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tiandaoの自由訳漢詩

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     清50ー黄遵憲
        日本雑事詩            日本雑事詩

      抜地摩天独立高   地を抜き  天を摩(ま)して  独り立つこと高し
      蓮峰湧出海東濤   蓮峰(れんぽう)  湧出(ゆうしゅつ)す  海東の濤(なみ)
      二千五百年前雪   二千五百年前(まえ)の雪
      一白茫茫積未消   一白(いっぱく)  茫茫(ぼうぼう)  積みて未(いま)だ消えず

      ⊂訳⊃
              大地を抜け出て独り  天空に届くほど高く聳える

              蓮の花のような峰は  東海の波から湧き出たのか

              二千五百年前の雪が  いちめんに白く積ったまま

              どこまでもつづき    消えないでいる


     ⊂ものがたり⊃ アヘン戦争は前後二回行われました。一回目は道光二十一年(1841)二月、イギリスへの宣戦布告ではじまり、翌年八月、イギリス艦隊が南京に迫ったことで降伏します。南京条約が結ばれ、香港の割譲、広州・厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の開港などが決定し、不平等条約のもとで門戸を開くことになります。
     道光三十年(1850)に道光帝が崩じ、三月に愛新覚羅奕(えきちょ)が即位して咸豊帝となります。そのころ広西では天地会系の結社の反乱が激化していました。広西金田(広西壮族自治区桂平県金田村)で挙兵した拝上帝会の洪秀全(こうしゅうぜん)は、咸豊元年(1851)三月に天王を称し、湖南へむかって進撃を開始します。咸豊三年(1853)三月、南京を占領して天京と改め、太平天国を樹立しました。
     洪秀全は五月には北伐の軍を発し、太平天国軍は天津郊外に達しましたが清軍に押しもどされました。しかし、清軍にはそれ以上南進して太平天国を鎮圧する力はありませんでした。曾国藩は母親の喪で故郷の湘郷(湖南省湘郷県)にもどっていたとき太平天国の乱に遭遇します。朝廷の呼びかけに応じて地元で義勇軍を組織し、湖南を奪いかえします。曾国藩の軍は湘軍とよばれ、西から太平天国を攻めました。
     このような状勢下、広州でアロー号事件が発生します。咸豊六年(1856)十月、香港船籍のアロー号がアヘン密輸の疑いで官憲の立ちいり検査を受けたとき、イギリス国旗が引き下ろされたというのが口実になり、イギリスはフランスに共同出兵をもちかけ、第二次アヘン戦争(アロー戦争)が勃発します。
     英仏連合軍は広州を占領し、海路北上して咸豊八年(1858)五月、天津の大沽(タークー)砲台を占領します。清朝は和平交渉にはいり天津条約が締結されますが、条約批准のために北京にむかっていた英仏米の公使を撃退します。怒った英仏両国は大艦隊を派遣し、咸豊十年(1860)十月、北京に入城して円明園を破壊します。熱河の避暑山荘に避難していた咸豊帝は弟の恭親王奕訢(えききん)を北京に派遣して北京条約が結ばれました。
     咸豊十一年(1861)八月、咸豊帝は熱河で崩じ、六歳の皇太子愛新覚羅載淳(さいじゅん)が即位して同治帝になります。同治帝の側近であった粛順が輔相になりますが、十一月に同治帝の生母西太后(せいたいごう)と恭親王奕訢がクーデターを起こし、粛順は処刑されて西太后の垂簾聴政が始まりました。
     そのころ太平天国は内部の権力争いを繰り返しながらも江南に進出し、上海を攻めようとしていました。清朝は曾国藩の湘軍を江南にむけようとしましたが、曾国藩は合肥(安徽省合肥市)の李鴻章(りこうしょう)に淮軍を組織させ、上海の救援にあたらせます。太平天国軍は敗れて退き、同治三年(1864)六月、天王洪秀全が病死すると内部分裂を起こし、七月、湘軍が天京に攻めこんで太平天国は滅亡しました。
     同治帝の時代は洋務派の時代です。従来「夷務」とよばれていた外交は「洋務」に改められ、外交だけでなく西欧化政策も洋務に含められます。洋務を積極的に推進する者が洋務派であり、その筆頭は淮軍をひきいる李鴻章でした。湘軍は左宗棠(さそうとう)が引きついでおり、かれらは地方の総督に任じられ、任地で兵器工場や艦艇造船所を建設し、軍備の西欧化を推進しました。
     同治九年(1870)に李鴻章が直隷総督・北洋大臣に任命されると、洋務運動は軍備の西欧化とともに産業の近代化一般へと拡がっていきます。それまで卑賤な者の生業とされていた商業や生産活動に士大夫階層が乗り出すことになり、近代化がはじまります。日本は同治十年(明治四年)九月に日清修好条規を締結して清と平等な国交を開始します。
     同治十三年(1874)、十九歳になっていた同治帝は嗣子のないまま崩じ、十二月に三歳の愛新覚羅載湉(さいてん)が即位して光緒帝となります。載湉は咸豊帝の弟醇親王奕譞(えきけん)の王子で、生母は西太后の妹でした。幼児の甥を皇帝にした西太后の地位は安定し、垂簾聴政は維持されます。
     しかし、その時期は清の辺境や隣接国をめぐってイギリス・ロシア・フランス・日本との対立が激化し、戦争に発展する時代でした。黄遵憲(こうじゅんけん)は光緒年間のはじめに外交官になり、日本のほかアメリカ、イギリスで生活しました。海外の新しい思想や文化に触れ、それらを旧来の韻文形式に盛りこんで詩の近代化に貢献しました。
     黄遵憲(1848―1905)は嘉応州(広東省梅県)の人。第一次アヘン戦争が終わった六年後の道光二十八年(1848)に客家(ハッカ)の家に生まれました。光緒元年(1875)、二十八歳のときに挙人にあげられ、科挙に及第して外交官になります。光緒三年(1877・明治十年)、清朝は条約主要国に外交使節を派遣することになり、黄遵憲は最初の駐日公使何如璋(かじょしょう)の参賛(参事官)に任じられ、東京に赴任しました。
     五年間の滞日のあと、光緒八年(1882)にサンフランシスコ総領事になって米国に赴任し、駐英参賛官などをへて帰国します。康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)ら変法派の人々と大同思想を鼓吹し、光緒二十四年(1898)六月、戊戌の変法に参画します。保守派のクーデターによって変法が不発に終わると免職になり、故郷に帰って著述に専念しました。清末の詩の改革者の名をえて光緒三十一年(1905)になくなりました。享年五十八歳です。
     黄遵憲は日本在任中に書いた詩を、光緒五年(1879)、三十二歳のときに『日本雑事詩』百五十四首にまとめました。のち光緒二十四年(1898)、五十一歳のときに増補改訂版『日本雑事詩』をだし、二百首を収めて完本としています。掲げる詩はそのなかの一首で、富士山を主題とします。
     富士山の素晴らしさを褒めたたえており、前半は独立峰としての高さを強調します。承句の「蓮峰」は富士山頂の峰の形で、江戸時代からの喩えです。それが「湧出す 海東の濤」と東の海から湧き出してそこにあるのかと面白い想像をしています。後半は富士山の大きさ、悠久の荘厳さを強調します。「二千五百年前」は皇紀を用いており、国のはじめからといった感じになります。昔からの雪が一面に広がって消えずに残っていると詠います。

     清51ー黄遵憲
       不忍池晩遊 其十五    不忍池 晩遊  其の十五

      山色湖光一例奇   山色(さんしょく)  湖光(ここう)  一例  奇(き)なり
      莫将西子笑東施   西子(せいし)を将(もっ)て  東施(とうし)を笑う莫(なか)れ
      即今隔海同明月   即今(そっこん)  海を隔(へだ)てて明月を同じうす
      我亦高吟三笠辞   我れも亦(ま)た高吟(こうぎん)せん  三笠(みかさ)の辞(じ)

      ⊂訳⊃
              不忍池の山も湖水も  すべてすぐれている

              西湖を持ちだして    東の西湖を笑ってはいけない

              日本にいる私はいま  海を隔てておなじ明月をみている

              ならば私も声高らかに  三笠山を吟じるとしよう


     ⊂ものがたり⊃ 詩は上野の不忍池で夕べの舟遊びをし、地の端の料亭かなにかで宴会があり、その席で披露したものでしょう。十五首連作の最後の一首です。「山色 湖光」は不忍池のまわりの山の風情と池の水面の輝きのこと。「一例」はすべての意味で、どれも「奇」(勝れている)と褒めています。承句はその美しさを杭州の西湖に喩えるもので、「西子」は春秋時代の越の美女西施のこと。西施自体が西湖の喩えです。「東施」は東方の西施という意味で、不忍池のこと。「東施」は「西子」に劣らないと詠います。
     後半は当座の感懐を詠うものです。夜空に月が出ていたのでしょう。故国の人とおなじ月を見ていると望郷の思いをのぞかせます。「三笠の辞」は奈良時代に留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂の望郷の歌「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」のことで、その歌を吟じようといいます。実際に吟じたかもしれませんが、その宴席には日本人も同席していたと思われますので、日中交流のようすが窺われる詩です。

     清52ー黄遵憲
         新聞紙               新聞紙

      一紙新聞出帝城   一紙(いっし)の新聞  帝城(ていじょう)に出(い)で
      伝来令甲更文明   令甲(れいこう)を伝え来たって   更(さら)に文明
      曝簷父老私相語   簷(のきば)に曝(ひなたぼこ)せる父老(ふろう)  私(ひそか)に相語(あいかた)り
      未敢雌黄信口評   未(いま)だ敢(あ)えて雌黄(しこう)  口に信(まか)せて評せず

      ⊂訳⊃
              ひとつの新聞が  帝都にでると

              国の法令を伝え  文明開化の記事を載せる

              日当りのよい軒先で老人が  なにやら語り合っているが

              けっして記事をけなしたり   勝手に批判したりはしないのだ


     ⊂ものがたり⊃ この詩も『日本雑事詩』中の一首で、新聞の役割に言及しています。日本でも新聞は始まったばかりでした。漢詩で「城」というと城壁に囲まれた街の意味になり、「帝城」は首都東京のことです。「令甲」は政令、「文明」は当時流行の文明開化をさし、新聞の役割を端的に詠います。当時の新聞は雑誌に近いスタイルでした。
     後半は日あたりのよい家の軒先で新聞を読んでいる老人を目にしたのでしょう。新聞を手になにやら談笑しています。「雌黄」は黄色の顔料で、中国ではインク消しの役割がありました。だから文の誤りを抹消する意味になります。結句は政府の政策や新聞記事を従順に受けいれている人々といった風刺がこめられているようです。この詩は光緒二十四年の完本では削除され、つぎのように改訂されました。

      欲知古事読旧史   古事(こじ)を知らんと欲せば   旧史(きゅうし)を読め
      欲知今事看新聞   今事(こんじ)を知らんと欲せば  新聞(しんぶん)を看(み)よ
      九流百家無不有   九流(きゅうりゅう)百家(ひゃくか) 有(あ)らざるは無く
      六合之内同此文   六合(りくごう)の内  此の文を同じくせん

      ⊂訳⊃
              昔のことを知りたければ   史書を読むべきだ

              今のことを知りたいなら   新聞を見るがよい

              いまの世の学説や主張は  なんでも備わっており

              やがて世界は  至高の文明論で統合されるであろう


     光緒二十二年(1896)八月、黄遵憲は梁啓超(りょうけいちょう)らと上海で『時務報』を発刊しました。その二年後に改訂された『日本雑事詩』中の「新聞紙」です。新聞は儒学で尊重される「旧史」とならんで重要であると、まず新聞の役割を評価します。「九流百家」はこの世のあらゆる学説や主張のことです。「六合」は宇宙・世界。「此の文」は斯文(しぶん)のことで、聖人君子の教えですが、ここでは文明開化の論をさして至高の教えといっているのです。(2016.9.21)

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     清53ー黄遵憲
       海行雜感十四首 其七    海行雑感 十四首  其の七

      星星世界徧諸天   星星(せいせい)の世界    諸天(しょてん)に徧(あまね)し
      不計三千与大千   計らず  三千と大千(だいせん)と
      倘亦乗槎中有客   倘(も)し亦(ま)た槎(いかだ)に乗り  中(うち)に客(かく)有らば
      回頭望我地球円   頭(こうべ)を回(めぐ)らして  我が地球の円(まど)かなるを望まん

      ⊂訳⊃
              星々の世界は  すべての国の空にひろがる

              世界がどれだけ多かろうと  関係ないのだ

              もし今の世に   筏に乗って空を飛ぶ人がいるとすれば

              頭を回らして   地球が丸いのを眺めるであろう


     ⊂ものがたり⊃ サンフランシスコ総領事になって船でアメリカに赴任する途中、三十五歳のときの作です。前半二句で満天の星空をみての感懐を詠います。「諸天」はすべての国の空でしょう。「三千与大千」は三千大千世界という仏教語を踏まえるもので、あらゆる世界の意味です。転句は晋の張華の『博物誌』に出てくる伝説で、毎月八日になると筏に乗って天の河を旅する人がいるといいます。その話を持ちだし、そんな人がいるならば地球が丸いのを空から眺めることができるだろうと結びます。

     清54ー黄遵憲
        重 霧               重  霧

      碌碌成何事     碌碌(ろくろく)  何事(なにごと)をか成(な)す
      有船吾欲東     船(ふね)有らば  吾(われ)  東(ひがし)せんと欲す
      百憂增況瘁     百憂(ひゃくゆう)  況瘁(きょうすい)を増し
      独坐屢書空     独り坐して  屢々(しばしば)空(くう)に書(しょ)す
      霧重城如漆     霧(きり)重くして  城  漆(うるし)の如く
      寒深火不紅     寒(かん)深くして  火  紅(くれない)ならず
      昂頭看黄鵠     頭(こうべ)を昂(あ)げて黄鵠(こうこく)を看(み)れば
      高挙扶天風     高く挙(あ)がって天風(てんぷう)に扶(よ)る

      ⊂訳⊃
              時は無為に過ぎて  なにを成そうとしているのか
              船があるならば   祖国へ帰りたい
              さまざまな悩みで  やつれはひどくなり
              ひとり坐りこんで   虚空に字を書くだけの毎日だ
              霧は重く立ちこめ  街は漆を塗ったように暗く
              寒さは厳しくて    煖炉の火も赤くならない
              頭を上げて   黄鵠をみると
              高く上がって  天の風に乗っている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「重霧」(ちょうむ)は重く垂れこめる霧。霧の都ロンドンでの感懐です。黄遵憲は四十歳代のはじめロンドンにいて、朝鮮をめぐる日清の紛争を遠くから心配して眺めていました。そのときの心情を反映する作品と思われます。
     はじめの二句はロンドンで空しい日々を過ごしていることを詠い、「東せんと欲す」と東の祖国へ帰りたいといいます。中四句はその理由です。
     「況瘁」はやつれたさま。「空に書す」は南北朝時代の故事を踏まえており、自分にふさわしい地位にいないことの表明です。ついで寒くて暗い秋のロンドンを描きます。「城」は街、「火」は暖炉の火です。結び二句の「黄鵠」は黄色い白鳥のことで、漢代からめでたい鳥として詩に用いられてきました。空飛ぶ鳥をみて、自由への願望をのべるのです。

     清55ー黄遵憲
         哀旅順              旅順を哀しむ

      海水一泓烟九点   海水(かいすい)  一泓(いちおう)  煙九点(きゅうてん)
      壮哉此地実天険   壮(さか)んなる哉(かな)  此の地  実に天険(てんけん)なり
      炮台屹立如虎闞   砲台(ほうだい)  屹立(きつりつ)して  虎の闞(うかが)うが如く
      紅衣大将威望儼   紅衣(こうい)の大将   威望(いぼう)儼(おごそ)かなり
      下有窪池列巨艦   下に窪池(わち)有りて  巨艦(きょかん)を列(つら)ね
      晴天雷轟夜電閃   晴天に雷(いかずち)轟(とどろ)き  夜は電(いなずま)閃(きらめ)く
      最高峰頭縦遠覽   最高峰頭(さいこうほうとう)  遠覧(えんらん)を縦(ほしいまま)にし
      龍旗百丈迎風颭   龍旗(りゅうき)百丈(ひゃくじょう)  風を迎えて颭(ひるがえ)る
      長城万里此為塹   長城万里  此(ここ)に塹(ざん)と為(な)る
      鯨鵬相摩図一啖   鯨鵬(げいほう)相摩(あいま)して  一啖(いったん)を図(はか)る
      昂頭側睨何眈眈   頭(かしら)を昂(あ)げて側(かたわら)より睨(にら)むこと  何ぞ眈眈(たんたん)たる
      伸手欲攫終不敢   手を伸ばして攫(つか)まんと欲するも終(つい)に敢(あえ)てせず
      謂海可塡山易撼   謂(おも)えらく  海  塡(うず)む可(べ)し  山  撼(うご)かし易(やす)し
      万鬼聚謀無此胆   万鬼(ばんき)聚(あつま)り謀(はか)るも  此の胆(たん)無からん  と
      一朝瓦解成劫灰   一朝(いっちょう)にして瓦解(がかい)し  劫灰(ごうかい)と成る
      聞道敵軍蹈背來   聞道(きくな)らく  敵軍は背(はい)を蹈(ふ)んで来たれりと

      ⊂訳⊃
              大海原の彼方に  中国が望まれる
              この地こそ実に  天険というべきだ
              聳え立つ砲台は  身構えている虎のようで
              阿蘭陀の砲には  威厳がある
              したの湾内には  巨大な軍艦がつらなり
              晴れた日に雷鳴  夜には稲妻が煌めく
              最高峰に立てば  遠くまで見わたすことができ
              百丈の黄龍旗は  風をうけて翻る
              万里の長城は   旅順の塹壕であり
              列強は迫って    ひと呑みにしようとする
              間近に頭をあげ  虎視眈眈とねらい
              手を伸ばして    掴みかかろうとするができずにいた
              「海は埋められもしよう   山は動かすこともできよう
              だが謀議を凝らしたとて  攻める勇気はあるまい」と
              甘くみていたら   またたくまに崩れて灰になる
              聞けば敵軍は   背後を突いて攻めてきたそうだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「旅順」(りょじゅん)は遼寧省遼東半島先端の旅順口。甲午の役(日清戦争)における旅順口の陥落を嘆く詩です。日本軍は明治二十七年(光緒二十年)十月二十一日に旅順攻撃を開始し、四日後の二十五日には攻略しました。詩は翌光緒二十一年(1895)、四十八歳のときの作です。
     二、六、四、四句にわけて読むことができ、はじめの二句で旅順口が天険の要害であることを詠います。「烟九点」は九州というのとおなじ意味で中国をさします。つづく六句は天険であることに加えて防備も万全であると詠います。
     「紅衣大将」の「紅衣」はオランダ人のことで、明の万暦二十九年(1601)にオランダ船が澳門(マカオ)に到着したとき、船員がみな紅い服を着、髪も髯も赤かったので、オランダ人を紅毛、紅衣(紅夷)とよびました。「大将」は明の崇禎四年(1631)にオランダ式大砲が鋳造され、それを「天佑助威大将軍」と名づけて砲身に刻んだことに由来します。大砲製造の技術は清に伝えられ、オランダ式大砲のことを紅衣の大将といいました。
     「窪池」は湾のことです。旅順口には北洋艦隊の基地があり、「雷」と「電」は艦砲の轟く音と夜間発射の閃光です。「最高峰頭」は旅順口を取り巻く山の峰のことで、そこから遠くまで見わたせ、「龍旗」(清国の軍旗)が風にはためいていたと詠います。
     つぎの四句は列強諸国が旅順口を狙っている状況です。まず、万里の長城は旅順口の塹壕の役割を果たしているといいます。「鯨鵬」は長鯨と大鵬で、列強諸国を意味します。中国をひと呑みにしようと虎視眈眈と窺っており、手を伸ばして掴みかかろうとしますができずにたと詠います。
     つぎの二句は清朝政府の油断の指摘です。「万鬼」は有象無象の鬼たち、洋鬼(ヤンコイ)であり、彼らはよつてたかって謀議を凝らしているが、攻めかかる勇気のある者はいないだろうと思っていたといいます。
     ところが最後の二句。「劫灰」は仏教用語で世界が滅亡するときに起こった劫火の灰のことです。旅順口は「一朝にして瓦解」してしまいますが、聞けば敵が背後を突いて攻めこんで来たそうだと伝聞を伝えます。敵(日本)の卑怯な攻め方によって陥落したといっていますが、伝聞になっているのは外国にいたからでしょう。

     清56ー黄遵憲
        己亥雑詩             己亥雑詩

      我是東西南北人   我れは是(こ)れ東西南北の人
      平生自号風波民   平生(へいぜい)   自(みずか)ら風波(ふうは)の民と号す
      百年過半洲遊四   百年 半(なか)ばを過ぎ  洲(しゅう)は四つに遊び
      留得家園五十春   留(とど)め得たり  家園(かえん)五十の春

      ⊂訳⊃
              私は東西南北を飛びまわってきた男だ

              かねてから自分を  「風波の民」と称している

              一生の半分以上を  四大洲に遊び

              五十歳になってやっと  故郷の春を楽しんでいる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「己亥」(きがい)は光緒二十五年(1899)、五十二歳のときの作品です。職を免じられて故郷に帰っていたとき、龔自珍と同題で八十八首を詠みました。そのなかの一首です。「東西南北の人」は外交官として東奔西走したことをいいます。「風波」には苦難の時代という意味がこめられています。
     後半二句の「百年」は人の一生の意味です。「洲は四つに遊び」は五大洲のうち大洋洲を除く四大洲に勤務したことです。そしていま五十歳になって、やっと昔のままの故郷の春を楽しんでいると詠います。(2016.9.25)

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     清57ー王国維
         欲 覓                覓めんと欲す

      欲覓吾心已自難   吾(わ)が心を覓(もと)めんと欲するも  已(すで)に自(おのず)から難(かた)し
      更従何処把心安   更に何(いず)れの処(ところ)従(よ)り  心の安きを把(と)らんや
      詩縁病輟弥無頼   詩は病に縁(よ)りて輟(や)め  弥々(いよいよ)頼るもの無く
      憂与生来詎有端   憂(うれ)いは生と与(とも)に来たりて   詎(なん)ぞ端(たん)有らん
      起看月中霜万瓦   起ちて看(み)る  月中(げつちゅう)  霜  万瓦(ばんが)
      臥聞風裏竹千竿   臥(ふ)して聞く   風裏(ふうり)  竹  千竿(せんかん)
      滄浪亭北君遷樹   滄浪亭北(そうろうていほく)   君遷(くんせん)の樹(き)
      何限棲鴉噪暮寒   何限(かげん)の棲鴉(せいあ)  暮寒(ぼかん)に噪(さわ)ぐ

      ⊂訳⊃
              自分の心を尋ね求めるが    そのことがすでに難しい
              これ以上の心の落ち着きを   どこに求めようというのか
              病のために詩作もやめて    いよいよ頼るものもなく
              生きているだけで悩みは湧き  切っかけなどは要らない
              立って見れば  霜が降りたように月下で煌めく無数の瓦
              寝て聞くのは   風に吹かれてざわめくたくさんの竹の音
              滄浪亭の北に  君遷の樹がある
              塒に帰る鴉が  夕暮れの寒さのなかで騒いでいる


     ⊂ものがたり⊃ 光緒九年(1883)、ベトナムを巡って清仏戦争がおこり、翌十年までつづきます。その十二月に朝鮮で甲申政変がおこり、日清両国は朝鮮に出兵しました。光緒二十年(1894・明治二十七年)に日清戦争がはじまりますが、戦ったのは主として李鴻章の淮軍と北洋艦隊でした。翌年四月、日本と李鴻章のあいだで日清講和条約(下関条約)が結ばれます。
     公羊学派の学者であった康有為(こうゆうい)は明治維新を成し遂げた日本の改革に注目し、梁啓超(りょうけいちょう)らと政事改革のための理論に取り組み、しばしば上書して「変法自強」を訴えました。租借という名の領土侵略に危機感を抱いていた光緒帝は、光緒二十四年(1898)六月、「国是を定めるの詔」を下して変法の実施を明らかにし、康有為を総理衙門章京(ジャンチン:大臣補佐)に任命して矢継ぎばやに上諭を公布しました。
     九月七日には変法に批判的であった李鴻章を総理衙門大臣から罷免します。すると保守派は西太后を擁してクーデターを起こし、九月二十一日、光緒帝は幽閉され、康有為と梁啓超は日本へ亡命します。変法自強運動の挫折です。
     光緒二十五年(1899)十二月、山東西部で義和団の乱が発生します。義和団は「扶清滅洋」のスローガンをかかげて翌年四月には天津・北京に迫る勢いになります。清朝は義和団を乱民とみるか義民とみるかで逡巡していましたが、西太后は義和団の排外主義に乗じて列強に宣戦布告をします。しかし、八か国連合軍が北京に入城するにおよんで西太后は光緒帝をともなって西安に逃げ、李鴻章を広州から呼びだして講和を結ばせます。
     光緒二十七年(1901)北京にもどった西太后は光緒の新政と呼ばれる改革に乗り出しました。その内容は二年前にみずから排斥した変法運動を復活させるものでした。軍の近代化がすすめられ、六個師団からなる北洋新軍が編成され、その中心になったのは武衛右軍をひきいる山東巡撫の袁世凱(えんせいがい)でした。この年、李鴻章が死去したので、袁世凱はその後任として北洋大臣・直隷総督に任命され、清朝最大の実力者にのしあがります。
     中国東北部の権益をめぐって日露戦争がはじまるのは、光緒三十年(1904・明治三十七年)二月のことです。清朝は局外中立を宣言し、戦争は日本の勝利に帰して翌年九月、日露講和条約がポーツマスで調印されます。
     日本が大国ロシアに勝利したのは中国にとって驚きでした。日本にならって中国でも欽定憲法を制定し、政事改革を進めるべきであるという声が高まり、光緒三十四年(1908)九月に明治憲法をモデルにした憲法草案が示されました。九年以内に国会を召集することも約束されましたが、その年の十一月十四日に光緒帝が崩じ、つづいて西太后が死去したのです。
     西太后は病に倒れた十三日、光緒帝の弟醇親王載灃(さいほう)の王子愛新覚羅溥儀(ふぎ)を皇太子に指名し、載灃を摂政王に任じました。十二月二日、二歳の溥儀は即位して宣統帝となります。
     清朝が日本へ留学生を派遣するのは日清戦争後の光緒二十二年(1896)からです。王国維(おうこくい)は初期の日本留学生で学者として終始しますが、最後は清朝に殉じて自殺したので清の最後の詩人といえるでしょう。
     王国維(1877―1927)は海寧(浙江省海寧県)の人。光緒三年(1877)に生まれ、光緒二十七年(1901・明治三十四年)、二十五歳のときに来日して物理学を学びます。翌年には帰国し、蘇州で哲学や心理学を講じます。
     宣統三年(1911)、三十五歳のとき辛亥革命に遭遇し、翌民国元年に清は滅亡します。以後、清朝の遺老をもって任じ、羅振玉(らしんぎょく)にしたがって日本に亡命します。京都で古文字学(甲骨文・金文)や中国古代史の研究に従事し、西洋の哲学・文学・美術を学びます。帰国後、清華研究院や北京大学に迎えられましたが、民国十六年(1927)、国民革命軍の北京入城をまえに頤和園の昆明湖に入水して自殺しました。享年五十一歳です。
     詩題の「覓(もと)めんと欲す」は探し求めたい、探しあてたいという心の欲求をいいます。日本留学から帰って江南にいた二十八歳の冬の作品です。中四句二聯の対句を前後の二句で囲む七言律詩で、まず自分の不安な心境から詠いだします。王朝の衰退をまえにして自分はこれからどうしたらいいのか、心の拠りどころさえわからないと詠います。
     中四句のはじめの対句では、その不安定な気持ちをさらに強調します。病気のために詩作もやめてしまった。不安、心配、悩みは、後から後から湧き起こってきます。つぎの対句では視点をかえて叙景に移ります。立ちあがってみると、見えるのは「月中 霜 万瓦」、横になって聞こえるのは「風裏 竹 千竿」であり、情景は蒼然とした心情をうかがわせます。
     最後の二句は結びで、不吉な予感に満ちています。作者は滄浪亭にいて、その北に「君遷の樹」(豆柿の木)が生えています。豆柿は柿科の植物で、君主が遷るという寓意があります。あたりには「何限の棲鴉」(塒に帰ろうとする鴉)が夕暮れの冷えこみのなかでしきりに鳴いています。その声は清朝が瓦解するのではないかという予感、そうした予感を感じる人々のざわめく声のようでもありました。

     清58ー王国維
        観紅葉一首             紅葉を観る 一首

      漫山塡谷漲紅霞   漫山(まんざん)  塡谷(てんこく)  紅霞(こうか)漲(みなぎ)る
      点綴残秋意太奢   残秋(ざんしゅう)を点綴(てんてい)して  意(い)  太(はなは)だ奢(おご)る
      若問蓬萊好風景   若(も)し蓬萊(ほうらい)の好風景(こうふうけい)を問わば
      為言楓葉勝桜花   為に言わん  楓葉(ふうよう)は桜花(おうか)に勝(まさ)ると

      ⊂訳⊃
              山を覆い谷を埋めて  紅の霞が満ちわたる

              晩秋の山野を彩って  まことにあでやかだ

              もしあなたが  蓬萊の国のみどころを尋ねるならば

              楓の紅葉こそ  桜の花にまさるとお答えしよう


     ⊂ものがたり⊃ 辛亥革命のあと日本に亡命して京都に住んでいたときの作です。秋の紅葉の美に心をうたれて、宴会の席かそれに類する場で披露したものでしょう。はじめの二句は「漫山 塡谷」、山や谷を埋めつくす紅葉を「紅霞漲る」と詠い、「意 太だ奢る」とほめます。「奢る」は艶やかさが目立つという意味です。
     後半二句は感懐で、「蓬萊」は中国の東の海にあるという伝説の島。仙人の棲みかとされますが、ここでは日本をさします。日本の景色のみどころはどこかと尋ねられたら、楓(かえで)の紅葉こそ桜の花にまさると答えましょうと詠います。(2016.9.27)

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     清59ー魯 迅
        自題小像              自ら小像に題す

      霊台無計逃神矢   霊台(れいだい)  神矢(しんし)を逃るるに計(けい)無く
      風雨如磐闇故園   風雨  磐(いわお)の如くにして故園(こえん)を闇(やみ)とす
      寄意寒星荃不察   意を寒星(かんせい)に寄(よ)するも  荃(せん)  察せず
      我以我血薦軒轅   我れは我が血を以って  軒轅(けんえん)に薦(すす)めん

      ⊂訳⊃
              祖国は異国の攻撃を逃れる策もないままに

              風雨は岩のように押し寄せて  国は闇となる

              朝廷の要人に期待をよせるが  皇帝陛下はお察しにならない

              ならば私は自分の血を流して  黄帝に捧げよう


     ⊂ものがたり⊃ 西太后を失った清朝は、もはや旧来の専制主義を維持できませんでした。清の支配は急速に揺らぎ、革命派の動きが活発になります。宣統三年(1911)十月十日、武昌(湖北省武漢市武昌区)の新軍将兵が蜂起すると、報せは中国全土に伝わり、各地で革命派や新軍が反乱を起こして十三の省が独立を宣言しました。この事態に中央政府はなす術もなく、遠ざけていた袁世凱を北京によびもどして欽差大臣に任じ、十一月には親貴内閣を廃止して、袁世凱を内閣総理大臣に任命しました。
     孫文はそのころ国外で革命運動を指揮していましたが、十二月二十一日に香港に到着し、二十五日には上海で熱烈な歓迎をうけます。翌民国元年(1912)正月元日、孫文は南京で中華民国の建国を宣言し、みずから臨時大総統に就任します。しかし、中国の現状からして内戦は避けるべきと考え、「清帝が退位して、袁世凱が共和制に賛成するのであれば、臨時大総統の地位を袁に譲ってもよい」との声明を発表しました。袁世凱は光緒帝の皇后を説得して、二月十二日に宣統帝の退位が発表されます。
     清朝は時代の風雨のなかで倒れた老木といってよく、秦の始皇帝以来二千年にわたってつづいた専制王朝の終焉でもありました。だが、袁世凱は共和制への移行を推進せず、中華民国の動乱がはじまります。軍閥抗争の時代に文筆活動を始めた魯迅(ろじん)は、中国近代文学の第一人者になりますが、清末には国を憂える一人の若者でした。
     魯迅(1881―1936)は本名を周樹人(しゅうじゅじん)といい、紹興(浙江省紹興市)の人です。光緒七年(1881)に生まれ、生家は裕福な官家でしたが幼少のころには没落していました。光緒二十八年(1902・明治三十五年)、二十二歳のときに国費留学生として来日し、仙台医学専門学校に学びます。在学中に文学を志すようになり、宣統元年(1909)に帰国して故郷の紹興で教師になります。
     三十一歳のとき武昌蜂起がおこりますが、紹興の政事になんの変化もなく、翌民国元年に紹興をでて北京の教育部社会教育課長になります。民国七年(1918)六月、雑誌『新青年』に「狂人日記」を発表し、翌年には「孔乙己(コンイーチー)」「薬」を発表、中国人の暗部をえぐりだします。
     北京大学の非常勤講師であった民国十年(1921・大正十年)に代表作「阿Q正伝」を発表、中国社会のゆがみに切りこんでいきます。北京女子師範の非常勤講師をしていた民国十五年(1926・大正十五年)三月十八日、連合国の内政干渉に憤激した学生が天安門広場で抗議集会をひらき、軍隊が発砲して三・一八事件がおきました。進歩的知識人への圧迫も強まり、魯迅は家族を北京にのこし、前年に知りあった女子大生の許広平(きょこうへい)らと北京を離れ、九月に厦門(アモイ)大学に身をよせます。
     ほどなく広州の中山大学に移りますが、民国十六年(1927)四月十二日に上海でおこった共産党弾圧事件が広州に波及し、左派学生の逮捕や大学職員の罷免がおこります。それに反対した魯迅は辞表を提出し、九月に許広平と上海の共同租界に移りました。許広平とのあいだには息子周海嬰(かいえい)が生まれていました。魯迅は国民党政権と対立し、南京政府の追及を避けながら文筆活動をつづけ、民国二十五年(1936・昭和十一年)に上海でなくなります。享年五十六歳です。
     詩題の「小像」は肖像写真のことです。日本に留学していた二十三歳のとき、自分の写真に詩を書きつけました。前半二句は中国の現状描写です。「霊台」は周の辟雍(へきよう:神宮)に付設されていた建物で、転じて祖国をあらわします。「神矢」は異国の神が放つ矢のことで、具体的には西欧諸国の侵略行為でしょう。「風雨」は困難や逆境の喩えで、岩のように押しよせる苦難に「故園」(故郷・祖国)は闇に閉ざされていると詠います。
     後半では自分の心境と決意をのべます。「寒星」は『楚辞』にもとづく語で賢臣を意味し、「荃」も『楚辞』にもとづく語で皇帝をいいます。つまり皇帝陛下や朝廷は頼みにならない。だから自分は自分自身の血を注いで祖国の神に捧げようと結ぶのです。「軒轅」は黄帝のことで、漢民族の祖神として崇められていました。

     清60ー魯 迅
         自 嘲                  自ら嘲る

      運交華蓋欲何求   運(うん)  華蓋(かがい)に交わりて  何(なに)をか求めんと欲する
      未敢翻身已碰頭   未(いま)だ敢て身を翻(ひるがえ)さざるに  已(すで)に頭(こうべ)を碰(う)つ
      破帽遮顔過鬧市   破帽(はぼう)   顔(かんばせ)を遮(さえぎ)って鬧市(どうし)を過ぎ
      漏船載酒泛中流   漏船(ろうせん)  酒を載(の)せて中流に泛(うか)ぶ
      横眉冷対千夫指   眉(まゆ)を横たえて冷やかに対す  千夫(せんぷ)の指
      俯首甘為孺子牛   首(こうべ)を俯(ふ)して甘んじて為(な)る  孺子(じゅし)の牛
      躱進小楼成一統   小楼に躱(のが)れ進みて一統(いっとう)を成(な)さん
      管牠冬夏与春秋   牠(か)の冬夏(とうか)と春秋(しゅんじゅう)とに管(かん)せんや

      ⊂訳⊃
              私は華蓋の運に出あって  なにをしようしているのか
              進む方向を変えない内に  頭をぶつけてしまったようだ
              敗れた帽子で顔を隠し   繁華な街を通り抜けるような
              破れた船に酒を載せて   流れに浮かぶような日々だった
              これからは眉をあげて    冷静に千人の敵にむかいあい
              謙虚な態度で子供と遊び  牛の役目も喜んでつとめよう
              小さな家に身を隠して    一家の者をまもり
              季節の移ろい世の変化に  かかわり合うのはやめにしよう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題「自嘲」はみずからを嘲ることです。亡くなる四年前、民国二十一年(1932)の作品です。上海に移って五年目、魯迅は五十二歳になっていました。前年九月に満洲事変が起こり、南京の蒋介石は東北軍閥の張学良に隠忍自重を求めました。つづくこの年の一月に上海事変がおこり、魯迅の書斎にも弾丸が飛来し、家族とともに内山書店に避難しました。三月には満洲国が建国します。
     七言律詩のはじめ二句は現在の心境です。「華蓋」は占星術の用語で、僧侶にめぐりあうと栄達するが凡人にであうと八方塞がりになる星です。まだ進路を変えようとしないうちに「碰頭」(頭打ち)になると詠います。
     中四句二聯の対句のはじめ二句は、これまでの不安定な生活を総括します。比喩をもちいて描いていますが、国民党政権の追及を逃れて暮らす日々でした。つづく対句は今後の生き方についての抱負です。「千夫の指」は千人の人の指、多くの敵のことです。「孺子の牛」は子供の遊び相手の牛で、わが子と遊ぶとき牛になって子供を喜ばせてやろうといいます。逃げ隠れせずに論戦し、家庭ではよい父親になろうと詠うのです。
     最後の二句では今後の生き方について重ねてのべ、「牠の冬夏と春秋とに管せんや」と結びます。「冬夏」は季節の移りかわり、「春秋」は史書の『春秋』をさし、時代の変転です。「牠の……に管せんや」と詠い、悠然とした生き方をしようといっていますが、満洲の成りゆきに失望を隠せない魯迅です。(2016.9.29)

         ※ 以上で、清代を終わります。閲覧ありがとうございました。

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