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ティェンタオの自由訳漢詩 清ー黄景仁

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 清35ー黄景仁
     雑 感                雑   感

  仙仏茫茫両未成   仙仏(せんぶつ)茫茫として   両(ふた)つながら未(いま)だ成らず
  只知独夜不平鳴   只(た)だ知る   独夜(どくや)に不平(ふへい)の鳴るを
  風蓬飄尽悲歌氣   風蓬(ふうほう)  飄尽ひょうじん)す  悲歌(ひか)の気(き)
  泥絮沾来薄倖名   泥絮(でいじょ)  沾来(てんらい)す  薄倖(はくこう)の名
  十有九人堪白眼   十に九人(きゅうにん)有りて  白眼(はくがん)に堪(た)え
  百無一用是書生   百に一用(いちよう)無きは   是(こ)れ書生(しょせい)
  莫因詩巻愁成讖   詩巻(しかん)に因(よ)って   愁(うれ)い  讖(しん)を成すこと莫(な)し
  春鳥秋虫自作声   春鳥(しゅんちょう)  秋虫(しゅうちゅう)  自(おのず)から声を作(な)す

  ⊂訳⊃
          神仏の教えは  漠然としてわかりにくい
          わかるのは   ひとりで過ごす夜の不平不満だけだ
          転蓬のような暮らしでは  悲憤慷慨の気も吹っ飛び
          泥に塗れた柳絮のように  不運な男の名前がはりつく
          十人のうちの九人までは  つまらない俗物だが
          おれだって何もできない  役立たずの万年書生だ
          詩に詠った悲しみが  悪い兆しになることはあるまい
          春の鳥も秋の虫も   心のままに鳴いているではないか


 ⊂ものがたり⊃ 乾隆期の遠征は乾隆五十六年(1791)にグルカ軍をチベットから撃退するまで前後十回に及びました。乾隆帝は遠征の記録を『十全記』という書物にまとめさせ、みずから「十全老人」と称しました。しかし、勝利を得ても外征は膨大な戦費を必要とし、乾隆期後半になると大規模な農民反乱が頻発するようになります。
 後世、乾隆第一の詩人と称される黄景仁(こうけいじん)は、乾隆盛世の矛盾が露呈しはじめた時期に生きた詩人です。仕官を望みながらも科挙に及第できず、地方高官の幕客になって生活の資をえるしかありませんでした。
 黄景仁(1749―1783)は陽湖(江蘇省武進県)の人。乾隆十四年(1749)に生まれ、四歳のとき父をなくします。ほどなく祖父母、兄もなくして家長になります。幼少のころから聡明でしられ、十九歳で郷試に挑戦しますが及第できませんでした。
 長ずるにしたがって詩名は高く、二十八歳のときに乾隆帝の殿試に及第したという説もありますが、仕官はできませんでした。地方高官に才能を認められ、安徽督学朱筠(しゅいん)の秘書などを務めます。幕客として各地を転々としますがつねに貧窮に苦しめられ、乾隆四十八年(1783)、病のために早逝します。享年三十五歳でした。
 詩題の「雑感」(ざつかん)はいろいろな思いです。十九歳で郷試に挑戦して落第したときの詩で、自分自身をいたわり励ます気持ちを取り上げ、まず現在の心境から詠いだします。「仙仏」は神仙思想と仏教のこと。そうしたものに救いを求めても「茫茫」(遠くて奥深いこと)としていて理解することができません。心に渦巻くのは不平不満だけです。
 頷聯の対句は、これまでの暮らしを比喩で描きます。「風蓬」は風に吹かれて転がる転蓬のこと、「悲歌」は悲憤慷慨の歌です。「泥絮」は泥にまみれた柳絮のこと、「沾来」はべたべた貼りつけられること、「薄倖」は落ちぶれた、不運の意味です。
 頚聯の対句は、自分の不甲斐なさを他と比較して歎きます。「白眼」は晋の阮籍の故事を踏まえており、阮籍は気にいった客には青眼をむけ、気にいらない俗人には白眼をむけたといいます。まわりの連中は軽蔑するしかないつまらない俗人であるが、自分だって役立たずの万年書生に過ぎないと自嘲します。
 尾聯では気を取り直して、自分は自分の道をゆくしかないと結びます。「讖」は兆し、前兆のことで、詩に詠いこんだ「愁」(悲しみ)が悪い兆しになることはあるまいと自問し、春の鳥だって秋の虫だって心のままに鳴いているではないかと自分を励ますのです。

 清36ー黄景仁
   途中遘病頗劇        途中病に遘(あ)って頗る劇し 
   愴然作詩           愴然として詩を作る

  揺曳身随百丈牽   揺曳(ようえい)して身に随う  百丈の牽(つな)
  短檠孤照病無眠   短檠(たんけい)  孤り照らし  病んで眠り無し
  去家已過三千里   家を去って    已(すで)に過ぐ三千里
  墮地今将二十年   地に堕(お)ちて  今(いま)将(まさ)に二十年ならんとす
  事有難言天似海   事には言い難(がた)き有り   天は海に似たり
  魂応盡化月如烟   魂は応(まさ)に尽(ことごと)く化すべし  月は煙の如し
  調糜量水人誰在   糜(かゆ)を調え  水を量(はか)る  人(ひと)誰か在らん
  況値傾嚢無一銭   況(いわ)んや嚢(ふくろ)を傾くるも  一銭も無きに値(あ)うをや

  ⊂訳⊃  
          百丈の綱をひきずって  揺れていく人生なのか
          ほの暗い灯火ひとつ   病のために眠れない
          家を出てから三千里   遠い旅路を越えてきた
          世に生まれて二十年   無駄な月日を過ごしてきた
          人生には口に出せないことがあり  天は海のように応えず
          魂は靄のような月の中に  跡形もなく消え失せるであろう
          粥を炊いてくれる人など   いるはずもなく
          財布を逆さにはたいても  びた一文出てこないのだ


 ⊂ものがたり⊃ 乾隆三十四年(1769)、二十一歳のとき江南から湖南にむかう旅の途中、病になったときの作で、はじめの二句は現在の状況です。黄景仁は父、祖父母、兄を亡くし、再興しなければならない家名や生活の資など家長としての重荷を背負っていました。それが「百丈の牽」です。旅先で病み、「短檠」は低い燭台、その侘しい光に照らされた部屋で眠られずにいます。
 中四句、頷聯の対句はこれまでの人生です。訳には意味を踏まえた語句が加えてあります。頚聯の対句はそのときの感懐で、孤独感に満ちています。尾聯は現実にかえって思うことですが、現実にかえっても希望はなく、「糜」(粥)を作ってくれる人はおらず、「嚢」(銭入れの袋、財布)を傾けても銭もないと詠います。

 清37ー黄景仁
    別老母               老母に別る

  搴帷拜母河梁去   帷(とばり)を搴(かか)げ  母を拝して河梁(かりょう)に去る
  白髪愁看涙眼枯   白髪  愁(うれ)え看(み)れば  涙眼(るいがん)枯る
  慘慘柴門風雪夜   惨惨(さんさん)たる柴門(さいもん)  風雪の夜(よ)
  此時有子不如無   此(こ)の時  子(こ)有るは   無きに如(しか)ず

  ⊂訳⊃
          帳を巻きあげ  母上に挨拶して橋へむかう

          白髪の母をみていると   涙も枯れてしまいそうだ

          みるも哀れなわが家の門  吹雪く夜

          こんな腑甲斐ない息子は  いないほうがいいのだ


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「老母」(ろうぼ)は母親。二十三歳の春、生活の資を求めて旅立つときの留別の詩です。はじめの二句は部屋にはいって別れの挨拶をする場面。「河梁」は送別の地をさしていう語で、漢の李陵が蘇武に与えた送別詩に「手を携(たずさ)えて河梁に上る」とあるのによります。
 留別の詩ですので、後半二句は家をでてわが家を振りかえる自分をあらかじめ詩に詠いこむのです。「惨惨たる柴門」には悲痛の響きがあり、「風雪」(吹雪)は逆境や困難の喩えでもあります。このような時がくるのならば、つまりこのような情けない思いを親にさせるくらいなら、私なんていなくなった方がいいのだと自逆の言葉をのべて親不幸を恥じるのです。

 清38ー黄景仁
   癸巳徐夕偶成二首 其二   癸巳の徐夕 偶々成る二首 其の二

  年年此夕費吟呻   年年  此の夕(ゆうべ)  吟呻(ぎんしん)を費(ついや)す
  児女燈前窃笑頻   児女  燈前(とうぜん)  窃(ひそ)かに笑うこと頻(しき)りなり
  汝輩何知吾自悔   汝(なんじ)が輩(はい)   何ぞ知らん  吾(われ)  自ら悔(く)ゆ
  枉抛心力作詩人   枉(ま)げて心力を抛(なげう)って  詩人と作(な)る

  ⊂訳⊃
          毎年年末になると  苦しんで詩をつくる

          灯の前で子供らは  ひそかに私を笑っている

          わたしの後悔が   どうしてお前たちにわかろう

          心を使いつくして   詩人となっていることが


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「癸巳」(きし)は乾隆三十八年(1773)、「徐夕」(じょせき)は除夜のことです。二十五歳の大晦日、二年振りにわが家に帰ったときに作った詩です。家長である黄景仁は十九歳で結婚し、このとき六歳の娘と三歳の息子がいました。
 前半二句の「吟呻」は苦しく呻くこと。年末の夜に苦吟して詩を作っていると、たまたま子供たちの忍び笑いを目にします。後半はそれを受けて吐露する心境です。
 「何ぞ知らん」は次句にもかかり、強いて心を振り絞って詩人として生きていることを「吾 自ら悔ゆ」といいます。私は後悔しているのだと心に呟くのであって、本当は官職に就きたいのだが、それが適わないので詩を書いていると本音をもらすのです。

 清39ー黄景仁
   山房夜雨           山房の夜雨

  山鬼帯雨啼     山鬼(さんき)  雨を帯びて啼(な)き
  飢鼯背燈立     飢鼯(きご)   燈(ともしび)に背(そむ)いて立つ
  推窓見孤竹     窓を推(お)して孤竹(こちく)を見れば
  如人向我揖     人の  我れに向かって揖(ゆう)するが如し
  静聴千岩松     静かに千岩(せんがん)の松を聴(き)けば
  風声苦於泣     風声(ふうせい)  泣(なみだ)より苦(にが)し

  ⊂訳⊃
          山の女神が   雨に打たれて泣いている
          飢えた鼯鼡(むささび)が  灯火を避けて立っているようだった
          窓をひらくと   それは一本の竹であった
          私にむかって  挨拶するように揺れている
          耳を澄まして  岩山の松を聞けば
          風に鳴る音は  女神の泣く声よりも辛そうだった


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「山房」(さんぼう)は山の中の部屋のことです。有力者の山荘に泊ったのでしょう。その夜、雨の音を聴きながら作った六句の五言古詩、幻想的ですが悲痛な心情を詠っています。
 はじめ二句の「山鬼」は山の女神。その山鬼が雨に打たれて泣いている声が聞こえたように思いました。それで窓越しに外をみると、「飢鼯」(腹を減らしたむささび)が灯火に背をむけるようにして立っています。窓を開けると、それは「孤竹」(一本の竹)でした。竹は風に吹かれて私に挨拶するかのように揺れていました。
 耳をすますと岩山の上に立っている松の風に吹かれて鳴る音が聞こえてきました。その声は「泣(なみだ)より苦し」です。そしてはじめの句に返って、その声は山鬼の雨に打たれて泣く声よりも辛そうだったと詠います。山鬼は作者の心のなかに棲む魂とも考えられるでしょう。(2016.9.8)

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