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tiandaoの自由訳漢詩

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     清27ー鄭燮
         竹 石               竹   石

      咬定青山不放鬆   青山(せいざん)を咬定(こうてい)して放鬆(ほうしょう)せず
      立根原在破岩中   根を立つること  原(もと)  破岩(はがん)の中(うち)に在り
      千磨万撃還堅勁   千磨(せんま)   万撃(ばんげき)  還(ま)た堅勁(けんけい)
      任爾東西南北風   任爾(さもあらばあれ)  東西  南北の風

      ⊂訳⊃
              緑の山に根を張って  少しもゆらぐことがない

              根を突き立てているのは  岩の割れ目の奥底だ

              幾度こすられ叩かれても  堅く強く立っている

              東西南北  風がどこから吹いてこようとかまわない


     ⊂ものがたり⊃ 鄭燮(ていしょう:1693―1765)は興化(江蘇省興化)県の人。康煕三十三年(1693)に生まれ、乾隆元年(1736)に四十四歳で進士に及第します。范県(山東省)、ついで濰県(山東省濰坊市)の知県になり、乾隆十八年(1763)の大飢饉に際して非常の措置を取り多くの民を救いました。だが、上司の命に反したとの咎めをうけて免職になります。
     以後、揚州(江蘇省揚州市)に住んで詩詞、書画に勤しみました。当時の揚州は大都会で多くの書家画家が集まっていました。なかでも鄭燮の名は高く、一家を成して乾隆三十年になくなります。享年七十三歳でした。
     詩題の「竹石」(ちくせき)は鄭燮が描いた絵の題名で、その絵にみずから書きつけた題画詩です。内容的には詠物詩に属し、山の岩に根を張って生えている竹の「堅勁」(堅さと強さ)を詠って志をしめします。
     前半二句は山に生えている竹の生命力の強さを詠います。「咬定」はかみ締めること、「不放鬆」は乱れたりそそけたりしないこと。つまりしっかりと根を張って揺るがないことです。それは竹が「破岩」(割れた岩、岩の割れ目)の深いところに根をおろしているからだと詠います。
     後半二句は山の竹に対する賛嘆の言葉で、「千磨 万撃」はどれほどこすられ叩かれてもの意味です。「任爾」は爾(なんじ)に任すとも読め、風がどこから吹いてこようと平気であると詠うのです。自分の人生を竹に託して、そのような人物でありたいと願うのでしょう。

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     清28ー紀 昀
         甘 瓜               甘  瓜

      甘瓜別種碧団圝   甘瓜(かんか)の別種(べつしゅ)  碧団圝(へきだんらん)
      錯作花門小笠看   錯(あやま)って  花門(かもん)の小笠(しょうりゅう)と作(な)して看(み)る
      午夢初回微渴後   午夢(ごむ)  初めて回(かえ)り  微(すこ)しく渇(かつ)するの後(のち)
      嚼来真似水晶寒   嚼来(しゃくらい)  真(まこと)に似たり  水晶の寒

      ⊂訳⊃
              この瓜は甘瓜の仲間  青緑色で形はまるい

              ウイグル族の帽子と  間違えそうだ

              昼寝の夢から覚めて  少し喉が渇いたとき

              齧ってみたらまるで   水晶のような冷たさだった


     ⊂このがたり⊃ 紀昀(きいん:1724―1805)は直隷献県(河北省)の人。雍正二年(1724)に生まれ、乾隆十九年(1754)に三十一歳で進士に及第します。事に坐して二年ほど烏魯木斉(新疆ウイグル自治区ウルムチ市)に流されました。都に復帰して『四庫全書』総纂官になり、十五年がかりで完成させます。あわせて学者たちが分坦執筆した『四庫全書総目提要』の校閲補筆をおこないました。大学者であったといえますが幅のひろい文人で、『閲微草堂筆記』という怪奇小説集なども書いています。官は礼部尚書、協辨大学士に至り、嘉慶十年(一八〇五)になくなります。享年八十二歳です。
     詩題の「甘瓜」(かんか)はハミ瓜のことですが、当時は甘い瓜の一種とみなされていたようです。烏魯木斉に流されていたときの作品で、はじめの二句で瓜の外観を「碧団圝」(青緑色でまるい)といい、「花門の小笠」(ウイグル族の帽子)のようだと詠います。 後半二句はそれを食べたときの感想で、昼寝から覚めて喉が渇いていました。そんなとき「嚼来」(噛んで食べる)しましたが、水晶のようにひんやりした舌ざわりでした。流謫の地での体験を、ウイットを利かせて詠っています。

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     清29ー袁枚
         紙 鳶                紙  鳶

      紙鳶風骨仮稜嶒   紙鳶(しえん)の風骨(ふうこつ)   稜嶒(りょうそう)に仮(か)る
      躡慣青雲自覚能   青雲(せいうん)を躡(ふ)み慣れて 自(みずか)ら能(のう)あるを覚ゆ
      一日風停落泥滓   一日(いちじつ)  風(かぜ)停(とど)まって泥滓(でいし)に落つれば
      低飛還不及蒼蠅   低飛(ていひ)   還(ま)た蒼蠅(そうよう)に及ばず

      ⊂訳⊃
              紙凧の姿かたちは   骨ばっていかめしい

              青雲を歩きなれて   才能があると思っている

              いったん風がやんで  泥水のなかに落ちれば

              低く飛ぼうとしても   もはや蠅におよばないのだ


     ⊂ものがたり⊃ 後世「乾隆三大家」と称される袁枚(えんばい)、蔣士銓(しょうしせん)、趙翼(ちょうよく)は紀昀と同世代です。三人とも朝廷に仕えますが途中で職を辞し、野にくだって詩文の活動に従事します。官僚になった経験はありますが詩人としては在野とみなされています。「文字の獄」の厳しいなか、大家と称される詩を残した詩人たちです。
     袁枚(1716―1797)は銭塘(浙江省杭州市)の人。康煕五十五年(1716)に生まれ、乾隆四年(1793)に二十四歳で進士に及第します。六十七歳で進士に及第した深徳潜と同年(進士に及第した年が同じ)です。各地の知県を歴任しますが官途に満足できず、乾隆二十年(1755)、四十歳のときに官を辞して故郷に帰ります。
     江寧(江蘇省南京市)の小倉山に山荘「随園」をひらいて詩文の創作に専念します。詩論家としては深徳潜の格調説に反対し、感情のありのままの発露を重んじる性霊説を唱えました。また『子不語』という怪奇小説なども書き、多才の文人でした。
     在野四十余年、多くの弟子を育成し、江南文壇の重鎮になります。女性の弟子が五十人いたことでも有名です。山水田園を愛し、六十歳を過ぎてからも多くの弟子をつれて各地を遊歴したといいます。嘉慶二年(1797)になくなり、享年八十二歳です。
     詩題の「紙鳶」(しえん)は紙を張った凧のことです。詠物詩であり、寓意をふくみます。前半二句で「紙鳶」を擬人化して描きます。「風骨」は姿かたちですが、精神性がふくまれています。「稜嶒」は山が骨ばって聳えていること。「青雲」の背後には当然、青雲の志という成句がひかえており、才能もないのに出世街道を歩いている者を皮肉っているのです。
     だから後半二句では、風がやんで「泥滓」(泥水)に落ちてしまえば、飛ぼうとしても「蒼蠅」におよばないと詠うのです。蒼蠅は『詩経』の昔から口先だけのつまらない人物の喩えとして用いられており、それ以下だというのです。

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     清33ー蔣士銓
       湖上晩歸           湖上 晩に帰る

      湿雲鴉背重     湿雲(しつうん)   鴉背(あはい)重く
      野寺出新晴     野寺(やじ)      新晴(しんせい)に出づ
      敗葉存秋気     敗葉(はいよう)   秋気(しゅうき)を存(そん)し
      寒鐘過雨声     寒鐘(かんしょう)  雨声(うせい)に過(よぎ)る
      半檐群鳥入     半檐(はんえん)  群鳥(ぐんちょう)入り
      深樹一燈明     深樹(しんじゅ)   一灯(いっとう)明らかなり
      猟猟西風勁     猟猟(りょうりょう)として  西風(せいふう)勁(つよ)く
      湖心月乍生     湖心(こしん)  月  乍(たちま)ち生ず

      ⊂訳⊃
              湿った雨雲が  鴉の背中のように黒く重く垂れ
              寂れた寺が   晴れ間の光に浮きでている
              枯れた葉に   秋の気配がよどみ
              鐘の音が    雨のなかを過ぎていく
              崩れた庇を   鳥たちは群れて出入りし
              樹の繁みから  明るい灯火が洩れでている
              西風は      ひょうひょうと吹きつのり
              湖の中央に   月がたちまち顔をだす


     ⊂ものがたち⊃ 蔣士銓(しょうしせん:1725―1785)は鉛山(江西省鉛山県)の人。雍正三年(1725)の生まれです。乾隆二十二年(1757)に三十三歳で進士に及第し、蕺山(しゅうざん)・崇文(すうぶん)・安定(あんてい)三書院の長などをへて翰林院編修に至ります。戯曲作家として名を成し、乾隆五十年(1785)になくなりました。享年六十一歳です。
     詩題の「湖上 晩に帰る」は夜、湖上を舟で家に帰ること。その途中で目にしたものを描く詩で、一句ごとに視点をかえて丹念に詩句を積み重ねる手法の五言律詩です。第一句から難解ですが、「鴉背重く」は雨雲の重く垂れたようすを鴉の背の黒さに喩えるのでしょう。二句目の「野寺」は高いところから野原をみおろしているわけではないので、官寺ではない寂れた寺の意味でしょう。季節は秋で、雨も降りだしたようです。その雨のなかを寒々とした鐘の音が流れていきます。
     五句目の「半檐」も難解で「半」には中央という意味があります。しかし、ここでは本来の半ばの意味と考え、半ば崩れた廃屋の庇と考えました。つぎの「一灯明らかなり」には人の生活が感じられ、作者もほっとするのでしょう。しかし、現実は厳しく「猟猟として 西風勁く」です。「西風」は秋風で冬をよぶ風です。やがて雨のやんだ湖の中央真上に月が突然姿をあらわします。抒情に酔うことのない醒めた詩です。

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     清34ー趙翼
         野 歩                 野  歩

      峭寒催換木綿裘   峭寒(しょうかん)  換(か)うるを催(うなが)す  木綿(もめん)の裘(きゅう)
      倚杖郊原作近游   杖に倚(よ)りて   郊原(こうげん)に近游(きんゆう)を作(な)す
      最是秋風管閑事   最も是(こ)れ  秋風(しゅうふう)  閑事(かんじ)を管(かん)し
      紅他楓葉白人頭   他(か)の楓葉(ふうよう)を紅(くれない)ならしめ  人頭(じんとう)を白ならしむ

      ⊂訳⊃
              厳しい寒さ  木綿の上着を皮衣にかえる

              杖をついて  郊外の野原を散歩する

              秋風が    余計なお世話をしでかして

              楓の葉を紅葉させ  わたしの頭を白髪にする


     ⊂ものがたり⊃ 趙翼(ちょうよく:1727―1814)は陽湖(江蘇省武進県)の人。雍正五年(1727)に生まれ、乾隆二十六年(1761)に三十五歳で進士に及第、地方官を歴任して貴西兵備道に至ります。職を辞して安定書院の主講になり、講義と著述に専念します。史学・考証学にすぐれ、嘉慶十九年(1814)になくなりました。享年八十八歳です。
     詩題の「野歩」(やほ)は野原の散歩のこと。寒気が厳しくなった晩秋の野です。前半二句で詩の書かれた状況をしめします。「峭寒」(厳しい寒さ)なので木綿の上着を「裘」(皮衣)に換えて出かけたのでしょう。
     後半二句は前半のうらぶれた情感に対して機知を働かせます。「秋風 閑事を管し」がそれで、「閑事」は暇なこと、よけいな世話であり、「管」は管理することです。秋風が余計なことをして楓葉を紅葉させ、わたしの白髪を増やしてくれると世間を皮肉るのでしょう。

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     清35ー黄景仁
         雑 感                雑   感

      仙仏茫茫両未成   仙仏(せんぶつ)茫茫として   両(ふた)つながら未(いま)だ成らず
      只知独夜不平鳴   只(た)だ知る   独夜(どくや)に不平(ふへい)の鳴るを
      風蓬飄尽悲歌氣   風蓬(ふうほう)  飄尽ひょうじん)す  悲歌(ひか)の気(き)
      泥絮沾来薄倖名   泥絮(でいじょ)  沾来(てんらい)す  薄倖(はくこう)の名
      十有九人堪白眼   十に九人(きゅうにん)有りて  白眼(はくがん)に堪(た)え
      百無一用是書生   百に一用(いちよう)無きは   是(こ)れ書生(しょせい)
      莫因詩巻愁成讖   詩巻(しかん)に因(よ)って   愁(うれ)い  讖(しん)を成すこと莫(な)し
      春鳥秋虫自作声   春鳥(しゅんちょう)  秋虫(しゅうちゅう)  自(おのず)から声を作(な)す

      ⊂訳⊃
              神仏の教えは  漠然としてわかりにくい
              わかるのは   ひとりで過ごす夜の不平不満だけだ
              転蓬のような暮らしでは  悲憤慷慨の気も吹っ飛び
              泥に塗れた柳絮のように  不運な男の名前がはりつく
              十人のうちの九人までは  つまらない俗物だが
              おれだって何もできない  役立たずの万年書生だ
              詩に詠った悲しみが  悪い兆しになることはあるまい
              春の鳥も秋の虫も   心のままに鳴いているではないか


     ⊂ものがたり⊃ 乾隆期の遠征は乾隆五十六年(1791)にグルカ軍をチベットから撃退するまで前後十回に及びました。乾隆帝は遠征の記録を『十全記』という書物にまとめさせ、みずから「十全老人」と称しました。しかし、勝利を得ても外征は膨大な戦費を必要とし、乾隆期後半になると大規模な農民反乱が頻発するようになります。
     後世、乾隆第一の詩人と称される黄景仁(こうけいじん)は、乾隆盛世の矛盾が露呈しはじめた時期に生きた詩人です。仕官を望みながらも科挙に及第できず、地方高官の幕客になって生活の資をえるしかありませんでした。
     黄景仁(1749―1783)は陽湖(江蘇省武進県)の人。乾隆十四年(1749)に生まれ、四歳のとき父をなくします。ほどなく祖父母、兄もなくして家長になります。幼少のころから聡明でしられ、十九歳で郷試に挑戦しますが及第できませんでした。
     長ずるにしたがって詩名は高く、二十八歳のときに乾隆帝の殿試に及第したという説もありますが、仕官はできませんでした。地方高官に才能を認められ、安徽督学朱筠(しゅいん)の秘書などを務めます。幕客として各地を転々としますがつねに貧窮に苦しめられ、乾隆四十八年(1783)、病のために早逝します。享年三十五歳でした。
     詩題の「雑感」(ざつかん)はいろいろな思いです。十九歳で郷試に挑戦して落第したときの詩で、自分自身をいたわり励ます気持ちを取り上げ、まず現在の心境から詠いだします。「仙仏」は神仙思想と仏教のこと。そうしたものに救いを求めても「茫茫」(遠くて奥深いこと)としていて理解することができません。心に渦巻くのは不平不満だけです。
     頷聯の対句は、これまでの暮らしを比喩で描きます。「風蓬」は風に吹かれて転がる転蓬のこと、「悲歌」は悲憤慷慨の歌です。「泥絮」は泥にまみれた柳絮のこと、「沾来」はべたべた貼りつけられること、「薄倖」は落ちぶれた、不運の意味です。
     頚聯の対句は、自分の不甲斐なさを他と比較して歎きます。「白眼」は晋の阮籍の故事を踏まえており、阮籍は気にいった客には青眼をむけ、気にいらない俗人には白眼をむけたといいます。まわりの連中は軽蔑するしかないつまらない俗人であるが、自分だって役立たずの万年書生に過ぎないと自嘲します。
     尾聯では気を取り直して、自分は自分の道をゆくしかないと結びます。「讖」は兆し、前兆のことで、詩に詠いこんだ「愁」(悲しみ)が悪い兆しになることはあるまいと自問し、春の鳥だって秋の虫だって心のままに鳴いているではないかと自分を励ますのです。

     清36ー黄景仁
       途中遘病頗劇        途中病に遘(あ)って頗る劇し 
       愴然作詩           愴然として詩を作る

      揺曳身随百丈牽   揺曳(ようえい)して身に随う  百丈の牽(つな)
      短檠孤照病無眠   短檠(たんけい)  孤り照らし  病んで眠り無し
      去家已過三千里   家を去って    已(すで)に過ぐ三千里
      墮地今将二十年   地に堕(お)ちて  今(いま)将(まさ)に二十年ならんとす
      事有難言天似海   事には言い難(がた)き有り   天は海に似たり
      魂応盡化月如烟   魂は応(まさ)に尽(ことごと)く化すべし  月は煙の如し
      調糜量水人誰在   糜(かゆ)を調え  水を量(はか)る  人(ひと)誰か在らん
      況値傾嚢無一銭   況(いわ)んや嚢(ふくろ)を傾くるも  一銭も無きに値(あ)うをや

      ⊂訳⊃  
              百丈の綱をひきずって  揺れていく人生なのか
              ほの暗い灯火ひとつ   病のために眠れない
              家を出てから三千里   遠い旅路を越えてきた
              世に生まれて二十年   無駄な月日を過ごしてきた
              人生には口に出せないことがあり  天は海のように応えず
              魂は靄のような月の中に  跡形もなく消え失せるであろう
              粥を炊いてくれる人など   いるはずもなく
              財布を逆さにはたいても  びた一文出てこないのだ


     ⊂ものがたり⊃ 乾隆三十四年(1769)、二十一歳のとき江南から湖南にむかう旅の途中、病になったときの作で、はじめの二句は現在の状況です。黄景仁は父、祖父母、兄を亡くし、再興しなければならない家名や生活の資など家長としての重荷を背負っていました。それが「百丈の牽」です。旅先で病み、「短檠」は低い燭台、その侘しい光に照らされた部屋で眠られずにいます。
     中四句、頷聯の対句はこれまでの人生です。訳には意味を踏まえた語句が加えてあります。頚聯の対句はそのときの感懐で、孤独感に満ちています。尾聯は現実にかえって思うことですが、現実にかえっても希望はなく、「糜」(粥)を作ってくれる人はおらず、「嚢」(銭入れの袋、財布)を傾けても銭もないと詠います。

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     清40ー張問陶
        中秋月下作            中秋月下の作

      一年小別住京華   一年の小別(しょうべつ)  京華(けいか)に住み
      何処逢秋不憶家   何(いず)れの処か  秋に逢(あ)うて家を憶(おも)わざらん
      緘取今宵衣上影   今宵(こよい)の衣上(いじょう)の影を緘取(かんしゅ)して
      他時因夢寄天涯   他時(たじ)  夢に因(よ)って天涯(てんがい)に寄せん

      ⊂訳⊃
              そなたと別れ都に住み  まだ一年にしかならないが

              秋になれば  どこにいようと家を恋しがらずにいられようか

              この夕べ   衣のうえに落ちた月の光を封じこめ

              いつの日か夢に託して  天の果てのそなたに届けたい


     ⊂ものがたり⊃ 乾隆六十年(1795)、乾隆帝は八十五歳になり、退位して太上皇帝になります。翌嘉慶元年正月、愛新覚羅顒琰(ぎょうえん)が即位して嘉慶帝になります。しかし、乾隆帝は退位しても八十九歳で崩じるまで政務を執りつづけました。
     嘉慶四年(1799)から嘉慶帝の親政がはじまりますが、その年に湖北地方で白蓮教徒の反乱が起こり、陝西、四川にも波及して鎮圧するのに五年を要しました。アヘンを最初に中国にもたらしたのはポルトガル人でしたが、イギリスがアヘン交易に乗りだした乾隆四十五年(1780)ころからアヘンの流入量が増加し、広東や福建などの沿海部でアヘン吸飲の習慣がひろがります。
     嘉慶十八年(1813)にアヘンの販売が禁止されると密売が横行し、価格は高騰します。嘉慶二十年には輸入を禁止しますが、密輸入をとどめることはできませんでした。アヘン吸飲の害が社会問題化するなか、嘉慶帝は嘉慶二十五年(1820)に崩じ、七月に愛新覚羅旻寧(びんねい)が即位して道光帝になります。
     アヘン吸飲の害が拡がった嘉慶年間から道光年間にかけて流行した詩体を「嘉道体」といいます。そのころ朝廷に仕えた官僚詩人は社会や政事といった「公」には目をむけず、ひたすら「私」を題材として詞藻の洗練につとめました。艶やかな措辞と繊細な抒情を重んじるのが「嘉道体」で、張問陶(ちょうもんとう)と陳文述(ちんぶんじゅつ)はその代表的な詩人です。満州族の高官が睨みを利かせているなか、官吏として詩を作るには「私」に閉じこもるしかなかったのです。
     張問陶(1746―1814)は遂寧(四川省遂寧県)の人。乾隆二十九年(1746)、陶県(山東省陶県)に生まれ、乾隆五十五年(1790)、二十七歳で進士に及第します。翰林院検討、都察院御史、吏部郎中などを歴任し、そのご萊州府(山東省萊県)の知府になりますが、上官とあわず辞職して江南を遊歴します。詩は袁枚の推賞をうけ、四川第一の詩人と称され、嘉道体の創始者となります。嘉慶十九年(1814)に蘇州(江蘇省蘇州市)でなくなり、享年五十一歳でした。
     詩は乾隆五十五年(1790)八月十五日夜の作です。この年の春、進士に及第して官職に就いたものの北京での生活は意に添いませんでした。そんななか、四川の故郷に残してきた妻を想う詩です。転句の「緘取」は封書に封じこめること。この詩は他人にしめすような作品ではなく、妻への書信に添えて送ったものでしょう。

     清41ー張問陶
       得家書二首 其二       家書を得たり 二首  其の二

      倚枕愁聴午夜砧   枕に倚(よ)り  愁(うれ)えて聴く  午夜(ごや)の砧(ちん)
      客窓風雨一燈深   客窓(きゃくそう)  風雨  一燈(いつとう)深し
      五千里外常飢走   五千里外  常に飢走(きそう)し
      二十年來費苦吟   二十年来  苦吟(くぎん)を費(ついや)す
      白髪高堂游子夢   白髪(はくはつ)の高堂(こうどう)  游子(ゆうし)の夢
      青山老屋故鄕心   青山(せいざん)の老屋(ろうおく)  故郷(こきょう)の心
      家書只作奇書讀   家書(かしょ)は只(た)だ  奇書(きしょ)と作(な)して読み
      語簡情多仔細尋   語(ご)  簡(かん)にして  情(じょう)多(おお)きを  仔細(しさい)に尋ぬ

      ⊂訳⊃
              悲しい気持ちで寝床につき  真夜中の砧の音を聴く
              宿舎の窓に吹きつける風雨  灯火はじっと動かない
              五千里の異郷で  齷齪とはたらき
              二十年このかた  詩作に打ちこんできた
              旅先の私の夢に  白髪の父上と母上があらわれ
              古里を思う心は  山に囲まれた古い家へとむかう
              妻からの便りは  貴重な書物のように丁寧に読み
              言葉は簡潔でも  思いの深さを隅々まで味わいつくす


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「家書」(かしょ)は家族からの書信です。ここでは妻からの便りでしょう。制作年は不明ですが、萊州(山東省萊県)の知府事になったときが考えられます。はじめの二句は作者の現状です。
     「午夜の砧」は真夜中の砧(きぬた)の音で、それを聴きながら寝床に横たわっています。「客窓」は旅の宿舎の窓で、知萊州府のときであれば官舎の窓です。砧は冬着の布を柔らかくするために台に載せて槌で打つもので、旅先の夫を思って働く妻の姿は秋の風物詩でした。
     中四句はじめの対句は、これまでの自分の生活を描きます。妻を四川の遂寧に置いているので、北京も萊州も「五千里外」の異郷です。「二十年来」は詩を作りはじめた若いころからの二十年でしょう。つづく対句はいまの心境を別の角度からのべるもので、きちんと決まった名句です。「高堂」は両親、「青山」は緑の山に囲まれた故郷の意味でしょう。最後の二句は便りをもらったことへの感謝の言葉で結ばれます。詩は家族へのひたすらな思いで貫かれていますが、詩句はきわめて整っていて欠けるところがありません。(2016.9.10)

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     清42ー陳文述
       月夜聞紡織声三首 其二  月夜 紡織の声を聞く 三首 其の二

      茅檐辛苦倦難支   茅檐(ぼうえん)の辛苦  倦(う)みて支(ささ)え難し
      繡閣嬌憨定不知   繡閣(しゅうかく)の嬌憨(きょうかん)  定めて知らざらん
      多少呉姫厭羅縠   多少の呉姫(ごき)か   羅縠(らこく)に厭(あ)きたる
      緑窓一様夜眠遅   緑窓(りょくそう)  一様(いちよう)   夜眠(やみん)遅し

      ⊂訳⊃
              茅葺の家の辛苦は  見るに堪えないほどだ

              楼閣の娘たちは    そんなことに関心はない

              どれほどの妓女が  薄絹の衣に満ち足りていることか

              緑の縁取りの窓は  夜半まで明るく眠りはおそい


     ⊂ものがたり⊃ 陳文述(ちんぶんじゅつ:1771―1842)は銭塘(浙江省銭塘県)の人。乾隆三十六年(1771)に生まれました。嘉慶五年(1800)に三十歳で挙人にあげられ、各地の知県を歴任します。若いころから詩名が高く、艶麗な詩風が注目されました。晩年には社会に目を向けるようになり、道光二十三年になくなります。享年七十三歳です。
     詩題の「紡織(ぼうしょく)の声」は機織りの織り機の音です。「月夜」(げつや)、つまり月の明るい夜に貧しげな家から機を織る音が洩れてくるのを聴きます。その音に触発されて思いを詠う詩です。
     はじめ二句の「茅檐」は茅葺の家。その家の貧しさは見るに堪えないほどです。「繡閣」は豪華な建物、「嬌憨」は愛らしいが淺はかな女の意味で、後半に「呉姫」とありますので妓楼の女をいうのでしょう。後半の「呉姫」は妓女をさす言葉で、「羅縠」は薄絹です。茅檐の紡織は絹を織っているのですが、妓楼の女たちは薄絹の衣裳にあいています。
     最後を「緑窓 一様 夜眠遅し」と結んで、妓楼の窓が夜遅くまで明るく輝き、賑わっていることを指摘します。貧しい機織りの娘と着飾った妓楼の女を対比して世の不平等を嘆く詩であり、社会に目をむけた晩年の作です。

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     清43ー龔自珍
       雑詩己卯自春徂夏    雑詩 己卯の春より夏に徂(およ)び
       在京師作詩得十有    京師に在って詩を作る 十有四首を
       四首 其一         得たり  其の一

      少小無端愛令名   少小(しょうしょう)  端無(はしな)くも令名を愛す
      他無学術誤蒼生   他(ま)た学術の蒼生(そうせい)を誤る無し
      白雲一笑懶如此   白雲  一笑(いっしょう)す  懶(らん)  此(か)くの如きを
      忽遇天風吹便行   忽ち天風(てんぷう)の吹くに遇(あ)って便(すなわ)ち行く

      ⊂訳⊃
              若いころには  わけもなく名声を求めていた

              だが 万民を  誤った道に導くほどの学問はなかった

              浮雲のようだと       怠惰な自分を笑っていたが

              突然の天の風に遇って  吹かれるままに動いている


     ⊂ものがたり⊃ 度々の禁令にもかかわらずアヘンの密輸が止まなかったのは、イギリスとインドと中国とのあいだに三角貿易の関係があったからだとされています。アヘンの流入が急増すると中国の銀の流出が加速度的に増え、銀の価格が上昇します。銀の上昇は中国の国内通貨である銅貨の下落につながり、銅貨の下落はアヘンを吸わない一般国民の生活をも圧迫することになります。
     アヘン貿易(密輸)が国内経済の悪化に直結することに気づいた林則徐・魏源ら公羊学派の官僚は、禁輸の徹底を主張します。開明的な知識人は政府の無策にいらだって詩社などに結集し、政事批判の声をあげるようになりました。龔自珍(きょうじちん)は林則徐よりも七歳の年少で、官界の腐敗を憎む若手官僚のひとりでした。
     龔自珍(1792―1841)は仁和(浙江省杭州市)の人。乾隆五十七年(1792)に生まれました。父親の龔麗生(れいせい)が古代言語学者段玉裁(だんぎょくさい)の女婿でしたので、十二歳で外祖父から『説文』の学を授けられます。古学に才能を発揮し、やがて劉逢禄(りゅうほうろく)について公羊学(『春秋公羊伝』を重んじる儒学)を修め、社会変革の思想に目ざめるようになります。
     急進的な思想がわざわいして、しばしば科挙に落第。道光九年(1829)、三十八歳で進士に及第し、内閣中書になります。翌道光十年には魏源らと宜南詩社を結成して経世の学を研究します。社会批判や政事論を執筆し、帝政ロシアの進出を警告して辺境防衛の強化を主張するなど政事改革に意欲をしめします。
     道光十九年(1839)に林則徐が欽差大臣に任命されて広州に赴いたときは、イギリスとの戦争も辞すべきではないと戦備の強化を進言しました。その年、礼部主事を最後に北京を去り、帰郷して丹陽(江蘇省丹陽県)の雲陽書院で教鞭を執りますが、道光二十一年(1841)、在郷二年で急死しました。北京にいるとき親王奕絵(えきかい)の愛妾顧春(こしゅん)と私通していたために毒殺されたとの伝えもあります。享年五十歳でした。
     詩題の「己卯」(きぼう)は嘉慶二十四年(1819)のことです。この年、龔自珍は二十八歳でした。春から夏までのあいだに十四首の七言絶句を作りました。其の一の詩のはじめ二句は、それまでの自己の反省です。「少小」は少年(二十代)より若いころで十代でしょう。「学術」は儒学のことで、修身・斉家・治国・平天下を理想とします。「蒼生」は民草のことであり、私の学問は「蒼生を誤る無し」、つまり民衆を誤らせるほどのものではなかったといいます。「誤る無し」は一種の反語で、私の学問は政府の意向に反して民衆を開化に導くことができるほどに深くはなかったというのです。「懶」は怠惰なことで、「白雲」のように浮わついていると自分を笑っていたけれど、突然、天の風に遇って動きだしたというのです。林則徐や魏源ら公羊学派の開明官僚と交わって政事改革を目ざすようになったことをいうのでしょう。

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     清49ー林則徐
         塞外雑詠               塞外雑詠

      沙礫当途太不平   沙礫(されき)   途(みち)に当たって太(はなは)だ平らかならず
      労薪頑鉄日交争   労薪(ろうしん)  頑鉄(がんてつ)  日々(ひび)交々(こもごも)争う
      車箱簸似箕中粟   車箱(しゃそう)  簸(あお)ぐこと   箕中(きちゅう)の粟(ぞく)の似(ごと)し
      愁聴隆隆乱石声   愁(うれ)えて聴く  隆隆(りゅうりゅう)たる乱石(らんせき)の声

      ⊂訳⊃
              砂礫の路がゆく手を阻み  ひどくでこぼこしている

              古い木材と固い鉄が  ぎしぎしと軋みあう

              馬車の座席にいると  箕のなかの粟粒のように跳ねあがり

              車輪に踏まれる石の音に  悲しく耳を傾けている


     ⊂ものがたり⊃ 林則徐(りんそくじょ:1785―1850)は福州侯官(福建省福州市)の人。乾隆五十年(1785)に貧しい官家に生まれました。嘉慶十六年(1811)、二十七歳のとき第七位で進士に及第し、翰林院庶吉士になります。江南道監察御史や東河河道総督などの地方長官を歴任し、江蘇巡撫のとき水利事業に従事して功績をあげます。
     道光十七年(1837)、五十三歳のときに湖広総督になり、アヘン吸入の禁止に成果をあげます。翌年、アヘン吸飲者の処罰について下問があったとき厳禁を主張、アヘン禁止の具体的な実施手順について上書しました。道光十九年(1839)に欽差大臣に任命され、広州に赴いてアヘンの禁絶にあたります。広州の虎門でアヘン二百三十七万斤を銷燬(しょうき)しますが、イギリスとの紛争になります。
     翌道光二十年に阿片戦争が起こると、水師を兼務していた林則徐は広州の守りを固めます。イギリス艦隊は広州を避けて北上し、渤海湾に侵攻。すると道光帝は弱腰になり、林則徐は罷免されました。道光二十一年(1841)に責任を問われ、伊犁(いり:新疆ウイグル自治区伊寧市)へ流罪になります。
     道光二十五年(1845)に赦されて陝甘総督代理を務めたのち陝西巡撫・雲貴総督になり、道光三十年(1850)には太平天国鎮圧のために欽差大臣に任命され、広西に赴きますが、その途中、潮州(広東省潮州市)で病没しました。享年六十六歳です。
     詩題の「塞外」(さいがい)は国境のそとの砦という意味です。アヘン戦争の責任を問われて流された伊犁は極西の地でした。その流謫地へ馬車で赴く途中の感慨を詠います。はじめの二句は西域の路の荒れた様子。「労薪 頑鉄」は車の木製の部分と鉄製の部分で、それがこすれ合って軋み音を立てています。
     後半二句は車に乗っている自分のことで、「車箱」(馬車の座席)にいると箕のなかの粟粒のように体が跳ねあがり、車輪に踏みしだかれる石の音に耳を傾けていると詠います。揺れる車と乗っている自分をさりげなく詠っているようですが、全体は比喩の詩とみることができ、第一句は困難な政事、第二句はいろんな勢力がぶつかり合ってガタがきている政府、第三句はそうした政界に翻弄される自分、第四句で愁えて聴いているのは車輪のしたで虐げられる民の声でしょう。

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    清50ー黄遵憲
        日本雑事詩            日本雑事詩

      抜地摩天独立高   地を抜き  天を摩(ま)して  独り立つこと高し
      蓮峰湧出海東濤   蓮峰(れんぽう)  湧出(ゆうしゅつ)す  海東の濤(なみ)
      二千五百年前雪   二千五百年前(まえ)の雪
      一白茫茫積未消   一白(いっぱく)  茫茫(ぼうぼう)  積みて未(いま)だ消えず

      ⊂訳⊃
              大地を抜け出て独り  天空に届くほど高く聳える

              蓮の花のような峰は  東海の波から湧き出たのか

              二千五百年前の雪が  いちめんに白く積ったまま

              どこまでもつづき    消えないでいる


     ⊂ものがたり⊃ アヘン戦争は前後二回行われました。一回目は道光二十一年(1841)二月、イギリスへの宣戦布告ではじまり、翌年八月、イギリス艦隊が南京に迫ったことで降伏します。南京条約が結ばれ、香港の割譲、広州・厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の開港などが決定し、不平等条約のもとで門戸を開くことになります。
     道光三十年(1850)に道光帝が崩じ、三月に愛新覚羅奕(えきちょ)が即位して咸豊帝となります。そのころ広西では天地会系の結社の反乱が激化していました。広西金田(広西壮族自治区桂平県金田村)で挙兵した拝上帝会の洪秀全(こうしゅうぜん)は、咸豊元年(1851)三月に天王を称し、湖南へむかって進撃を開始します。咸豊三年(1853)三月、南京を占領して天京と改め、太平天国を樹立しました。
     洪秀全は五月には北伐の軍を発し、太平天国軍は天津郊外に達しましたが清軍に押しもどされました。しかし、清軍にはそれ以上南進して太平天国を鎮圧する力はありませんでした。曾国藩は母親の喪で故郷の湘郷(湖南省湘郷県)にもどっていたとき太平天国の乱に遭遇します。朝廷の呼びかけに応じて地元で義勇軍を組織し、湖南を奪いかえします。曾国藩の軍は湘軍とよばれ、西から太平天国を攻めました。
     このような状勢下、広州でアロー号事件が発生します。咸豊六年(1856)十月、香港船籍のアロー号がアヘン密輸の疑いで官憲の立ちいり検査を受けたとき、イギリス国旗が引き下ろされたというのが口実になり、イギリスはフランスに共同出兵をもちかけ、第二次アヘン戦争(アロー戦争)が勃発します。
     英仏連合軍は広州を占領し、海路北上して咸豊八年(1858)五月、天津の大沽(タークー)砲台を占領します。清朝は和平交渉にはいり天津条約が締結されますが、条約批准のために北京にむかっていた英仏米の公使を撃退します。怒った英仏両国は大艦隊を派遣し、咸豊十年(1860)十月、北京に入城して円明園を破壊します。熱河の避暑山荘に避難していた咸豊帝は弟の恭親王奕訢(えききん)を北京に派遣して北京条約が結ばれました。
     咸豊十一年(1861)八月、咸豊帝は熱河で崩じ、六歳の皇太子愛新覚羅載淳(さいじゅん)が即位して同治帝になります。同治帝の側近であった粛順が輔相になりますが、十一月に同治帝の生母西太后(せいたいごう)と恭親王奕訢がクーデターを起こし、粛順は処刑されて西太后の垂簾聴政が始まりました。
     そのころ太平天国は内部の権力争いを繰り返しながらも江南に進出し、上海を攻めようとしていました。清朝は曾国藩の湘軍を江南にむけようとしましたが、曾国藩は合肥(安徽省合肥市)の李鴻章(りこうしょう)に淮軍を組織させ、上海の救援にあたらせます。太平天国軍は敗れて退き、同治三年(1864)六月、天王洪秀全が病死すると内部分裂を起こし、七月、湘軍が天京に攻めこんで太平天国は滅亡しました。
     同治帝の時代は洋務派の時代です。従来「夷務」とよばれていた外交は「洋務」に改められ、外交だけでなく西欧化政策も洋務に含められます。洋務を積極的に推進する者が洋務派であり、その筆頭は淮軍をひきいる李鴻章でした。湘軍は左宗棠(さそうとう)が引きついでおり、かれらは地方の総督に任じられ、任地で兵器工場や艦艇造船所を建設し、軍備の西欧化を推進しました。
     同治九年(1870)に李鴻章が直隷総督・北洋大臣に任命されると、洋務運動は軍備の西欧化とともに産業の近代化一般へと拡がっていきます。それまで卑賤な者の生業とされていた商業や生産活動に士大夫階層が乗り出すことになり、近代化がはじまります。日本は同治十年(明治四年)九月に日清修好条規を締結して清と平等な国交を開始します。
     同治十三年(1874)、十九歳になっていた同治帝は嗣子のないまま崩じ、十二月に三歳の愛新覚羅載湉(さいてん)が即位して光緒帝となります。載湉は咸豊帝の弟醇親王奕譞(えきけん)の王子で、生母は西太后の妹でした。幼児の甥を皇帝にした西太后の地位は安定し、垂簾聴政は維持されます。
     しかし、その時期は清の辺境や隣接国をめぐってイギリス・ロシア・フランス・日本との対立が激化し、戦争に発展する時代でした。黄遵憲(こうじゅんけん)は光緒年間のはじめに外交官になり、日本のほかアメリカ、イギリスで生活しました。海外の新しい思想や文化に触れ、それらを旧来の韻文形式に盛りこんで詩の近代化に貢献しました。
     黄遵憲(1848―1905)は嘉応州(広東省梅県)の人。第一次アヘン戦争が終わった六年後の道光二十八年(1848)に客家(ハッカ)の家に生まれました。光緒元年(1875)、二十八歳のときに挙人にあげられ、科挙に及第して外交官になります。光緒三年(1877・明治十年)、清朝は条約主要国に外交使節を派遣することになり、黄遵憲は最初の駐日公使何如璋(かじょしょう)の参賛(参事官)に任じられ、東京に赴任しました。
     五年間の滞日のあと、光緒八年(1882)にサンフランシスコ総領事になって米国に赴任し、駐英参賛官などをへて帰国します。康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)ら変法派の人々と大同思想を鼓吹し、光緒二十四年(1898)六月、戊戌の変法に参画します。保守派のクーデターによって変法が不発に終わると免職になり、故郷に帰って著述に専念しました。清末の詩の改革者の名をえて光緒三十一年(1905)になくなりました。享年五十八歳です。
     黄遵憲は日本在任中に書いた詩を、光緒五年(1879)、三十二歳のときに『日本雑事詩』百五十四首にまとめました。のち光緒二十四年(1898)、五十一歳のときに増補改訂版『日本雑事詩』をだし、二百首を収めて完本としています。掲げる詩はそのなかの一首で、富士山を主題とします。
     富士山の素晴らしさを褒めたたえており、前半は独立峰としての高さを強調します。承句の「蓮峰」は富士山頂の峰の形で、江戸時代からの喩えです。それが「湧出す 海東の濤」と東の海から湧き出してそこにあるのかと面白い想像をしています。後半は富士山の大きさ、悠久の荘厳さを強調します。「二千五百年前」は皇紀を用いており、国のはじめからといった感じになります。昔からの雪が一面に広がって消えずに残っていると詠います。

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     清53ー黄遵憲
       海行雜感十四首 其七    海行雑感 十四首  其の七

      星星世界徧諸天   星星(せいせい)の世界    諸天(しょてん)に徧(あまね)し
      不計三千与大千   計らず  三千と大千(だいせん)と
      倘亦乗槎中有客   倘(も)し亦(ま)た槎(いかだ)に乗り  中(うち)に客(かく)有らば
      回頭望我地球円   頭(こうべ)を回(めぐ)らして  我が地球の円(まど)かなるを望まん

      ⊂訳⊃
              星々の世界は  すべての国の空にひろがる

              世界がどれだけ多かろうと  関係ないのだ

              もし今の世に   筏に乗って空を飛ぶ人がいるとすれば

              頭を回らして   地球が丸いのを眺めるであろう


     ⊂ものがたり⊃ サンフランシスコ総領事になって船でアメリカに赴任する途中、三十五歳のときの作です。前半二句で満天の星空をみての感懐を詠います。「諸天」はすべての国の空でしょう。「三千与大千」は三千大千世界という仏教語を踏まえるもので、あらゆる世界の意味です。転句は晋の張華の『博物誌』に出てくる伝説で、毎月八日になると筏に乗って天の河を旅する人がいるといいます。その話を持ちだし、そんな人がいるならば地球が丸いのを空から眺めることができるだろうと結びます。

     清54ー黄遵憲
        重 霧               重  霧

      碌碌成何事     碌碌(ろくろく)  何事(なにごと)をか成(な)す
      有船吾欲東     船(ふね)有らば  吾(われ)  東(ひがし)せんと欲す
      百憂增況瘁     百憂(ひゃくゆう)  況瘁(きょうすい)を増し
      独坐屢書空     独り坐して  屢々(しばしば)空(くう)に書(しょ)す
      霧重城如漆     霧(きり)重くして  城  漆(うるし)の如く
      寒深火不紅     寒(かん)深くして  火  紅(くれない)ならず
      昂頭看黄鵠     頭(こうべ)を昂(あ)げて黄鵠(こうこく)を看(み)れば
      高挙扶天風     高く挙(あ)がって天風(てんぷう)に扶(よ)る

      ⊂訳⊃
              時は無為に過ぎて  なにを成そうとしているのか
              船があるならば   祖国へ帰りたい
              さまざまな悩みで  やつれはひどくなり
              ひとり坐りこんで   虚空に字を書くだけの毎日だ
              霧は重く立ちこめ  街は漆を塗ったように暗く
              寒さは厳しくて    煖炉の火も赤くならない
              頭を上げて   黄鵠をみると
              高く上がって  天の風に乗っている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「重霧」(ちょうむ)は重く垂れこめる霧。霧の都ロンドンでの感懐です。黄遵憲は四十歳代のはじめロンドンにいて、朝鮮をめぐる日清の紛争を遠くから心配して眺めていました。そのときの心情を反映する作品と思われます。
     はじめの二句はロンドンで空しい日々を過ごしていることを詠い、「東せんと欲す」と東の祖国へ帰りたいといいます。中四句はその理由です。
     「況瘁」はやつれたさま。「空に書す」は南北朝時代の故事を踏まえており、自分にふさわしい地位にいないことの表明です。ついで寒くて暗い秋のロンドンを描きます。「城」は街、「火」は暖炉の火です。結び二句の「黄鵠」は黄色い白鳥のことで、漢代からめでたい鳥として詩に用いられてきました。空飛ぶ鳥をみて、自由への願望をのべるのです。

     清55ー黄遵憲
         哀旅順              旅順を哀しむ

      海水一泓烟九点   海水(かいすい)  一泓(いちおう)  煙九点(きゅうてん)
      壮哉此地実天険   壮(さか)んなる哉(かな)  此の地  実に天険(てんけん)なり
      炮台屹立如虎闞   砲台(ほうだい)  屹立(きつりつ)して  虎の闞(うかが)うが如く
      紅衣大将威望儼   紅衣(こうい)の大将   威望(いぼう)儼(おごそ)かなり
      下有窪池列巨艦   下に窪池(わち)有りて  巨艦(きょかん)を列(つら)ね
      晴天雷轟夜電閃   晴天に雷(いかずち)轟(とどろ)き  夜は電(いなずま)閃(きらめ)く
      最高峰頭縦遠覽   最高峰頭(さいこうほうとう)  遠覧(えんらん)を縦(ほしいまま)にし
      龍旗百丈迎風颭   龍旗(りゅうき)百丈(ひゃくじょう)  風を迎えて颭(ひるがえ)る
      長城万里此為塹   長城万里  此(ここ)に塹(ざん)と為(な)る
      鯨鵬相摩図一啖   鯨鵬(げいほう)相摩(あいま)して  一啖(いったん)を図(はか)る
      昂頭側睨何眈眈   頭(かしら)を昂(あ)げて側(かたわら)より睨(にら)むこと  何ぞ眈眈(たんたん)たる
      伸手欲攫終不敢   手を伸ばして攫(つか)まんと欲するも終(つい)に敢(あえ)てせず
      謂海可塡山易撼   謂(おも)えらく  海  塡(うず)む可(べ)し  山  撼(うご)かし易(やす)し
      万鬼聚謀無此胆   万鬼(ばんき)聚(あつま)り謀(はか)るも  此の胆(たん)無からん  と
      一朝瓦解成劫灰   一朝(いっちょう)にして瓦解(がかい)し  劫灰(ごうかい)と成る
      聞道敵軍蹈背來   聞道(きくな)らく  敵軍は背(はい)を蹈(ふ)んで来たれりと

      ⊂訳⊃
              大海原の彼方に  中国が望まれる
              この地こそ実に  天険というべきだ
              聳え立つ砲台は  身構えている虎のようで
              阿蘭陀の砲には  威厳がある
              したの湾内には  巨大な軍艦がつらなり
              晴れた日に雷鳴  夜には稲妻が煌めく
              最高峰に立てば  遠くまで見わたすことができ
              百丈の黄龍旗は  風をうけて翻る
              万里の長城は   旅順の塹壕であり
              列強は迫って    ひと呑みにしようとする
              間近に頭をあげ  虎視眈眈とねらい
              手を伸ばして    掴みかかろうとするができずにいた
              「海は埋められもしよう   山は動かすこともできよう
              だが謀議を凝らしたとて  攻める勇気はあるまい」と
              甘くみていたら   またたくまに崩れて灰になる
              聞けば敵軍は   背後を突いて攻めてきたそうだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「旅順」(りょじゅん)は遼寧省遼東半島先端の旅順口。甲午の役(日清戦争)における旅順口の陥落を嘆く詩です。日本軍は明治二十七年(光緒二十年)十月二十一日に旅順攻撃を開始し、四日後の二十五日には攻略しました。詩は翌光緒二十一年(1895)、四十八歳のときの作です。
     二、六、四、四句にわけて読むことができ、はじめの二句で旅順口が天険の要害であることを詠います。「烟九点」は九州というのとおなじ意味で中国をさします。つづく六句は天険であることに加えて防備も万全であると詠います。
     「紅衣大将」の「紅衣」はオランダ人のことで、明の万暦二十九年(1601)にオランダ船が澳門(マカオ)に到着したとき、船員がみな紅い服を着、髪も髯も赤かったので、オランダ人を紅毛、紅衣(紅夷)とよびました。「大将」は明の崇禎四年(1631)にオランダ式大砲が鋳造され、それを「天佑助威大将軍」と名づけて砲身に刻んだことに由来します。大砲製造の技術は清に伝えられ、オランダ式大砲のことを紅衣の大将といいました。
     「窪池」は湾のことです。旅順口には北洋艦隊の基地があり、「雷」と「電」は艦砲の轟く音と夜間発射の閃光です。「最高峰頭」は旅順口を取り巻く山の峰のことで、そこから遠くまで見わたせ、「龍旗」(清国の軍旗)が風にはためいていたと詠います。
     つぎの四句は列強諸国が旅順口を狙っている状況です。まず、万里の長城は旅順口の塹壕の役割を果たしているといいます。「鯨鵬」は長鯨と大鵬で、列強諸国を意味します。中国をひと呑みにしようと虎視眈眈と窺っており、手を伸ばして掴みかかろうとしますができずにたと詠います。
     つぎの二句は清朝政府の油断の指摘です。「万鬼」は有象無象の鬼たち、洋鬼(ヤンコイ)であり、彼らはよつてたかって謀議を凝らしているが、攻めかかる勇気のある者はいないだろうと思っていたといいます。
     ところが最後の二句。「劫灰」は仏教用語で世界が滅亡するときに起こった劫火の灰のことです。旅順口は「一朝にして瓦解」してしまいますが、聞けば敵が背後を突いて攻めこんで来たそうだと伝聞を伝えます。敵(日本)の卑怯な攻め方によって陥落したといっていますが、伝聞になっているのは外国にいたからでしょう。

     清56ー黄遵憲
        己亥雑詩             己亥雑詩

      我是東西南北人   我れは是(こ)れ東西南北の人
      平生自号風波民   平生(へいぜい)   自(みずか)ら風波(ふうは)の民と号す
      百年過半洲遊四   百年 半(なか)ばを過ぎ  洲(しゅう)は四つに遊び
      留得家園五十春   留(とど)め得たり  家園(かえん)五十の春

      ⊂訳⊃
              私は東西南北を飛びまわってきた男だ

              かねてから自分を  「風波の民」と称している

              一生の半分以上を  四大洲に遊び

              五十歳になってやっと  故郷の春を楽しんでいる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「己亥」(きがい)は光緒二十五年(1899)、五十二歳のときの作品です。職を免じられて故郷に帰っていたとき、龔自珍と同題で八十八首を詠みました。そのなかの一首です。「東西南北の人」は外交官として東奔西走したことをいいます。「風波」には苦難の時代という意味がこめられています。
     後半二句の「百年」は人の一生の意味です。「洲は四つに遊び」は五大洲のうち大洋洲を除く四大洲に勤務したことです。そしていま五十歳になって、やっと昔のままの故郷の春を楽しんでいると詠います。(2016.9.25)

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     清57ー王国維
         欲 覓                覓めんと欲す

      欲覓吾心已自難   吾(わ)が心を覓(もと)めんと欲するも  已(すで)に自(おのず)から難(かた)し
      更従何処把心安   更に何(いず)れの処(ところ)従(よ)り  心の安きを把(と)らんや
      詩縁病輟弥無頼   詩は病に縁(よ)りて輟(や)め  弥々(いよいよ)頼るもの無く
      憂与生来詎有端   憂(うれ)いは生と与(とも)に来たりて   詎(なん)ぞ端(たん)有らん
      起看月中霜万瓦   起ちて看(み)る  月中(げつちゅう)  霜  万瓦(ばんが)
      臥聞風裏竹千竿   臥(ふ)して聞く   風裏(ふうり)  竹  千竿(せんかん)
      滄浪亭北君遷樹   滄浪亭北(そうろうていほく)   君遷(くんせん)の樹(き)
      何限棲鴉噪暮寒   何限(かげん)の棲鴉(せいあ)  暮寒(ぼかん)に噪(さわ)ぐ

      ⊂訳⊃
              自分の心を尋ね求めるが    そのことがすでに難しい
              これ以上の心の落ち着きを   どこに求めようというのか
              病のために詩作もやめて    いよいよ頼るものもなく
              生きているだけで悩みは湧き  切っかけなどは要らない
              立って見れば  霜が降りたように月下で煌めく無数の瓦
              寝て聞くのは   風に吹かれてざわめくたくさんの竹の音
              滄浪亭の北に  君遷の樹がある
              塒に帰る鴉が  夕暮れの寒さのなかで騒いでいる


     ⊂ものがたり⊃ 光緒九年(1883)、ベトナムを巡って清仏戦争がおこり、翌十年までつづきます。その十二月に朝鮮で甲申政変がおこり、日清両国は朝鮮に出兵しました。光緒二十年(1894・明治二十七年)に日清戦争がはじまりますが、戦ったのは主として李鴻章の淮軍と北洋艦隊でした。翌年四月、日本と李鴻章のあいだで日清講和条約(下関条約)が結ばれます。
     公羊学派の学者であった康有為(こうゆうい)は明治維新を成し遂げた日本の改革に注目し、梁啓超(りょうけいちょう)らと政事改革のための理論に取り組み、しばしば上書して「変法自強」を訴えました。租借という名の領土侵略に危機感を抱いていた光緒帝は、光緒二十四年(1898)六月、「国是を定めるの詔」を下して変法の実施を明らかにし、康有為を総理衙門章京(ジャンチン:大臣補佐)に任命して矢継ぎばやに上諭を公布しました。
     九月七日には変法に批判的であった李鴻章を総理衙門大臣から罷免します。すると保守派は西太后を擁してクーデターを起こし、九月二十一日、光緒帝は幽閉され、康有為と梁啓超は日本へ亡命します。変法自強運動の挫折です。
     光緒二十五年(1899)十二月、山東西部で義和団の乱が発生します。義和団は「扶清滅洋」のスローガンをかかげて翌年四月には天津・北京に迫る勢いになります。清朝は義和団を乱民とみるか義民とみるかで逡巡していましたが、西太后は義和団の排外主義に乗じて列強に宣戦布告をします。しかし、八か国連合軍が北京に入城するにおよんで西太后は光緒帝をともなって西安に逃げ、李鴻章を広州から呼びだして講和を結ばせます。
     光緒二十七年(1901)北京にもどった西太后は光緒の新政と呼ばれる改革に乗り出しました。その内容は二年前にみずから排斥した変法運動を復活させるものでした。軍の近代化がすすめられ、六個師団からなる北洋新軍が編成され、その中心になったのは武衛右軍をひきいる山東巡撫の袁世凱(えんせいがい)でした。この年、李鴻章が死去したので、袁世凱はその後任として北洋大臣・直隷総督に任命され、清朝最大の実力者にのしあがります。
     中国東北部の権益をめぐって日露戦争がはじまるのは、光緒三十年(1904・明治三十七年)二月のことです。清朝は局外中立を宣言し、戦争は日本の勝利に帰して翌年九月、日露講和条約がポーツマスで調印されます。
     日本が大国ロシアに勝利したのは中国にとって驚きでした。日本にならって中国でも欽定憲法を制定し、政事改革を進めるべきであるという声が高まり、光緒三十四年(1908)九月に明治憲法をモデルにした憲法草案が示されました。九年以内に国会を召集することも約束されましたが、その年の十一月十四日に光緒帝が崩じ、つづいて西太后が死去したのです。
     西太后は病に倒れた十三日、光緒帝の弟醇親王載灃(さいほう)の王子愛新覚羅溥儀(ふぎ)を皇太子に指名し、載灃を摂政王に任じました。十二月二日、二歳の溥儀は即位して宣統帝となります。
     清朝が日本へ留学生を派遣するのは日清戦争後の光緒二十二年(1896)からです。王国維(おうこくい)は初期の日本留学生で学者として終始しますが、最後は清朝に殉じて自殺したので清の最後の詩人といえるでしょう。
     王国維(1877―1927)は海寧(浙江省海寧県)の人。光緒三年(1877)に生まれ、光緒二十七年(1901・明治三十四年)、二十五歳のときに来日して物理学を学びます。翌年には帰国し、蘇州で哲学や心理学を講じます。
     宣統三年(1911)、三十五歳のとき辛亥革命に遭遇し、翌民国元年に清は滅亡します。以後、清朝の遺老をもって任じ、羅振玉(らしんぎょく)にしたがって日本に亡命します。京都で古文字学(甲骨文・金文)や中国古代史の研究に従事し、西洋の哲学・文学・美術を学びます。帰国後、清華研究院や北京大学に迎えられましたが、民国十六年(1927)、国民革命軍の北京入城をまえに頤和園の昆明湖に入水して自殺しました。享年五十一歳です。
     詩題の「覓(もと)めんと欲す」は探し求めたい、探しあてたいという心の欲求をいいます。日本留学から帰って江南にいた二十八歳の冬の作品です。中四句二聯の対句を前後の二句で囲む七言律詩で、まず自分の不安な心境から詠いだします。王朝の衰退をまえにして自分はこれからどうしたらいいのか、心の拠りどころさえわからないと詠います。
     中四句のはじめの対句では、その不安定な気持ちをさらに強調します。病気のために詩作もやめてしまった。不安、心配、悩みは、後から後から湧き起こってきます。つぎの対句では視点をかえて叙景に移ります。立ちあがってみると、見えるのは「月中 霜 万瓦」、横になって聞こえるのは「風裏 竹 千竿」であり、情景は蒼然とした心情をうかがわせます。
     最後の二句は結びで、不吉な予感に満ちています。作者は滄浪亭にいて、その北に「君遷の樹」(豆柿の木)が生えています。豆柿は柿科の植物で、君主が遷るという寓意があります。あたりには「何限の棲鴉」(塒に帰ろうとする鴉)が夕暮れの冷えこみのなかでしきりに鳴いています。その声は清朝が瓦解するのではないかという予感、そうした予感を感じる人々のざわめく声のようでもありました。

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     清59ー魯 迅
        自題小像              自ら小像に題す

      霊台無計逃神矢   霊台(れいだい)  神矢(しんし)を逃るるに計(けい)無く
      風雨如磐闇故園   風雨  磐(いわお)の如くにして故園(こえん)を闇(やみ)とす
      寄意寒星荃不察   意を寒星(かんせい)に寄(よ)するも  荃(せん)  察せず
      我以我血薦軒轅   我れは我が血を以って  軒轅(けんえん)に薦(すす)めん

      ⊂訳⊃
              祖国は異国の攻撃を逃れる策もないままに

              風雨は岩のように押し寄せて  国は闇となる

              朝廷の要人に期待をよせるが  皇帝陛下はお察しにならない

              ならば私は自分の血を流して  黄帝に捧げよう


     ⊂ものがたり⊃ 西太后を失った清朝は、もはや旧来の専制主義を維持できませんでした。清の支配は急速に揺らぎ、革命派の動きが活発になります。宣統三年(1911)十月十日、武昌(湖北省武漢市武昌区)の新軍将兵が蜂起すると、報せは中国全土に伝わり、各地で革命派や新軍が反乱を起こして十三の省が独立を宣言しました。この事態に中央政府はなす術もなく、遠ざけていた袁世凱を北京によびもどして欽差大臣に任じ、十一月には親貴内閣を廃止して、袁世凱を内閣総理大臣に任命しました。
     孫文はそのころ国外で革命運動を指揮していましたが、十二月二十一日に香港に到着し、二十五日には上海で熱烈な歓迎をうけます。翌民国元年(1912)正月元日、孫文は南京で中華民国の建国を宣言し、みずから臨時大総統に就任します。しかし、中国の現状からして内戦は避けるべきと考え、「清帝が退位して、袁世凱が共和制に賛成するのであれば、臨時大総統の地位を袁に譲ってもよい」との声明を発表しました。袁世凱は光緒帝の皇后を説得して、二月十二日に宣統帝の退位が発表されます。
     清朝は時代の風雨のなかで倒れた老木といってよく、秦の始皇帝以来二千年にわたってつづいた専制王朝の終焉でもありました。だが、袁世凱は共和制への移行を推進せず、中華民国の動乱がはじまります。軍閥抗争の時代に文筆活動を始めた魯迅(ろじん)は、中国近代文学の第一人者になりますが、清末には国を憂える一人の若者でした。
     魯迅(1881―1936)は本名を周樹人(しゅうじゅじん)といい、紹興(浙江省紹興市)の人です。光緒七年(1881)に生まれ、生家は裕福な官家でしたが幼少のころには没落していました。光緒二十八年(1902・明治三十五年)、二十二歳のときに国費留学生として来日し、仙台医学専門学校に学びます。在学中に文学を志すようになり、宣統元年(1909)に帰国して故郷の紹興で教師になります。
     三十一歳のとき武昌蜂起がおこりますが、紹興の政事になんの変化もなく、翌民国元年に紹興をでて北京の教育部社会教育課長になります。民国七年(1918)六月、雑誌『新青年』に「狂人日記」を発表し、翌年には「孔乙己(コンイーチー)」「薬」を発表、中国人の暗部をえぐりだします。
     北京大学の非常勤講師であった民国十年(1921・大正十年)に代表作「阿Q正伝」を発表、中国社会のゆがみに切りこんでいきます。北京女子師範の非常勤講師をしていた民国十五年(1926・大正十五年)三月十八日、連合国の内政干渉に憤激した学生が天安門広場で抗議集会をひらき、軍隊が発砲して三・一八事件がおきました。進歩的知識人への圧迫も強まり、魯迅は家族を北京にのこし、前年に知りあった女子大生の許広平(きょこうへい)らと北京を離れ、九月に厦門(アモイ)大学に身をよせます。
     ほどなく広州の中山大学に移りますが、民国十六年(1927)四月十二日に上海でおこった共産党弾圧事件が広州に波及し、左派学生の逮捕や大学職員の罷免がおこります。それに反対した魯迅は辞表を提出し、九月に許広平と上海の共同租界に移りました。許広平とのあいだには息子周海嬰(かいえい)が生まれていました。魯迅は国民党政権と対立し、南京政府の追及を避けながら文筆活動をつづけ、民国二十五年(1936・昭和十一年)に上海でなくなります。享年五十六歳です。
     詩題の「小像」は肖像写真のことです。日本に留学していた二十三歳のとき、自分の写真に詩を書きつけました。前半二句は中国の現状描写です。「霊台」は周の辟雍(へきよう:神宮)に付設されていた建物で、転じて祖国をあらわします。「神矢」は異国の神が放つ矢のことで、具体的には西欧諸国の侵略行為でしょう。「風雨」は困難や逆境の喩えで、岩のように押しよせる苦難に「故園」(故郷・祖国)は闇に閉ざされていると詠います。
     後半では自分の心境と決意をのべます。「寒星」は『楚辞』にもとづく語で賢臣を意味し、「荃」も『楚辞』にもとづく語で皇帝をいいます。つまり皇帝陛下や朝廷は頼みにならない。だから自分は自分自身の血を注いで祖国の神に捧げようと結ぶのです。「軒轅」は黄帝のことで、漢民族の祖神として崇められていました。

     清60ー魯 迅
         自 嘲                  自ら嘲る

      運交華蓋欲何求   運(うん)  華蓋(かがい)に交わりて  何(なに)をか求めんと欲する
      未敢翻身已碰頭   未(いま)だ敢て身を翻(ひるがえ)さざるに  已(すで)に頭(こうべ)を碰(う)つ
      破帽遮顔過鬧市   破帽(はぼう)   顔(かんばせ)を遮(さえぎ)って鬧市(どうし)を過ぎ
      漏船載酒泛中流   漏船(ろうせん)  酒を載(の)せて中流に泛(うか)ぶ
      横眉冷対千夫指   眉(まゆ)を横たえて冷やかに対す  千夫(せんぷ)の指
      俯首甘為孺子牛   首(こうべ)を俯(ふ)して甘んじて為(な)る  孺子(じゅし)の牛
      躱進小楼成一統   小楼に躱(のが)れ進みて一統(いっとう)を成(な)さん
      管牠冬夏与春秋   牠(か)の冬夏(とうか)と春秋(しゅんじゅう)とに管(かん)せんや

      ⊂訳⊃
              私は華蓋の運に出あって  なにをしようしているのか
              進む方向を変えない内に  頭をぶつけてしまったようだ
              敗れた帽子で顔を隠し   繁華な街を通り抜けるような
              破れた船に酒を載せて   流れに浮かぶような日々だった
              これからは眉をあげて    冷静に千人の敵にむかいあい
              謙虚な態度で子供と遊び  牛の役目も喜んでつとめよう
              小さな家に身を隠して    一家の者をまもり
              季節の移ろい世の変化に  かかわり合うのはやめにしよう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題「自嘲」はみずからを嘲ることです。亡くなる四年前、民国二十一年(1932)の作品です。上海に移って五年目、魯迅は五十二歳になっていました。前年九月に満洲事変が起こり、南京の蒋介石は東北軍閥の張学良に隠忍自重を求めました。つづくこの年の一月に上海事変がおこり、魯迅の書斎にも弾丸が飛来し、家族とともに内山書店に避難しました。三月には満洲国が建国します。
     七言律詩のはじめ二句は現在の心境です。「華蓋」は占星術の用語で、僧侶にめぐりあうと栄達するが凡人にであうと八方塞がりになる星です。まだ進路を変えようとしないうちに「碰頭」(頭打ち)になると詠います。
     中四句二聯の対句のはじめ二句は、これまでの不安定な生活を総括します。比喩をもちいて描いていますが、国民党政権の追及を逃れて暮らす日々でした。つづく対句は今後の生き方についての抱負です。「千夫の指」は千人の人の指、多くの敵のことです。「孺子の牛」は子供の遊び相手の牛で、わが子と遊ぶとき牛になって子供を喜ばせてやろうといいます。逃げ隠れせずに論戦し、家庭ではよい父親になろうと詠うのです。
     最後の二句では今後の生き方について重ねてのべ、「牠の冬夏と春秋とに管せんや」と結びます。「冬夏」は季節の移りかわり、「春秋」は史書の『春秋』をさし、時代の変転です。「牠の……に管せんや」と詠い、悠然とした生き方をしようといっていますが、満洲の成りゆきに失望を隠せない魯迅です。(2016.9.29)

         ※ 以上で、清代を終わります。閲覧ありがとうございました。

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     清34ー趙翼
         野 歩                 野  歩

      峭寒催換木綿裘   峭寒(しょうかん)  換(か)うるを催(うなが)す  木綿(もめん)の裘(きゅう)
      倚杖郊原作近游   杖に倚(よ)りて   郊原(こうげん)に近游(きんゆう)を作(な)す
      最是秋風管閑事   最も是(こ)れ  秋風(しゅうふう)  閑事(かんじ)を管(かん)し
      紅他楓葉白人頭   他(か)の楓葉(ふうよう)を紅(くれない)ならしめ  人頭(じんとう)を白ならしむ

      ⊂訳⊃
              厳しい寒さ  木綿の上着を皮衣にかえる

              杖をついて  郊外の野原を散歩する

              秋風が    余計なお世話をしでかして

              楓の葉を紅葉させ  わたしの頭を白髪にする


     ⊂ものがたり⊃ 趙翼(ちょうよく:1727―1814)は陽湖(江蘇省武進県)の人。雍正五年(1727)に生まれ、乾隆二十六年(1761)に三十五歳で進士に及第、地方官を歴任して貴西兵備道に至ります。職を辞して安定書院の主講になり、講義と著述に専念します。史学・考証学にすぐれ、嘉慶十九年(1814)になくなりました。享年八十八歳です。
     詩題の「野歩」(やほ)は野原の散歩のこと。寒気が厳しくなった晩秋の野です。前半二句で詩の書かれた状況をしめします。「峭寒」(厳しい寒さ)なので木綿の上着を「裘」(皮衣)に換えて出かけたのでしょう。
     後半二句は前半のうらぶれた情感に対して機知を働かせます。「秋風 閑事を管し」がそれで、「閑事」は暇なこと、よけいな世話であり、「管」は管理することです。秋風が余計なことをして楓葉を紅葉させ、わたしの白髪を増やしてくれると世間を皮肉るのでしょう。

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     清35ー黄景仁
         雑 感                雑   感

      仙仏茫茫両未成   仙仏(せんぶつ)茫茫として   両(ふた)つながら未(いま)だ成らず
      只知独夜不平鳴   只(た)だ知る   独夜(どくや)に不平(ふへい)の鳴るを
      風蓬飄尽悲歌氣   風蓬(ふうほう)  飄尽ひょうじん)す  悲歌(ひか)の気(き)
      泥絮沾来薄倖名   泥絮(でいじょ)  沾来(てんらい)す  薄倖(はくこう)の名
      十有九人堪白眼   十に九人(きゅうにん)有りて  白眼(はくがん)に堪(た)え
      百無一用是書生   百に一用(いちよう)無きは   是(こ)れ書生(しょせい)
      莫因詩巻愁成讖   詩巻(しかん)に因(よ)って   愁(うれ)い  讖(しん)を成すこと莫(な)し
      春鳥秋虫自作声   春鳥(しゅんちょう)  秋虫(しゅうちゅう)  自(おのず)から声を作(な)す

      ⊂訳⊃
              神仏の教えは  漠然としてわかりにくい
              わかるのは   ひとりで過ごす夜の不平不満だけだ
              転蓬のような暮らしでは  悲憤慷慨の気も吹っ飛び
              泥に塗れた柳絮のように  不運な男の名前がはりつく
              十人のうちの九人までは  つまらない俗物だが
              おれだって何もできない  役立たずの万年書生だ
              詩に詠った悲しみが  悪い兆しになることはあるまい
              春の鳥も秋の虫も   心のままに鳴いているではないか


     ⊂ものがたり⊃ 乾隆期の遠征は乾隆五十六年(1791)にグルカ軍をチベットから撃退するまで前後十回に及びました。乾隆帝は遠征の記録を『十全記』という書物にまとめさせ、みずから「十全老人」と称しました。しかし、勝利を得ても外征は膨大な戦費を必要とし、乾隆期後半になると大規模な農民反乱が頻発するようになります。
     後世、乾隆第一の詩人と称される黄景仁(こうけいじん)は、乾隆盛世の矛盾が露呈しはじめた時期に生きた詩人です。仕官を望みながらも科挙に及第できず、地方高官の幕客になって生活の資をえるしかありませんでした。
     黄景仁(1749―1783)は陽湖(江蘇省武進県)の人。乾隆十四年(1749)に生まれ、四歳のとき父をなくします。ほどなく祖父母、兄もなくして家長になります。幼少のころから聡明でしられ、十九歳で郷試に挑戦しますが及第できませんでした。
     長ずるにしたがって詩名は高く、二十八歳のときに乾隆帝の殿試に及第したという説もありますが、仕官はできませんでした。地方高官に才能を認められ、安徽督学朱筠(しゅいん)の秘書などを務めます。幕客として各地を転々としますがつねに貧窮に苦しめられ、乾隆四十八年(1783)、病のために早逝します。享年三十五歳でした。
     詩題の「雑感」(ざつかん)はいろいろな思いです。十九歳で郷試に挑戦して落第したときの詩で、自分自身をいたわり励ます気持ちを取り上げ、まず現在の心境から詠いだします。「仙仏」は神仙思想と仏教のこと。そうしたものに救いを求めても「茫茫」(遠くて奥深いこと)としていて理解することができません。心に渦巻くのは不平不満だけです。
     頷聯の対句は、これまでの暮らしを比喩で描きます。「風蓬」は風に吹かれて転がる転蓬のこと、「悲歌」は悲憤慷慨の歌です。「泥絮」は泥にまみれた柳絮のこと、「沾来」はべたべた貼りつけられること、「薄倖」は落ちぶれた、不運の意味です。
     頚聯の対句は、自分の不甲斐なさを他と比較して歎きます。「白眼」は晋の阮籍の故事を踏まえており、阮籍は気にいった客には青眼をむけ、気にいらない俗人には白眼をむけたといいます。まわりの連中は軽蔑するしかないつまらない俗人であるが、自分だって役立たずの万年書生に過ぎないと自嘲します。
     尾聯では気を取り直して、自分は自分の道をゆくしかないと結びます。「讖」は兆し、前兆のことで、詩に詠いこんだ「愁」(悲しみ)が悪い兆しになることはあるまいと自問し、春の鳥だって秋の虫だって心のままに鳴いているではないかと自分を励ますのです。

     清36ー黄景仁
       途中遘病頗劇        途中病に遘(あ)って頗る劇し 
       愴然作詩           愴然として詩を作る

      揺曳身随百丈牽   揺曳(ようえい)して身に随う  百丈の牽(つな)
      短檠孤照病無眠   短檠(たんけい)  孤り照らし  病んで眠り無し
      去家已過三千里   家を去って    已(すで)に過ぐ三千里
      墮地今将二十年   地に堕(お)ちて  今(いま)将(まさ)に二十年ならんとす
      事有難言天似海   事には言い難(がた)き有り   天は海に似たり
      魂応盡化月如烟   魂は応(まさ)に尽(ことごと)く化すべし  月は煙の如し
      調糜量水人誰在   糜(かゆ)を調え  水を量(はか)る  人(ひと)誰か在らん
      況値傾嚢無一銭   況(いわ)んや嚢(ふくろ)を傾くるも  一銭も無きに値(あ)うをや

      ⊂訳⊃  
              百丈の綱をひきずって  揺れていく人生なのか
              ほの暗い灯火ひとつ   病のために眠れない
              家を出てから三千里   遠い旅路を越えてきた
              世に生まれて二十年   無駄な月日を過ごしてきた
              人生には口に出せないことがあり  天は海のように応えず
              魂は靄のような月の中に  跡形もなく消え失せるであろう
              粥を炊いてくれる人など   いるはずもなく
              財布を逆さにはたいても  びた一文出てこないのだ


     ⊂ものがたり⊃ 乾隆三十四年(1769)、二十一歳のとき江南から湖南にむかう旅の途中、病になったときの作で、はじめの二句は現在の状況です。黄景仁は父、祖父母、兄を亡くし、再興しなければならない家名や生活の資など家長としての重荷を背負っていました。それが「百丈の牽」です。旅先で病み、「短檠」は低い燭台、その侘しい光に照らされた部屋で眠られずにいます。
     中四句、頷聯の対句はこれまでの人生です。訳には意味を踏まえた語句が加えてあります。頚聯の対句はそのときの感懐で、孤独感に満ちています。尾聯は現実にかえって思うことですが、現実にかえっても希望はなく、「糜」(粥)を作ってくれる人はおらず、「嚢」(銭入れの袋、財布)を傾けても銭もないと詠います。

     清37ー黄景仁
        別老母               老母に別る

      搴帷拜母河梁去   帷(とばり)を搴(かか)げ  母を拝して河梁(かりょう)に去る
      白髪愁看涙眼枯   白髪  愁(うれ)え看(み)れば  涙眼(るいがん)枯る
      慘慘柴門風雪夜   惨惨(さんさん)たる柴門(さいもん)  風雪の夜(よ)
      此時有子不如無   此(こ)の時  子(こ)有るは   無きに如(しか)ず

      ⊂訳⊃
              帳を巻きあげ  母上に挨拶して橋へむかう

              白髪の母をみていると   涙も枯れてしまいそうだ

              みるも哀れなわが家の門  吹雪く夜

              こんな腑甲斐ない息子は  いないほうがいいのだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「老母」(ろうぼ)は母親。二十三歳の春、生活の資を求めて旅立つときの留別の詩です。はじめの二句は部屋にはいって別れの挨拶をする場面。「河梁」は送別の地をさしていう語で、漢の李陵が蘇武に与えた送別詩に「手を携(たずさ)えて河梁に上る」とあるのによります。
     留別の詩ですので、後半二句は家をでてわが家を振りかえる自分をあらかじめ詩に詠いこむのです。「惨惨たる柴門」には悲痛の響きがあり、「風雪」(吹雪)は逆境や困難の喩えでもあります。このような時がくるのならば、つまりこのような情けない思いを親にさせるくらいなら、私なんていなくなった方がいいのだと自逆の言葉をのべて親不幸を恥じるのです。

     清38ー黄景仁
       癸巳徐夕偶成二首 其二   癸巳の徐夕 偶々成る二首 其の二

      年年此夕費吟呻   年年  此の夕(ゆうべ)  吟呻(ぎんしん)を費(ついや)す
      児女燈前窃笑頻   児女  燈前(とうぜん)  窃(ひそ)かに笑うこと頻(しき)りなり
      汝輩何知吾自悔   汝(なんじ)が輩(はい)   何ぞ知らん  吾(われ)  自ら悔(く)ゆ
      枉抛心力作詩人   枉(ま)げて心力を抛(なげう)って  詩人と作(な)る

      ⊂訳⊃
              毎年年末になると  苦しんで詩をつくる

              灯の前で子供らは  ひそかに私を笑っている

              わたしの後悔が   どうしてお前たちにわかろう

              心を使いつくして   詩人となっていることが


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「癸巳」(きし)は乾隆三十八年(1773)、「徐夕」(じょせき)は除夜のことです。二十五歳の大晦日、二年振りにわが家に帰ったときに作った詩です。家長である黄景仁は十九歳で結婚し、このとき六歳の娘と三歳の息子がいました。
     前半二句の「吟呻」は苦しく呻くこと。年末の夜に苦吟して詩を作っていると、たまたま子供たちの忍び笑いを目にします。後半はそれを受けて吐露する心境です。
     「何ぞ知らん」は次句にもかかり、強いて心を振り絞って詩人として生きていることを「吾 自ら悔ゆ」といいます。私は後悔しているのだと心に呟くのであって、本当は官職に就きたいのだが、それが適わないので詩を書いていると本音をもらすのです。

     清39ー黄景仁
       山房夜雨           山房の夜雨

      山鬼帯雨啼     山鬼(さんき)  雨を帯びて啼(な)き
      飢鼯背燈立     飢鼯(きご)   燈(ともしび)に背(そむ)いて立つ
      推窓見孤竹     窓を推(お)して孤竹(こちく)を見れば
      如人向我揖     人の  我れに向かって揖(ゆう)するが如し
      静聴千岩松     静かに千岩(せんがん)の松を聴(き)けば
      風声苦於泣     風声(ふうせい)  泣(なみだ)より苦(にが)し

      ⊂訳⊃
              山の女神が   雨に打たれて泣いている
              飢えた鼯鼡(むささび)が  灯火を避けて立っているようだった
              窓をひらくと   それは一本の竹であった
              私にむかって  挨拶するように揺れている
              耳を澄まして  岩山の松を聞けば
              風に鳴る音は  女神の泣く声よりも辛そうだった


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「山房」(さんぼう)は山の中の部屋のことです。有力者の山荘に泊ったのでしょう。その夜、雨の音を聴きながら作った六句の五言古詩、幻想的ですが悲痛な心情を詠っています。
     はじめ二句の「山鬼」は山の女神。その山鬼が雨に打たれて泣いている声が聞こえたように思いました。それで窓越しに外をみると、「飢鼯」(腹を減らしたむささび)が灯火に背をむけるようにして立っています。窓を開けると、それは「孤竹」(一本の竹)でした。竹は風に吹かれて私に挨拶するかのように揺れていました。
     耳をすますと岩山の上に立っている松の風に吹かれて鳴る音が聞こえてきました。その声は「泣(なみだ)より苦し」です。そしてはじめの句に返って、その声は山鬼の雨に打たれて泣く声よりも辛そうだったと詠います。山鬼は作者の心のなかに棲む魂とも考えられるでしょう。(2016.9.8)

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     清40ー張問陶
        中秋月下作            中秋月下の作

      一年小別住京華   一年の小別(しょうべつ)  京華(けいか)に住み
      何処逢秋不憶家   何(いず)れの処か  秋に逢(あ)うて家を憶(おも)わざらん
      緘取今宵衣上影   今宵(こよい)の衣上(いじょう)の影を緘取(かんしゅ)して
      他時因夢寄天涯   他時(たじ)  夢に因(よ)って天涯(てんがい)に寄せん

      ⊂訳⊃
              そなたと別れ都に住み  まだ一年にしかならないが

              秋になれば  どこにいようと家を恋しがらずにいられようか

              この夕べ   衣のうえに落ちた月の光を封じこめ

              いつの日か夢に託して  天の果てのそなたに届けたい


     ⊂ものがたり⊃ 乾隆六十年(1795)、乾隆帝は八十五歳になり、退位して太上皇帝になります。翌嘉慶元年正月、愛新覚羅顒琰(ぎょうえん)が即位して嘉慶帝になります。しかし、乾隆帝は退位しても八十九歳で崩じるまで政務を執りつづけました。
     嘉慶四年(1799)から嘉慶帝の親政がはじまりますが、その年に湖北地方で白蓮教徒の反乱が起こり、陝西、四川にも波及して鎮圧するのに五年を要しました。アヘンを最初に中国にもたらしたのはポルトガル人でしたが、イギリスがアヘン交易に乗りだした乾隆四十五年(1780)ころからアヘンの流入量が増加し、広東や福建などの沿海部でアヘン吸飲の習慣がひろがります。
     嘉慶十八年(1813)にアヘンの販売が禁止されると密売が横行し、価格は高騰します。嘉慶二十年には輸入を禁止しますが、密輸入をとどめることはできませんでした。アヘン吸飲の害が社会問題化するなか、嘉慶帝は嘉慶二十五年(1820)に崩じ、七月に愛新覚羅旻寧(びんねい)が即位して道光帝になります。
     アヘン吸飲の害が拡がった嘉慶年間から道光年間にかけて流行した詩体を「嘉道体」といいます。そのころ朝廷に仕えた官僚詩人は社会や政事といった「公」には目をむけず、ひたすら「私」を題材として詞藻の洗練につとめました。艶やかな措辞と繊細な抒情を重んじるのが「嘉道体」で、張問陶(ちょうもんとう)と陳文述(ちんぶんじゅつ)はその代表的な詩人です。満州族の高官が睨みを利かせているなか、官吏として詩を作るには「私」に閉じこもるしかなかったのです。
     張問陶(1746―1814)は遂寧(四川省遂寧県)の人。乾隆二十九年(1746)、陶県(山東省陶県)に生まれ、乾隆五十五年(1790)、二十七歳で進士に及第します。翰林院検討、都察院御史、吏部郎中などを歴任し、そのご萊州府(山東省萊県)の知府になりますが、上官とあわず辞職して江南を遊歴します。詩は袁枚の推賞をうけ、四川第一の詩人と称され、嘉道体の創始者となります。嘉慶十九年(1814)に蘇州(江蘇省蘇州市)でなくなり、享年五十一歳でした。
     詩は乾隆五十五年(1790)八月十五日夜の作です。この年の春、進士に及第して官職に就いたものの北京での生活は意に添いませんでした。そんななか、四川の故郷に残してきた妻を想う詩です。転句の「緘取」は封書に封じこめること。この詩は他人にしめすような作品ではなく、妻への書信に添えて送ったものでしょう。

     清41ー張問陶
       得家書二首 其二       家書を得たり 二首  其の二

      倚枕愁聴午夜砧   枕に倚(よ)り  愁(うれ)えて聴く  午夜(ごや)の砧(ちん)
      客窓風雨一燈深   客窓(きゃくそう)  風雨  一燈(いつとう)深し
      五千里外常飢走   五千里外  常に飢走(きそう)し
      二十年來費苦吟   二十年来  苦吟(くぎん)を費(ついや)す
      白髪高堂游子夢   白髪(はくはつ)の高堂(こうどう)  游子(ゆうし)の夢
      青山老屋故鄕心   青山(せいざん)の老屋(ろうおく)  故郷(こきょう)の心
      家書只作奇書讀   家書(かしょ)は只(た)だ  奇書(きしょ)と作(な)して読み
      語簡情多仔細尋   語(ご)  簡(かん)にして  情(じょう)多(おお)きを  仔細(しさい)に尋ぬ

      ⊂訳⊃
              悲しい気持ちで寝床につき  真夜中の砧の音を聴く
              宿舎の窓に吹きつける風雨  灯火はじっと動かない
              五千里の異郷で  齷齪とはたらき
              二十年このかた  詩作に打ちこんできた
              旅先の私の夢に  白髪の父上と母上があらわれ
              古里を思う心は  山に囲まれた古い家へとむかう
              妻からの便りは  貴重な書物のように丁寧に読み
              言葉は簡潔でも  思いの深さを隅々まで味わいつくす


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「家書」(かしょ)は家族からの書信です。ここでは妻からの便りでしょう。制作年は不明ですが、萊州(山東省萊県)の知府事になったときが考えられます。はじめの二句は作者の現状です。
     「午夜の砧」は真夜中の砧(きぬた)の音で、それを聴きながら寝床に横たわっています。「客窓」は旅の宿舎の窓で、知萊州府のときであれば官舎の窓です。砧は冬着の布を柔らかくするために台に載せて槌で打つもので、旅先の夫を思って働く妻の姿は秋の風物詩でした。
     中四句はじめの対句は、これまでの自分の生活を描きます。妻を四川の遂寧に置いているので、北京も萊州も「五千里外」の異郷です。「二十年来」は詩を作りはじめた若いころからの二十年でしょう。つづく対句はいまの心境を別の角度からのべるもので、きちんと決まった名句です。「高堂」は両親、「青山」は緑の山に囲まれた故郷の意味でしょう。最後の二句は便りをもらったことへの感謝の言葉で結ばれます。詩は家族へのひたすらな思いで貫かれていますが、詩句はきわめて整っていて欠けるところがありません。(2016.9.10)

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     清42ー陳文述
       月夜聞紡織声三首 其二  月夜 紡織の声を聞く 三首 其の二

      茅檐辛苦倦難支   茅檐(ぼうえん)の辛苦  倦(う)みて支(ささ)え難し
      繡閣嬌憨定不知   繡閣(しゅうかく)の嬌憨(きょうかん)  定めて知らざらん
      多少呉姫厭羅縠   多少の呉姫(ごき)か   羅縠(らこく)に厭(あ)きたる
      緑窓一様夜眠遅   緑窓(りょくそう)  一様(いちよう)   夜眠(やみん)遅し

      ⊂訳⊃
              茅葺の家の辛苦は  見るに堪えないほどだ

              楼閣の娘たちは    そんなことに関心はない

              どれほどの妓女が  薄絹の衣に満ち足りていることか

              緑の縁取りの窓は  夜半まで明るく眠りはおそい


     ⊂ものがたり⊃ 陳文述(ちんぶんじゅつ:1771―1842)は銭塘(浙江省銭塘県)の人。乾隆三十六年(1771)に生まれました。嘉慶五年(1800)に三十歳で挙人にあげられ、各地の知県を歴任します。若いころから詩名が高く、艶麗な詩風が注目されました。晩年には社会に目を向けるようになり、道光二十三年になくなります。享年七十三歳です。
     詩題の「紡織(ぼうしょく)の声」は機織りの織り機の音です。「月夜」(げつや)、つまり月の明るい夜に貧しげな家から機を織る音が洩れてくるのを聴きます。その音に触発されて思いを詠う詩です。
     はじめ二句の「茅檐」は茅葺の家。その家の貧しさは見るに堪えないほどです。「繡閣」は豪華な建物、「嬌憨」は愛らしいが淺はかな女の意味で、後半に「呉姫」とありますので妓楼の女をいうのでしょう。後半の「呉姫」は妓女をさす言葉で、「羅縠」は薄絹です。茅檐の紡織は絹を織っているのですが、妓楼の女たちは薄絹の衣裳にあいています。
     最後を「緑窓 一様 夜眠遅し」と結んで、妓楼の窓が夜遅くまで明るく輝き、賑わっていることを指摘します。貧しい機織りの娘と着飾った妓楼の女を対比して世の不平等を嘆く詩であり、社会に目をむけた晩年の作です。

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     清43ー龔自珍
       雑詩己卯自春徂夏    雑詩 己卯の春より夏に徂(およ)び
       在京師作詩得十有    京師に在って詩を作る 十有四首を
       四首 其一         得たり  其の一

      少小無端愛令名   少小(しょうしょう)  端無(はしな)くも令名を愛す
      他無学術誤蒼生   他(ま)た学術の蒼生(そうせい)を誤る無し
      白雲一笑懶如此   白雲  一笑(いっしょう)す  懶(らん)  此(か)くの如きを
      忽遇天風吹便行   忽ち天風(てんぷう)の吹くに遇(あ)って便(すなわ)ち行く

      ⊂訳⊃
              若いころには  わけもなく名声を求めていた

              だが 万民を  誤った道に導くほどの学問はなかった

              浮雲のようだと       怠惰な自分を笑っていたが

              突然の天の風に遇って  吹かれるままに動いている


     ⊂ものがたり⊃ 度々の禁令にもかかわらずアヘンの密輸が止まなかったのは、イギリスとインドと中国とのあいだに三角貿易の関係があったからだとされています。アヘンの流入が急増すると中国の銀の流出が加速度的に増え、銀の価格が上昇します。銀の上昇は中国の国内通貨である銅貨の下落につながり、銅貨の下落はアヘンを吸わない一般国民の生活をも圧迫することになります。
     アヘン貿易(密輸)が国内経済の悪化に直結することに気づいた林則徐・魏源ら公羊学派の官僚は、禁輸の徹底を主張します。開明的な知識人は政府の無策にいらだって詩社などに結集し、政事批判の声をあげるようになりました。龔自珍(きょうじちん)は林則徐よりも七歳の年少で、官界の腐敗を憎む若手官僚のひとりでした。
     龔自珍(1792―1841)は仁和(浙江省杭州市)の人。乾隆五十七年(1792)に生まれました。父親の龔麗生(れいせい)が古代言語学者段玉裁(だんぎょくさい)の女婿でしたので、十二歳で外祖父から『説文』の学を授けられます。古学に才能を発揮し、やがて劉逢禄(りゅうほうろく)について公羊学(『春秋公羊伝』を重んじる儒学)を修め、社会変革の思想に目ざめるようになります。
     急進的な思想がわざわいして、しばしば科挙に落第。道光九年(1829)、三十八歳で進士に及第し、内閣中書になります。翌道光十年には魏源らと宜南詩社を結成して経世の学を研究します。社会批判や政事論を執筆し、帝政ロシアの進出を警告して辺境防衛の強化を主張するなど政事改革に意欲をしめします。
     道光十九年(1839)に林則徐が欽差大臣に任命されて広州に赴いたときは、イギリスとの戦争も辞すべきではないと戦備の強化を進言しました。その年、礼部主事を最後に北京を去り、帰郷して丹陽(江蘇省丹陽県)の雲陽書院で教鞭を執りますが、道光二十一年(1841)、在郷二年で急死しました。北京にいるとき親王奕絵(えきかい)の愛妾顧春(こしゅん)と私通していたために毒殺されたとの伝えもあります。享年五十歳でした。
     詩題の「己卯」(きぼう)は嘉慶二十四年(1819)のことです。この年、龔自珍は二十八歳でした。春から夏までのあいだに十四首の七言絶句を作りました。其の一の詩のはじめ二句は、それまでの自己の反省です。「少小」は少年(二十代)より若いころで十代でしょう。「学術」は儒学のことで、修身・斉家・治国・平天下を理想とします。「蒼生」は民草のことであり、私の学問は「蒼生を誤る無し」、つまり民衆を誤らせるほどのものではなかったといいます。「誤る無し」は一種の反語で、私の学問は政府の意向に反して民衆を開化に導くことができるほどに深くはなかったというのです。「懶」は怠惰なことで、「白雲」のように浮わついていると自分を笑っていたけれど、突然、天の風に遇って動きだしたというのです。林則徐や魏源ら公羊学派の開明官僚と交わって政事改革を目ざすようになったことをいうのでしょう。

     清44ー龔自珍
       雑詩己卯自春徂夏    雑詩 己卯の春より夏に徂(およ)び
       在京師作詩得十有    京師に在って詩を作る 十有四首を
       四首 其十二        得たり  其の十二

      楼閣参差未上燈   楼閣  参差(しんし)として  未(いま)だ燈(ともしび)を上(のぼ)さず
      菰蘆深處有人行   菰蘆(ころ)   深き処  人の行く有り
      凭君且莫登高望   君に凭(よ)る  且(しばら)く高きに登りて望むこと莫(なか)れ
      忽忽中原暮靄生   忽忽(こつこつ)として中原(ちゅうげん)  暮靄(ぼあい)生ず

      ⊂訳⊃
              楼閣は高く低く連なり  まだ灯火はともっていない

              菰や葦の茂るなかを   誰かが歩いていく

              高処から見渡すのは   しばらくやめたまえ

              都は薄ぼんやりと翳り  見る者の心に夕靄がかかる


     ⊂ものがたり⊃ この詩には「陶然亭の壁に題す」との自注があり、陶然亭は北京外城の中南部、先農壇に接する園地の中央にありました。文人墨客の遊楽の地として有名であり、龔自珍はそのころ宣南詩社という結社を結成して政事活動を行なっていました。その仲間との集まりの席で披露した作品でしょう。
     はじめの二句は陶然亭から望む街並と葦原。灯火をともすには早い時刻です。「菰蘆」(まこもとあし)の茂るなかを「人」が歩いています。この人は自分自身もしくは誰かを意味すると考えられますが、後半に「君」への忠告があり、自戒を含めた君への忠告と解釈すれば「人」は自分でもあります。ここには比喩がこめられていて、「菰蘆」は政事活動の喩えと考えることができます。
     後半の「高きに登りて望むこと莫れ」も単なる高処ではなく、高処からの俯瞰を戒め、民衆の視点に立つことをいうのでしょう。結びは「忽忽として中原 暮靄生ず」となっており、「中原」は中国の政事的核心、都です。そこは「忽忽」(定かでないさま)としており、見る者の心に夕靄を生じさせます。だからしばらく見ないほうがよいと詠うのです。「暮靄生ず」は二重に解釈し、暮靄が生じているのは都の政事状況であると同時に、それを見る活動家にも心の曇りを生じさせるという意味でしょう。

     清45ー龔自珍
       己亥雑詩 其五       己亥雑詩 其の五

      浩蕩離愁白日斜   浩蕩(こうとう)たる離愁(りしゅう)   白日斜(なな)めなり
      吟鞭東指即天涯   吟鞭(ぎんべん)  東に指(さ)せば  即ち天涯(てんがい)
      落紅不是無情物   落紅(らくこう)は是(こ)れ  無情(むじょう)の物にあらず
      化作春泥更護花   化して春泥(しゅんでい)と作(な)り  更に花を護(まも)る

      ⊂訳⊃
              果てしない別れの悲しみ    陽は西に傾いている

              詩人の鞭で東方を指させば  天空の果てだ

              だが  散りゆく花びらにも   心というものがある

              春泥にまみれて  咲く花を守ろうとしているのだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「己亥」(きがい)は道光十九年(1839)のことで、四十八歳で職を辞し、都を去るときの作品です。その四月末から十二月までに三百十五首の七言絶句を作りました。
     其の五の詩は、馬に乗って北京を旅立とうとするときの情景と心境です。起句は悲しみに沈みながら馬上で夕陽をみています。沈む夕陽はしばしば王朝の終わりの比喩でもあります。承句では視線を東に移し、「吟鞭」(詩人の持つ鞭)で故郷の方向を指さします。野にくだる決意をしめすのでしょう。
     後半は一転して、去るにあたっての心境をのべます。「落紅」は散る紅い花びらで、花びらにも心があるといいます。花びらは泥土のなかに落ちて、つぎに咲く花を守ろうとしているのだと、「落紅」に託して人材育成に努める覚悟をしめすのです。

     清46ー龔自珍
       己亥雑詩 其百二十三    己亥雑詩 其の百二十三

      不論塩鉄不籌河   塩鉄(えんてつ)を論ぜず 河(か)を籌(はか)らず
      独倚東南涕涙多   独り東南に倚(よ)って   涕涙(ているい)多し
      国賦三升民一斗   国賦(こくふ)三升(さんしょう)  民一斗(たみいっと)
      屠牛那不勝栽禾   屠牛(とぎゅう)  那(なん)ぞ禾(いね)を栽(う)うるに勝(まさ)らざらん

      ⊂訳⊃
              政府は経済を論ぜず  政事に思いを致そうとしない

              私はひとり  江南に身をよせて涙を流す

              租税は三升  だが民の負担は一斗になる

              耕すよりも  牛を殺して食べるほうがまだましだ


     ⊂ものがたり⊃ 其の百二十三の詩は、承句に「独り東南に倚って」とあり、江南に帰ってからの作です。起句の「塩鉄」は政府の専売品で財政のかなめの産物であり、転じて経済を意味します。「河を籌る」は治水のことで、格言に「水を治める者は天下を治める」とあり、転じて政事を意味します。政府が経済・政事に無策であることを嘆きながら、なにもできないことに悔し涙をながすのです。
     後半二句では悪政の一端にふれます。国家の租税は「三升」と決められているのに民の実質的な負担は「一斗」であると指摘します。租税はすでに金納になっていましたが、アヘンの流入によって銀が国外に流出して銀は高騰していました。一方、民間で流通するのは銅貨であり、納税者は銅貨を銀貨に換えて納税しなければなりません。三倍以上の納税になるので、これではまともに稲を植えるよりは農耕の牛を殺して食べるほうがましだと政事を批判します。

     清47ー龔自珍
       己亥雑詩 其百二十五    己亥雑詩 其の百二十五

      九州生気恃風雷   九州の生気(せいき)  風雷(ふうらい)を恃(たの)み
      万馬斉瘖究可哀   万馬(ばんば)  斉(ひと)しく瘖(おしだま)り  究(つい)に哀れむ可(べ)し
      我勧天公重抖擻   我れ天公(てんこう)に勧(すす)む  重(かさ)ねて抖擻(とうそう)して
      不拘一格降人材   一格(いっかく)に拘(こだ)わらず  人材を降(くだ)せと

      ⊂訳⊃
              中国が生気を取り戻すには  風神雷神に頼るほかはない

              誰もが押し黙っているから  哀れな状態になったのだ

              私は天子様にお願いしたい  すべての利害を払いのけて

              身分などにはこだわらず   有為の人材を登用すべしと


     ⊂ものがたり⊃ 其の百二十五の詩は、潤州(江蘇省鎮江市)で玉帝や風神雷神の祭りを見物していたとき、道教の道士に祝詞を作ってくれと頼まれて作ったと自注にあります。「九州」は中国全土の古称です。中国が生気を取りもどすには「風雷」(風神と雷神)が必要であるが、こんなになったのは「万馬」(人々)が押し黙っているから哀れな状態になったのだといいます。「天公」は天帝のことですが、天子をさす場合もあります。「抖擻」は梵語「頭陀(ずだ)」の訳語で、すべての欲望を払いのけることです。だから天子はすべての利害を払いのけて、「一格」(地位、身分)にこだわらずに有為の人材を登用すべきであると詠います。

     清48ー龔自珍
       己亥雑詩 其百七十    己亥雑詩 其の百七十

      少年哀楽過于人   少年の哀楽(あいらく)  人に過ぎ
      歌泣無端字字真   歌泣(かきゅう)  端(はし)無く  字字(じじ)真(しん)なり
      既壮周旋雑癡黠   既にして壮なるや  周旋(しゅうせん)して  癡(ち)と黠(きつ)を雑(まじ)え
      童心来復夢中身   童心(どうしん)  来復(らいふく)す  夢中(むちゅう)の身

      ⊂訳⊃ 
              若いころは  喜怒哀楽がはげしくて

              わけもなく詠い憤慨したが  ひとつひとつは真実だった

              壮年になって世間と交わり  愚かさと悪知恵が混じりあう

              純真無垢の一念は  夢にしか見ない男になり果てた


     ⊂ものがたり⊃ 其の百七十の詩は若いころの自分を顧みて現在の自分を反省する作品です。前半二句は若いころの自分。「少年」は二十代のことです。「歌泣」は詩を吟じることと泣くこと。「無端」は「端無く」と訓じ、わけもなく、突然にという意味になります。若者のころは喜怒哀楽が激しくて、感情に任せて詠ったり泣いたりしたが、ひとつひとつの言葉は「真」(真実)だったと詠います。
     後半は現在の自分への反省です。「周旋」は人と交際すること。「癡黠」は愚かさと悪賢さで、「童心 来復す 夢中の身」と結びます。「童心」は明の思想家で陽明学左派の李贄(卓吾)の童心説に基づく言葉で、人が生まれながらに持っている純真無垢の初一念のことです。龔自珍が亡くなる前年にアヘン戦争がはじまります。龔自珍は林則徐が罷免されるのを見ますが、戦争の結末を見ないままの死でした。(2016.9.17)

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     清49ー林則徐
         塞外雑詠               塞外雑詠

      沙礫当途太不平   沙礫(されき)   途(みち)に当たって太(はなは)だ平らかならず
      労薪頑鉄日交争   労薪(ろうしん)  頑鉄(がんてつ)  日々(ひび)交々(こもごも)争う
      車箱簸似箕中粟   車箱(しゃそう)  簸(あお)ぐこと   箕中(きちゅう)の粟(ぞく)の似(ごと)し
      愁聴隆隆乱石声   愁(うれ)えて聴く  隆隆(りゅうりゅう)たる乱石(らんせき)の声

      ⊂訳⊃
              砂礫の路がゆく手を阻み  ひどくでこぼこしている

              古い木材と固い鉄が  ぎしぎしと軋みあう

              馬車の座席にいると  箕のなかの粟粒のように跳ねあがり

              車輪に踏まれる石の音に  悲しく耳を傾けている


     ⊂ものがたり⊃ 林則徐(りんそくじょ:1785―1850)は福州侯官(福建省福州市)の人。乾隆五十年(1785)に貧しい官家に生まれました。嘉慶十六年(1811)、二十七歳のとき第七位で進士に及第し、翰林院庶吉士になります。江南道監察御史や東河河道総督などの地方長官を歴任し、江蘇巡撫のとき水利事業に従事して功績をあげます。
     道光十七年(1837)、五十三歳のときに湖広総督になり、アヘン吸入の禁止に成果をあげます。翌年、アヘン吸飲者の処罰について下問があったとき厳禁を主張、アヘン禁止の具体的な実施手順について上書しました。道光十九年(1839)に欽差大臣に任命され、広州に赴いてアヘンの禁絶にあたります。広州の虎門でアヘン二百三十七万斤を銷燬(しょうき)しますが、イギリスとの紛争になります。
     翌道光二十年に阿片戦争が起こると、水師を兼務していた林則徐は広州の守りを固めます。イギリス艦隊は広州を避けて北上し、渤海湾に侵攻。すると道光帝は弱腰になり、林則徐は罷免されました。道光二十一年(1841)に責任を問われ、伊犁(いり:新疆ウイグル自治区伊寧市)へ流罪になります。
     道光二十五年(1845)に赦されて陝甘総督代理を務めたのち陝西巡撫・雲貴総督になり、道光三十年(1850)には太平天国鎮圧のために欽差大臣に任命され、広西に赴きますが、その途中、潮州(広東省潮州市)で病没しました。享年六十六歳です。
     詩題の「塞外」(さいがい)は国境のそとの砦という意味です。アヘン戦争の責任を問われて流された伊犁は極西の地でした。その流謫地へ馬車で赴く途中の感慨を詠います。はじめの二句は西域の路の荒れた様子。「労薪 頑鉄」は車の木製の部分と鉄製の部分で、それがこすれ合って軋み音を立てています。
     後半二句は車に乗っている自分のことで、「車箱」(馬車の座席)にいると箕のなかの粟粒のように体が跳ねあがり、車輪に踏みしだかれる石の音に耳を傾けていると詠います。揺れる車と乗っている自分をさりげなく詠っているようですが、全体は比喩の詩とみることができ、第一句は困難な政事、第二句はいろんな勢力がぶつかり合ってガタがきている政府、第三句はそうした政界に翻弄される自分、第四句で愁えて聴いているのは車輪のしたで虐げられる民の声でしょう。

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