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tiandaoの自由訳漢詩

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     晩唐23ー皮日休
       橡媼嘆             橡媼の嘆き (前八句)

      秋深橡子熟     秋深くして  橡子(しょうし)熟(じゅく)し
      散落榛蕪崗     散落(さんらく)す  榛蕪(しんぶ)の崗(おか)
      傴傴黄髪媼     傴傴(くく)たり    黄髪(こうはつ)の媼(おうな)
      拾之践晨霜     之(こ)れを拾って  晨霜(しんそう)を践(ふ)む
      移時始盈掬     時を移して   始めて掬(きく)に盈(み)ち
      尽日方満筺     日を尽くして  方(まさ)に筺(かご)に満つ
      幾曝復幾蒸     幾たびか曝(さら)し  復(ま)た幾たびか蒸す
      用作三冬糧     用(もつ)て三冬(さんとう)の糧(かて)と作(な)す

      ⊂訳⊃
              秋が深まり   橡の実が熟すると
              荒れた岡に   ぱらぱら落ちる
              腰の曲がった  白髪の老婆が
              朝露を踏んで  橡の実をひろう
              時間をかけて  手のひらで掬うほど
              一日がかりで  ようやく籠に一杯になる
              幾日も乾し   幾度も蒸して
              ようやく     冬の食糧となるのだ


     ⊂ものがたり⊃ 羅隠と同時代に生きた異色の詩人に皮日休、陸亀蒙があり、諷諭詩を書きます。聶夷中や杜荀鶴も当時の悪政を批判する詩を書きますが、やがて晩唐詩の主流は、七言絶句の典雅な様式のなかに乱世の苦悩や心情を盛りこむ方向に回帰してゆきます。
     皮日休(ひじつきゅう:841?ー883?)は襄陽(湖北省襄樊市)の人。若くして鹿門山に隠れ隠士の風がありました。懿宗の咸通八年(867)、二十七歳のころ進士に及第し、白居易の新楽府に倣って「正楽府」十首などの諷諭詩を書きました。
     皮日休は若いころからの酒豪で、酒の詩もたくさん作っています。咸通十年(869)に蘇州刺史崔璞(さいはく)の幕僚になって三年あまり蘇州に滞在したことがあります。そのころ故郷の甫里に隠退していた陸亀蒙と交わり、唱和の詩をのこしています。
     そのご著作郎などを歴任して咸通年間に太常博士になりますが、黄巣の乱に遭って呉中(蘇州市)に帰っていたところを黄巣軍に従わさせられ、長安に連れていかれました。黄巣政府の翰林学士に任じられ、乱中に消息不明になります。黄巣の怒りを買って殺されたとも、中和三年(883)ころ亡くなったともいいます。享年四十三歳くらいです。
     詩題の「橡媼」(しょうおう)の橡の実は飢救食物で、飢えて木の実を拾う媼(老婆)の嘆きを詠います。橡の実は栗に似てやや小さく、食べられるようにするのに手間がかかります。長時間水にさらし、灰汁で煮るなどして渋抜きをする必要があります。はじめ八句の「榛蕪」は雑草の茂る荒れた林のことです。その岡で橡の実を拾う老婆が描かれ、終わりの二句で拾った実を食糧にするための手間が描かれます。

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     晩唐24ー皮日休
       橡媼嘆             橡媼の嘆き          (中八句)

      山前有熟稲     山前(さんぜん)に熟稲(じゅくとう)有り
      紫穂襲人香     紫穂(しすい)  人を襲うて香(かん)ばし
      細獲又精舂     細(こま)やかに獲(かりと)り  又た精(くわ)しく舂(つ)いて
      粒粒如玉璫     粒粒(りゅうりゅう)  玉璫(ぎょくとう)の如し
      持之納於官     之(こ)れを持って  官に納(い)れ
      私室無倉箱     私室(ししつ)に倉箱(そうそう)無し
      如何一石余     如何(いかん)ぞ   一石余(いっこくよ)
      只作五斗量     只(た)だ五斗(ごと)と作(な)して量(はか)るや

      ⊂訳⊃
              山の麓で稲がみのり
              紫の穂の香りが  鼻をうるおす
              丁寧に穫り入れ  念入りに搗いて
              ひと粒ひと粒が  玉の耳飾りのようだ
              これを運んで    役所に納めると
              民の倉も米櫃も  からになる
              一石余りの米が  役所で量ると
              どうして  五石になってしまうのか


     ⊂ものがたり⊃ 中八句は稲の話です。媼が橡の実のような面倒なものを拾うのはなぜか、その背景が描かれます。主食である稲を刈り取って精製しても、全部役所に納めなければなりません。しかも役所の桝は倍の大きさで、大盛り一石の米は五斗に計量されてしまうのです。

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      晩唐25ー皮日休
        橡媼嘆             橡媼の嘆き          (後十句)

      狡吏不畏刑     狡吏(こうり)は刑(けい)を畏(おそ)れず
      貪官不避贓     貪官(たんかん)は贓(ぞう)を避(さ)けず
      農時作私債     農時(のうじ)   私債(しさい)を作(な)し
      農畢帰官倉     農畢(おわ)って 官倉(かんそう)に帰(き)す
      自冬及於春     冬より春に及び
      橡実誑饑腸     橡(とち)の実  饑腸(きちょう)を誑(あざむ)く
      吾聞田成子     吾(わ)れ聞く  田成子(でんせいし)は
      詐仁猶自王     仁(じん)を詐(いつわ)るも  猶(な)お自(おのず)から王たり
      吁嗟逢橡媼     吁嗟(ああ)   橡媼(しょうおう)に逢(あ)って
      不覚涙沾裳     覚(おぼ)えず 涙の裳(もすそ)を沾(うるお)すを

      ⊂訳⊃
              ずるい役人は  処罰をおそれず
              欲張り官吏は  収賄も平気だ
              耕すにはまず  役所から銭を借り
              収穫すれば   すべて官の倉庫にもどる
              冬から春にかけての空腹は
              橡の実でだますしか方法がない
              昔田成子は  仁者をよそおい
              それでも    王者になれたという
              橡の実を拾う老婆に逢って
              涙がながれ  思わず裳裾が濡れてしまった


     ⊂ものがたり⊃ 後十句のはじめ六句は稲を全部役所に納めなければならない理由です。当時の農業の実態を描くもので、農家は春、耕作を始めるにあたって、資金がないので役所から借金をします。だから収穫物は、借金の返済と税ですべて役所にもどる仕組みになっていました。空腹は橡の実で満たすほかはないと、悪政が背後にあることを指摘します。
     最後の四句は結びで、「田成子」は春秋斉の宰相田常(でんじょう)のことです。田常は姜姓呂氏の政権を奪うため、人民に米を貸すときは大きな桝を使い、回収するときは小さな桝を用いて民の歓心をあつめました。いまの世には、田常のような偽の仁政をおこなう者もいないと嘆くのです。
     

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     晩唐26ー皮日休
        春夕酒醒               春夕酒醒

      四弦纔罷酔蛮奴   四弦(よんげん)  纔(わずか)に罷(や)む  酔蛮奴(すいばんど)
      酃醁余香在翠炉   酃醁(れいりょく)の余香(よこう)  翠炉(すいろ)に在り
      夜半醒来紅蠟短   夜半(やはん)醒(さ)め来たれば紅蠟(こうろう)短し
      一枝寒涙作珊瑚   一枝(いっし)の寒涙(かんるい)  珊瑚(さんご)を作(な)す

      ⊂訳⊃
              四弦の琵琶が止むや  この酔っぱらいめ

              酃醁の酒の香りが   炉上にただよっている

              真夜中に目醒めると  短くなった蝋燭いっぽん

              紅蠟の涙が寒々と   融けた珊瑚のように垂れている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「春夕酒醒」(しゅんゆうしゅせい)は春の夜、酒が醒めての詩という意味です。酔っぱらって宴会の席で寝込んでしまい、夜中に目覚めたときの作でしょう。「四弦」は琵琶のこと。「纔に罷む」はいま演奏が終わったという感じですが、寝込む前のことを思い出しているのでしょう。
     「酔蛮奴」は酔っぱらいの蛮族という意味になりますが、大酒のみの自分を卑称するものです。「酃醁」は湖南酃県の銘酒で、炉で暖められ、よい香りを放っています。蝋燭が一本、燃えて短くなり、融けた赤い蠟が珊瑚の涙のように寒々と垂れていると、人生の寂寞を詠うのです。

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     晩唐27ー皮日休
        酒病偶作                酒病偶作

      鬱林歩障昼遮明   鬱林(うつりん)の歩障(ほしょう)  昼も明(めい)を遮(さえぎ)る
      一炷濃香養病酲   一炷(いっちゅう)  濃香(のうこう)にして  病酲(びょうてい)を養う
      何事晩来還欲飲   何事(なにごと)ぞ  晩来(ばんらい)  還(ま)た飲まんと欲す
      隔牆聞売蛤蜊声   牆(しょう)を隔てて聞く  蛤蜊(こうり)を売る声

      ⊂訳⊃
              昼間なのに   暗い深い林に幔幕を張ったようだ

              一灯の明りが  二日酔いの頭に心地よい気分を運ぶ

              何たることだ  日暮れになるとまた飲みたくなり

              貝売りの声が  塀の向こうから聞こえてきた


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「酒病偶作」(しゅびょうぐうさく)は二日酔いのときにたまたま作った詩の意味です。「鬱林の歩障」には故事があり、晋の富豪石崇(せきすう)は林中の散歩道に幔幕を張りめぐらし、歩く姿が見えないようにしたといいます。豪奢な生活の比喩です。また、「鬱林の歩障」には鬱林石の説話もあり、鬱林は清廉な官吏を意味します。それを遮るのですから官吏の汚職を指弾する意味にもなります。
     「一炷」は一本の灯心、「病酲」は悪酔いのことで、灯火が宴席の心地よい雰囲気を思い出させるのでしょう。ところが日暮れになるとまた飲みたくなります。「蛤蜊」はハマグリとアサリのことで、酒の肴です。その売り声が塀の外から聞こえて来ました。起句を鬱林石の説話と解すれば、汚職の誘惑の声が聞こえてきたという意味になるでしょう。
     以上二首の詩には陸亀蒙の唱和がありますので、蘇州刺史の幕僚として蘇州に滞在したときの作品と思われます。 

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     晩唐28ー陸亀蒙
         新沙                  新沙

      渤澥声中漲小堤   渤澥(ぼっかい)の声中(せいちゅう)  小堤(しょうてい)漲(みなぎ)る
      官家知後海鷗知   官家(かんか)の知る後(のち)  海鷗(かいおう)知る
      蓬萊有路教人到   蓬萊(ほうらい)に路(みち)有らば人をして到らしめ
      応亦年年税紫芝   応(まさ)に亦(ま)た年年(ねんねん)  紫芝(しし)に税すべし

      ⊂訳⊃
              渤海の海鳴りと共に  小さな洲ができると

              鷗より先に  役人がそれを知る

              蓬萊山への  路があれば人を派遣し

              毎年 毎年  霊芝に税を課すだろう


     ⊂ものがたり⊃ 陸亀蒙(りくきもう:?ー881?)は姑蘇(江蘇省蘇州市)の人。三国呉の陸氏の末裔といいます。進士に及第できず、湖州刺史や蘇州刺史の幕僚をつとめますが、早くに隠退して故郷の松江甫里(蘇州市の東南)に住みました。晩年は黄巣の乱の時期にあたり、僖宗の中和元年(881)ころに亡くなったとみられます。
     詩題の「新沙」(しんさ)は新しくできた砂洲で、税の取り立てが苛酷なことを詠います。「渤澥」は渤海のことですが、ここではひろく東の海を指すのでしょう。波によって新しい砂洲ができると、「官家」(皇帝の官吏)が鷗よりも先にそのことを知ると課税に漏れがないことを皮肉ります。後半は別の喩えで、仙人の住む蓬萊山への路が分かれば、收税吏を派遣して「紫芝」(紫の霊芝)に税を課すだろうと揶揄します。

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     晩唐29ー陸亀蒙
       和襲美春タ酒醒        襲美の春タ酒醒に和す

      幾年無事傍江湖   幾年(いくねん)事(こと)無く  江湖(こうこ)に傍(よ)る
      酔倒黄公旧酒壚   酔いて倒(たお)る   黄公(こうこう)旧酒壚(きゅうしゅろ)
      覚後不知明月上   覚(さ)めて後(あと)知らず   明月(めいげつ)上り
      満身花影倩人扶   満身の花影(かえい)  人の扶(たすけ)を倩(こ)いしを

      ⊂訳⊃
              江湖に隠棲して  こともなく歳月は過ぎる

              竹林の七賢は   黄公の酒場で酔っぱらう

              明月に照らされ  満身に花の影

              酔いが醒めても  扶け起こされたのを覚えていない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「襲美」(しゅうび)は皮日休の字(あざな)で、皮日休の「春タ酒醒」に和した詩です。起句によると陸亀蒙はすでに郷里に隠棲していたようです。
     「黄公」は竹林の七賢が通った「酒壚」(居酒屋)の主人で、阮籍(げんせき)や嵆康(けいこう)たちは黄公の酒場で酔いつぶれるのを常としていました。皮日休を竹林の七賢に喩えるのです。後半二句は皮日休の酔いっぷりを暖かい目で描きます。「満身の花影 人の扶を倩いしを」は佳句とされています。

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     晩唐30ー陸亀蒙
       和襲美酒病偶作        襲美の酒病偶作に和す

      柳疏桐下晩窓明   柳(やなぎ)疏(そ)にして桐(きり)下り  晩窓(ばんそう)明るし
      秖有微風為折酲   秖(た)だ微風(びふう)の為に酲(てい)を折る有り
      唯缺白綃籠解散   唯(た)だ白綃(はくしょう)の解散を籠(つつ)むを缺(か)く
      洛生詠両三声   洛生(らくせい)  (のどか)に詠ず  両三声(りょうさんせい)

      ⊂訳⊃
              柳の葉は疎らに桐は葉が落ち  夜中でも窓は明るい

              そよ風が吹いて     二日酔いにはきき目がある

              解散を被ればよいが  白絹の持ち合わせがなく

              洛生の調べに乗せて  のどかに詠う二声三声


     ⊂ものがたり⊃ 皮日休の「酒病偶作」に和した詩です。秋でしょう。柳の葉は疎らになり、桐の葉も落ちて、窓辺に月明りがさすようになりました。「酲」は皮日休の詩にも出てくる二日酔いのことで、「微風」は二日酔いによいと詠います。
     さらによいのは「解散」という頭巾ですが、それに使う「白綃」(白絹の布)がないと詠います。「解散」は六朝の王倹(おうけん)が愛用した頭巾で、風通しがよかったといいます。
     「洛生」は六朝時代に流行した曲で、多くの名士が替え歌をつくっています。皮日休が「蛤蜊を売る声」と詠ったのに対して、洛生詠でのどかに詠うのもいいでしょうと答えるのです。
     二組の唱和の詩を比べてみると、皮日休のほうは元気旺盛、陸亀蒙は控え目に応じていますが、詩を佳句で締めくくる技に冴えがあります。

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     晩唐31ー聶夷中
        傷田家              田家を傷む

      二月売新糸     二月  新糸(しんし)を売り
      五月糶新穀     五月  新穀(しんこく)を糶(ちょう)す
      医得眼前瘡     眼前(がんぜん)の瘡(そう)を医(いや)し得て
      剜卻心頭肉     心頭(しんとう)の肉を剜卻(わんきゃく)す
      我願君王心     我(わ)れ願わくは  君王(くんおう)の心
      化作光明燭     化(か)して光明の燭(しょく)と作(な)り
      不照綺羅筵     綺羅(きら)の筵(えん)を照らさず
      但照流亡屋     但(た)だ流亡(るぼう)の屋(おく)を照らさんことを

      ⊂訳⊃
              二月には  新しい絹糸を売り
              五月には  採れた穀物を売りに出す
              これでは  眼の前の傷を癒やして
              胸の肉を  けずりとるようなものだ
              どうか    君王の心が
              天下の希望の灯火となり
              豪華な宴会の席ではなく
              流亡の民の家を照らしてほしいものだ


     ⊂ものがたり⊃ 聶夷中(じょういちゅう:837ー884?)は河東(山西省永済県)の人とも河南(河南省洛陽県)の人ともいいます。貧窮の家に育ち、懿宗の咸通十二年(871)に三十五歳で進士に及第しましたが、官途には恵まれませんでした。
     衰退する時代に生きて社会派の立場をつらぬき、民衆の生活苦を取り上げました。警世の志を諷諭詩に託しますが、黄巣の乱が終わった僖宗の中和四年(884)ころ亡くなります。享年四十八歳くらいです。
     詩題の「田家」(でんか)は農家のことです。分かりやすい詩句で農家の苦労を描き、政事に直接ものを言います。「君王の心 化して光明の燭と作り」と言っていますが、そんなことは期待できないことを知っているから敢えて言うという解釈もできるでしょう。

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     晩唐32ー杜荀鶴
        再経胡城県           再び胡城県を経て

      去歳曾経此県城   去歳(きょさい)  曾(かつ)て此の県城を経(へ)しとき
      県民無口不冤声   県民(けんみん)  口として冤声(えんせい)ならざるは無かりき
      今来県宰加朱紱   今(いま)来たるに  県宰(けんさい)は朱紱(しゅふつ)を加う
      便是生霊血染成   便(すなわ)ち是(こ)れ生霊(せいれい)の血  染めて成りしものぞ

      ⊂訳⊃
              去年  この街を通ったとき

              町の人々は   口を揃えて悪政を呪った

              今来てみると  町長は朱の印綬を帯びている

              これこそは   人民の生血で染めたものなのだ


     ⊂ものがたり⊃ 杜荀鶴(とじゅんかく:846ー907)は池州石埭(せきたい:安徽省青陽県の南)の人。杜牧が池州刺史のとき侍妾に孕ませ、生まれる前に地元の杜氏に入嫁させた女の子とする伝えがあります。
     黄巣の乱が勃発した乾符元年(875)に杜荀鶴は三十歳になっていましたが、まだ進士に及第していませんでした。乱後、昭宗の大順二年(891)に四十六歳で進士に及第します。天祐四年(709)四月に唐が滅亡すると、梁(後梁)に仕えて翰林学士になりますが、その年に亡くなりました。享年六十二歳です。
     詩題の「胡城県」(こけんじょう:安徽省阜陽県の西北)付近は、黄巣の乱のはじめ王仙之(おうせんし)の率いる一揆が荒れ狂った地方です。詩はそれ以前の状況を詠うものでしょう。
     「県宰」は弱小の県の県令をいいます。日本でいえば大きな町の町長程度です。「朱紱」は朱色の印綬(印の吊り紐)のことで、四、五品官の官職をしめし、県令としては身分違いの品階を得たことになります。去年この町を通ったとき、県民の怨嗟の声を聞いたが、やはり県令は苛酷な税を取り立て、その褒美に朱紱の品階を得たのであろうと苛政に賞を与える政府を批判するのです。

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     晩唐33ー曹松
         己亥歳               己亥の歳

      沢国江山入戦図   沢国(たくこく)の江山(こうざん)   戦図(せんと)に入る
      生民何計楽樵蘇   生民(せいみん)  何の計ありてか樵蘇(しょうそ)を楽しまん
      憑君莫話封侯事   君に憑(よ)る   話(かた)る莫(なか)れ  封侯(ほうこう)の事
      一将功成万骨枯   一将(いっしょう)  功(こう)成って  万骨(ばんこつ)枯る

      ⊂訳⊃
              稔り豊かな江淮の  山も川も戦場と化し

              人はもはや   煮炊きを楽しむすべもない

              お願いだから  手柄のことなど言わないで

              「一将  功成って  万骨枯る」ではありませんか


     ⊂ものがたり⊃ 龐(ほうくん)の乱後、山東西部、河南東北部一帯には群盗がはびこっていましたが、このとき大規模な干害が河北を襲いました。咸通十四年(873)七月に宣宗が崩じ、太子が即位して僖宗になります。
     そうしたなか乾符二年(875)の夏、山東と河南の省境付近で王仙之(おうせんし)が数千の民を率いて蜂起し、ついで黄巣(こうそう)が起って呼応します。この年は蝗害もひどく、反乱は周辺の流民や盗賊を集めて拡大し、南へ流動して長江中流に達します。一帯は流動する賊と藩鎮兵との戦場になり、大混乱を呈します。
     三年にわたる動乱のあと、王仙之が長江中流の黄梅(湖北省黄梅県)で敗死すると、黄巣は王仙之の残存勢力を吸収して江南に退き、広州(広東省広州市)まで南下して態勢を立て直します。広州から北上を始めた黄巣軍は広明元年(880)七月に長江を渡り、十一月には洛陽に入城、十二月に潼関を破って長安を手中にしました。
     長安に入城した黄巣は帝位につき、国号を大斉と号しますが、帝位にあったのは二年四か月でした。中和三年(883)四月に長安を撤退して東に向かい、泰山(山東省泰安県)東南の狼虎谷で自害し、十年にわたる黄巣の乱は終わりを告げます。
     晩唐の詩人の大半は黄巣の乱に遭遇しますが、そのなかで動乱のただなかを生きた詩人として曹松(そうしょう)、鄭谷、釋貫休、王駕の四人をあげます。
     曹松(830?ー902?)は舒州(安徽省潜山県)の人とも衡陽(湖南省衡陽県)の人ともいいます。若いころから江湖に漂泊し、貧に苦しみました。のちに建州(福建省建甌県)刺史李頻(りひん)の援助を受けます。乾符二年に黄巣の乱が起こったときは四十六歳位でした。乱後、昭宗の光化四年(901)に七十二歳くらいで進士に及第し、秘書省正字になりますが、翌年には亡くなったとみられます。享年七十三歳くらいです。
     詩題の「己亥」(きがい:つちのとい)は僖宗の乾符六年(879)の干支で、黄巣の乱が起こって五年目にあたります。この年、鎮海軍節度使高駢(こうべん)は淮南で黄巣軍を撃破し、その功によって封賞を受けました。
     詩は前半で荒れた国土の状態を述べます。「沢国」は河川や沼沢の多い豊かな地、江淮地方を指し、「樵蘇」は木を切り、草を刈って煮炊きをすることで普通の生活をいいます。後半は戦争に行って一旗揚げようようとする夫に、妻が行かないように懇願する場面です。
     転結の二句は妻が夫を引き止めている言葉で、女性に成り代わって詠う閨怨詩の手法が見られます。「一将 功成って 万骨枯る」は成句となっており、現代では功績がひとり占めされることをいいます。

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     晩唐33ー鄭谷
       淮上与友人別         淮上にて友人と別る

      揚子江頭楊柳春   揚子江頭(ようすこうとう)  楊柳(ようりゅう)の春
      楊花愁殺渡江人   楊花(ようか)愁殺(しゅうさつ)す  江(こう)を渡る人
      数声風笛離亭晩   数声(すうせい)の風笛(ふうてき)  離亭(りてい)の晩
      君向瀟湘我向秦   君は瀟湘(しょうしょう)に向かい  我(わ)れは秦(しん)に向かう

      ⊂訳⊃
              揚子江のほとり  楊柳の春はたけなわ

              舞い散る柳絮は  渡江する人の心をみだす

              今宵駅亭で別れの宴  笛の音が風のまにまに聞こえてくる

              君は瀟湘に向かい   わたしは長安にもどるのだ


     ⊂ものがたり⊃ 鄭谷(ていこく:851?ー910?)は袁州宜春(江西省宜春県)の人。僖宗が都に帰還した二年後の光啓三年(887)に、三十七歳くらいで進士に及第します。右拾遺をへて都官郎中にいたりますが、唐の滅亡後三年、梁の開平四年(910)ころになくなります。享年六十歳くらいです。
     詩題の「淮上」(わいじょう)は淮水のほとりの意味ですので、長江下流部をさす「揚子江」とあいません。「瀟湘」は湖南の地、「秦」は唐都長安の意味ですが、動乱の時代、西と東に別れる宴の席は平和な時代とは違ったでしょう。湖南は比較的平和であり、長安は動乱に直面していました。

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     晩唐35ー釋貫休
       春晩書山家屋壁        春晩 山家の屋壁に書す

      柴門寂寂黍飯馨   柴門(さいもん)  寂寂(せきせき)として黍飯(しょはん)馨(かぐわ)し
      山家煙火春雨晴   山家(さんか)の煙火(えんか)   春雨(しゅんう)晴る
      庭花濛濛水冷冷   庭花(ていか)濛濛(もうもう)として水は冷冷(れいれい)
      小児啼索樹上鶯   小児(しょうじ)啼きて索(もと)む  樹上(じゅじょう)の鶯

      ⊂訳⊃
              寂しげに立つ柴の門  炊いたばかりの黍御飯

              春の山里に雨は晴れ  炊煙が立ち昇る

              庭には花が咲き揃い  水は清らかに流れ

              子供は啼き声をまね  枝の鶯を呼びよせる


     ⊂ものがたり⊃ 釋貫休(しゃくかんきゅう:832ー912)は婺州蘭渓(浙江省東陽県)の人。姜姓、字(あざな)は徳隠といいます。七歳で出家し、読書を好み、詩・書・画にすぐれていました。杭州の霊隠寺に住み、黄巣の乱が始まった乾符二年(875)に四十四歳になっていました。
     昭宗の天復年間(901ー904)に蜀の王建(おうけん)に招かれて成都に移ります。唐の滅亡後五年をへた蜀(前蜀)の永平二年(912)に亡くなり、享年七十七歳でした。
     詩題に「山家の屋壁(おくへき)に書す」とあるので、春の山里の日暮れの景を詠って家の壁に書きつけたのです。七言絶句の四句中に「寂寂」「濛濛」「冷冷」と三度も畳字をもちい、明快かつ重厚な詩情を醸し出しています。
     「黍飯馨し」は炊き立ての黍飯(きびめし)が門のあたりまでよい香りを漂わせていたのであり、動乱の時代にも静かな山里の暮らしがありました。動乱のなかだからこそ、山里の平和な暮らしに感動したともいえます。七言絶句の佳作といえるでしょう。
     

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     晩唐36ー王駕
          晴景               晴景

      雨前初見花間葉   雨前(うぜん)  初めて見る  花間(かかん)の葉
      雨後兼無葉底花   雨後(うご)   兼ねて無し  葉底(ようてい)の花
      蛺蝶飛来過牆去   蛺蝶(きょうちょう)  飛び来たり牆(かき)を過ぎて去る
      却疑春色在隣家   却(かえ)って疑う春色(しゅんしょく)の隣家に在るかと

      ⊂訳⊃
              雨の前には  花のあいだに葉が見えていた

              雨の後には  葉のあいだに花はなくなる

              蝶々が飛んできて  垣根を越えていく

              春の気配は  隣に移ったのかとつい思ってしまうのだ


     ⊂ものがたり⊃ 王駕(おうが)は生没年不詳。昭宗の大順元年(890)に進士に及第、官途に就きますが、十七年後、哀帝の天祐四年(907)に唐は滅亡します。
     詩題の「晴景」(せいけい)は晴れた日の景色。春の終わりの眺めを淡々と詠っているようですが、比喩があります。雨前・雨後と並べてあり、雨は『詩経』の昔から苦難の象徴、逆境の喩えです。初唐以来、花は夢や希望の喩えとして用いられていますので、黄巣の乱後は夢も希望も無くなったといいたいのです。
     結句の「却って」は意外な成り行きになることを表す接続詞で、なんとまあといった気分でしょう。蝶が垣根を越えて隣家のほうに飛んでいったと驚きますが、これははやばやと蜀などの興国に鞍替えする朝臣を皮肉るのでしょう。

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     晩唐37ー韋荘
         長安春             長安の春

      長安二月多香塵   長安の二月  香塵(こうじん)多し
      六街車馬声轔轔   六街(りくがい)の車馬(しゃば)  声轔轔(りんりん)
      家家楼上如花人   家家(かか)楼上(ろうじょう)   花の如き人
      千枝万枝紅豔新   千枝(せんし)万枝(ばんし)    紅豔(こうえん)新たなり
      簾間笑語自相問   簾間(れんかん)の笑語(しょうご)  自(みずか)ら相問(あいと)う
      何人占得長安春   何人(なんびと)ぞ占め得たる長安の春と
      長安春色本無主   長安の春色(しゅんしょく)  本(もと)  主(あるじ)無し
      古来尽属紅楼女   古来(こらい)   尽(ことごと)く属す紅楼(こうろう)の女(じょ)
      如今無奈杏園人   如今(ただいま)  奈(いかん)ともする無し杏園(きょうえん)の人
      駿馬軽車擁将去   駿馬(しゅんめ)軽車(けいしゃ)  擁(よう)し将(も)ちて去る

      ⊂訳⊃
              長安の二月  飛び散る塵もかぐわしく
              都大路を   ゆきかう馬車の音はりんりん
              列なる邸に  美人は花のようにつどい
              樹々の枝は  紅の色をうつして艶やか
              簾から洩れ出る笑い声  ふと自問自答する
              長安の春を  だれがひとり占めできようか
              春の景色に  もともとあるじはいないのだ
              紅楼の女性には  春のすべてが備わっている
              だが     杏園に集う女はどうしようもない
              新進士が  駿馬の馬車で連れ去るのだ


     ⊂ものがたり⊃ 黄巣の乱によって僖宗は蜀の成都へ蒙塵すること五年、光啓元年(885)三月に都へもどりますが、長安は荒れ果てていました。また、乱のあいだに各地の藩鎮は独立性をつよめ、長安が支配するのは京兆府を中心とした狭い地域に過ぎず、唐は地方政権に転落していました。
     そのころ長安を実質的に支配していたのは李克用(りこくよう)でした。十二月になると李克用は宦官田令孜(でんれいし)と対立し、僖宗は鳳翔節度使李茂貞(りもてい)のもとに逃亡します。文徳元年(888)二月に長安にもどりますが、翌三月には崩じてしまいます。
     僖宗の弟が立てられて昭宗になります。昭宗の世が十七年もつづき、唐が倒れそうで倒れなかったのは、李克用・朱全忠・宦官の三勢力がからみあって争っていたからです。唐末の三者の角逐については省略しますが、天祐元年(904)八月、朱全忠は昭宗を殺して哀帝を立て、三年後の天祐四年(907)四月、哀帝に禅譲をせまり、即位して梁(後梁)を建国します。
     晩唐の最後、唐滅亡の時代を飾るのは韋荘(いそう)と韓偓(かんあく)のふたりです。
     韋荘(836ー910)は京兆杜陵(西安市の南郊)の人。唐の宰相韋見素(いけんそ)の子孫で、韋応物(平成26.8.18のブログ参照)の四代後になります。はやくに父を失い、貧しいなか学問に励みました。杜陵から虢州(河南省霊宝市の南)に移り、四十歳を越えてから科挙に挑戦しますが及第せず、ときに黄巣の乱が起こって広明元年(880)十二月、都は陥落しました。そのとき韋荘は四十五歳、一家は乱に巻き込まれて大変な苦労を味わいます。
     ひとまず洛陽に移り、中和二年(880)に黄巣の乱を描いた七言二百三十八句の大作「秦婦吟」(しんぷぎん)を書き高い評価をえます。そのご昭宗の乾寧元年(894)に五十九歳で進士に及第し、校書郎になりました。
     王建(おうけん)が成都で乱を起こしたとき、韋荘は正使李訽(りこう)の判官になって宣撫に赴きましたが、かえって王建の掌書記になり、蜀(前蜀)の建国を援けました。蜀の建国後も王建に重用されて吏部侍郎になり、同平章事(宰相)をつとめます。
     韋荘は杜甫を尊敬し、成都郊外にあった杜甫の浣花渓草堂を修復して自宅にし、晩年を過ごしたといいます。亡くなったのは唐の滅亡後三年、蜀の武威三年(910)で、享年七十五歳でした。
     詩題の「長安の春」は新進士が決まる季節です。韋荘は及第できず、名家の女性は新進士の花嫁候補になって連れ去られてしまいます。はじめの四句は二月の長安の街の情景で、車が「轔轔」とゆきかっています。三句目の「楼」は大きな家のことで、そこに美人が集まって花が咲いたようです。
     つぎの四句は作者の自問自答です。季節にも景色にも主人はいないのだから、みんなで楽しむことができるはずだといい、なかでも紅楼の女は「古来 尽く属す」と、これこそ長安の特別な景物であるといいます。
     ところが結びの二句では、どうにもならない特別な女性がいると詠嘆します。「杏園」は曲江の西にある庭園で、天子が科挙の合格者に饗宴を賜わる場所として有名です。貴顕の家では新進士のなかから娘の婿をさがそうと馬車を繰り出します。だからその日は都大路は馬車でいっぱいになるのです。そんな良家の子女を車に乗せて連れ去るのは新進士であると、わが身の不合格を嘆くのです。 

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     晩唐38ー韋荘
         古別離               古別離
     
      晴煙漠漠柳毿毿   晴煙(せいえん)  漠漠(ばくばく)として  柳(やなぎ)毿毿(さんさん)たり
      不那離情酒半酣   那(いか)んともせず  離情(りじょう)   酒半ば酣(たけなわ)なるを
      更把玉鞭雲外指   更に玉鞭(ぎょくべん)を把(と)って雲外(うんがい)を指(さ)せば
      断腸春色在江南   断腸(だんちょう)の春色(しゅんしょく)  江南に在り

      ⊂訳⊃
              晴れた空   棚引く霞  柳の枝は長くたれ

              別れは辛く  酒宴が盛り上がらないのは仕方がない

              鞭をあげて  雲のかなたを指させば

              腸も千切れんばかりの春景色  江南の地に満ちている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「古別離」(こべつり)は楽府題で、「古離別」となっているテキストもあります。「晴煙」は晴れた空にたなびく霞、「毿毿」は細くて長いものの形容です。前半二句で別れの辛さを詠い、後半二句で前途を励まします。「玉鞭」は鞭の美称で、江南には溢れんばかりの春があり、可能性もあると詠います。江南へ旅立つ友への送別の詩でしょう。

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     晩唐39ー韋荘
         台城                台城

      江雨霏霏江草斉   江雨(こうう)霏霏(ひひ)として 江草(こうそう)斉(ひと)し
      六朝如夢鳥空啼   六朝(りくちょう)夢の如く 鳥 空(むな)しく啼(な)く
      無情最是台城柳   無情(むじょう)なるは最も是(こ)れ台城(だいじょう)の柳
      依旧烟籠十里堤   旧(きゅう)に依って煙は籠(こ)む 十里の堤

      ⊂訳⊃
              雨は江上に霏霏と降り  岸辺に草は生えそろう

              六朝の栄華は夢か幻か 鳥はむなしく啼いている

              十里もつづく長堤に    靄はかわらず立ちこめて

              無常をいまに止めるは  ただ台城の柳だけ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「台城」を「金陵の図」とするテキストもあります。その場合は金陵(建康の都)を描いた絵に画讃した詩ということになります。「台城」は南朝の都建康宮のことで、南朝では朝廷のことを「台」といいました。
     旧台の北側に玄武湖の堤が延びています。残っているのは堤に生えている柳の木だけ、それが昔と変わらず靄につつまれて霞んでいると詠います。南朝の栄華の跡を回顧する浪漫のかおり高い一首です。

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     晩唐40ー韋荘
        空相思              空しく相思う

      無計得伝消息    計(けい)の消息(しょうそく)を伝うるを得(う)る無く
      天上姮娥人不識   天上の姮娥(こうが)    人(ひと)識らず
      寄書何処覓      書を寄するも何処(いずく)にか覓(もと)めん
      新睡覚来無力    新睡(しんすい)    覚(さ)め来たりて力無し
      不忍把伊書跡    伊(かれ)の書跡(しょせき)を把(と)るに忍びず
      満院落花寂寂    満院(まんいん)の落花  寂寂(せきせき)たり
      断腸芳草碧      断腸(だんちょう)す  芳草(ほうそう)の碧(みどり)なるに

      ⊂訳⊃
              消息を伝えるすべもなく
              天上の姮娥のことを   知る人はいない
              便りを出そうと思うが  どこに出せばいいのか
              眠りから覚めても  元気がでない
              かつての手紙を   読み返すこともできず
              花は寂しく   庭一面に散り
              若草の緑に  腸も千切れるほどだ


     ⊂ものがたり⊃ 韋荘は晩唐の詩風を集約するような多才の詩人で、多くの詞も残しています。伝えによれば、韋荘は蜀に行ってから文筆にひいでたひとりの美女を手に入れ、心の慰めとしていました。ところが王建(おうけん)がこれを聞いて女を奪ったので、一首の詞をつくったといいます。
     詩題の「相思う」は互に思うのではなく、相手を思う意味です。女は「天上の姮娥」のように宮殿の奥深く連れ去られたので、様子を知ることができず、便りを出すこともできません。悶々として庭を眺めると、「満院の落花 寂寂たり」です。
     ここは詞としては、悲しげに歌うところでしょう。「芳草の碧」といえば、春情、恋心を意味することは当時の常識でした。伝説によると、この詞を伝え聞いた女性は食を断って死んだといいます。 

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     晩唐41ー韋荘
        菩薩蛮              菩薩蛮

      洛陽城裏春光好   洛陽城裏(らくようじょうり)  春光(しゅんこう)好(よ)し
      洛陽才子他郷老   洛陽の才子  他郷(たきょう)に老(お)ゆ
      柳暗魏王堤      柳は暗し   魏王(ぎおう)の堤
      此時心転迷      此の時  心  転(うた)た迷う
      桃花春水深      桃花(とうか)  春水(しゅんすい)深く
      水上鴛鴦浴      水上(すいじょう)  鴛鴦(えんおう)浴す
      凝恨対残暉      恨みを凝(こ)らして残暉(ざんき)に対し
      憶君君不知      君を憶(おも)えども  君知らず

      ⊂訳⊃
              洛陽城内に   春はうららか
              洛陽の才子は  他郷で老いている
              魏王の堤に   ほの暗く柳は茂り
              このとき心は   しきりに迷うのだ
              桃の花咲き   春水の流れは深く
              水のおもてを  鴛鴦が泳いでいる
              恨みをこめて  夕焼けの光にむかい
              君を想うが    思いの届くことはない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「菩薩蛮」(ぼさつばん)は曲名で、温庭筠(おんていいん)も同題の詞を書いています。当時、流行の曲でした。はじめ二句の「洛陽の才子」は自分のことで、「他郷に老ゆ」とありますので、洛陽にいたころの「君」(恋人)を思って蜀でつくった作品でしょう。
     中四句は慕う気持ちを比喩的に描くもので、柳、桃花、春水、鴛鴦が配されています。鴛鴦はつがいで泳ぐ水鳥で、夫婦や恋人の仲が良いことの喩えとして用いられます。結びは君を二つ重ねて「君を憶えども 君知らず」と嘆きます。蜀に老いて、洛陽時代を懐かしむのでしょう。             

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     晩唐42ー韓偓
         詠浴                浴を詠ず

      再整魚犀攏翠簪   再び魚犀(ぎょさい)を整え  翠簪(すいしん)を攏(よせあつ)め
      解衣先覚冷森森   衣(ころも)を解けば  先ず覚ゆ冷森森(れいしんしん)たるを
      教移蘭燭頻羞影   蘭燭(らんしょく)を移さしめて 頻(しき)りに影を羞(は)じ
      自試香湯更怕深   自ら香湯(こうゆ)を試して   更に深きを怕(おそ)る
      初似洗花難抑按   初めは花を洗って  抑按(おさ)え難(がた)きに似たり
      終憂沃雪不勝任   終(つい)には雪に沃(そそ)いで  勝任(たえ)ざるを憂う
      豈知侍女簾帷外   豈(あ)に知らんや  侍女  簾帷(れんい)の外(そと)にて
      賸取君王幾餅金   賸(おお)く君王の幾餅(いくへい)の金(きん)を取りしを

      ⊂訳⊃
              犀角の笄を直し  翡翠の簪をはずして纏め
              着衣を脱げば   ぞっとした寒さを感じる
              蘭麝の香の蝋燭  はだかの影に顔を赤らめ
              香の湯に触れば  なんとなく深さがこわい
              顔を洗うときは   抑えきれない喜びを感じ
              肌に湯を注げば  融けてしまわないかと心配する
              まさか侍女が   沢山の金貨を天子様から頂いて
              すだれの外で   覗き見の手引をしていようとは


     ⊂ものがたり⊃ 韓偓(かんあく:842?ー923?)は京兆万年(陝西省西安市)の人。父親は李商隠と同年の進士で、姻戚関係でした。黄巣の乱がはじまった乾符二年(875)には三十四歳くらい。昭宗の龍紀元年(889)に四十八歳くらいで進士に及第し、翰林学士から中書舎人、兵部侍郎に累進します。
     しかし、ときの権力者朱全忠(しゅぜんちゅう)に疎まれ、昭宗の天復三年(903)、濮州(河南省范県)司馬に左遷されます。翌年、職を辞して湖南にゆき、さらに福建に移って流浪の生活を送ります。唐の滅亡後は閩地(福建省一帯)の知人のもとに身を寄せ、生涯を終えたといいます。亡くなったのは唐の滅亡後十六年たった同光四年(923)ころで、享年八十二歳くらいです。この年、朱全忠の梁(後梁)は滅び、長安の政権は唐(後唐)に移りました。
     韓偓には艷詩を集めた詩集『香奩集』(こうれんしゅう)があり、後世、この詩体を香奩体というようになります。香奩とは化粧箱のことです。李商隠の若いころの「無題」詩を一歩すすめ、艷情の描写は細密で絵画的、遊戯的になります。
     詩題は「浴(ゆあみ)を詠ず」。はじめの二句は入浴の準備です。「魚犀」は魚の模様のある犀角の笄(こうがい)のことで、笄は束ねた髪を止めるものですから洗髪をしない場合は止めておきます。「翠簪」は翡翠の簪(かんざし)で、簪は髪飾りの類ですから入浴のときははずして纏めておきます。
     中四句は入浴の模様です。浴場には「蘭燭」(蘭麝の香をいれた蝋燭)が灯してあり、蝋燭の光で裸の影が浴室の壁に映ります。それを羞ずかしいと思うのです。「香湯」は香水を混ぜた湯。深くはないかと怖がるところをみると、はじめてはいる浴槽のようです。つぎの二句は「洗花」「沃雪」と対になっており、顔を洗い雪のような白い肌に湯をそそぐのです。結びの二句は落ちで、侍女が手引きして天子が覗き見をするという芝居がかったものになっており、唐末の頽廃的な詩風をしめしています。

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