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tiandaoの自由訳漢詩

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     中唐30ー韋応物
       秋夜寄丘二十二員外   秋夜 丘二十二員外に寄す

      懐君属秋夜     君(きみ)を懐(おも)うは秋夜(しゅうや)に属し
      散歩詠涼天     散歩して涼天(りょうてん)に詠(えい)ず
      山空松子落     山(やま)空(むな)しゅうして松子(しょうし)落つ
      幽人応未眠     幽人(ゆうじん)  応(まさ)に未(いま)だ眠らざるべし

      ⊂訳⊃
              なつかしく   君を思いながら夜は更けて

              秋空のもと  そぞろ歩いて詩をつくる

              静かな山で  松かさがぽつりと落ち

              世捨て人よ  まだ眠らずに覚めているのか


     ⊂ものがたり⊃ 滁州刺史のあと、韋応物は江州(江西省九江市)刺史に移り、都にもどって左司郎中になります。ついで貞元二年(786)に蘇州(江蘇省蘇州市)刺史になります。詩題の「丘二十二」は丘丹(きゅうたん)という名で戸部員外郎になっていましたが、辞職して臨平山(江蘇省杭州市の東北)に隠棲しました。
     詩は蘇州刺史に在任中の作と推定され、隠棲した親友を思いやりながら詩を作って送りました。前半は作者のようすです。後半は相手を想像して詠うもので、「山空」(ひと気のない山)で「松子」(松かさ)の落ちる音がし、「幽人 応に未だ眠らざるべし」と詠います。隠棲しても世を憂えて眠られずにいるのかと同憂の思いを述べるのでしょう。

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     中唐31ー韋応物
       酬柳郎中春日         柳郎中の春日揚州に帰
       帰揚州南郭見         らんとし 南郭にて別
       別之作             れらるるの作に酬ゆ

      広陵三月花正開   広陵(こうりょう)  三月  花(はな)正(まさ)に開く
      花裏逢君酔一廻   花裏(かり)  君に逢い酔うこと一廻(ひとたび)せん
      南北相過殊不遠   南北相過(あいよぎ)ること殊(こと)に遠からず
      暮潮帰去早潮来   暮潮(ぼちょう)帰り去って早潮(そうちょう)来たる

      ⊂訳⊃
              揚州の春三月は   いままさに花ざかり

              花の下で君と会い  また酔っ払ってみたいものだ

              南北に分かれているが  格別遠いわけではなく

              夕べの潮が引けば  また朝潮が満ちてくる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「柳郎中」(りゅうろうちゅう)は伝不明です。柳郎中が韋応物を訪ねてきて揚州(江蘇省揚州市)にもどることになり、「南郭」(城の南の城壁)まで見送りました。柳郎中の留別の詩に応える詩です。「広陵」は揚州の古名で、韋応物が蘇州刺史のときの作とみられます。
     前半では揚州の花ざかりにもう一度会いたいものだと別れを惜しみます。揚州は蘇州の北200kmほどのところにあり、運河も通じています。当時、長江の河口は現在よりも西に入り込んでいて、河口に近い揚州は海の干満差の影響が大きかったといいます。
     柳郎中(「郎中」は旧官職名)は不遇な地位にあったらしく、結句の「暮潮帰り去って早潮来たる」には、生きていればいつかはまたいいこともあるだろうという含みがあるでしょう。

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     中唐32ー韋応物
        答李儋               李儋に答う

      去年花裏逢君別   去年(きょねん)  花裏(かり)  君に逢(あ)うて別れ
      今日花開又一年   今日(こんにち)  花開いて   又(ま)た一年
      世事茫茫難自料   世事(せいじ)茫茫(ぼうぼう)として  自(みずか)ら料(はか)り難く
      春愁黯黯独成眠   春愁(しゅんしゅう)黯黯(あんあん)として  独り眠りを成(な)す
      身多疾病思田里   身に疾病(しっぺい)多くして  田里(でんり)を思い
      邑有流亡愧俸銭   邑(むら)に流亡(りゅうぼう)有りて  俸銭(ほうせん)を愧(は)ず
      聞道欲来相問訊   聞道(きくなら)く  来たりて相問訊(あいもんじん)せんと欲すと
      西楼望月幾回円   西楼(せいろう)  月を望んで幾回(いくかい)か円(まど)かなる

      ⊂訳⊃
              去年  花のころ君と逢って別れ
              今年  花が咲いて一年が過ぎた
              世の中はすっかり乱れ  どうすればいいか分からない
              春の愁いに心はふさぎ  ひとり眠りについている
              体は病気がちで   故郷を思い
              村では流民が増え  俸禄を恥じる
              聞けばいろいろと  尋ねたいことがおありの由
              西の館で月を望み  幾度も満月になりました


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「李儋」(りせん)は友人と思われますが経歴は不詳です。はじめの二句は導入部で、去年の春に李儋と会い、それから一年が過ぎてまた花の季節になったと状況を示します。詩は蘇州刺史のときの作とされており、蘇州で会ったのでしょう。
     中四句では世の中と自分の状況を交互に述べます。頷聯の対句は世の乱れとそれを憂える作者です。頚聯の対句では病気がちであることを述べ、「田里を思い」と詠います。田里は郷里のことで、引退を思うと言っているのです。また、近ごろは流民となる者が多く、「俸銭を愧ず」と「田家を観る」(8月24日のグログ参照)の詩と同じようなことを言っています。
     結びの「聞道く」は伝聞を示す言い方で、李儋から書信がきて再訪したいと言ってきたのに答えるのがこの詩です。「月を望んで幾回か円かなる」はひとりで満月を見て過ごす毎日だからぜひ訪ねてきてくれという含みになります。
     蘇州刺史のあと、韋応物は諸道塩鉄転運江淮留後に至り、退官後は永定精舎に住みました。徳宗の貞元七年(791)ころに亡くなり、享年五十五歳くらいでした。

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     中唐33ー戎?
        採蓮曲               採蓮曲

      涔陽女児花満頭   涔陽(しんよう)の女児(じょじ)  花  頭(こうべ)に満つ
      驂驂同泛木蘭舟   驂驂(さんさん)として同じく泛(うか)ぶ木蘭(もくらん)の舟
      秋風日暮南湖裏   秋風(しゅうふう)  日暮るるも南湖(なんこ)の裏(うち)
      争唱菱歌不肯休   争って菱歌(りょうが)を唱(うた)い  肯(あ)えて休(や)めず
     
            〇 二句目の「驂」は外字になりますので同音
              の字に変えてあります。本来は毛偏です。

      ⊂訳⊃
              涔陽の娘たちは   頭に花を飾り立て

              木蘭の舟に乗って  群がりつどう

              南湖に吹く秋の風  日暮れになったが

              争って菱歌を唱い  やめようとしない


     ⊂ものがたり⊃ 戎?(じゅういく)は生没年不詳です。徳宗の建中年間(780ー783)に辰州刺史をつとめていましたので、韋応物と同じころに活躍した詩人とみられます。
     詩題の「採蓮曲」(さいれんきょく)は蓮の実採りの歌の意味ですが、蓮はどこにも出て来ません。当時、菱や蓮の実摘みは農家の娘たちの楽しい労働でした。「涔陽」は確定できませんが、湖北省公安県の南、涔水の北に涔陽鎮があり、あたりは湖沼地帯です。
     「驂驂」の本来の字は髪もしくは細長いものが乱れているさまをいいます。ここでは小舟が群がっているさまをいうのでしょう。「木蘭の舟」は楚辞に出てくる舟で、菱採り舟を雅していうものです。「菱歌」は菱摘みの労働歌ですので、ここではじめて菱摘みを詠っていることが分かります。日暮れになっても歌をやめないのは、岸辺に男たちが現れるのを待っているのです。

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     中唐34ー戎?
       八月十五日            八月十五日

      憶昔千秋節     憶(おも)う昔  千秋節(せんしゅうせつ)
      懽誤万国同     懽誤(かんご)  万国(ばんこく)同じかりき
      今来六親遠     今来(きんらい)  六親(りくしん)遠く
      此日一悲風     此(こ)の日   一悲風(いちひふう)
      年少逢胡乱     年少(としわか)くして胡乱(こらん)に逢い
      時平似夢中     時(とき)平らぎて夢中(むちゅう)に似たり
      梨園幾人在     梨園(りえん)   幾人(いくにん)か在る
      応是涕無窮     応(まさ)に是(こ)れ  涕  無窮(むきゅう)なるべし

      ⊂訳⊃
              思えば昔  千秋節というお祭りがあり
              国中が   喜びを共にした
              近ごろは  親族でも疎遠
              今日も    悲しい出来事があった
              若いころに   安禄山の乱に逢い
              平定しても   かつての栄華は夢のようだ
              梨園にいま  幾人が残っているだろう
              涙は流れて  永久にとまることはない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「八月十五日」は仲秋の明月の日ですが、出て来るのは八月五日の「千秋節」です。そこに戎?の皮肉があります。八月五日は玄宗皇帝の誕生日で、開元十五年に群臣が上表して千秋節と定められました。天宝三載には「天長節」と改められ、その日は国をあげての祝日でした。
     「一悲風」は不明ですが、何か悲しいことがあったのでしょう。しかし、親族からの見舞いもありません。戎?も韋応物と同じように若いころ安禄山の乱に遭遇しました。つづく三句は玄宗皇帝のことで、乱後皇帝は都にもどりましたが、かっての栄華は夢物語です。
     「梨園」は玄宗が設立した音楽院で、動乱に遭って楽師たちは離散してしまいました。結びの一句は楊貴妃を想う玄宗皇帝のことでしょう。「応に是れ 涕 無窮なるべし」と詠い、白居易の「長恨歌」の基になった発想の先駆とみなせます。

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     中唐35ー李益
        汴河曲               汴河の曲

      汴水東流無限春   汴水(べんすい)東流す  無限(むげん)の春
      隋家宮闕已成塵   隋家(ずいか)の宮闕(きゅうけつ)  已(すで)に塵(ちり)と成れり
      行人莫上長堤望   行人(こうじん)  長堤(ちょうてい)に上りて望むこと莫(な)かれ
      風起楊花愁殺人   風起こりて楊花(ようか)  人を愁殺(しゅうさつ)せん

      ⊂訳⊃
              汴水は東へ流れ  春の愁いは限りない

              隋の離宮は     すでに廃墟と化している

              旅人よ  堤に上って眺めるのはよしたがいい

              柳絮は風に舞い  人は深い悲しみに包まれる


     ⊂ものがたり⊃ 大暦十四年(775)五月に代宗が崩じ、徳宗が即位します。三十八歳の徳宗はやる気満々の皇帝です。まず税制改革に打って出て、ついで不順藩鎮の討伐に乗り出します。ところが討伐は思うように進みません。討伐に向かう途中の兵が、待遇改善を要求して反乱を起こし、徳宗は一時、奉天県(陝西省乾県)に難を避けるほどでした。討伐は失敗に終わります。
     大暦時代に活躍した詩人の多くは貞元の世になっても活躍します。李益(りえき:748ー829?)は隴西姑蔵(甘粛省武威県)の人。大暦四年(769)に二十二歳で進士に及第し、鄭県(陝西省華県)の県尉になります。しかし、昇進が遅いのに不満を抱いて辞職し、河北地方を遊歴して幽州(北京)や邠寧(甘粛省東部)の節度使の幕僚になりました。
     詩題の「汴河(べんか)の曲」は新楽府題です。汴河は汴水ともいい、黄河と淮水を繋ぐ運河の役割を果たしていました。隋の煬帝は運河の西南側に長大な堤を築き、堤上に楊柳を植え、運河沿いに四十余か所もの離宮を置いて行楽の場としました。「隋家の宮闕」はこの離宮のことで、唐代には廃墟となっていました。
     汴水は天井川で、堤は高く盛り上がっています。だから転句で「長堤に上りて」といいます。唐代の詩人にとって隋の栄華の跡は懐古詩の好題材でした。

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     中唐36ー李益
       夜上受降城聞笛        夜 受降城に上りて笛を聞く

      回楽峰前沙似雪   回楽峰前(かいらくほうぜん)  沙(すな)  雪に似たり
      受降城外月如霜   受降城外(じゅこうじょうがい)  月  霜の如し
      不知何処吹蘆管   知らず  何(いず)れの処(ところ)にか蘆管(ろかん)を吹く
      一夜征人尽望郷   一夜   征人(せいじん)  尽(ことごと)く郷(きょう)を望む

      ⊂訳⊃
              回楽峰の前に  砂漠は雪のように白くひろがり

              受降城の外に  月の光は霜のように降りそそぐ

              どこで吹いているのか  あの芦笛は

              今宵 征旅の兵たちは  故郷の方を望み見る


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「受降城」(じゅこうじょう)は漢代に一城が築かれ、内蒙古自治区包頭(パオトウ)の西北にありました。突厥の侵入を防ぐため、唐初に東・中・西の三城に拡充され、黄河沿線に配置されます。「回楽峰」は回楽烽という烽火台の誤りとする説があり、その場合は西受降城(内蒙古自治区杭錦後旗烏加河の北岸)と推定されます。
     前半の対句は有名であり、辺塞からあたりを眺めて雪といい霜といい寒々とした感じをだします。後半、寒々としたその受降城に、何処からか「蘆管」(芦で作った胡族の笛)の音が聞こえて来ます。それを聞いて兵士たちは、望郷の思いに誘われると詠います。

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     中唐37ー李益
        従軍北征            軍に従って北征す

      天山雪後海風寒   天山(てんざん)  雪後(せつご)  海風(かいふう)寒し
      横笛偏吹行路難   横笛(おうてき)  偏(ひと)えに吹く行路難(こうろなん)
      磧裏征人三十万   磧裏(せきり)の征人(せいじん)  三十万
      一時囘首月中看   一時に首(こうべ)を回(めぐ)らして月中に看(み)る

      ⊂訳⊃
              天山に雪が降り  冷たい風が湖上から吹く

              横笛が     しきりに奏でる曲は「行路難」

              砂漠を進む  三十万の将兵は

              月明りの中  一度にうしろを振り返る


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「北征」は北方への遠征ですが、胡族の征討に多く用います。このころ唐は吐蕃と戦っていましたので、吐蕃への遠征でしょう。現代ではタクラマカン砂漠の北につらなる山脈を天山といいますが、唐代では祁連山(きれんざん)を天山と呼ぶこともありました。とすれば、「海風」は青海湖から吹く風になります。
     しかし、作者が節度幕僚をしていた邠寧(ひんねい:甘粛省東部)からは西に離れています。「行路難」は旅路のつらさを主題とする楽曲の名です。「一時に首を回らして月中に看る」には諸説がありますが、ここでは月下でうしろを振り返る意に解しました。

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     中唐38ー李益
        聴暁角              暁角を聴く

      辺霜昨夜墮関楡   辺霜(へんそう)  昨夜  関楡(かんゆ)を墮(おと)し
      吹角当城片月孤   吹角(すいかく)  城に当たって片月(へんげつ)孤なり
      無限塞鴻飛不度   無限の塞鴻(さいこう)    飛びて度(わた)らず
      秋風吹入小単于   秋風(しゅうふう)吹き入る  小単于(しょうぜんう)

      ⊂訳⊃
              国境の砦の楡に  昨夜霜が降り

              夜明けの角笛   ぽっかり浮かぶ月ひとつ

              塞上の雁の群も  飛び去ろうとせず

              「小単于」の曲の  流れるなかを秋風が吹く


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「暁角」(ぎょうかく)は夜明けを告げる角笛です。「関楡」は関門に植えてある楡の木ですが、辺境の砦では楡を植えて遮蔽物としたので砦のことを楡塞ともいいます。「当城」は難解で、地名(河北省蔚県付近)とする説と「城に向き合って」とする説があります。ここでは訳を省きました。
     「塞鴻」は辺塞の上を渡る雁のことで、それが無限につづくほど多く、砦の壁上にとどまって飛び去ろうとしないものもいます。「小単于」は角笛の曲名のひとつ。単于は匈奴の王ですので胡族と関係のある曲でしょう。

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     中唐39ー李益
         写情                情を写す

      水紋珍簟思悠悠   水紋(すいもん)の珍簟(ちんてん)  思い悠悠(ゆうゆう)
      千里佳期一夕休   千里の佳期(かき)  一夕(いっせき)にして休(や)む
      従此無心愛良夜   此(こ)れ従(よ)り   良夜(りょうや)を愛するに心無し
      任他明月下西楼   任他(さもあらばあれ)  明月の西楼(せいろう)に下るを

      ⊂訳⊃
              さざ波模様の竹蓆  わたしは思いに沈む

              固く誓った約束も  一夜のうちに崩れてしまう

              心地よい夜を     もはや楽しもうとは思わない

              明月が西の高楼に沈むのも  どうでもいいことだ


     ⊂ものがたり⊃ 李益は盛唐で盛んだった辺塞詩を復活させ、多くの名作を残しましたが、艶っぽい詩もつくっています。李益の七言絶句は当時の演芸場で人気抜群であったといいます。詩題の「情を写す」には自分の気持ちを振り払うという意味があります。
     李益は若いころ霍小玉(かくしょうぎょく)という妓女を好きになりますが、そのご別れてしまいます。詩は霍小玉が亡くなったことを聞いてつくったといわれており、「写情」は霍小玉との思い出を振り払うという意味になります。
     なお、李益と霍小玉との恋物語は『霍小玉伝』という小説になっており、「大暦のころ、隴西の李益という書生は、二十歳のとき進士に及第した」(唐宋伝奇集)という書き出しになっています。
     詩の冒頭「水紋の珍簟」はさざなみ模様のある竹蓆のことで、霍小玉との思い出の品でしょう。名調子の起句です。承句の「一夕にして休む」というのは、霍小玉の死によって再会のあてがなくなったことをいうのでしょう。
     後半、結句の「任他」(さもあらばあれ)は、もうどうでもいい勝手にしろという意味で、明月が西の高楼に沈むような詩的な風景ももはやどうでもよくなったと、なげやりな気分を詠っています。通俗的な語法が大衆の喝采をあびました。

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     中唐40ー李益
       立秋前一日覧鏡      立秋前の一日 鏡を覧る

      万事銷身外     万事(ばんじ)    身外(しんがい)に銷(き)え
      生涯在鏡中     生涯(しょうがい)  鏡中(きょうちゅう)に在り
      唯将両鬢雪     唯(た)だ両鬢(りょうびん)の雪を将(もつ)て
      明日対秋風     明日(みょうにち)  秋風(しゅうふう)に対せん

      ⊂訳⊃
              総ての事が  私から消え去って

              私の生涯は  鏡の中の姿だけ

              明日からは  真っ白な髪の毛で

              苦難の秋風に立ち向かうのだ


     ⊂ものがたり⊃ 李益の文名はやがて憲宗に聞こえ、召されて秘書少監・集賢殿学士に任じられます。一時降格されたこともありましたが、侍御史、太子賓客などを歴任して礼部尚書(正三品)に至ります。
     詩人としては時代の人気者、役人としては礼部尚書にまで出世した李益ですが、老年になると老いの悲哀を詠っています。ただし、有名な李白の「秋浦の歌」其の十五(白髪 三千丈)がありますので、求められて同様の五言絶句を作ったのかもしれません。
     起句の「万事 身外に銷え」は総ての事が自分から消え去ったという意味で、残されたのは鏡の中の姿だけです。「秋風」には苦難の人生という意味があり、鏡に映っている白髪頭で人生に立ち向かわなければならないと詠うのです。
     文宗の太和三年(829)ころに亡くなり、享年八十二歳くらいでした。

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     中唐41ー朱放
       題竹林寺           竹林寺に題す

      歳月人間促     歳月(さいげつ) 人間(じんかん)に促(うなが)し
      烟霞此地多     烟霞(えんか)   此の地に多し
      殷勤竹林寺     殷勤(いんぎん)にす  竹林寺(ちくりんじ)
      更得幾囘過     更に幾回(いくかい)か過(よぎ)るを得ん

      ⊂訳⊃
              歳月は    人の世をせき立てるが

              この地には  ゆたかな霞が立ちこめる

              竹林寺の   佇むさまにひたりつつ

              再訪の日はあるのかと 惜しみながら歩み去る


     ⊂ものがたり⊃ 朱放(しゅほう:生没年不詳)は襄州(湖北省襄樊市)の人。はじめ漢水のほとりの街に住んでいましたが飢饉に遭い、剡渓(浙江省嵊県の西南)に移住して隠者の生活を送りました。一時期、江西節度使(江西省南昌市)に招かれて参謀になりますが肌に合わず、辞して帰郷しました。
     詩題の「竹林寺」と称する寺は、輝県(河南省)、江陵(湖北省)、廬山(江西省)の三か所にあったといいます。江西節度使の参謀を辞して去るときの作とすれば、廬山の竹林寺になるでしょう。
     起承句に感慨があります。歳月に追い立てられるような俗世を嫌い、「烟霞」の立ち込める幽𨗉な環境が好ましいと詠います。だが、二度と訪れる機会はないだろうと思いながら立ち去るのです。
     そのご朱放は貞元二年(786)に諸科に及第し、左拾遺に任じる詔書を受けますが辞退し、無官のまま生涯を終えました。『唐詩選』はこの一首をに載せるのみです。 

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     中唐42ー王建
         海人謡              海人の謡

      海人無家海裏住   海人(かいじん)   家無く  海裏(かいり)に住む
      採珠役象為歳賦   珠(しゅ)を採(と)り  象(ぞう)を役(えき)して歳賦(さいふ)と為(な)す
      悪波横天山塞路   悪波(あくは)  天を横ぎり 山 路(みち)を塞(ふさ)ぎ
      未央宮中常満庫   未央宮中(びおうきゅうちゅう)  常に庫(こ)に満つ

      ⊂訳⊃
              海人は家を持たず  海上で生活し

              真珠を採り    象牙を運んで税とする

              波は天に達し  山は行く手に立ちふさがるが

              未央宮の蔵は  納税の品でいっぱいだ


     ⊂ものがたり⊃ 王建(おうけん:766?ー831?)は潁川(河南省許昌市)の人。代宗の大暦十年(775)に進士に及第したとありますが、十歳で進士になったことになり、なにかの間違いでしょう。生年がこれくらいであれば、貞元はじめの進士かもしれません。任官して渭南(陝西省渭南県)の県尉から太府寺丞、秘書丞、侍御史を歴任しました。
     詩題の「海人」は海女のことで、当時としてはかなり特異な題材です。家を持たず海上に住むというのは船上生活者でしょう。「象を役して」は難解で、文面では象を使役していることになりますが、海上生活者が象を使うということは考えられませんので、象牙を舟で運ぶと解しました。
     後半は賦役が重過ぎることを批判するものです。船上生活者は苦労して納税の品を運ぶが、宮廷の倉庫は納税品でいっぱいであると詠い、政府を批判します。

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     中唐43ー王建
         塞上梅               塞上の梅

      天山路傍一株梅   天山(てんざん)の路傍(ろぼう)   一株(ひとかぶ)の梅
      年年花発黄雲下   年年(ねんねん)花発(はなひら)く 黄雲(こううん)の下(もと)
      昭君已没漢使囘   昭君(しょうくん)已(すで)に没し   漢使(かんし)回(かえ)る
      前後征人惟系馬   前後の征人(せいじん)  惟(た)だ馬を系(つな)ぐ
      日夜風吹満隴頭   日夜(にちや)風吹いて隴頭(ろうとう)に満つ
      還随隴水東西流   還(ま)た隴水(ろうすい)に随いて東西に流る
      此花若近長安路   此の花  若(も)し長安の路(みち)に近くば
      九衢年少無攀処   九衢(きゅうく)の年少   攀(ひ)く処(ところ)無からん

      ⊂訳⊃
              天山の路傍に    一株の梅
              黄塵のなかで     年年歳歳花ひらく
              王昭君は既になく  漢の使者も帰国した
              遠征の兵たちは   この木に馬を繋ぐだけ
              風は日夜に吹いて  隴山のほとりに満ち
              水は隴水に従って  東西に流れる
              もしもこの梅が    長安の近くにあったなら
              都の粋な若者も   手折ったりはできないであろう


     ⊂ものがたり⊃ 王建は文宗の大和初年に陝州(河南省三門峡市)司馬に左遷され、ついで辺塞の軍に従事しました。詩題の「塞上」(さいじょう)は砦のほとり。そこに生えている梅の木を詠います。
     はじめの二句は主題の設定です。起句の「天山」は西方の山といった語感で用いられており、必ずしも天山山脈を意味しません。「年年花発く」は劉希夷「代悲白頭翁」(平成26年1月22日ー25日のブログ参照)の有名な詩句を踏まえています。
     中四句の「昭君」は王昭君のことで、前漢元帝のとき匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁しました。「漢使回る」は中国と西方との通交が絶えたことを意味します。「隴頭」は隴山(陝西省と甘粛省の境の山)の麓のことで、そこに隴水が流れています。以上の四句は昔は人の往来の盛んなところにあった天山の路傍の梅も、いまは寂れたところに生えていると詠うのです。
     結びの二句は仮定による感想で、もしもこの梅が長安の近くに生えているなら、「九衢の年少 攀く処無からん」といいます。ここは梅を美女と読み変えているいるわけで、権門貴家が自分の邸の庭に移植、つまり妻妾にしてしまうであろうから「九衢の年少」(都の若者たち)も手折ったりはできないであろうと詠うのです。

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     中唐44ー王建
       閑居即時            閑居即時

      老病貪光景     老病(ろうびょう)  光景を貪(むさぼ)り
      尋常不下簾     尋常(じんじょう)  簾(すだれ)を下(くだ)さず
      妻愁耽酒僻     妻は愁う   耽酒(たんしゅ)の僻(へき)
      人怪考詩厳     人は怪しむ  考詩(こうし)の厳(げん)
      小婢偸紅紙     小婢(しょうひ)は紅紙(こうし)を偸(ぬす)み
      嬌児弄白髯     嬌児(きょうじ)は白髯(はくぜん)を弄(もてあそ)ぶ
      有時看旧卷     時(とき)有りて旧卷(きゅうかん)を看(み)るに
      未免意中嫌     未だ免(まぬが)れず  意中(いちゅう)に嫌(いと)うを

      ⊂訳⊃
              老いて病気がちだが  いい景色が大好き
              部屋の簾は  引き上げたままだ
              私の深酒を  妻は心配し
              友人たちは  詩句にこだわるのを不思議がる
              小間使いは  私の詩箋をこっそり持ち出し
              やんちゃな孫は  白い頬髯を引っぱって遊ぶ
              ときどきは  巻物を開いて旧作を見るが
              いまだに満足できず  いやな気分になる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「閑居即時」(かんきょそくじ)は閑居のなか思いつくままに詠んだという意味で、老年の作です。はじめの二句で、老いて病気がちになったが、まだ風流の心は失っていないと自分を誇示します。中四句はそうした作者の最近の暮らしぶりです。
     相変わらず深酒をしていますが、詩の推敲は厳格にやっています。「小婢」の句は面白い光景で、小間使いの娘が王建の詩が書いてある「紅紙」(詩を書くための薄紅色の便箋)をこっそり持ち出していくと詠います。ここは小間使いを非難しているのではなく、おれの詩も小間使いの小使い銭ぐらいにはなるらしいと笑って言っているのです。
     つぎの「嬌児」の句では、孫が自分の白い頬髯にたわむれると満足げに家族を詠います。しかし最後は、いまも自分の詩には満足していないと意欲のあるところを詠って結びとします。
     王建は辺塞の軍から帰還後は咸陽原上(陝西省咸陽市)に住み、大和五年(831)に亡くなります。享年六十六歳くらいです。

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     中唐45ー楊巨源
         折楊柳               折楊柳

      水辺楊柳麴塵糸   水辺(すいへん)の楊柳(ようりゅう)  麴塵(きくじん)の糸
      立馬煩君折一枝   馬を立て  君を煩(わずら)わして一枝(いっし)を折る
      惟有春風最相惜   惟(た)だ春風(しゅんぷう)の最も相惜(あいお)しむ有り
      殷勤更向手中吹   殷勤(いんぎん)に更に手中(しゅちゅう)に向かって吹く

      ⊂訳⊃
              岸の柳が  萌黄の枝をたらしている

              馬を停め  「すまぬが友よ ひと枝折ってくれないか」

              おりしも春風が  枝を持つ手に吹き入って

              ただひたすらに  別れを惜しむかのようだ


     ⊂ものがたり⊃ 楊巨源(ようきょげん:770?ー840?)は河中(山西省永済県)の人。貞元五年(789)に十九歳ほどで進士に及第し、太常博士、鳳翔少尹、国子司業、河中少尹などを歴任します。礼部郎中に至って開成五年(840)ころ七十歳くらいで引退し、翌年になくなりました。享年七十一歳くらいです。
     詩題の「折楊柳」(せつようりゅう)は楽府題で、別れの歌です。起句の「麴塵」は麴かびのことで、黄色がかった緑色です。しだれ柳の新芽の色でしょう。承句に「君を煩わして一枝を折る」とあるので、留別の詩です。一本に「練秀才の楊柳に和す」と題するものがあるので、練秀才が「楊柳」と題する送別の詩を贈ったのに対して、楊巨源が詩を返して折楊柳を依頼したことになります。
     転結句は「一枝」の楊柳を受け取ったが、春風が名残を惜しむかのように枝を持った手のなかまで吹き入ってくると、繊細な情趣を詠って結びます。

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     中唐46ー張侹
         寄人                人に寄す

      酷憐風月為多情   酷(はなは)だ風月を憐(あわれ)むは  多情(たじょう)なる為なり
      還到春時別恨生   還(ま)た春時(しゅんじ)に到って   別恨(べつこん)生ず
      倚柱尋思倍惆悵   柱に倚(よ)って尋思(じんし)すれば  倍々(ますます)惆悵(ちゅうちょう)
      一場春夢不分明   一場(いちじょう)の春夢(しゅんむ)  分明(ぶんめい)ならず

      ⊂訳⊃
              風月に心ひかれるのは  感性が豊かであるからだ

              今年も春がやってきて  別れの歎きがよみがえる

              柱に凭れて思い返せば  悲しみはつのる

              夢のような春の日も    今はおぼろな記憶である


     ⊂ものがたり⊃ 張侹(ちょうてい)は生没年不明、生地も経歴も詳しいことは分かりませんが、艷詩の作者として一詩を残しています。詩題の「人に寄(よ)す」は誰かに贈るという意味で、贈った相手は年をへて会った昔の恋人、もしくは妓女でしょう。
     起句の「風月」には男女が愛し合うという意味が隠されており、風のなかは「虫」(人)、月のなかは「二」、合わせて人が二人になり、愛し合う二人を意味します。「多情」は日本語と異なり感性が豊かで心に感じることが多いという意味です。だから起句は、愛情に心を動かされるのは感性が豊かであるからだと言っていることになります。「別恨」は別れの歎きで、春になると昔の歎きがよみがえってくると詠うのです。
     転句の「柱に倚って尋思すれば」は「尾生の信」をさす句で、むかし尾生という若者が橋のたもとで娘と逢う約束をしました。ところが娘はいっこうに現れず、そのうちに雨が降ってきます。川の水かさが増してきますが尾生は橋脚にすがりついて待ちつづけ、ついに溺れ死んだといいます。つまり相手のことをいつまでも忘れずにいるということで、「一場の春夢 分明ならず」ですが、別れの歎きだけはいつまでも残っていると詠うのです。   

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     中唐47ー崔護
        人面桃花             人面桃花

      去年今日此門中   去年の今日(こんにち)  此の門の中(うち)
      人面桃花相映紅   人面(じんめん)  桃花(とうか)  相映じて紅(くれない)なり
      人面秖今何処去   人面  秖今(ただいま)  何(いず)れの処(ところ)にか去る
      桃花依旧笑春風   桃花  旧に依(よ)って  春風(しゅんぷう)に笑む

      ⊂訳⊃
              去年のこんにち     この門の中で

              あの娘の顔と桃の花  互に映えて美しかった

              あの娘はいったい    どこへ行ってしまったのか

              桃の花だけは変わらずに  春風のなかで微笑んでいる


     ⊂ものがたり⊃ 崔護(さいご)は生地不明。貞元十二年(796)、進士に及第しました。累進して文宗の大和三年(829)に京兆尹から御史大夫になり、広南節度使に至ります。崔護も伝奇に取り上げられ、伝奇では定州博陵(河北省定県)の人になっており、進士には及第しなかったとなっています。
     掲詩の「人面桃花」は伝奇に挿入されている詩で、原文に詩題はありません。だから仮題になります。伝奇では進士に落第した年の春、清明節の日に長安の南郊を散歩していると小さな荘園があり、喉が渇いたので水を所望しました。
     そのとき水を持って出てきた娘(こ)の美しさが忘れられず、一年後の清明節の日にまたその屋敷を訪ねると、門は固く閉められ、叩いても誰も出て来ません。そこで娘はいなくなったと思い、門扉に上の詩を書きつけて立ち去りました。
     しかし、気になるので数日後にまた屋敷を訪れると、なかから大勢の人の泣き声がします。門を叩くと娘の父親が出てきて、娘が扉の詩を見てもうあの人には会えないと歎き悲しんで死んでしまったといいます。
     驚いた崔護は娘の部屋に行き、娘を抱きしめて「某(それがし)は斯(ここ)に在り 某は斯に在り」と呼びかけると、娘は目を開いて蘇生し、二人はめでたく結婚した、という話になっています。

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     中唐48ー韓愈
         酔留東野            酔って東野を留む     (前半八句)

      昔年因読李白杜甫詩 昔年(せきねん)  李白杜甫の詩を読むに因(よ)って
      長恨二人不相従    長(つね)に恨む  二人の相従(あいしたが)わざりしことを
      吾与東野生並世    吾(わ)れ東野(とうや)と  生まれて世を並べたり
      如何復躡二子蹤    如何(いかん)ぞ復(ま)た二子(にし)の蹤(しょう)を躡(ふ)まんや
      東野不得官        東野は官(かん)を得ず
      白首誇龍鍾        白首(はくしゅ)  龍鍾(りょうしょう)たるを誇る
      韓子稍姦黠        韓子(かんし)は稍(や)や姦黠(かんかつ)なり
      自慙青蒿倚長松    自ら慙(は)ず   青蒿(せいこう)の長松(ちょうしょう)に倚(よ)るを

      ⊂訳⊃
              昔  李白と杜甫の詩を読んでから
              二人が行動を共にしなかったことを残念に思う
              ところで  孟君よ  私は君と同じ世に生まれ
              李白と杜甫の轍を  踏みたくはない
              君は官職に恵まれず
              よぼよぼの  白髪になっても誇り高い
              恥かしいが  私はいくらか狡猾で
              艾のように  松の大木に縋っている


     ⊂ものがたり⊃ 徳宗の貞元年間(785ー804)は中唐の自由な雰囲気のはじまりの時期にあたります。同時に中唐を代表する有力詩人が揃って進士に及第し、活動を開始する時期でもあります。進士及第年の早い順からあげますと、韓愈、柳宗元・劉禹錫、白居易の順になります。
     憲宗の元和年間(806ー819)は唐の中興の時代と称され、安史の乱によって崩壊した政事が立ち直る時期です。文学では韓愈の古文復興運動が開花し、白居易は元和元年(806)に大作「長恨歌」(平成22.9.8ー23のブログ参照)を発表して新時代の詩人として登場します。
     韓愈(かんゆ:768ー824)は河陽(河南省孟県)の人。三歳で父をうしない、十四歳で長兄もなくなり兄嫁に養われます。貞元八年(792)、二十五歳で進士に及第しましたが、寒門出身のため吏部の詮試(せんし:博学宏詞科)に及第できず、節度使の幕下を転々とします。
     詩題の「東野」は韓愈の弟子として有名な孟郊(もこう)の字(あざな)です。貞元十二年(796)の秋、韓愈は宣武節度使董晋(とうしん)に招かれて宣武軍観察推官になり、汴州(河南省開封市)にいました。孟郊は貞元十四年(798)の春、進士に及第しましたが官職をえられず、南方への旅の途中、汴州に立ち寄りました。韓愈はしばらく汴州にとどまるよう孟郊を引き止め、詩はそのときのものです。
     四句ずつに分けて読むことができますが、一句の字数は統一されておらず極めて自由な詠い方であるのが注目されます。はじめの四句で李白と杜甫が行を共にしていたらどんなに素晴らしかったろうといい、孟郊に行動を共にしようといいます。孟郊は韓愈より十七歳の年長で、このとき四十八歳でした。
     つぎの四句では老いて官職がえられなくても誇り高い孟郊を「白首 龍鍾たるを誇る」とほめ、節度使の幕下にいる自分を卑下しています。

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     中唐49ー韓愈
        酔留東野            酔って東野を留む     (後半八句)

      低頭拝東野      頭(こうべ)を低(た)れて東野(とうや)を拝(はい)す
      願得終始如鉅鞏   願わくは終始  鉅鞏(きょきょう)の如くなるを得ん
      東野不迴頭      東野は頭(こうべ)を迴らさず
      有如寸筳撞鉅鐘   寸筳(すんてい)もて鉅鐘(きょしょう)を撞(つ)くが如き有り
      吾願身為雲      吾(わ)れ願わくは  身  雲と為(な)り
      東野変為龍      東野は変じて龍(りょう)と為(な)らんことを
      四方上下逐東野   四方上下に東野を逐(お)い
      雖有離別無由逢   離別(りべつ)有りと雖(いえど)も逢(あ)うに由(よし)無し

           〇 二句目の「鉅」は外字になるので同音の字
              に変えてあります。本来は馬偏です。
      ⊂訳⊃
              頭をたれて  君にお願いしたい
              いつまでも  鉅と鞏のように助け合っていきたいものだ
              ところが  君は  私の方を振り向こうとせず
              草の茎で大鐘を  撞くように手ごたえがない
              できたらおれは  雲となり
              君は龍となって  どこまでも
              四方八方   君を追いかけたいものだ
              世に離別はあっても  そんな目に遇う必要はない


     ⊂ものがたり⊃ 後半八句のはじめ四句の「鉅鞏」は想像上の動物で、ひとつは前足が短く後足が長い。ひとつは前足が長く、後足が短い。二匹がたがいに助け合わなければ自由に行動できない動物です。韓愈は孟郊と行動を共にしたいと願っていますが、孟郊の反応がはかばかしくないのを嘆いています。
     つぎの四句の「雲」と「龍」は『易経』に「雲は龍に従い、風は虎に従う」とあるのを踏まえるもので、どこまでもあなたを追いかけますよと結びます。このころの韓愈はまだ古文復興運動の指導者ではなく、古文復興の主張を心に抱きながら規則にしばられない詩を試作していた時期にあたり、同志がほしかったのでしょう。
     

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