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tiandaoの自由訳漢詩

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     晩唐3ー許渾
         秋 思               秋 思

      樹西風枕簟秋   樹(きじゅ)の西風(せいふう)  枕簟(ちんてん)の秋
      楚雲湘水憶同遊   楚雲(そうん)  湘水(しょうすい)  同遊(どうゆう)を憶(おも)う
      高歌一曲掩明鏡   高歌一曲(こうかいっきょく)  明鏡(めいきょう)を掩(おお)う
      昨日少年今白頭   昨日(さくじつ)の少年  今  白頭(はくとう)

      ⊂訳⊃
              庭の樹に吹く西の風  枕辺に秋がしのび寄る

              楚にわく雲よ湘水よ  かつての日々を想い出す

              高らかに歌を詠うも  鏡の蓋は閉じておこう

              昨日までの若者は   いまや白髪の翁なのだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「秋思」(しゅうし)は秋の思い、初秋の感慨に人生の秋を重ねます。「樹」は崑崙山の北に生える神話の木で、ここでは樹木の美称です。「枕簟」は枕と竹で編んだ筵のことで、楚地の夏を思わせます。と同時に親しい女性との繋がりも連想させます。「湘水」は洞庭湖にそそぐ川で、「楚雲 湘水」と楚地の想い出に呼びかけます。起承の対句はみごとに決まって、名句といえるでしょう。
     「同遊」は共に遊んだ昔の意味ですが、相手は女性のようです。老いて声高らかに一曲を歌いますが、かつての若者もいまは白髪頭、鏡の蓋は閉じて見ないようにしようと詠います。なお「少年」は中国では二十代のことで、十代は弱年といいます。だから「若者」と訳しました。

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     晩唐4ー陳陶
         隴西行                隴西行

      誓掃匈奴不顧身   誓って匈奴(きょうど)を掃(はら)わんとして身を顧(かえり)みず
      五千貂錦喪胡塵   五千の貂錦(ちょうきん)  胡塵(こじん)に喪(うしな)う
      可憐無定河辺骨   憐(あわ)れむべし  無定河辺(むていかへん)の骨
      猶是春閨夢裏人   猶(な)お是(こ)れ  春閨(しゅんけい)夢裏(むり)の人

      ⊂訳⊃
              断じて匈奴を追い払おうと  身命を顧みず

              五千の将兵は  胡地の塵となる

              憐れなるかな  無定河のほとりの骨は

              故郷の若妻の  夢に現れる人なのだ


     ⊂ものがたり⊃ 陳陶(ちんとう)は生没年不詳です。剣浦(福建省)の人といいます。武宗の会昌元年(841)ころに上京し、進士に応じましたが及第せず、宣宗の大中年間(847ー860)、乱を避けて洪州西山(江西省南昌市)にゆき、神仙の術を学んだといいます。
     詩題の「隴西」(ろうせい)は隴山の西、西域遠征の詩です。「貂錦」は将兵の身につけるもので、将兵を意味します。「無定河」は国境を流れる川で、戦死した兵は川のほとりで白骨と化しています。だが、それらの骨は、故郷で帰りを待っている若妻の夢に現れる人の骨なのだと詠うのです。
     盛唐の辺塞詩の流れをくむ西方遠征の詩も、夢に現れる人の白骨の詩になっています。 

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     晩唐5ー趙嘏
        江楼書感            江楼にて感を書す

      独上江楼思渺然   独り江楼(こうろう)に上れば  思い渺然(びょうぜん)たり
      月光如水水連天   月光(げっこう)  水の如く  水  天に連(つら)なる
      同来翫月人何処   同(とも)に来たりて  月を翫(もてあそ)びし人は何(いず)れの処ぞ
      風景依稀似去年   風景  依稀(いき)として去年に似たり

      ⊂訳⊃
              川辺の楼にひとり上れば   胸の思いは果てしなく拡がる

              月の光は水のように清く    川は流れて天につらなる

              一緒に月を眺めたあの人は どこにいるのだろうか

              景色だけはかつての夜と   いささかも変わりないのに


     ⊂ものがたり⊃ 趙嘏(ちょうか:806?ー852?)は山陽(江蘇省淮安県)の人。武宗の会昌四年(844)、三十九歳のころ進士に及第します。受験中郷里に残してきた愛妾が地もとの太守に見染められたと聞き、悲しむ詩を書いて太守に送りました。詩の出来栄えに感心した太守は妓女を都へ送りましたが、女は都に着いて二晩で死んだといいます。大中年間に渭南(陝西省渭南県)の県尉になり、文名は杜牧に評価されましたが官途は不遇でした。宣宗の大中六年(825)ころ亡くなり、享年四十五歳くらいです。
     詩題の「江楼にて感を書す」は川辺の楼で思いを書きつけるという意味です。高楼の宴会で詠い、壁に書きつけた作品でしょう。「渺然」は広く果てしないさま、「翫月」は月を眺めて楽しむことで、月見のことを観月または玩月といいます。
     「依稀」はそっくり、よく似ている意味で、風景は去年と変わらないのに、あの人だけはここにいないと嘆くのです。

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     晩唐6ー温庭筠
       商山早行            商山を早く行く

      晨起動征鐸     晨(あした)に起きて  征鐸(せいたく)を動かす
      客行悲故郷     客行(かくこう)   故郷を悲しむ
      鶏声茅店月     鶏声(けいせい)  茅店(ぼうてん)の月
      人迹板橋霜     人迹(じんせき)  板橋(ばんきょう)の霜
      槲葉落山路     槲葉(こくよう)   山路(さんろ)に落ち
      枳花明駅牆     枳花(きか)    駅牆(えきしょう)に明らかなり
      因思杜陵夢     因(よ)って思う  杜陵(とりょう)の夢
      鳧雁満回塘     鳧雁(ふがん)   回塘(かいとう)に満つ

      ⊂訳⊃
              朝早く起きて  鈴を鳴らして馬車を出す
              旅する身には  いとど故郷が偲ばれる
              鶏鳴に促され  茅葺きの旅籠の上に月ひとつ
              板橋の霜には はやくも人の足跡がある
              槲の落ち葉が  山路に散り
              枳殼の花が   宿場の土塀に映えている
              想い出すのは  昨日の夜の杜陵の夢
              曲がりくねった堤の池に  鴨や雁が群れていた


     ⊂ものがたり⊃ 温庭筠(おんていいん:812?ー866)は太原祁(き:山西省祁県)のひと。李商隠とほぼ同じ年に生まれ、亡くなったのは李商隠の死の八年後です。家は名家で、若くして文才をあらわし、琴を奏で、笛を吹き、紅灯の巷に流連して行いが正しくありませんでした。
     進士に及第できず、襄陽節度使徐商(じょしょう)に取り立てられますが、徐商の失脚によって方城(河南省方城県)の県尉になります。幾つかの県尉を歴任したあと国子助教になります。宣宗の大中十年(856)、四十四歳のころ召されて試験を受けますが、そのとき天子に失礼があったとして隨県(湖北省隨県)の県尉に流されます。懿宗の咸通七年(866)に亡くなり、享年五十五歳くらいです。
     詩題「商山を早(あさはや)く行く」の商山は陝西省の山で、武関道をゆく途中、都を遠ざかるときの作と思われます。五言律詩、旅の詩の名作と有名です。「征鐸」は旅行用の馬車につける大鈴で、鈴を鳴らして馬車を出すのです。
     中四句、二組の対句は早朝の旅立ちのときの風景です。屋根の上の明け方の月、板橋の上の霜についている足跡、山路に散っている槲(かしわ)の葉、路傍に咲いている枳殼(からたち)の花が描かれます。結びは「杜陵の夢」。杜陵は長安の東南郊にあり、北に曲江をのぞむ風光明美の遊楽地です。去っていく都を懐かしむのでしょう。

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     晩唐7ー温庭筠
         楊柳枝               楊柳枝

      館娃宮外鄴城西   館娃宮外(かんあきゅうがい)  鄴城(ぎょうじょう)の西
      遠映征帆近払堤   遠く征帆(せいはん)に映じ   近く堤(つつみ)を払う
      繋得王孫帰意切   王孫(おうそん)    帰意(きい)の切なるを繋ぎ得たり
      不関春草緑萋萋   春草(しゅんそう)の 緑萋萋(せいせい)たるに関(かかわ)らず

      ⊂訳⊃
              館娃宮外 鄴城の西  柳の枝は

              遠くは帆に映え   近くは堤のおもてを払う

              帰心の募る私を  放浪の旅に誘うのだ

              故郷の野は緑色  春草が茂っていても関係はない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「楊柳枝」(ようりゅうし)は楊柳枝詞と同題で、当時流行の詞題でした。掲詞は同題の其の五で、「館娃宮」は春秋の呉王夫差(ふさ)が寵妃西施(せいし)を住まわせた宮殿です。「鄴城」は三国魏の曹操が築いた都城で、館娃宮のあった蘇州西郊の霊厳山とは遠く離れています。温庭筠は往年の栄華の跡をふたつ並べて、そこに生えている楊柳を描くのです。
     後半は楊柳にまつわる思い出。「王孫」は楚辞「招隠士」の詩句「王孫 遊んで帰らず 春草生じて萋萋たり」を踏まえています。自分を王孫(貴公子)になぞらえ、「萋萋たるに関らず」といいます。古里には春草が青々と茂っているが、そんなことにはお構いなく、楊柳が故郷を思う私の心を繋ぎとめる。つまり放浪の旅へいざなうと言うのです。 

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     晩唐8ー温庭筠
         瑤瑟怨               瑤瑟怨

      冰簟銀床夢不成   冰簟(ひょうてん)  銀床(ぎんしょう)  夢(ゆめ)成らず
      碧天如水夜雲軽   碧天(へきてん)   水の如く  夜雲(やうん)軽(かろ)し
      雁声遠過瀟湘去   雁声(がんせい)  遠く瀟湘(しょうしょう)へ過(わた)って去る
      十二楼中月自明   十二楼中(じゅうにろうちゅう) 月 自(おのず)から明らかなり

      ⊂訳⊃
              涼しい竹蓆  豪華な寝台  眠れない夜

              夜空は水のように澄んで  雲は軽やか

              ひと声 雁は鳴いて  遥かな瀟湘の地へ向かうのだろうか

              高楼に独り住む身を  月は無情に照らすだけ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「瑤瑟怨」(ようしつえん)は楽府題にならう題で、玉飾りの瑟に託した怨情という意味でしょう。「簟」は竹むしろ、「銀床」は銀かざりのある寝台で、晴れた夏の夜のことです。女性は眠られない夜を過ごしています。
     そのとき雁が一声鳴いて飛んでゆきました。「瀟湘」は洞庭湖の南一帯のことで、そこにある衝山は渡雁の南限とされていました。そこに思う人がいるという想定でしょう。「十二楼」は崑崙山にあるとされる十二層の玉楼のことですが、ここでは女性が住んでいる家を雅していうものです。ひとり寝の部屋を月が照らすだけだと閨怨の情で結びます。

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     晩唐9ー温庭筠
        夢江南            夢江南

      梳洗罷         梳洗(そせん)し罷(おわ)って
      独倚望江楼      独り倚(よ)る  望江楼(ぼうこうろう)
      過尽千帆皆不是   過ぎ尽くす千帆(せんぱん)  皆(みな)是(こ)れならず
      斜暉脈脈水悠悠   斜暉(しゃき)は脈脈たり    水は悠悠たり
      腸断白蘋洲      腸(はらわた)は断(た)つ    白蘋(はくひん)の洲(す)

      ⊂訳⊃
              髪をととのえ
              ひとり高楼に佇んで   江を見おろす
              過ぎゆく無数の舟に  お姿はなく
              夕陽は西に傾き続け  流れ去る水
              浮草の花咲く浮洲よ  腸は千切れそう


     ⊂ものがたり⊃ 李商隠は七言律詩の厳格な形式に、それまでの詩世界ではタブーとされてきた現実の恋を濃密かつ生真面目に描き込みました。だから李商隠の初期の詩「無題」(平成24年1月24日ー2月2日などのブログ参照)は晦渋とならざるを得ません。
     ところが温庭筠は白居易が広めた詞に恋を持ち込んで、閨怨詩の系譜を一新します。新時代の歌謠「詞」(ツー)は温庭筠によって確立したといっても過言ではありません。
     詩題の「夢江南」(ぼうこうなん)は白居易に「憶江南」と題する詞(平成23年2月6日ー8日のブログ参照)があり、向こうを張るものでしょう。白居易が「江南好」(江南好し)と詠っているのに対して、温庭筠の詞はみごとな閨怨の歌になっています。
     「梳洗」は髪をくしけずることと顔を洗うこと。身づくろいをして高楼の欄干にもたれて長江を見おろすのです。「望江楼」は楼閣の名というよりは、江(かわ)を見わたす建物といった感じでしょう。
     「皆是れならず」はいずれも思う人が乗っている船ではないということで、待ち人きたらずです。「脈脈」はつづくことの形容、「悠悠」は流れることの形容で、悩みがつづく意味もあります。だから「斜暉は脈脈たり 水は悠悠たり」は待つ身の辛さの比喩となります。「白蘋」は白い花の咲く浮草。浮草が集まって浮洲になっており、わが身は寄る辺ない浮洲のようなものだと嘆くのです。

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     晩唐10ー温庭筠
         菩薩蛮               菩薩蛮

      玉楼明月長相憶   玉楼(ぎょくろう)  明月  長(とこし)えに相憶(あいおも)う
      柳糸裊娜春無力   柳糸(りゅうし)   裊娜(じょうだ)として  春  力無し
      門外草萋萋      門外(もんがい)  草  萋萋(せいせい)たり
      送君聞馬嘶      君を送って  馬の嘶(いなな)くを聞く

      画羅金翡翠      画羅(がら)  金翡翠(きんひすい)
      香燭銷成涙      香燭(こうしょく)は銷(と)けて涙(なんだ)と成る
      花落子規啼      花は落ち  子規(しき)は啼(な)き
      緑窓残夢迷      緑窓(りょくそう)に  残夢(ざんむ)迷う

      ⊂訳⊃
              高楼に明月  いつまでも君を想う
              柳の枝は   なよなよと揺れてけだるい春
              門外に    草は青々と茂り
              見送れば   嘶く馬の声がする

              薄絹の布団に  金色の翡翠の刺繍
              蝋燭はとけて  涙となる
              花は散り     杜鵑は鳴いて
              窓のあたりを  夢の余韻がさまようであろう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「菩薩蛮」(ぼさつばん)は開元のころに西域からもたらされたイスラム教徒の歌曲で、その曲に合わせて替え歌の詞を作ったのがこの詞です。題と内容は関係ありません。
     女性が主人公の双調(二段構えの詞)です。春の明月の夜、女性は勾欄にもたれてもの思いにふけっています。上片二句目は柳の描写ですが、女性の姿と重なって優婉です。「柳糸」(柳の枝)は折楊柳を意味し、別れをみちびく語でもあります。三四句は男を見送る場面で、男は青草の茂るなかを騎馬で去っていき、馬のいななく声が聞こえてきます。
     下片で女性は部屋にもどって一度ねむり、夜中に目が覚めます。「画羅」(模様のある薄絹)の布団にはつがいの「翡翠」(かわせみ)が金糸で刺繍されており、燭台の蝋燭は融けて涙のように垂れ下がっています。ここはひとり寝の寂しさを詠う定石の詩句です。
     やがて花は散り、「子規」(杜鵑・ほととぎす)が鳴き、部屋の窓辺に見残した夢の余韻がさまようであろうと優雅に詠います。

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     晩唐11ー曹鄴
         官倉鼠               官倉の鼠

      官倉老鼠大如斗   官倉(かんそう)の老鼠(ろうそ)  大(だい)なること斗(と)の如し
      見人開倉亦不走   人の倉(くら)を開くを見るも  亦(ま)た走らず
      健児無糧百姓飢   健児(けんじ)  糧(かて)無く  百姓(ひゃくせい)飢うるに
      誰遺朝朝入君口   誰(たれ)か   朝朝(ちょうちょう)  君の口に入ら遺(し)むる

      ⊂訳⊃
              官の倉庫のお鼠は  肥えて一斗桝のようだ

              扉が開いても     逃げようともしない

              兵士に食糧がなく  民はみな飢えているのに

              誰が毎日食べ物を  口に入れてやっているのか


     ⊂ものがたり⊃ 晩唐といっても大中年間(847ー859)はまだ、詩はいきいきと息づいていました。この時代に活躍した詩人に曹鄴、劉駕、于武陵、皇甫松、女流の魚玄機がいます。
     曹鄴(そうぎょう:816?ー875?)は出生地不詳。宣宗の大中四年(850)に三十五歳くらいで進士に及第します。太常博士、詞部郎中をへて洋州刺史になり、僖宗の乾符二年(875)ころ亡くなりました。享年六十歳くらいです。
     詩題の「官倉」は国営の倉庫、米蔵でしょう。古来鼠は貪欲な代官に喩えられ、ここでも国家に寄生する官吏をいいます。「老鼠」の老は尊称で、皮肉を込めて尊称でよぶのです。兵隊も民衆も飢えているのに、官吏だけが一斗桝のように肥えているのは誰のせいかと政府を批判します。ここには諷諭詩の伝統が、露骨な口吻で生きています。

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     晩唐12ー劉賀
        牧童              牧童

      牧童見客拝     牧童(ぼくどう)  客(かく)を見て拝すれば
      山果懐中落     山果(さんか)   懐中(かいちゅう)より落つ
      尽日駆牛帰     尽日(じんじつ)  牛を駆(か)って帰る
      前渓風雨悪     前渓(ぜんけい) 風雨(ふうう)悪(あ)し

      ⊂訳⊃
              牧童が  旅の私にお辞儀をすると

              懐から  山の木の実がころげ出る

              一日中  牛を追って帰るところだ

              むこうの谷間に  あやしげな空模様


     ⊂ものがたり⊃ 劉賀(りゅうが:822ー?)は出生地不詳です。大中六年(852)に三十一歳で進士に及第し、宣宗に自作の楽府詩十章を献じたといいます。
     起句の「客」は旅人のことですが、作者自身でしょう。牧童がお辞儀をした途端、ふところから山の木の実が転げ出ます。ほほ笑ましい情景です。しかし、結句に「前渓 風雨悪し」とあり、「風雨」は嵐(和製漢字)を意味します。牧歌的な山里に動乱が近づいているのを感じさせる詩です。

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     晩唐13ー于武陵
        勧酒              酒を勧む

      勧君金屈巵     君に勧(すす)む  金屈巵(きんくっし)
      満酌不須辞     満酌(まんしゃく)  辞するを須(もち)いず
      花発多風雨     花(はな)発(ひら)けば  風雨(ふうう)多く
      人生足別離     人(ひと)生まれては   別離(べつり)足(おお)し

      ⊂訳⊃
              どうだ  この金杯(さかずき)になみなみと

              つぐが  遠慮はいらないぞ

              花に風雨(あらし)があるように

              人に別離(わかれ)はつきものだ


     ⊂ものがたり⊃ 于武陵(うぶりょう:810ー?)は杜曲(陝西省西安市の南郊)の人。名を鄴(ぎょう)といい、武陵は字(あざな)です。大中九年(855)のころ四十六歳くらいで進士に及第しますが、官途をあきらめ、琴を携えて諸国を放浪します。易者になるなどして暮らし、洞庭湖付近の風景を愛して湖辺に定住したいと思いますが果たせず、嵩山の南に隠棲しました。没年は不明です。
     于武陵はこの一首が『唐詩選』に載ったことで名を残します。「金屈巵」は黄金製の杯で、曲がった把手のついた椀形の大杯です。同型と目される酒器が何家村の穴倉から出土しています。一帯は長安の興化坊の跡で、一角に章懐太子の子李守礼(りしゅれい)の子孫の邸宅がありました。
     金屈巵は一般の酒席に用いるものではなく、ここでは酒宴の豪華な雰囲気を出すために用いたのでしょう。転結句は対句になっていますので、結句の「人生」は「人生まれては」と訓じるのがよいとする説に従いました。
     この詩には井伏鱒二の『厄除け詩集』にカナ訳がありますので、つぎに掲げます。

           コノサカヅキヲ受ケテクレ
           ドウゾナミナミツガシテオクレ
           ハナニアラシノタトヘモアルゾ
           「サヨナラ」ダケガ人生ダ

     井伏訳は人口に膾炙しており、後半二句は名訳として名高いのでご存じでしょう。ただし、豪華な酒宴の気分がうまく訳されていないので、原詩よりは哀愁のまさった詩になっているとの評があります。

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     晩唐14ー皇甫松
         採蓮子                採蓮子

      菡萏香連十頃陂   菡萏(かんたん)  香(かおり)は連なる十頃(じっけい)の陂(は)
      小姑貪戲採蓮遅   小姑(しょうこ)   戲(ぎ)を貪(むさぼ)りて採蓮(さいれん)遅し
      晩来弄水船頭湿   晩来(ばんらい)  水を弄(ろう)して船頭湿(うるお)い
      更脱紅裙裹鴨児   更に紅裙(こうくん)を脱して鴨児(おうじ)を裹(つつ)む

      ⊂訳⊃
              蓮の花のかおりが  湖面いっぱいに広がり

              少女は遊びに夢中 仕事ははかどらない

              日暮れになるまで  水と戯れて船頭も濡れ

              紅い裙をはずして  子鴨をつかまえた


     ⊂ものがたり⊃ 皇甫松(こうほしょう)は生没年不詳。睦州新安(浙江省建徳県)の人といいます。韓愈の高弟皇甫(こうほしょく)の子で、大中年間に詩名がありました。詩題の「採蓮子」(さいれんし)は蓮採り人の意味ですが、詠われているのは「小姑」(小女)のようです。
     「菡萏」は蓮の花、「十頃」は五十六アール、「陂」は自然にできた湖沼をさし、人工のものを池といいます。「裙」は裳裾、スカートのことですが、「更に紅裙を脱して鴨児を裹む」の一句は意味深長です。採蓮摘菱(さいれんてきりょう)は若者の恋の場でもありました。

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     晩唐15ー魚玄機
       江陵愁望有寄         江陵の愁望 寄する有り

      楓葉千枝復万枝   楓葉(ふうよう)千枝(せんし)  復(ま)た万枝(ばんし)
      江橋掩映暮帆遅   江橋(こうきょう)に掩映(えんえい)して  暮帆(ぼはん)遅し
      憶君心似西江水   君を憶(おも)えば 心は西江(せいこう)の水に似たり
      日夜東流無歇時   日夜(にちや)    東に流れて歇(や)む時(とき)無し

      ⊂訳⊃
              楓の枝葉が  鬱蒼と伸び

              橋を覆って  船は日暮れになってももどらない

              あの方を想う心は  西江の水のようだ

              昼も夜も    東に流れてとどまることがない


     ⊂ものがたり⊃ 魚玄機(ぎょげんき:844?ー868)は長安(陝西省西安市)の人。妓楼に育って員外郎李億(りおく)の小婦(妾)になり、各地を旅します。李億と別れたあと長安の咸宜観の女道士になり、自由奔放な生き方をしました。
     そのころ緑翹(りょくぎょう)という侍婢を雇っていましたが、「名慧有色」の美少女でした。懿宗の咸通九年(868)、魚玄機は男のことで緑翹を嫉妬し、激しく笞打って死なせました。そのため殺人の罪に問われて処刑されました。享年二十五歳くらいです。
     掲げる詩には「江陵愁望寄子安」と題するテキストがあり、子安(しあん)は李億の字(あざな)です。だから、二人で旅をして江陵(湖北省江陵県)に留まったときの作と思われます。李億が何かの用件で魚玄機を江陵に残して出かけ、その帰りを待つときの詩でしょう。
     「西江」は長江と思われますので、「江橋」は江陵の渡津近くの小川に架かっていた橋でしょう。起句の「楓葉千枝 復た万枝」は江橋付近の情景であると同時に、ひとりで恋人の帰りを待つ女の胸の内を喩えるものと解されます。

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     晩唐16ー魚玄機
         秋怨                 秋怨

      自歎多情是足愁   自(みずか)ら歎く   多情(たじょう)は是(こ)れ足愁(そく  しゅう)なるを
      況当風月満庭秋   況(いわ)んや風月  満庭(まんてい)の秋に当たるをや
      洞房偏与更声近   洞房(どうぼう)  偏(ひと)えに更声(こうせい)に近し
      夜夜燈前欲白頭   夜夜(よよ)    燈前(とうぜん)  白頭(はくとう)ならんと欲す

      ⊂訳⊃
              自らなげく  私の思いは愁いに満ちていると

              清風と明月  庭一杯の秋になれば愁いはまさる

              閨の近くで  時刻を報せる太鼓の音

              灯火の前で  夜ごと老いを見詰める私です


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「秋怨」(しゅうえん)は秋の怨み。秋はものごとの衰える季節ですので、わが身の衰えを嘆きます。李億と別れたあとの心情を詠うものでしょう。「多情」は浮気っぽいという意味ではなく多感、心に思うことが多いということです。「足愁」は愁いに足る、足るは満ちることを意味します。
     「風月」は清風と明月で、秋の象徴です。それが「満庭」(庭いっぱい)の秋に重なります。「洞房」は女性の寝室、「更声」は時刻を知らせる太鼓の音で、孤独な夜の象徴です。魚玄機は二十五歳で死罪になっていますので、白髪には遠いはずです。だから愁いの深さを老いに喩えて訴えるのでしょう。 

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     晩唐17ー羅隠
          蜂                蜂

      不論平地与山尖   論(ろん)ぜず  平地と山尖(さんせん)とを
      無限風光尽被占   無限の風光(ふうこう) 尽(ことごと)く占めらる
      采得百花成蜜後   百花を采(と)り得て   蜜(みつ)を成すの後(のち)
      為誰辛苦為誰甜   誰(た)が為に辛苦し  誰が為に甜(あま)からしむ

      ⊂訳⊃
              平地であろうと   山であろうと

              見わたす限りは  ことごとく蜂のもの

              あらゆる花を飛びまわり  蜜を集める

              いったい誰のために働き  甘い汁を誰に飲ませるのか


     ⊂ものがたり⊃ 宣宗の大中年間は無為無策の時代でした。杜牧が亡くなった六年後の大中十二年(858)に李商隠が亡くなります。その前年ころから江南で藩鎮の兵乱が起きていました。兵の反乱は待遇への不満が原因でしたが、大中十三年(859)に浙東藩鎮の海岸地帯で裘甫(きゅうほ)の乱が発生します。その年八月、宣宗が崩じ、懿宗が即位します。
     裘甫の乱の九年後、咸通九年(868)に龐(ほうくん)の乱が発生します。桂州(広西壮族自治区桂林市)にはじまった兵乱は、湖南をへて徐州(江蘇省徐州市)に達し、盗賊や農民を巻き込んだ民衆蜂起に拡大します。こうした時期に異色の詩人羅隠(らいん)があらわれます。
     羅隠(833ー909)は余杭(浙江省杭州市)の人とも新登(浙江省桐廬県)の人ともいいます。咸通元年(860)、二十八歳のころ長安に出て進士に挑みますが、時世を諷刺し権貴に逆らう風があり、落第しつづけます。藩鎮の乱から黄巣の大乱となる時期で、乱のために科挙が中止になる年もありました。
     僖宗の中和四年(884)、羅隠が五十二歳のとき黄巣の乱は終わりを告げますが、唐朝の権威は地に落ちてしまいます。羅隠は乱のあいだ湖南その他を漂泊し、妻も身よりも死に果てたといいます。
     乱後の光啓年間(885ー887)に鎮海軍節度使銭鏐(せんりょう)をたより、その推薦で銭塘(浙江省杭州市)の県令になります。著作郎、司部員外郎などをへて鎮海軍節度掌書記になりますが、天祐四年(907)、七十五歳のとき、唐が滅んでしまいました。銭鏐が呉越国を建てて呉王になると、羅隠は呉越国の給事中になり、呉越の天宝二年(909)、塩鉄発運使のときに亡くなります。享年七十七歳です。
     詩「蜂」は詠物詩ですが、蜂を借りた諷刺詩です。せっせと蜜を集める蜂を借りて諷諭しているのは何かについては議論があります。後半の転句からなりふり構わずに金儲けに励む人、また結句から人を働かせて自分は働かずに楽な暮らしをする人などの説があります。
     承句の「無限の風光 尽く占めらる」に着目すれば、天下にはびこってあらゆるところから税を集める役人と税金で安楽な暮らしをしている政府高官を風刺していると見ることもできます。羅隠の詩風は幅広く、諷諭詩を書くかと思えば人生の機微に触れる詩もかきました。

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     晩唐18ー羅隠
          柳                  柳

      灞岸晴来送別頻   灞岸(はがん)  晴れ来たりて送別(そうべつ)頻(しき)り
      相偎相倚不勝春   相偎(あいよ)り相倚(あいよ)り  春に勝(た)えず
      自家飛絮猶無定   自家(じか)の飛絮(ひじょう)   猶(な)お定まる無く
      争解垂糸絆路人   争(いか)で解(よ)く垂糸(すいし)の路人(ろじん)を絆(つな)がん

      ⊂訳⊃
              灞水の岸辺は晴れあがり  送別の人で犇めいている

              肩を抱き合い寄り添う姿   春の風情もおよばない

              柳の出す柳絮でさえ  ゆくえも知らず飛び散るのに

              垂れた小枝で旅人を  どうして絆ぎ止められようか


     ⊂ものがたり⊃ 「柳」は詠物詩の代表的な木ですが、羅隠の詠物詩は皮肉に満ちています。「灞岸」は灞水の岸辺、長安から東へ旅立つ人の送別の場所として有名でした。承句は別れを惜しんで抱き合う人々と春風に吹かれて揺れる柳を重ねて詠います。
     「飛絮」は春に飛ぶ柳絮、「垂糸」は垂れている柳の小枝です。柳の枝を折って旅立つ人に贈る習わしでしたが、柳の出す柳絮でさえゆくえ知らずに飛び散るのに、「争で」、どうして柳の小枝で旅人を絆ぎ止められようか、絆ぎ止められはしないと詠嘆します。

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     晩唐19ー羅隠
        人日見新安             人日  新安道中
        道中梅花               に梅花を見る

      長途酒醒臘春寒   長途(ちょうと)   酒(さけ)醒(さ)めて臘春(ろうしゅん)寒し
      嫩蘂香英撲馬鞍   嫩蘂(どんずい)  香英(こうえい)  馬鞍(ばあん)を撲(う)つ
      不上寿陽公主面   寿陽公主(じゅようこうしゅ)の面(おもて)に上らず
      憐君開得却無端   憐(あわ)れむ   君が開き得て却(かえ)って端(はし)無きを

      ⊂訳⊃
              旅の途中で酔いも醒め  蠟梅のころの春はまだ寒い

              みれば軟らかな蕊     いい香りが馬上にただよう

              花弁は公主の額に落ち  梅花妝とならなければ

              せっかく咲いても      無駄咲きというものだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「人日」(じんじつ)は正月七日のことで、「新安」(河南省澠池県)を通っているとき蠟梅の咲いているのを見て詠ったものです。「臘春」は早春、蠟梅の花の咲くころです。承句の「嫩蘂 香英 馬鞍を撲つ」は簡潔に描かれていて力があります。
     「寿陽公主」は南朝宋の武帝の皇女で、ある春、含章殿で寝ているとき梅の花びらが散って額の上に張り付きました。そこから梅の花びらを額に描く「梅花妝」(ばいかしょう)の化粧が始まったといいます。
     自注によると「其の年、徐寇(じょこう)を以て挙(きょ)停(や)む」とあるので、龐(ほうくん)の乱があった咸通九年(868)のことでしょう。乱のために科挙の試験は中止になり、せっかく咲いても無駄咲きではないかと、受験できない憾みを蠟梅の花に託すのです。

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     晩唐20ー羅隠
        感弄猴人賜           弄猴人に朱紱を賜
        朱紱                わりたるに感じて

      十二三年就試期   十二三年  試期(しき)に就き
      五湖烟月奈相違   五湖の烟月(えんげつ)  奈(なん)ぞ相違(あいたが)える
      何如学取孫供奉   何(なん)ぞ如(し)かん   孫供奉(そんぐぶ)に学ぶに
      一笑君王便著緋   君王(くんおう)を一笑せしめて便(すなわ)ち緋(ひ)を著(ちゃく)す

      ⊂訳⊃
              一二三年間も  科挙の試験を受けつづけ

              何たることか  五湖の煙月も見ずに過ごした

              猿廻しの孫供奉が  天子をひと声笑わせて

              緋の官服を賜わる  あれを真似ればよかったのだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「弄猴人」(さるまわし)は猿廻しの芸人のことです。長安が黄巣に占領され、僖宗が蜀に蒙塵したとき、お気に入りの孫(そん)という猿廻しに五品の「朱紱」(しゅふつ)、朱の印綬を賜わったといいます。それを聞いて「何ぞ如かん 孫供奉に学ぶに」と皮肉ります。
     「供奉」は侍従のことで、芸能の取り巻きをわざと尊称したのです。また猿のことを猢猻(こそん)といいますので「孫」とかけて天子の暗愚をほのめかすのです。「緋」は五品官の官服で高位に叙せられたことを意味します。  

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     晩唐21ー羅隠
         偶興                偶興

      逐隊随行二十春   隊を逐(お)い行(こう)に随う  二十春(にじっしゅん)
      曲江池畔避車塵   曲江池畔(きょくこうちはん)  車塵(しゃじん)を避く
      如今贏得将衰老   如今(じょこん)    贏(か)ち得たり  衰老(すいろう)を将(もつ)て
      看人間得意人   (のどか)に看る  人間(じんかん)  得意の人

      ⊂訳⊃
              科挙にいどんで二十年  落ちては新しい列にならび

              曲江の池の畔の祝宴に  つどう車の埃を避けた

              得意満面   春を楽しむ人々を

              老いていま  のんびり眺める境地になった


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「偶興」(ぐうきょう)はたまたま興に乗って賦したという意味です。老年になって、科挙の万年落第生であった若いころを自嘲気味に詠います。
     承句の「曲江池畔 車塵を避く」は、唐代、科挙の及第者は曲江の池のほとりで天子の祝宴にあずかる習わしでした。その曲江に集まる車の車塵を避けるということで、参加できない悔しさを裏返して詠います。そんな光景も、老いて「に看る」ことができるようになったと振りかえるのです。

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     晩唐22ー羅隠
         西施                西施

      家国興亡自有時   家国(かこく)の興亡  自(おのず)から時(とき)有り
      呉人何苦進西施   呉人(ごひと)  何ぞ西施を進むるを苦しむ
      西施若解傾呉国   西施(せいし)  若(も)し解(よ)く呉国(ごこく)を傾くれば
      越国亡来又是誰   越国(えつこく)の亡びしは  又(ま)た是(こ)れ誰(た)ぞ

      ⊂訳⊃
              国家の興亡には  時の趨勢というものがある

              西施のために   呉人はなんと苦しんだことか

              もしも西施が    呉を滅ぼしたのであれば

              越が滅んだのは  誰のせいだろう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「西施」は春秋呉越興亡の美女です。詩もわかりやすく、唐が滅んだあとの晩年の作でしょう。
     西施の説話は後漢の趙曄(ちょうよう)『呉越春秋』に基づくもので、呉に敗れた越王勾践(こうせん)が西施を呉に献上しました。呉王夫差(ふさ)は西施に溺れ、ついには越に滅ぼされてしまいます。
     呉が滅んだのは西施によるという説に対して、ならば越が滅んだのは誰のせいかと問いかけ、王朝の興亡には命運というものがあると詠います。

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