南宋37ー趙師秀
約 客 客と約す
黄梅時節家家雨 黄梅(こうばい)の時節(じせつ) 家家(かか)の雨
青草池塘処処蛙 青草(せいそう)の池塘(ちとう) 処処(しょしょ)の蛙(あ)
有約不来過夜半 約(やく)有るも来たらず 夜半を過ぎ
敲棋子落燈火 (かん)に棋子(きし)を敲(たた)いて燈火(とうか)落つ
⊂訳⊃
梅の実の熟する季節 降りつづく雨
春草茂る池のほとり いちめんの蛙の声
碁を約束しているが 夜半を過ぎてもまだこない
静かに碁石をうてば 灯火の燃え滓がぽとりと落ちる
⊂ものがたり⊃ 寧宗を擁立して右丞相に就任した趙汝愚(ちょうじょぐ)は、当時、道学の大成者として有名になっていた朱熹とその学派を中央に召し出して活躍の場を与えます。趙汝愚のねらいは、学者グループを登用して政事改革の姿勢を示すことにありました。
寧宗擁立のとき趙汝愚は呉太皇太后の権威を借りましたが、太后の甥に韓侂冑(かんたくちゅう)という武官がおり、自分の姪を皇太子妃に立てていました。寧宗が即位すると韓侂冑の姪は皇后になり、たちまち権力を握って趙汝愚と対立します。
慶元元年(1195)二月、韓侂冑は趙汝愚を弾劾して流罪に処し、朱熹らも在任四十五日で解任となります。翌年には朱子学は偽学の刻印を押され、朱熹の学徒は登用禁止になります。
寧宗の前半、慶元・嘉泰年間(1195ー1204)は韓侂冑が政権基盤を拡充する時期です。孝宗期の安定した政事によって長江下流域の開発がすすみ、農業をはじめ陶磁器や絹織物など消費生活を豊かにする産業が爆発的に発展します。
産業の発展とともに都市が拡大し、出版業が商業ベースに乗るようになり、日本でも有名な詞華集『三体詩』が刊行されました。『三体詩』は唐代の詩の名作集であるにもかかわらず、初唐や盛唐の詩はほとんど採択されていません。時代の好みは中唐や晩唐の詩に移っていました。
その傾向を代表するのが趙師秀(ちょうししゅう)・翁巻・徐照・徐璣を併称する「永嘉四霊」(えいかしれい)です。四人はともに永嘉(浙江省温州市)の出身で、いずれも字(あざな)に霊の字を含むことから「永嘉四霊」と称されます。その詩風を四霊体といい、政事的な大議論とは無縁なところで日常の小さな世界のなかに安らぎをもとめる傾向の作品をつくりました。官職につかない者が多く、民間の詩のグループに詩作を教えたり、詩文を売ったりして生活していたようです。職業詩人のはじまりといえます。
趙師秀(1170ー1219)は永嘉の人。宋の太祖八世の子孫で、光宗の紹煕元年(1190)に二十一歳で進士に及第します。江西方面の地方官を転々とし、筠州高安(江西省高安県)の推官を最後に隠退します。故郷に帰って閑居し、寧宗の嘉定十二年(1219)になくなります。享年五十歳です。
詩題の「客(かく)と約す」は友人との約束です。碁をうつ約束をしましたが、約束の時刻が過ぎて夜半になってもやって来ません。そんな夜のひとときを詠います。はじめの二句は対句になっていますがシンプルな表現で、梅雨の季節、雨が降っていて蛙が鳴いています。戸外の音を聞きながら相手の来るのを待っていますが、いらだつようすはありません。
結句の「」は静か、くつろぐという意味の語で、ゆったりした気分でひとり碁をうっていると、「燈火」(灯心の先の燃え滓)がぽとりと落ちました。中国では灯火の先が落ちるのは慶事の前兆とされており、友人が来なかったのを不吉に思っているわけではありません。
南宋38ー趙師秀
数 日 数 日
数日秋風欺病夫 数日の秋風(しゅうふう) 病夫(びょうふ)を欺(あざむ)き
尽吹黄葉下庭蕪 尽(ことごと)く黄葉を吹いて 庭蕪(ていぶ)に下(おと)す
林疎放得遥山出 林は疎(まば)らに放ち得て遥山(ようざん)出(い)で
又被雲遮一半無 又た雲に遮(さえぎ)られて 一半(いっぱん)無し
⊂訳⊃
秋風は病人の私を あざ笑うように吹きつづけ
樹々の枯れ葉を 庭の草むらに落としてしまう
林を透かして 遠くの山が見えるようになったが
雲に遮られて また半分が見えなくなる
⊂ものがたり⊃ 詩題の「数日」(すうじつ)は冒頭の語をとったもので、無題とおなじです。全体として老いの憂愁を詠っているようですが、表現は柔和です。「病夫」は自分のことで、数日来、秋風が病気の私を「欺」(あざむく、あなどる)、つまり小馬鹿にしたように吹き、樹々の黄葉(こうよう)も庭の草むらに落ちてしまいました。
その結果、視野がひらけて遠くの山が見えるようになりましたが、すぐに雲に遮られて半分が見えなくなりました。強いて比喩を求める必要もなく、庭の眺めをとおして季節の変化をうたうものでしょう。
約 客 客と約す
黄梅時節家家雨 黄梅(こうばい)の時節(じせつ) 家家(かか)の雨
青草池塘処処蛙 青草(せいそう)の池塘(ちとう) 処処(しょしょ)の蛙(あ)
有約不来過夜半 約(やく)有るも来たらず 夜半を過ぎ
敲棋子落燈火 (かん)に棋子(きし)を敲(たた)いて燈火(とうか)落つ
⊂訳⊃
梅の実の熟する季節 降りつづく雨
春草茂る池のほとり いちめんの蛙の声
碁を約束しているが 夜半を過ぎてもまだこない
静かに碁石をうてば 灯火の燃え滓がぽとりと落ちる
⊂ものがたり⊃ 寧宗を擁立して右丞相に就任した趙汝愚(ちょうじょぐ)は、当時、道学の大成者として有名になっていた朱熹とその学派を中央に召し出して活躍の場を与えます。趙汝愚のねらいは、学者グループを登用して政事改革の姿勢を示すことにありました。
寧宗擁立のとき趙汝愚は呉太皇太后の権威を借りましたが、太后の甥に韓侂冑(かんたくちゅう)という武官がおり、自分の姪を皇太子妃に立てていました。寧宗が即位すると韓侂冑の姪は皇后になり、たちまち権力を握って趙汝愚と対立します。
慶元元年(1195)二月、韓侂冑は趙汝愚を弾劾して流罪に処し、朱熹らも在任四十五日で解任となります。翌年には朱子学は偽学の刻印を押され、朱熹の学徒は登用禁止になります。
寧宗の前半、慶元・嘉泰年間(1195ー1204)は韓侂冑が政権基盤を拡充する時期です。孝宗期の安定した政事によって長江下流域の開発がすすみ、農業をはじめ陶磁器や絹織物など消費生活を豊かにする産業が爆発的に発展します。
産業の発展とともに都市が拡大し、出版業が商業ベースに乗るようになり、日本でも有名な詞華集『三体詩』が刊行されました。『三体詩』は唐代の詩の名作集であるにもかかわらず、初唐や盛唐の詩はほとんど採択されていません。時代の好みは中唐や晩唐の詩に移っていました。
その傾向を代表するのが趙師秀(ちょうししゅう)・翁巻・徐照・徐璣を併称する「永嘉四霊」(えいかしれい)です。四人はともに永嘉(浙江省温州市)の出身で、いずれも字(あざな)に霊の字を含むことから「永嘉四霊」と称されます。その詩風を四霊体といい、政事的な大議論とは無縁なところで日常の小さな世界のなかに安らぎをもとめる傾向の作品をつくりました。官職につかない者が多く、民間の詩のグループに詩作を教えたり、詩文を売ったりして生活していたようです。職業詩人のはじまりといえます。
趙師秀(1170ー1219)は永嘉の人。宋の太祖八世の子孫で、光宗の紹煕元年(1190)に二十一歳で進士に及第します。江西方面の地方官を転々とし、筠州高安(江西省高安県)の推官を最後に隠退します。故郷に帰って閑居し、寧宗の嘉定十二年(1219)になくなります。享年五十歳です。
詩題の「客(かく)と約す」は友人との約束です。碁をうつ約束をしましたが、約束の時刻が過ぎて夜半になってもやって来ません。そんな夜のひとときを詠います。はじめの二句は対句になっていますがシンプルな表現で、梅雨の季節、雨が降っていて蛙が鳴いています。戸外の音を聞きながら相手の来るのを待っていますが、いらだつようすはありません。
結句の「」は静か、くつろぐという意味の語で、ゆったりした気分でひとり碁をうっていると、「燈火」(灯心の先の燃え滓)がぽとりと落ちました。中国では灯火の先が落ちるのは慶事の前兆とされており、友人が来なかったのを不吉に思っているわけではありません。
南宋38ー趙師秀
数 日 数 日
数日秋風欺病夫 数日の秋風(しゅうふう) 病夫(びょうふ)を欺(あざむ)き
尽吹黄葉下庭蕪 尽(ことごと)く黄葉を吹いて 庭蕪(ていぶ)に下(おと)す
林疎放得遥山出 林は疎(まば)らに放ち得て遥山(ようざん)出(い)で
又被雲遮一半無 又た雲に遮(さえぎ)られて 一半(いっぱん)無し
⊂訳⊃
秋風は病人の私を あざ笑うように吹きつづけ
樹々の枯れ葉を 庭の草むらに落としてしまう
林を透かして 遠くの山が見えるようになったが
雲に遮られて また半分が見えなくなる
⊂ものがたり⊃ 詩題の「数日」(すうじつ)は冒頭の語をとったもので、無題とおなじです。全体として老いの憂愁を詠っているようですが、表現は柔和です。「病夫」は自分のことで、数日来、秋風が病気の私を「欺」(あざむく、あなどる)、つまり小馬鹿にしたように吹き、樹々の黄葉(こうよう)も庭の草むらに落ちてしまいました。
その結果、視野がひらけて遠くの山が見えるようになりましたが、すぐに雲に遮られて半分が見えなくなりました。強いて比喩を求める必要もなく、庭の眺めをとおして季節の変化をうたうものでしょう。