晩唐1ー許渾
咸陽城東楼 咸陽城の東楼
一上高城万里愁 一たび高城(こうじょう)に上れば万里(ばんり)愁う
蒹葭楊柳似汀洲 蒹葭(けんか) 楊柳(ようりゅう) 汀洲(ていしゅう)に似たり
渓雲初起日沈閣 渓雲(けいうん) 初めて起こりて 日 閣(かく)に沈み
山雨欲来風満楼 山雨(さんう) 来たらんと欲して 風 楼(ろう)に満つ
鳥下緑蕪秦苑暮 鳥は緑蕪(りょくぶ)に下る 秦苑(しんえん)の暮
蝉鳴黄葉漢宮秋 蝉は黄葉(こうよう)に鳴く 漢宮(かんきゅう)の秋
行人莫問当年事 行人(こうじん) 問う莫(なか)れ 当年(とうねん)の事
故国東来渭水流 故国(ここく) 東来(とうらい) 渭水(いすい)流る
⊂訳⊃
ひとたび城楼に上れば 遥かな愁い
葦や楊柳が茂り合い 川辺の洲のようだ
雲は谷間に湧き起こり 夕日は寺院の西に沈む
山の雨は近づこうとし 風が高楼に吹きつける
鳥は草叢に舞い降りて 秦苑の夕べ
蝉は黄葉の陰で鳴いて 漢宮の秋
旅する者よ 昔のことなど訊ねるのはよそう
かつての都は 渭水が東へと流れるだけだ
⊂ものがたり⊃ 唐代を初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分する四変説によると、晩唐のはじまりは文宗の開成元年(836)とするのが一般的です。これは、その前年に起きた「甘露(かんろ)の変」を政事的な画期とみるからです。
文宗は安史の乱後、禁軍を掌握して強大となった宦官勢力を排除しようとして二度失敗しています。「甘露の変」については杜牧(とぼく)のところで詳しく述べましたので省略(平成23年8月25日のブログ参照)しますが、文宗が李訓(りくん)を宰相に任じて宮廷クデターを起こし失敗した事件です。ひとり生き残った文宗は手も足も出なくなり、以後、唐朝は衰退へむかいます。
「甘露の変」が政事的な画期であることは確かですが、文学的には中唐の代表的な詩人白居易は文宗のあとの武宗の会昌六年(846)まで生きていました。一方、晩唐の代表的な詩人とされる杜牧(803ー852)は文宗の大和二年(828)に進士に及第し、詩人としての活動をはじめています。詩人たちの活動は歴史的事件の区切りの前後にわたっていますが、晩唐的情況が「甘露の変」を画期として始まるのも事実です。
号外で述べたように晩唐の代表的詩人「杜牧」と「李商隠」はすでに生涯を扱っていますので、ここでは杜牧や李商隠と同時代の詩人から取り上げます。
許渾(きょこん:791?ー854?)は潤州丹陽(江蘇省鎮江市)の人。初唐の宰相許圉師(きょぎょし)の子孫にあたり、杜牧よりも十二年ほど早く生まれています。苦学して文宗の大和六年(832)、四十二歳のころ進士に及第し、当塗(安徽省当涂県)、太平(安徽省)の県令になりました。
宣宗の大中三年(849)に中央にもどって監察御史などを歴任し、睦州(浙江省建徳県)、郢州(湖北省鐘祥県)の刺史になって善政を布いたといいます。清廉な詩風が杜牧らに称賛されましたが、病弱のため辞職し、晩年は郷里の丁夘澗(ていうかん)に隠居します。大中八年(854)のころになくなり、享年六十四歳くらいです。
詩題の「咸陽城」(かんようじょう)は秦の始皇帝の都があった街で、その東楼に上っての感慨です。はじめの二句は導入部。かつて繁栄した都の跡がすっかり寂れたことを嘆きます。中四句の対句では、眼前に見える景色を描きながら比喩をしのばせます。
自注に「南は磻渓に近く、西は慈福寺の閣に近し」とありますので、「閣」は寺院の楼閣でしょう。その建物のむこうに夕陽が沈んでゆきます。「山雨」は山の方で降っている雨で、こちらに近づきそうな気配です。この対句には雲と日、雨と風が含まれていて、時代への危機感がこめられています。
ついで「秦苑」は秦の庭苑、「漢宮」は漢の宮殿で、鳥が草叢に下りるとそこは秦の庭苑の跡であり、蝉が木陰で鳴いていますが、そこは漢の宮殿の跡であると詠います。鳥も蝉も賢者の喩えとして用いられることが多く、栄華の都の荒れたようすを賢者の身の置き所もないと詠って唐の現状を嘆くのです。
尾聯の「行人」は自分のこと。だから昔の繁栄のことなど考えるのはよそうと自分に言い聞かせ、繁栄したかつての都もいまは渭水が東へと流れているだけと嘆息して結びとするのです。
咸陽城東楼 咸陽城の東楼
一上高城万里愁 一たび高城(こうじょう)に上れば万里(ばんり)愁う
蒹葭楊柳似汀洲 蒹葭(けんか) 楊柳(ようりゅう) 汀洲(ていしゅう)に似たり
渓雲初起日沈閣 渓雲(けいうん) 初めて起こりて 日 閣(かく)に沈み
山雨欲来風満楼 山雨(さんう) 来たらんと欲して 風 楼(ろう)に満つ
鳥下緑蕪秦苑暮 鳥は緑蕪(りょくぶ)に下る 秦苑(しんえん)の暮
蝉鳴黄葉漢宮秋 蝉は黄葉(こうよう)に鳴く 漢宮(かんきゅう)の秋
行人莫問当年事 行人(こうじん) 問う莫(なか)れ 当年(とうねん)の事
故国東来渭水流 故国(ここく) 東来(とうらい) 渭水(いすい)流る
⊂訳⊃
ひとたび城楼に上れば 遥かな愁い
葦や楊柳が茂り合い 川辺の洲のようだ
雲は谷間に湧き起こり 夕日は寺院の西に沈む
山の雨は近づこうとし 風が高楼に吹きつける
鳥は草叢に舞い降りて 秦苑の夕べ
蝉は黄葉の陰で鳴いて 漢宮の秋
旅する者よ 昔のことなど訊ねるのはよそう
かつての都は 渭水が東へと流れるだけだ
⊂ものがたり⊃ 唐代を初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分する四変説によると、晩唐のはじまりは文宗の開成元年(836)とするのが一般的です。これは、その前年に起きた「甘露(かんろ)の変」を政事的な画期とみるからです。
文宗は安史の乱後、禁軍を掌握して強大となった宦官勢力を排除しようとして二度失敗しています。「甘露の変」については杜牧(とぼく)のところで詳しく述べましたので省略(平成23年8月25日のブログ参照)しますが、文宗が李訓(りくん)を宰相に任じて宮廷クデターを起こし失敗した事件です。ひとり生き残った文宗は手も足も出なくなり、以後、唐朝は衰退へむかいます。
「甘露の変」が政事的な画期であることは確かですが、文学的には中唐の代表的な詩人白居易は文宗のあとの武宗の会昌六年(846)まで生きていました。一方、晩唐の代表的な詩人とされる杜牧(803ー852)は文宗の大和二年(828)に進士に及第し、詩人としての活動をはじめています。詩人たちの活動は歴史的事件の区切りの前後にわたっていますが、晩唐的情況が「甘露の変」を画期として始まるのも事実です。
号外で述べたように晩唐の代表的詩人「杜牧」と「李商隠」はすでに生涯を扱っていますので、ここでは杜牧や李商隠と同時代の詩人から取り上げます。
許渾(きょこん:791?ー854?)は潤州丹陽(江蘇省鎮江市)の人。初唐の宰相許圉師(きょぎょし)の子孫にあたり、杜牧よりも十二年ほど早く生まれています。苦学して文宗の大和六年(832)、四十二歳のころ進士に及第し、当塗(安徽省当涂県)、太平(安徽省)の県令になりました。
宣宗の大中三年(849)に中央にもどって監察御史などを歴任し、睦州(浙江省建徳県)、郢州(湖北省鐘祥県)の刺史になって善政を布いたといいます。清廉な詩風が杜牧らに称賛されましたが、病弱のため辞職し、晩年は郷里の丁夘澗(ていうかん)に隠居します。大中八年(854)のころになくなり、享年六十四歳くらいです。
詩題の「咸陽城」(かんようじょう)は秦の始皇帝の都があった街で、その東楼に上っての感慨です。はじめの二句は導入部。かつて繁栄した都の跡がすっかり寂れたことを嘆きます。中四句の対句では、眼前に見える景色を描きながら比喩をしのばせます。
自注に「南は磻渓に近く、西は慈福寺の閣に近し」とありますので、「閣」は寺院の楼閣でしょう。その建物のむこうに夕陽が沈んでゆきます。「山雨」は山の方で降っている雨で、こちらに近づきそうな気配です。この対句には雲と日、雨と風が含まれていて、時代への危機感がこめられています。
ついで「秦苑」は秦の庭苑、「漢宮」は漢の宮殿で、鳥が草叢に下りるとそこは秦の庭苑の跡であり、蝉が木陰で鳴いていますが、そこは漢の宮殿の跡であると詠います。鳥も蝉も賢者の喩えとして用いられることが多く、栄華の都の荒れたようすを賢者の身の置き所もないと詠って唐の現状を嘆くのです。
尾聯の「行人」は自分のこと。だから昔の繁栄のことなど考えるのはよそうと自分に言い聞かせ、繁栄したかつての都もいまは渭水が東へと流れているだけと嘆息して結びとするのです。