南宋50ー文天祥
除 夜 除 夜
乾坤空落落 乾坤(けんこん) 空(むな)しく落落(らくらく)
歳月去堂堂 歳月(さいげつ) 去って堂堂(どうどう)
末路驚風雨 末路(まつろ) 風雨(ふうう)に驚き
窮辺飽雪霜 窮辺(きゅうへん) 雪霜(せつそう)に飽(あ)く
命随年欲尽 命(めい)は年(とし)に随って尽きんと欲(ほっ)し
身与世倶忘 身(み)は世と倶(とも)に忘れらる
無復屠蘇夢 復(ま)た屠蘇(とそ)の夢(ゆめ)無し
挑燈夜未央 燈(ともしび)を挑(かか)ぐれば 夜(よる)未(いま)だ央(なかば)ならず
⊂訳⊃
天地は果てしなくひろがり
歳月は遠いかなたへ去っていく
旅の終わりに 激しい風雨に驚かされ
最果ての地で 雪や霜に悩まされる
わたしの命は 年の終わりとともにつきようとし
何れこの身は 過ぎ去る世とともに忘れ去られるだろう
いまはもう 一家で屠蘇を祝う夢もなくなり
灯心を切るが 夜はまだなかばに達していない
⊂ものがたり⊃ モンゴル高原でチンギス汗が興り、まず金の中都(北京)を落とし、転じて西征しイスラムの国々を席巻した話は、あまりにも有名ですので略します。モンゴル軍が本格的に南宋を攻めるのは第四代ムンケ汗になってからです。そのときの宋の宰相は賈似道(かじどう)でした。
ムンケ汗の死後、第五代汗になったフビライが南宋攻撃に本腰を入れてきたのは元の至元四年(1264)のことで、賈似道は都督諸路軍馬(国軍総司令官)になって防戦の指揮を取ります。恭帝の徳裕二年(1276:元の至元十三年)に臨安は陥落し、恭帝は捕えられて大都(北京)に送られます。しかし、そのごも南宋の遺臣による抵抗がつづき、文天祥(ぶんてんしょう)はそのひとりです。
文天祥(1236ー1283?)は吉州廬陵(江西省吉水県)の人。理宗の宝祐四年(1256)、二十一歳のときに状元(首席)の成績で進士に及第し、任官して直言をはばかりませんでした。玉牒書検討のとき、権臣賈似道の意に逆らって退官させられます。度宗の咸淳九年(1273)に湖南の提刑になりますが、そのときはすでに宋の命運は尽きようとしていました。
モンゴル軍の南下に抵抗していた襄陽(湖北省襄樊市)も陥落し、諸方に勤王の兵が募られます。文天祥は詔に応じて兵を起こし、招かれて右丞相兼枢密使に任じられ、モンゴル軍への使者を命じられます。敵陣に乗りこんで元の将軍バヤンと論争して捕らえられますが、隙をみて脱出します。真州(江蘇省儀微県)をへて温州(福建省)にいたり、兵を江西に出しますが敗退、衛王の祥興元年(1278)十月に五坡嶺(広東省豊県の北)でモンゴル軍に捕らえられました。
モンゴル軍は文天祥を帰順させようとしますが屈せず、大都の護送されます。護送中の祥興二年(1279)に宋は最終的に滅亡し、文天祥は十月一日に大都に着きました。フビライ汗は文天祥の才を惜しんで帰順させようとしますが、あくまで節を枉げず、土牢に幽閉されること三年におよびます。至元十九年(1282)もしくは翌二十年に大都の柴市に引きだされて処刑されました。享年四十八歳くらいです。
文天祥の詩はいくつか挙げられますが、最後の一首だけを掲げます。詩題の「除夜」(じょや)は大晦日の夜のことで、その夜の心境を詠うものです。刑死の二年くらいまえの作品と推定されています。このとき文天祥は土牢に閉じ込められていましたが、有名な大作「生気の歌」もこのころに作られたと考えられています。
序文によると間口二・五㍍、奥行き十㍍くらいの土牢であったといいます。その狭いじめじめした土牢のなかで、空間も時間もかぎりなく広く大きいと詠います。頷聯は自分の現状で、「飽」はいやというほど悩まされていること。頚聯ではやがて自分は殺されるであろうと予感を述べます。「世」は自分が守ろうとした宋王朝のことで、王朝が終わると自分も忘れ去られてしまうであろうというのです。
そして尾聯は家族への思いです。詩は大晦日の夜に作られましたので、明ければ元日です。家族とともに屠蘇を飲むこもできなくなったと嘆きながら、灯心を切って灯火を明るくしますが、夜はまだなかばにも達していないと眠られない夜を嘆くのです。
※ 以上で南宋を終了します。あと金・元・明・清とつづける準備は
できていますが、そのためには唐・宋詩の多くを削除しなけれ
ばなりません。すでにかなり削除しています。唐宋時代は漢詩
の最盛期ですので、削除するのは惜しく、ここでしばらく中断
して保存したいと思います。
永らくの閲覧ありがとうございました。
除 夜 除 夜
乾坤空落落 乾坤(けんこん) 空(むな)しく落落(らくらく)
歳月去堂堂 歳月(さいげつ) 去って堂堂(どうどう)
末路驚風雨 末路(まつろ) 風雨(ふうう)に驚き
窮辺飽雪霜 窮辺(きゅうへん) 雪霜(せつそう)に飽(あ)く
命随年欲尽 命(めい)は年(とし)に随って尽きんと欲(ほっ)し
身与世倶忘 身(み)は世と倶(とも)に忘れらる
無復屠蘇夢 復(ま)た屠蘇(とそ)の夢(ゆめ)無し
挑燈夜未央 燈(ともしび)を挑(かか)ぐれば 夜(よる)未(いま)だ央(なかば)ならず
⊂訳⊃
天地は果てしなくひろがり
歳月は遠いかなたへ去っていく
旅の終わりに 激しい風雨に驚かされ
最果ての地で 雪や霜に悩まされる
わたしの命は 年の終わりとともにつきようとし
何れこの身は 過ぎ去る世とともに忘れ去られるだろう
いまはもう 一家で屠蘇を祝う夢もなくなり
灯心を切るが 夜はまだなかばに達していない
⊂ものがたり⊃ モンゴル高原でチンギス汗が興り、まず金の中都(北京)を落とし、転じて西征しイスラムの国々を席巻した話は、あまりにも有名ですので略します。モンゴル軍が本格的に南宋を攻めるのは第四代ムンケ汗になってからです。そのときの宋の宰相は賈似道(かじどう)でした。
ムンケ汗の死後、第五代汗になったフビライが南宋攻撃に本腰を入れてきたのは元の至元四年(1264)のことで、賈似道は都督諸路軍馬(国軍総司令官)になって防戦の指揮を取ります。恭帝の徳裕二年(1276:元の至元十三年)に臨安は陥落し、恭帝は捕えられて大都(北京)に送られます。しかし、そのごも南宋の遺臣による抵抗がつづき、文天祥(ぶんてんしょう)はそのひとりです。
文天祥(1236ー1283?)は吉州廬陵(江西省吉水県)の人。理宗の宝祐四年(1256)、二十一歳のときに状元(首席)の成績で進士に及第し、任官して直言をはばかりませんでした。玉牒書検討のとき、権臣賈似道の意に逆らって退官させられます。度宗の咸淳九年(1273)に湖南の提刑になりますが、そのときはすでに宋の命運は尽きようとしていました。
モンゴル軍の南下に抵抗していた襄陽(湖北省襄樊市)も陥落し、諸方に勤王の兵が募られます。文天祥は詔に応じて兵を起こし、招かれて右丞相兼枢密使に任じられ、モンゴル軍への使者を命じられます。敵陣に乗りこんで元の将軍バヤンと論争して捕らえられますが、隙をみて脱出します。真州(江蘇省儀微県)をへて温州(福建省)にいたり、兵を江西に出しますが敗退、衛王の祥興元年(1278)十月に五坡嶺(広東省豊県の北)でモンゴル軍に捕らえられました。
モンゴル軍は文天祥を帰順させようとしますが屈せず、大都の護送されます。護送中の祥興二年(1279)に宋は最終的に滅亡し、文天祥は十月一日に大都に着きました。フビライ汗は文天祥の才を惜しんで帰順させようとしますが、あくまで節を枉げず、土牢に幽閉されること三年におよびます。至元十九年(1282)もしくは翌二十年に大都の柴市に引きだされて処刑されました。享年四十八歳くらいです。
文天祥の詩はいくつか挙げられますが、最後の一首だけを掲げます。詩題の「除夜」(じょや)は大晦日の夜のことで、その夜の心境を詠うものです。刑死の二年くらいまえの作品と推定されています。このとき文天祥は土牢に閉じ込められていましたが、有名な大作「生気の歌」もこのころに作られたと考えられています。
序文によると間口二・五㍍、奥行き十㍍くらいの土牢であったといいます。その狭いじめじめした土牢のなかで、空間も時間もかぎりなく広く大きいと詠います。頷聯は自分の現状で、「飽」はいやというほど悩まされていること。頚聯ではやがて自分は殺されるであろうと予感を述べます。「世」は自分が守ろうとした宋王朝のことで、王朝が終わると自分も忘れ去られてしまうであろうというのです。
そして尾聯は家族への思いです。詩は大晦日の夜に作られましたので、明ければ元日です。家族とともに屠蘇を飲むこもできなくなったと嘆きながら、灯心を切って灯火を明るくしますが、夜はまだなかばにも達していないと眠られない夜を嘆くのです。
※ 以上で南宋を終了します。あと金・元・明・清とつづける準備は
できていますが、そのためには唐・宋詩の多くを削除しなけれ
ばなりません。すでにかなり削除しています。唐宋時代は漢詩
の最盛期ですので、削除するのは惜しく、ここでしばらく中断
して保存したいと思います。
永らくの閲覧ありがとうございました。