北宋1ー李
搗練子令 其一 搗練子令 其の一
雲鬢乱 雲鬢(うんびん) 乱れ
晩粧残 晩粧(ばんしょう) 残(ざん)す
帯恨眉児遠岫攢 恨(うら)みを帯ぶる眉児(まゆ)は遠岫(えんしゅう)攢(ひそ)め
斜託香顋春筍嫩 斜めに香顋(こうさい)を託して春筍(しゅんじゅん)嫩(わか)し
為誰和涙倚欄干 誰(た)が為にか涙と和(とも)に 欄干(らんかん)に倚(よ)る
⊂訳⊃
豊かな髪はみだれ
夜の化粧もくずれている
恨みを秘めた眉は 遠くの峰のようにしかめられ
頬に添えた指は 春の筍のように柔らかそうだ
一体誰のために涙にくれて 欄干に凭れているのか
⊂ものがたり⊃ 唐の滅亡後、五代十国の分裂時代が五十三年間つづきます。五代は華北に起こった五つの王朝をいいますが、その五番目の王朝周(後周)の皇帝世宗(柴栄)は五代きっての名君と称せられます。だが、在位五年半、三十九歳の若さで亡くなります。
後周の殿前都点検・帰徳軍節度使趙匡胤(ちょうきょういん)は世宗の有力武将で、顕徳七年(960)正月、配下の将兵に擁立されて宋(北宋)を建国し、年号を建隆に改めます。太祖趙匡胤は中華統一の軍をすすめ、開宝八年(975)に江南の富裕国南唐を滅ぼします。
李(りいく:937ー978)は南唐最後の天子です。二十五歳で即位し、滅ぼされたときは三十九歳でした。宋軍に捕らえられた李は宋都汴京(べんけい:河南省開封市)に連行され、違命侯の称号をあたえられて抑留生活を送りました。三年後の太平興国三年(978)に宋都で亡くなり、享年四十二歳でした。
詩題の「搗練子」(とうれんし)は練り絹を搗くという意味で、歌詞をつけて歌うための令(曲)です。一見して宮女の嘆きを詠う閨怨詩のように見えますが、実は美人画の内容を描く画題詩です。南朝時代に成立した画題詩が、ここでは詞となり、晩唐の温庭筠(おんていいん:平成27.1.28-2.4のブログ参照)の艷詞に似た趣を呈しています。
絵は眠れないまま夜中に欄干にでて、憂わしげに佇む女性を描いたもので、結い上げた髪はみだれ、化粧もくずれています。眉をひそめ、指を斜めに頬にあてて涙ぐんでいるようすを「誰が為にか涙と和に 欄干に倚る」と問いかけて結びとします。
搗練子令 其一 搗練子令 其の一
雲鬢乱 雲鬢(うんびん) 乱れ
晩粧残 晩粧(ばんしょう) 残(ざん)す
帯恨眉児遠岫攢 恨(うら)みを帯ぶる眉児(まゆ)は遠岫(えんしゅう)攢(ひそ)め
斜託香顋春筍嫩 斜めに香顋(こうさい)を託して春筍(しゅんじゅん)嫩(わか)し
為誰和涙倚欄干 誰(た)が為にか涙と和(とも)に 欄干(らんかん)に倚(よ)る
⊂訳⊃
豊かな髪はみだれ
夜の化粧もくずれている
恨みを秘めた眉は 遠くの峰のようにしかめられ
頬に添えた指は 春の筍のように柔らかそうだ
一体誰のために涙にくれて 欄干に凭れているのか
⊂ものがたり⊃ 唐の滅亡後、五代十国の分裂時代が五十三年間つづきます。五代は華北に起こった五つの王朝をいいますが、その五番目の王朝周(後周)の皇帝世宗(柴栄)は五代きっての名君と称せられます。だが、在位五年半、三十九歳の若さで亡くなります。
後周の殿前都点検・帰徳軍節度使趙匡胤(ちょうきょういん)は世宗の有力武将で、顕徳七年(960)正月、配下の将兵に擁立されて宋(北宋)を建国し、年号を建隆に改めます。太祖趙匡胤は中華統一の軍をすすめ、開宝八年(975)に江南の富裕国南唐を滅ぼします。
李(りいく:937ー978)は南唐最後の天子です。二十五歳で即位し、滅ぼされたときは三十九歳でした。宋軍に捕らえられた李は宋都汴京(べんけい:河南省開封市)に連行され、違命侯の称号をあたえられて抑留生活を送りました。三年後の太平興国三年(978)に宋都で亡くなり、享年四十二歳でした。
詩題の「搗練子」(とうれんし)は練り絹を搗くという意味で、歌詞をつけて歌うための令(曲)です。一見して宮女の嘆きを詠う閨怨詩のように見えますが、実は美人画の内容を描く画題詩です。南朝時代に成立した画題詩が、ここでは詞となり、晩唐の温庭筠(おんていいん:平成27.1.28-2.4のブログ参照)の艷詞に似た趣を呈しています。
絵は眠れないまま夜中に欄干にでて、憂わしげに佇む女性を描いたもので、結い上げた髪はみだれ、化粧もくずれています。眉をひそめ、指を斜めに頬にあてて涙ぐんでいるようすを「誰が為にか涙と和に 欄干に倚る」と問いかけて結びとします。