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tiandaoの自由訳漢詩

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     北宋16ー劉筠
        館中新蝉               館中の新蝉

      庭中嘉樹発華滋   庭中(ていちゅう)の嘉樹(かじゅ)  華(はな)を発(ひら)くこと滋(しげ)く
      可要螳蜋共此時   螳蜋(とうろう)の  此の時を共にするを  要す可(べ)けんや
      翼薄乍舒宮女鬢   翼(よく)薄くして  乍(たちま)ち舒(の)ぶ  宮女の鬢(びん)
      蛻軽全解羽人尸   蛻(ぜい)軽くして  全(まった)く解す     羽人(うじん)の尸(し)
      風来玉樹烏先転   風  玉樹(ぎょくじゅ)に来たれば  烏  先(ま)ず転(うつ)り
      露下金莖鶴未知   露  金莖(きんけい)に下るも    鶴  未(いま)だ知らず
      日永声長兼夜思   日永く  声長くして  兼ねて夜思う
      肯容潘岳到秋悲   肯(あ)えて潘岳(はんがく)の  秋に到って悲しむを容(ゆる)さんや

      ⊂訳⊃
              庭の樹々は   花ざかり
              こんなとき    蟷螂が出てくるのはお断りだ
              蝉の翅は薄く  伸ばせば宮女の鬢のよう
              抜け殻は軽く  仙人の尸解のようだ
              風が吹けば   烏は樹から真っ先に逃げだし
              露が降りても  鶴は承露盤をご存じない
              夏の日永を鳴きつづけ  夜はもの思いにしずみ
              潘岳のように  秋を悲しむこともない


     ⊂ものがたり⊃ 劉筠(りゅういん)は生没年不詳ですが、真宗の大中祥符末年(1016)ころまでの在世が認められます。魏州大名(河北省大名県)の人で、進士に及第して館陶県の県尉をしていたとき楊億に認められ、秘閣校理になります。
     累進して翰林学士になったとき、詔勅の起草をめぐって不満があり、希望して廬州(安徽省合肥県)の知州事になります。そのご召されて翰林学士承旨になりますが、再び廬州に出てその地で亡くなりました。楊億とならぶ西崑派の中心人物で「楊劉」と並称されます。
     詩題の「館」(かん)は館閣のことで、政府要職者の執務する建物です。その庭で鳴いている「新蝉」(しんぜん:成虫になったばかりの蝉)を詠います。詠物詩の技法で各句の主語は「新蝉」です。第一句は蝉のいる場所。夏に花の咲く木はすくないはずですが、華やかな舞台が設定されています。
     「螳蜋」(かまきり)は『説苑』にでてくる説話で、蟷螂が蝉を捕らえて食べることをいいます。だから「此の時を共にする」のはお断わりだというのです。「翼」は蝉の翅。鬢の髪を蝉の羽根のように薄く広げる髪形があって「蝉鬢」といったようです。
     「蛻」は抜け殻のこと。蝉は脱蛻して世外に超然とするという比喩が好まれていました。「羽人」は羽根の生えた仙人のことで、「尸」は尸解のこと。道士が仙人となって魂が昇天するとき、あとに残す肉体をいいます。
     つぎの二句は烏と鶴のことを言っているようにみえますが、風が吹いても蝉は烏のように逃げ出さないこと、露が降ると鶴は場所を移しますが、蝉は露を飲んで清潔に生きていることをいいます。「金莖」は漢の武帝の承露盤が載っていた通天莖台のことで、露を受ける台です。なお、「風来」「露下」の二句は、当時すぐれた対句としてもてはやされました。
     「日永」の句も蝉のことで、夏の長い日中を鳴きつづけた蝉は、夜になると静かにもの思いにふけっていると詠います。結句の「潘岳」は晋の詩人で、美男子として知られていました。妻を亡くした悲しみを詠う「悼亡」の詩が有名ですが、蝉は秋がきて死が間近にせまっても悲しんだりしないと、全句が蝉を褒め上げる詩になっています。

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    北宋17ー銭惟演
        荷 花              荷 花

      水闊雨蕭蕭     水闊(ひろ)くして  雨蕭蕭(あめしょうしょう)
      風微影自揺     風微(び)にして  影自(おのず)から揺らめく
      徐娘羞半面     徐娘(じょじょう)  半面を羞(は)じ
      楚女妬纎腰     楚女(そじょ)    纎腰(せんよう)を妬(ねた)む
      別恨抛深浦     別恨(べつこん)  深浦(しんぽ)に抛(なげう)ち
      遺香逐画橈     遺香(いこう)    画橈(がとう)を逐(お)う
      華燈連霧夕     華燈(かとう)    霧夕(むせき)に連なり
      鈿合映霞朝     鈿合(でんごう)   霞朝(かちょう)に映ず
      涙有鮫人見     涙は  鮫人(こうじん)の見る有り
      魂須宋玉招     魂は  宋玉(そうぎょく)の招くを須(ま)つ
      凌波終末渡     凌波(りょうは)   終(つい)に末(いま)だ渡らず
      疑待鵲為橋     疑うらくは鵲(かささぎ)の橋を為(つく)るを待つかと

      ⊂訳⊃
              水は静かに広がり  雨は寂しく降っている
              そよ風が吹くと    花はおのずから揺れ動く
              その美しさは  徐娘がわが身を恥じるほどで
              楚の娘たちも  茎の細さをねたむであろう
              別れの怨みを  流れの深い淵に投げこんでも
              のこり香は    いつまでも船につきまとう
              夕暮れの霞のなかでも  明るい灯火のようで
              朝靄のなかで浮き出る  螺鈿の小箱のようだ
              葉に置く露は  人魚の涙のようで
              こころ根は   宋玉をも呼びよせるほどだ
              池波を受けて  じっと立っている
              それはまるで  鵲が橋をつくるのを待っているかのようだ


     ⊂ものがたり⊃ 銭惟演(せんいえん:977ー1034)は杭州銭塘(浙江省杭州市)の人。最後の呉越王銭俶(せんしゅく)の六男として太平興国二年(977)にうまれました。その翌年、銭俶は領土を宋に献じて淮南国王に封じられます。
     銭惟演は若くして団練副使・右屯衛将軍に任じられますが、真宗の咸平三年(1000)に『咸平聖政録』三巻を献じて真宗に認められ、太僕少卿になります。以後文人として頭角を現し、西京河南府(河南省洛陽市)の知府事のときの幕下に、のちに詩人として有名になる梅堯臣と欧陽修がいました。累進して知制誥(ちせいこう)になり、真宗の天禧二年(1018)には翰林学士になります。
     仁宗の初期に垂簾聴政を行った劉太后の姻戚であったことから、枢密使・同平章事の要職につき、明道二年(1033)、太后が亡くなると弾劾を受けて随州に貶謫され、その翌年に配地で亡くなりました。享年五十八歳です。
     詩題の「荷花」(かか)は蓮の花。詠物詩に属しますが、蓮の花に託して女心の深奥を諷諭します。女性の表面の美しさだけを見ていると、とんでもない目にあうと警告するのです。はじめの二句は雨のなか濡れて立つ蓮の花の描写で、見た目はいかにも弱々しく見えます。以下はそこから連想する女性の真の姿で、まず二人の執念深い女性の故事を出します。
     「徐娘」は南朝時代の后。容貌が悪くて天子に愛されないのでわざとふざけた化粧をしたり、愛人をつくったりしました。「楚女」は戦国楚の娘たちで、当時は痩せた女性が好まれたので皆が痩せようとして栄養不良で死んでしまったと我の強さを指摘します。
     つぎの対句は女性の執念深さを蓮の花に喩えます。「深浦」(入江の深い淵)に投げ棄てても、花の残り香がいつまでも船を追ってくるといいます。三番目の対句はどんな環境にあっても自己を主張する自己顕示欲の強さ、自分本位であることを指摘します。
     四番目の対句は女性の涙です。「鮫人」は人魚のことで、「鮫人の見る有り」というのは蓮の花に置く露が人魚の落とした涙のように思われるという意味です。「魂」は蓮の花の魂のことで、楚の有名な詩人「宋玉」をも惹きつけるであろうと涙の効用を詠います。
     結びの二句は蓮の花の建っている姿で、「鵲の橋を為るを待つかと」思われると詠います。七夕伝説を援用し、彦星と織姫の逢瀬をとりもった鵲が、自分のために橋をつくってくれるのを待っているかのように立っていると詠うのです。 

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     北宋18ー晏殊
         寓 意               意を寓す

      油壁香車不再逄   油壁(ゆへき)の香車(こうしゃ)  再び逄(あ)わず
      峡雲無迹任西東   峡雲(きょううん) 迹(あと)無くして  西東(せいとう)に任(まか)す
      梨花院落溶溶月   梨花(りか)     院落(いんらく)   溶溶(ようよう)の月
      柳絮池塘淡淡風   柳絮(りゅうじょ)  池塘(ちとう)    淡淡(たんたん)の風
      幾日寂寥傷酒後   幾日の寂寥(せきりょう)  傷酒(しょうしゅ)の後(のち)
      一番蕭索禁煙中   一番の蕭索(しょうさく)   禁煙(きんえん)の中(うち)
      魚書欲寄何由達   魚書(ぎょしょ)  寄せんと欲するも  何に由(よ)ってか達せん
      水遠山長処処同   水遠(すいえん)  山長(さんちょう)   処処(しょしょ)同じ

      ⊂訳⊃
              美しい油壁の馬車は  もうここへはこない
              巫山の仙女のように  どこかへいってしまった
              梨の花咲く中庭に    降りそそぐ月あかり
              柳絮の舞う池の堤に  そよ吹く風
              やけ酒のあと  侘びしく過ごした日は幾日か
              寒食節だから  いっそう味気ない
              便りを出そうと思うが   それもできず
              川は流れ  山は連なり  どこもかしこも眺めはおなじ


     ⊂ものがたり⊃ 晏殊(あんしゅ:991ー1055)は撫州臨川(江西省撫州市臨川県)の人。太宗の淳化二年に生まれ、神童とうたわれました。真宗の殿試に推薦されて進士の資格を与えられ、秘書省正字になります。累進して吏部侍郎になり、枢密副使をへて同中書門下平章事(宰相)になります。位人身を極めたといってよく、仁宗の至和二年(1055)に亡くなります。享年六十五歳です。
     晏殊は西崑派の詩人よりも遅れて出て来ますので西崑派には属しませんが、西崑派の詩風を引きつぐ詩人です。詩題に「意を寓す」とあるのは、失恋の歎きを詠いながら裏になにか隠されているものがあるのかもしれません。
     はじめの二句は故事を借りて失恋を述べます。「油壁の香車」は壁を油脂で塗った馬車のことですが、昔の有名な妓女蘇小小(そしょうしょう)の乗物でした。「峡雲」は長江三峡の雲のことで、巫山の神女伝説を踏まえています。いずれも唐代に詩に詠われた美女で、いまは会えない死者と行方不明の神女です。
     中四句では女性と別れたあとの落胆、寂しさを述べます。はじめの対句の「梨花」は白居易の「長恨歌」で楊貴妃に喩えられており、なにを見ても以前そこにいた女性を思い出すと、楊貴妃を失ったあとの玄宗皇帝の寂しさに擬すのです。
     つぎの対句は現実の自分にもどります。「傷酒」は失恋のやけ酒を飲み過ぎて体を壊したということ。さらにいまは「禁煙」(寒食節で火を使えない)ので、いっそう味気ない気持ちであると詠います。寒食節は陰暦三月の行事ですので、晩春の季節を示しています。
     最後の二句は結びで、「魚書」(手紙)を出そうと思うけれどそれも叶えられないと呟きながら、「水遠 山長 処処同じ」と嘆いておわります。失恋の詩といってもはなはだ技巧的で現実味にとぼしい作品です。

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     北宋19ー柳永
        雨林鈴               雨林鈴        (上片八句)

      寒蝉淒切        寒蝉(かんせん)  淒切(せいせつ)たり
      対長亭晩驟雨初歇  長亭(ちょうてい)の晩(くれ)  驟雨(しゅうう)  初めて歇(や)むに対す
      都門帳飲無緒     都門(ともん)に帳飲(ちょういん)して  緒(こころ)無く
      留恋処蘭舟催発    留恋(りゅうれん)する処  蘭舟(らんしゅう)  発するを催(うなが)す
      執手相看涙眼     手を執(と)り  相看(あいみ)て眼(まなこ)に涙し
      竟無語凝噎       竟(つい)に語ること無く   凝噎(ぎょうえつ)す
      念去去千里煙波    念(おも)う  去(ゆ)き去く  千里の煙波(えんぱ)
      暮靄沈沈楚天闊    暮靄(ぼあい)沈沈(ちんちん)として  楚天(そてん)の闊(ひろ)きを

      ⊂訳⊃
              秋の蝉  蜩の声はもの悲しい
              日暮れの宿駅で  やんだばかりの雨にむかいあう
              城門に近い所で  酒を飲むが気分はのらず
              なごりを惜しんでいると   船出の合図がある
              手を取って見詰め合えば  涙はあふれ
              なにもいえずに  むせび泣く
              思えばこれから  靄に包まれた千里の波の上をゆく
              楚地の広い空に  夕靄は重く立ちこめているだろう


     ⊂ものがたり⊃ 乾興元年(1022)二月、真宗が五十五歳で崩じると、太子の趙禎(ちょうてい)が即位して第四代仁宗の世になります。仁宗の在位は四十一年に及び、宋は空前の繁栄期を迎えます。都汴京の街は活気にあふれ、さまざまな市民文化がめばえ、娯楽が栄えます。そんななか地方から出てきたひとりの若者が都会の文化に魅了され、詞の分野できわだった才能を発揮します。それが柳永(りゅうえい)です。
     柳永(987?ー1053?)は崇安(福建省崇安県)の人。地方役人の家に生まれ、十代の末に科挙を受験するために上京しますが、都で市民文化に触れると歌や踊りに熱中するようになります。科挙に及第できず、楽人や歌妓のために詞をつくって流行作家になります。活躍は汴京にとどまらず、平江(蘇州)や杭州などに流寓し詩人としてもてはやされます。「詩は杜詩に学ぶべし、詞は柳詞を学ぶべし」といわれるほどでした。
     仁宗の景裕元年(1034)、四十八歳のころ改めて進士に挑戦し、及第して工部屯田司員外郎になりますが、辞して野にもどりました。仁宗の皇裕五年(1053)ころに亡くなり、享年六十七歳くらいです。その墓は二三か所あり、評判の高さを物語っています。
     詩題の「雨霖鈴」(うりんれい)は唐代からある曲の名で、詞は市民の好みを反映して長篇になり、慢詞と称されます。宴会などの場で音楽の伴奏つきで詠われるようになり、演劇的な要素をおびてきます。
     「雨霖鈴」はある役人が転勤することになり、馴染みの妓女と別れて旅立つ場面を設定し、同じ曲で二節を歌う双調です。上片八句は前後二段にわかれ、それぞれの場面と思い入れを構成します。
     「寒蝉」は秋の蝉、ひぐらしでしょう。「長亭」は十里ごとに置かれている官用の宿駅で、この語が出ると別れのイメージを誘うことになります。蝉の鳴く晩秋の宿舎、「驟雨」(にわか雨)が過ぎたばかりです。そこは「都門」(街の入口)に近い場末で、酒を飲んでも気勢があがりません。なごりを惜しんでいると出船の合図が聞こえてきたというのが前段です。後段はいよいよ別れのときが来たと手を取り合って「凝噎」(むせび泣く)します。そして行く先の楚地を思って溜め息をもらすのです。    

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     北宋20ー柳永
        雨林鈴               雨林鈴        (下片八句)

      多情自古傷離別    多情(たじょう)   古(いにしえ)より離別(りべつ)を傷(いた)む
      更那堪冷落清秋節  更に那(なん)ぞ堪えん  冷落(れいらく)たる清秋(せいしゅう)の節(せつ)なるに
      今宵酒醒何処     今宵(こんしょう)  酒(さけ)醒(さ)むるは何(いず)れの処ぞ
      楊柳岸暁風残月    楊柳(ようりゅう)の岸  暁風(ぎょうふう)  残月(ざんげつ)
      此去経年        此(これ)より去りて   年(とし)を経(ふ)れば
      応是良辰好景虚設  応(まさ)に是(こ)れ    良辰(りょうしん)好景(こうけい)も空しく設(もう)くべし
      便縦有千種風情    便(すなわ)ち縦(たと)い  千種(せんしゅ)の風情(ふじょう)有りとも
      更与何人説      更(さら)に何人(なんびと)と説(かた)らんや

      ⊂訳⊃
              古来感性豊かな者は  別れに胸を痛めてきた
              まして今は  寂しい秋の季節  どうして堪えることができよう
              今宵酒が醒めるのは  どんなところか
              楊柳の岸辺  夜明けの風  沈みゆく月
              時は流れて  歳月が過ぎれば
              よい季節   よい眺めも  虚しいものになるだろう
              無数の風情が   わたしの前に現れようと
              いったいそれを  誰と語り合えばいいのか


     ⊂ものがたり⊃ 下片の前段四句は、重ねて離別の感懐を詠いあげるもので、「多情」は感情が豊かで感じやすい人の意味です。感性豊かな者は昔から別れに心を痛めてきたが、「冷落」(もの寂しい)の秋の別れには堪えがたいものがあると嘆きます。
     ついで、今夜、酒も醒めて着くところはどんなところだろうかと自問し、「楊柳の岸 暁風 残月」と三つの景をぽんぽんと打ち出します。この一句は柳永畢生の名句と称されており、鮮明なイメージ語を投げだして感情を盛りあげる柳永独特の手法です。
     つづく四句はまとめの感懐です。時は流れ、いろいろな「良辰好景」(よい季節よい眺め)に出会っても、それは虚しいものに過ぎないといい、なぜならそのことを語り合う君がいないからだと結びます。この結びは親友との別れに用いる場合が多いので、別れの相手が妓女でなくても通用する仕組みになっています。観客を意識した表現であると見ることができるでしょう。


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     北宋21ー柳永
        望海潮             望海潮          (上片十一句)

      東南形勝       東南の形勝(けいしょう)
      三呉都会       三呉(さんご)の都会
      銭塘自古繁華    銭塘(せんとう)は  古(いにしえ)より繁華(はんか)なり
      煙柳画橋       煙柳(えんりゅう)  画橋(がきょう)
      風簾翠幕       風簾(ふうれん)    翠幕(すいばく)
      参差十万人家    参差(さんし)たり  十万の人家(じんか)
      雲樹繞堤沙      雲樹(うんじゅ)は堤沙(ていさ)を繞(めぐ)り
      怒涛捲霜雪      怒涛(どとう)は霜雪(そうせつ)を捲(ま)いて
      天塹無涯       天塹(てんざん)   涯(はて)無し
      市列珠璣       市(し)には珠璣(しゅき)を列(つら)ね
      戸盈羅綺競豪奢   戸(こ)には羅綺(きら)盈(み)ちて豪奢(ごうしゃ)を競う

      ⊂訳⊃
              中華の東南  形勝の地
              それは呉の国の大都会
              銭塘は昔から  賑やかな街である
              かすむ柳  色ぬりの橋
              揺れる簾  緑の垂れ幕
              高く低く    十万戸の家がつらなる
              雲つく木は  砂の堤をめぐり
              逆巻く波は  しぶきを巻きあげ
              どこまでもつづく天然の堀のようだ
              市場には  さまざまな宝石がならび
              絹織物は  店に満ちて豪華を競い合う


     ⊂ものがたり⊃ 詞題の「望海潮」(ぼうかいちょう)は海の潮を望む意味ですが、これは元歌の題であり、曲を示します。内容は杭州の街を褒めるもので、題名とは無関係です。柳永が杭州にいたとき、知州事の着任の祝いの席でつくった詞と思われ、上片のはじめ三句は導入部です。大見得を切るように場所を示します。
     「銭塘」は杭州の州治のある県で、杭州の別名です。以下、杭州の街の繁華なさまが描かれますが、「煙柳」以下の三句は五つの景物が歯切れよく示され、柳永得意の手法です。つぎの三句のはじめ二句は五言の対句になっており、「雲樹」は雲に届くほど高い木、「堤沙」は砂で築かれた銭塘江の堤防でしょう。
     「怒涛」は杭州湾の奥まで押し寄せる大海嘯(だいかいしょう)のことで、波が最大になる旧暦八月十五日、仲秋の日の海嘯は有名です。そして、海に面し河口に位置する杭州を「天塹涯無し」と詠い、天然の要害に囲まれた地であると褒めます。結びの二句では杭州の市場の繁栄、豊かなさまを歌って上片をとじます。

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     北宋22ー柳永
        望海潮             望海潮          (下片十一句)

      重湖疊巘清嘉    重湖(ちょうこ)疊巘(じょうけん)  清嘉(せいか)なり
      有三秋桂子      三秋(さんしゅう)の桂子(けいし)
      十里荷花       十里の荷花(かか)有り
      羌管弄晴       羌管(きょうかん)  晴れを弄(もてあそ)び
      菱歌泛夜       菱歌(りょうか)   夜に泛(うか)び
      嬉嬉釣叟蓮娃    嬉嬉(きき)たる釣叟(ちょうそう)  蓮娃(れんあ)あり
      千騎擁高牙      千騎(せんき)  高牙(こうが)を擁し
      乗酔聴簫鼓      酔(え)いに乗じて簫鼓(しょうこ)を聴き
      吟賞煙霞       煙霞(えんか)を吟賞(ぎんしょう)す
      異日図将好景    異日(いじつ)  好景(こうけい)を図将(えが)き
      帰去鳳池誇      鳳池(ほうち)に帰り去(ゆ)きて誇るならん

      ⊂訳⊃
              連なる湖  幾重にも重なる山  清く麗しく
              秋には木犀の実がみのり
              夏には十里もつづく蓮の花
              晴れた空に  羌笛の音はながれ
              夜の水面に  菱摘みの歌がただよう
              嬉しげにに釣る翁  蓮の実を摘む娘たち
              千騎の行列  旗をかかげて着任され
              酔い心地できく笛太鼓
              靄や霞を吟じて楽しみなさる
              杭州のよい景色を絵に描かせ
              いつか朝廷で  自慢なさることでしょう


     ⊂ものがたり⊃ 下片では、はじめ六句で西湖に焦点をあてます。築堤で区切られた西湖、まわりに連なる山々を「清嘉」と褒め、秋の「桂子」(木犀の実)、岸辺につづく「荷花」(蓮の花)を示します。ついで湖で遊ぶ人、働く人の姿を描きます。「羌管」(胡族の笛)は妓楼から流れてくる笛の音でしょう。
     つづく五句は宴会の主催者知州事を寿ぐもので、「千騎 高牙を擁し」は知州事が着任したときの行列です。そして今日の宴会のように「酔いに乗じて簫鼓を聴き 煙霞を吟賞す」るというのです。結びの二句は出世して都にもどる日を詠います。杭州の素晴らしい景色を絵に描かせ、「鳳池」(朝廷)に持ち帰って自慢なさるでしょうと祝って、詞を閉じます。
     柳永は知州事の祝宴に招待されるほどの身分ではありませんでしたが、詞の流行作家として招かれ、酒席に興をそえたものと思われます。

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     北宋23ー范仲淹
         漁家傲               漁家傲

      塞下秋来風景異   塞下(さいか)  秋来(しゅうらい)  風景異(こと)なり
      衡陽雁去無留意   衡陽(こうよう)  雁(がん)去って留まるの意(い)無し
      四面辺声連角起   四面(しめん)の辺声(へんせい)   角(かく)に連って起こる
      千嶂裏         千嶂(せんしょう)の裏(うち)
      長煙落日孤城閉   長煙(ちょうえん)  落日  孤城(こじょう)閉ず

      濁酒一杯家万里   濁酒(だくしゅ)一杯  家万里(ばんり)
      燕然未勒帰無計   燕然(えんぜん)  未(いま)だ勒(ろく)せず  帰るに計(けい)無し
      羌管悠悠霜満地   羌管(きょうかん)  悠悠(ゆうゆう)  霜  地に満つ
      人不寐         人  寐(い)ねず
      将軍白髪征夫涙   将軍  白髪(はくはつ)  征夫(せいふ)  涙す

      ⊂訳⊃
              国境の塞に秋が来て  都とはちがう眺めだ
              雁は衡陽へ飛び去り  とどまろうとしない
              辺境の物音が  角笛の音といっしょに湧きおこる
              千嶂の山のつづくなか
              靄は立ちこめ  夕陽は沈み  孤城は門を閉じている

              濁り酒を傾けながら  遠いわが家を思う
              燕然山は占領できず  帰ることなどおぼつかない
              羌笛は寂しくひびき   霜は地上に満ちわたる
              人びとは眠れないまま
              将軍は白髪になり    兵士は涙を流すのだ


     ⊂ものがたり⊃ 真宗の末に詩壇の主流を占めていたのは西崑派でした。西崑派の銭惟演(せんいえん)が洛陽の長官をしていたころ、その部下に梅堯臣と欧陽脩がいました。二人は勧められて西崑派の詩を作ったこともあったと思います。
     仁宗のはじめ宰相の呂夷簡(りょいかん)が政府を領導していましたが、政事は腐敗し貧富の差がひろがっていました。若手官僚の一部に改革の意識が芽生え、范仲淹(はんちゅうえん)は改革派の指導的立場にいました。范仲淹は人材の発掘につとめ、そのなかに蘇舜欽がいました。
     政事改革を求める人々のあいだから古文復興運動がおこり、詩壇では西崑派の詩が徹底的に批判されます。西崑派の近くにいた梅堯臣と欧陽脩も西崑派の詩に疑問を感じるようになり、政事的にも范仲淹や蘇舜欽に近づいていきます。政事改革と古文復興運動のうねりのなかから宋代の新しい詩が生まれてきます。范仲淹は改革派のリーダーとして若手官僚の育成につとめますが、詩人としては詞が知られています。
     范仲淹(989ー1052)は平江呉県(江蘇省蘇州市)の人。真宗の大中祥符八年(1015)に二十七歳で進士に及第し、秘閣校理になります。つねに天下のことを論じ、士大夫の気節をたっとぶ宋代の風は范仲淹にはじまるといわれています。仁宗のとき首都開封府の権知府事になりますが、保守派とあわず饒州(江蘇省)の知州事に左遷されます。
     西北でチベット系タングート族の李元昊(りげんこう)が叛くと、陝西経略安撫招討副使として辺境防衛の前線に立ちます。やがて枢密副使から参知政事にすすみ将来を期待されますが、官吏の堕落を厳しく取り締まったことから河東・陝西の宣撫使に左遷されます。仁宗の皇裕四年(1052)、潁州(安徽省阜陽市)の任地に赴こうとしていたとき、病で亡くなりました。享年六十四歳です。
     詩題の「漁家傲」(ぎょかごう)は漁師の誇りが高いという意味で、漁師の生活を歌う小唄の曲を借りた替え歌です。実際の内容は辺塞詩の伝統をつぐ詞で、辺境防衛の前線で宴会が催されたときに発表されたものでしょう。わかりやすい詞で、「燕然」は山の名。古来胡族の根拠地として象徴的に用いられました。ここでは辺境防衛の決意を述べますが、現実には羌笛が「悠悠」(愁えるさま)と流れ、霜は地に落ち、故郷を思って眠れない夜がつづきます。辺塞の苦しみは将軍も兵を同じだと詠うのです。   

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     北宋24ー梅堯臣
       魯山山行            魯山の山行

      適与野情愜     適(まさ)しく  野情(やじょう)と愜(かな)い
      千山高復低     千山(せんざん) 高く復(ま)た低し
      好峰随処改     好峰(こうほう)  随処(ずいしょ)に改まり
      幽径独行迷     幽径(ゆうけい)  独り行きて迷う
      霜落熊升樹     霜落ちて  熊  樹(き)に升(のぼ)り
      林空鹿飲渓     林空しく  鹿  渓(たに)に飲む
      人家在何許     人家(じんか)   何許(いずく)にか在る
      雲外一声鶏     雲外(うんがい)  一声(いっせい)の鶏(けい)

      ⊂訳⊃
              野山をい慕う心にぴったりだ
              山は高く低くつらなっている
              行くほどに  峰のかたちは姿を変え
              奥深い径を  ひとり歩けば迷いそうだ
              霜が降ると  熊は木にのぼって実をとり
              冬枯の林で  鹿は谷川の水を飲む
              こんな山奥に  人家があるのかと見わたせば
              雲のかなたに  一声高く鶏の声


     ⊂ものがたり⊃ 范仲淹の政事改革に参画しながら士大夫としての詩にめざめ、宋代の新しい詩を開くことになるのは梅堯臣(ばいぎょうしん)、蘇舜欽、欧陽脩です。
     梅堯臣(1002ー1060)は宣州宛陵(安徽省宣城県)の人。真宗の咸平五年(1002)に生まれ、役人を出す家柄の出ではありませんでした。叔父が政府高官になったため、その恩蔭によって太廟の斎郎になります。科挙に及第しておらず、県の主簿や県令などを転々とします。詩名ははやくから聞こえ、仁宗の慶暦年間(1041ー1048)、四十歳を過ぎてから進士出身の資格を与えられました。
     嘉祐二年(1057)に欧陽脩が知貢挙(省試の責任者)に任じられたとき、欧陽脩は梅堯臣を省試の参詳官に用いました。省試を通じて人材の発掘につとめ、そのなかに蘇軾もいました。そのご国子監直講などになりますが、仁宗の嘉祐五年(1060)、都で流行した疫病にかかって亡くなりました。享年五十九歳です。梅堯臣は後世「宋代一代の面目を聞く者は、梅堯臣、蘇舜欽にはじまる」と称せられます。
     詩題の「魯山」は露山ともいい、河南省魯山県の北東にある山です。県令をしていた三十九歳のときの作品とされています。五言律詩、はじめの二句で「山行」(さんこう)の場を設定します。「野情」は自然を愛する心です。中四句で山中の景を描きますが、「幽径 独り行きて迷う」には孤独を嘆く気持ちがこめられているかも知れません。熊や鹿も人生をひとり行く身の比喩ともとれ、その孤独感が「雲外 一声の鶏」によって山中に人家のあることを知る喜びにつながるのでしょう。

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     北宋25ー梅堯臣
        蚯 蚓               蚯 蚓

      蚯蚓在泥穴     蚯蚓(きゅういん)  泥穴(でいけつ)に在り
      出縮常似盈     出縮(しゅつしゅく)  常に盈(み)つるに似たり
      龍蟠亦以蟠     龍蟠(わだか)まれば  亦(ま)た以て蟠まり
      龍鳴亦以鳴     龍(りゅう)鳴けば  亦た以て鳴く
      自謂与龍比     自(みずか)ら謂(おも)う  龍と比(なら)ぶと
      恨不頭角生     恨(うらむ)むらくは頭角(とうかく)の生(しょう)ぜざるを
      螻蟈似相助     螻蟈(ろうかく)   相助(あいたす)くるに似て
      草根無停声     草根(そうこん)  声を停(とど)むる無し
      聒乱我不寐     聒乱(かつらん)  我(わ)れ寐(い)ねず
      毎夕但欲明     毎夕(まいせき)  但(た)だ明(めい)を欲(ほっ)す
      天地且容畜     天地(てんち)   且(か)つ容畜(ようちく)す
      憎悪唯人情     憎悪するは唯(ただ)  人情(にんじょう)

      ⊂訳⊃
              みみずは泥の穴に住み
              出たり入ったり  いつも満足しているようだ
              龍がとぐろを巻けば  みみずもとぐろを巻き
              龍が鳴けば  みみずも鳴く
              龍の仲間の気でいるが
              角の生えないのが残念だ
              みみずの声に  けらが調子をあわせ
              草の根元で   鳴きつづける
              その喧しさに   眠ることができず
              わたしは毎晩  夜の明けるのを待ちわびる
              だが  大いなる自然はみみずを受け入れ
              憎しみを抱くのは  人の感情に過ぎない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「蚯蚓」(きゅういん)はみみずのことです。詠物詩ですがこれまでにない主題を選び、強烈な風刺をこめています。はじめの二句は導入部で、みみずの生態を概観します。しかし、「出縮 常に盈つるに似たり」の盈は境遇に満足しているという意味で、はやくも擬人化がはじまっています。
     つぎの四句はみみずの身の丈にあわない自意識を描くもので、能力もないのに皇帝の側近を自任している役人を皮肉るものでしょう。つぎの四句はみみずの鳴き声の話。実はみみずには発音部位がなく、「螻蟈」(けら)の鳴き声をみみずの声と考えていました。詩では「螻蟈 相助くるに似て」とけらが合唱していると書かれています。「聒乱」はやかましくて人の心を乱すこと。みみずとけらの合唱で眠ることができず、夜明けを待ちわびていると詠います。けらやみみずはつまらないものの喩えで、役所のつまらない人間の声がうるさくてたまらないと批判するのです。
     結びの二句は言い過ぎを和らげるもの。「天地」(大自然・天子の暗示)はそんなみみずさえ受け入れているのだから、いたずらにみみずを憎悪するのは、「人情」(人の感情)に過ぎないと反省してみせます。筆禍に用心しながら大胆な比喩をもちい、西崑体の詩とは全く趣を異にする詩です。

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     北宋26ー梅堯臣
        耕 牛               耕 牛

      破領耕不休     領(くび)を破りて  耕(たがや)して休(や)めず
      何暇顧羸犢     何ぞ羸犢(るいとく)を顧(かえり)みるに暇(いとま)あらん
      夜帰喘明月     夜に帰って  明月に喘(あえ)ぎ
      朝出穿深谷     朝に出でて  深谷(しんこく)を穿(うが)つ
      力雖窮田疇     力は田疇(でんちゅう)に窮(きわま)ると雖(いえど)も
      腸未飽芻菽     腸(はらわた)は未(いま)だ芻菽(すうしゅく)に飽(あ)かず
      稼收風雪時     稼收(かしゅう)   風雪(ふうせつ)の時
      又向寒坡牧     又た寒坡(かんぱ)に向(おい)て牧(ぼく)せらる

      ⊂訳⊃
              首の皮が擦り切れても  農耕をやめず
              痩せた子牛を  顧みる暇もない
              夜ふけに帰るとき  月を見上げてあえぎ
              早朝に小屋を出て  深い谷間に入っていく
              田圃の作業で     力は尽き果てようとしているのに
              餌の秣や豆は    充分に与えられない
              穫り入れが過ぎて  風雪の季節になれば
              吹きさらしの丘に   放牧される


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「耕牛」(こうぎゅう)は耕す牛。農耕用の牛を描いて農民の辛苦を歌う社会詩です。農耕の牛は唐鋤や荷車の引き綱を首にかけるので、首の皮が擦り切れています。はじめの二句は、首の皮が擦り切れるほどに働かされて、子牛に心をくばる余裕もありません。
     中四句はその労働のさまを詳しく述べ、早朝から夜更けまで働かされて餌も充分にあたえられません。結びの二句ではさらに追い打ちをかけ、収穫のあとの冬には「寒坡」(寒い吹きさらしの丘)に放牧され、休むときもないと詠います。

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     北宋27ー梅堯臣
         小 村                小 村

      淮濶洲多忽有村   淮(わい)濶(ひろ)くして  洲(なかす)多く   忽(たちま)ち村有り
      棘籬疎敗漫為門   棘籬(きょくり)  疎(まば)らに敗(やぶ)れて 漫(みだ)りに門と為(な)す
      寒鶏得食自呼伴   寒鶏(かんけい)  食を得て  自(みずか)ら伴(とも)を呼び
      老叟無衣猶抱孫   老叟(ろうそう)   衣(い)無く  猶(な)お孫を抱(いだ)く
      野艇鳥翹唯断䌫   野艇(やてい)  鳥翹(つまだ)ちて 唯(た)だ断䌫(だんらん)
      枯桑水齧只危根   枯桑(こそう)  水齧(か)みて    只(た)だ危根(きこん)
      嗟哉生計一如此   嗟哉(ああ)   生計(せいけい)  一(いつ)に此(か)くの如くなるに
      謬入王民版籍論   謬(あやま)って 王民(おうみん)の版籍(はんせき)に入れて論ず

      ⊂訳⊃
              淮水は広くて中洲が多く  見れば寂れた村
              いばらの垣根はまばらで  破れたところが出入口だ
              痩せた鶏が  餌をみつけて仲間を呼び
              八十の翁が  冬着もなしに孫を抱く
              切れた䌫   舟が揺れて鳥が羽ばたき
              桑の木は   水に漬かって根もあらわ
              ああ  こんなに貧しい暮らしなのに
              戸籍に載せられて  厳しく税が課せられる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題「小村」(しょうそん)は小さな村。仁宗の慶暦八年(1048)、四十七歳のとき、淮水を北上して陳州(河南省淮陽県)に赴任したときの作です。「淮」は淮水で、「忽ち村有り」には思いがけなくという語感があります。村は淮水の中洲にありました。
     中四句の対句は村の農家と岸辺のようすです。「老叟」は八十歳くらいの老人で、「衣無く」はまともな衣服もなしにの意味であって裸ではありません。つぎの対句は難解です。「野艇」は野原の川辺にある小舟、「断䌫」は舟のとも綱が切れている状態で、波に揺れています。「鳥翹」は鳥がつまだつこと、驚いて羽ばたくのでしょう。「危根」は土が水に削られて根が露出していることです。
     四句とも農家の貧しさを描いていて結びの二句につながります。結びの「版籍」は戸籍のことで課税台帳でもあります。貧しくて税を課すべきでないのに厳しい税が課されていると政事を批判するのです。 

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     北宋28ー梅堯臣
          詩 癖                 詩 癖

      人間詩癖勝銭癖   人間(じんかん)  詩癖(しへき)は銭癖(せんぺき)に勝(まさ)る
      捜索肝脾過幾春   肝脾(かんぴ)を捜索(そうさく)して  過ぐること幾春(いくしゅん)ぞ
      嚢橐無嫌貧似旧   嚢橐(のうたく)  貧(ひん)の旧に似たるを嫌(いと)う無く
      風騒有喜句多新   風騒(ふうそう)  句の新(あらた)なる多きを喜(この)む有り
      但将苦意摩層宙   但(た)だ苦意(くい)を将(もっ)て層宙(そうちゅう)を摩(ま)せんとし
      莫計終窮渉暮津   終(つい)に窮(きわ)まりて  暮津(ぼしん)を渉(わた)るを計ること莫(な)し
      試看一生銅臭者   試みに看(み)よ  一生  銅臭(どうしゅう)の者
      羨他登第亦何頻   他(そ)の登第(とうだい)を羨(うらや)むこと  亦(ま)た何ぞ頻(しき)りなる

      ⊂訳⊃
              詩に熱中することは  金銭に執着するのにまさる
              詩句に思いを巡らせ  幾年月が過ぎたことか
              財布の中身が    いつも貧しいのを苦にせず
              詩句の新しいのを  よしとした
              苦心に苦心を重ね  自由の境地に至ろうとし
              寂しい晩年の事は  考えもしなかった
              見てごらん      出世のことばかり考えている者が
              科挙に拘るさまの  なんとはなはだしいことか


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「詩癖」(しへき)は詩に没頭する気質。病気で亡くなる前に作られ、みずからを語る詩です。「人間」は人の世、「銭癖」は金銭に執着する人。「肝脾を捜索して」はあれこれ思いを巡らすことで、詩作のことです。はじめの二句で自分の生涯を概観し、さらに詳しく述べます。
     「嚢橐」は財布のこと、「風騒」は国風に代表される『詩経』と屈原の「離騒」に代表される楚辞のことで、あわせて詩文のことになります。貧乏もいとわずに詩句の新しさを追い求めてきたと言うのです。つぎの「苦意」は苦心と同義でしょう。「層宙」は重なる空、天空であり、苦心に苦心を重ねて天空のような自由な境地に達しようと努力したと詠います。
     「暮津を渉る」は日暮れの渡津(渡し場)をとぼとぼ渡ることで、寂しい晩年の比喩です。そして最後の二句で、それでも悔いはないといいたいのでしょうが、屈託した思いも窺われます。
     「銅臭の者」は金銭欲にまみれた者と解され、官僚の世界では出世のことになります。「登第」は科挙に及第すること。「羨他」の他は動詞について目的語を導き出す助字で、科挙及第を羨みほしがることの、といった感じになります。それがなんとはなはだしいことかと嘆くのです。科挙をへずに流入(任官)した自分の官途への思いも窺われる結びになっているとも解されます。

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     北宋29ー蘇舜欽
        往王順山値         王順山に往き
        暴雨雷霆           暴雨雷霆に値う        (前半六句)

      蒼崖六月陰気舒   蒼崖(そうがい)  六月(ろくげつ)  陰気舒(の)び
      一霪暴雨如縄粗   一霪(いちいん)の暴雨(ぼうう)   縄(なわ)の如く粗(そ)なり
      霹靂飛出大壑底   霹靂(へきれき)  飛び出(い)づ  大壑(たいがく)の底
      烈火黒霧相奔趨   烈火(れっか)   黒霧(こくむ)   相奔趨(あいほんすう)す
      人皆喘汗抱樹立   人  皆  喘汗(ぜんかん)  樹(き)を抱(いだ)いて立ち
      紫藤翠蔓皆焦枯   紫藤(しとう)  翠蔓(すいまん)  皆  焦枯(しょうこ)す

      ⊂訳⊃
              蒼く聳え立つ崖に  夏の六月  陰気がひろがる
              降りしきる雨は   太い荒縄のようだ
              雷鳴がとどろき   深い谷底に落ち
              激しい炎と煙が   一気にほとばしる
              人々は息を切らし  汗を流して木にしがみつき
              あたりの藤や蔓は  ことごとく焼け焦げる


     ⊂ものがたり⊃ 蘇舜欽(そしゅんきん:1008ー1049)は綿州塩泉(四川省綿陽市)の人。祖父の代から汴州(河南省開封市)にいたので汴州の人ともいいます。大中祥符元年(1008)、真宗の封禅が行われた年に生まれました。仁宗の景裕元年(1034)に二十七歳で進士に及第し、大理評事にすすみ、古文復興をとなえて詩文の改革につとめます。
     仁宗の康定元年(1040)のころ地震災害の対策で認められ、范仲淹の推薦で集賢校理、監進奏院になり、改革派の若手官僚として活躍します。しかし、直言がわざわいして官職を削られ、職を辞して平江(江蘇省蘇州市)にいって滄浪亭に閑居します。のちに赦されて湖州(浙江省呉興県)の長史になり、仁宗の皇裕元年(1049)に湖州で亡くなりました。享年四十二歳です。
     詩題中の「王順山」(おうじゅんざん)は藍田(陝西省藍田県)の西北にある山です。晩夏の六月、仲間と山歩きをしたときに嵐に遭遇しました。そのようすを詠います。はじめ六句の出だしから一気に本論にはいります。「一霪」は雨が一面に降りつづくさまで、すぐに「霹靂」(雷鳴)が轟いて谷底に落ち、火災が発生しました。豪快に一気に詠いこむ筆致には西崑派の詩を否定する勢いがあります。


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     北宋30ー蘇舜欽
        往王順山値           王順山に往き
        暴雨雷霆             暴雨雷霆に値う      (後半八句)

      逡巡已在天中吼   逡巡(しゅんじゅん)  已(すで)に天中(てんちゅう)の吼(ほ)ゆるに在り
      有如上帝来追呼   上帝(じょうてい)の如きもの有り  来たって追呼(ついこ)す
      震揺巨石当道落   巨石(きょせき)  震揺(しんよう)して道に当たって落ち
      驚嘷時聞虎与貙   驚嘷(きょうこう)  時(とき)に聞く  虎と貙(ちゅ)と
      俄而青巓吐赤日   俄(にわか)にして青巓(せいてん) 赤日(せきじつ)を吐(と)し
      行到平地晴如初   行きて平地に到れば  晴(はれ)  初めの如し
      回首絶壁尚可畏   首(こうべ)を回(めぐ)らせば  絶壁  尚(な)お畏(おそ)る可(べ)し
      吁嗟神怪何所無   吁嗟(ああ)  神怪(しんかい)  何の無き所ぞ

      ⊂訳⊃
              ためらっていると  天空の吼える音に巻きこまれ
              天帝のような者が  追いかけて来るようだった
              巨大な岩石が    ぐらぐら揺れて道に落ち
              驚いて吠えるのは  虎であろうか貙であろうか
              と  思うまもなく   峰の上に真っ赤な太陽があらわれ
              平地に着いた時は 元のように晴れていた
              絶壁を振り返ると  恐怖がよみがえる
              超自然の存在というものは  かならずある


     ⊂ものがたり⊃ 後半八句のはじめ四句は山中が大荒れに荒れるようすです。動こうとして躊躇していると天空に大音響がして、「上帝」(天帝)のようなものが大音声をあげながら追いかけてくるような気がしました。巨大な岩石が転げ落ちてきて道をふさぎ、驚いて吠える猛獣の声がします。ここに天帝の怒りを持ち出しているのは、政事批判を意識しているからでしょう。
     最後の四句では一転して嵐はやみ、雲の晴れ間から顔を出した峰の上に「赤日」(赤い太陽)があらわれます。平地に下りたときには嵐の前と同じ晴天になっていました。山の絶壁を振り返ると恐怖がよみがえり、やはり「神怪」(怪しいもの、超自然の力)は存在すると溜め息をつきます。政事改革を阻む者には天帝の怒りがくだるだろうと言っているのでしょう。

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     北宋31ー蘇舜欽
         対 酒               酒に対す       (前半六句)

      丈夫少也不富貴   丈夫(じょうふ)   少(わか)くして富貴(ふうき)ならず
      胡顔奔走乎塵世   胡(なん)の顔(かんばせ)ありてか  塵世(じんせい)に奔走(ほんそう)せん
      予年已壮志未行   予(よ)  年(とし)  已(すで)に壮(そう)にして  志  未(いま)だ行われず
      案上敦敦考文字   案上(あんじょう)  敦敦(とんとん)として文字(もんじ)を考う
      有時愁思不可掇   時有りて  愁思(しゅうし)  掇(と)る可(べ)からず
      崢腹中失和気   崢(そうこう)たる腹中(ふくちゅう)  和気(わき)を失う

      ⊂訳⊃
              ひとかどの男が   いまだ未熟で裕福でもない
              何の面目があって  この世の役に立てようか
              私はすでに三十歳  志を遂げることもできず
              机に向かって     文字を追いかけているだけだ
              時としてこの胸に   憂いが満ちて収拾できず
              積もり積もって    いらいらした気分になる


     ⊂ものがたり⊃ 蘇舜欽の本貫は李白と同じで、同郷人です。詩題「酒に対す」には李白とのつながりが感じられます。友人の欧陽脩も李白を高く評価していました。詩中に「予 年 已に壮にして」とあるので、進士に及第して三年ほどたった三十歳ころの作品でしょう。仕事で太行山中にゆき、酒宴の席で披露した詩と思われます。
     はじめに二句の序があり、自分の心境をのべます。「丈夫」は一人前の男。「少くして」はすでに三十歳になっているがまだ未熟という意味でしょう。つづく四句は政事改革がうまくすすまず、苛立つ気持ちを述べます。「案」は机、「敦敦」は惇とつうじ、手厚いという意味があります。くそ真面目という感じでしょう。書物を読むだけの毎日で、胸に「愁思」(憂い)が溜まって「和気」(なごやかな気分)を失うというのです。

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     北宋32ー蘇舜欽
         対 酒               酒に対す       (後半八句)

      侍官得来太行巓   官(かん)に侍(じ)して来たるを得たり  太行(たいこう)の巓(てん)
      太行美酒清如天   太行の美酒   清らかなること天の如し
      長歌忽発涙迸落   長歌(ちょうか)  忽ち発して  涙(なんだ)  迸落(ほうらく)し
      一飲一斗心浩然   一(ひと)たび一斗(いっと)を飲んで  心   浩然(こうぜん)
      嗟乎吾道不如酒   嗟乎(ああ)    吾(わ)が道  酒に如(し)かず
      平褫哀楽如摧朽   平らかに哀楽(あいらく)を褫(うば)うこと   朽(きゅう)を摧(くだ)くが如し
      読書百車人不知   書を読むこと百車(ひゃくしゃ)なるも  人  知らず
      地下劉怜吾与帰   地下の劉怜(りゅうれい)  吾(わ)れと与(とも)に帰(き)せん

      ⊂訳⊃
              役所の仕事で     太行山頂に来ることができ
              銘酒は清らかで    天のようだ
              思わず歌声をあげ  涙はほとばしり
              斗酒を飲みほせば  心は晴れて大きくなる
              私が目指している道は   酒におよばず
              酒は朽木を折るように   心をぬぐい去る
              山のように書物を読むが  人は私をわかってくれない
              だからわたしは    地下の劉怜に従うのだ


     ⊂ものがたり⊃ 後半八句のはじめ四句は、太行山に来て酒を飲むところです。地元の銘酒を飲めば思わず歌いたくなり、涙がながれ、心は「浩然」(気宇壮大)になります。結び四句の「吾が道」は政事改革の道でしょう、酒は「朽を摧く」ように心を平らかにしてくれますが、志を遂げることはできず、「和気」を失います。「百車」(百台の車)に載るほど沢山の書物を読んでも、人に認めてもらえず、だから私は「地下の劉怜」に帰せんと結びます。
     劉怜は竹林の七賢のひとりで、酒の徳を褒め称える「酒徳の頌」を書きました。自分の志を分かってくれる人物がいないから、酒を飲んで鬱屈を紛らすのだと詠うのです。

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     北宋33ー蘇舜欽
       淮中晩泊犢頭           淮中 晩に犢頭に泊す

      春陰垂野草青青   春陰(しゅんいん)   野に垂(た)れて草(くさ)青青(せいせい)たり
      時有幽花一樹明   時に幽花(ゆうか)の  一樹(いちじゅ)に明らかなる有り
      晩泊孤舟古祠下   晩(ばん)に孤舟を泊す  古祠(こし)の下(もと)
      満川風雨看潮生   満川(まんせん)の風雨  潮(うしお)の生ずるを看(み)る

      ⊂訳⊃
              雨雲は野原に垂れ下がり  草は青々と茂っている

              時に花盛りの樹が現れて  春はわが目を驚かす

              日暮れて舟を      古い祠の辺につなぎ

              川一面の風雨のなか  潮が満ちて来るのを見詰めている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「淮」(わい)は淮水のことです。「犢頭」(とくとう)は地名ですが未詳。平江(江蘇省蘇州市)に通じる運河の船着場のひとつと思われます。淮水の近くにあるのでしょう。
     起承句は運河を航行しているときの風景で、野原には雨雲が低く垂れ、草が青々と茂っています。そんな運河の堤の上に、花をいっぱいつけた木が突然現れて過ぎていきます。動きのある描写です。
     転結句は一転して、河畔の祠の下に舟をつなぎ一夜を過ごしたときの憶いです。川一面に雨の降るなか、満ち潮に押された水が増水してきます。その迫力のあるようすを見詰めているのです。後半には静かだが胸にせまる動きがあり、作者の心情を映し出しているものと思われます。
     

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     北宋34ー蘇舜欽
       初晴游滄浪亭          初めて晴れ滄浪亭に游ぶ

      夜雨連明春水生   夜雨(やう)  明(めい)に連なって  春水(しゅんすい)生じ
      矯雲濃暖弄微晴   矯雲(きょううん)  濃暖(のうだん)  微晴(びせい)を弄(ろう)す
      簾虚日薄花竹静   簾(れん)虚(むな)しく  日薄く  花竹(かちく)静かなり
      時有乳鳩相対鳴   時に乳鳩(にゅうきゅう)有り   相対(あいたい)して鳴く

      ⊂訳⊃
              雨は明け方まで降り  春の水が池にみなぎる

              雲は艶めく暖かさで  晴れ間の光とたわむれる

              簾には薄い日が射し  花も竹も静かである

              ふと見ると  子鳩が向きあって鳴いていた


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「滄浪亭」(そうろうてい)は平江(江蘇省蘇州市)にあって、もと呉越王の池館でした。それを蘇舜欽が買い取って滄浪亭と名づけました。辞職して平江に住んで間もなくのころの作品で、「春水」は春の雪解け水のことです。雪解けの水で川は増水し、それが夜明けまで降りつづいた雨でいっそう多くなっていました。
     承句は雨後の景色です。転句は簾を透かしてみえる庭のようすで、繊細な感性がうかがえます。「乳鳩」は子鳩のこと、ふと見ると庭で子鳩が向きあって鳴いていました。それは無邪気に遊ぶ子供たちの姿とも考えられます。


           ☆ 近く、陶淵明を削除します。
             陶淵明(ティェンタオの自由訳漢詩1639ー1799)
                  (掲載期間 2013.4.1ー10.4)
             以上で、掲載ブログは唐代以降のみになります。
     

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     北宋35ー蘇舜欽
         夏 意                夏 意

      別院深深夏簟清   別院(べついん)  深深(しんしん)として夏簟(かてん)清し
      石榴開遍透簾明   石榴(せきりゅう)  開くこと遍(あまね)くして  簾(れん)を透(とお)して明らかなり
      樹陰満地日当午   樹陰(じゅいん)   地に満ちて  日  午(ご)に当たり
      夢覚流鶯時一声   夢覚めて  流鶯(りゅうおう)    時(とき)に一声(いっせい)

      ⊂訳⊃
              離れの庭は静かで   竹の蓆がすがすがしい

              石榴の花は咲き揃い 簾を通してはっきりみえる

              庭一面に樹木の影   日はまさに正午の時

              夢から覚めて聞く    鶯の鳴き声ひとつ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「夏意」(かい)は夏の雰囲気、気分といった意味でしょう。「別院」は離れのことで、滄浪亭は広く離れもありました。「夏簟」(夏の竹むしろ)は夏の風物であり、その上に横になって昼寝をし目が覚めたところでしょう。
     離れは静かで庭の石榴は花ざかりです。石榴の花の赤い色が、簾を透してくっきりとみえます。丁度正午の時刻で、庭一面に樹木の影がさし、鶯の鳴き声が聞こえてきました。その一声で夢から覚めたような心地がしたと詠います。
     この詩は名作の誉れが高く、くっきりした印象をあたえます。一句目は夏の真昼の静けさ、二句目は石榴の燃えるような赤、三句目は光と影の対象、四句目は鳥の声。「夢覚めて」は印象的で、比喩と考えることもできるでしょう。

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