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tiandaoの自由訳漢詩

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     中唐110ー張祜
         胡渭州               胡渭州

      亭亭孤月照行舟   亭亭(ていてい)たる孤月(こげつ)  行舟(こうしゅう)を照らし
      寂寂長江万里流   寂寂(せきせき)たる長江  万里に流る
      郷国不知何処是   郷国(きょうこく)は知らず  何(いず)れの処か是(こ)れなる
      雲山漫漫使人愁   雲山(うんざん)  漫漫(まんまん)として人をして愁(うれ)えしむ

      ⊂訳⊃
              中天高く月は冴え   ゆく舟を照らし

              長江はさびしげに   万里のかなたへ流れていく

              故郷は何れの方か  方角さえわからず

              雲は山に連なって   旅の愁いに閉ざされる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「胡渭州」(こいしゅう)は楽府題で、西方から伝えられた曲といいます。渭州(甘粛省隴西付近)の胡人が歌っていた民謡でしょう。詩は曲調だけを借りるもので内容とは関係ありません。
     長江を旅する人(作者本人)の旅愁を詠う詩と解してもいいのですが、「郷国」には故郷のほか都長安という意味が含まれているかもしれません。都を離れて地方を流浪する身の寂しさを、長安の友人に伝える詩と考えることもできるでしょう。

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     中唐111ー張祜
        題金陵渡             金陵の渡しに題す

      金陵津渡小山楼   金陵(きんりょう)の津渡(しんと)   小山楼(しょうざんろう)
      一宿行人自可愁   一宿(いっしゅく)の行人(こうじん)  自(おのず)から愁う可(べ)し
      潮落夜江斜月裏   潮(うしお)落ちて  夜江(やこう)   斜月(しゃげつ)の裏(うち)
      両三星火是瓜州   両三(りょうさん)の星火(せいか)  是(こ)れ瓜州(かしゅう)

      ⊂訳⊃
              金陵の渡津  小山楼に一泊すると

              旅の愁いが  どこからともなく湧いてくる

              夜半の長江に潮は引き  月は斜めに射している

              対岸に星明り二つ三つ   あれは瓜州の灯火か


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「金陵の渡し」は閏州(江蘇省鎮江市)にあった長江の渡津です。当時の閏州は長江の河口に近く、「潮落」(潮の満ち干)の影響が顕著でした。潤州の対岸は「瓜州」(江蘇省揚州市瓜洲)で、そこから運河が北へ延び、洛陽へ通じています。だから詩は都への帰心を詠っていることになります。

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     中唐112ー劉禹錫
       秋風引              秋風の引

      何処秋風至     何(いず)れの処(ところ)よりか秋風(しゅうふう)至り
      蕭蕭送雁羣     蕭蕭(しょうしょう)として雁群(がんぐん)を送る
      朝来入庭樹     朝来(ちょうらい)  庭樹(ていじゅ)に入り
      孤客最先聞     孤客(こきゃく)   最(もっと)も先(さき)に聞く

      ⊂訳⊃
              秋の風は  どこから吹いて来るのか

              寂しげに  むれ飛ぶ雁を送りやる

              明け方に  風が庭木を吹き抜けて

              ひとり旅の旅人は  誰よりも先にそれを聞く


     ⊂ものがたり⊃ 劉禹錫(りゅううしゃく:772ー842)は白居易や柳宗元と同時代人で、晩年には白居易と親しく交わります。中山(河北省定県)の人といいますが、代宗の大暦七年(772)に蘇州で生まれ、育ったといいます。
     貞元九年(793)に二十二歳で進士に及第し、同年の柳宗元らと王叔文(おうしゅくぶん)の政事改革に参画、永貞の政変に遭って朗州(湖南省常徳市)司馬に流されます。元和十年(815)正月、都に呼びもどされますが、三月には連州(広東省連県)刺史に再貶されます。ここまでは柳宗元と同じ運命です。
     詩題の「秋風の引(うた)」は楽府題です。劉禹錫の詩は制昨年不明のものが多いのですが、秋に飛ぶ雁は南へわたる雁であり、「孤客」の語に貶謫の身という感じがありますので、朗州へ赴く途中の作とも考えられます。
     夜明けに庭を吹き抜ける風の音を誰よりも先に聞きつけたのは、ほかでもないひとり旅の私なのだと、旅の侘びしさを詠います。

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     中唐113ー劉禹錫
       八月十五日夜翫月    八月十五日夜 月を翫ぶ

      天将今夜月     天(てん)将(まさ)に今夜の月ならんとし
      一遍洗寰嬴     一遍(いっぺん)  寰嬴(かんえい)を洗う
      暑退九霄浄     暑(しょ)退(の)きて  九霄(きゅうしょう)浄(きよ)く
      秋澄万景清     秋(あき)澄(す)みて  万景(ばんけい)清し
      星辰譲光彩     星辰(せいしん)  光彩(こうさい)を譲(ゆず)り
      風露発晶英     風露(ふうろ)   晶英(しょうえい)を発す
      能変人間世     能(よ)く人間(じんかん)の世を変え
      翛然是玉京     翛然(しゅくぜん)として是(こ)れ玉京(ぎょくきょう)

      ⊂訳⊃
              今まさに    今夜の月が昇ろうとし
              あまねく    天下を洗い清める
              暑さは退き  天空は澄み
              晴れ渡る秋  すべての物は清らか
              星ぼしは   光をひそめ
              置く露は    光を放つ
              月の光は   人の世をつくり変え
              おのずから  玉の都のようになる


     ⊂ものがたり⊃ 仲秋の明月の夜を描き、感想を述べます。「寰嬴」は天下、世界という意味で、月が天下を洗い清めると詠います。中四句二組の対句で月下の景をさらに詳しく描きます。「九霄」は高い空、「晶英」は輝く光のことです。
     尾聯の二句は結びで、「翛然」は自在に変化するさま。月の光が人の世を変え、あたりは「玉京」(玉で造った都)のようになると詠います。
     この作品も制昨年不明ですが、「能く人間(じんかん)の世を変え」に痛恨の思いがあり、「是れ玉京」は変革の理想、改革の希望を比喩的に詠っていると解されます。朗州貶謫のときの作かもしれません。

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     中唐114ー劉禹錫
       元和甲午歳詔書       元和甲午の歳 詔書ありて
       尽徴江湘逐客余       尽く江湘の逐客を徴す 余
       自武陵赴京宿於       は武陵より京に赴かんとし
       都亭有懐続来諸       て都亭に宿し 続来の諸君
       君子              子を懐う有り

      雲雨江湘起臥龍   雲雨江湘(うんうこうしょう)  臥龍(がりゅう)を起こす
      武陵樵客躡仙蹤   武陵の樵客(しょうかく)  仙蹤(せんしょう)を躡(ふ)む
      十年楚水楓林下   十年  楚水(そすい)   楓林(ふうりん)の下(もと)
      今夜初聞長楽鐘   今夜(こんや)初めて聞く  長楽(ちょうらく)の鐘

      ⊂訳⊃
              湘水の雲雨が  臥龍を起こす

              武陵の樵が   宮中に召される

              楚水楓林の下  十年間

              今夜はじめて  長楽宮の鐘を聞く


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「元和甲午」(げんなきのえうま)は元和九年の干支ですので、逐客召還の詔書は九年末に発せられたのです。翌十年春、都に入る前夜の宿「都亭」で、つづいて上京してくる友人たちに詩を書き残しました。
     「臥龍」は召還の詔書、ひいては天子をいいます。「武陵」は朗州の別名で、自分のことを「武陵の樵客」といっています。「仙蹤」は仙人の足跡で、宮中のことです。十年の間、楚地に流され楓(ふう)の林を見てすごしたが、「今夜初めて聞く 長楽の鐘」と詠嘆して見せます。

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     中唐115ー劉禹錫
       元和十年自朗州        元和十年 朗州より召さ
       召至京戲贈看花        れて京に至り 戲れに花
       諸君子              を看る諸君子に贈る

      紫陌紅塵払面来   紫陌(しはく)の紅塵(こうじん)  面(おもて)を払って来たる
      無人不道看花回   人の花を看(み)て回(かえ)ると道(い)わざるは無し
      玄都観裏桃千樹   玄都観裏(げんとかんり)     桃千樹(ももせんじゅ)
      尽是劉郎去後栽   尽(ことごと)く是(こ)れ劉郎(りゅうろう)が去りし後に栽(う)う

      ⊂訳⊃
              都大路の風塵が  面と向かって吹いてくる

              どこを向いても   花見の客でいっぱいだ

              玄都観の境内に  花咲く桃は一千樹

              すべては劉郎が  いなくなってから植えたもの


     ⊂ものがたり⊃ 都に帰ってきた劉禹錫は、十年前とすっかり様変わりした朝廷を目にします。ときに長安の二月、桃の花咲く季節です。都大路は花見の人で賑わっており、「面を払って来たる」のは高官の車のたてる土埃でしょう。
     「玄都観」は道教の寺院ですが、ここでは宮廷の暗喩として用いられています。玄都観の境内には仙桃(せんとう)が植えられ、その美しさは紅霞のようだといい、その桃の木は「劉郎」がいなくなってから植えたものだと詠います。
     劉郎は「劉晨(りゅうしん) 天台に入る」の説話を引くもので、自分の姓を懸けています。いま宮中でときめいている役人はみな、自分がいなくなってから時を得た連中だと貶すのです。劉禹錫はかなり気の強い人物であったようです。
     この詩が当局の耳にはいって劉禹錫の再貶がきまったと伝える稗史もありますが、再貶になったのは永貞の司馬の生き残り全員です。

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     中唐116ー劉禹錫
       蜀先主廟           蜀先主の廟

      天下英雄気     天下(てんか)   英雄の気(き)
      千秋尚凛然     千秋(せんしゅう) 尚(な)お凛然(りんぜん)
      勢分三足鼎     勢(せい)は三足(さんそく)の鼎(てい)を分かち
      業復五銖銭     業(ぎょう)は五銖銭(ごしゅせん)を復(おこ)す
      得相能開国     相(しょう)を得ては能(よ)く国を開き
      生児不象賢     児(じ)を生んでは象賢(しょうけん)ならず
      凄涼蜀故妓     凄涼(せいりょう)たり  蜀(しょく)の故妓(こぎ)
      来舞魏官前     来たりて舞う  魏官(ぎかん)の前

      ⊂訳⊃
              天下  英雄の気概は
              千年  厳としてこの世にある
              勢いは分立して  鼎の三足の一となり
              鴻業は漢の血筋を再興する
              名宰相を得て国を開いたが
              後継ぎは不肖の子であった
              蜀の妓女が  魏官の前で舞うのをみて
              蜀の旧臣は  粛として頭を垂れる


     ⊂ものがたり⊃ 元和十五年(820)に憲宗が崩じて穆宗が即位すると、翌長慶元年(821)三月、王叔文一派への恩赦がくだります。劉禹錫は夔州(きしゅう:四川省奉節県)の刺史に移され、ついで敬宗の宝暦元年(825)春、和州(安徽省和県)刺史に転じます。都に復帰するのは文宗の太和二年(828)になってからです。
     詩題の「蜀先主(しょくせんしゅ)の廟」は夔州にあった蜀漢の先主劉備(りゅうび)の廟で、夔州刺史になったときの作とされています。「凛然」は厳粛なさまで、まず英雄の気概が厳然と存在すると詠います。
     中四句は蜀漢の興亡を述べるもので、「三足の鼎」は三国時代に魏・蜀・呉が鼎立し、劉備が蜀を興しました。「五銖銭」は漢の武帝の通貨で、漢の復興を喩えます。「相」は諸葛孔明、「児」は後主劉禅のことで、劉禅は魏に降伏して魏都洛陽に連行されました。
     蜀の妓女が魏の宴会の席で舞うのをみて、劉禅とともに魏に連行された蜀臣たちは「凄涼」(もの寂しいさま)として頭を垂れましたが、劉禅は笑っていたと伝えられます。

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     中唐117ー劉禹錫
        踏歌詞               踏歌の詞

      春江月出大堤平   春江(しゅんこう)  月(つき)出でて  大堤(たいてい)平らなり
      堤上女郎連袂行   堤上(ていじょう)  女郎(じょろう)   袂(たもと)を連ねて行く
      唱尽新詞歓不見   新詞(しんし)を唱い尽くすも歓(かん)見えず
      紅霞映樹鷓鴣鳴   紅霞(こうか)  樹(き)に映じて  鷓鴣(しゃこ)は鳴く

      ⊂訳⊃
              春の長江に  月が昇って堤は平らか

              その上を   袂を連ねて娘らがいく

              はやり歌を  唱い尽くしても恋人は来ず

              夕焼け空が樹に映えて  鷓鴣が淋しく鳴くばかり


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「詞」(うた)は歌詞のことで、知識人も歌うための詩をつくるようになりました。「踏歌」(とうか)は大勢が輪になって足拍子を揃えながら唄う歌で、俗謠としてつくったものです。
     夔州時代の作とされ、「大堤」は長江の堤。「歓見えず」の歓は喜びで胸が満たされること、つまり恋人です。夕焼けの霞が樹に映えるころ、「鷓鴣」が鳴いているだけだと娘たちの失望を詠います。鷓鴣(やまうずら)はキジ科の鳥で、華南に多く分布しています。

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     中唐118ー劉禹錫
         望洞庭              洞庭を望む

      湖光秋月両相和   湖光(ここう)  秋月(しゅうげつ) 両(とも)に相和(あいわ)す
      潭面無風鏡未磨   潭面(たんめん)  風無く  鏡  未(いま)だ磨かず
      遥望洞庭山翠小   遥かに望む  洞庭(どうてい)   山翠(さんすい)の小なるを
      白銀盤裏一青螺   白銀盤裏(はくぎんばんり)の   一青螺(いちせいら)

      ⊂訳⊃
              湖面の光  秋の月  互に和して響き合う

              深い湖  風はなく  湖面は磨かない鏡のようだ

              遥か君山を望めば  小さなみどり

              白銀の大皿に置く  一個の青い田螺のようだ


     ⊂ものがたり⊃ 劉禹錫は二回の貶謫の際、往復とも洞庭湖を通っています。いつ作られてもおかしくありませんが、ここでは宝暦元年(825)春、夔州刺史から和州刺史に転じたときの作と考えました。
     「潭面」は深い湖の水面で、風がなく磨かない鏡のように鈍色に静まっています。「洞庭山」は洞庭湖に浮かぶ君山のことで、それが「白銀盤」(白銀の大皿)に載せた青い「螺」(たにし・にな)のようだと詠います。すぐれた叙景歌で後代の多くの詩人が模倣しています。

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     中唐119ー劉禹錫
       金陵懐古             金陵懐古

      潮満冶城渚     潮(しお)は冶城(やじょう)の渚(なぎさ)に満ち
      日斜征虜亭     日(ひ)は征虜亭(せいりょてい)に斜めなり
      蔡洲新草緑     蔡洲(さいしゅう)の新草(しんそう)は緑にして
      幕府旧烟青     幕府(ばくふ)の旧烟(きゅうえん)は青し
      興廃由人事     興廃(こうはい)は人事(じんじ)に由(よ)り
      山川空地形     山川(さんせん)は地形に空(むな)し
      後庭花一曲     後庭花(こうていか)の一曲
      幽怨不堪聴     幽怨(ゆうえん)  聴くに堪(た)えず

      ⊂訳⊃
              江水は  金陵城の渚に満ち
              夕陽は  征虜亭を斜めに照らす
              蔡洲の草は  新緑に映え
              幕府山に   霞は青く立ちこめる
              世の興亡は  人によって起こり
              地形は勝れていても  山川はむなしい
              玉樹後庭花の一曲には
              聴くに堪えない怨みがある


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「金陵」(きんりょう)は南朝の都建康の雅称です。詩は前後二段に分かれ、前半四句で金陵城を懐古します。「冶城」は三国呉の金陵城にあった武器廠のことですが、ここでは城そのものを指しています。「征虜亭」は玄武湖の北にあり、征虜将軍謝石(しゃせき)の客舎のことです。
     「蔡洲」は蘇峻(そしゅん)の乱を鎮圧するために東晋の水軍が終結したところ。「幕府」は山の名で、王導(おうどう)が幕府をひらき軍隊を駐屯させた山といいます。以上はいずれも六朝時代の金陵の史跡で、歴史を知る者の心に懐旧の情を起こさせます。
     後半は作者の感懐です。王朝の興亡は人によって決まり、地勢の利は何の役にも立たないと詠います。「後庭花」は南朝陳の後主陳叔宝(ちんしゅくほう)がつくった詩「玉樹後庭花」のことで、亡国の歌として有名でした。「幽怨」は胸中の怨み、玉樹後庭花には聴くに堪えない怨みがこもっていると詠うのです。 

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     中唐120ー劉禹錫
        金陵五題              金陵五題
        石頭城                石頭城

      山囲故国周遭在   山は故国(ここく)を囲んで周遭(しゅうそう)として在り
      潮打空城寂莫回   潮(しお)は空城(くうじょう)を打って寂莫(せきばく)として回(かえ)る
      淮水東辺旧時月   淮水東辺(わいすいとうへん)  旧時(きゅうじ)の月
      夜深還過女牆来   夜深くして還(ま)た女牆(じょしょう)を過ぎて来たる

      ⊂訳⊃
              山は古都をめぐって  今もつらなり

              波は城壁に当たって  寂しげに返る

              秦淮河の東の辺りに  昔と変わらぬ月が出て

              夜更けて城壁の垣を越え  城内を照らす


     ⊂ものがたり⊃ 小題の「石頭城」(せきとうじょう)は三国呉の孫権(そんけん)が赤壁の戦のあとに築いた古城で、建康城の要害でした。「故国」は古い都。建康城は周囲を山に囲まれています。石頭城の西壁は長江に接しており、もはや都城でなくなった城壁を長江の波が洗っています。
     「淮水」は建康城の南を流れる秦淮河(しんわいが)のことで、その東側から昔と変わらぬ月が昇り、城壁の「女牆」(ひめ垣)を越えて城内を照らすと詠います。前半は石頭城の寂れたようすを描き、後半はは月は変わらず城壁の上に昇ると、悠久の時の流れを描いて栄華の無常を詠嘆するのです。        

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     中唐121ー劉禹錫
        金陵五題              金陵五題
        烏衣巷                烏衣巷

      朱雀橋辺野草花   朱雀(しゅじゃく)橋辺(きょうへん)  野草(やそう)の花
      烏衣巷口夕陽斜   烏衣(うい)巷口(こうこう)  夕陽(せきよう)斜めなり
      旧時王謝堂前燕   旧時(きゅうじ)  王謝(おうしゃ)堂前(どうぜん)の燕
      飛入尋常百姓家   飛んで尋常(じんじょう)百姓(ひゃくせい)の家に入る

      ⊂訳⊃
              朱雀橋の辺りには  野草の花が咲きみだれ

              烏衣巷の入口には  夕陽が斜めに射している

              昔栄えた王謝の邸  そこに巣くった燕たちも

              いまは飛んで     そこらの民家の軒先に入る


     ⊂ものがたり⊃ 小題の「烏衣巷」(ういこう)は内秦淮河の東南岸にあった高級住宅街で、東晋の大貴族王氏・謝氏らの邸宅がありました。建康城宣陽門(南正門)の南を秦淮河が流れ、「朱雀橋」はそこに架かっていた浮橋です。かつて栄えた朱雀橋のあたりには野草の花が咲き乱れ、烏衣巷の入口には夕陽が斜めに射しています。
     転結句では燕に注目し、王・謝の邸宅に巣くっていた燕たちも、いまは「尋常百姓の家」(一般庶民の家)の軒先に入ると、富貴の家の栄枯盛衰と権力におもねる者の末路を皮肉るのです。

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     中唐122ー劉禹錫
       堤上行三首 其一      堤上の行 三首  其の一

      酒旗相望大堤頭   酒旗(しゅき)相望(あいのぞ)む  大堤(だいてい)の頭(ほとり)
      堤下連檣堤上楼   堤下には檣(ほばしら)を連ね   堤上には楼(ろう)
      日暮行人争渡急   日暮れて行人(こうじん)  渡るを争うこと急なり
      槳声幽軋満中流   槳声(しょうせい)  幽(かす)かに軋(きし)って中流に満つ

      ⊂訳⊃
              堤のほとりに  酒屋の旗が立ち並び

              下には帆柱   上には高楼が軒を連ねる

              日暮れになれば   人々は争って舟に乗り

              微かに軋る櫂の音  流れのなかに満ちわたる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「行」(うた)は歌の意味です。唐代には秦淮河の河口付近、横塘(おうとう)から長干里(ちょうかんり)にかけて長江船運の船着場が栄えていました。堤のほとりには妓楼や酒肆(しゅし)がひしめき、日暮れになると人々は争って渡し舟に乗り、歓楽街をめざします。
     櫂の長大なものを櫓といい、短小なものを「槳」といいます。川の中央に小舟の櫂の音が満ちていると、渡津(としん)の夜のにぎわいを詠います。

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     中唐123ー劉禹錫
        再遊玄都観           再び玄都観に遊ぶ

      百畝庭中半是苔   百畝(ひゃっぽ)の庭中(ていちゅう) 半(なか)ば是(こ)れ苔
      桃花浄尽菜花開   桃花(とうか)浄(きよ)め尽くして菜花(さいか)開く
      種桃道士帰何処   桃を種(う)えし道士(どうし)  何処(いずく)にか帰(き)せし
      前度劉郎今又来   前度(ぜんと)の劉郎(りゅうろう)   今又(ま)た来たる

      ⊂訳⊃
              百畝の庭は荒れ果て 半ば苔に覆われている

              桃の木は姿を消し   菜の花が咲いている

              桃を植えた道士達は  何処へ行ってしまったのか

              かつての劉郎が    またやって来ましたよ


     ⊂ものがたり⊃ 劉禹錫は元和十年(815)の再貶以来、十三年振りに都にもどり、主客郎中に任じられます。翌春でしょうか、桃の花咲く季節になり、十三年前に訪れて詩を賦した玄都観(げんとかん)を再訪しました。
     見れば院内は荒れ果て、千樹の桃は姿を消して菜の花が咲いていました。桃を植えた道士たちは何処へ行ってしまったのかと、時世の変転を皮肉ります。
     都に復帰したものの、このころの政局は牛李(ぎゅうり)の党争の激しいころで、廷臣は二派に分かれて激しく争っていました。劉禹錫は党争に巻き込まれるのを嫌って蘇州・汝州・和州・同州の刺史を歴任し、同じように党争を避けて刺史を歴任した白居易と親しく交わるようになります。
     したがって、さきに太和二年の帰任時の作とした江南での作品は、再度刺史として赴任したときの作品である可能性もあります。

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     中唐124ー劉禹錫
        楊柳枝詞             楊柳枝詞

      煬帝行宮汴水浜   煬帝(ようだい)の行宮(あんぐう)  汴水(べんすい)の浜(ひん)
      数株楊柳不勝春   数株(すうしゅ)の楊柳(ようりゅう)  春に勝(た)えず
      晩来風起花如雪   晩来(ばんらい)風起こって  花  雪の如し
      飛入宮牆不見人   飛んで宮牆(きゅうしょう)に入るも人を見ず

      ⊂訳⊃
              煬帝の離宮よ  汴水の岸

              数株の楊柳が  春の愁いに堪えかねる

              日暮れの風に  柳絮は舞って雪のよう

              飛んで宮殿の垣根に入るが  花見る人の姿はない


     ⊂ものがたり⊃ 太和三年(829)は白居易が太子賓客になって東都洛陽に居を定め、隠棲した年です。太和五年(831)には白居易も劉禹錫も六十歳になり、作品は肩の凝らない詞(ツー)が多くなります。詞(し)は引(いん)や行(こう)と同じく唄うための歌詞で、白居易が取り組んだ新傾向の文芸でした。
     太和二年の帰京のとき、劉禹錫は大運河を用いましたが、晩年に蘇州や和州再任など江南の刺史になったときも運河を用いて往復したでしょう。当時の運河は成皋(せいこう:河南省滎陽県)で黄河から分かれ、汴州(河南省開封市)をへて商丘(河南省商丘市)まで東流し、そこから南下します。そのため運河は汴水とも汴渠ともいわれていました。
     隋の煬帝(ようだい)は運河の堤に楊柳を植え、幾つもの宮殿を建てて離宮としました。離宮は唐代には廃墟と化し、楊柳だけが面影をとどめていました。
     季節は柳絮(りゅうじょ)の舞う晩春、汴水の岸に船をとどめたときの歌でしょう。柳絮が雪のように舞って廃墟の土牆のなかへ飛んでゆきますが、それを愛でる大宮人はいないと栄華のはかなさを詠嘆します。

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     中唐125ー劉禹錫
       竹枝詞九首 其ニ       竹枝詞 九首  其のニ

      山桃紅花満上頭   山桃(さんとう)の紅花(こうか)  上頭(じょうとう)に満つ
      蜀江春水拍山流   蜀江(しょくこう)の春水(しゅんすい)  山を拍(う)って流る
      花紅易衰似郎意   花  紅(くれない)にして衰え易きは  郎(ろう)が意に似て
      水流無限似儂愁   水  流れて限り無きは  儂(わ)が愁いに似たり

      ⊂訳⊃
              山の桃の紅い花  山いっぱいに咲いている

              蜀江の春の水は  山に当たって流れていく

              花は紅色  しおれ易いのはあなたと同じ

              水の流れ  限りないのは悲しみと同じです


     ⊂ものがたり⊃ 詞題の「竹枝詞」(ちくしし)は曲の名です。もとは竹を題材とした素朴な歌でした。白居易にも同題の詞がありますので、競作したのでしょう。一首の内に山・花・紅・水・流・似が二回ずつ用いられ、流麗さをめざしています。
     しかも前二句と後二句はそれぞれ対句になっていて、前二句は叙景に託して娘の燃え上がる恋心を描き、後二句はやるせない恋の悩みを描きます。転句に「郎が意に似て」とあることによって、恋する娘の歌であることがわかります。
     

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     中唐126ー劉禹錫
       浪淘沙九首 其八       浪淘沙 九首  其の八

      莫道讒言如浪深   道(い)う莫(なか)れ  讒言(ざんげん)は浪の如く深しと
      莫言遷客似沙沈   言(い)う莫(なか)れ  遷客(せんきゃく)は沙(すな)に似て沈むと
      千淘万漉雖辛苦   千淘(せんとう)万漉(ばんろく)  辛苦(しんく)なりと雖(いえど)も
      吹尽狂沙始到金   狂沙(きょうさ)を吹き尽くして始めて金に到る

      ⊂訳⊃
              讒言は   浪のように深いと言わないでくれ

              逐臣は   砂のように川底に沈むと言わないでくれ

              幾たびも  選別されるのは辛いことだが

              悪い砂を吹き払ってこそ  金になる


     ⊂ものがたり⊃ 江南の刺史をつとめたあげた劉禹錫は、文宗の開成三年(838)に太子賓客になって洛陽に分司します。当時、白居易も洛陽に隠居していましたので、いっそう親密に行き来します。
     この詞も「浪淘沙」(ろうとうさ)という曲があって、その曲に基づく替え歌です。題は「浪が砂を選り分ける」という意味で、西域伝来の曲といいます。前半と後半は関連があり、全体として教訓の詩になっています。かつての貶謫のつらい体験も、ここでは「千淘万漉」、水中の砂から砂金を選り分ける作業として客観視され、プラス思考に転化しています。そんなところが、劉禹錫の精神の強さを示しています。
     劉禹錫は徳宗・順宗・憲宗・穆宗・敬宗・文宗・武宗、七代の天子に仕え、長命でした。武宗の会昌元年(841)に検校礼部尚書に叙せられ、翌会昌二年(842)に洛陽で亡くなります。享年七十一歳です。
     若いころは柳宗元とともに貶謫の憂き目をみましたが、それを乗り越えて生き抜いたのは、柳宗元が知的であったのに対して、劉禹錫は精神力に勝れていたからでしょう。韓愈と柳宗元が古文に業績を残したのに対して、劉禹錫は白居易とならんで中唐の代表的詩人といえます。

         ☆ 本日をもって中唐をおわります。次回は一月二十日(火)から
            「晩唐の詩人たち」を掲載します。
             なお、掲載日は毎週 火・水・土・日 の四回としますので、
            ご了承ください。

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     号 外
        晩唐の代表的詩人、 杜 牧・李商隠 については、すでに
        生涯をとりあげていますので、つぎのブログを参照ください。

      杜  牧  平成23年7月11日ー12月19日
             ティェンタオの自由訳漢詩1062ー1223

      李商隠  平成24年1月1日ー3月20日
             ティェンタオの自由訳漢詩1224ー1303

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     晩唐1ー許渾
        咸陽城東楼            咸陽城の東楼

      一上高城万里愁   一たび高城(こうじょう)に上れば万里(ばんり)愁う
      蒹葭楊柳似汀洲   蒹葭(けんか)  楊柳(ようりゅう)  汀洲(ていしゅう)に似たり
      渓雲初起日沈閣   渓雲(けいうん) 初めて起こりて  日  閣(かく)に沈み
      山雨欲来風満楼   山雨(さんう)   来たらんと欲して 風  楼(ろう)に満つ
      鳥下緑蕪秦苑暮   鳥は緑蕪(りょくぶ)に下る  秦苑(しんえん)の暮
      蝉鳴黄葉漢宮秋   蝉は黄葉(こうよう)に鳴く  漢宮(かんきゅう)の秋
      行人莫問当年事   行人(こうじん)  問う莫(なか)れ  当年(とうねん)の事
      故国東来渭水流   故国(ここく)   東来(とうらい)  渭水(いすい)流る

      ⊂訳⊃
              ひとたび城楼に上れば  遥かな愁い
              葦や楊柳が茂り合い   川辺の洲のようだ
              雲は谷間に湧き起こり  夕日は寺院の西に沈む
              山の雨は近づこうとし   風が高楼に吹きつける
              鳥は草叢に舞い降りて  秦苑の夕べ
              蝉は黄葉の陰で鳴いて 漢宮の秋
              旅する者よ   昔のことなど訊ねるのはよそう
              かつての都は  渭水が東へと流れるだけだ


     ⊂ものがたり⊃ 唐代を初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分する四変説によると、晩唐のはじまりは文宗の開成元年(836)とするのが一般的です。これは、その前年に起きた「甘露(かんろ)の変」を政事的な画期とみるからです。
     文宗は安史の乱後、禁軍を掌握して強大となった宦官勢力を排除しようとして二度失敗しています。「甘露の変」については杜牧(とぼく)のところで詳しく述べましたので省略(平成23年8月25日のブログ参照)しますが、文宗が李訓(りくん)を宰相に任じて宮廷クデターを起こし失敗した事件です。ひとり生き残った文宗は手も足も出なくなり、以後、唐朝は衰退へむかいます。
     「甘露の変」が政事的な画期であることは確かですが、文学的には中唐の代表的な詩人白居易は文宗のあとの武宗の会昌六年(846)まで生きていました。一方、晩唐の代表的な詩人とされる杜牧(803ー852)は文宗の大和二年(828)に進士に及第し、詩人としての活動をはじめています。詩人たちの活動は歴史的事件の区切りの前後にわたっていますが、晩唐的情況が「甘露の変」を画期として始まるのも事実です。
     号外で述べたように晩唐の代表的詩人「杜牧」と「李商隠」はすでに生涯を扱っていますので、ここでは杜牧や李商隠と同時代の詩人から取り上げます。
     許渾(きょこん:791?ー854?)は潤州丹陽(江蘇省鎮江市)の人。初唐の宰相許圉師(きょぎょし)の子孫にあたり、杜牧よりも十二年ほど早く生まれています。苦学して文宗の大和六年(832)、四十二歳のころ進士に及第し、当塗(安徽省当涂県)、太平(安徽省)の県令になりました。
     宣宗の大中三年(849)に中央にもどって監察御史などを歴任し、睦州(浙江省建徳県)、郢州(湖北省鐘祥県)の刺史になって善政を布いたといいます。清廉な詩風が杜牧らに称賛されましたが、病弱のため辞職し、晩年は郷里の丁夘澗(ていうかん)に隠居します。大中八年(854)のころになくなり、享年六十四歳くらいです。
     詩題の「咸陽城」(かんようじょう)は秦の始皇帝の都があった街で、その東楼に上っての感慨です。はじめの二句は導入部。かつて繁栄した都の跡がすっかり寂れたことを嘆きます。中四句の対句では、眼前に見える景色を描きながら比喩をしのばせます。
     自注に「南は磻渓に近く、西は慈福寺の閣に近し」とありますので、「閣」は寺院の楼閣でしょう。その建物のむこうに夕陽が沈んでゆきます。「山雨」は山の方で降っている雨で、こちらに近づきそうな気配です。この対句には雲と日、雨と風が含まれていて、時代への危機感がこめられています。
     ついで「秦苑」は秦の庭苑、「漢宮」は漢の宮殿で、鳥が草叢に下りるとそこは秦の庭苑の跡であり、蝉が木陰で鳴いていますが、そこは漢の宮殿の跡であると詠います。鳥も蝉も賢者の喩えとして用いられることが多く、栄華の都の荒れたようすを賢者の身の置き所もないと詠って唐の現状を嘆くのです。
     尾聯の「行人」は自分のこと。だから昔の繁栄のことなど考えるのはよそうと自分に言い聞かせ、繁栄したかつての都もいまは渭水が東へと流れているだけと嘆息して結びとするのです。

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     晩唐2ー許渾
        金陵懐古              金陵懐古 

      玉樹歌残王気終   玉樹(ぎょくじゅ)の歌(うた)残りて王気(おうき)は終わり
      景陽兵合戍楼空   景陽(けいよう)  兵(へい)合わせて戍楼(じゅろう)空し
      松楸遠近千官冢   松楸(しょうしゅう)  遠近(えんきん)  千官(せんかん)の冢(つか)
      禾黍高低六代宮   禾黍(かしょ)   高低(こうてい)  六代(りくだい)の宮
      石燕払雲晴亦雨   石燕(せきえん)  雲を払いて  晴  亦(ま)た雨
      江豚吹浪夜還風   江豚(かとん)   浪を吹いて  夜  還(ま)た風
      英雄一去豪華尽   英雄(えいゆう)  一(ひと)たび去りて豪華(ごうか)尽き
      惟有青山似洛中   惟(た)だ青山(せいざん)の洛中(らくちゅう)に似たる有り

      ⊂訳⊃
              玉樹後庭花は残り  王朝の命運は尽きる
              景陽殿は攻められ  城楼はむなしい
              遠く近く松や楸は   臣下百官の墓
              波打つ禾黍の畑は  六朝の宮の址
              礫は風に飛ばされ  晴れと思えば雨になり
              江豚は潮を吹いて  夜にはさらに風が吹く
              英雄が一度去れば  栄華の日々は消え
              緑の山々だけが   都のあとを偲ばせる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「金陵」(きんりょう)は南朝の旧都、許渾の故郷の地でもあります。「玉樹歌」は南朝最後の王朝陳の後主陳叔宝(ちんしゅくほう)が作った「玉樹後庭花」のことで、唐代に歌い継がれていました。「景陽」は陳の景陽殿のことで、隋の兵が攻め込んできたとき、陳叔宝は寵妃とともに宮殿の井戸に隠れていましたが、捕らえられて隋の大興城(長安)に連行されました。
     中四句二組の対句で旧都の荒廃したようすを描きます。遠く近くに点在する「松楸」(まつ・ひさぎ)は墓に植える習慣の木で、王朝の臣下の墓が連なっています。「禾黍」は『詩経』王風の「黍離(しょり)」を踏まえており、王宮の址はきび畑になっています。
     「石燕」は小石のことで風に遭えば礫のように飛びます。「江豚」はイルカに似た水棲動物で、鯨のように潮を吹くといいます。江南の特異な風物を挙げて変わりやすい天候を描き、英雄の威業もひとたび王気が去れば、「惟だ青山の洛中に似たる有り」と栄枯盛衰の空しさを詠います。

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