中唐1ー銭起
逢俠者 俠者に逢う
燕趙悲歌士 燕趙(えんちょう) 悲歌(ひか)の士
相逢劇孟家 相逢(あいあ)う 劇孟(げきもう)の家
寸心言不尽 寸心(すんしん) 言い尽さざるに
前路日已斜 前路(ぜんろ) 日 已(すで)に斜めなり
⊂訳⊃
劇孟のような 俠者の家で
燕趙 悲歌慷慨の士に逢う
胸のうちを 語り尽くせないでいるうちに
路のゆく手に 夕日はすでに傾いている
⊂ものがたり⊃ 今日から中唐の詩人にはいりますが、盛唐と中唐の区分については困難があります。政事的には天宝十四載(755)に安禄山の乱が起こると、盛唐の栄華は一変します。しかし、盛唐期に活躍した詩人の多くは安禄山の乱、史思明の乱をくぐり抜けてそのあとまで活躍しています。
盛唐の有名詩人を死亡年のはやい順に列記しますと、王維が粛宗末年の上元二年(761)、李白が代宗初年の宝応元年(762)、高適は永泰元年(765)、杜甫と岑参は大暦五年(770)になります。だから詩文の盛唐期は代宗の治世初期まで及ぶと考えるべきでしょう。
粛宗の上元三年(762)四月、玄宗上皇が崩じ、つづいて粛宗も崩じました。皇太子が即位して代宗になり、宝応と改元されます。しかし、しばらくは吐蕃の侵入、僕固懐恩(ぼっこかいおん)の乱などが発生し、平穏を取りもどすのは大暦元年(766)になってからです。詩文の中唐期は大暦元年に始まるとされていますが、大暦年間(766ー779)に活躍する詩人の多くは、玄宗の天宝末年に進士に及第し、乱後に新しい詩の傾向を示す詩人として登場するのです。
銭起(せんき:722ー780?)は呉県(浙江省呉興県)の人。天宝十載(751)に三十歳で進士に及第しますが、なかなか任官できませんでした。やがて藍田(陝西省藍田県)の県尉になり、藍田で輞川荘(もうせんそう)を営んでいた王維のもとに出入りして影響を受けます。安史の乱前後、粛宗・代宗に仕えて校書郎から尚書省考功郎中を歴任し、大暦年間には翰林学士になっていました。
詩題の「俠者」(きょうしゃ)は義俠の人といった意味です。「劇孟」は洛陽の俠者で、『史記』游侠列伝に伝があります。「燕趙」は戦国時代に河北にあった二つの国のことで、悲歌慷慨の士が多いことで有名でした。なかでも『史記』刺客列伝に登場する荊軻(けいか)は「易水の歌」で知られています。
だからここでは、旅先で憂国の士と出逢い、「寸心」(自分の心)を語り合っている内に日暮れになったと、憂国の思いを詠うのです。制昨年は不明ですが、結びの「前路 日 已に斜めなり」に比喩を読むとすれば、安史の乱後の唐朝の衰退を憂えていることになりますが、進士及第前の若いころの作品とも思われます。
逢俠者 俠者に逢う
燕趙悲歌士 燕趙(えんちょう) 悲歌(ひか)の士
相逢劇孟家 相逢(あいあ)う 劇孟(げきもう)の家
寸心言不尽 寸心(すんしん) 言い尽さざるに
前路日已斜 前路(ぜんろ) 日 已(すで)に斜めなり
⊂訳⊃
劇孟のような 俠者の家で
燕趙 悲歌慷慨の士に逢う
胸のうちを 語り尽くせないでいるうちに
路のゆく手に 夕日はすでに傾いている
⊂ものがたり⊃ 今日から中唐の詩人にはいりますが、盛唐と中唐の区分については困難があります。政事的には天宝十四載(755)に安禄山の乱が起こると、盛唐の栄華は一変します。しかし、盛唐期に活躍した詩人の多くは安禄山の乱、史思明の乱をくぐり抜けてそのあとまで活躍しています。
盛唐の有名詩人を死亡年のはやい順に列記しますと、王維が粛宗末年の上元二年(761)、李白が代宗初年の宝応元年(762)、高適は永泰元年(765)、杜甫と岑参は大暦五年(770)になります。だから詩文の盛唐期は代宗の治世初期まで及ぶと考えるべきでしょう。
粛宗の上元三年(762)四月、玄宗上皇が崩じ、つづいて粛宗も崩じました。皇太子が即位して代宗になり、宝応と改元されます。しかし、しばらくは吐蕃の侵入、僕固懐恩(ぼっこかいおん)の乱などが発生し、平穏を取りもどすのは大暦元年(766)になってからです。詩文の中唐期は大暦元年に始まるとされていますが、大暦年間(766ー779)に活躍する詩人の多くは、玄宗の天宝末年に進士に及第し、乱後に新しい詩の傾向を示す詩人として登場するのです。
銭起(せんき:722ー780?)は呉県(浙江省呉興県)の人。天宝十載(751)に三十歳で進士に及第しますが、なかなか任官できませんでした。やがて藍田(陝西省藍田県)の県尉になり、藍田で輞川荘(もうせんそう)を営んでいた王維のもとに出入りして影響を受けます。安史の乱前後、粛宗・代宗に仕えて校書郎から尚書省考功郎中を歴任し、大暦年間には翰林学士になっていました。
詩題の「俠者」(きょうしゃ)は義俠の人といった意味です。「劇孟」は洛陽の俠者で、『史記』游侠列伝に伝があります。「燕趙」は戦国時代に河北にあった二つの国のことで、悲歌慷慨の士が多いことで有名でした。なかでも『史記』刺客列伝に登場する荊軻(けいか)は「易水の歌」で知られています。
だからここでは、旅先で憂国の士と出逢い、「寸心」(自分の心)を語り合っている内に日暮れになったと、憂国の思いを詠うのです。制昨年は不明ですが、結びの「前路 日 已に斜めなり」に比喩を読むとすれば、安史の乱後の唐朝の衰退を憂えていることになりますが、進士及第前の若いころの作品とも思われます。