清43ー龔自珍
雑詩己卯自春徂夏 雑詩 己卯の春より夏に徂(およ)び
在京師作詩得十有 京師に在って詩を作る 十有四首を
四首 其一 得たり 其の一
少小無端愛令名 少小(しょうしょう) 端無(はしな)くも令名を愛す
他無学術誤蒼生 他(ま)た学術の蒼生(そうせい)を誤る無し
白雲一笑懶如此 白雲 一笑(いっしょう)す 懶(らん) 此(か)くの如きを
忽遇天風吹便行 忽ち天風(てんぷう)の吹くに遇(あ)って便(すなわ)ち行く
⊂訳⊃
若いころには わけもなく名声を求めていた
だが 万民を 誤った道に導くほどの学問はなかった
浮雲のようだと 怠惰な自分を笑っていたが
突然の天の風に遇って 吹かれるままに動いている
⊂ものがたり⊃ 度々の禁令にもかかわらずアヘンの密輸が止まなかったのは、イギリスとインドと中国とのあいだに三角貿易の関係があったからだとされています。アヘンの流入が急増すると中国の銀の流出が加速度的に増え、銀の価格が上昇します。銀の上昇は中国の国内通貨である銅貨の下落につながり、銅貨の下落はアヘンを吸わない一般国民の生活をも圧迫することになります。
アヘン貿易(密輸)が国内経済の悪化に直結することに気づいた林則徐・魏源ら公羊学派の官僚は、禁輸の徹底を主張します。開明的な知識人は政府の無策にいらだって詩社などに結集し、政事批判の声をあげるようになりました。龔自珍(きょうじちん)は林則徐よりも七歳の年少で、官界の腐敗を憎む若手官僚のひとりでした。
龔自珍(1792―1841)は仁和(浙江省杭州市)の人。乾隆五十七年(1792)に生まれました。父親の龔麗生(れいせい)が古代言語学者段玉裁(だんぎょくさい)の女婿でしたので、十二歳で外祖父から『説文』の学を授けられます。古学に才能を発揮し、やがて劉逢禄(りゅうほうろく)について公羊学(『春秋公羊伝』を重んじる儒学)を修め、社会変革の思想に目ざめるようになります。
急進的な思想がわざわいして、しばしば科挙に落第。道光九年(1829)、三十八歳で進士に及第し、内閣中書になります。翌道光十年には魏源らと宜南詩社を結成して経世の学を研究します。社会批判や政事論を執筆し、帝政ロシアの進出を警告して辺境防衛の強化を主張するなど政事改革に意欲をしめします。
道光十九年(1839)に林則徐が欽差大臣に任命されて広州に赴いたときは、イギリスとの戦争も辞すべきではないと戦備の強化を進言しました。その年、礼部主事を最後に北京を去り、帰郷して丹陽(江蘇省丹陽県)の雲陽書院で教鞭を執りますが、道光二十一年(1841)、在郷二年で急死しました。北京にいるとき親王奕絵(えきかい)の愛妾顧春(こしゅん)と私通していたために毒殺されたとの伝えもあります。享年五十歳でした。
詩題の「己卯」(きぼう)は嘉慶二十四年(1819)のことです。この年、龔自珍は二十八歳でした。春から夏までのあいだに十四首の七言絶句を作りました。其の一の詩のはじめ二句は、それまでの自己の反省です。「少小」は少年(二十代)より若いころで十代でしょう。「学術」は儒学のことで、修身・斉家・治国・平天下を理想とします。「蒼生」は民草のことであり、私の学問は「蒼生を誤る無し」、つまり民衆を誤らせるほどのものではなかったといいます。「誤る無し」は一種の反語で、私の学問は政府の意向に反して民衆を開化に導くことができるほどに深くはなかったというのです。「懶」は怠惰なことで、「白雲」のように浮わついていると自分を笑っていたけれど、突然、天の風に遇って動きだしたというのです。林則徐や魏源ら公羊学派の開明官僚と交わって政事改革を目ざすようになったことをいうのでしょう。
雑詩己卯自春徂夏 雑詩 己卯の春より夏に徂(およ)び
在京師作詩得十有 京師に在って詩を作る 十有四首を
四首 其一 得たり 其の一
少小無端愛令名 少小(しょうしょう) 端無(はしな)くも令名を愛す
他無学術誤蒼生 他(ま)た学術の蒼生(そうせい)を誤る無し
白雲一笑懶如此 白雲 一笑(いっしょう)す 懶(らん) 此(か)くの如きを
忽遇天風吹便行 忽ち天風(てんぷう)の吹くに遇(あ)って便(すなわ)ち行く
⊂訳⊃
若いころには わけもなく名声を求めていた
だが 万民を 誤った道に導くほどの学問はなかった
浮雲のようだと 怠惰な自分を笑っていたが
突然の天の風に遇って 吹かれるままに動いている
⊂ものがたり⊃ 度々の禁令にもかかわらずアヘンの密輸が止まなかったのは、イギリスとインドと中国とのあいだに三角貿易の関係があったからだとされています。アヘンの流入が急増すると中国の銀の流出が加速度的に増え、銀の価格が上昇します。銀の上昇は中国の国内通貨である銅貨の下落につながり、銅貨の下落はアヘンを吸わない一般国民の生活をも圧迫することになります。
アヘン貿易(密輸)が国内経済の悪化に直結することに気づいた林則徐・魏源ら公羊学派の官僚は、禁輸の徹底を主張します。開明的な知識人は政府の無策にいらだって詩社などに結集し、政事批判の声をあげるようになりました。龔自珍(きょうじちん)は林則徐よりも七歳の年少で、官界の腐敗を憎む若手官僚のひとりでした。
龔自珍(1792―1841)は仁和(浙江省杭州市)の人。乾隆五十七年(1792)に生まれました。父親の龔麗生(れいせい)が古代言語学者段玉裁(だんぎょくさい)の女婿でしたので、十二歳で外祖父から『説文』の学を授けられます。古学に才能を発揮し、やがて劉逢禄(りゅうほうろく)について公羊学(『春秋公羊伝』を重んじる儒学)を修め、社会変革の思想に目ざめるようになります。
急進的な思想がわざわいして、しばしば科挙に落第。道光九年(1829)、三十八歳で進士に及第し、内閣中書になります。翌道光十年には魏源らと宜南詩社を結成して経世の学を研究します。社会批判や政事論を執筆し、帝政ロシアの進出を警告して辺境防衛の強化を主張するなど政事改革に意欲をしめします。
道光十九年(1839)に林則徐が欽差大臣に任命されて広州に赴いたときは、イギリスとの戦争も辞すべきではないと戦備の強化を進言しました。その年、礼部主事を最後に北京を去り、帰郷して丹陽(江蘇省丹陽県)の雲陽書院で教鞭を執りますが、道光二十一年(1841)、在郷二年で急死しました。北京にいるとき親王奕絵(えきかい)の愛妾顧春(こしゅん)と私通していたために毒殺されたとの伝えもあります。享年五十歳でした。
詩題の「己卯」(きぼう)は嘉慶二十四年(1819)のことです。この年、龔自珍は二十八歳でした。春から夏までのあいだに十四首の七言絶句を作りました。其の一の詩のはじめ二句は、それまでの自己の反省です。「少小」は少年(二十代)より若いころで十代でしょう。「学術」は儒学のことで、修身・斉家・治国・平天下を理想とします。「蒼生」は民草のことであり、私の学問は「蒼生を誤る無し」、つまり民衆を誤らせるほどのものではなかったといいます。「誤る無し」は一種の反語で、私の学問は政府の意向に反して民衆を開化に導くことができるほどに深くはなかったというのです。「懶」は怠惰なことで、「白雲」のように浮わついていると自分を笑っていたけれど、突然、天の風に遇って動きだしたというのです。林則徐や魏源ら公羊学派の開明官僚と交わって政事改革を目ざすようになったことをいうのでしょう。