊収巨浪     龍(りゅう)  尊(たか)くして巨浪(きょろう)を収め
      鷗小没蒼煙     鷗(かもめ)  小にして蒼煙(そうえん)に没す
      未渡皆驚畏     未だ渡らざるとき  皆  驚畏(きょうい)するも
      吾今已帖然     吾(わ)れ今  已(すで)に帖然(ちょうぜん)

      ⊂訳⊃
              港のなかは  舟が縦横に行き来し
              西の蜀や   東の広州まで通じている
              四方を眺め  陸地はないのかと疑い
              舟はまるで  天空に浮かんでいるかのようだ
              龍神の力は  大波をしずめ
              小さな鷗も  灰色の靄のなかへ飛んでいく
              渡るまえは  みな畏れおののいていたが
              いまは私も  ゆったりと落ちついている


     ⊂ものがたり⊃ 徐照(じょしょう:?ー1211)は永嘉(浙江省温州市)の人。生涯官職につかず、湖南・江西を旅したり、永嘉の山中に廬を結んで住んだりしました。のちに街中の江心寺のわきに移り、寧宗の嘉定四年(1211)になくなります。
     詩題の「鄱陽湖」(はようこ)は江西北部の湖です。西側に廬山をひかえる景勝の地でした。徐照には旅での作が多く、詩作の指導や吟遊会のような催しをして暮らしていたようです。詩は二句ずつ時間の流れを追って展開し、わかりやすく書かれています。こんな風につくればいいのですよと、お手本を示すのでしょう。
     はじめの二句は湖岸の渡津のようすです。「港中 十字を分ち」は港の中を舟が縦横十文字にゆきかっていること。その航路は「蜀広」(西は蜀、東は広州)に通じていると展望をしめします。ついで舟を湖上に漕ぎ出します。湖はひろくて水平線をめぐらすだけです。まるで空中に浮かんでいるような気がします。
     なんだか不安な気もしますが、湖に棲む龍神は「尊」(偉大な力の持ち主)で、大波をしずめてくれるし、空飛ぶ鷗は小さいけれど、悠々と飛んで靄のなかに消えてゆきます。自分たちの舟も安心だというのです。
     結びは舟が向こう岸に着いたときの感懐で、渡る前はみな驚き恐れていたけれど、渡りおえたいまは「帖然」(ゆったりと落ちついているさま)としているなあ、とにっこり笑うのでしょう。 

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     南宋42ー徐璣
        憑 高              高きに憑る

      憑高散幽策     高きに憑(よ)って  幽策(ゆうさく)を散ずれば
      緑草満春坡     緑草(りょくそう)  春坡(しゅんぱ)に満つ
      楚野無林木     楚野(そや)     林木(りんぼく)無く
      湘山似水波     湘山(しょうざん)  水波(すいは)に似たり
      客懐随地改     客懐(かくかい)  地に随って改まり
      詩思出門多     詩思(しし)  門を出(い)づれば多し
      尚有渓西寺     尚(な)お   渓西(けいせい)の寺
      斜陽未得過     斜陽(しゃよう)  未(いま)だ過ぎるを得(え)ざる有り

      ⊂訳⊃
              丘へ向かって  ひとり静かに散策すれば
              緑の春草が   池の堤に満ちている
              楚地の野には  視界をさえぎる林はなく
              湘水の山並は  波のうねりのように低くつらなる
              旅の思いは   歩くにしたがって移りかわり
              門を出れば   詩情が豊かに湧いてくる
              谷川の西の寺に  赤い夕陽が照り映えて
              日暮れにはまだ  余裕がありそうだ


     ⊂ものがたり⊃ 徐璣(じょき:1162ー1214)は晋江(江蘇省武進県)を本貫としますが、父の代に永嘉(浙江省温州市)に移り住みました。建安の主簿、龍渓の丞、武当の令、長泰(以上、福建省)の令、永州(湖南省永州市霊陵県)の掾と属僚を転々とし、寧宗の嘉定七年(1214)に亡くなります。享年五十三歳です。
     詩題の「高きに憑る」は冒頭の二語を取り、九月九日重陽の節句に小高い丘に登ることです。詩に「楚野」「湘山」「客懐」の語がありますので、永州在任のときの作と思われます。「幽策」の策は杖のことで、ひとり静かに散歩をすること。以下、小高い丘の小径をたどりながら展開する風景を描きます。
     「楚野」は楚地の野、水田が拡がっていて視界をさえぎる林はありません。「湘山」は湘水の流れにそった山なみのことで、波のうねりのように低くつらなっています。「客懐」は旅の思い。他郷から来たという思いは歩くにしたがって移りかわり、詩情は門をでたときから豊かに湧いています。丘のうえから眺めると、谷の西側の寺に夕陽が照り映え、かえりの時間にはまだ余裕があると、高処からの眺めを楽しむのです。

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