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tiandaoの自由訳漢詩

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     北宋36ー蘇舜欽
         覧 照               覧 照

      鉄面蒼髯目有稜   鉄面(てつめん)  蒼髯(そうぜん)  目に稜(かど)有り
      世間児女見須驚   世間の児女(じじょ)  見て須(すべから)く驚くべし
      心曾許国終平虜   心(こころ)  曾(かつ)て国に許し  終(つい)に虜(りょ)を平げんとするも
      命未逢時合退耕   命(めい)  未(いま)だ時に逢(あ)わず  合(まさ)に退いて耕(たがや)すべし
      不称好文親翰墨   称(かな)わず  文を好んで翰墨(かんぼく)に親しむに
      自嗟多病足風情   自ら嗟(なげ)く  病(やまい)多くして風情(ふうじょう)足(た)れるを
      一生肝胆如星斗   一生の肝胆(かんたん)  星斗(せいと)の如し
      嗟爾頑銅豈見明   嗟(ああ)  爾(なんじ)   頑銅(がんどう)  豈(あ)に見て明らかならんや

      ⊂訳⊃
              鉄のような顔   灰色の髯  鋭いまなざし
              世の女子供は  ひとめみて驚くだろう
              心は国に捧げ  敵を平定しようとしたが
              運命は時流に合わず  隠退して畑仕事だ
              文学を好み   筆に親しむ生活は似合わないのだが
              からだが弱く   憐れむ心の多過ぎるのを嘆いてもきた
              だが私の精神は  大きな星のように耀いている
              愚かな銅の鏡は  私の本質までは映せないのだ


     ⊂ものがたり⊃ 激情のほとばしるような古詩と七言絶句の繊細な感性、それがどこからくるのか、蘇舜欽自身の自己分析があります。詩題の「覧照」(らんしょう)は鏡に映った自分の姿という意味です。李白にも「白髪三千丈」の詩があり、李白に倣って鏡に映った自画像を詠います。
     まずはじめの二句で自分の顔を三語で描き、女子供はひとめみて驚くだろうといいます。つぎの二句はそんな顔になった理由です。「国に許し」は国に捧げたということ。「虜」は敵ですが、ここでは政事改革に反対する者のことでしょう。政事改革に志したけれども時流にあわず、辞職して畑仕事をする身になったと懐古します。
     つぎの二句は自分の一面で、「称わず」は似合わないことです。文学に親しむ生活は自分の性に合わないのだが、病気がちで「風情」(憐れみの心)が過分に備わっていたこともあって心に染まない文学に親しんできたと詠います。
     最後の二句はまとめで、「肝胆」は精神でしょう。自分の精神は生涯大きな星のように耀いている。つまり改革の情熱は生きているといいます。「頑銅」は愚かな銅の鏡のことで、鏡に呼びかけて、鏡は自分の本質までは映しだせないのだと決意を述べるのです。

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     北宋37ー欧陽脩
        晩泊岳陽              晩に岳陽に泊す

      臥聞岳陽城裏鐘   臥(ふ)して聞く   岳陽城裏(がくようじょうり)の鐘(かね)
      繋舟岳陽城下樹   舟を繋(つな)ぐ  岳陽城下の樹(き)
      正見空江明月来   正(まさ)に見る  空江(くうこう)に明月の来たるを
      雲水蒼茫失江路   雲水(うんすい)  蒼茫(そうぼう)として  江路(こうろ)を失う
      夜深江月弄清輝   夜(よる)深くして  江月(こうげつ)  清輝(せいき)を弄(ろう)し
      水上人歌月下帰   水上(すいじょう)  人は歌って月下(げっか)に帰る
      一闋声長聴不尽   一闋(いっき)の声(こえ)長くして  聴けども尽きず
      軽舟短楫去如飛   軽舟(けいしゅう)  短楫(たんしょう)  去って飛ぶが如し

      ⊂訳⊃
              岳陽城下   舟を岸辺の樹につなぎ
              横になって   城内の鐘の音を聞く
              折から月が  皓々と江上にさし昇り
              雲も水も    果てしなく広がって行く手を見失う
              世はふけて  清らかな月の光が川面に照り映え
              月下の江上  舟人は歌を唄いながら家路をたどる
              その歌声のひと節が  まだ消えないでいるうちに
              小舟は櫂を動かして  飛ぶように漕ぎ去った


     ⊂ものがたり⊃ 欧陽脩(おうようしゅう:1007ー1072)は吉州廬陵(江西省吉安市)の人。四歳で父を亡くし苦学して仁宗の天聖八年(1030)、二十四歳のときに首席で進士に及第しました。地方勤務のあと召されて諌院にいり、右正言をへて知制誥になります。
     革新派の官僚として活躍し、文芸方面では古文の復興に努めますが、革新派の高官が左遷されるのに抗議したため、景祐四年(1037)、三十一歳のときに夷陵(湖北省宜昌市)の県令に流されます。そのご滁州(安徽省滁州市)刺史などを歴任し、赦されて翰林侍読学士になります。嘉祐二年(1057)に知貢挙(省試の責任者)に任じられ、梅堯臣を参詳官に用いて志のある新人の採用につとめます。そのときの及第者に蘇軾らがいました。
     嘉祐六年(1061)、五十五歳で参知政事(副宰相)になりますが、神宗が即位すると王安石の改革に反対。治平四年(1067)、六十一歳で職を辞し潁州に隠棲します。神宗の煕寧五年(1072)、潁州でなくなり、享年六十六歳です。
     詩題の「岳陽」(がくよう)は岳州(湖南省岳陽市)の州府のある街。長江を250㌔㍍ほど遡ったところに夷陵がありますので、夷陵の県令に左遷されて任地に赴くときの作品でしょう。岳陽城は唐代に多くの詩人が訪れて名作を残した詩跡ですが、著名な詩跡の地にやってきたという感慨は微塵もなく、詩は寂寥の感に満ちています。
     比喩を求める必要もありませんが、四句目「雲水 蒼茫として 江路を失う」は将来への希望を失った不安の告白とみることもできます。尾聯の「一闋の声長くして」の闋は終わるという意味で、声のひと区切り、歌声を長く伸ばして唄うひと節の区切りでしょう。「短楫」(短い楫)は櫂のこと。結びの二句は哀愁と動きを兼ねそなえた佳句と称されています。

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     北宋38ー欧陽脩
        答丁元珍               丁元珍に答う

      春風疑不到天涯   春風(しゅんぷう)  疑うらくは天涯(てんがい)に到らざるかと
      二月山城未見花   二月(にがつ)    山城(さんじょう)  未(いま)だ花を見ず
      残雪圧枝猶有橘   残雪(ざんせつ)   枝を圧して猶(な)お橘(きつ)有り
      凍雷驚筍欲抽芽   凍雷(とうらい)   筍(たけのこ)を驚かして芽を抽(ひ)かんと欲す
      夜聞啼雁生郷思   夜(よる)  啼雁(ていがん)を聞いて  郷思(きょうし)生じ
      病入新年感物華   病(や)んで新年に入りて  物華(ぶっか)に感ず
      曾是洛陽花下客   曾(かつ)て是(こ)れ  洛陽(らくよう)  花下(かか)の客(かく)
      野芳雖晩不須嗟   野芳(やほう)  晩(おそ)しと雖(いえど)も  嗟(なげ)くを須(もち)いず

      ⊂訳⊃
              春風は遠いこの地まで  吹いてはこないのだろうか
              二月というのに    山あいの街ではまだ花が咲かない
              融けかかった雪は  小枝を抑えつけ橘の実だけがついている
              寒空に轟く雷鳴は  筍を驚かせて新芽を伸ばそうとする
              夜中に雁の声を聞くと  望郷の思いはつのり
              病で新年を迎えると   季節の眺めに心は揺れる
              かつて私は洛陽で  花を楽しむ旅人だった
              ここは野の花だけ  遅咲きを嘆くこともないだろう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「丁元珍」(ていげんちん)は名を宝臣(ほうしん)といい、夷陵に近い峡州(湖北省宜昌県の西北)の判官でした。丁宝臣からの書信に答えて、夷陵の春の状況と心境を詠って送った作品です。整った七言律詩の首聯では、二月というのにまだ花も咲かないと、辺地にあることの不満をのぞかせます。
     頷聯ではまわりの自然をさらに詳しく述べます。「橘」は蜜柑の一種で「クネンボ」といいます。頚聯は春も遅くくるような任地での心境です。「物華」は季節の美しい眺めのこと。病気がちで新年を迎えたので、季節の眺めも心に沁みます。
     尾聯はまとめの感懐です。「洛陽 花下の客」はかつて洛陽留守推官として洛陽に在勤したことをいいます。そのとき『洛陽牡丹記』を書いていますので、花は牡丹でしょう。花の名所の洛陽で花を楽しんだこともあったが、ここに咲くのは野の花だけ、「 晩しと雖も 嗟くを須いず」と達観のポーズで締めくくります。

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     北宋39ー欧陽脩
         画眉鳥                画眉鳥

      百転千声随意移   百転(ひゃくてん)  千声(せんせい)  随意(ずいい)に移る
      山花紅紫樹高低   山花(さんか)は紅紫(こうし)  樹(じゅ)は高低(こうてい)
      始知鎖向金籠聴   始めて知る  金籠(きんろう)に鎖(とざ)して聴くは
      不及林間自在啼   林間(りんかん)   自在(じざい)に啼(な)くに及ばざるを

      ⊂訳⊃
              賑やかに囀りながら  思いのままに飛び移る

              山には赤や赤茶の花 樹は高低さまざまだ

              いまこそ分かるのだ  鳥籠の鳥の鳴き声が

              林のなかで自由に鳴く鳥に及ばないことが


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「画眉鳥」(がびちょう)はホオジロのことです。仁宗の慶暦五年(1045)、二度目の左遷にあい、滁州(安徽省滁州市)刺史になりました。詩は詠物詩で、起句の主語は画眉鳥です。「山花は紅紫」の紫は赤茶色のことで、山の木々に色鮮やかな花が咲いており、そのあいだを鳥が自由に飛びまわっています。
     後半の二句は寓意をふくみ、自分の役人生活は籠の鳥のように言いたいことも言えず窮屈なものだった。滁州に来てはじめて仲間と胸襟を開いて話し合うことができる。束縛されないということがどんなに清々しいことか、いまこそ分かったと仲間に語りかける詩でしょう。

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     北宋40ー欧陽脩
         別 滁               滁に別る

      花光濃爤柳軽明   花光(かこう)は濃爤(のうらん)  柳は軽明(けいめい)
      酌酒花前送我行   酒を花前(かぜん)に酌(く)みて我が行(ゆ)くを送る
      我亦且如常日酔   我れも亦(ま)た且(しばら)く   常日(じょうじつ)の如く酔わん
      莫教弦管作離声   弦管(げんかん)をして  離声(りせい)を作(な)さしむること莫(なか)れ

      ⊂訳⊃
              花の色は鮮やか  柳は軽やかに揺れ

              花咲く木の下で  酒酌み交わして私を送る

              いつものように   しばしの酔いを楽しもう

              管弦の悲しい調べは  やめにしようではないか


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「滁」(じょ)は滁州のこと。滁州刺史三年のあと、帰任に際しての留別の詩です。滁州は中唐の韋応物も刺史として在任し、自然を愛した地です。しかし、欧陽脩は地方の太守の地位に不満でした。送別の宴の管弦も「離声を作さしむること莫れ」と言っています。「離声」は別離の歌。悲しげな調べであったのでしょう。  

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     北宋41ー欧陽脩
         夢中作                夢中の作

      夜涼吹笛千山月   夜(よる)涼しくして笛を吹く  千山(せんざん)の月
      路暗迷人百種花   路(みち)暗くして人を迷わしむ  百種(ひゃくしゅ)の花
      棋罷不知人換世   棋(き)罷(おわ)って  人の  世を換(か)うるを知らず
      酒闌無奈客思家   酒(さけ)闌(つ)きて  客の  家を思うを奈(いかん)ともする無し

      ⊂訳⊃
              冷えびえとした夜  笛の音が流れ  山々を照らす月

              ゆく道は暗く  花は私を迷わせるかのように咲いている

              碁が済んで   いつのまにか時代は換わる

              酔いも醒めて  わが家を思う気持ちはどうしようもない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「夢中(むちゅう)の作」は夢の中で作ったという意味。欧陽脩は滁州刺史の任期を終えたあとも、揚州、穎州と地方勤務を命じられ、中央に復帰できませんでした。この詩も地方勤務の不満を述べるものですが、夢の中のこととして謎めかし、故事を用いています。
     起承句は心境の比喩でしょう。暗い夜道に「人を迷わしむ 百種の花」が咲いているのは、政事家としていろいろ思い悩むことが多いのを意味します。転句の「棋罷って 人の 世を換うるを知らず」は有名な「爛柯」(らんか)の故事を踏まえています。
     南北朝時代、在る男が山に薪取りにゆくと四人の少年が碁をうっていました。面白いので夢中でみているうちに対局が終わり、持っていた斧の柄がいつのまにか腐っていました。不思議に思いながら家に帰ると、百年が過ぎていたのです。
     つまり、地方に飛ばされて「棋」(碁)のような遊びをしているうちに時代に取り残されてしまうのではないかという不安であり、そのことを誰かに訴えているのでしょう。結句では酒の酔いも醒めると、「客」(旅人、地方勤務の自分)の胸に家郷を思う気持ちが湧き起こり抑えようもないと、中央のもどりたい気持ちをほのめかします。

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     北宋42ー欧陽脩
        絶 句              絶 句

      冷雨漲焦陂     冷雨(れいう)   焦陂(しょうひ)に漲(みなぎ)り
      人去陂寂寞     人(ひと)去りて  陂(つつみ)  寂寞(せきばく)
      惟有霜前花     惟(た)だ霜前(そうぜん)の花のみ有りて
      鮮鮮対高閣     鮮鮮(せんせん)  高閣(こうかく)に対す

      ⊂訳⊃
              冷たい雨が降って  水は焦陂にみなぎり

              人は皆いなくなり  堤はひっそりと静か

              花だけは  霜を目前に咲いていて

              いきいきと  高殿に向かいあう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「絶句」(ぜっく)は五言絶句ともとれますが、最後に詠うという切迫感があり、神宗の煕寧五年(1072)閏七月、臨終の直前に書き残した絶筆とされています。
     「焦陂」は穎州(安徽省阜陽県)にある灌漑用の池で景勝に地でした。その池に冷たい雨が降り、散策の人もいなくなって静かです。同志であった蘇舜欽、梅堯臣もすでに亡くなり、晩年の欧陽脩は孤独でした。「人去りて 陂 寂寞」は、訪ねて来る人もいなくなった自分を比喩的に描くものでしょう。
     そんな自分にも志は残っているというのが転結句です。「霜前の花」は霜に打たれてやがて枯れてしまう花です。そのだけは咲いていて、「高閣」、つまり朝廷に向かい合って立っていると詠います。老いても憂国の志は「鮮鮮」(活き活き)として生きていると詠うのです。

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     北宋ー邵雍
        清夜吟             清夜吟

      月到天心処     月  天心(てんしん)に到る処(ところ)
      風來水面時     風  水面(すいめん)に來たるの時(とき)
      一般清意味     一般の清(せい)意味
      料得少人知     料(はか)り得たり  人の知ること少(まれ)なるを

      ⊂訳⊃
              月が夜空の  中天にかかるころ

              風が水面に  吹き寄せるとき

              天地万物の  法則を考えてみるが

              人はその意味を  理解していないようだ


     ⊂ものがたり⊃ 唐末・五代の混乱期に儒教の伝統的な規範力は低下し、新興の仏教と道教に押されぎみでした。宋代になって世情が安定し、新しい知識層が士大夫(したいふ)として台頭するようになると、科挙の盛行とあいまって儒教は重みを増すようになりました。
     また、都市の繁栄にともなって市民社会的な意識が芽生え、天地の理を神話や伝説ではなく合理的に理解しようとする動きが起こってきます。その動きは仁宗のころ洛陽に拠っていた在野の儒学者たちによってはじまるとされています。
     邵雍(ようよう:1011ー1077)はその代表とみなされている学者です。范陽(河北省涿県)の人ですが、父親の代に共城(河南省)に移り住み、図書・天文・周易などを学びました。やがて洛陽に居を移し、図像と数学を使った独自の宇宙論を唱え、歴史哲学に及びます。神宗の煕寧初年(1068頃)、穎州(安徽省阜陽県)の団練推官に抜擢されますが受けず、在野の学者として儒学に新風を吹き込みました。神宗の煕寧十年(1077)になくなり、享年は六十七歳です。
     詩題の「清夜吟」(せいやぎん)は爽やかな夜の歌という意味ですが、清夜の感懐を述べたものではありません。はじめの二句は上を見て月の存在を示し、前を見て風が水面に吹いていると、天地の自然現象をしめします。
     後半二句は天地万物についての考えを述べるものですが、「一般の清意味」は難解です。「一般」は全体、「清意味」ははっきりした意味のない存在をいい、天地万物の法則のことです。月を見、風の動きを見ると、万物には一定の秩序があると感じるが、世間の人はそのことに気づいていないようだと詠うのです。

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     北宋44ー邵雍
          懶起吟                懶起吟

      半記不記夢覚後   半(なか)ば記し 記せざるは   夢(ゆめ)覚めし後(のち)
      似愁無愁情倦時   愁うるに似て   愁うる無きは  情(じょう)倦(う)むの時
      擁衾側臥未欲起   衾(しとね)を擁(よう)し   側臥(そくが)して  未(いま)だ起くるを欲せず
      簾外落花繚乱飛   簾外(れんがい)  落花  繚乱(りょうらん)として飛ぶ

      ⊂訳⊃
              半ば覚えているようで覚えていない  夢から覚めたあとの気分

              悲しいようで悲しくもなく    気だるいようなひとときだ

              布団にくるまって横を向き  起きる気になれない

              簾のむこうで散る花びらが  入り乱れて飛んでいる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「懶起吟」(らんきぎん)は朝起きの面倒の歌といった変わった題です。はじめの二句で、目覚めたときのぼんやりした気だるいような気分を捉えます。つぎの二句で、そうした気分は悪くないもので、布団にくるまって起きたくありません。横向きになって花びらの乱れ飛ぶのを眺めていると詠います。
     「落花 繚乱として飛ぶ」を風流として読まなければ、野にあって官僚たちが右往左往しているのを見ているという比喩になります。

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     北宋45ー司馬光
       夏日西斎即時           夏日 西斎即時

      榴花映葉未全開   榴花(りゅうか)   葉に映じて未(いま)だ全くは開かず
      槐影沈沈雨勢来   槐影(かいえい)  沈沈(ちんちん)として雨勢(うせい)来たる
      小院地偏人不到   小院(しょういん)  地  偏(へん)にして  人  到らず
      満庭鳥迹印蒼苔   満庭(まんてい)の鳥迹(ちょうせき)  蒼苔(そうたい)に印(いん)す

      ⊂訳⊃
              石榴の赤い花が葉に映えて 半分ほど咲いている

              槐の木陰は重たく沈み込み  雨の近づくけはいだ

              わが庭は辺鄙な所にあって  訪れる人もなく

              一面の蒼い苔の上に  鳥の足跡があるだけだ


     ⊂ものがたり⊃ 邵雍が儒学の改新をはじめたころの洛陽は宋の都汴京とは距離を置く古都で、政事とは離れた学問の場でした。同じころ司馬光(しばこう)も洛陽に隠棲して『資治通鑑』(しじつかん)の執筆に専念していました。
     司馬光(1019ー1086)は陝州夏県(山西省夏県)洓水郷の人。幼少のころから人にすぐれ、仁宗の宝元元年(1038)、二十歳で進士に及第します。仁宗・英宗・神宗に仕えて御史中丞になりますが、王安石の新法に反対して職を辞し、洛陽に隠棲しました。
     歴史の研究に専念すること十五年間、『資治通鑑』を書き上げて朝廷に献上します。その翌年、神宗が三十八歳の若さで崩じると、新帝哲宗は十歳の幼君でした。そこで祖母、つまり神宗の母の宣仁(せんいん)皇太后が摂政になり、垂簾聴政を行うことになりました。
     宣仁太后は王安石をきらい、新法に反対でした。そこで元祐元年(1086)四月、司馬光を召し出して官界に復帰させ、尚書左僕射兼門下侍郎(従三品)に任じました。司馬光は王安石の新法をすべて廃止しますが、八か月の在任で年末に病死します。享年六十八歳です。
     詩題の「西斎」(せいさい)は司馬光の洛陽の屋敷の西にあった書斎のことで、書斎での「即時」(たまたま詠んだ詩)ということになります。はじめの二句は書斎から見える庭の叙景で、石榴の花の赤と槐(えんじゅ)の鬱蒼とした木陰を対比しています。
     転句の「小院」は小さな中庭のことですが、自宅を謙遜して言っていることになります。家は辺鄙な所にあるので訪れる人もない。だから庭をおおう苔のうえに鳥の足跡があるだけだと、友人に来訪を促している詩になります。

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     北宋46ー司馬光
         初 夏              初 夏

      四月清和雨乍晴   四月  清和(せいわ)  雨  乍(たちま)ち晴る
      南山当戸転分明   南山  戸(こ)に当たって転(うた)た分明(ぶんめい)
      更無柳絮因風起   更に柳絮(りゅうじょ)の  風に因(よ)って起こる無く
      惟有葵花向日傾   惟(た)だ葵花(きか)の  日に向かって傾く有るのみ

      ⊂訳⊃
              初夏四月    雨はたちまちに晴れてさわやか

              家に向き合う南山は  いつもよりくっきりみえる

              これ以上    柳絮が風に吹かれて飛ぶこともなく

              冬葵の葉が  太陽の方へ傾いているだけだ


     ⊂ものがたり⊃ 旧暦4月は「初夏」です。詩は神宗が崩じ哲宗が即位して旧法党が召されたときの作とされています。はじめ二句はいよいよ自分の主張を生かすときが来たと、晴ればれたとした気持ちを天気に託して詠います。司馬光は洛陽にいたので「南山」は洛陽から南にのぞむ山です。
     後半の二句は寓意で、「柳絮」は新法党の者。権威に追随して騒ぎまわる小人の比喩です。「葵」(ふゆあおい)の葉は太陽に向かって向きを変える性質がありますので、天子に忠誠を誓う臣下(旧法党)の比喩になります。なお、「葵花」といっているのは葵の葉を詩的に美化した表現です。  

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     北宋47ー曽鞏
         西 楼                西 楼

      海浪如雲去却囘   海浪(かいろう)  雲の如く  去って却(ま)た囘(かえ)る
      北風吹起数声雷   北風(ほくふう)  吹き起こす  数声(すうせい)の雷(らい)
      朱楼四面鉤疏箔   朱楼(しゅろう)  四面  疏箔(そはく)を鉤(こう)し
      臥看千山急雨来   臥(ふ)して看る  千山  急雨(きゅうう)の来たるを

      ⊂訳⊃
              浪は雲のように湧き  寄せては引きまた押し寄せる

              北風は激しく吹いて   雷鳴も聞こえてきた

              朱塗の楼を開け放ち  簾を巻きあげて

              雨が山から迫るのを  寝ころんで眺めている


     ⊂ものがたり⊃ 洛陽につどう学者ではありませんが、司馬光と同年に生まれ、亡くなったのも三年早いだけという詩人に曽鞏(そうきょう)がいます。曽鞏(1019ー1083)は建昌南豊(江西省南豊県)の人。若くして文名を知られ、欧陽脩から激賞されました。仁宗の嘉祐二年(1057)、三十九歳で進士に及第し、太平州の司法参軍を振り出しに集賢校理から実録検討になります。
     ついで地方官にもどり、斉・襄・洪・福・明・毫・滄などの知州事を転々とします。司馬遷や韓愈の文体を学び、古文の第一人者と称されました。また。王安石と親しく、欧陽脩を王安石に推挙したこともあります。しかし、のちに新法に反対して相容れぬ仲になりました。晩年、中央にもどり中書舎人になりますが、わずか一年で神宗の元豊六年(1083)に亡くなりました。享年六十五歳です。
     詩題の「西楼」(せいろう)は不明ですが、曽鞏に「甘露寺多景楼」と題する詩があり、多景楼は潤州丹徒(江蘇省鎮江市)の北固山甘露寺内にありました。詩は「甘露寺多景楼」と同時期の作の可能性が高いと思われます。
     当時の潤州は長江の河口近くでしたので、海浪の影響が強かったようです。「疏箔」は粗い網目の簾のことで、それを鈎に掛けて巻き上げているのです。結びの「臥して看る 千山 急雨の来たるを」には、作者の激しい気性と地方官を転々とする官途への鬱屈した気分が感じられます。

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     北宋48ー王令
        暑旱苦熱             暑旱 熱きに苦しむ

      清風無力屠得熱   清風(せいふう)  熱を屠(ほう)り得(う)るに力(ちから)無く
      落日着翅飛上山   落日(らくじつ)   翅(つばさ)を着けて  飛んで山に上(のぼ)る
      人固已懼江海竭   人  固(もと)より已(すで)に江海(こうかい)の竭(つ)きんことを懼(おそ)れ
      天豈不惜河漢乾   天  豈(あ)に河漢(かかん)の乾くを惜(おし)まざらんや
      崑崙之高有積雪   崑崙(こんろん)の高きに  雪を積む有り
      蓬萊之遠常遺寒   蓬萊(ほうらい)の遠きに  常に寒(かん)を遺(のこ)す
      不能手提天下往   手に天下を提(ひっさ)げて往(ゆ)くこと能(あた)わずんば
      何忍身去游其間   何ぞ忍(しの)びん  身  去(ゆ)きて其の間(かん)に游ぶに
     
      ⊂訳⊃
              涼しい風も  暑さを根だやしにする力はない
              夕陽は翼をつけたように  山上にとどまっている
              人は川や海が干上がってしまうのを恐れ
              天は天の川が涸れてしまうのを惜しむはずだ
              崑崙山の頂には   雪がつもっているだろう
              蓬萊山に遠くには  いつも寒気があるだろう
              だがこの手に天下を    引っ下げてゆけないのなら
              どうして私だけが行って  寛ぐことができようか


     ⊂ものがたり⊃ 王令(おうれい:1032ー1059)は揚州広陵(江蘇省揚州市)の人。曽鞏よりも十歳あまり若く、若くして学問に励み『論語注』『孟子講義』を著します。王安石がその才能と学識の高さに驚き、自分の妻呉氏の妹と結婚させました。しかし、仁宗の嘉祐四年(1059)に夭折してしまいます。享年二十八歳の若さでした。
     詩題の「暑旱」(しょかん)は暑さとひでり。その苦しみを詠う詩ですが、天下を憂える比喩があります。詩には激しさがあり、梅堯臣・蘇舜欽の詩風をつぐものでしょう。はじめの二句は「清風」と「落日」を用いて暑さを描きます。
     中四句のはじめの対句では人は「江海」の尽きるのを恐れ、天は「河漢」の涸れるのを惜しむと旱害を憂えます。つぎの対句では伝説の「崑崙」山と「蓬萊」山を持ち出して、神仙界には雪や寒さが残っているらしいといいます。
     そして結びでは、もしそんなところがあったとしても、「天下」(世のなか全体)を引き連れて行くのでなければ、ひとりで寛ぐようなことはしないと民を思う心情を詠います。政事改革を求める若者の熱気がこもる作品です。

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     北宋49ー王安石
        梅 花             梅 花

      牆角数枝梅     牆角(しょうかく)  数枝(すうし)の梅
      凌寒独自開     寒(かん)を凌(しの)いで独り自(みずか)ら開く
      遥知不是雪     遥かに知る  是(こ)れ雪ならざるを
      為有暗香来     暗香(あんこう)有りて来たる為なり

      ⊂訳⊃
              垣根の角に   数本の梅の枝

              まだ寒いのに  ひとりで咲いている

              遠くから見ても  雪ではないとわかる

              仄かな香りが  伝わってくるからだ


     ⊂ものがたり⊃ 仁宗の四十一年にわたる治世のあいだに宋は経済発展をつづけていましたが、国家財政の危機はすでに放置できない状態になっていました。原因は国家の内部構造にありました。その第一は軍制です。宋は政府直轄の常備軍百万を北の国境地帯と首都汴京に配置していましたが、その維持費はすべて国費でまかなわれていました。
     第二は文治政策による文官優位の中央集権体制です。科挙を通じて多数の官吏が生み出され、待遇は歴代王朝中最高であったといいます。そのため官吏の給与は膨大な額に達しました。第三は形勢戸(富裕層)や官戸(官僚を出した家)の税金逃れです。都市の商人や地方の地主層が税制の抜け穴を使って税や徭役を逃れ、富有化していくなか、一般庶民は重税のために疲弊し切っていました。
     王安石(おうあんせき)は中国史上稀有の改革官僚であったと言っていいと思います。英宗の治世四年のあと二十歳で即位した神宗は、王安石を翰林学士兼侍講に任命し、その政見に直接耳を傾けて大いに共鳴します。改革の実行を決意した神宗は煕寧二年(1069)二月、王安石を参知政事に任じ、新法の立案と実行に当たらせます。
     王安石の新法については多くの歴史書に論述されていますのでここでは省略しますが、新法の基本は農民大衆の民力を向上させて国庫の安定を図ることでした。その新政が豪商や豪農の利益を損じるものであったことはもとよりですが、政府の有識者までが反対するようになったのは、その政策があまりにも経済政策重視にかたむき、当時の知識人が政事の拠りどころにしていた儒教の理念に反していると見られたからです。
     蘇軾ははじめ新法の必要性を認めていましたが、煕寧四年(1071)正月に王安石が科挙の法を改めようとしたので、天子の求めに応じて三言を献じました。それは、政事改革は急ぎ過ぎてはならない、人材の採用については先鋭に過ぎてはならない、臣下の献言の聴取は広過ぎてはならない、というものでした。つまり、王安石の改革は急進的にすぎると批判したのです。
     王安石は(1021ー1086)は撫州臨川(江西省臨川市)の人。真宗の天禧五年(1021)に生まれ、地方官であった父を十九歳のときに亡くします。仁宗の慶暦二年(1042)に二十二歳で進士に及第し、八百三十五名中四位という成績でした。はじめ揚州(江蘇省揚州市)の幕職官である簽書淮南節度判官に任じられ、三年間の地方勤務のあと中央に呼びもどされるはずでしたが、みずから希望して地方勤務をつづけました。父を亡くしていた王安石は家族を養わなければならない立場にあり、収入の多い地方勤務希望したと見られます。地方官として江南各地を勤務するあいだに政事の歪みに気づいていきました。
     煕寧元年(1068)、四十八歳のときに召し出されて翰林学士兼侍講になります。翌煕寧二年に参知政事になり、それから八年間政事改革に取り組みます。煕寧三年(1070)十二月には礼部侍郎・同中書門下平章事になって政権をまかされています。新法によって宋の財政は改善されますが反対する官僚も多く、新法党と旧法党の対立を生じました。
     煕寧九年(1076)、五十六歳のときに職を辞し、三年後の元豊二年(1079)に江寧(江蘇省南京市)郊外の鍾山に隠居します。王安石の引退後も政府内の新法党によって改革は推進されますが、哲宗が即位して司馬光を登用した元祐元年(1086)四月から新法は全面的否定に晒され、心血を注いだ新法が廃棄されるのを見ながら亡くなりました。享年六十六歳です。
     掲げた詩は制作年不明ですが、自分の生き方を「梅花」(ばいか)に託して詠っています。「牆角」は垣根の曲がり角で、数本の梅の枝がみえます。「寒」は苦難の比喩で、梅の花は困難に堪えてひとりで咲いています。白い花は遠くからみても雪ではないとわかりますが、それは「暗香」(仄かな香り)が伝わってくるからだといいます。遠くからでも薫りがわかるような人物になりたいとの抱負を述べるものでしょう。

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     北宋50ー王安石
         葛渓駅                葛渓駅

      缺月昏昏漏未央   缺月(けつげつ)  昏昏(こんこん)  漏(ろう)  未(いま)だ央(つ)きず
      一燈明滅照秋牀   一燈(いっとう)   明滅(めいめつ)  秋牀(しゅうしょう)を照らす
      病身最覚風露早   病身は最も覚(おぼ)ゆ  風露(ふうろ)の早きを
      帰夢不知山水長   帰夢(きむ)は知らず   山水の長きを
      坐感歳時歌慷慨   坐して歳時(さいじ)に感ずれば 歌  慷慨(こうがい)し
      起看天地色淒涼   起(た)ちて天地を看(み)れば   色  淒涼(せいりょう)
      鳴蝉更乱行人耳   鳴蝉(めいぜん)  更に行人(こうじん)の耳を乱し
      正抱疎桐葉半黄   正(まさ)に疎桐(そとう)の  葉の半(なか)ば黄なるを抱(いだ)く

      ⊂訳⊃
              欠けた月は朧に暗く  夜はまだ明けない
              灯火が一つ明滅して  寝台を照らしている
              病んだ体は  秋が来たのをいちはやく感じ
              帰郷の夢は  遠い山川をいっきに越える
              坐して季節に感動すれば  歌声は昂ぶり
              立って天地を眺めやれば  寒々として寂しい
              蝉が鳴きはじめ  やかましくなったが
              疎らになった桐の葉の  黄葉にしがみついて生きている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「葛渓駅」(かつけいえき)は王安石の故郷に近い宿駅で、三十歳のころ一時帰郷したあと任地にもどる途中の作です。首聯の二句は葛渓駅の宿舎のようす。「漏」は水時計のことで、それが「未だ央きず」というのは夜明けにならないことです。夜明けに目ざめていて、気が滅入るような暗い出だしになっています。
     頷聯の対句は自分を見詰めるもので、病んだ体は季節の変化を敏感に感じ、夢のなかではまだ故郷のことを思っています。そんなことを考えているうちに気持ちが昂ぶってくるのが頚聯の対句です。坐して詠えば「慷慨」し、立っては天地の「淒涼」(寂しく寒々としたもの)を感じます。
     尾聯の「蝉」は昔から高潔な生き方をしている人物の喩えとして用いられる詠物で、ここでは作者自身のことでしょう。その蝉が秋になって疎らになった青桐の葉の黄葉にしがみついていると自嘲するのです。

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     北宋51ー王安石
         商 鞅                 商 鞅

      自古駆民在信誠   古(いにしえ)より民(たみ)を駆(か)るは信誠(しんせい)に在り
      一言為重百金軽   一言(いちごん)  重しと為(な)し  百金軽(かろ)し
      今人未可非商鞅   今人(きんじん)  未(いま)だ商鞅(しょうおう)を非(ひ)とす可(べ)からず
      商鞅能令政必行   商鞅は能(よ)く政(まつりごと)をして必ず行われ令(し)む

      ⊂訳⊃
              昔から民の心を掴むには  誠実がたいせつだ

              一言を重しとし   百金は軽んずべきである

              いまの世の人は  商鞅を非難してはならない

              商鞅は政治家として  約束はかならず実行した


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「商鞅」は戦国時代、秦の孝公に仕えた公孫鞅(衛鞅)のことで、『史記』商君列伝に詳しい伝があります。王安石が新法を実施していたときの作で、死を顧みずに改革につとめた商鞅にみずからを喩えるものでしょう。
     はじめの二句で政事家としての信念を述べます。「信誠」は信頼と誠実を意味し、誠実であることによって民の信頼えることが大切であり、約束したことは守らなければならないと詠います。後半、法家思想の商鞅は後世の儒家から非難されているけれども、商鞅は口にしたことは必ず実行したと擁護して自分の決意を述べます。

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     北宋52ー王安石
         夜 直                 夜 直

      金炉香尽漏声残   金炉(きんろ)  香(こう)尽(つ)きて  漏声(ろうせい)残(ざん)す
      翦翦軽風陣陣寒   翦翦(せんせん)たる軽風(けいふう)  陣陣(じんじん)の寒(かん)
      春色悩人眠不得   春色(しゅんしょく)  人を悩ませて眠り得ず
      月移花影上欄干   月は花影(かえい)を移して欄干(らんかん)に上らしむ

      ⊂訳⊃
              香炉の香は燃えつき  漏刻の音はかすかになり

              肌寒い微風が吹いて  寒さはいよいよ身にしみる

              春の気配に悩まされ  眠ることができずにいると

              月は花影を動かして  欄干のあたりまで上らせた


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「夜直」(やちょく)は宿直のことです。翰林学士は毎夜交替で院内に宿直する定めでしたので、神宗に召し出されて翰林学士になった煕寧元年(1068)春の作とする説もあります。ここでは新法を実施していたころ、宮中に泊まりこむこともあったとする説によって解します。
     はじめの二句は寝泊まりしている部屋のようすです。「漏声」は漏刻台(水時計)が時刻を告げる音、それが余韻を残して消えてゆきます。初春でしょうか、冷えこむ夜です。後半「春色」(春の気配)が自分を悩ませて眠れないと言っていますが、色恋沙汰は想定できません。もの思いにふけることを春のせいにしているのでしょう。
     寝床からそとを見ると、月の明りで花の影が映し出されており、月の動きにつれて花影は移動し、欄干のあたりまで上ってきました。「花影」は比喩で、改革が緒につきはじめたことを比喩的に詠うものと解されます。 

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     北宋53ー王安石
        泊船瓜洲               船を瓜洲に泊す

      京口瓜洲一水間   京口(けいこう)   瓜洲(かしゅう)は   一水(いっすい)間(へだ)て
      鐘山秪隔数重山   鐘山(しょうざん)  秪(た)だ隔(へだ)つ  数重(すうちょう)の山
      春風又緑江南岸   春風(しゅんぷう)  又(ま)た緑なり     江南の岸
      明月何時照我還   明月(めいげつ)  何(いず)れの時か  我が還(かえ)るを照らさん

      ⊂訳⊃
              京口と瓜洲は  江を隔てて向かい合い

              重なる山々が  鐘山をへだてている

              春風が吹いて  江南の岸辺は緑色

              いつになったら明月が  わが家路を照らすのか


     ⊂ものがたり⊃ 王安石の新法は時宜を得たものでしたが、広範な制度改革をあまりに急速に実施したため、改革の趣旨が末端の行政組織まで浸透しないという欠点がありました。新法によって既得権益を侵されることになる豪農や大商人たちは、末端の混乱をとらえて新法反対をとなえます。
     官僚の多くも豪農層の子弟であったため生家一族の利益が侵されるのを好まず、新法の抑商重農政策は産業や流通の発達した時代の趨勢に合わない保守的な政策だといって反対しました。
     もうひとつ王安石の評判を悪くしたのは、反対派の官僚を中央から駆逐したことです。反対派の存在を許さない厳しい人事によって世論(当時は知識人の言論)を封殺しましたので、良心的な官僚の反発を招くことになりました。
     煕寧六年(1073)は前年から雨が少なく不作でした。新法の反対派はそれを天の警告として王安石の辞任を要求しました。このときはさいわい雨が降って祈祷の甲斐があったとされましたが、王安石に対する批判はやまず、翌煕寧七年に宰相の職を辞しました。翌年に復帰しますが、再任一年後の煕寧九年(1076)に再び辞職します。
     王安石が職を辞したのは個人攻撃が止まなかったからです。王安石は呂恵卿(ろけいけい)ら新法党の幹部で政府の要職を固めて改革の推進態勢をととのえ、自身は都にとどまって政策の行方を見守ることにしました。ところが、将来を期待していたひとり息子が病没するという不幸に遇います。息子の死を機に王安石は都を離れることにし、元豊二年(1079)、五十九歳のとき、江寧(江蘇省南京市)郊外の鐘山に隠棲することになります。 
     詩題の「瓜洲」は「京口」(江蘇省鎮江市)の対岸(北)にあり、長江の渡津です。そこに船を泊めて故郷を望む詩です。「鐘山」は江寧郊外、玄武湖の東にある紫金山のことで、王安石は鐘山の麓を隠棲の地と定めていました。詩は隠棲地にむかうときの作と思われ、結句の「明月 何れの時か 我が還るを照らさん」に改革の途中で引退する不満の心情がうかがえます。

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     北宋54ー王安石
         北陂杏花               北陂の杏花

      一陂春水繞花身   一陂(いっぴ)の春水(しゅんすい)  花身(かしん)を繞(めぐ)り
      身影妖嬈各占春   身影(しんえい)  妖嬈(ようじょう)  各々(おのおの)春を占(し)む
      縦被春風吹作雪   縦(たと)い春風(しゅんぷう)に吹かれて雪と作(な)るも
      絶勝南陌碾成塵   絶えて勝(まさ)る  南陌(なんぱく)に碾(し)かれて塵(ちり)と成るに

      ⊂訳⊃
              春の水が池にみち  花咲く杏の木をめぐり

              花も花影も艶やか  それぞれの春を楽しんでいる

              春風に吹かれて   花吹雪になとうとも

              路上に踏み敷かれ  塵となるよりまだましだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「陂」(ひ)は人工の池の堤で、池そのものを指す場合もあります。「杏花」(きょうか)はあんずの花です。隠棲地の近くに池があり、堤に杏の花が咲いていました。前半は「春水」(春の雪解け水)で満たされた池と杏の花を描きます。
     後半は花をみての感懐で、春風に吹かれて散ろうとも「南陌に碾かれて塵と成る」よりはいいと、わが身に照らして詠います。王安石の新法は神宗の在位中は引きつづきつづけられていましたので、自分を春風に吹かれて散る花びらに擬し、路上に踏みしだかれているとは思っていません。

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     北宋55ー王安石
         北 山                 北 山

      北山輸緑漲横陂   北山(ほくざん)  緑を輸(おく)って  横陂(おうは)に漲(みなぎ)る
      直塹囘塘灎灎時   直(あたか)も   囘塘(かいとう)を塹(ほ)って  灎灎(えんえん)の時(とき)
      細数落花因坐久   細(こまや)かに落花(らっか)を数うるは   坐すること久しきに因(よ)る
      緩尋芳草得帰遅   緩(ゆるや)かに芳草(ほうそう)を尋ぬれば  帰ること遅きを得(え)たり

      ⊂訳⊃
              北の山から緑は溢れて   堤までつらなり

              造ったばかりの掘割に   波は煌めき揺れている

              散りゆく花を数えるのは  坐ったままでいるからだ

              ゆっくり草花を訪ねると   家に帰るのも遅くなる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「北山」は鐘山のことです。王安石は元豊二年(1079)から元祐元年(1086)まで八年間、鐘山南麓の隠棲地で過ごしました。はじめ二句は晩春の風景。「囘塘」はめぐる堤で、隠棲の居宅を定めてから近くに掘割をつくり、江寧府の方へ舟でゆけるようにしました。
     後半二句は閑雅な生活をやや自嘲的に詠うもので、坐って落花を数える生活であり、外へ出てゆっくり草花を見て歩くとつい家に帰るのが遅くなってしまうと詠います。   

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