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tiandaoの自由訳漢詩

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     南宋3ー陳与義
       登岳陽楼二首 其一    岳陽楼に登る 二首  其の一

      洞庭之東江水西   洞庭(どうてい)の東  江水(こうすい)の西
      簾旌不動夕陽遅   簾旌(れんせい)  動かず  夕陽(せきよう)遅し
      登臨呉蜀横分地   登臨(とうりん)す  呉蜀   横分(おうぶん)の地
      徏倚湖山欲暮時   徏倚(しい)す  湖山(こざん)  暮れんと欲するの時
      万里来遊還望遠   万里(ばんり)来遊して  還(かえ)って遠くを望み
      三年多難更憑危   三年難(なん)多くして  更に危(き)に憑(よ)る
      白頭弔古風霜裏   白頭(はくとう)  古(いにしえ)を弔う  風霜(ふうそう)の裏(うち)
      老木蒼波無限悲   老木(ろうぼく)  蒼波(そうは)  無限の悲しみ

      ⊂訳⊃
              洞庭湖の東  長江の西
              帳はそよともせず  沈む夕日はゆるやか
              呉と蜀が  わかれる土地をみおろして
              今まさに  湖山の日暮れのときを歩きまわる
              万里流浪の果て  遠く故郷をふりかえり
              三年の苦労続き  また高楼に登る
              白髪頭を風雪にうたれながら  懐かしむのは昔のこと
              枯れようとする古木  蒼い波  無限の悲しみ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「岳陽楼」(がくようろう)は岳州巴陵(湖南省岳陽市)にある城楼で、西に洞庭湖を臨む湖口に位置しています。詩中に「三年多難」とありますので、金軍の侵攻をのがれて南に放浪して三年目、三十九歳のときの作品です。岳州にたどりつき有名な詩跡である岳陽楼にのぼりました。
     はじめの二句で自分のいる場所を示します。風がなく夕日もゆっくりと動いています。中四句の対句。はじめの対句は首聯の二句を受けて「呉蜀 横分の地」といいます。杜甫は「岳陽楼に登る」の詩(ティェンタオの自由訳漢詩718:2010.7.9のブログ参照)で「呉楚は東南に坼け」といっていますので、楚を蜀にかえて詠っています。「徏倚」はさまようこと、落ち着きのない気持ちで歩きまわるのでしょう。
     つぎの対句ではこれまでを回顧します。都を出て三年間、苦労を重ね、いままた「危」にもたれています。「危」は高く険しいという意味で、高い場所をさすと同時に危難の状況にいることをしめします。尾聯は結びの感懐で、白髪頭を「風霜」にうたれながら昔を懐かしむのです。

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     南宋4ー陳与義
         春 寒              春 寒

      二月巴陵日日風   二月の巴陵(はりょう)  日日(にちにち)の風
      春寒未了怯園公   春寒(しゅんかん)未だ了(おわ)らず  園公(えんこう)を怯(おびや)かす
      海棠不惜臙脂色   海棠(かいどう)は惜(お)しまず     臙脂(えんじ)の色を
      独立濛濛細雨中   独り立つ  濛濛(もうもう)たる細雨(さいう)の中(うち)

      ⊂訳⊃
              二月になっても  岳陽の街に風が吹き

              春の寒さが    小園ずまいの身を襲う

              そぼ降る雨で   あたり一面けむるなか

              臙脂の色もあざやかに 海棠の花が立っている


     ⊂ものがたり⊃ 詩中に「二月」とあり、岳州についた翌年春二月の作とみられます。「巴陵」は岳州の州治のある県で、城内に巴丘という小山がありました。自注に「小園を借りて住み、ついに自ら園公と号す」とあり、春の寒風が小園に住んでいる作者を襲います。
     雨中の「海棠」は杜甫の「春夜に雨を喜ぶ」(ティェンタオの自由訳漢詩630:2010.4.12のブログ参照)に「暁に紅の湿れる処を看れば 花は錦官城に重からん」とあるのを思わせます。

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     南宋5ー陳与義
        江南春              江南の春

      雨後江上緑      雨後(うご)   江上(こうじょう)の緑
      客悲随眼新      客悲(かくひ)  眼に随って新たなり
      桃花十里影      桃花(とうか)  十里の影
      揺蕩一江春      揺蕩(ようとう)す  一江(いっこう)の春
      朝風逆船波浪悪   朝風(ちょうふう)  船に逆らって  波浪(はろう)悪(わる)し
      暮風送船無処泊   暮風(ぼふう)    船を送って   泊るに処(ところ)無し
      江南雖好不如帰   江南(こうなん)好しと雖(いえど)も 帰るに如(し)かず
      老薺遶墻人得肥   老薺(ろうせい)  墻(しょう)を遶(めぐ)って  人  肥(こ)ゆるを得ん

      ⊂訳⊃
              長江の岸辺に  雨はあがって緑色
              旅する身には  春の眺めも悲しみとなる
              十里にわたる  桃の花
              春の長江は   揺れ動いて静まらない
              朝風に船を出せば   逆波が舳先をさえぎり
              夕風に船を進めても  泊まるところがない
              江南は好しというが  故郷に勝るものはない
              垣の周りに薺が育ち  食べれば栄養たっぷりだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「江南の春」といえば、唐代では豊かで美しい季節、晴れやかさの象徴でした。それを逆手にとって帰郷への思いを詠います。この場合、帰郷とは金とたたかう政事路線を意味します。高宗が越州に居所をおいていた紹興元年(1131)のころ、陳与義は行在所の近くにきていました。紹興二年、臨安に召されて官に復帰し、詩は復帰後の作品です。
     五言四句、七言四句の変則な詩形で、二首の詩をくっつけたように見えますが、中四句は二組の対句になっています。はじめの二句、「雨後」は金軍が江南から撤退して苦難の数年が終わったことを喩えます。しかし、故郷を離れていることの悲しみはぬぐい去れません。
     中四句のはじめの対句は江南の春景色です。長江は波静かではなく「揺蕩」しています。金軍再侵入の不安はぬぐい去れません。つぎの対句は船の運行に託して政事の難しさを嘆くものです。抗戦派の陳与義は講和派の秦檜(しんかい)と対立していました。
     結びの二句では汴梁回復の希望を詠います。「江南好しと雖も」は白居易に「江南を懐う三首」(ティェンタオの自由訳漢詩925:2011.2.6のブログ参照)の詞があり、「江南好し」ではじまります。その句をもちいて和平論を否定し、「不如帰」(帰るに如かず)と詠うのです。

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     南宋6ー陳与義
         牡 丹                牡 丹

      一自胡塵入漢関   一(ひと)たび  胡塵(こじん)の漢関(かんかん)に入ってより
      十年伊洛路漫漫   十年  伊洛(いらく)  路(みち)漫漫(まんまん)
      青墩渓畔龍鐘客   青墩渓畔(せいとんけいはん)  龍鐘(りょうしょう)の客(かく)
      独立東風看牡丹   独り東風(とうふう)に立って牡丹(ぼたん)を看(み)る

      ⊂訳⊃
              夷狄の兵が  国境を越えて十年

              遥かな洛陽  遠く果てしない路

              青墩渓のほとりに  やつれ姿の仮住まい

              春風のなか  ひとり佇んで牡丹をみる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「牡丹」は洛陽の名花でした。故郷の花を江南でみての感懐です。紹興六年(1136)、四十六歳で隠退したあとの作品で、漢を借りて「漢関」といいますが、国境の意味です。
     靖康元年(1126)に都汴京が陥落してから十年がたっています。「伊洛」は伊水と洛水のことで、故郷の洛陽(もしくは都の地)を意味します。そこから遠く離れてしまったと嘆くのです。「青墩渓」は浙江省桐郷県の北にあり、「龍鐘」は老いやつれたさま、涙がぽろぽろ流れるといった意味の形容詞です。異郷で老い、疲れ果て、「東風」(春風)のなか牡丹の花を眺めていると、晩年の感懐を詠います。

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     南宋7ー呂本中
       兵乱後雑詩          兵乱後 雑詩

      蝸舎嗟蕪没     蝸舎(かしゃ)  蕪没(ぶぼつ)を嗟(なげ)く
      孤城乱定初     孤城(こじょう)  乱(らん)定まるの初め
      籬根留敝屨     籬根(りこん)には   敝屨(へいく)を留(とど)め
      屋角得残書     屋角(おくかく)には  残書(ざんしょ)を得たり
      雲路慚高鳥     雲路(うんろ)   高鳥(こうちょう)に慚(は)じ
      淵潜羨巨魚     淵潜(えんせん)  巨魚(きょぎょ)を羨(うらや)む
      客来缺佳致     客(かく)来たりて  佳致(かち)を缺(か)き
      親為摘山蔬     親(みずか)ら為に  山蔬(さんそ)を摘(つ)む

      ⊂訳⊃
              なんとわが家は  雑草に蔽いつくされている
              乱が収まり  やっと故郷にもどってきたのに
              垣の根元に  靴は投げ棄てられ
              家の隅には  残された書物が散らばる
              雲間を飛ぶ  鳥にも劣る逃げ方だった
              淵の巨魚を  羨むほどに慌てていた
              いまは客が来ても  もてなす物もなく
              山野に菜を摘んで  食べるありさまだ


     ⊂ものがたり⊃ 呂本中(りょほんちゅう:1084ー1138)は寧州(安徽省)の人。もとの名は大中(だいちゅう)です。北宋の宰相呂公著(りょこうちょ)の曾孫で、学問の家に育ちました。若いころから黄庭堅の詩に学び、詩名を謳われました。恩蔭で承務郎になり、四十三歳のとき首都の陥落に遭遇します。一時避難したあと自宅にもどりますが、南渡して高宗の紹興年間のはじめに進士の資格をあたえられて中書舎人になります。
     しかし、抗戦派の趙鼎(ちょうてい)と親しかったため講和派の秦檜(しんかい)に弾劾され、太平観提挙(恩給)を拝して隠退します。「江西詩社宗派図」を著して江西詩派の詩統を明らかにしました。紹興八年(1138)、陳与義と同じ年に亡くなり、享年五十五歳です。
     詩題の「兵乱」は金軍の侵入、「靖康の変」をさします。乱をさけて避難したあと、建炎二年(1128)に寿州(安徽省寿県)の自宅にもどってきたときの作、ときに四十五歳でした。首聯の「蝸舎」は蝸牛の殻、わが家を謙遜していうもので「蕪」(雑草)に蔽いつくされていました。「孤城」は敵中に取り残された城(街)といった感じの語で、故郷を示します。
     頷聯の対句では乱された家のようすを描き、頚聯の対句では避難のときの慌てたようすを空飛ぶ鳥や淵の魚とくらべて歎きます。尾聯の「客」は見舞いにきた者のことでしょう。見舞客にだす食べ物もなく、山野の菜を自分で摘んできて食べるありさまでした。

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     南宋8ー李清照
        如夢令               如夢令

      昨夜雨疏風驟    昨夜(さくや)    雨疏(まば)らに  風驟(にわ)かなり
      濃睡不消残洒    濃睡(のうすい)  残洒(ざんしゅ)を消さず
      試問巻簾人      試(こころ)みに  簾(すだれ)を巻く人に問えば
      却道海棠依旧    却(かえ)って道(い)う  海棠(かいどう)は旧に依(よ)ると
      知否           知るや否や
      知否           知るや否や
      応是緑肥紅痩    応(まさ)に是(こ)れ  緑肥え 紅(くれない) 痩(や)せたるべし

      ⊂訳⊃
              昨夜は雨が  ぱらぱらと降って急な風
              ぐっすり眠ったが  酔いはまだ残っている
              簾を巻き上げにきた侍女に尋ねると
              海棠の花に  異常はありませんという
              そうかしら
              そうかしら
              緑だけが多くなり  紅の花は散ったであろう


     ⊂ものがたり⊃ 李清照(りせいしょう:1084ー1151?)は済南(山東省済南市)の人。呂本中と同じ年に学者の家に生まれました。十八歳のとき、学者の趙明誠(ちょうめいせい)と結婚し、夫に協力して石碑・書画・奇器の蒐集研究に従事しました。
     四十三歳のとき金の侵攻に遭遇、難を避けて夫とともに江南に移ります。しかし、ほどなく夫は急病でなくなり、持ってきた家蔵の品を売りながら暮らす生活におちいります。その詞には国破れて家滅びる悲惨な心情がにじみでており、中国史上最高の閨秀作家と称されています。しかし、その最後は不明のままで、高宗の紹興二十一年(1151)ころに亡くなったと推定されています。享年六十八歳くらいです。
     詞「如夢令」(じょぼうれい)は結婚前、娘時代の作とみられ、発想が孟浩然の「春暁」(盛唐53、2014.5.7のブログ参照)「夜来 風雨の声 花落つること知るや多少ぞ」に似ているのは江西詩派の影響でしょう。孟浩然の詩が自問自答であるのに対して、ここでは侍女との対話があり、いかにも良家の子女らしいゆったりした雰囲気があります。  

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     南宋9ー李清照
       夏日絶句             夏日絶句

      生当為人傑     生きては当(まさ)に  人傑(じんけつ)と為(な)るべく
      死亦作鬼雄     死しては亦(また)   鬼雄(きゆう)と作(な)らん
      至今思項羽     今に至って  項羽(こうう)の
      不肯過江東     肯(あえ)て江東(こうとう)に過(よぎ)らざりしを思う

      ⊂訳⊃
              生きている時は  英雄となるべきだ

              死んでののちは 黄泉の勇者となるがよい

              今の世になって  項羽の潔さがしのばれる

              あえて江東の   土を踏まなかった決断が


     ⊂ものがたり⊃ 「夏日絶句」(かじつぜっく)は南渡後の作品であり、政府の軟弱な対金政策を批判しています。まずはじめの二句で、男は生きているときも死んでからも強く雄々しくなければならないと主張します。秦檜らの講和派を批判するのでしょう。
     後半は項羽を持ち出して英雄のあるべき姿をたたえます。楚漢戦争末期、項羽は長江北岸に追いつめられ、江東にもどって再起を図ることもできたのに死を覚悟して踏みとどまりました。その決断を英雄にふさわしい筋の通った態度であると詠うのです。

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     南宋10ー李清照
        声声慢              声声慢          (上片十句)

      尋尋覓覓       尋尋(じんじん)  覓覓(べきべき)
      冷冷清清       冷冷(れいれい)  清清(せいせい)
      悽悽慘慘戚戚    悽悽(せいせい)  慘慘(さんさん)  戚戚(せきせき)
      乍暖還寒時候    乍(たちま)ち暖かくして  還(ま)た寒き時候(じこう)は
      最難将息       最(もつと)も将息(しょうそく)し難(がた)し
      三盃両盞淡酒    三盃(さんばい)両盞(りょうさん)の淡酒(たんしゅ)もて
      怎敵他晩来風急   怎(いか)でか晩来(ばんらい)の風の急なるに敵(てき)せん
      雁過他         雁(がん)の過(よぎ)るや
      正傷心         正(まさ)に心を傷(いた)ましむ
      却是旧時相識    却(かえ)って是(こ)れ   旧時(きゅうじ)の相識(そうしき)

      ⊂訳⊃
              尋ね尋ね  求め求める
              冷えびえと透きとおり
              悲しくて   傷ましく  そして寂しい
              暖かいと思えば  また寒くなる季節は
              心も体も  やすまるときがなく
              二三杯の薄酒で
              どうして  夕暮れの急な風に堪えられよう
              雁が飛んで来ると
              心は傷む
              雁のことを  私は昔から知っていた


     ⊂ものがたり⊃ 詞題の「声声慢」(せいせいまん)は曲名です。晩秋の夕暮れ時のどうしようもない淋しさ、心もとなさを曲に合わせて詠います。夫の死後、生活もままならなくなった晩年の作品でしょう。上片の冒頭、二字句が七つも並べてあり、切迫した心情を訴えます。二字句は音調と意味を備えており、訳に反映させました。
     つぎの四句は晩秋の不安定な気候を描き、「三盃両盞」の薄酒では日暮れの急な風に堪えられないと詠います。「怎敵他晩来風急」は「怎でか敵せん 他(か)の晩来の風の急なるに」と訓ずることもできますが、「他」は動詞の下につく接尾語と解する説によりました。 上片の結び三句は空飛ぶ雁を見上げ、雁は毎年飛んでくるが、自分の人生はいっこうに良くならないと嘆くのです。 

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     南宋11ー李清照
        声声慢              声声慢          (下片九句)

      満地黄花堆積    地に満つる黄花(こうか)  堆積(たいせき)す
      憔悴損         憔悴(しょうすい)し損(そん)じ
      如今有誰堪摘    如今(じょこん)  誰か摘むに堪(た)うるもの有(あ)らん
      守着窗児       窗児(まど)を守着(しゅちゃく)し
      独自怎生得黒    独自(ひとり)   黒(くろ)むを得るを怎生(いかん)せん
      梧桐更兼細雨    梧桐(ごとう)   更に細雨(さいう)を兼(か)ね
      到黄昏 点点滴滴  黄昏(こうこん)に到って  点点(てんてん)  滴滴(てきてき)
      這次第         這(こ)の次第
      怎一個愁字了得   怎(いか)でか一個の  愁(しゅう)の字もて了(りょう)し得ん

      ⊂訳⊃
              地面いっぱいに  菊の花が散り敷き
              やつれ疲れて
              いまとなっては  手にする者もいない
              窓辺にはりつき
              一人ぼっちで  暗くなるのを眺めている
              萎えた青桐に  小雨が降りはじめ
              暮れ方のいま  雫の垂れる音がする
              このなりゆきは
              一個の愁の字で  いいつくせるものではない


     ⊂ものがたり⊃ 下片では庭をみています。悲しみはますます深くなり、庭には菊の花が散り敷いて「堆積」しています。「如今 誰か摘むに堪うるもの有らん」と詠いますが、誰も相手にしなくなった老いの身を喩えるかのようです。
     窓辺に顔を寄せて、夜のとばりが降りて来るのをひとり見詰めていると、どうしようもない気持ちになり、そこに小雨が降ってきました。秋になって葉の少なくなった「梧桐」(あおぎり)を雨が濡らし、雫が「点点滴滴」とたれています。この成りゆきは、「愁」のひとことではいい尽くせないほど心に深く沁みてくるものだと嘆きます。

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     南宋12ー岳飛
        満江紅  登           満江紅 黄鶴楼
        黄鶴楼有感           に登りて感有り        (上片八句)

      遥望中原         遥かに中原(ちゅうげん)を望めば
      荒煙外 許多城郭   荒煙(こうえん)の外に   許多(あまた)の城郭あり
      想当年 花遮柳護   想う 当年 花遮(さえぎ)りて  柳護(まも)る
      鳳楼龍閣        鳳楼(ほうろう)龍閣(りゅうかく)ありしを
      万歳山前珠翠繞    万歳山前(ばんざいさんぜん)  珠翠(しゅすい)繞(めぐ)り
      蓬壺殿裏笙歌作    蓬壺殿裏(ほうこでんり)  笙歌(しょうか)作(おこ)る
      到而今 鉄騎満郊畿 而今(じこん)に到り  鉄騎(てつき)  郊畿(こうき)に満ち
      風塵悪          風塵(ふうじん)悪(わろ)し

      ⊂訳⊃
              遥かに中原を望めば
              乱れた靄のむこうに  多くの街がある
              思えば昔  花は視界をさえぎり
              柳は豪華な宮殿を守っていた
              万歳山の前には  美女たちが練り歩き
              蓬壺殿の中では  笛の音や歌声が湧きおこる
              ところがいまは   都の近くに騎馬があふれ
              憂慮すべき事態である


     ⊂ものがたり⊃ 南宋の時代になると、詞は広く知識人のたしなむ文芸になり、閨怨詩だけではなく、戦場でも詠われる歌になっていました。抗戦の英雄岳飛(がくひ)にも詞作品があります。
     岳飛(1103ー1141)は相州湯陰(河南省湯陰県)の人。農家の出身で、北宋末、十九歳のときに祖国防衛の義勇軍に参加しました。金軍との戦いや地方の反乱の平定に従事して頭角をあらわし、南宋の初期には湖北の義勇軍の指導者になりました。
     功績を認められて各鎮の節度使や宣撫副使になり、枢密副使にすすみますが、終始、金との和平に反対したため講和派の秦檜と対立します。獄に投ぜられて服毒自殺を命ぜられ、高宗の紹興十一年(1141)に獄中でなくなります。享年三十九歳の若さでした。
     詩題は曲名の「満江紅」(まんこうこう)に加えて作詞の場所が注記されています。戦況からして岳飛が在野の義勇軍の将であった紹興四年(1134)ごろ、金軍を討って武昌(湖南省武漢市武昌区)に帰ってきたときの作品でしょう。「黄鶴楼」(こうかくろう)は武昌の西南隅、長江をみおろす黄鶴磯のうえにあり、唐代からの有名な詩跡でした。
     上片は中四句を前後の各二句で囲む形式になっており、はじめの二句で北の中原には多くの街がまだ金軍の占領下にあると詠います。中四句は都汴京のかつての姿を詠うもので、「柳護る」は岸辺に柳の生えている堀が「鳳楼龍閣」(豪華な宮殿)をめぐって護っていたと解されます。「万歳山」は徽宗が宮中の庭につくった巨大な築山で、繁栄の象徴でした。
     山のまえには「珠翠」(首飾りや簪をつけた美女)が練り歩き、「蓬壺殿」(宮中の宴会場)では笛の音や歌声が湧き起こっていたと、繁栄していた都のさまを描きます。結びの二句は現状で、「風塵」は空気と解され、嫌悪咸もしくは憂慮の表現でしょう。  

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     南宋13ー岳飛
        満江紅  登          満江紅 黄鶴楼
        黄鶴楼有感          に登りて感有り        (下片十句)

      兵安在          兵  安(いず)くにか在る
      膏鋒鍔          鋒鍔(ほうがく)に膏(ちぬ)る
      民安在          民  安(いず)くにか在る
      塡溝壑          溝壑(こうがく)を塡(うず)む
      嘆江山如故       嘆く 江山(こうざん)は故(もと)の如くなるを
      千村寥落        千村(せんそん)は寥落(りょうらく)せるを
      何日請纓提鋭旅    何(いず)れの日にか  纓(えい)を請(こ)うて鋭旅(えいりょ)を提(ひき)い
      一鞭直渡清河洛    一鞭(いちべん)  直(ただ)ちに渡って河洛(からく)を清めん
      却帰来 再続漢陽遊 却(しりぞ)きて帰り来たり  再び漢陽(かんよう)の遊(ゆう)を続け
      騎黄鶴          黄鶴(こうかく)に騎(の)らん

      ⊂訳⊃
              兵はどこにいるのか
              敵の刃に斃れ臥す
              民はどこにいるのか
              溝や谷間を埋めている
              山川は  昔と変わらないのに
              村々の  荒れた姿は嘆かわしい
              いつの日か   大命を拝して強兵をひきい
              鞭のひと振り  長江を渡って黄河を清めよう
              凱旋して再び  南国の遊びを楽しみ
              黄鶴に乗って  飛び去ろうではないか


     ⊂ものがたり⊃ 下片のはじめ六句は、上片の憂慮を具体的にのべます。三語二句ずつ四句の重なりに力があり、多くの兵や民が犠牲になったことを詠います。そして杜甫のように山河は変わらなくても村々は荒廃していると嘆くのです。
     結びの四句では、これからの決意をのべて兵士をはげまします。「纓を請うて」は『漢書』終軍伝に終軍が長纓を請うて南越王を降した故事があり、天子の命を受けて賊徒の討伐にむかうことを意味します。「河洛」は黄河と洛水のこと、都城の地域です。「漢陽」はひろく南中国を意味し、凱旋して故郷で遊び、「黄鶴に騎らん」と詠います。
     「黄鶴」は盛唐の詩人崔(さいこう)の有名な「黄鶴楼」(ティェンタオの自由訳漢詩1928:2014.3.26のブログ参照)の詩をさしており、仙人になって天に昇ろうではないかと兵士によびかけるのです。

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     南宋14ー范成大
       催租行 效王建           催租行 王建に效う

      輸租得鈔官更催   租(そ)を輸(いた)して鈔(しょう)を得たるに 官 更に催(うなが)す
      踉蹌里正敲門来   踉蹌(ろうそう)として里正(りせい)  門を敲(たた)いて来たる
      手持文書雑嗔喜   手に文書(ぶんしょ)を持(じ)して   嗔喜(しんき)を雑(まじ)う
      我亦来営酔帰耳   我(われ)も亦 来たり営(いとな)み 酔帰(すいき)せんのみと
      牀頭慳嚢大如拳   牀頭(しょうとう)の慳嚢(けんのう)  大いさ拳(こぶし)の如し
      撲破正有三百銭   撲破(ぼくは)すれば正(まさ)に三百銭有り
      不堪与君成一酔   君が与(ため)に一酔(いっすい)を成すに堪(た)えざるも
      聊復償君草鞋費   聊(いささ)か復(ま)た  君が草鞋(そうあい)の費(ひ)を償(つぐな)わん

      ⊂訳⊃
              税を納め受取りもあるのに  役人はさらに催促する
              村長が千鳥足でやって来て  わが家の戸をたたく
              手には書類をもって  脅したりすかしたり
              儂だって仕事なんだ  一杯飲まなきゃ帰れないよ
              枕もとのへそくり壺  拳骨くらいの大きさを
              叩き壊せば  なかに三百銭
              酔ってもらうには足りないが
              草鞋代にはなるだろう


     ⊂ものがたり⊃ 南宋の官民には金に屈服した祖国の状態を不満とする思いが鬱積していました。紹興二十五年(1155)十月に秦檜(しんかい)が死ぬと、抗戦派の張浚(ちょうしゅん)が宰相になります。その背景には国際情勢の変化がありました。
     紹興十九年(1149)、金の第三代皇帝煕宗(きそう)は海陵王完顔亮(ワンヤンりょう)に殺害され、皇帝に即位した完顔亮は都を上京会寧府(黒龍江省阿城県白城)から燕京(北京)に移します。
     海陵王は中国全土を手中にする野心を抱いており、秦檜の死後、ひそかに南征の準備をはじめました。紹興三十一年(1161)九月、海陵王はみずから六十万の大軍をひきいて南下してきました。宋も檄文を発して臨戦態勢にはいり、長江の線に防衛線を布きます。
     金軍との戦いは、采石磯(安徽省馬鞍市)と瓜州(江蘇省揚州市瓜洲)の二度にわたって行われました。宋軍は金軍の渡江を撃退しますが、渡江して反撃する力がありません。そのころ金の本国では海陵王に反対する勢力が完顔擁(ワンヤンよう)を擁立します。完顔擁こそのちに金第一の名君と称される世宗です。
     海陵王は再度瓜州から渡江しようとしますが、その直前、部下の将軍に殺害されます。隆興元年(1163)、張浚は長江を渡って進撃し、淮水の北まで軍を進めます。しかし、世宗の軍に大敗し、張浚にかわって和平派の湯思退(とうしたい)が台頭してきます。世宗も海陵王の南征には反対でしたので和平交渉がはじまり、隆興二年(1163)、「隆興の和議」が固まります。この和約によって宋と金は以後四十年間の和平を保つことになります。
     孝宗の乾道年間(1126ー1173)とつづく淳煕年間(1174ー1188)の二十四年間は、南宋がもっとも安定した時期です。この時期に活躍する詩人陸游・范成大(はんせいだい)・楊万里・尤袤(ゆうぼう)を南宋の四大家といいます。うち陸游については別に生涯を扱った伝(8月30日のブログ号外を参照)を書いていますので省略し、ここでは范成大と楊万里と尤袤の三人を取り上げます。
     范成大(1126ー1193)は平江呉県(江蘇省蘇州市)の人。汴梁陥落の前年に生まれ、陸游よりも一歳の年少です。十代のときに両親を亡くし、苦学して高宗の紹興二十四年(1154)、二十九歳で進士に及第します。戸曹監和済局に流入し、著作郎から吏部郎官になりますが、ここで一度退官します。
     ほどなく処州(浙江省)の知州事にかえりざき、業績が認められて中央に召され、礼部員外郎兼崇政殿大学士になり、刑法・監法・馬政の改良などをおこないます。一時蜀に出て軍政に携わりますが、孝宗の乾道六年(1170)閏五月、国信使に任ぜられて金へ赴きます。和約後の諸問題を協議して堂々とした振る舞いをおこない名をあげます。
     十月に帰国して中書舎人になり、ついで乾道八年(1172)には経略按撫使蒹副知静江府に任じられました。十二月になって呉県をたち、翌年三月十日に静江府(広西壮族自治区桂林市)に着任。翌淳煕元年(1174)には中央にもどり敷文閣待制になりますが、すぐに知成都符兼西川制置使に任じられます。淳煕二年六月に成都に着任し、友人の陸游を幕下に用いました。
     二年後の淳煕四年(1177)十月、都にもどって権吏部尚書になります。翌年四月には参知政事(副首相)にすすみますが、六月には免職になって二度目の退官をします。まだ五十三歳の若さでした。そのご明州(浙江省寧波市)の知州事になり、中央にもどって端明殿学士になりますが、淳煕十二年(1185)、六十歳のときに病気を理由に隠退して恩給生活にはいります。郷里の石湖で八年をすごし、光宗の紹煕四年(1193)九月に亡くなりました。享年六十八歳です。
     詩題の「催租行」(さいそこう)は税金催促の歌の意味です。副題に「王建(おうけん)に效(なら)う」とあります。王建は中唐の詩人で韓愈の門下でした。「海人の謠」など納税の苛酷を詠って政府を批判しました。
     詩は進士に及第するまえかその直後、若いころの作品とみられ、江西詩派の軟弱な詩風にあきたらず士大夫(したいふ)の志を示します。納税者(農民)の視点から会話をまじえて詠い、白居易の諷諭詩にならって社会詩の本道にもどろうとする気概がみられます。
     首聯は序で、千鳥足の「里正」(村長)がきて門をたたきます。「鈔」は文書の写しで、納税の受領書でしょう。頷聯は里正のようすとその言葉。「嗔喜」は怒りと喜びで、脅したりすかしたりして税金を催促します。出せないというと、おれだって仕事で来ているんだ、一杯飲まなきゃ帰れないよと酒を求めます。
     頷聯は里正の魂胆を見透かした百姓が、枕元の「慳嚢」(へそくり袋)、袋とありますが実際は素焼の壺で、それを叩き割ると三百銭がでてきました。尾聯は百姓の言葉で、酒代には足りないが草鞋(わらじ)代にはなるだろうといって里正を追いかえすのです。

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     南宋15ー范成大
        後催租行            後の催租行         (前半八句)

      老父田荒秋雨裏   老父(ろうほ)の田(はたけ)は    秋雨(しゅうう)の裏(うち)に荒れ
      旧時高岸今江水   旧時(きゅうじ)の高岸(こうがん)  今は江水(こうすい)
      傭耕猶自抱長飢   傭(やと)われて耕すも   猶(な)お長飢(ちょうき)を抱き
      的知無力輸租米   的(まこと)に知る  租米(そべい)を輸(いた)す力無きを
      自従郷官新上来   郷官(きょうかん)  新たに上り来たりしより
      黄紙放尽白紙催   黄紙(こうし)放ち尽くして 白紙(はくし)催(うなが)す
      売衣得銭都納却   衣(ころも)を売り銭(ぜに)を得て都(すべ)て納却(のうきゃく)し
      病骨雖寒聊免縛   病骨(びょうこつ)寒しと雖(いえど)も聊(いささ)か縛(ばく)を免(まぬか)る

      ⊂訳⊃
              老人の畑は  秋の長雨で荒れ
              高い岸の上にあったのが  いまは川になっている
              雇われて畑仕事をするが  空腹をかかえ
              年貢を納める力のないのは明白だ
              新しい役人が来てから
              免税の詔書に反して  勝手に税を取り立てる
              着物を銭に換え    どうやら完納し
              寒さは骨に応えるが  逮捕だけは免れた


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「後(のち)の催租行(さいそこう)」は「催租行」のあとに同題で作ったことを示します。こうした政事批判が最初の退官の原因になったとも考えられます。はじめの四句は序で「老父」の状態をしめします。「高岸」は畑のあった場所。高い岸の上にあったのですが、秋の長雨で川になってしまいました。それで雇われて畑仕事をしていますが、いつも空腹をかかえ、年貢を納める力がありません。そのことを「的に知る」と断言します。
     あと老父の訴えが十句つづくのですが、前半八句の後半四句はそのはじめの四句です。新しい「郷官」(郷のやくにん)が来て以来、「黄紙」を反故にして「白紙」を突きつけます。黄紙は天子の詔書で災害免除の通知でしょう。白紙は通常の公文書で、ここでは納税の通知書です。着物を売って納め、逮捕だけは免れたと詠います。

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     南宋16ー范成大
        後催租行             後の催租行        (後半六句)

      去年衣尽到家口   去年  衣(ころも)尽きて  家口(かこう)に到り
      大女臨岐両分首   大女(たいじょ)  岐(き)に臨んで両(ふた)つに分首(ぶんしゅ)す
      今年次女已行媒   今年(こんねん)  次女  已(すで)に媒(ばい)を行(おこな)いしも
      亦復駆将換升斗   亦(ま)た復(ま)た駆り将(も)て升斗(しょうと)に換(か)う
      室中更有第三女   室中(しつちゅう)  更に第三女有り
      明年不怕催租苦   明年(みょうねん)  租(そ)を催(うなが)さるる苦しみを怕(おそ)れず

      ⊂訳⊃
              去年は売る物がなく  子供に手をつける
              長女とは    村の岐れ路で別れ
              今年は次女  婚約もできていたのに
              売って幾らかの    米にかえた
              家にはもうひとり   三番目の娘がいる
              だから今年の税は  催促されても怖くない


     ⊂ものがたり⊃ 後半六句は前半の後段四句のつづきです。売る着物も無くなって「家口」(家族)に手をつけます。三人の娘がいましたが、去年は「大女」(長女)、今年は次女を手放して「升斗」(何升かの米)にかえました。家にはもうひとり三女がいるので、来年年貢の催促をうけても「怕れず」と強がってみせます。

       ※ 「升斗」の斗は豆偏に斗です。外字になるので同音の字にかえました。

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     南宋17ー范成大
         宜春苑               宜春苑

      狐塚貛蹊満路隅   狐塚(こちょう)  貛蹊(かんけい)  路隅(ろぐう)に満つ
      行人猶作御園呼   行人(こうじん)  猶(な)お作(な)す御園(ぎょえん)と呼ぶを
      連昌尚有花臨砌   連昌(れんしょう)  尚(な)お花の砌(ぜい)に臨む有り
      腸断宜春寸草無   腸(はらわた)は断(た)ゆ  宜春(ぎしゅん)  寸草(すんそう)無し

        ※ 一行目の「貛」は犭偏です。外字になるので同音の字に変えています。

      ⊂訳⊃
              路の片隅には  狐の棲みか 狼の通る径

              それでも人は  まだ御園と呼んでいる

              「連昌宮詞」にさえ   階の砌に臨んで花とあるのに

              腸も千切れるほどだ  宜春苑にはわずかの草もない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「宜春苑」(ぎしゅんえん)は北宋の都汴梁の東二里のところにあった庭園です。乾道六年(1170)、国信使に任じられた范成大は、八月十一日に国境の淮水をこえ、九月九日に金の中都(北京市)にはいっています。
     その途中、旧都汴梁にたちよりますが、都門に着くまえに宜春苑の地を通過しました。転句の「連昌」は唐の宮殿の名で、中唐の詩人元稹の「連昌宮詞」に安史の乱後の「連昌宮」を詠って「上皇偏(ひと)えに愛せり 砌に臨むの花」の句があります。転結句はこの句を踏まえて、宜春苑の荒れたさまを嘆くのです。なお、「砌」(きざはし)は階の上り口の石畳のことです。 

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     南宋18ー范成大
         州 橋               州 橋

      州橋南北是天街   州橋(しゅうきょう)の南北  是(こ)れ天街(てんがい)
      父老年年等駕回   父老(ふろう)   年年   駕(が)の回(かえ)るを等(ま)つ
      忍涙失声詢使者   涙を忍(しの)び  声を失して  使者に詢(と)う
      幾時真有六軍来   幾時(いくじ)か  真に六軍(りくぐん)の来たる有らんと

      ⊂訳⊃
              州橋を南北へつらぬく路は  天子の道

              中原の遺老は  いつも御車を待っている

              涙をこらえ    声を詰まらせて私に尋ねる

              近衛の軍隊は  いつになったら来るのでしょうか


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「州橋」は汴水に架かっていた天漢橋のことで、汴梁の街のほぼ中央にありました。自注に「南は朱雀門を望み、北は宣徳楼を望む。皆、旧(もと)の御路なり」とあり、州橋を南北に貫いて「天街」(天子の御路)が通じていました。「父老」は北宋以来の住人で金の侵攻後も北にとどまっていた人をいいます。「六軍」は近衛の軍隊であり、汴梁の遺老たちが天子の帰還を涙ながらに訴えたと詠います。

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     南宋19ー范成大
       四時田園雑興            四時田園雑興 
        春日 其二              春日 其の二

      社下焼銭鼓似雷   社下(しゃか)  銭(せん)を焼いて  鼓(こ)  雷(いかずち)に似たり
      日斜扶得酔翁囘   日(ひ)  斜めにして  酔翁(すいおう)を扶(たす)け得て回(かえ)る
      青枝満地花狼藉   青枝(せいし)   地に満ちて  花  狼藉(ろうぜき)
      知是児孫闘草来   知る  是(こ)れ  児孫(じそん)の草を闘(たたか)わし来たるを

      ⊂訳⊃
              祭の日には  紙銭を焼き太鼓は雷のように鳴る

              日が傾けば  酔った私は支えられて家にかえる

              地面一杯に草の茎  花びらも散らかっている

              そうか  子や孫が  草あわせで遊んだのだ


     ⊂ものがたり⊃ 若いころ社会詩を書いたことで見られるように、范成大は政事の現状を批判する目を失いませんでした。心情的には抗戦派に共感していましたが過激にはしらず、政府高官になるとバランス感覚をもって外交や内政に対処しました。しかし、政府内の路線対立は複雑で、淳煕五年(1178)六月の参知政事(副宰相)免職はそのあらわれでしょう。
     翌年、大規模な農民騒動がおこり、翌七年(1180)五月には周必大(しゅうひつだい)が参知政事になって内政の充実につとめます。周必大(1126ー1204)は紹興二十一年(1151)の進士で、生年は范成大と同じですが、流入したのは范成大より先です。それまでに給事中や中書舎人を歴任しており、淳煕九年(1182)に知枢密院事にすすみます。范成大が隠退した前年の淳煕十一年(1184)には枢密使の要職に昇進していました。
     「四時(しいじ)田園雑興」には序がついていて、「淳煕丙午、沈痾(ちんあ)少しく紓(やわら)ぐ。復た石湖の旧隠に至り、野外即事、輒(すなわ)ち一絶を書す。歳を終わりて六十篇を得たり。四時田園雑興と号(なず)く」とあります。
     「淳煕丙午」は隠退の翌年淳煕十三年(1186)のことで、作者六十一歳のときです。その年、六十首の絶句をえたので、春日・晩春・夏日・秋日・冬日の五季に分け、各季十二絶としました。
     「春日」(しゅんじつ)其の五の「社下」は村社の祭りのことで、神祠の下でしょう。立春後と立秋後の年二回、土地の神を祭ります。そのとき紙でつくった銭を燃やして神霊にささげるのです。「酔翁」は祭りの酒に酔った老人、つまり作者自身です。従者に支えられて家にかえると、庭に「青枝」(草の茎)や花びらが乱雑に散らばっていました。
     それをみて、はじめはなんだと思ったのでしょう。だがすぐに子供や孫が「闘草」(草あわせ)の遊びをしたのだとわかります。闘草とは草の茎を引っかけてひっぱり合う、もしくは草の名前をあてっこする子供の遊びです。      

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     南宋20ー范成大
       四時田園雑興           四時田園雑興 
         晩春 其三             晩春 其の三

      胡蝶双双入菜花   胡蝶(こちょう)双双(そうそう)  菜花(さいか)に入る
      日長無客到田家   日長くして  客(かく)の  田家(でんか)に到る無し
      鶏飛過籬犬吠竇   鶏(にわとり)飛んで籬(まがき)を過ぎ  犬  竇(あな)に吠ゆ
      知有行商来買茶   知る  行商(ぎょうしょう)の  来たりて茶を買う有るを

      ⊂訳⊃
              つがいの蝶々が  菜の花畑にはいっていく

              春の日はながく  農家を訪れる客はいない

              すると鶏が     垣根を飛びこえ犬は穴から吠えたてる

              それで行商人が  茶を買いつけに来たとわかるのだ


     ⊂ものがたり⊃ 「晩春」其の三の詩でも、のどかな農村風景が描かれます。そこに突然、鶏がばたばたと飛びあがり、犬がくぐり穴から吠えはじめます。「竇」は犬の出入り用に掘った塀の穴のことです。何ごとかと驚きますが、例年のように行商人が茶の買いつけに来たのだと納得するのです。当時、茶は専売品で、免許のある仲買人が買い集めるものでした。

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     南宋21ー范成大
       四時田園雑興           四時田園雑興 
         夏日 其一             夏日 其の一

      梅子金黄杏子肥   梅子(ばいし)は金黄(きんおう)  杏子(きょうし)肥(こ)え
      麦花雪白菜花稀   麦花(ばいか)は雪白(せっぱく)  菜花(さいか)稀(まれ)なり
      日長籬落無人過   日(ひ)長くして  籬落(りらく)に人の過(よ)ぎる無く
      惟有蜻蜓蛺蝶飛   惟(た)だ蜻蜓(せいてい)  蛺蝶(きょうちょう)の飛ぶ有るのみ

      ⊂訳⊃
              梅は黄金色に熟し  杏の実もふくらみ

              麦の花は真っ白く  菜の花もまばらになった

              日脚は延びたが   垣根のあたりを通る人もなく

              飛んでいるのは   蜻蛉と蝶々だけ


     ⊂ものがたり⊃ 「夏日」(かじつ)其の一は初夏でしょう。梅は黄色に色づき、杏の実も大きくなりました。麦は雪のような白い花を咲かせ、菜の花は時期を過ぎて疎らになっていると、まず季節の移りかわりを描きます。だが、なんとなくアンニュイな気分です。生け垣のそとには通る人の影もなく、蜻蛉や蝶々が飛んでいるだけです。

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     南宋22ー范成大
       四時田園雑興           四時田園雑興 
         冬日 其八             冬日 其の八

      榾柮無煙雪夜長   榾柮(こつとつ) 煙(けむり)無くして雪夜(せつや)長し
      地爐煨酒煖如湯   地爐(ちろ)   酒を煨(わい)すれば  煖(あたた)かきこと湯(とう)の如し
      莫嗔老婦無盤飣   嗔(いか)る莫(なか)れ  老婦(ろうふ)  盤飣(ばんてい)無きを
      笑指灰中芋栗香   笑って指さす  灰中(かいちゅう)  芋栗(うりつ)の香(かんば)しきを

      ⊂訳⊃
              木切れは燃えて煙も立たず  雪の夜はながい

              囲炉裏で温めた酒は  とろりとした燗になる

              つまみがないぞと    かみさんを叱るのはよしたまえ

              笑って指さす灰の中  芋や栗が香ばしい


     ⊂ものがたり⊃ 「冬日」(とうじつ)其の八では詩中に「老婦」とありますので、雪の降る夜、近くの農家で酒をご馳走になったときの作と思われます。「榾柮」は木の切れ端で、「地爐」(囲炉裏)でよく燃えています。「煨」は包み焼きにすることですが、ここでは酒器を囲炉裏の灰に埋めて温めるのでしょう。そうすると「湯」のようになります。単に熱燗になるという以上に、とろりと温められるという意味がこめられているようです。
     そこで後半二句になりますが、作者は農家の主人と囲炉裏を囲んでいます。主人がおかみさんに「つまみがないじゃないか」と小言をいいます。すると作者が「嗔る莫れ」と制止します。結びの「笑って指さす」は「老婦」の動作と考える方が面白いようです。かみさんが笑いながら指さす灰のなかに、芋や栗が香ばしく焼けて食べごろになっています。心暖まるシーンがユーモラスに描かれていて秀逸です。
     晩年の范成大は政事から離れて田舎暮らしを楽しみ、素朴な農家の人々とまじわることに無上の安らぎを覚える心境にありました。そのことは同時に、農村が安定していることを体感することでもあります。政事に腐心する生涯を過ごしてきた范成大にとって、詩はたんに田園の閑居を楽しむだけのものではなかったと思われます。

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