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tiandaoの自由訳漢詩

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     南宋43ー戴復古
        淮村兵後               淮村 兵後

      小桃無主自開花   小桃(しょうとう)  主(しゅ)無くして  自(おのず)から花を開き
      煙草茫茫帯晩鴉   煙草(えんそう)  茫茫(ぼうぼう)として晩鴉(ばんあ)を帯(お)ぶ
      幾処敗垣囲故井   幾処(いくしょ)の敗垣(はいえん)か 故井(こせい)を囲む
      向来一一是人家   向来(きょうらい)一一(いちいち)   是(こ)れ人家

      ⊂訳⊃
              ひと気のない庭の  小さな桃の木に花が咲き

              草原は靄に包まれ  日暮れに鴉が飛んでいる

              壊れた垣根が  涸れた古井戸のまわりを囲む

              これらの家は  かつては人の住みかであった


     ⊂ものがたり⊃ 「永嘉四霊」たち四人は寧宗の嘉定年間はじめになくなっていますので、開禧末年の政変を耳にしたはずですが、政権から遠いところにいました。韓侂冑は慶元五年(1199)に平原郡王に封じられ、政権の頂点にいましたが、一個の野心家に過ぎませんでした。
     韓侂冑は伐金の功をあげて自己の権威を盤石にしようと考え、開禧元年(1205)六月に軍の北上をはじめます。翌二年五月には寧宗を説得して宣戦の詔勅を発し、本格的な戦闘を開始しますが、十月になると金が反撃に転じ、宋軍は破れて退きます。宋朝では北伐に対する反対の動きがはじまり、開禧三年十一月、講和派の史弥遠(しびえん)は参内途中の韓侂冑を殺害し、その首を金に送って講和を成立させます。
     「永嘉四霊」につづく詩人たちを「江湖派」といいますが、江湖というのは朝廷に対する在野、官に対する民間のことで、「永嘉四霊」もひろい意味では江湖派といえるでしょう。その背景には江南の都市の繁栄にもとづく新しい富裕層の興隆があり、詩文への関心がありました。江湖派の代表とされる戴復古(たいふっこ)や劉克荘は社会派の視点もそなえた知識人で、江湖派のなかでは例外的な存在といえるでしょう。
     戴復古(1167ー1248?)は台州黄厳(浙江省黄石県)の人。父載敏(たいびん)が農民詩人であったことから詩を学びます。仕官をせず、浙江・福建・広西・湖南・江西・江蘇の各地を旅し、陸游・趙師秀・翁卷・劉克荘らと交流します。寧宗の嘉定元年(1208)、宋金和約のときは四十二歳でした。
     戴復古は遊歴の詩人として名をあげ、職業詩人として生涯をすごします。理宗の淳和元年(1241)に故郷に帰りますが、そのときは七十五歳になっていました。黄厳郊外の石屏山に住み、淳和八年(1248)ころになくなります。享年八十二歳くらいです。
     詩題の「淮村(わいそん) 兵後」は淮水付近の村の兵乱後という意味で、社会派の視線がみられます。無人の家の庭に小さな桃の木が花咲いていました。あたりは「煙草」(靄に包まれた草原)で、空には日暮れの鴉が飛んでいます。目を移すと、毀れた垣根が古い涸れ井戸を囲んで残っています。これらの家はみなかつて人が住んでいた家で、戦争のためにいなくなってしまったのだと乱世を嘆くのです。

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     南宋44ー戴復古
        江村晩眺              江村の晩眺

      江頭落日照平沙   江頭(こうとう)の落日(らくじつ)  平沙(へいさ)を照らし
      潮退漁艠擱岸斜   潮(うしお)退いて  漁艠(ぎょとう)  岸に擱(お)かれて斜めなり
      白鳥一双臨水立   白鳥一双(いっそう)  水に臨(のぞ)んで立つ
      見人驚起入蘆花   人を見て  驚起(きょうき)して葦花(ろか)に入る

        ※ 二句目の「艠」は旁が「刀」です。外字になるので同音の字に変えています。

      ⊂訳⊃
              沈もうとする夕陽が  岸辺の砂を赤く照らし

              干潟になった岸に   舟が斜めに傾いている

              水辺に立っている   白鳥のつがいが

              人に驚き飛び立って  葦の花咲く茂みにきえる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「江村」は川辺の村とも長江の近くの村とも解せます。その日暮れの眺めです。川のむこうに夕陽が沈もうとして、川辺の「平沙」(平らな砂浜)を照らしています。水のひいた岸辺に「漁艠」(細身の釣り舟)が斜めに傾いて残されています。水辺につがいの白鳥がいて、人影に驚いて飛びたち、花の咲いた葦の茂みに消えてゆきました。静寂のなかの動きがとえられています。

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     南宋45ー劉克荘
       湖南江西道中             湖南江西の道中

      丁男放犢草間嬉   丁男(ていだん)は犢(こうし)を放って草間(そうかん)に嬉(たわむ)れしめ
      少婦看蚕不画眉   少婦(しょうふ)は蚕(かいこ)を看て眉(まゆ)を画(えが)かず
      歳暮家家禾絹熟   歳暮(さいぼ)  家家(かか)  禾絹(かけん)熟し
      萍郷風物似豳詩   萍郷(ひょうきょう)の風物   豳詩(ひんし)に似たり

      ⊂訳⊃
              男たちは  子牛を放牧して草原に遊ばせ

              女たちは  養蚕が忙しくて化粧もしない

              収穫の秋には  家々に穀物がみのり

              萍郷一帯は   豳風「七月」の詩のようだ


     ⊂ものがたり⊃ 劉克荘(りゅうこくそう:1187ー1269)は莆田(福建省莆田県)の人。戴復古より二十歳若く、孝宗の淳煕十四年(1187)に生まれました。若いころは「永嘉四霊」の時代でしたので、その影響を受けます。嘉定元年(1208)の和約のとき二十二歳でした。嘉定年間に建陽(福建省)の令になりますが、権臣史弥遠(しびえん)を諷した詩を書いて弾劾され、官を追われます。
     10年後、鄭清之(ていせいし)の弁護によって赦され、理宗の淳和六年(1246)に進士の資格をあたえられて秘書少監兼中書舎人になります。史弥遠の子で右丞相兼枢密の史嵩之(しすうし)を弾劾して名をあげ、累進して龍図閣直学士にいたります。致仕して度宗の咸淳五年(1296)に亡くなりました。享年八十三歳です。
     詩題の「湖南江西の道中」は湖南から東の江西にむかう旅の途中での作という意味です。前半二句は農村の人々の勤勉なはたらきを描きます。「丁男」は働きざかりの男たち、「少婦」は若い妻たちです。後半はそうした働きの結果、秋には豊かな「禾絹」(みのり)がもたらされ、ここ「萍郷」一帯は「豳詩」(『詩経』豳風の詩)のように平和であると褒めます。
     具体的には豳風「七月」の詩をさし、周公丹が豳(陝西省岐山の北一帯)時代の先祖の農事を偲んでつくったとされる詩のことで、古代の理想的な郷村生活を意味します。   

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     南宋46ー劉克荘
       北来人 其一        北より来たりし人 其の一

      試説東都事     試(こころ)みに東都(とうと)の事を説(と)けば
      添人白髪多     人の白髪(はくはつ)を添(そ)うること多し
      寝園残石馬     寝園(しんえん)には石馬(せきば)残(そこな)われ
      廃殿泣銅駝     廃殿(はいでん)には銅駝(どうだ)泣く
      胡運占難久     胡運(こうん)    久しきこと難(かた)しと占(うらな)うも
      辺情聴易訛     辺情(へんじょう)  訛(いつわ)り易(やす)きに聴(まか)す
      淒涼旧京女     淒涼(せいりょう)なり  旧京(きゅうきょう)の女(おんな)
      妝髻尚宣和     妝髻(しょうきつ)  宣和(せんわ)を尚(たっと)ぶ

      ⊂訳⊃
              こころみに    都汴京のお話をすると
              悲しみで     白髪の増えることばかり
              天子の御陵の  石馬はこわされ
              荒れた宮殿の  銅の駱駝は泣いている
              金の命運も   永くはないという人もいるが
              辺境の噂には  出鱈目が多いのに信じている
              痛ましいのは  古い都の女たち
              衣装や髪形は  宣和の風を守っている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「北より来たりし人」は金の占領地から逃れてきた人の意味です。北から逃げてきた人に成りかわって亡国の民の悲哀をのべ、政府への失望を詠います。はじめの二句で全体的な感懐をのべ、中四句二聯の対句と結びの二句で詳述します。
     「東都」は東都洛陽のことで、都汴京というべきところ漢を借りています。「寝園」は天子の陵、参道には石人石馬がならんでいました。「廃殿には銅駝泣く」は、晋の文人索靖(さくせい)が漢の洛陽の宮門にあった駱駝の像が荊のなかに埋もれているのをみて悲しんだ故事によります。「妝髻」は衣服の飾りと髪形のこと。「宣和」は北宋徽宗の年号で、旧都の女性は昔の風俗を守って天子の帰還を待っていると詠います。               

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     南宋47ー劉克荘
       北来人 其二      北より来たりし人 其の二

      十口同離仳     十口(じっこう)  同じく離仳(りひ)し
      今成独雁飛     今  独雁(どくがん)と成(な)って飛ぶ
      飢鋤荒寺菜     飢えては荒寺(こうじ)の菜(さい)を鋤(す)き
      貧著陥蕃衣     貧しくして陥蕃(かんばん)の衣(ころも)を着る
      甲第歌鍾沸     甲第(こうてい)には歌鍾(かしょう)沸き
      沙場探騎稀     沙場(さじょう)には探騎(たんき)稀(まれ)なり
      老身閩地死     老身(ろうしん)  閩(びん)の地に死し
      不見翠鑾帰     翠鑾(すいらん)の帰るを見ざらん

      ⊂訳⊃
              家族十人は  離ればなれとなり
              私はいま   ひとりぼっちの雁となって飛んできた
              飢えては   荒れ寺で野菜をつくり
              貧しいので  占領地にいたときの服のままだ
              お屋敷では  歌舞音曲のにぎわいだが
              北の砂漠に  斥候の騎馬のでるのも稀という
              老いて私は  故郷に骨を埋めるだろう
              都にもどる翠輦を  目にすることもかなわずに


     ⊂ものがたり⊃ 其の二の詩では北から来た人々の苦難の生活を描き、講和に安住している政府高官を批判します。「十口」は十人の家族。家族は散りじりになって、自分はいま孤独な雁となって南へやってきた。「陥蕃の衣」は占領地の蛮夷の服装のことで、貧しいので北にいたときの衣服をそのまま着ていると詠います。
     後半の「甲第」は立派な屋敷。高位高官の邸宅では歌や音楽で賑やかだが、「沙場」(砂漠)には斥候の騎兵も稀だと政府の消極策を批判します。尾聯の「閩」は福建省のことで、作者の出身地です。老いた自分は、やがて故郷に骨を埋めることになるだろう。「翠鑾」(天子の乗輿)が古都にもどるのを見ることもできずにと結びます。

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     南宋48ー呉文英
         唐多令                 唐多令

      何処合成愁      何(いず)れの処(ところ)か  合(まさ)に愁いを成すべき
      離人心上秋      離人(りじん)  心上(しんじょう)の秋
      縦芭蕉不雨他颸颸  縦(たと)い  芭蕉(ばしょう)  雨ふらずとも  他(ま)た颸颸(しゅうしゅう)
      都道晩凉天気好   都(みな)   晩凉(ばんりょう)  天気好しと道(い)うも
      有名月 怕登楼    名月(めいげつ)有れば  楼(ろう)に登るを怕(おそ)る
      年事夢中休      年事(ねんじ)  夢中(むちゅう)に休(や)む
      花空煙水流      花(はな)空しくして  煙水(えんすい)流る
      燕辞帰 客尚淹留  燕(つばめ)  辞帰(じき)して  客  尚(な)お淹留(えんりゅう)
      垂柳不縈裙帯住   垂柳(すいりゅう)  裙帯(くんたい)を縈(まと)い住(とど)まらず
      漫長是 繋行舟    漫(みだ)りに長く是(こ)れ  行舟(こうしゅう)を繋(か)く

            ※ 三句目の「颸颸」(しし)は外字になるので変えています。
              本来は「思」の部分が「叟」で「しゅうしゅう」と読みます。

      ⊂訳⊃
              人が悲しい気持ちになるのは  どんなときであろうか
              旅する者が  心に秋を感じるとき
              芭蕉の葉は  雨にうたれなくてもさわさわと鳴り
              秋の夜は涼しくて  天気もいいというが
              明月がでても     高楼に登るのはいやだ
              過ぎ去った歳月の  さまざまなことは夢と消え
              花は散り果て     靄の中を流れる川のようだ
              燕は帰っていくが  旅人の私はとどまっている
              しだれ柳は  あの人を引き止めてはくれず
              いつまでも  私を舟に繋ぎ止めているだけだ


    ⊂ものがたり⊃ 宋詞のもうひとつの流れである詞については、劉克荘より十四歳ほど若い呉文英(ごぶんえい)がいます。呉文英(1200?ー1260?)は四明(浙江省寧波市)の人。憲宗の慶元六年(1200)ころに生まれ、南宋最後の詞人といわれています。
     官職についたことはなく、権門富貴の家に出入りして作品を提供し、生活の資をえていたようです。残した作品の数は宋代随一といわれ、艷麗かつ優美な作風が南宋末期の有閑富裕の人々に好まれました。理宗の景定元年(1260)ころになくなり、享年六十歳くらいです。
     詞題の「唐多令」(とうたれい)の令は歌という意味で、曲名を示します。二、三、二、三と区切りながら、全体として女性と別れて旅をつづける嘆き、悲しみを詠います。はじめの二句は導入の問いと答え、自問自答と考えることもできます。つぎの三句では「心上の秋」を具体的にしめします。
     芭蕉の葉がさわさわと鳴る音にも心をうたれ、秋の夜は涼しく、晴れて気持ちがよいのですが、そんな夜に美しい月がでたといっても、月が女性を思い出させるので高楼に登るのはいやだといいます。「楼」は女性の家を連想させる語でもあります。
     後半もさまざまな景をならべて、女性といっしょになれない悲しみを詠います。はじめ二句の「年事」は過ぎ去った年のいろいろな出来事。つまり恋の日々は夢のように消え去り、「花」(美しい出来事)は「煙水」(靄に包まれた流れ)のように捉らえどころがありません。
     つづく三句、渡り鳥の燕は南へ帰っていくのに、「客」(旅人である私)はまだ旅をつづけています。しだれ柳は別れていく人の「裙帯」(裳裾と帯、女性の意味でもあります)にしがみついて引き止めるといいますが、あの人は引き止めてくれませんでした。柳はただいたずらに私の乗る舟を繋ぎ止めているだけだったと嘆きながら結びとします。

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     南宋49ー呉文英
         風入松               風入松

      聴風聴雨過清明   風を聴き雨を聴いて清明(せいめい)を過(おく)り
      愁草痤花銘      愁いつつ草(そう)す  花を痤(うず)むる銘(めい)
      楼前緑暗分攜路   楼前(ろうぜん)  緑は暗(くら)し  分攜(ぶんけい)の路(みち)
      一糸柳 一寸柔情  一糸(ひとすじ)の柳  一寸(いっすん)の柔情(じゅうじょう)
      料峭春寒中酒     料峭(りょうしょう)たる春寒(しゅんかん)  酒に中(あた)り
      交加暁夢啼鶯     交々(こもごも)加う   暁夢(ぎょうむ)の啼鶯(ていおう)

      西園日日掃林亭   西園(せいえん)  日日(ひび)に林亭(りんてい)を掃(はら)い
      依旧賞新晴      旧(きゅう)に依(よ)って新晴(しんせい)を賞す
      黄蜂頻撲鞦韆索   黄蜂(こうほう)   頻(しき)りに撲(う)つ  鞦韆(しゅうせん)の索(つな)
      有当時纎手香凝   当時の纎手(せんしゅ)の香(にお)いの凝(こ)りし有らん
      惆悵双鴛不到     惆悵(ちゅうちょう)す  双鴛(そうえん)の到らずして
      幽階一夜苔生     幽階(ゆうかい)  一夜(いちや)にして苔(こけ)の生ぜしを

      ⊂訳⊃
              風の音  雨の音を聞きながら清明節をおくり
              愁いに沈みつつ  花をとむらう銘文を書く
              別れを惜しんだ  楼前の道に緑濃く
              ひとすじの柳に  一寸の恋の思いがこもっている
              春なお肌寒く    二日酔いものこり
              明け方の夢に   鶯の鳴く音がまぎれこむ

              あの日から  西園の東屋を日ごとに掃き
              昔のように  雨あがりの眺めをめでる
              黄色い蜂が  鞦韆の綱をつついているが
              あのときの  指の匂いがついているのであろうか
              嘆かわしいのは  小さな靴がこなくなって
              一夜のうちに    苔が階をおおったことだ


     ⊂ものがたり⊃ 詞題の「風入松」(ふうにゅうしょう)は松に吹きいる風という意味です。上片の二句目に「花を痤むる銘」とありますが、死者のために書く銘文ではなく、別れた女性をしのぶ歌の意味でしょう。詞は二句ずつ区切って展開し、はじめの二句は序です。清明節のころは晴れた日の多い季節ですが、風雨の音を聞きながらこの詞を書いたといいます。
     つぎの二句は女性と別れた場所とそのときの切ない思いでしょう。上片のおわり二句は現在のことで、清明節過ぎなのに肌寒く、二日酔いののこる朝、明け方の夢に鶯の鳴く音がでてくるといった侘びしさです。
     下片は上片より少しあとのことでしょう。かつての恋の日々を懐かしむ思いにみちています。自宅の西園の「林亭」(林のなかのあずまや)は思い出の場所でしょう。そこを綺麗にして、昔のように雨あがりの景色を眺めます。つぎの二句は蜂が「鞦韆」(ぶらんこ)の索をしきりにつついていますが、女性が鞦韆を漕いだときの指の匂いがのこっているのだろうかと、優艷な想像をします。
     結びの二句の「双鴛」はつがいの鴛鴦(おしどり)のことですが、纏足した女性の小さな靴跡の意味があります。つまり女性がこなくなったので、「幽階」(奥まったきざはし)を苔が一夜のうちにおおいつくしてしまったと嘆くのです。   

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     南宋50ー文天祥
        除 夜               除 夜

      乾坤空落落     乾坤(けんこん)  空(むな)しく落落(らくらく)
      歳月去堂堂     歳月(さいげつ)  去って堂堂(どうどう)
      末路驚風雨     末路(まつろ)   風雨(ふうう)に驚き
      窮辺飽雪霜     窮辺(きゅうへん)  雪霜(せつそう)に飽(あ)く
      命随年欲尽     命(めい)は年(とし)に随って尽きんと欲(ほっ)し
      身与世倶忘     身(み)は世と倶(とも)に忘れらる
      無復屠蘇夢     復(ま)た屠蘇(とそ)の夢(ゆめ)無し
      挑燈夜未央     燈(ともしび)を挑(かか)ぐれば  夜(よる)未(いま)だ央(なかば)ならず

      ⊂訳⊃
              天地は果てしなくひろがり
              歳月は遠いかなたへ去っていく
              旅の終わりに  激しい風雨に驚かされ
              最果ての地で  雪や霜に悩まされる
              わたしの命は  年の終わりとともにつきようとし
              何れこの身は  過ぎ去る世とともに忘れ去られるだろう
              いまはもう    一家で屠蘇を祝う夢もなくなり
              灯心を切るが  夜はまだなかばに達していない


     ⊂ものがたり⊃ モンゴル高原でチンギス汗が興り、まず金の中都(北京)を落とし、転じて西征しイスラムの国々を席巻した話は、あまりにも有名ですので略します。モンゴル軍が本格的に南宋を攻めるのは第四代ムンケ汗になってからです。そのときの宋の宰相は賈似道(かじどう)でした。
     ムンケ汗の死後、第五代汗になったフビライが南宋攻撃に本腰を入れてきたのは元の至元四年(1264)のことで、賈似道は都督諸路軍馬(国軍総司令官)になって防戦の指揮を取ります。恭帝の徳裕二年(1276:元の至元十三年)に臨安は陥落し、恭帝は捕えられて大都(北京)に送られます。しかし、そのごも南宋の遺臣による抵抗がつづき、文天祥(ぶんてんしょう)はそのひとりです。
     文天祥(1236ー1283?)は吉州廬陵(江西省吉水県)の人。理宗の宝祐四年(1256)、二十一歳のときに状元(首席)の成績で進士に及第し、任官して直言をはばかりませんでした。玉牒書検討のとき、権臣賈似道の意に逆らって退官させられます。度宗の咸淳九年(1273)に湖南の提刑になりますが、そのときはすでに宋の命運は尽きようとしていました。
     モンゴル軍の南下に抵抗していた襄陽(湖北省襄樊市)も陥落し、諸方に勤王の兵が募られます。文天祥は詔に応じて兵を起こし、招かれて右丞相兼枢密使に任じられ、モンゴル軍への使者を命じられます。敵陣に乗りこんで元の将軍バヤンと論争して捕らえられますが、隙をみて脱出します。真州(江蘇省儀微県)をへて温州(福建省)にいたり、兵を江西に出しますが敗退、衛王の祥興元年(1278)十月に五坡嶺(広東省豊県の北)でモンゴル軍に捕らえられました。
     モンゴル軍は文天祥を帰順させようとしますが屈せず、大都の護送されます。護送中の祥興二年(1279)に宋は最終的に滅亡し、文天祥は十月一日に大都に着きました。フビライ汗は文天祥の才を惜しんで帰順させようとしますが、あくまで節を枉げず、土牢に幽閉されること三年におよびます。至元十九年(1282)もしくは翌二十年に大都の柴市に引きだされて処刑されました。享年四十八歳くらいです。
     文天祥の詩はいくつか挙げられますが、最後の一首だけを掲げます。詩題の「除夜」(じょや)は大晦日の夜のことで、その夜の心境を詠うものです。刑死の二年くらいまえの作品と推定されています。このとき文天祥は土牢に閉じ込められていましたが、有名な大作「生気の歌」もこのころに作られたと考えられています。
     序文によると間口二・五㍍、奥行き十㍍くらいの土牢であったといいます。その狭いじめじめした土牢のなかで、空間も時間もかぎりなく広く大きいと詠います。頷聯は自分の現状で、「飽」はいやというほど悩まされていること。頚聯ではやがて自分は殺されるであろうと予感を述べます。「世」は自分が守ろうとした宋王朝のことで、王朝が終わると自分も忘れ去られてしまうであろうというのです。
     そして尾聯は家族への思いです。詩は大晦日の夜に作られましたので、明ければ元日です。家族とともに屠蘇を飲むこもできなくなったと嘆きながら、灯心を切って灯火を明るくしますが、夜はまだなかばにも達していないと眠られない夜を嘆くのです。

        ※ 以上で南宋を終了します。あと金・元・明・清とつづける準備は
           できていますが、そのためには唐・宋詩の多くを削除しなけれ
           ばなりません。すでにかなり削除しています。唐宋時代は漢詩
           の最盛期ですので、削除するのは惜しく、ここでしばらく中断
           して保存したいと思います。
           永らくの閲覧ありがとうございました。

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     南宋32ー林升
        題臨安邸            臨安の邸に題す

      山外青山楼外楼   山外(さんがい)の青山(せいざん)  楼外(ろうがい)の楼
      西湖歌舞幾時休   西湖(せいこ)の歌舞(かぶ)  幾時(いつ)か休(や)まん
      暖風熏得游人酔   暖風(だんぷう)  熏(くん)じ得て   游人(ゆうじん)酔(え)い
      直把杭州作汴州   直(ただ)ちに杭州を把(もっ)て汴州(べんしゅう)と作(な)す

      ⊂訳⊃
              山の彼方に青山あり  高楼は林立する

              西湖の歌舞音曲は   いつになったらやむのか

              暖かい風に吹かれて  ほろ酔い歩く人々よ

              杭州を都汴州とでも  思っているのか


     ⊂ものがたり⊃ 林升(りんしょう)は生没年不詳。経歴もつまびらかではありませんが、南宋四大家の時代に野にあった無名の知識人で、朱熹と同時代人です。孝宗の淳煕年間(1174ー1189)に士人であったといいます。詩題の「臨安(りんあん)の邸に題す」は、「臨安」(南宋の都:杭州)の旅宿の壁に書きつけた詩を意味します。
     はじめ二句は臨安の景です。遠くに緑の山々が幾重にも重なり、近くには幾つもの楼閣が競うように立ち並んでいます。「西湖」は西湖にのぞむ臨安の街を象徴的に呼んだものでしょう。都臨安は歌舞音曲に明け暮れていますが、いつやめるのかと政府当局者を批判します。
     後半、「暖風」は春の風。暖かい春風に包まれて人々はいっときの平安に酔って遊んでいるが、杭州を都「汴州」(北宋の都:河南省開封市)とでも思っているのか、と失地回復を忘れている人々を慨嘆します。 

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     南宋33ー辛棄疾
       青玉案 元夕            青玉案 元夕

      東風夜放花千樹   東風(とうふう)  夜(よる)放つ  花千樹(はなせんじゅ)
      更吹落星如雨     更に吹き落し  星  雨の如し
      宝馬雕車香満路   宝馬(ほうば)   雕車(ちょうしゃ) 香(こう) 路(みち)に満つ
      鳳簫声動        鳳簫(ほうしょう)は声(こえ)動き
      玉壺光転        玉壺(ぎょくこ)は光(ひかり)転じ
      一夜魚龍舞      一夜  魚龍(ぎょりゅう)舞う

      蛾児雪柳黄金縷   蛾児(がじ)   雪柳(せつりゅう)   黄金の縷(る)
      笑語盈盈暗香去   笑語(しょうご)  盈盈(えいえい)として暗香(あんこう)去る
      衆裏尋它千百度   衆裏(しゅうり)  它(かれ)を尋ぬ  千百度(せんひゃくど)
      驀然廻首        驀然(ばくぜん)  首(こうべ)を廻(めぐ)らせば
      那人却在        那(か)の人  却(かえ)って在り
      燈火闌珊処      灯火(とうか)  闌珊(らんさん)たる処(ところ)に

      ⊂訳⊃
              元宵節の夜に  春風は無数の花を咲かせ
              夜空の星を   雨のように吹き散らす
              飾立てた馬車  脂粉の香りは道にあふれ
              笛は   鳳凰のように鳴りわたり
              灯籠は  玉壺のように光りかがやき
              一晩中  魚龍の舞はつづくのだ

              さまざまな髪飾り   美女たちは
              笑いさざめきつつ  あでやかな香りを残していく
              一人を追いかけて  幾度となく行き来する
              見失い    ふと振りかえると
              そのひとは  ちゃんといた
              灯火の届かない  片隅に


     ⊂ものがたり⊃ 周必大や范成大は孝宗の心情にかなった政事家でした。淳煕十四年(1187)に上皇高宗が八十一歳の高齢で亡くなると、その二年後の淳煕十六年(1189)、すでに六十四歳になっていた孝宗は皇太子趙惇(ちょうとん:光宗)に譲位し、父高宗にならって上皇になります。
     そのとき光宗は四十三歳になっていましたが、以前から心疾をわずらい政務に不安がありました。ところが光宗の皇后李氏は上皇の政事介入を好まず、光宗を擁して実権を握ろうとします。紹煕五年(1194)六月、上皇孝宗が六十七歳で亡くなると、李皇后はいよいよ自分の天下がきたと思いますが、そのころ宰相の地位にいた趙汝愚(ちょうじょぐ)がそれをさえぎります。
     趙汝愚は呉太皇太后(高宗の皇后)を動かして光宗に譲位をせまり、皇太子趙拡(ちょうかく)が即位して南宋第四代の天子寧宗になります。趙汝愚が右丞相に就任して政権の中枢に立ったことはいうまでもありません。光宗の治世五年間は孝宗から寧宗に移る過渡期で、孝宗崩御の前年、紹煕四年(1193)九月に范成大が六十八歳でなくなっており、このことは南宋四大家時代の終わりを告げるできごとでした。
     生き残っていた陸游や朱熹、周必大らは寧宗初期の政事混乱に巻き込まれることになりますが、辛棄疾(しんきしつ)もそのひとりでした。辛棄疾は朱熹より十歳若い人ですが、孝宗期の詩人といえます。
     辛棄疾(1140ー1207)は斉州歴城(山東省済南市)の人。金の占領下に成長し、高宗の紹興三十一年(1161)、二十二歳のとき、金の海陵王軍が采石磯(さいせきき)の戦に敗れて動揺するなか、郷党の若者二千余人を集めて抗金に立ちあがり、耿京(こうきょう)の軍に投じます。耿京が味方を裏切った張安国(ちょうあんこく)に殺されると、辛棄疾は張安国を襲って捕らえ、金軍と戦いながら長江をわたり、建康(江蘇省南京市)で張安国を処刑し、臨安にいたって南宋に仕えました。
     孝宗の乾道四年(1168)に辛棄疾は建康通判に任じられ、滁州の知州事などを務めたあと、淳煕二年には江西の提点刑獄になります。頼文西(らいぶんせい)のひきいる茶商の暴動を鎮圧し、そのご各地の按撫使を歴任しますが、しばしば上書して対金主戦論をとなえたために講和派から弾劾されました。
     孝宗の淳煕九年(1182)、四十三歳のときに職を辞し、以後二十年間、信州(江西省上饒市)に隠棲しますが、寧宗の嘉泰三年(1203)、再び起用されて浙東安撫使兼知紹興府事になり、山陰(浙江省紹興市)に赴任します。その年末には都に召されて知鎮江府事になりますが、その抗戦論は韓侂冑(かんたくちゅう)に無視され、開禧三年(1207)、憂憤のうちに世を去りました。享年六十八歳です。
     詞題の「青玉案」(せいぎょくあん)は曲名で、その曲につけた詞です。「元夕」(げんせき:元宵節の夜)という副題がついており、元宵節は陰暦正月十五日、上元の節句のことです。元宵節は元宵観灯ともいわれ、その日は夜から宮殿や寺院、庶民の家の軒先にいたるまで、街路には灯籠がともされ、それを見物して歩く人で賑わいました。都臨安にきてはじめて元宵節に接した二十三歳のころの作品と思われます。
     上片のはじめ二句は灯籠が樹に花が咲いたように、あるいは星が空から降るように街中を飾っているさまを詠います。その夜は普段街にでない女性も着飾って観灯を楽しむことが許されていましたので、「宝馬 雕車 香 路に満つ」のです。また人々は魚や龍のお面をつけ、笛に合わせて踊り歩き、まるで龍宮城に遊ぶようでした。
     下片の「蛾児 雪柳 黄金の縷」は女性のさまざまな髪飾りのことで、女性たちをあらわします。美女たちが笑いさざめきながら脂粉の香をのこしていくのです。以下の四句は街ゆく女性たちのなかにひとりの娘をみつけ、あとを追って幾度も大通りを行き来するさまです。「驀然」は一散にすすむさまですが、心の動揺をしめすのでしょう。
     追いかけていた娘を見失って振り向くと、「那人」(その娘)は「燈火 闌珊たる処に」いました。「闌珊」は物事が尽きて衰えるさまで、娘が灯火のとどかない目立たない場所にいるのを見出したのです。

     南宋34ー辛棄疾
         鷓鴣天                鷓鴣天

      壮歳旌旗擁万夫   壮歳(そうさい)  旌旗(せいき)  万夫(ばんぷ)を擁(よう)し
      錦襜突騎渡江初   錦襜(きんせん)  突騎(とっき)  渡江(とこう)の初(はじ)め
      燕兵夜捉銀胡録   燕兵(えんぺい)  夜  銀胡録(ぎんころく)を捉(と)り
      漢翦朝飛金僕姑   漢翦(かんせん)  朝  金僕姑(きんぼくこ)を飛ばす

          ※ 三句目の「捉」と「録」は外字になるので同音の字に変えてあります。
             「捉」は女偏です。 「録」は革偏です。

      追往事         往事(おうじ)を追い
      歎今吾         今の吾(わ)れを歎(たん)ず
      春風不染白髭鬚   春風(しゅんぷう)も染めえず  白髭鬚(はくししゅ)
      卻将万字平戎策   却(かえ)って万字(ばんじ)の平戎(へいじゅう)の策を将(もっ)て
      換得東家種樹書   換(か)え得たり  東家(とうか)の種樹(しゅじゅ)の書(しょ)

      ⊂訳⊃
              若いころには  万余の兵を率いて旗を立て
              甲冑の騎馬と  江を渡って朝廷に帰す
              夜には  金の兵が矢袋をつかみ
              朝には  わが軍が翦を飛ばす

              昔を思い出すたびに
              今の自分が嘆かわしい
              春風も   私の白髭鬚を染めてはくれぬ
              かつては  一万字の対外策を献じたが
              いまでは  近所の農家に畑仕事を教わる身だ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「鷓鴣」(しゃこ)はキジ科の鳥で、ウズラに似てやや大きい鳥です。中国南部にひろく分布する種で、その鳴き声を聞くと江南にいることを実感するといいます。この詞には序に「客有り慨然として功名を談る。因って少年の時の事を追念して、戯れに作る」とありますから、晩年になってからの回顧作です。
     上片は若いころに抗金の兵をおこし、長江を渡って南宋の朝廷に帰したことを語ります。「燕兵」は金の軍隊。「銀胡録」は銀色の矢袋。「漢翦」は宋を漢に喩え、その箭。「金僕姑」は箭の名前です。
     下片では、昔を思うといまの自分が嘆かわしいと詠います。「春風」は万物を甦らせる風ですが、春風が吹いても白い口髭や顎鬚は黒くなりません。「万字の平戎の策」は「美芹十論」「九議」といった金軍侵攻の平定策を論じた自著をさし、それらの献策も採用にならず、「東家の種樹の書」つまり近所の農家から農作業を教わる身になったと嘆くのです。  

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     南宋37ー趙師秀
         約 客              客と約す

      黄梅時節家家雨   黄梅(こうばい)の時節(じせつ)  家家(かか)の雨
      青草池塘処処蛙   青草(せいそう)の池塘(ちとう)  処処(しょしょ)の蛙(あ)
      有約不来過夜半   約(やく)有るも来たらず  夜半を過ぎ
      敲棋子落燈火   (かん)に棋子(きし)を敲(たた)いて燈火(とうか)落つ

      ⊂訳⊃
              梅の実の熟する季節  降りつづく雨

              春草茂る池のほとり  いちめんの蛙の声

              碁を約束しているが  夜半を過ぎてもまだこない

              静かに碁石をうてば  灯火の燃え滓がぽとりと落ちる


     ⊂ものがたり⊃ 寧宗を擁立して右丞相に就任した趙汝愚(ちょうじょぐ)は、当時、道学の大成者として有名になっていた朱熹とその学派を中央に召し出して活躍の場を与えます。趙汝愚のねらいは、学者グループを登用して政事改革の姿勢を示すことにありました。
     寧宗擁立のとき趙汝愚は呉太皇太后の権威を借りましたが、太后の甥に韓侂冑(かんたくちゅう)という武官がおり、自分の姪を皇太子妃に立てていました。寧宗が即位すると韓侂冑の姪は皇后になり、たちまち権力を握って趙汝愚と対立します。
     慶元元年(1195)二月、韓侂冑は趙汝愚を弾劾して流罪に処し、朱熹らも在任四十五日で解任となります。翌年には朱子学は偽学の刻印を押され、朱熹の学徒は登用禁止になります。
     寧宗の前半、慶元・嘉泰年間(1195ー1204)は韓侂冑が政権基盤を拡充する時期です。孝宗期の安定した政事によって長江下流域の開発がすすみ、農業をはじめ陶磁器や絹織物など消費生活を豊かにする産業が爆発的に発展します。
     産業の発展とともに都市が拡大し、出版業が商業ベースに乗るようになり、日本でも有名な詞華集『三体詩』が刊行されました。『三体詩』は唐代の詩の名作集であるにもかかわらず、初唐や盛唐の詩はほとんど採択されていません。時代の好みは中唐や晩唐の詩に移っていました。
     その傾向を代表するのが趙師秀(ちょうししゅう)・翁巻・徐照・徐璣を併称する「永嘉四霊」(えいかしれい)です。四人はともに永嘉(浙江省温州市)の出身で、いずれも字(あざな)に霊の字を含むことから「永嘉四霊」と称されます。その詩風を四霊体といい、政事的な大議論とは無縁なところで日常の小さな世界のなかに安らぎをもとめる傾向の作品をつくりました。官職につかない者が多く、民間の詩のグループに詩作を教えたり、詩文を売ったりして生活していたようです。職業詩人のはじまりといえます。
     趙師秀(1170ー1219)は永嘉の人。宋の太祖八世の子孫で、光宗の紹煕元年(1190)に二十一歳で進士に及第します。江西方面の地方官を転々とし、筠州高安(江西省高安県)の推官を最後に隠退します。故郷に帰って閑居し、寧宗の嘉定十二年(1219)になくなります。享年五十歳です。
     詩題の「客(かく)と約す」は友人との約束です。碁をうつ約束をしましたが、約束の時刻が過ぎて夜半になってもやって来ません。そんな夜のひとときを詠います。はじめの二句は対句になっていますがシンプルな表現で、梅雨の季節、雨が降っていて蛙が鳴いています。戸外の音を聞きながら相手の来るのを待っていますが、いらだつようすはありません。
     結句の「」は静か、くつろぐという意味の語で、ゆったりした気分でひとり碁をうっていると、「燈火」(灯心の先の燃え滓)がぽとりと落ちました。中国では灯火の先が落ちるのは慶事の前兆とされており、友人が来なかったのを不吉に思っているわけではありません。

     南宋38ー趙師秀
         数 日                数 日

      数日秋風欺病夫   数日の秋風(しゅうふう)    病夫(びょうふ)を欺(あざむ)き
      尽吹黄葉下庭蕪   尽(ことごと)く黄葉を吹いて  庭蕪(ていぶ)に下(おと)す
      林疎放得遥山出   林は疎(まば)らに放ち得て遥山(ようざん)出(い)で
      又被雲遮一半無   又た雲に遮(さえぎ)られて  一半(いっぱん)無し

      ⊂訳⊃
              秋風は病人の私を  あざ笑うように吹きつづけ

              樹々の枯れ葉を   庭の草むらに落としてしまう

              林を透かして  遠くの山が見えるようになったが

              雲に遮られて  また半分が見えなくなる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「数日」(すうじつ)は冒頭の語をとったもので、無題とおなじです。全体として老いの憂愁を詠っているようですが、表現は柔和です。「病夫」は自分のことで、数日来、秋風が病気の私を「欺」(あざむく、あなどる)、つまり小馬鹿にしたように吹き、樹々の黄葉(こうよう)も庭の草むらに落ちてしまいました。
     その結果、視野がひらけて遠くの山が見えるようになりましたが、すぐに雲に遮られて半分が見えなくなりました。強いて比喩を求める必要もなく、庭の眺めをとおして季節の変化をうたうものでしょう。

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     南宋39ー翁巻
        郷村四月              郷村の四月

      緑遍山原白満川   緑は山原(さんげん)に遍(あまね)く  白は川に満つ
      子規声裏雨如烟   子規声裏(しきせいり)   雨は烟(けむり)の如し
      郷村四月閑人少   郷村(きょうそん)の四月  閑人(かんじん)少(まれ)なり
      纔了蚕桑又插田   纔(わずか)に蚕桑(さんそう)を了(おわ)れば  又(ま)た田(でん)に插(さ)す

      ⊂訳⊃
              山も野原もみどり色  川は白くかがやき

              煙るような雨の中を  不如帰が鳴きしきる

              四月の村に  暇な人間は稀である

              蚕がすめば  田植えが待っている


     ⊂ものがたり⊃ 翁巻(おうけん)は生没年不詳。永嘉(浙江省温州市)の人といいます。孝宗の淳煕十年(1183)に郷薦(きょうせん)をうけ、寧宗の嘉定四年(1211)に徐照(じょしょう)が死んだとき存命でした。だから孝宗から寧宗の時代にかけて在世したことになります。生涯官職につかず、趙師秀をたよって筠州に旅したり、閩地(福建省)に遊んだりしました。晩年は妻子とともに永嘉の山中にこもりました。
     詩は住んでいる村のようすを描きます。はじめ二句は自然のたたずまいです。山野の緑と川の白、「子規」(ほととぎす)の声と煙雨が描かれます。後半農民を思いやるのですが、政事批判をするわけではなく農家の忙しさを詠うだけです。

     南宋40ー翁巻
       即事言懐           即事 懐を言う

      賦得拙疎性     賦(ふ)し得たり  拙疎(せっそ)の性(せい)
      合令蹤跡賖     合(まさ)に蹤跡(しょうせき)をして  賖(とお)から令(し)むべし
      相親惟野客     相親しむは  惟(た)だ野客(やかく)
      所論是詩家     論ずる所は  是(こ)れ詩家
      聴雨眠僧屋     雨を聴いて  僧屋(そうおく)に眠り
      看雲立釣槎     雲を看ては  釣槎(ちょうさ)に立つ
      秋来有新句     秋来(しゅうらい)  新句(しんく)有るも
      多半為黄花     多半(たはん)は  黄花(こうか)と為(な)す

      ⊂訳⊃
              詩に詠うのは  世渡りべたのことばかり
              結局は     世間と遠い場所にいる
              親しい友は   在野の人ばかり
              論じ合うのは  詩人のこと
              雨の音を聞きながら  寺で眠り
              雲を見ながら  筏で釣りをする
              秋になって   一句浮かんだと思ったら
              おおかたは   菊の花のことだった


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「即事」(そくじ)は眼前の事柄を詠うことで、自己をかえりみて田園閑居の感懐をのべます。はじめの二句でまず自分の性(さが)を概観します。「拙疎」は世渡りの拙さと世事に疎いこと、「蹤跡」は足あと、行跡です。「賖」は遠い、遥かの意味で、俗世間からかけ離れていると反省、もしくは自任するのです。
     中四句ではそんな自分の日常を語ります。親しい友人は在野の者ばかり、語り合うのは詩人のこと。雨の日は寺で居眠りをし、晴れた日には雲をみながら「釣槎」(筏での釣り)をします。結びの二句では、だから秋になって「新句」(気のきいた新しい句)が浮かんでも、多くは「黄花」(菊の花)のことばかり、世間とは関係ないと詠います。

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     第一 このブログは漢詩の訓読に加えて現代日本語による自由訳を付したものです。自由訳は原詩の意味を失わず、日本語の詩として分かりやすく、かつイメージの湧くものになるよう努めました。あわせて詩人の歴史的個人的背景などを⊂ものがたり⊃として加え、読者の理解に資するように努めました。
     なお、このグログには「かんきょう文字」が用いてありますので、パソコンに当該辞書を搭載していないと見ることができません。

     第二 ブログの対象としてまず唐・宋の有名詩人九人の生涯を取り上げ、ついで魏晋南北朝時代、陶淵明の生涯、唐・北宋・南宋の詩人たちに及ぼうとしましたが、途中でパソコンのローカルディスク(C:)の空き領域が少なくなり、魏晋南北朝時代と陶淵明の全部を削除しました。さらに初唐についても多くを削除して南宋まで終了しましました。

     第三 原稿としては『詩経』(選集)と屈原の生涯があり、後代は金・元・明・清の詩人たちとつづけることはできるのですが、そのためには唐・宋詩の多くを削除しなければなりません。唐宋時代は漢詩の最盛期ですので削除するのは惜しく、ここでしばらく中断して保存したいと思います。

     第四 パソコンの負荷の減少と詩を見やすくすることを期待して、今回、詩の集約(分載した長詩の一本化を含む)と個人詩集の詩の一部を削除しました。詩に付した番号が飛んでいるのは長詩の一本化と削除した詩によるものです。
     テンプレートによる負荷の減少を期待して集約したのですが、効果は零でした。テンプレートはそのつど組み合わされるもののようです。

     第五 現在、このブログ上に公開されている詩はつぎの通りです。

          個 人 詩 集

       ・王 維 (王 維1ー119 :2008.11.13ー2009. 3. 6)
       ・李 白 (李 白1ー218 :2009. 3.20ー2009.10.16)
       ・杜 甫 (杜 甫1ー270 :2009.11. 1ー2010. 7.28)
       ・白居易 (白居易1ー189 :2010. 8.11ー2011. 2.11)
       ・李 賀 (李 賀1ー126 :2011. 3. 1ー2011. 7. 1)
       ・杜 牧 (杜 牧1ー151 :2011. 7.11ー2011.12. 7)
       ・李商隠 (李商隠1ー 80 :2012. 1. 1ー2012. 3.17)
       ・蘇 軾 (蘇 軾1ー147 :2012. 4. 1ー2012. 8.21)
       ・陸 游 (陸 游1ー117 :2012. 9. 1ー2012.12.20)

          時 代 詩 集

       ・初 唐 (初 唐1ー 31 :2014. 1. 1ー2014. 2. 3)
       ・盛 唐 (盛 唐2ー97 :2014. 3. 3ー2014. 6.29)
       ・中 唐 (中 唐1ー126 :2014. 7.19ー2015.12.21)
       ・晩 唐 (晩 唐1ー 46 :2015. 1.20ー2015. 4. 1)
       ・北 宋 (北 宋1ー 72 :2015. 4.21ー2015. 8.23)
       ・南 宋 (南 宋1ー 52 :2015. 9. 1ー2015.11.25)

        注) 個人詩集の詩人は時代詩集から除いてあります。
           ・盛唐  王維・李白・杜甫
           ・中唐  白居易・李賀
           ・晩唐  杜牧・李商隠
           ・北宋  蘇軾
           ・南宋  陸游 

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     金1ー元好問
       山居雑誌六首 其一    山居雑誌 六首  其の一

      痩竹藤斜挂     痩竹(そうちく)  藤(ふじ)斜めに挂(かか)り
      幽花草乱生     幽花(ゆうか)  草(くさ)乱れて生ず
      林高風有態     林(はやし)高くして  風に態(たい)有り
      苔滑水無声     苔(こけ)滑かにして  水に声(こえ)無し

      ⊂訳⊃
              痩せた竹に  藤が斜めにからみつき

              草の茂みで  花はひっそり咲いている

              樹々の梢を  風はしなやかに吹き

              滑らかな苔  音もなく水は流れる


     ⊂ものがたり⊃ モンゴル軍が金の中都(北京)を占領するのは、金の貞祐三年(1215)五月のことです。その二年前、首都を包囲された金は、屈辱的な講和を結んだあと、都を河南の汴粱(河南省開封市)に遷していました。モンゴルが金を再征するのは、第二代オゴタイ汗のときです。モンゴル軍は金の哀宗の開興元年(1232)正月、汴粱を包囲し、翌年に陥落させます。
     元好問(げんこうもん:1190ー1257)は太原秀容(山西省忻県)の人。遠祖は北魏拓跋氏(鮮卑族)で、生後間もなく叔父の養子になります。若いころから漢詩の研究を深め、陶淵明や杜甫を尊敬していました。二十四歳のとき金の中都がモンゴル軍に包囲され、翌年五月に金は汴粱に遷都。二十七歳になった貞祐四年(1216)に一家はモンゴルの難を避けて太原から嵩山南麓の登封(河南省登封県)に移住しました。
     詩は登封での三十歳ころの作品と思われます。詩題に「山居」(さんきょ)とあるのは、まだ官に就いていなかったことを意味すると同時に嵩山の山ふところに住んでいたからでしょう。「幽花」はひっそりと咲いている花。「風に態有り」は風がしなをつくって吹いていることです。対句をもちいて竹・花・風・水、それに絡まる藤・草・林・苔を描き、身のまわりの自然を細やかに観察しています。

     金2ー元好問
       岐陽三首 其二         岐陽 三首  其の二

      百二関河草不横   百二(ひゃくに)の関河(かんが)  草  横たわらず
      十年戎馬暗秦京   十年の戎馬(じゅうば)  秦京(しんけい)暗し
      岐陽西望無来信   岐陽(きよう)   西望するも来信(らいしん)無く
      隴水東流聞哭声   隴水(ろうすい)  東流して哭声(こくせい)を聞く
      野蔓有情縈戦骨   野蔓(やまん)   情(じょう)有りて戦骨(せんこつ)に縈(まと)い
      残陽何意照空城   残陽(ざんよう)  何の意(い)ありてか 空城(くうじょう)を照らす
      従誰細向蒼蒼問   誰に従いてか  細(こま)かに蒼蒼(そうそう)に向かって問わん
      争遣蚩尤作五兵   争(いか)でか蚩尤(しゆう)をして五兵(ごへい)を作ら遣(し)めしと

      ⊂訳⊃
              堅固に守っていても  草を踏むほどの力もなく
              十年にわたる戦争で  長安は暗黒の街になる
              西に岐陽を望むが  なんの便りもなく
              隴水は東へながれ  泣き叫ぶ人の声がする
              蔓草は悲しげに    戦死者の骨にからみつき
              夕陽はどんな気で  からっぽの城を照らすのか
              青く広がる天空よ   誰を頼りに問い糺せばよいというのか
              どうしてあなたは   蚩尤に武器を発明させてしまったのか


     ⊂ものがたり⊃ 哀宗の正大元年(1224)、元好問は三十五歳で進士に及第し、内郷などの県令を歴任します。哀宗の正大八年(1231)、モンゴルの右軍は関中に侵入。京兆(陝西省西安市)を攻め、岐陽(陝西省鳳翔県)を落として住民を皆殺しにしました。そのとき元好問は南陽(河南省南陽市)の県令で、北の戦場を憂えてこの詩を書きました。
     首聯の二句は導入部で、これまでの経過を総括します。「百二の関河」は百分の二の兵力でも守れる要害という意味で、函谷関や黄河にかこまれた関中平野のことです。「十年」は多年の意味で、実数ではありません。「秦京」は秦の都、長安のことで、当時は京兆と称していました。
     頷聯の二句はモンゴル軍に蹂躙された岐陽のさまを想像します。岐陽は関中平野の西端にあり、西の隴山から「隴水」が東へ流れ出て渭水になります。その流れのなかから民の泣き叫ぶ声が聞こえてくるというのです。
     頚聯では戦場になった街の悲惨なさまを想像します。そして尾聯は戦争などなくなればいいと、天に訴えます。「蒼蒼」は天、神というのに等しく、「蚩尤」は神話に出てくる神で黄帝に殺されます。蚩尤ははじめて兵器をつくったとされ、「五兵」は五種類の武器のことです。

     金3ー元好問
       癸已五月三日           癸已五月三日
       北渡三首 其一          北渡 三首  其の一

      道旁僵臥満累囚   道旁(どうぼう)  僵(たお)れ臥(ふ)して  累囚(るいしゅう)満つ
      過去旃車似水流   過ぎ去(ゆ)く旃車(せんしゃ)  水の流るるに似たり
      紅粉哭随回鶻馬   紅粉(こうふん)  哭(な)いて随う  回鶻(かいこつ)の馬
      為誰一歩一迴頭   誰(た)が為に   一歩に  一(ひと)たび頭(こうべ)を迴(めぐ)らす

      ⊂訳⊃
              道端には至るところ  捕われた者が倒れ伏す

              幌馬車はその横を   流れる水のように過ぎていく

              女たちは泣きながら  モンゴルの騎馬のうしろにしたがい

              一歩歩むたびごとに  だれかを探して振りかえる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「癸已」(きし)は金の天興二年(1233)のことです。このとき哀宗は都を棄てて蔡州(河南省汝南県)に逃れていました。行尚書省左司員外郎の職にあった元好問はモンゴル軍に包囲された都汴梁にとどまっていました。
     四月二十九日、元好問は官をすてて汴梁を脱出し青城に至ったともいいますが、捕らえられて東に送られたという説もあります。五月三日、元好問は黄河を渡って聊城(山東省聊城県)につきます。その途中で亡国の惨状を目撃しますが、それを詠ったのが「癸已五月三日北渡三首」です。
     元好問は馬車かなにかに乗せられて移動しています。「累囚」は太い縄でつながれた捕虜のことです。「僵れ臥して」の僵れは硬直して動かない意味で、そのそばを「旃車」(幌馬車)が通り過ぎていきます。「紅粉」は女たち、「回鶻」はウイグル族、ここではモンゴル軍のことで、宮廷の女たちがモンゴル軍のうしろについて歩かされています。彼女たちはだれかに救いを求めるように一歩ごとにうしろを振りかえるのです。

     金4ー元好問
       癸已五月三日           癸已五月三日
       北渡三首 其二          北渡 三首  其の二

      随営木仏賎於柴   営(えい)に随う木仏(もくぶつ)は  柴(しば)よりも賎(いや)し
      大楽編鐘満市排   大楽(たいがく)の編鐘(へんしょう)は  満市(まんし)に排(なら)ぶ
      虜掠幾何君莫問   虜掠(りょりゃく)すること幾何(いくばく)ぞ  君(きみ)問う莫(な)かれ
      大船渾載汴京来   大船(たいせん)に渾載(こんさい)して  汴京(べんけい)より来たる

      ⊂訳⊃
              駐屯地に集められた仏像は  薪ほどの値打もない

              雅楽の編鐘は  市場にいっぱいならんでいる

              掠奪されたのはどれだけか  もう聞くのはよしてくれ

              大きな船にごっそり積んで   汴京から運んだのだ


     ⊂ものがたり⊃ 其の二はモンゴル軍の略奪のさまです。「営」は駐屯地のことで、そこに集められている「木仏」(木の仏像)は「柴」(薪)よりも値打ちがないと詠います。「大楽」は雅楽を司る役所のことで、そこから持ち出された「編鐘」(音階の順に吊り鐘を並べた楽器)は市場にあふれています。それらはすべて都で大切に扱われていたもので、その惨状をみて嘆きの声をあげます。

     金5ー元好問
       癸已五月三日           癸已五月三日
       北渡三首 其三          北渡 三首  其の三

      白骨縦横似乱麻   白骨  縦横  乱麻(らんま)に似たり
      幾年桑梓変龍沙   幾年か  桑梓(そうし)  龍沙(りゅうさ)に変ぜし
      只知河朔生霊尽   只(た)だ知る 河朔(かさく)   生霊(せいれい)の尽くるを
      破屋疎煙却数家   破屋(はおく)  疎煙(そえん)  却(かえ)って数家(すうか)

      ⊂訳⊃
              白骨はあたり一面に  もつれた麻糸のように散らばり

              何年になるだろうか  故郷が砂漠のようになってから

              河北の地に       人は絶えたと聞いていたが

              壊れた家に疎らな煙  思いがけずのこる家数軒


     ⊂ものがたり⊃ 其の三の詩は河北の村々の状況です。「乱麻に似たり」は無秩序なさまで、白骨が散らばっています。「桑梓」は植物の名ですが、屋敷のまわりに植える習慣だったことから故郷を意味します。ここでは河北の地で、そこが「龍沙」(砂漠)のようになっています。詩には故郷太原への思いも重なっていて、故郷を捨ててから何年になるだろうか、故郷も砂漠のようになっているだろうと思うのです。
     後半二句、「河朔」(黄河の北の地)の人々は死に絶えたと聞いていたが、わずかに炊煙があがっている。生きている人がいたとほっとし、故郷にも思いを馳せるのでしょう。 (2016.3.5)

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     金6ー元好問
       雁門道中書所見       雁門道中 見る所を書す

      金城留旬浹     金城(きんじょう)  留まること旬(しゅん)に浹(あまね)く
      兀兀酔歌舞     兀兀(ごつごつ)として  酔うて歌舞(かぶ)す
      出門覧民風     門を出(い)でて  民風(みんぷう)を覧(み)れば
      慘慘愁肺腑     慘慘(さんさん)として   肺腑(はいふ)を愁えしむ
      去年夏秋旱     去年  夏秋(かしゅう)  旱(ひでり)ありしが
      七月黍穟吐     七月  黍穟(しょすい)吐(は)く
      一昔営幕来     一昔(いっせき)  営幕(えいばく)してより
      天明但平土     天明(てんめい)  但(た)だ平土(へいど)
      調度急星火     調度(ちょうど)   星火(せいか)より急なり
      逋負迫捶楚     逋負(ほふ)   捶楚(すいそ)もて迫らる
      網羅方高懸     網羅(もうら)  方(まさ)に高く懸(かか)る
      楽国果何所     楽国(らくこく)  果して何(いず)れの所ぞ
      食禾有百螣     禾(か)を食(くら)う  百螣(ひゃくとく)有り
      択肉非一虎     肉を択(えら)ぶは一虎(いっこ)に非(あら)ず
      呼天天不聞     天を呼べども天は聞かず
      感諷復何補     感諷(かんぷう)   復(ま)た何ぞ補(おぎな)わん
      単衣者誰子     単衣(たんい)の者は誰(た)が子ぞ
      販糴就南府     販糴(はんてき)して南府(なんぷ)に就(つ)く
      傾身営一飽     身を傾けて一飽(いっぽう)を営む
      豈楽遠服賈     豈(あ)に遠く賈(こ)に服するを楽しまんや
      盤盤雁門道     盤盤(ばんばん)たる雁門(がんもん)の道
      雪澗深以阻     雪澗(せっかん)は深くして以(もっ)て阻(そ)なり
      半嶺逢駆車     半嶺(はんれい)  車を駆(か)るに逢(あ)う
      人牛一何苦     人も牛も一(いつ)に何ぞ苦しき

      ⊂訳⊃
              金城の町に  十日滞在した
              城内はみな  歌と踊りに酔い痴れている
              城門をでて  民の暮らしをみると
              慘憺たる様  胸がつぶれるほどだ
              去年は夏から秋へと  日照りがつづき
              七月になってやっと  黍の穂がでた
              だがある夜  兵隊がきて宿営すると
              地上の物は  一晩で無くなってしまう
              税の徴収は  流れ星よりも急で
              滞納者は   笞で責め立てられる
              法の網は   高く張りめぐらされ
              天国はいったい  どこにあるのか
              稲を食らう虫は  いくらでもおり
              人肉を漁る虎は  一匹や二匹ではない
              天に扶けを求めるが聴いてはもらえず
              詩で諷刺しても  なんの足しにもならない
              寒空に単衣の者は  どこの人か
              物を米に換えんと  南の街へゆく
              身を粉に稼いでも  しばしの空腹をしのぐだけ
              遠い街での商売を  好きでやっているわけではない
              曲がりくねった雁門の道よ
              雪の谷間は  深くてけわしい
              峠の途中で  車を牽く男とあったが
              人も牛も    なんとつらいことか


     ⊂ものがたり⊃ モンゴル軍に拘留されていた元好問は、三年間ほど抑留されたあと釈放されます。元に仕えることを求められますが、受けずに隠棲しました。詩題の「雁門」(がんもん)は山西省代県の雁門山のことで、金が滅んで七年後、元の太宗の十三年(1241)に大同(山西省大同)から「金城」(山西省応県)をへて故郷の太原へむかう途中の見聞をえがいた詩です。
     はじめの四句は序の部分で、十日ほど滞在した金城の内外のようすをのべます。「兀兀」は岩山などの高く聳えるさまをいうことから、盛んなことを意味します。城内ではモンゴル人が酒宴を楽しんでおり、城外に出れば農民の暮らし振りは悲惨です。
     つぎの四句は農民の悲惨の原因をのべるもので、去年の旱魃で凶作に見舞われていましたが、モンゴル兵がきて宿営すると、一夜ですべては無くなってしまいます。つぎの四句は徴税の苛酷なことです。「調度」は徴税、「逋負」は租税を滞納することで、「捶楚」は笞です。「網羅」は網で、のこりなく収める意味があります。
     つぎの四句では徴税の苛酷と不正を比喩で述べます。「百螣」は穀物を食い荒らす害虫。「択肉」は美味しい肉を選んで食べることですが、ここでは強い若者を選んで役夫に挑発することです。「感諷」は感懐と諷刺で詩を意味し、自分の無力を嘆くのでしょう。
     つぎの八句は視点がかわり、雁門道で寒空に単衣を着て車を引いている男にあいます。「販糴」は物を売ることと米を買うことで、衣類などを「南府」(南の都会)に持っていって米に換えようというのです。それも空腹のためにやっていることで、「豈に遠く賈に服するを楽しまんや」と同情します。「半嶺」(峠の途中)で出逢った牛車は、引く人も牛もなんと辛いことかと亡国の民の苦労を嘆くのです。

     金7ー元好問
       野史亭雨夜感興      野史亭の雨夜 感興

      私録関赴告     私録(しろく)  赴告(ふこく)に関(かか)わる
      求野或有取     野(や)に求むれば  或いは取ること有らん
      秋兎一寸毫     秋兎(しゅうと)   一寸の毫(ごう)
      尽力不易挙     力を尽くすも   挙ぐるに易(やす)からず
      衰遅私自惜     衰遅(すいち)   私(ひそ)かに自ら惜(おし)むも
      憂畏当誰語     憂畏(ゆうい)   当(まさ)に誰(たれ)にか語るべき
      展転天未明     展転(てんてん)  天  未(いま)だ明けず
      幽窓響疏雨     幽窓(ゆうそう)  疏雨(そう)響く

      ⊂訳⊃
              個人の記録も    国家の大事におよぶことがある
              民間の資料が   将来役に立つかも知れないのだ
              秋の兎の細い毛  それでつくった小さな筆で
              力を尽くしても   成果をあげるのは難しい
              老衰したことを   人知れず残念に思うが
              この悩み不安を  だれに話したらいいのだろうか
              寝返りを打つが  夜はまだ明けきらず
              静かな窓辺に   小雨の音がする


     ⊂ものがたり⊃ 元好問は残された人生を金代の詩集の編纂と歴史記録の史料収集にささげます。詩集は六十歳のときに完成しましたが。『金史』は生前にはでき上がらず、史料が残されました。
     詩題の「野史亭」(やしてい)は元好問が隠居した家の書斎の名です。金代の詩集である『中州集』を完成した二年後、つぎの仕事として歴史の執筆に取りかかりますがなかなかはかどりません。そのことを嘆いた詩です。
     まずはじめに自分の仕事の意義をのべます。「私録」は公の記録に対する民間の記録。「赴告」は国家の大事を報せることで、民間の記録ではあるが国家の大事におよぶことがあるといいます。だから将来の王朝が正史を編纂するとき民間に資料を求めることがあれば、自分の著作も役に立つかもしれないというのです。
     その仕事がなかなか捗らないというのがつぎの二句で、「秋兎 一寸の毫」というのは兎の秋毫(秋になって細くなった毛)でつくった筆のことです。小さな筆(微力な自分)で力をつくしても成果をあげることは難しいと嘆きます。
     つぎの二句は仕事の捗らない理由と焦り、孤独感をのべます。そして結びの二句、眠られずに寝返りをうちますが、夜はまだ明けようとしません。静かな窓辺に小雨の音が響いています。
     元好問が亡くなったのは第四代ムンケ汗の七年(1257)で、享年六十八歳です。モンゴルはその年、南宋再征の軍を起こしていました。残された史料は元王朝が金の正史を編纂したときに利用され、金史のほとんどの部分は元好問の残した原稿がそのまま使われたといわれています。(2016.3.9)

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     元1ー劉因
        観梅有感            梅を観て感有り

      東風吹落戦塵沙   東風(とうふう) 吹き落とす戦塵沙(せんじんさ)
      夢想西湖処士家   夢に想う    西湖(せいこ)  処士(しょし)の家
      只恐江南春意減   只(た)だ恐る  江南(こうなん)  春意(しゅんい)の減ぜんことを
      此心元不為梅花   此の心  元(もと)  梅花(ばいか)の為ならず

      ⊂訳⊃
              春風が  戦の塵を吹き散らす

              夢の中で思うのは  西湖のほとりの林逋の家

              江南の春の情趣が  失われるのが心配だ

              だが  私の心配は  梅の花のことだけではない


     ⊂ものがたり⊃ 元の建国については歴史書にゆだねます。チンギス汗の孫、第五代フビライ汗(世祖)は大汗になった年(1260)に年号を中統と定めます。金の旧都燕京の東北部に接して大規模な都城の建設をすすめ、至元四年(1267)に都城は成って大都大興府と命名、首都とします。南宋を滅ぼして中国全土を支配下に置くのは至元十六年(1279)のことです。
     フビライ汗は科挙を廃止し、モンゴル人による支配をめざしますが、中央・地方の行政機構がととのってくると、厖大な行政事務をモンゴル人だけで捌くのは困難になります。そこで実務担当の中下級官僚が必要になり、召されて官途に就く知識人があらわれます。当初は名のある知識人が縁故や指名によって迎えられましたが、その地位は能力にふさわしいものではありませんでした。
     モンゴルの官に就いた知識人は屈辱的な地位に堪えきれず辞職して野に生きる者、屈辱に堪えて出世の道を模索する者と生き方に違いが生じてきます。劉因(りゅういん)と趙孟頫(ちょうもうふ)は元初における知識人のふたつの生き方を代表する詩人です。
     劉因(1249ー1293)は保定容城(河北省清苑県の東北)の人。第三代グユク汗が亡くなった翌年(1249)に生まれ、世祖フビライの至元十九年(1282)、三十四歳のときに召されて官途につきます。承徳郎、賛善大夫になりますが、辞して故郷に隠棲し、以後、召しに応ぜず、世祖から「召されざる臣」といわれました。至元三十年(1293)になくなり、享年四十五歳です。
     詩題に「観梅」(かんばい)とありますが、モンゴルへの抵抗精神が秘められています。起句の「戦塵沙」は梅の花が「東風」(春風)に揺れているのをみても、戦の塵を払っているように見えると詠うのです。「処士の家」は北宋時代に西湖のほとりに隠棲していた林逋(りんぽ:北宋ー林逋のブログ参照)の庵のことで、梅の詩で有名でした。つまり、あのころは戦もなく街は繁栄していたと往時を思うのです。
     後半は江南の春の趣が損なわれるのではないかと愁えるのですが、その愁いは「梅花の為ならず」と漢民族の将来が心配であることを匂わせます。

     元2ー劉因
         山 家                山  家

      馬蹄踏水乱明霞   馬蹄(ばてい)    水を踏んで  明霞(めいか)を乱し
      酔袖迎風受落花   酔袖(すいしゅう)  風を迎えて  落花(らっか)を受く
      怪見渓童出門望   怪(あやし)んで見る  渓童(けいどう)の門を出でて望むを
      鵲声先我到山家   鵲声(じゃくせい)  我れに先んじて山家(さんか)に到る

      ⊂訳⊃
              馬を小川に乗りいれると  水面の空はちぢに乱れ

              酔った私の袖は  風をはらんで落花を受けとめる

              谷間の家の子が  門でわたしを出迎える

              変だと思ったら   鵲の声がさきに着いていた


     ⊂ものがたり⊃ 詩題に「山家」とあるのは隠棲の家のことでしょう。職を辞して郷里の家についたときの作かもしれません。春風のなか馬に乗って家に向かいます。小川に乗りいれ舞い散る花びらのなかをすすむ姿は意気揚々としています。「渓童」は谷間の家に残してきた息子と思われ、門にでて父親の帰りを迎えています。
     中国では鵲が騒ぐと旅人が帰ってくると信じられており、鵲が報せてくれたのかのかと驚いてみせます。杜甫の詩「羌村」に「柴門 鳥雀噪ぎ 帰客 千里より至る」とあり、「鳥雀」はかささぎのことですので、杜甫の羌村帰着を意識しているのでしょう。(2016.3.13) 

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     元3ー趙孟頫
         絶 句                絶   句

      春寒惻惻掩重門   春寒(しゅんかん)  惻惻(そくそく)として  重門(ちょうもん)を掩(おお)う
      金鴨香残火尚温   金鴨(きんおう)   香(こう)残(ざん)して  火  尚(な)お温(あたた)かし
      燕子不来花又落   燕子(えんし)  来たらず  花  又(ま)た落ち
      一庭風雨自黄昏   一庭(いってい)の風雨   自(おのず)から黄昏(こうこん)

      ⊂訳⊃
              春の寒さはひえびえとして  屋敷の諸門をおおう

              香炉は消えかけているが   まだ温もりはある

              春なのに燕は訪れず   花も散ってしまった

              庭いちめんの風雨の音  今日も日暮れが訪れる


     ⊂ものがたり⊃ 趙孟頫(ちょうもうふ:1254ー1322)は湖州呉江(浙江省湖州市)の人。南宋理宗の宝祐二年(1254)に宋室の子孫の家に生まれました。二十三歳のとき都臨安が陥落して亡国の民になります。世祖フビライの至元二十三年(1286)、三十三歳のときに召されて元に仕えますが、しばしば地方勤務を願い出て中央を離れました。
     官は翰林学士に至り、詩壇の代表的な詩人として指導的な立場に立つようになります。書画においても史上有数の大家と目され、世祖・成宗・武宗・仁宗の時代を生きました。英宗の至治二年(1322)になくなり、享年六十九歳です。
     詩題の「絶句」(ぜっく)は七言絶句の意味であれば、無題と同じです。詩は恋愛詩の形をとっていますが含意があり、わざと題をつけなかったのかも知れません。はじめ二句は早春の日暮れのわが家のようすです。
     「重門」は屋敷内の門のことで、中国の邸宅は入口の門のほか、敷地内をを区切る塀と門があちこちにありました。「金鴨」は鴨をかたどった銅製の香炉で、消えかかっていますがまだ火の気はあります。感覚的で淋しい出だしです。
     後半の「燕子」はほっそりした女性の喩えになるので、好きな人がきてくれないと解することができます。しかし、「落花」や「風雨」は失望や苦難の暗示でもありますので、望む世がこないと解することもできます。自分の人生は逆境のまま黄昏を迎えるのかと、失意の心情を詠っているとみることもできるでしょう。

     元4ー趙孟頫
        岳鄂王墓              岳鄂王の墓

      鄂王墳上草離離   鄂王(がくおう)の墳上(ふんじょう)  草離離(りり)たり
      秋日荒涼石獣危   秋日(しゅうじつ)荒涼として石獣(せきじゅう)危(たか)し
      南渡君臣軽社稷   南渡(なんと)の君臣  社稷(しゃしょく)を軽(かろ)んじ
      中原父老望旌旗   中原の父老(ふろう)  旌旗(せいき)を望む
      英雄已死嗟何及   英雄  已(すで)に死して  嗟(なげ)くも何ぞ及ばん
      天下中分遂不支   天下  中分(ちゅうぶん)  遂に支(ささ)えず
      莫向西湖歌此曲   西湖(せいこ)に向かって此の曲を歌うこと莫(なか)れ
      水光山色不勝悲   水光(すいこう)  山色(さんしょく)  悲しみに勝(た)えず

      ⊂訳⊃
              岳飛の墓のうえに  草は一面にはびこり
              秋の陽は侘びしく  石獣だけが聳えている
              南宋の君臣たちは  国家を軽んじ
              中原の父老たちは  天子の軍隊を待ち望んでいた
              だが英雄は殺され  嘆いても元にもどりはしない
              天下は二分されて  持ちこたえられなくなっていた
              西湖のあたりで   この詩を詠うのはやめたまえ
              水の光も山の色も  悲しみをそそるだけだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「岳鄂王」(がくがくおう)は南宋初期の忠臣岳飛(がくひ)のことです。岳飛は金と戦って武功がありましたが、講和派の秦檜(しんかい)に毒殺されます。孝宗のときに名誉が回復され、鄂王の称号を贈られました。作者が西湖(浙江省杭州市)の畔にある岳飛の墓に詣でたときの作でしょう。
     はじめの二句は鄂王墓のようすです。墳丘は草に蔽われ、秋の陽が「石獣」を照らしているだけです。当時は王侯貴族の墓前に石造の獣をならべる風習がありました。
     中四句は南宋の平和主義を批判し、岳飛ら抗金派が亡くなったあとの衰亡を思います。「南渡の君臣」は金に圧迫されて江南に逃れた南宋の君臣のことです。「社稷」は土地の神と穀物の神、転じて国家を意味します。「中原の父老」は北に残された漢民族の長老たちで、宋の軍隊が攻めのぼってくるのを待ち望んでいました。「英雄」は岳飛をさし、愛国の英雄が死んでしまって「嗟くも何ぞ及ばん」と現実にたちもどります。天下は南北に分断されて、南宋も国を持ちこたえることができなかったと祖国の滅亡を省みるのです。
     最後の二句は感懐で、西湖の近くでこの詩を詠うのはやめたまえといいます。「水光山色」は蘇軾の詩句を踏まえており、詠えば西湖の水の光も山の色も悲しみに包まれてしまうと嘆きます。趙孟頫は元に仕えていましたが、心は亡国の悲しみに満ちていました。

     元5ー趙孟頫
       金陵雨花台遂至         金陵の雨花台 遂に故 
       故人劉叔亮墓           人劉叔亮の墓に至る

      雨花台上看晴空   雨花台上(うかだいじょう)  晴空(せいくう)を看(み)る
      万里風煙入望中   万里の風煙(ふうえん)   望中(ぼうちゅう)に入る
      人物車書南北混   人物(じんぶつ)も車書(しゃしょ)も南北混(こん)じ
      山川襟帯古今同   山川(さんせん)の襟帯(きんたい)  古今(ここん)同じ
      昆虫未蟄霜先隕   昆虫(こんちゅう)  未(いま)だ蟄(こも)らずして  霜  先ず隕(お)ち
      鳳鳥不鳴江自東   鳳鳥(ほうちょう)  鳴かずして  江(こう)  自(おのず)から東(ひがし)す
      緑髪劉伶縁酔死   緑髪(りょくはつ)の劉伶(りゅうれい)  酔(よい)に縁(よ)って死す
      往尋荒塚酬西風   往(ゆ)いて荒塚(こうちょう)を尋ね   西風(せいふう)に酬(むく)ゆ

      ⊂訳⊃
              雨花台に上って  晴れた空を眺めると
              万里のかなた   風も霞も一望できる
              天下統一により  人も物も車も文字も南北入り混じるが
              山川の風景は   いまも昔と変わらない
              虫が籠らない内に  はやく霜がおり
              鳳凰は鳴く事なく   長江は東に流れるだけ
              まだ黒髪の劉伶は  酒を飲み過ぎて死んだ
              荒れた墓に詣でて  秋風のなか酒をたむける


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「雨花台」は「金陵」(建康:江蘇省南京市)の南門外にある平らな丘です。そこにある旧友劉叔亮(りゅうしゅくりょう:伝不詳)の墓に詣でたときの作で、はじめの二句は雨花台上のひろびろとした眺めを詠っています。
     中四句の「人物も車書も南北混じ」は天下統一によって人・物・車・書がひとつになることです。「山川の襟帯」は山川にかこまれた風景のことで、金陵はその典型の地でした。南宋の皇室につらなる者としては「国破れて山河あり」(杜甫「春望」)の心境であったでしょう。
     「昆虫 未だ蟄らずして 霜 先ず隕ち」は虫が冬ごもりをしないうちに霜がおりることですが、劉叔亮の早逝を喩えるものです。「鳳鳥」は聖天子の御代に現れるとされる神鳥ですので、鳳凰が鳴くようなめでたいことも起こらずにただ長江が流れているだけだと詠います。友もいなくなり心躍ることもない世の中を嘆くのでしょう。
     最後の二句の「緑髪の劉伶」は劉叔亮を喩えるもので、晋の詩人劉伶は長生きしたのに劉叔亮は若死にであったので「緑髪」といいます。劉叔亮は劉伶のような酒好きであったらしく、「西風」(秋風)のなか荒れた墓に酒を注いでとむらったと詠います。(2016.3.20)

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     元6ー宋无
        旱郷田父言             旱郷の田父の言

      痩牛病喘餓桑間   痩牛(そうぎゅう)は病み喘(あえ)いで  桑間(そうかん)に餓(う)え
      碌碡閑眠麦地乾   碌碡(ろくどく)は閑(かん)に眠り     麦地(ばくち)乾く
      残税駆将児子去   残税(ざんぜい)  児子(じし)を駆り将(も)て去り
      豆畦却倩草人看   豆畦(とうけい)  却って草人(そうじん)を倩(やと)って看(まも)らしむ

      ⊂訳⊃
              痩せ牛は病気であえぎ  桑畑で餓えている

              桑畑はからからに乾き  ひき臼は寝転がる

              税の滞納で  息子は人夫に駆りだされ

              豆畑の畦に  案山子を立てて見張らせる


     ⊂ものがたり⊃ 征服王朝元の行政事務は世の中が落ちついて来るにしたがって増える一方でした。そのため実務を担当する中下級官僚の採用制度として吏員歳貢制が行われるようになります。しかし、その試験科目は公文書の取り扱いや算術といったもので、科挙で要求された学力とは比較にならない低俗なものでした。
     あわせて暗黙のうちにモンゴル人・色目人・漢人・南人の区別が生まれてきます。この区別は人種をしめすというより王朝との隸属関係を意味しており、色目人(しきもくじん)は広い意味での西域人で、フランキと称された欧州人も含まれます。
     漢人は契丹人や女真人・高麗人のほか、金の領内に住んでいた漢民族も含み、旧金の支配下にあった者という意味です。南宋の住民は南人と称され、最下層の取り扱いを受けました。
     吏員歳貢制が要求するような知識で詩を作ることはできません。そんななか、劉因、趙孟頫につづいて宋无(そうむ)、范梈(はんほう)、掲傒剘(けいけいし)といった詩人が登場します。
     宋无(1260ー1340)は晋陵(江蘇省武進県)の人。十七歳のときに宋都臨安が陥落します。生涯を野にすごし、八十歳になった順帝の至元五年(1339)に茂才(秀才)にあげられますが、親が老いたからといって受けませんでした。その翌年になくなり、享年八十一歳でした。
     詩題の「旱郷」(かんきょう)は旱害に遭った村のことです。「田夫」は農夫のことで、農夫にかわって農民の苦しみを詠います。「碌碡」は石や木で作ったローラー状のもので、牛や驢馬に引かせて地ならしや穀物を碾くのに用いました。「草人」は案山子のことですが、「碌碡」も「草人」も擬人化されているところに皮肉があります。ですが、一番いいたいのは「残税 児子を駆り将て去り」の部分でしょう。

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     元7ー范梈
        登沓磊駅楼            沓磊の駅楼に登り
        自此度海              此れより海を度る

      半生長以客為家   半生(はんせい)  長(つね)に客(たび)を以て家と為(な)す
      罷直初来瀚海楂   直(ちょく)を罷(や)めて初めて来たる  瀚海(かんかい)の楂(いかだ)
      始信人間行不尽   始めて信ず    人間(じんかん)は行けども尽きず
      天涯更復有天涯   天涯(てんがい)  更に復(ま)た天涯有るを

      ⊂訳⊃
              いつも旅ぐらし  半生を生きてきた

              こんど職を辞し  はじめてゴビの砂漠をわたる

              人の世は   ゆけどもゆけども果てしなく

              天の果てに  また果てがあるのを理解した


     ⊂ものがたり⊃ 詩人たちの運命は華やかなものではありませんでしたが、范梈(はんほう)とつぎの掲傒斯(けいけいし)は後世、元四大家にかぞえられています。
     范梈(1272ー1330)は清江(湖北省恩施県)の人。度宗の咸淳八年(1272)に南宋の貧家に生まれました。五歳のとき都臨安が陥落して元の世になります。各地を放浪し、詩文を売って生活していましたが、三十六歳のとき大都(北京)にのぼり、元に仕えて翰林院編修官になります。閩海道知事などを歴任し、晩年になって郷里に隠棲します。文宗の至順元年(1330)になくなり、享年五十九歳です。
     詩題の「沓磊駅」(とうらいえき)は不詳です。詩中に「瀚海」(ゴビ砂漠)がありますので西北辺境の宿駅でしょう。「直」は宮中に仕えること。職を辞してから西方に旅をしたようです。「楂」(槎)は筏のことで、砂漠を越えてゆく馬や駱駝を海槎または陸槎といいました。後半は作者の感慨で、「人間」は人間世界のこと。人の世が広くさまざまであると驚きを詠います。

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     元8ー掲溪斯
       夏五月武昌舟中觸目      夏五月 武昌の舟中の觸目

      両髯背立鳴双櫓   両髯(りょうぜん)  背立(はいりつ)して双櫓(そうろ)を鳴らし
      短蓑開合滄江雨   短蓑(たんさ)    開合(かいごう)す  滄江(そうこう)の雨
      青山如龍入雲去   青山(せいざん)は龍の如く  雲に入って去り
      白髪何人並沙語   白髪(はくはつ)  何人(なんびと)ぞ  沙(すな)に並んで語る
      船頭放歌船尾和   船頭(せんとう)に放歌すれば  船尾(せんび)に和し
      篷上雨鳴篷下坐   篷上(ほうじょう)に雨鳴って    篷下(ほうか)に坐す
      推篷不省是何郷   篷(ほう)を推(お)すも  省(し)らず  是(こ)れ何(いず)れの郷(きょう)なるかを
      但見双双白鷗過   但(た)だ見る  双双(そうそう)  白鷗(はくおう)の過(よ)ぎるを

      ⊂訳⊃
              髯の男がふたりして  背中あわせに櫓を漕ぐ
              蒼い水面に雨は降り  短い蓑が揺れうごく
              青山は龍のように   雲のあいだを過ぎ
              岸辺に並び語りあう  白髪の翁は何者か
              舳先で歌うと       艫の男が和し
              雨の音を聞きながら  苫やのしたに坐している
              苫を押し上げても    どこだかわからない
              白い鷗がふたつがい  飛んでゆくのがみえるだけ


     ⊂ものがたり⊃ 掲溪斯(けいけいし:1275ー1344)は富州龍興(江西省豊城県)の人。二歳のときに都臨安が陥落しました。元の世に育ち、若くして文名を上げます。元に仕えて三たび翰林院に入り、侍講学士に至りました。順帝の至正四年(1344)になくなり、享年七十歳です。
     詩題の「觸目」(しょくもく)はみたままということで、舟で長江を航行中、「武昌」(湖北省武漢市武昌)のあたりの情景や舟行のようすを詠います。「夏五月」は陰暦五月、雨の季節です。はじめの二句は雨中で櫓を漕ぐ船頭のようす、つぎの二句は舟からみえる岸辺のようすです。
     つぎの二句は舳先と艫で船頭が歌をかけあい、作者は「篷下」(苫やの下)に坐して船頭の歌と雨の音を同時に聞いています。舟行の詳細を描いて劇の場面をみるようです。
     最後の二句では作者の感懐がしめされており、さきの見えない旅、人生の頼りなさを詠うのでしょう。「鷗」(白鷗)は世俗の羈絆から解き放たれた自由の象徴であり、束縛から離れて生きることを思うのでしょう。

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