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ティェンタオの自由訳漢詩 2053

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 中唐50ー韓愈
     山石               山石          (前半十句)

  山石犖确行径微   山石(さんせき)  犖确(らくかく)として  行径(こうけい)微(かす)かなり
  黄昏到寺蝙蝠飛   黄昏(こうこん)  寺に到れば  蝙蝠(へんぷく)飛ぶ
  昇堂坐階新雨足   堂に昇って階(かい)に坐すれば新雨(しんう)足り
  芭蕉葉大支子肥   芭蕉の葉は大きく支子(くちなし)は肥(こ)えたり
  僧言古壁仏画好   僧は言う  古壁(こへき)の仏画(ぶつが)好しと
  以火来照所見稀   火を以て来たり照らすに  見ゆる所(ところ)稀(かす)かなり
  鋪牀払席置羮飯   牀(しょう)を鋪(し)き席を払って羮飯(こうはん)を置けば
  疏糲亦足飽我飢   疏糲(それい)も亦(ま)た我が飢(うえ)を飽(あ)かしむるに足れり
  夜深静臥百虫絶   夜(よる)深く静かに臥(が)すれば百虫(ひゃくちゅう)絶え
  清月出嶺光入扉   清月(せいげつ)  嶺(みね)を出(い)でて光は扉に入る

  ⊂訳⊃
          山道は石ころだらけ   消え入りそうな細い径だ
          日暮れに寺につくと   蝙蝠が飛んでいた
          本堂の階段に坐せば  秋雨をたっぷり受けて
          芭蕉の葉はおおきく   梔子の実は肥えている
          「壁の仏画はいいものですよ」と寺の僧が言い
          松明で照らしてくれたが   ぼんやりと見えるだけだ
          床をのべ敷物の埃を払い  吸い物と飯を並べてくれる
          玄米の飯は 空き腹を満たすのに充分だった
          夜が更けて静かに横になる  虫の声ははたと止み
          山の上に清らかな月が出て  扉から光が射してくる


 ⊂ものがたり⊃ 唐代に公用文として広く行われていたのは南北朝時代に成立した四六駢儷文(しろくべんれいぶん)でした。韓愈はその技巧本位、形式重視の文体に反対をとなえ、秦漢時代の自由達意の文体、古文の復活を主張します。
 詩題の「山石」(さんせき)は冒頭の二字をとったものですが、第一句自体がこのころの韓愈の不安定な立場を示すものでしょう。貞元十五年(799)の秋、三十二歳の韓愈は武寧節度使張建封(ちょうけんぽう)の幕下に入って節度推官になり、徐州(江蘇省徐州市)に行きました。だが、節度使と意見が合わず、貞元十六年の秋に徐州を離れ、洛陽や長安を行き来していました。
 詩は貞元十七年(801)七月二十二日、門下の三人を伴なって洛陽北郊の恵林寺に遊んだときのもので、論理を積み上げていくような順序正しい緻密な詩です。はじめの四句は序の部分で、石ころだらけの径をたどって日暮れに恵林寺に着きます。「新雨」は新しく降った雨で、秋雨が樹々を潤しています。
 つぎの六句は寺に着いたあとの様子。寺僧が火をかざして壁の絵を見せますが、ぼんやりとしていて見えないというのも比喩的です。

ティェンタオの自由訳漢詩 2054

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 中唐51ー韓愈
     山石               山石          (後半十句)

  天明独去無道路   天明(てんめい)  独り去(ゆ)きて  道路を無(な)みし
  出入高下窮煙霏   出入(しゅつにゅう)  高下して  煙霏(えんぴ)を窮(きわ)む
  山紅澗碧紛爛漫   山は紅(あか)く  澗(たに)は碧(あお)く  紛(ふん)として爛漫(らんまん)たり
  時見松櫪皆十囲   時に松櫪(しょうれき)の皆(みな)十囲(じゅうい)なるを見る
  当流赤足蹋澗石   流れに当たって赤足(せきそく)にて澗石(かんせき)を蹋(ふ)めば
  水声激激風吹衣   水声(すいせい)は激激として風は衣(ころも)を吹く
  人生如此自可楽   人生  此(かく)の如く自(おのず)から楽しむ可(べ)し
  豈必局束為人鞿   豈(あ)に必ずしも局束(きょくそく)として人に鞿(しば)られんや
  嗟哉吾党二三子   嗟哉(ああ)  吾(わ)が党の二三子(にさんし)よ
  安得至老不更帰   安(いずく)んぞ老いに至るまで更に帰らざるを得んや

  ⊂訳⊃
          夜明けにひとり起き出して  道を選ばずに歩きまわる
          谷を出入りし山を上下して  靄の中をどこまでも行く
          山はくれない 谷間は緑色  目を奪うほど鮮やかで
          ときに見かける松や檪は   どれも十抱えはあるだろう
          流れに行き当たり  谷川の石を素足で踏むと
          水音は高くひびき  風は衣をひるがえす
          これでこそ    人生は楽しいのだ
          窮屈な思いで  役人生活に縛られることはない
          わが古文復興運動の同志たちよ
          引退もせずに  老いるまで勤める必要はないのだ


 ⊂ものがたり⊃ 後半十句のはじめ六句では、夜明けにひとり起き出してあたりの山中を歩きまわります。「煙霏」はもや、霞のことで、「出入 高下して 煙霏を窮む」というのも不安定な境遇にある自分を喩えるのでしょう。「流れに当たって」は谷川の流れが行く手をさえぎるのであり、「赤足」(裸足)で流れに入っていくと、「水声は激激として風は衣を吹く」のです。最後の四句は結びで、人生観が詠われます。
 何度挑戦しても銓試に及第しない韓愈は、役人生活に見切りをつけたような言い方をしていますが、翌年の貞元十八年(802)に吏部試に及第しないまま国子監四門博士に任用されます。翌年には監察御史にすすみますが、京兆尹李実(りじつ)を弾劾して逆に陽山(広東省)の県令に左遷されてしまいます。赦されて国子博士、河南令、史館修撰、中書舎人を歴任、五十二歳のときに刑部侍郎に進みました。

ティェンタオの自由訳漢詩 2055

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 中唐52ー韓愈
    左遷至藍関            左遷せられて藍関に
    示姪孫湘              至り 姪孫湘に示す

  一封朝奏九重天   一封(いっぽう)  朝(あした)に奏す  九重(きゅうちょう)の天
  夕貶潮州路八千   夕べに潮州(ちょうしゅう)に貶(へん)せらる  路(みち)八千
  欲為聖明除弊事   聖明(せいめい)の為に弊事(へいじ)を除かんと欲(ほっ)す
  肯将衰朽惜残年   肯(あえ)て衰朽(すいきゅう)を将(もっ)て残年を惜(おし)まんや
  雲横秦嶺家何在   雲は秦嶺(しんれい)に横たわって  家  何(いず)くにか在る
  雪擁藍関馬不前   雪は藍関(らんかん)を擁(よう)して  馬  前(すす)まず
  知汝遠来応有意   知る  汝(なんじ)が遠く来たる   応(まさ)に意(い)有るべし
  好収吾骨瘴江辺   好し  吾(わ)が骨を収(おさ)めよ  瘴江(しょうこう)の辺(へん)

  ⊂訳⊃
          朝はやく    一通の上奏文を宮中に差し出し
          夕べには   八千里のかなた潮州に流される
          天子のため  国弊を除こうと思っただけで
          衰朽の身に  余生を惜しむ気持ちはない
          雲は秦嶺に横たわって  わが家のあたりも見えず
          雪は藍関を埋めつくし  乗馬も前に進もうとしない
          遥々とここまで来てくれた  汝の気持ちはわかっている
          いいだろう   わしの骨を拾ってくれ  あの瘴江の川岸で


 ⊂ものがたり⊃ 憲宗は藩鎮対策に成果をあげ、唐の中興の英主と称されますが、治世の末年には仏教に傾斜するようになります。当時、鳳翔府(陝西省鳳翔県)の法門寺に仏舎利が安置されており、三十年に一度開帳されていました。元和十四年(819)はその開帳の年に当たっており、憲宗は仏舎利を宮中に迎えて正月三日間の祭りを行ない、ひろく世人に礼拝させました。
 儒学の徒である韓愈はそれを黙視できず、「仏骨を論ずる表」を呈して「伏して惟(おもんみ)るに、仏なる者は夷狄の一法のみ」と論じました。それが憲宗の逆鱗に触れ、死一等を減じられて潮州(広東省潮州市)に流されました。ときに韓愈は五十二歳。詩はそのときのもので、家族を伴なって藍関(陝西省藍田県)まで来たとき、次兄韓介(かんかい)の孫の韓湘(かんしょう)が追いかけて来たのに与えた詩です。
 はじめの二句はすでに述べた貶謫の次第です。中四句は左遷に対する心境と都をあとにする情景を述べます。「残年」は衰えた命、力を失った命の意味で、なくなりかけた余生を惜しみはしないと、憤りをこめて詠います。そしてあたりを見わたして頚聯の有名な対句を述べます。この対句の情景描写は作者の心境の喩えにもなっており、「残年を惜まんや」と言っていながら本心は不満でいっぱいです。
 結びの二句は「姪孫湘」(てつそんしょう)に贈る言葉で、お前がここまで来てくれた志はよく分かっている。「瘴江」は瘴癘(しょうれい)の気(毒気)に満ちた大河のことで、ここでは潮州を流れる韓江のことでしょう。その地で自分が死ねば骨を拾ってくれ、つまり自分の志を継いでくれといい残すのです。
 しかし、翌年正月、憲宗が急死し、韓愈は九月に赦されて都にもどり国子監祭酒に復帰します。そのごは兵部侍郎、吏部侍郎を歴任、穆宗の長慶四年(824)になくなりました。享年五十七歳です。

ティェンタオの自由訳漢詩 2056

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 中唐53ー孟郊
    遊子吟              遊子吟

  慈母手中線     慈母(じぼ)   手中(しゅちゅう)の線(いと)
  遊子身上衣     遊子(ゆうし)  身上(しんじょう)の衣(ころも)
  臨行密密縫     行(こう)に臨んで密密(みつみつ)に縫(ぬ)う
  意恐遅遅帰     意は恐る  遅遅(ちち)として帰らんことを
  誰言寸草心     誰か言う  寸草(すんそう)の心
  報得三春暉     三春(さんしゅん)の暉(き)に報(むく)い得(え)んとは

  ⊂訳⊃
          慈愛に満ちた母上が  手に持つ糸
          旅に出る私のための旅の衣だ
          旅に臨んで  ひと針ひと針縫いながら
          心に内では  いつ帰るのかと案じている
          小さな草の芽にひとしいわが心
          春の陽ざしのような親心に  どうして酬いることができようか


 ⊂ものがたり⊃ 孟郊(もうこう:751ー814)は湖州武康(浙江省清県武康)の人。はじめ嵩山に隠棲していましたが、母親のたっての願いで都へ出、韓愈らと親交を結びます。貞元十二年(796)に四十六歳で進士に及第し、貞元十八年(802)に溧陽(江蘇省溧陽県)の県尉に任じられ、老母を任地に呼び寄せました。
 詩題の「遊子吟」(ゆうしぎん)は楽府題ですが、自注に「母を溧上に迎えて作る」とあり、溧陽の県尉になって老母を任地に呼び寄せたときの作です。六句からなる五言古詩で、はじめの二句は対句になっています。
 「遊子吟」といえば南北朝以来、旅する夫を思う妻を主題としてきましたが、ここでの「遊子」は旅に出る作者自身のことです。中二句は母親のしぐさを描きながら、その心を想像します。「行」は命じられて出張するのでしょう。
 結びの二句は作者の心境で、「三春の暉」は春三か月の陽の光のような母の愛です。そんな大きな愛情に酬いることができると誰が言えようか、言えはしないと感謝の気持ちを反語で強調します。

ティェンタオの自由訳漢詩 2057

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 中唐54ー孟郊
    燭蛾               燭蛾

  燈前双舞蛾     燈前(とうぜん)  双舞(そうぶ)の蛾(が)
  厭生何太切     生(せい)を厭(いと)うこと  何ぞ太(はなは)だ切なる
  想爾飛来心     爾(なんじ)が飛び来たる心を想うに
  悪明不悪滅     明(めい)を悪(にく)みて   滅するを悪まざるならん
  天若百尺高     天  若(も)し百尺の高さなるも
  応去掩明月     応(まさ)に去(ゆ)きて明月を掩(おお)うべし

  ⊂訳⊃
          灯火の前に   飛んできた二匹の蛾
          生きることを  どうしてそんなに嫌がるのか
          飛んで来る   お前の心を思うと
          明るさを憎み  暗いものを好むのであろうか
          天がもし     百尺の高さであっても高く飛んで
          明るい月に   覆いかぶさろうとするだろう


 ⊂ものがたり⊃ 任地に母親を呼び寄せましたが、孟郊は職務に熱意が持てませんでした。川べりで酒を飲んでは詩を作っていたといいます。そのため俸給を減額されて職を捨てます。
 詩題の「燭蛾」(しょくが)は灯火に飛んできた蛾のことです。六句の五言古詩。はじめの二句は燭台の火に向かって飛んできた蛾に、どうしてそんなに生きることを嫌がるのかと問いかけます。
 中二句では蛾の心境を想像して「明を悪みて 滅するを悪まざるならん」といいます。ここは孟郊の哲学が反映している部分で、蛾は明るいものを憎んで火を消すために飛んで来るのかと詠うのです。中国語で「滅するを悪まざる」は明が暗になるのを好むの強調形で、蛾の行動に対する孟郊の屈折した解釈があります。
 結びの二句ではさらに想像をふくらませ、夜空に月が輝いているが、暗いのを好きなお前たちは天空高く飛んでいって明月に覆いかぶさろうとするのだろうといいます。この詩は孟郊の代表作とされる作品で、破滅型の人生観をしめすものです。

ティェンタオの自由訳漢詩 2058

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 中唐55ー孟郊
    苦寒吟              苦寒吟

  天色寒青蒼     天色(てんしょく)寒くして青蒼(せいそう)たり
  北風叫枯桑     北風(ほくふう)   枯桑(こそう)に叫ぶ
  厚冰無裂文     厚冰(こうひょう)  裂文(れつぶん)無く
  短日有冷光     短日(たんじつ)  冷光(れいこう)有り
  敲石不得火     石を敲(たた)けども火を得ず
  壮陰正奪陽     陰(いん)壮(さか)んにして正(まさ)に陽(よう)を奪う
  調苦竟何言     調苦(ちょうく)   竟(つい)に何をか言わん
  凍吟成此章     凍吟(とおぎん)  此の章(しょう)を成す

  ⊂訳⊃
          寒々とした蒼い空
          北風が  枯れた桑の木を鳴らす
          部厚い氷には裂け目がなく
          冬の陽が冷たく光るだけ
          火打石を叩くが  発火せず
          陰の気が盛んで  陽気を奪う
          苦吟するが  詠うことができず
          凍えながら  この詩をつくる


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「苦寒吟」(くかんぎん)は楽府題です。詩作に際して身を削るように苦吟したといわれる孟郊が、人生の苦労と詩作の困難を二つ合わせて冬の寒気の苦しさに喩えるものです。はじめの二句は北風吹きすさぶ冬の日の設定。
 中二聯の対句には重厚な比喩があります。厚い氷には裂け目がなく、冷たい冬の陽が射しているだけといいます。それは入り込む隙のない世間のことでしょう。火打石を叩いても発火しないというのは、詩句が生まれないことの比喩でしょう。結びの「調苦」は苦吟することで、冬の寒さに凍えながらやっとこの詩をつくったと詠います。
 しばらく野にいた孟郊は、そのご鄭余慶(ていよけい)に見出されて水陸転運判官に任じられ、興元軍節度参謀になりますが、赴任の途中で病死しました。享年六十四歳。韓愈は孟郊を尊敬する詩人として遇しました。

ティェンタオの自由訳漢詩 2059

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 中唐56ー張籍
    哭孟寂              孟寂を哭す

  曲江院裏題名処   曲江(きょくこう)院裏(いんり)  名を題せし処(ところ)
  十九人中最年少   十九人中   最も年少(ねんしょう)
  今日風光君不見   今日の風光  君見えず
  杏花零落寺門前   杏花(きょうか)零落(れいらく)す  寺門(じもん)の前

  ⊂訳⊃
          曲江の寺院の壁は  共に名前を書いた場所
          十九人のその中で  君が一番若かった
          いま同じ景色の中  君の姿はもはやない
          寺院の門前に     杏子の花が散るばかり


 ⊂ものがたり⊃ 張籍(ちょうせき:766?ー830?)は和州烏江(安徽省和県)の人。韓愈に認められて門下になり、古文復興運動に参加しました。貞元十五年(799)に三十三歳で進士に及第しますが、喪にあって任官しませんでした。
 詩題の「孟寂」(もうせき)は経歴不詳。貞元十五年に張籍と同年で進士に及第した若者でしょう。春二月、科挙の合格者が発表されると、新進士は曲江の杏園で天子の饗宴を受けます。そのあと慈恩寺の大雁塔に上り、壁に自分の名前を書きつけました。孟寂はもっとも若い合格者でしたが、ほどなく亡くなってしまいました。孟寂死後の春、張籍は曲江の寺を訪れて亡き友を偲んだのです。

ティェンタオの自由訳漢詩 2060

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 中唐57ー張籍
     涼州詞              涼州詞

  辺城暮雨雁飛低   辺城(へんじょう)の暮雨  雁(かり)飛ぶこと低く
  芦筍初生漸欲斉   芦筍(ろじゅん)初めて生じ漸(ようや)く斉(ひと)しからんと欲す
  無数鈴声遥過磧   無数の鈴声(れいせい)  遥かに磧(せき)を過ぐ
  応駄白練到安西   応(まさ)に白練(はくれん)を駄(はこ)びて安西(あんせい)に到るなるべし

  ⊂訳⊃
          国境の街に日暮れの雨  雁は低く飛んでゆき

          芦や筍は  新芽を伸ばして競い合う

          鈴の音が  遥かにゴビ砂漠を過ぎてゆく

          白い練絹を運んで  西域へゆくのであろう


 ⊂ものがたり⊃ 盛唐の「涼州詞」(りょうしゅうし)は辺塞詩を代表する詩題でした。しかし、中唐のこの時代になると辺塞に胡笛の声はなく、聞こえて来るのはキャラバンのラクダの首につけた鈴の音です。
 「磧」は石ころの原、ここではゴビ砂漠のことでしょう。すでに安西都護府は廃止されていましたが、「安西」という言葉だけが、西方・西域をしめす語として残っていました。

ティェンタオの自由訳漢詩 2061

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 中唐58ー張籍
     秋思              秋思

  洛陽城裏見秋風   洛陽城裏  秋風(しゅうふう)を見る
  欲作家書意万重   家書(かしょ)を作らんと欲して  意(こころ)万重(ばんちょう)
  復恐怱怱説不尽   復(ま)た恐る   怱怱(そうそう)にして説いて尽くさざらんことを
  行人臨発又開封   行人(こうじん)  発するに臨んで又(ま)た封を開く

  ⊂訳⊃
          洛陽の街に  秋風が吹き

          便りを書こうとするが   つもる思いでいっぱいだ

          慌ただしく書いたので  言い足りぬことはなかろうかと

          旅人の出ていくきわに  また封をひらいて読みなおす


 ⊂ものがたり⊃ 張籍は任官して秘書郎、太常寺太祝、水部員外郎、主客郎中を歴任します。韓愈の推薦で国子博士に任じられ、国子司業に至ります。
 詩題の「秋思」(しゅうし)は秋の思い。「家書」は故郷への便りで、洛陽にいる作者が故郷に残している妻子に便りをするのでしょう。「行人」は旅人もしくは使者で、旅行者に託して私信を届けてもらうのです。
 故郷の方に行く人があると聞いて、あわてて書信をしたためたのでしょう。転句の「復た恐る 怱怱にして説いて尽くさざらんことを」に、作者の優しい心根がにじんでいます。

ティェンタオの自由訳漢詩 2062

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 中唐59ー張籍
   夏日閑居           夏日閑居

  無事門多閉     事(こと)無く  門  多く閉(と)ず
  偏知夏日長     偏(ひと)えに知る夏日(かじつ)の長きを
  早蝉声寂寞     早蝉(そうぜん)  声は寂寞(せきばく)
  新竹気清涼     新竹(しんちく)  気は清涼(せいりょう)
  閑対臨書案     閑(しずか)に対するに臨書(りんしょ)の案(つくえ)
  看移曬薬牀     看(かん)移す曬薬(さいやく)の牀(いす)
  自憐帰未得     自ら憐(あわ)れむ  帰るを未(いま)だ得ず
  猶寄在班行     猶(な)お寄せて   班行(はんこう)に在るを

  ⊂訳⊃
          何事もなく  門を閉ざしていると
          夏の陽は   いっそう長く感じられる
          朝の蝉は   ほそぼそと鳴き
          竹の新芽は 涼しげに伸びる
          読書をしようと   静かに机にむかい
          ふと見れば  床几の上に薬草が乾してある
          辞職もせず  役所に席だけを置いている
          そんなわが身が  恥ずかしい


 ⊂ものがたり⊃ 夏の日の閑居の詩。まずはじめの二句で閑居の感懐をのべます。中二聯の対句は自宅の庭のようすでしょう。朝蝉の声、竹の新芽、そんなものに目をやりながら、読書でもしようと机にむかいます。そのとき「曬薬」、薬草が乾してあるのが目につきました。
 「牀」は椅子というより牀几に近く、木の台の上に薬草を並べて乾してあります。作者が言いたかったのはこのことで、病気のために役所を休んでいるのです。病気は目の病気であったようです。
 結びの「帰るを未だ得ず」は故郷に帰らないこと、転じて辞職しないことをいいます。病気で役所にも出らずに「班行」(朝廷の席次)だけを保っている。そんなわが身が恥かしいと同僚か友人に伝える詩でしょう。

ティェンタオの自由訳漢詩 2063

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 中唐60ー張籍
    詠懐              詠懐

  老去多悲事     老去(ろうきょ)  悲事(ひじ)多し
  非唯見二毛     唯(ただ)  二毛(にもう)を見るのみに非(あら)ず
  眼昏書字大     眼(まなこ)昏くして 書字(しょじ)大に
  耳重語声高     耳(みみ)重くして  語声(ごせい)高し
  望月偏増思     月を望めば   偏(ひとえ)に思いを増し
  尋山覚発労     山を尋ぬれば  労(ろう)を発するを覚ゆ
  都無作官意     都(すべ)て官(かん)作(た)るの意(い)無し
  頼得在閑曹     頼(さいわ)いに閑曹(かんそう)に在るを得たり

  ⊂訳⊃
          老年になると  悲しいことが多くなる
          髪の毛が    白くなるのを見るだけではない
          目が見え難く  書く字は大きくなり
          耳が遠くて   声は自然と高くなる
          月を眺めても  もの思いが増え
          山に登っても  疲れを覚える
          勤めの意欲も なくしてしまったが
          幸いなことに  暇な官職にありついている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「詠懐」は阮籍(げんせき)がこの題を用いたときは内面の深刻な問題を訴えるもの(平成25.2.23ー27のブログ参照)でしたが、ここでは個人の言い訳に変化しています。はじめの二句では老齢の一般論をのべます。
 中二聯の対句で具体論に入り、まず目と耳の問題。つぎは自分の行動と心理で、月を眺めても物思いにふけりがちになり、山を訪れても疲れを覚えます。そこでいいたいのは最後の二句で、もはや「官」(役人)である意欲もなくしたが、幸いなことに「閑曹」(暇な官職)についていると詠います。
 張籍は剛直な性格で、韓愈としばしば争論したと伝えられていますが、韓愈周辺の詩人のなかでは出世した方であり、詩風は温和な感じです。文宗の太和四年(830)ころになくなり、享年六十五歳くらいです。     

ティェンタオの自由訳漢詩 2046

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 中唐61ー賈島
   暮過山村           暮に山村を過ぎる

  数里聞寒水     数里(すうり)    寒水(かんすい)を聞く
  山家少四隣     山家(さんか)   四隣(しりん)少なし
  怪禽啼曠野     怪禽(かいきん)  曠野(こうや)に啼(な)き
  落日恐行人     落日(らくじつ)   行人(こうじん)を恐れしむ
  初月未終夕     初月(しょげつ)  未(いま)だ夕べを終えず
  辺烽不過秦     辺烽(へんほう)  秦(しん)を過ぎず
  蕭条桑柘外     蕭条(しょうじょう)たり  桑柘(そうしゃ)の外(ほか)
  煙火漸相親     煙火(えんか)   漸(よう)やく相親(あいした)しむ

  ⊂訳⊃
          数里の間   冷たい水の音
          山里では   家はまばらで隣家もない
          荒れた野で  鳥は怪しげな声で鳴き
          日が暮れて  旅する者は恐れを抱く
          三日月は   出たかと思えば沈み
          悪い報せが 都に届かないのは幸せだ
          寂しげな   桑と柘植の木立の向こう
          立ち昇る炊煙に  私はやっと安堵する


 ⊂ものがたり⊃ 賈島(かとう:779ー843)は范陽(河北省涿県)の人。二十数年も科挙に落第しつづけ、僧になって長安の清龍寺に住みます。当時流行していた白居易らの平易な詩風に反対し、詩は苦吟して作るべきものと主張し、孟郊とならぶ苦吟の詩を書きました。「推敲」の故事は有名です。
 詩は冬の日暮れに山村を過ぎたときの作で、寒々とした流れの音を聞きながら山間の村にさしかかります。中二聯の対句は旅の描写と感懐で、荒野で名も知らぬ鳥の鳴き声を聞き、日が暮れて泊まる宿がないことに恐れを抱きます。
 「辺烽 秦を過ぎず」というのは、直訳すると国境からの烽火が「秦」(都のある地域)にやって来ないになり、胡族の侵入のような悪い報せもなく平和であることを比喩的に言うものです。そして結びの二句、「桑柘」は桑と柘植のことで村里近くの点景でしょう。その木立の向こうに「煙火」(炊煙)が立ち昇るのを見て、ようやく人里に帰って来たと安堵するのです。  

ティェンタオの自由訳漢詩 2065

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 中唐62ー賈島
    病蝉              病蝉

  病蝉飛不得     病蝉(びょうせん)  飛ぶことを得ず
  向我掌中行     我が掌中(しょうちゅう)に向(おい)て行く
  折翼猶能薄     折翼(たくよく)  猶(な)お能(よ)く薄(おお)い
  酸吟尚極清     酸吟(さんぎん)  尚(な)お清(せい)を極む
  露華凝在腹     露華(ろか)    凝(こ)りて腹(はら)に在り
  塵点誤侵睛     塵点(じんてん)  誤って睛(ひとみ)を侵(おか)す
  黄雀并鳶鳥     黄雀(こうじゃく)  并(なら)びに鳶鳥(えんちょう)
  倶懐害爾情     倶(とも)に爾(なんじ)を害せんとするの情(じょう)を懐(いだ)く

  ⊂訳⊃
          傷ついた蝉は  飛ぶことができず
          私に手の平で  弱々しく動いている
          破れた翅は   どうにか体を覆っているが
          辛そうな声は  なお住み切って清らかだ
          蝉の腹には   輝く露がついているが
          瞳にはなんと  小さな傷を負っている
          雀や鳶たちは  いつもお前に狙いを定め
          喰い殺そうと  思っているのだ


 ⊂ものがたり⊃ 韓愈と知り合った賈島は、すすめられて還俗します。ふたたび進士に挑戦しますが、及第したかどうかは不明です。任官後のある日、都内を微行していた宣宗に無礼があったとして遂州(四川省蓬渓県)の主簿に左遷されます。
 詩題の「病蝉」は傷ついた蝉、弱った蝉のことです。蝉はこれまで世俗にとらわれない高潔な人格、節操の高い人物の喩えとして詠われてきました。それが一転して「病蝉」です。はじめの二句で作者は飛ぶことのできない蝉をみつけ、掌に乗せて弱々しく動くのを見ています。
 中二聯の対句はその観察です。「折翼」は裂けた翼、「酸吟」は辛そうな声。破れた翅はなんとか体を覆い、鳴き声も澄んでいます。腹には清らかな露がついていますが、目に「塵点」(小さな傷)があります。そこで作者は誰にやられたのかと、蝉を傷つけたものを想像します。
 「黄雀」や「鳶鳥」は宮廷の小人物に喩えられる鳥で、これらの鳥はいつもお前を喰い殺そうと狙っているのだと蝉に声をかけます。高潔な者がわざわいに逢いやすいと世相を風刺している詩と解され、また自分自身を「病蝉」に喩えていると見ることもできます。

ティェンタオの自由訳漢詩 2066

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 中唐63ー賈島
   尋隠者不遇        隠者を尋ねしも遇わず

  松下問童子     松下(しょうか)にて童子(どうじ)に問えば
  言師採薬去     言う  師は薬を採(と)らんとして去れり
  只在此山中     只(た)だ此の山中に在(あ)らんも
  雲深不知処     雲深くして処(ところ)を知らずと

  ⊂訳⊃
          松の木の下で  童子に問えば

          先生は  薬草採りに行かれました

          山中に  いらっしゃるのは確かですが

          雲が深くて  見当がつきません


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「隠者を尋ねしも遇わず」は、隠者へのあこがれの表現でもあるしょう。「松」と「雲」は隠者につきものの景物で、「童子」は隠者が召し使う少年でしょう。承転結の三句が童子の答えになっているところが面白い。童子は答えて山を振り仰ぎます。その構図が目に浮かぶような詩です。
 遂州に左遷されたあと、賈島は晋州(四川省安岳県)の司戸参軍に移ります。文宗の太和八年(834)に死去したときは一銭のたくわえもなく、そばには病んだ驢馬と古い琴があっただけといいます。享年六十五歳です。 

ティェンタオの自由訳漢詩 2067

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 中唐64ー盧仝
    守歳               守歳

  老来経節臘     老来(ろうらい)  節臘(せつろう)を経(へ)て
  楽事甚悠悠     事を楽しむこと甚(はなは)だ悠悠(ゆうゆう)
  不及児童日     児童の日に及ばず
  都盧不解愁     都盧(とろ)愁(うれ)いを解かず

  ⊂訳⊃
          冬至や大晦日になっても

          老人は悩みをかかえ  楽しくもない

          子供のころのように   曲芸をみて

          愁いを解いたりはできないのだ


 ⊂ものがたり⊃ 盧仝(ろどう:?ー835)は范陽(河北省涿県)の人とも済源(河南省泌陽県)の人ともいいます。若いころには仕官に関心がなく、少室山(嵩山の一峰)に籠もって道教を学びました。詩は李白の作風を好み、韓愈から認められました。古文派と目していいと思いますが、朝廷の腐敗をそしる作品が多く、評判はよくなかったようです。
 詩題の「守歳」(しゅさい)は除夜のことで、年の瀬に老いを嘆く詩です。「節臘」は冬至と晦日のことで、唐代では新年と同様に冬至を祝いました。「悠悠」は『詩経』周南の「関雎」を踏まえ、眠れずに輾転反側(寝返り)をうつことです。「都盧」は軽業・曲芸の類で、今日では雑技といっています。

ティェンタオの自由訳漢詩 2068

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 中唐65ー盧仝
    除夜               除夜

  衰残帰未遂     衰残(すいざん)  帰らんとして遂(と)げず
  寂寞此宵情     寂寞(せきばく)  此宵(こんしょう)の情
  旧国余千里     旧国  千里を余(あま)し
  新年隔数更     新年  数更(すうこう)を隔(へだ)つ
  寒猶近北峭     寒は猶(な)お北に近づきて峭(きび)しく
  風漸向東生     風は漸(ようや)く東に向かいて生ず
  惟見長安陌     惟(た)だ見る   長安の陌(みち)
  晨鐘度火城     晨鐘(しんしょう)  火城(かじょう)を度(わた)る

  ⊂訳⊃
          老いて故郷に  帰りたいが帰れない
          除夜の夜には  寂しさがこみあげる
          古里は  千里のかなたにあり
          新年は  数刻を隔てるだけだ
          寒気は厳しく  北のすぐ近くにあり
          風はようやく  東に移って吹きはじめる
          都大路の向こうに  宮城の炬火
          煌々と輝く城を    夜明けの鐘の音が越えていく


 ⊂ものがたり⊃ 唐では冬至と元旦の朝会には宮城に松明をつらね、人々はこれを火城と呼びました。前半四句は除夜の夜の感懐。「旧国」は故郷のことで、古里は遠いが新年はすぐ近くにあると、距離と時間を対比します。「新年」は新年の朝会のことで、群臣は夜明けまえに参内して天子に拝謁します。
 後半四句は宮城へむかうときの感懐です。早春の早朝なので寒気は厳しく、やっと東風(春風)になりかけたところです。結びの「惟だ見る」に作者のやりきれない気持ちがこめられており、「火城」の上を夜明けの鐘の音が越えていくと素っ気なく結んでいます。
 太和九年(835)に甘露の変が起きたとき、盧仝は宰相王涯(おうがい)の邸宅を訪問中でした。そのため側杖をくらって王涯とともに殺されてしまいました。

ティェンタオの自由訳漢詩 2069

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 中唐66ー柳宗元
    江雪               江雪

  千山鳥飛絶     千山(せんざん)  鳥  飛ぶこと絶え
  万径人蹤滅     万径(ばんけい)  人蹤(じんしょう)  滅(めっ)す
  孤舟蓑笠翁     孤舟(こしゅう)   蓑笠(さりゅう)の翁(おう)
  独釣寒江雪     独(ひと)り釣る  寒江(かんこう)の雪

  ⊂訳⊃
          連なる山に  飛ぶ鳥の影は絶え

          総ての径に  人の足跡は消え果てた

          孤舟に独り  蓑笠の翁が糸をたれ

          さむざむと  雪は川面に降っている


 ⊂ものがたり⊃ この詩は中国の詩のなかで有名なもののひとつです。柳宗元(りゅうそうげん)の詩のなかではもっとも人口に膾炙しています。北宋の蘇軾は、この詩を「殆(ほとん)ど天の賦する所」と絶賛しています。
 詩は永州(湖南省零陵県)に貶謫されて八年をへた元和八年(813)冬の作と推定され、貶謫の無限の孤独、究極の寂寞の境地をしめしています。
 詩題の「江雪」(こうせつ)は川面に降る雪。この詩には注釈を拒絶する厳しさがありますが、注釈家は仏教の経典の影響を指摘しています。また、雪景色を舞台としていることから、湖南の南端に位置する永州に似つかわしくないと、実景との関連を疑う意見もありますが、このことについては元和八年の柳宗元の文章に「二年冬、幸いに大いに雪ふり」という記述があり、元和二年(807)に永州で大雪を体験したことがわかっています。
 永州でも雪が降ることがあったことは確かですが、雪中の江上で実際に「蓑笠の翁」を見たかどうかは不明です。翁は柳宗元自身の心象を投影したしたものとも考えられるのです。

ティェンタオの自由訳漢詩 2070

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 中唐67ー柳宗元
   構法華寺西亭        法華寺に西亭を構う        (前十二句)

  竄身楚南極     身を竄(かく)す  楚(そ)の南の極(はて)
  山水窮険艱     山水  険艱(けんかん)を窮(きわ)む
  歩登最高寺     歩みて最も高き寺に登り
  瀟散任疏頑     瀟散(しょうさん)として疏頑(そがん)に任(まか)す
  西垂下斗絶     西垂(せいすい)  下(した)  斗(けわ)しく絶たれ
  欲似窺人寰     人寰(じんかん)を窺(うかが)うに似んと欲(す)
  反如在幽谷     反(かえ)って幽谷(ゆうこく)に在るが如し
  榛翳不可攀     榛(はしばみ)は翳(かげ)りて攀(よ)づ可(べ)からず
  命童恣披翦     童(しもべ)に命じて恣(ほしいまま)に披(ひら)き翦(き)り
  葺宇横断山     宇(やね)を葺(ふ)いて断山(だんざん)に横たう
  割如判清濁     割(かつ)として清濁(せいだく)を判(わか)つが如く
  飄若昇雲間     飄(ひょう)として雲間(うんかん)に昇るが若(ごと)し

  ⊂訳⊃
          楚の国の南の果てに身をひそめ
          山水は険しさを極める
          城内でもっとも高いところにある寺に登り
          思うがままに歩きまわる
          寺の西は   切り立った断崖で
          人の世を   天上から見わたそうとしているようだ
          だがここは  深山幽谷にいるようなもの
          荊が茂って  これ以上は登れない
          そこで下僕に命じ  思いのままに切り開き
          屋根を葺いて  断崖に小屋を建てた
          清濁の区分を  はっきりとつけ
          飄々として    雲間に昇る気分である


 ⊂ものがたり⊃ 柳宗元(773ー819)は河東(山西省永済県)の人。高級官僚を出す名門の家でしたが、曽祖父のころには振わなくなっていました。ひとり息子であった柳宗元は柳家再興の志を抱き、勉学に励んで貞元九年(793)、二十一歳で進士に及第します。
 秘書省校書郎のあと貞元十四年(798)には集賢殿書院正字に任じられ、その三年後、二十九歳のときに藍田(陝西省藍田県)の県尉に転出します。この転出は左遷ではなく地方行政を経験させるためのもので、畿内の県であるのは優秀な官僚だったからです。
 そのころ都では、秘密裏に重要な政事的結盟がすすめられていました。徳宗の皇太子李誦(りしょう)は父帝が挫折した政事改革に意欲を燃やし、侍読学士王叔文(おうしゅくぶん)の政事的意見に共鳴していました。王叔文は翰林待詔王伾(おうひ)と諮って皇太子即位後の政事集団の結成をめざし、柳宗元や劉禹錫ら若手の志ある官僚が集められます。
 ところが貞元二十年(804)九月、皇太子李誦は風疾(中風)の発作にかかり、口が利けない状態になってしまいます。しかし、翌貞元二十一年正月二十三日、徳宗が六十四歳で崩じると、皇太子は言語不通のまま即位して順宗になります。王叔文らはすぐさま練り上げてきた政事改革に取り組みます。
 改革派は順宗が病であったこともあって事を急ぎ過ぎたようです。なかでも王叔文は宦官が握っていた神策軍(宮城を守る親衛軍)の指揮権を手中にしようとして宦官と激しく対立します。宦官側の猛烈な巻き返しがおこり、八月五日、順宗は在位半年余で太子李純(りじゅん)に譲位となってしまいます。
 即位して憲宗となった李純は王叔文一派の粛正に乗り出し、柳宗元は永州司馬に流されることになりました。司馬は名目上州の次官のひとりですが、実際は政務に従事しない冗官(じょうかん)です。柳宗元は母盧氏、従弟、表弟(母方の従弟)をともなって永州に向かい、十二月には永州に到着して龍興寺を仮居としました。
 明ければ元和元年(806)です。その年の夏、柳宗元は法華寺西亭に居を移し、前後は不明ですが、五月十五日に母盧氏を亡くしています。詩題は法華寺の西に亭を構えたときの作であることを示しており、前十二句のはじめ四句は導入部です。永州に流され、城内でもっとも高いところにある法華寺に登ってあたりを歩きまわりました。
 つぎの八句は「西亭」(せいてい)を構えるくだりです。寺の西の断崖からの眺めが気に入り、そこを切り開いて小屋を建てました。「割として清濁を判つが如く」は小屋から眺める景色のことと思われますが、「清濁を判つ」という表現に自分を貶謫に処した政府を批判する思いが込められているようです。清濁のはっきりした天地を眺めて、雲間に昇るような気分を味合ったと詠います。
 

ティェンタオの自由訳漢詩 2071

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 中唐68ー柳宗元
   構法華寺西亭        法華寺に西亭を構う         (中十句)

  遠岫攢衆頂     遠岫(えんしゅう)  衆頂(しゅうちょう)を攢(あつ)め
  澄江抱清湾     澄江(ちょうこう)  清湾(せいわん)を抱(いだ)く
  夕照臨軒堕     夕照(せきしょう)  軒(けん)に臨んで堕(お)ち
  棲鳥当我還     棲鳥(せいちょう)  我れに当たって還(かえ)る
  菡萏溢嘉色     菡萏(かんたん)は嘉(よ)き色を溢(あふ)らせ
  篔簹遺清班     篔簹(うんとう)は清き班(まだら)を遺(のこ)す
  神舒屏羇鎖     神(こころ)舒(の)びて羇鎖(きさ)を屏(しりぞ)け
  志適忘幽潺     志(おもい)適(かな)いて幽潺(ゆうせん)を忘る
  棄逐久枯槁     棄(す)て逐(お)われて久しく枯槁(ここう)し
  迨今始開顔     今に迨(およ)んで始めて顔(かお)を開く

  ⊂訳⊃
          遠くの山には   多くの峰がひしめき
          澄んだ流れは  清らかな入江を抱く
          窓からは     夕陽の沈むのが見え
          塒に帰る鳥は  目の前を飛んでいく
          蓮の花は    めでたい色を放ち
          水辺の竹には  清らかな斑点がある
          心は伸びやかになり  貶謫の身は消え去り
          いい気持ちになって  流す涙を忘れてしまう
          追放されて    枯れ木のようになっていたが
          いまになって   ようやく顔をほころばせる


 ⊂ものがたり⊃ 中十句のはじめ六句で、西亭からの眺めをさらに詳しく描きます。ここでは陶淵明の詩句が援用されており、「夕照 軒に臨んで堕ち 棲鳥 我れに当たって還る」は陶淵明の「飲酒二十首」其の五(平成25年6月10日のブログ参照)の詩句を踏まえています。陶淵明の心境にあると言いたいのでしょう。
 つぎの四句は前段二十二句の結びに相当し、「羇鎖」は繋がれていること、「幽潺」はひそかに流れる水の音をいいます。清らかな自然に接することで貶謫の身であることを忘れ、悔し涙を忘れるというのです。「顔を開く」は謝霊雲の「従弟恵連に酬ゆ」に「開顔して心胸を披(ひら)く」とあり、山水に貶謫の慰藉を求めた謝霊雲の心と通じるものです。

ティェンタオの自由訳漢詩 2072

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 中唐69ー柳宗元
   構法華寺西亭        法華寺に西亭を構う         (後六句)

  賞心難久留     賞心(しょうしん)  久しくは留(とど)め難(がた)し
  離念来相関     離念(りねん)    来たりて相関(あいかか)わる
  北望間親愛     北のかたを望めば親愛を間(へだ)て
  南瞻雑夷蛮     南のかたを瞻(み)れば夷蛮(ばんい)に雑(まじ)わる
  置之勿復道     之れを置きて復(ま)た道(い)う勿(な)かれ
  且寄須臾閑     且(しば)らく須臾(しゅゆ)の閑(しず)けきに寄せん

  ⊂訳⊃
          だが 山水を愛でる心はいつまでも続かず
          離京の思いが  まつわりついて離れない
          北を眺めれば  親しい人とへだてられ
          南を見れば   蛮夷の者とまじり合う
          ああ  こんな思いは捨て去って  もう言うまい
          ほんのいっときの  閑雅の時を楽しむのだ


 ⊂ものがたり⊃ 柳宗元は自然に慰藉を求めようとしますが、その気持ちは結びの六句で一転します。「賞心」も謝霊雲がしばしば用いる用語で、山水の美を愛で没入することによって天地万物の真理を体得しようとするものです。だが、そうした自然を愛でる心はいつまでもつづかず、すぐに「離念」(都を離れたという思い)に覆われてしまいます。
 北を眺めると「親愛」の人々に隔てられ、南に目を移せば「夷蛮」の人々のなかにいます。貶謫の身の悲嘆が胸に湧き起こってきますが、そんな思いは捨て去ってもう口にしまいといいます。いっときでいいから山水の美を楽しもうと、揺れ動く心の内を赤裸々に詠います。
 柳宗元は山水の美を愛でることで貶謫の悲哀と憤懣を忘れ、みずからを慰めようとしますが、そうしたものでは満たされない苦脳のなかにいます。
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