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tiandaoの自由訳漢詩

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     北宋56ー王安石
         鐘山即事               鐘山即事

      澗水無声繞竹流   澗水(かんすい)  声無くして   竹を繞(めぐ)って流る
      竹西花草弄春柔   竹西(ちくせい)の花草(かそう)  春柔(しゅんじゅう)を弄(ろう)す
      芧簷相対坐終日   芧簷(ぼうえん)  相対(あいたい)して  坐(ざ)すること終日
      一鳥不啼山更幽   一鳥(いっちょう)啼かず  山  更に幽(ゆう)なり

      ⊂訳⊃
              谷川の水は  竹林をめぐって音もなく流れ

              竹林のほとりでは    草花が春の柔らかさを醸しだす

              茅葺の屋根の軒下で  終日山と向き合って坐している

              一羽の鳥さえ鳴かず  山はいよいよ謐まりかえる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題は「鐘山即事」(しょうざんそくじ)とあり、「即事」は事に即することです。目の前にある景色を詠う意味になりますが、山麓での閑居の心境を詠って即事とは言い切れない趣があります。
     はじめ二句の叙景は美しい。「竹西」の西は隣といった程度の語で方角を意味しません。王安石はそうした穏やかな春の自然のなかで終日鐘山と向かい合って坐しています。その心境は「一鳥啼かず 山 更に幽なり」です。ここでの「幽」はひっそりと静まり返っていることで、静かですが底に深い悲しみが流れているように思います。

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     北宋57ー王安石
         江 上                 江 上

      江北秋陰一半開   江北(こうほく)の秋陰(しゅういん)  一半(いっぱん)開き
      暁雲含雨却低回   暁雲(ぎょううん)   雨を含んで却(かえ)って低回(ていかい)す
      青山繚繞疑無路   青山(せいざん)   繚繞(りょうじょう)して路(きち)無きかと疑えば
      忽見千帆隠映来   忽(たちま)ち見る  千帆(せんぱん)の隠映(いんえい)して来たるを

      ⊂訳⊃
              長江の北に広がる秋  くもり空はなかば晴れ

              雨もよいの朝雲が   低く去りがたく漂っている

              緑の山に囲まれて   路は行き止まりかと疑えば

              眼下に臨む無数の帆 見え隠れしながら寄せて来る


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「江上」(こうじょう)は長江のほとりの意味です。峠を越えて長江を北に臨んだときの叙景と考えられますが、比喩が含まれています。元豊八年(1085)三月、神宗が三十八歳の若さで崩じ哲宗が即位すると、旧法党が復活して新法反対の声が湧き起こってきました。結句の「忽ち見る 千帆の隠映して来たるを」はそうした政事情勢を諷するものでしょう。

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     北宋58ー王安石
        新 花               新 花

      老年少忻豫     老年(ろうねん)  忻豫(きんよ)少(まれ)なり
      況復病在牀     況(いわ)んや復(ま)た  病(や)んで牀(しょう)に在るをや
      汲水置新花     水を汲(く)んで新花(しんか)を置き
      取慰此流芳     慰めを此の流芳(りゅうほう)に取る
      流芳秖須臾     流芳  秖(た)だ須臾(しゅゆ)のみ
      我亦豈久長     我れも亦   豈(あに)  久長(きゅうちょう)ならんや
      新花与故吾     新しき花と  故(ふる)き吾(われ)と
      已矣両可忘     已(や)んぬるかな  両(ふた)つながら忘る可(べ)し

      ⊂訳⊃
              老年となった今  心浮き立つこともない
              まして病をえて  寝台に寝ている身だ
              水を汲んで    咲いたばかりの花をそばに置き
              花の香りに    慰めを求める
              だが花の香りも  わずかなあいだのこと
              わたし自身も   長いことはないだろう
              新しい花と     老いた自分
              もはやこれまで  両方とも忘れるがよい


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「新花」は「絶筆」と題されているテキストがあり、王安石の最後の心境を述べる詩とみられています。元祐元年(1086)四月、司馬光が登用されて新法が廃止されるとき王安石は病に臥していました。
     前半は寝台に寝ているときの心境で、心は浮き立たちません。切花を生けてもらい近くに置いて、花の香りに慰めを求めていると詠います。後半は「新花」(咲いたばかりの花)からの感慨です。花の香りのように自分の命も長くはないだろうと思います。そして結びの二句で、「新しき花と 故き吾」といい、両方とも忘れるがよいと突き抜けたような言葉で結びます。

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     北宋59ー黄庭堅
        夜発分寧寄            夜 分寧を発し
        杜澗叟               杜澗叟に寄す

      陽関一曲水東流   陽関(ようかん)の一曲(いっきょく)  水は東に流れ
      燈火旌陽一釣舟   灯火(とうか)  旌陽(せいよう)   一釣舟(いちちょうしゅう)
      我自只如常日酔   我れ自(おのず)から只(た)だ常日(じょうじつ)の酔(えい)の如し
      満川風月替人愁   満川(まんせん)の風月(ふうげつ)  人に替(かわ)って愁う

      ⊂訳⊃
              陽関の詩に見送られ   水は東へと流れていく

              故郷の山よ  灯火よ   この小さな釣り舟よ

              酔っぱらっているのは  いつものこと

              川に吹く風  月あかり   私のかわりに愁えている


     ⊂ものがたり⊃ 蘇軾(1036ー1101)は王安石より十五歳年少で、嘉祐二年(1057)正月、二十二歳で進士に及第しました。蘇軾は王安石の新法時代を生きた詩人で政争に巻き込まれます。蘇軾については、その生涯を別途(ティェンタオの自由訳漢詩1304ー1450)で扱っていますので、ここでは「蘇門四学士」と称される蘇軾の弟子たちのなかから黄庭堅(こうていけん)と秦観を取り上げます。
     黄庭堅(1045ー1105)は洪州分寧(江西省修水県)の人。神宗が即位した治平四年(1067)に二十三歳で進士に及第、流入して地方官を転々とします。大名府(河北省大名県)の国子監教授のとき蘇軾に詩を送って激賞されました。
     哲宗の即位後、都に召されて秘書省校書郎になり、神宗実録院検討官・集賢校理、ついで著作佐郎にすすみます。元祐三年(1088)には蘇軾、晁補之(ちょうほし)とともに科挙の試験官を務めますが、そのご母の喪に服するために帰郷します。
     紹聖二年(1095)、除服して都にもどるときには哲宗の親政になっていました。新法党が起用され、黄庭堅は神宗実録のなかで新法を非難したと弾劾され、涪州(四川省涪陵県)別駕に貶謫されます。ついで黔州(四川省彭水県)安置、戒州(四川省宜賓市)に移されます。徽宗が即位した元符三年(1100)にいったん赦されますがすぐに宜州(広西壮族自治区宜山県)に再貶され、任地へ着いて四年後の崇寧四年(1105)に亡くなりました。享年六一歳です。
     詩題の「分寧」(ぶんねい)は作者の故郷。元豊六年(1083)、三十九歳のときに故郷を訪ね、発つときの作とされています。「杜澗叟」(とかんそう)は名を槃(はん)といい、故郷の友人です。「陽関」は王維の詩「元二の西安に使するを送る」(ティェンタオの自由訳漢詩131、2008.11.13のブログ参照)のことで、送別の宴でこの詩が詠われたのでしょう。「旌陽」は分寧東郊の山の名で故郷というにひとしく、「一釣舟」はみずからを釣舟に喩えるものです。後半は送別会で大いに酔ったことを詠い、酒好きのおれのことを「風月」(清風と明月)が代わって心配していてくれるととぼけてみせます。
     黄庭堅は詩作に際して「換骨奪胎」「点鉄成金」(鉄に工夫を加えて黄金にする事)などの技法を主張し、先人の詩句や詩境を自覚的に活用することを重視しました。たとえば二句目の「燈火 旌陽 一釣舟」は王維の「元二の西安に使するを送る」の二句目「客舎 青青 柳色新たなり」を換骨奪胎したものでしょう。この技法は後世に広く影響をあたえ、北宋末から南宋にかけて流行しました。そのながれを黄庭堅の故郷の名をとって「広西詩派」と称します。  

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     北宋60ー黄庭堅
        寄黄幾復              黄幾復に寄す

      我居北海君南海   我れは北海(ほっかい)に居り   君は南海(なんかい)
      寄雁伝書謝不能   雁(がん)に寄せて書を伝うるに  能(あた)わずと謝(しゃ)す
      桃李春風一杯酒   桃李(とうり)の春風(しゅんぷう)  一杯の酒
      江湖夜雨十年燈   江湖(こうこ)の夜雨(やう)  十年の灯(ともしび)
      持家但有四立壁   家を持するに  但(た)だ四立(しりつ)の壁有るのみ
      治病不蘄三折肱   病を治するに  三たび肱(ひじ)を折るを蘄(もと)めず
      想得読書頭已白   想(おも)い得たり  書を読んで  頭(こうべ)  已(すで)に白く
      隔渓猿哭瘴渓藤   渓(たに)を隔てて  猿は哭(な)かん  瘴渓(しょうけい)の藤(ふじ)に

      ⊂訳⊃
              わたしは北海にあり  君は南海にいる
              雁に便りを頼んだが  できないと断わられる
              桃李の花の咲く下で  春風に吹かれて飲んだ酒
              江湖に雨の降る夜に  ともに学んだ十年の灯火
              家はといえば  四方に壁があるだけで
              苦労を重ねて  いまさら出世しようとも思わない
              思うに君は   読書に励んで白髪になり
              谷川の向こうでは  猿が蔓にすがって啼いていることだろう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「黄幾復」(こうきふく)は豫章(江西省南昌市)の人で、少年時代からの友人でした。分寧と豫章はやや離れていますが、いっしょに学んだ時期があったのでしょう。元豊八年(1085)、四十一歳のときに徳平鎮(山東省徳州市)で書いた詩とされており、都へ召し出される直前の作です。
     「北海」と「南海」は二人のいる場所。黄幾復はそのころ四会(広東省広州市の西)の知県事をしており、ともに海辺の地ではないので南北に分かれているのを雅していうのでしょう。 中四句はじめの対句では青少年時代の想い出を詠い。ロマンチックな表現になっています。「江湖」は官に対する野の意味もありますが、ここでは二人の故郷鄱陽湖のほとりをいいます。「十年の灯」は勉学の比喩でしょう。
     つぎの対句では自分のいまの生活と心情を述べます。「四立の壁」は『史記』司馬相如列伝を踏まえ、貧乏で家具もない状態ののことです。「病を治するに 三たび肱を折るを蘄めず」は『春秋左氏伝』定公十三年の条に「斉の高彊(こうきょう)曰く、三たび肱を折りて、良医と為ることを知る」とあるのを踏まえます。三度も肱を折るような辛い経験をしてはじめて良医になることが分かるという意味で、出世のために払う努力のことです。それを「蘄めず」といいます。
     結びの二句は、黄幾復を思いやる言葉で、谷川のむこうでは「猿は哭かん 瘴渓の藤に」と猿が「藤」(蔓性植物)にすがりついて啼いている寂しげなようすを詠います。「瘴渓」は韓愈の有名な「好し 吾が骨を収めよ 瘴江の辺」の句を踏まえており、毒気の立ちこめる南方の川のことです。この詩を贈られた三年後に黄幾復は亡くなりました。  

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     北宋61ー黄庭堅
       六月十七日昼寝         六月十七日 昼寝ぬ

      紅塵席帽烏靴裏   紅塵(こうじん)   席帽(せきぼう)  烏靴(うか)の裏(うち)
      想見滄州白鳥双   想見(そうけん)す 滄州(そうしゅう)  白鳥の双(そう)
      馬齕枯萁喧午枕   馬は枯萁(こき)を齕(か)みて午枕(ごちん)に喧(かまびす)しく
      夢成風雨浪翻江   夢に風雨と成(な)りて  浪  江(こう)を翻(ひるがえ)す

      ⊂訳⊃
              この世の塵や芥のなか  科挙に受かって官につくが

              滄州の浜辺で暮らす   気ままな生活に憧れていた

              馬の豆がらを噛む音が  昼寝の枕もとでさわがしく

              やがて風雨の音となり  荒波が川のおもてをひるがえす


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「六月十七日」は不明ですが、左遷された日かもしれません。晩夏のある日、昼寝をして目覚めたときの詩を装っていますが、党争に巻きこまれて貶謫されたあとの作品とみられます。はじめの二句は自分の半生を嘆くものです。
     「紅塵」は俗世間の塵で、煩わしいこの世のこと。「席帽」は藤で編んだ笠帽子で、受験生を意味します。「烏靴」は黒い革靴で、役人になったことです。「滄州」は仙人の棲む世界、「白鳥」は鷗のことで、捉われない人格、自由人の喩えです。塵芥のこの世で試験を受けて役人になったが、仙人の棲む世界で自由に生きる生活に憧れていたと詠います。
     後半二句は昼寝の思い出を装っていますが、ぼんやりしているあいだに党争に巻きこまれたことを比喩的に描きます。厩の近くで寝ていたら馬が「枯萁」(まぐさ)を噛む音が騒がしかった。その音が夢のなかで「風雨」(あらし)の音になり、浪が川面をひるがえす光景になりました。「風雨」は古来、苦しい境遇の喩えとして用いられ貶謫の苦難を訴えるものでしょう。
     そうした時期の詩であるにもかかわらず、この場合も同時代の詩に「小雨 愔愔(いんいん)として人寝ねず 臥して聴く 羸馬(るいば)の残芻(ざんすう)を齕むを」とあるのを用いてひと捻りしています。

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     北宋62ー黄庭堅
       雨中登岳陽楼          雨中 岳陽楼に登り
       望君山 二首 其一       君山を望む 二首  其の一

      投荒万死鬢毛斑   荒(こう)に投ぜられて  万死(ばんし)  鬢毛(びんもう)斑(まだら)なり
      生出瞿塘灔澦関   生きて出(い)づ  瞿塘(くとう)  灔澦(えんよ)の関(かん)
      未到江南先一笑   未(いま)だ江南(こうなん)に到らざるに  先(ま)ず一笑(いっしょう)
      岳陽楼上対君山   岳陽楼上(がくようろうじょう)  君山(くんざん)に対す

      ⊂訳⊃
              追放されて死ぬ目にあい  白髪まじりの鬢となったが

              生きてようやく瞿塘峡    灔澦堆を逃れてきた

              まだ江南には至らないが  ほっとひといき

              雨のなか岳陽楼に上って  君山に向かい合う


     ⊂ものがたり⊃ 詩題中の「岳陽楼」は岳州(湖南省岳陽市)の西門上に立つ城楼で、李白・杜甫をはじめ唐代の詩人が多く詩を賦している有名詩跡です。この詩には作者の跋が付されており、「崇寧元正月二十三日、夜、荊州を発し、二十六日巴陵に至る。数日陰雨、出づべからず。二月朔旦、独り岳陽楼に上る。太守楊器之・監郡黄彦、並び来たる。率えて同に君山に遊ぶ」とあります。
     元符三年(1100)正月に哲宗が崩じて徽宗が即位すると、向太后が摂政になり、新法党章惇(しょうじゅん)の職を免じて新旧両党の融和をはかることになりました。黄庭堅は赦されて太平州(安徽省当涂県)の知州事を希望し、認められて翌建中靖国元年(1101)に蜀地を離れ、長江を下って荊州(湖北省沙市市)で冬をすごします。明けて崇寧元年(1102)正月に荊州を発ち、岳州まで来たときの作です。
     詩ははじめ二句で、これまでの経緯を皮肉まじりに述べます。「荒」は都からもっとも遠く隔たった地域を荒服といい、その荒(不毛の地)のことでしょう。「瞿塘 灔澦の関」は長江三峡のひとつ瞿塘峡、その江中に灔澦堆という岩石があり、航行の難所として知られていました。その難関を生きて通り抜けたと詠うことによって、六年にわたる貶謫からやっと湖北の平原に出て来たことを詠うのです。
     後半の二句は岳州に着いた安堵感を述べるもので、「江南」は任地の太平州とも故郷の洪州とも考えられますが、陽光かがやく地です。そこにまだ着いてはいないがほっと一息、笑みがこぼれて「君山」に向かい合っています。君山は洞庭湖中の島で、舜の二妃(娥皇と女英)を祀る湘君祠があります。

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     北宋63ー黄庭堅
       雨中登岳陽楼          雨中 岳陽楼に登り
       望君山 二首 其二       君山を望む 二首  其の二

      満川風雨独憑欄   満川(まんせん)の風雨  独り欄(らん)に憑(よ)る
      綰結湘娥十二鬟   綰結(わんけつ)す  湘娥(しょうが)の十二鬟(じゅうにかん)
      可惜不当湖水面   惜(おし)むべし    湖水の面(めん)に当たらず
      銀山堆裏看青山   銀山堆裏(ぎんざんたいり)  青山(せいざん)を看(み)る

      ⊂訳⊃
              一面の風雨  ひとりで欄干に寄りかかる

              結いあげた  湘娥の十二鬟のようだ

              残念ながら  湖面に映っているというわけにはいかず

              山のような波の向こうに  青い山が覗いている


     ⊂ものがたり⊃ 其の二の詩は「満川の風雨」のなか岳陽楼から眺める君山の景色です。岳州は洞庭湖の水が長江に流れでる湖口にあるので、「川」といっても間違いではありません。「綰結」は髪を結うこと。欄干に寄りかかって見る君山は湘娥(娥皇)の「十二鬟」(結髪の型)のようだと詠います。
     後半の二句は劉禹錫の「洞庭を望む」(ティェンタオの自由訳漢詩2121、2014.12.29のブログ参照)の転結句を意識しており、残念ながら君山は湖面に姿を映していないと詠います。劉禹錫の「白銀盤」が鏡のような湖面であるのに対して、黄庭堅の「銀山堆」はうずたかく盛り上がる波の比喩で、その向こうに「青山」が顔を覗かせているだけだというのです。
     黄庭堅はこのあと太平州に着任しますが、わずか九日で免職になり、宜州に貶謫されます。それはこの年、向太后が崩じて徽宗の親政になり、蔡京(さいきょう)を宰相に任じて新法政策に転じたからです。国政を謗ったという理由で黄庭堅の文集も禁書になりました。

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     北宋64ー秦観
         牽牛花                牽牛花

      銀漢初移漏欲残   銀漢(ぎんかん)  初めて移りて 漏(ろう)  残(ざん)せんと欲す
      歩虚人倚玉欄干   歩虚(ほきょ)の人は倚(よ)る   玉欄干(ぎょくらんかん)
      仙衣染得天辺碧   仙衣(せんい)   染め得たり  天辺(てんぺん)の碧(へき)
      乞与人間向暁看   人間(じんかん)に乞与(きつよ)して  暁(あかつき)に向(おい)て看(み)しむ

      ⊂訳⊃
              天の川が傾き始め  夜の時刻も終わるころ

              虚空を歩む仙女が  欄干にもたれている

              仙女の羽衣は    天の果ての碧に染まり

              この世に身を委ね  夜明けに姿をみせたのだ


     ⊂ものがたり⊃ 黄庭堅が豪快、男性的だったのに対して、同時代の秦観(しんかん)は繊細な目を持つ詩人です。秦観(1049ー1101)は揚州高郵(江蘇省高郵県)の人。若いころは兵書を読んだりしていましたが、神宗の元豊元年(1078)、三十歳のときに「黄楼の賦」を蘇軾に送って激賞されます。王安石にも詩才を認められます。
     哲宗即位の元豊八年(1085)、三十七歳で進士に及第、定海(浙江省定海県)の主簿になります。そのご蔡州(河南省汝県)の国子監教授をへて元祐三年(1088)に太常博士、元祐八年(1093)には国史院編修になります。
     翌紹聖元年に哲宗の親政がはじまると、蘇軾と親しかった秦観は杭州(浙江省揚州市)通判に左遷され、つづいて処州(浙江省)、柳州(広西壮族自治区柳州市)、横州(広西壮族自治区南寧県)、雷州(広東省海康県)と遠隔地に移されます。徽宗の即位によってようやく赦されますが、宜徳郎に任じられて都にもどる途中、建中靖国元年(1101)、藤州(広西壮族自治区藤県)まで来たところで亡くなりました。享年五十三歳です。
     詩題の「牽牛花」(けんぎゅうか)は朝顔のことです。夜明けに咲いた朝顔の花をみて、天界から降りてきた仙女のようだと想像する幻想的な詩です。「漏」は漏刻台(水時計)のことですが、夜の時間を示すのにも用いられます。夜の時間がそろそろ終わるころです。
     「歩虚の人」は虚空を歩む人で、仙人(仙女)を意味します。朝顔が棚に蔓を捲きつけて咲いている姿を、天界から降りてきた仙女が欄干にもたれて立っているようだというのです。「天辺の碧」は天の果てのエメラルド色で、青い朝顔の花を夜明けの空の碧色に染め上げられた「仙衣」(羽衣)に喩えるのです。そして朝顔の花は、「人間」(人の世)に身をゆだねて夜明けに姿を見せた仙女なのだと幻想的に詠って結びとします。

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     北宋65ー秦観
       春日四首 其一          春日 四首  其の一

      幅巾投暁入西園   幅巾(ふくきん)  暁(あかつき)に投じて  西園(せいえん)に入れば
      春動林塘物物鮮   春は林塘(りんとう)を動かして   物物(ぶつぶつ)鮮(あざ)やかなり
      却憩小亭纔日出   却(かえ)って小亭に憩(いこ)えば  纔(わずか)に日(ひ)出づ
      海棠花発麝香眠   海棠(かいどう)の花発(ひら)いて  麝香(じゃこう)眠る

      ⊂訳⊃
              略した頭巾で早朝  西の庭園にはいると

              春は林や堤に兆し  物はみな鮮やかである

              亭で休んでいると  やっと朝日がさし

              海棠の花が咲いて  麝香鹿が眠っている


     ⊂ものがたり⊃ 「春日(しゅんじつ)四首」は春の日の景物を繊細な感覚で詠います。「幅巾」は髪をうしろへ被うだけの頭巾で、くだけた格好です。そんな姿で早朝の庭園にいくと、春の気配が林や池のあたりに動きはじめており、物は皆いきいきとしています。庭の「亭」(あずまや)でやすんでいると、やがて朝日がさしてきて、目ざめるような色の海棠の花が咲き、麝香鹿が眠っていました。
     麝香鹿は鹿の一種で、雌雄ともに角があります。雄の臍のあたりに麝香嚢があって香料を採取しますので、貴重な珍しい鹿として珍重されました。海棠の花と麝香鹿の取り合わせに幻想的な趣味を窺わせる作品です。 

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     北宋66ー秦観
       春日四首 其二          春日 四首  其の二

      一夕軽雷落万糸   一夕(いっせき)  軽雷(けいらい)  万糸(ばんし)を落とし
      霽光浮瓦碧参差   霽光(せいこう)  瓦(かわら)に浮かんで  碧(みどり)  参差(しんし)たり
      有情芍薬含春涙   情(じょう)有る芍薬(しゃくやく)は春涙(しゅんるい)を含み
      無力薔薇臥暁枝   力(ちから)無き薔薇(しょうび)は暁(あかつき)の枝に臥(ふ)す

      ⊂訳⊃
              昨夜は弱い雷が鳴って  小糠雨が降った

              雨後の陽は甍に映えて  波うつ瑠璃の色

              芍薬は  春の愁いに涙ぐみ

              野茨は  枝にからんで暁に咲く


     ⊂ものがたり⊃ 「万糸」は数え切れないほどの糸で、細かい雨でしょう。「霽光」は雨あがりの陽の光。「碧」は濡れた瑠璃瓦の色のことで、それが「参差」(長短高低入り混じっているさま)とつらなっています。雨後の街並を俯瞰した見事な描写です。
     其の二の詩は名作として有名ですが、とくに後半の二句は名句として名高いものです。「芍薬」と「薔薇」が対句として並置され、芍薬は泣いているように咲き、薔薇は弱々しく「暁枝」(明け方の枝)にまつわりついて咲いていると詠います。薔薇は唐代には栽培されていたそうですが、西洋バラを頭に描いてはいけません。「しょうび」は野茨のことで、ここでは野に生えている本来の野茨でしょう。

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     北宋67ー秦観
       秋日三首 其一        秋日 三首  其の一

      霜落邗溝積水清   霜は邗溝(かんこう)に落ちて  積水(せきすい)清し
      寒星無数傍船明   寒星(かんせい)  無数  船に傍(そ)って明らかなり
      菰蒲深処疑無地   菰蒲(こほ)深き処(ところ)    地無きかと疑えば
      忽有人家笑語声   忽(たちま)ち    人家  笑語(しょうご)の声有り

      ⊂訳⊃
              邗溝に霜の降る季節   運河の水は清らか

              無数の星が寒空に瞬き  舟の進むのにつれて照らしてくれる

              菰や蒲が遠くまで続き   陸地はなさそうだと思っていると

              笑いながら話す人の声  人家があるのにおどろいた


     ⊂ものがたり⊃ 「秋日(しゅうじつ)三首」では生活の点景が描かれます。「邗溝」は長江と淮水をつなぐ大運河の部分をいい、秦観の故郷高郵の近くを通っていました。「積水」は集まった水のことで、運河の一部が湖沼のなかを通じていました。「船に傍って明らかなり」は船のすすむ両側を星が照らしているという意味で、動きがあります。
     菰(まこも)や蒲(がま)の茂みがどこまでもつづいていて、陸地はなさそうだと思っていると、ふいに「笑語」(笑い声と話す声)が聞こえてきました。こんなところにも家があり、人が住んでいるのかと驚くのです。 

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     北宋68ー陳師道
        十七日観潮           十七日 潮を観る

      漫漫平沙走白虹   漫漫(まんまん)たる平沙(へいさ)  白虹(はくこう)を走らす
      瑶台失手玉杯空   瑶台(ようだい)  手を失(しっ)して玉杯(ぎょくはい)空(むな)し
      晴天揺動清江底   晴天(せいてん)揺動(ようどう)す  清江(せいこう)の底(うち)
      晩日浮沈急浪中   晩日(ばんじつ)浮沈(ふちん)す   急浪(きゅうろう)の中(うち)

      ⊂訳⊃
              広く平らな砂浜に  きらめく波が突きすすむ

              天上界の仙人が  手を滑らせて玉杯が砕けたようだ

              晴れた空は  流れのなかで揺さぶられ

              赤い夕陽は  波涛のなかで浮き沈みする


     ⊂ものがたり⊃ 黄庭堅や秦観よりも少し年少で、「蘇門六学士」と呼ばれる場合に含まれる詩人に陳師道(ちんしどう)がいます。陳師道は黄庭堅の弟子でもあり、「江西詩派」の祖のひとりです。
     陳師道(1053ー1101)は徐州彭城(江蘇省徐州市)の人。仁宗の皇裕五年(1053)に三司塩鉄副使陳洎(ちんき)の孫として生まれました。神宗の煕寧元年(1068)、十六歳のときから曾鞏(そうきょう)に師事して勉学に励みますが、王安石の経学をきらって進士の試験を受けませんでした。
     元豊五年(1082)に曾鞏が中書舎人になると、陳師道を史館に任じようとしましたが、曾鞏が亡くなったため実現しませんでした。曾鞏の死後は黄庭堅に詩を学び、哲宗の元祐二年(1087)、三十五歳のときに蘇軾らの推薦で徐州の国子監教授になります。ついで穎州(安徽省阜陽市)の国子監教授に転じますが、そのご都に出て浪々の身になります。元符元年(1098)にようやく秘書省正字の職につくことができ太常博士になりますが生涯貧窮に苦しみ、徽宗の建中靖国元年(1101)の冬に亡くなります。享年四十九歳です。
     詩題の「十七日」は陰暦八月十七日のことで、銭塘江の大海嘯が最大になる日です。海嘯は潮の干満差によって起こるので、最大になる日は年によって前後します。大海嘯の壮観を見物に訪れる人もおおく、陳師道もみる機会があったのでしょう。
     「白虹」は煌めく虹という意味で、押し寄せる海嘯の波頭を虹に喩えます。「瑶台」は仙人のすむ宮殿で、波の勢いを天上の仙人が手を滑らせて「玉杯」が砕けたさまに喩えます。奇抜な想像です。後半二句の対句も海嘯を比喩的に描くもので、川の流れのなかで「晴天」が揺さぶられているようであり、激しい波のなかで「晩日」(夕陽)が浮き沈みするようだと詠います。
     喩的技法は秦観の「牽牛花」などにも見られる手法で、陳師道はそれを先鋭化しました。その意味で陳師道はまぎれもない蘇門の詩人でしたが、貧困のため自己の貧窮を赤裸々に詠うというこれまでの士大夫には見られなかった方向へすすんでゆきます。そこには杜甫の詩の一面を自己に即して展開するという詩魂がみられます。 

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     北宋69ー陳師道
       除夜対酒贈少章      除夜 酒に対して少章に贈る

      歳晩身何託     歳晩(さいばん)  身  何(なに)にか託(たく)せん
      燈前客未空     燈前(とうぜん)   客  未(いま)だ空(むな)しからず
      半生憂患裏     半生(はんせい)  憂患(ゆうかん)の裏(うち)
      一夢有無中     一夢(いちむ)    有無(うむ)の中(うち)
      髪短愁催白     髪(かみ)短くして  愁いは白きを催(もよお)し
      顔衰酒借紅     顔(かんばせ)衰えて  酒もて紅(くれない)を借(か)る
      我歌君起舞     我れ歌わん   君(きみ)起(た)って舞え
      潦倒略相同     潦倒(ろうとう)  略々(ほぼ)  相同(あいおな)じ

      ⊂訳⊃
              今年も暮れようとし   なんに頼ればいいのか
              わが家の灯火の前に  やってくる客はまだいる
              わたしの半生は  悩みと苦労の連続だ
              ときに描く夢も   すぐに消えてしまう
              髪は少なくなり   愁いによって白髪がふえ
              顔はやつれて   酒の力で赤くなる
              さあ俺は歌うぞ  君は立って踊りたまえ
              落ちぶれているのは  お互いさまだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「少章」(しょうしょう)は友人秦覯(しんこう)の字で、秦覯は秦観の弟です。神宗の元豊七年(1084)、三十二歳の陳師道は貧困のため妻子を養うのが困難でした。外舅(妻の父)の郭槩(かくがい)が四川提刑になって成都(四川省成都市)に赴任することになったので、妻と三人の子供を外舅に預けて蜀地にやり、ひとりで暮らしている時期がありました。そんな年の除夜の日に秦覯が訪ねてきて、酒を飲みながら作った詩です。
     はじめの二句は孤独な歳末に訪ねてきてくれた友への感謝の言葉です。中四句二組の対句は自己の貧窮をかたります。そして結びの二句で自分をはげまし、その場を盛り上げます。「潦倒」はうらぶれたさまで、杜甫の詩「登高」(ティェンタオの自由訳漢詩689、2010.6.10のブログ参照)に「艱難苦だ恨む 繁霜の鬢 潦倒新たに停む 濁酒の杯」があります。 

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     北宋70ー陳師道
        示三子               三子に示す

      去遠即相忘     去ること遠くして   即(たと)い相忘(あいわす)るとも
      帰近不可忍     帰ること近ければ  忍(しの)ぶ可(べ)からず
      児女已在眼     児女(じじょ)   已(すで)に眼(まなこ)に在り
      眉目略不省     眉目(びもく)   略々(ほぼ)省(せい)せず
      喜極不得語     喜び極まって  語るを得ず
      涙尽方一哂     涙尽(つ)きて  方(まさ)に一哂(いっしん)す
      了知不是夢     了(つい)に   是(こ)れ夢ならざるを知るも
      忽忽心未穏     忽忽(こつこつ)として  心  未(いま)だ穏(おだや)かならず

      ⊂訳⊃
              永の別れであれば  忘れることがあるかもしれないが
              会える日が近いと思えば  じっとしていられない
              わが子わが娘が 目の前におり
              顔かたちも    涙でかすんでしまう
              喜びは極まって  言葉もでらず
              涙はでつくして  ようやく笑みがもれる
              夢ではないと   やっとわかるが
              ぼんやりして   まだ心が落ちつかないのだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「三子」(さんし)は二男一女の児女。外舅に託して三年間、成都にやっていた妻子四人が帰ってきたときの詩です。冒頭の「去ること遠くして」は死別の意味がつよく、死別ではなく生別ですので、帰ってくるのがひとしお待たれるのです。 
     中四句は再会の場面で、「眉目 略々省せず」は涙で目がうるみ子供たちの顔がかすんでよく見えないこと。「一哂」には嘲り笑うという意味がありますが、ここでは親としての不甲斐なさも含めて笑みが洩れたというニュアンスでしょう。
     結びは夢ではない、再びいっしょになれたとわかるのですが、「忽忽」はさだかでないさまで、どうもぼんやりして心が落ち着かないといいます。この時代としては個人として父親としての感情を極めて率直に詠っている詩です。 

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     北宋71ー陳師道
       春懐示鄰里              春懐 隣里に示す

      断牆着雨蝸成字   断牆(だんしょう)  雨を着(ちゃく)して  蝸(か)   字(じ)を成し
      老屋無僧燕作家   老屋(ろうおく)   僧(そう)無くして  燕(つばめ)  家を作(な)す
      剰欲出門追語笑   剰(すこぶ)る門を出でて語笑(ごしょう)を追わんと欲するも
      却嫌帰鬢逐塵沙   却(かえ)って帰鬢(きびん)に  塵沙(じんさ)を逐(お)わんことを嫌(きら)う
      風翻蛛網開三面   風は蛛網(しゅもう)を翻して三面(さんめん)を開き
      雷動蜂窠趁両衙   雷(いかずち)は蜂窠(ほうか)を動かして両衙(りょうが)を趁(お)う
      屢失南鄰春事約   屢々(しばしば)南隣(なんりん)の春事(しゅんじ)の約を失(たが)え
      只今容有未開花   只今  容(あ)に未(いま)だ開かざる花(はな)有らんや

      ⊂訳⊃
              壊れた塀は雨の染みだらけ  蝸牛が文字をかいている
              住んでいるのは僧ではなく   軒に燕が巣くっている
              門を出て    語り合いたいのはやまやまだが
              鬢の毛を   よごして帰るのがいやなのだ
              風が吹いて  蜘蛛の巣は三方がやぶれ
              雷が鳴れば  蜂の巣は揺れて蜂は慌てる
              ご近所の春のお誘いにも  失礼つづきだが
              今となっては  これから咲く花などないでしょう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「隣里」(りんり)は村里の隣人の意味で、近所の人に春の感懐を示す詩の形になっていますが、春は官吏の任官の時期でもあります。元符二年(1099)四十七歳のとき、徐州での作とされており、秘書省正字になったあと故郷に帰ったのでしょう。
     首聯でまず自宅のようすを描きます。「断牆」は壊れた土塀、「雨を着して」は雨粒の落ちた痕が点々と濡れているさまで、ぱらぱらと降った雨でしょう。「蝸 字を成し」は蝸牛が這った跡が草書の字のようにみえたということで、自分の学問の拙さを喩えたという見方もできます。「老屋 僧無くして」は古びた家には托鉢の僧侶も立ち寄らないとする解釈もありますが、ここでは僧侶が住んでいるわけではないという解釈によりました。
     頷聯は隣人への言い訳で、誘いを受けて皆さんの談笑に加わりたかったが、「帰鬢に 塵沙を逐わんことを嫌う」といいます。家に帰ったとき鬢に砂埃がついてくるのが嫌で門を出なかったというのです。取りようによっては相手に失礼な言い方になりますが、官界で汚れることを諷していると考えるべきでしょう。
     頚聯は「塵沙」の説明と解することができ、世の中の小人を蜘蛛や蜂に喩えます。蜘蛛は風に吹き千切れられた巣を繕うのにてんてこ舞いをしており、蜂は雷の音に驚いて巣を出入りするのに大わらわであるといいます。「両衙を趁う」は当時の官吏が朝夕二回役所に出勤していたことを指し、それを蜜蜂が一日二回巣に出入りすることに喩えます。
     尾聯は結びで、「春事の約」は春が役人の任官の時期であるので出仕の誘いをいうとみられます。「容」は豈と同じ意味の助字で、どうして……であろうか、そうではないという反語です。しばしばお誘いを断わってきましたが、いまとなってはまだ咲いている花、これから咲く花はあるでしょうか、ありませんねと結ぶのです。
     詩題に「隣里に示す」とありますが、詩は気心の知れた友人に自分が官途につかない理由をしめしたもので、随所に自負と反俗の精神、詩魂の余裕がみてとれます。

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     北宋72ー張舜民
         村 居                村 居

      水繞陂田竹繞籬   水は陂田(ひでん)を繞(めぐ)り  竹は籬(まがき)を繞る
      楡銭落尽槿花稀   楡銭(ゆせん)  落ち尽くして  槿花(きんか)稀(まれ)なり
      夕陽牛背無人臥   夕陽(せきよう)  牛背(ぎゅうはい)に人の臥(ふ)する無し
      帯得寒鴉両両帰   寒鴉(かんあ)を帯(お)び得て   両両(りょうりょう)に帰る

      ⊂訳⊃
              段々畑を水路が巡り  竹は垣根のまわりを巡って茂る

              楡の葉は散りつくし  木槿の花もまばらである

              夕陽をあびて      牛の背中で居眠りをするでもなく

              冬の鴉を止まらせて  ともに歩いてゆっくりかえる


     ⊂ものがたり⊃ 北宋の最後に張舜民(ちょうしゅんみん)の心暖まる詩を一首加えておきます。張舜民(生没年不詳)は邠州(陝西省彬県)の人。陳師道の姉の夫で、蘇軾とも交遊があったといいます。邠州出身の張舜民がどんな経緯で陳師道の姉と結ばれたのか詳細は不明です。
     詩題の「村居」(そんきょ)は村里住まいのこと。晩秋の日暮れの点景を描いています。「陂田」は段々畑、「楡銭」は楡の葉が穴明き銭に似ていることから喩えていうものです。楡の葉は落ちてしまい、木槿(むくげ)の花もまばらになった晩秋の山里です。
     「牛背に人の臥する無し」は、人が牛の背に寝そべることはできませんので、牛の背で居眠りをしなはらゆくわけでもなくという意味でしょう。牛の背に「寒鴉」(冬の鴉)を止まらせていっしょに家路をたどっていると、山里の日暮れののどかな風景を詠って秀逸、実に心穏やかな詩です。


         ☆ 本日をもって北宋を終了します。次回は9月1日(火)から
            南宋の詩人たちを掲載します。

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      現在、このブログ上に公開されている詩はつぎの通りです。
      なお、()中の№は「ティェンタオの自由訳漢詩」の番号を示します。

          個 人 詩 集
       ・王 維 (№ 131ー 249 :2008.11.13ー2009. 3.12)
       ・李 白 (№ 250ー 467 :2009. 3.20ー2009.10.23)
       ・杜 甫 (№ 468ー 745 :2009.11. 1ー2010. 8. 5)
       ・白居易 (№ 746ー 935 :2010. 8.11ー2011. 2.16)
       ・李 賀 (№ 936ー1061 :2011. 3. 1ー2011. 7. 4)
       ・杜 牧 (№1062ー1223 :2011. 7.11ー2011.12.19)
       ・李商隠 (№1224ー1303 :2012. 1. 1ー2012. 3.20)
       ・蘇 軾 (№1304ー1450 :2012. 4. 1ー2012. 8.25)
       ・陸 游 (№1451ー1567 :2012. 9. 1ー2012.12.26)

          時 代 詩 集
       ・初 唐 (№1861ー1906 :2014. 1. 1ー2014. 2.22)
       ・盛 唐 (№1907ー2003 :2014. 3. 1ー2014. 7. 8)
       ・中 唐 (№2004ー2129 :2014. 7.19ー2015. 1.10)
       ・晩 唐 (№2130ー2175 :2015. 1.20ー2015. 4. 8)
       ・北 宋 (№2176ー2247 :2015. 4.21ー2015. 8.23)

        注)個人詩集の詩人は時代詩集から除いてあります。
           ・盛唐  王維・李白・杜甫
           ・中唐  白居易・李賀
           ・晩唐  杜牧・李商隠
           ・北宋  蘇軾
           ・南宋  陸游  

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     南宋1ー陳与義
        襄邑道中            襄邑の道中

      飛花両岸照船紅   飛花(ひか)  両岸に船を照らして紅(くれない)なり
      百里楡堤半日風   百里の楡堤(ゆてい)  半日(はんにち)の風
      臥看満天雲不動   臥(ふ)して看(み)る   満天(まんてん)  雲の動かざるを
      不知雲与我倶東   知らず 雲  我れと倶(とも)に東(ひがし)するを

      ⊂訳⊃
              左右の岸に花は散り  船を照らして紅に染める

              百里もつづく楡の堤  風をはらんだ半日の旅

              寝そべって  空を仰げば雲は動かずに止まっている

              雲はなんと  船といっしょに東へと流れていた


     ⊂ものがたり⊃ 北宋の第八代皇帝徽宗(きそう)は風流天子と称され、自分で書画の筆をとり、政事よりは美術品の収集や庭園づくりに熱心でした。即位翌年の建中靖国元年(1101)に向太后が崩じて親政になると、徽宗は蔡京(さいきょう)を宰相に任じて政事をかえりみず、趣味の世界に専念するようになります。
     「澶淵の盟」によって宋は百年の平和を維持し、都汴京は空前の繁栄を謳歌していました。その一方で地方の農民は重税にあえぐ状態でした。そのころ遼(りょう)の背後に女真(ジュセン)族が台頭し、完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)は女真族をまとめて遼の支配に叛旗をひるがえします。徽宗の政和五年(1115)正月、阿骨打は即位して国号を金(きん)と称します。
     宋は金と協力して遼の支配下にあった燕雲十六州を取りもどそうとしますが、金の動きは早く、たちまち燕雲十六州を自力で攻略します。それをみた宋は今度は遼とはかって燕雲十六州から金の勢力を駆追しようとしました。その背信を知った金は宋の宣和七年(1125)十月、宋を討つことに決し、燕山と太原(山西省太原市)の二方面から南下してきました。
     以下、北宋が南渡して南宋となる経緯については歴史書を参照してください。なお、ティェンタオの自由訳漢詩1451(陸游1:2012.9.1のブログ)には、すこし詳しく書いておきました。
     徽宗の時代に活躍をはじめた詩人は宋の南渡を経験し、南宋の初代皇帝高宗の時代に江南で生きることになります。その代表は陳与義(ちんよぎ)で、ほかに呂本中などがいて、江西派に属します。詞もさかんに作られ、女流詩人の李清照があらわれます。
     陳与義(1090ー1138)は汝州葉県(河南省臨汝県)の人。曽祖父のとき洛陽に移りましたので洛陽の人ともいいます。哲宗の元祐五年(1090)に生まれ、太学の上舎で学びました。徽宗の政和三年(1113)に二十四歳で進士に及第、太学博士から符宝郎になりますが、事に坐して陳留(河南省開封市の東南)の酒税官に左遷されます。
     欽宗の靖康元年(1126)、三十七歳のとき首都汴京は金軍に包囲されて陥落。翌年三月に北宋は滅亡します。陳与義は難をさけて襄陽(湖北省襄樊市)へのがれ、漢陽(湖北省武漢市)に移り、洞庭湖畔を南へ五年余にわたって放浪しました。
     一方、金軍は南宋の皇帝高宗を追及して建炎三年(1130)に長江を越えて南下、建康(江蘇省南京市)、臨安(浙江省杭州市)を攻め落とします。そうしたなか、各地の義軍は八年間にわたって抵抗をつづけ、金軍を江南から撤退させます。
     紹興二年(1132)正月、高宗は臨安に居をもどし、陳与義は召されて兵部員外郎になります。昇進を重ねて参知政事(副首相)にいたりますが、紹興六年(1136)、病を理由に下野を願い出で、洞霄宮提挙(恩給)を拝して引退します。その二年後、紹興八年(1138)に亡くなりました。享年四十九歳です。
     詩題の「道中」は船旅のことです。二十八歳のときの作とされており、「襄邑」(じょうゆう:河南省睢県)の付近を旅し、甲板に寝そべって春景色を眺めています。花びらが風に舞い散り、船を紅に照らしています。承句はまわりの状況を体言止めで描き、旅の動きをひろげる表現になっています。
     後半の二句はそのときふと気づいたことで、空の雲が動かないと思っていたら、雲は乗っている船と同じ速さで東へ流れていました。雲は不吉な心境、逆境の喩えになりますので、岸の落花の華やかさと対比して、自分はこれからどこに連れ去られるのかといった不安な気持ちもただよっているようです。

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     南宋2ー陳与義
       中牟道中二首 其一      中牟道中 二首  其の一

      雨意欲成還未成   雨意(うい)   成(な)らんと欲して還(な)お未(いま)だ成らず
      帰雲却作伴人行   帰雲(きうん)  却(かえ)って人に伴(ともな)って行くを作(な)す
      依然壊郭中牟県   依然たる壊郭(かいかく)  中牟県(ちゅうぼうけん)
      千尺浮屠管送迎   千尺の浮屠(ふと)  送迎を管(かん)す

      ⊂訳⊃
              雨は降ろうとして降りださず

              雲を道づれに  故郷へむかう

              中牟県の城壁は崩れたままだ

              千尺の仏塔が  送迎の役目をつとめている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「中牟」(河南省中牟県)は汴京の西三十五㌔㍍のところにあり、都が陥落して故郷の洛陽へ避難する途中の作です。雨が降りそうで降らないまま、「中牟県」の城壁までたどりつきました。「壊郭」は壊れた城壁で、金軍が侵攻するなか国の守りを憂えるのでしょう。
     「浮屠」は仏教や仏僧の蔑称で、ここでは「千尺」とあるので仏塔と解されます。「千尺」(約300㍍)は誇張であるにしても、高く聳える仏塔が国の役にはたたないと、国難を憂える気持ちを詠います。

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