清50ー黄遵憲
日本雑事詩 日本雑事詩
抜地摩天独立高 地を抜き 天を摩(ま)して 独り立つこと高し
蓮峰湧出海東濤 蓮峰(れんぽう) 湧出(ゆうしゅつ)す 海東の濤(なみ)
二千五百年前雪 二千五百年前(まえ)の雪
一白茫茫積未消 一白(いっぱく) 茫茫(ぼうぼう) 積みて未(いま)だ消えず
⊂訳⊃
大地を抜け出て独り 天空に届くほど高く聳える
蓮の花のような峰は 東海の波から湧き出たのか
二千五百年前の雪が いちめんに白く積ったまま
どこまでもつづき 消えないでいる
⊂ものがたり⊃ アヘン戦争は前後二回行われました。一回目は道光二十一年(1841)二月、イギリスへの宣戦布告ではじまり、翌年八月、イギリス艦隊が南京に迫ったことで降伏します。南京条約が結ばれ、香港の割譲、広州・厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の開港などが決定し、不平等条約のもとで門戸を開くことになります。
道光三十年(1850)に道光帝が崩じ、三月に愛新覚羅奕(えきちょ)が即位して咸豊帝となります。そのころ広西では天地会系の結社の反乱が激化していました。広西金田(広西壮族自治区桂平県金田村)で挙兵した拝上帝会の洪秀全(こうしゅうぜん)は、咸豊元年(1851)三月に天王を称し、湖南へむかって進撃を開始します。咸豊三年(1853)三月、南京を占領して天京と改め、太平天国を樹立しました。
洪秀全は五月には北伐の軍を発し、太平天国軍は天津郊外に達しましたが清軍に押しもどされました。しかし、清軍にはそれ以上南進して太平天国を鎮圧する力はありませんでした。曾国藩は母親の喪で故郷の湘郷(湖南省湘郷県)にもどっていたとき太平天国の乱に遭遇します。朝廷の呼びかけに応じて地元で義勇軍を組織し、湖南を奪いかえします。曾国藩の軍は湘軍とよばれ、西から太平天国を攻めました。
このような状勢下、広州でアロー号事件が発生します。咸豊六年(1856)十月、香港船籍のアロー号がアヘン密輸の疑いで官憲の立ちいり検査を受けたとき、イギリス国旗が引き下ろされたというのが口実になり、イギリスはフランスに共同出兵をもちかけ、第二次アヘン戦争(アロー戦争)が勃発します。
英仏連合軍は広州を占領し、海路北上して咸豊八年(1858)五月、天津の大沽(タークー)砲台を占領します。清朝は和平交渉にはいり天津条約が締結されますが、条約批准のために北京にむかっていた英仏米の公使を撃退します。怒った英仏両国は大艦隊を派遣し、咸豊十年(1860)十月、北京に入城して円明園を破壊します。熱河の避暑山荘に避難していた咸豊帝は弟の恭親王奕訢(えききん)を北京に派遣して北京条約が結ばれました。
咸豊十一年(1861)八月、咸豊帝は熱河で崩じ、六歳の皇太子愛新覚羅載淳(さいじゅん)が即位して同治帝になります。同治帝の側近であった粛順が輔相になりますが、十一月に同治帝の生母西太后(せいたいごう)と恭親王奕訢がクーデターを起こし、粛順は処刑されて西太后の垂簾聴政が始まりました。
そのころ太平天国は内部の権力争いを繰り返しながらも江南に進出し、上海を攻めようとしていました。清朝は曾国藩の湘軍を江南にむけようとしましたが、曾国藩は合肥(安徽省合肥市)の李鴻章(りこうしょう)に淮軍を組織させ、上海の救援にあたらせます。太平天国軍は敗れて退き、同治三年(1864)六月、天王洪秀全が病死すると内部分裂を起こし、七月、湘軍が天京に攻めこんで太平天国は滅亡しました。
同治帝の時代は洋務派の時代です。従来「夷務」とよばれていた外交は「洋務」に改められ、外交だけでなく西欧化政策も洋務に含められます。洋務を積極的に推進する者が洋務派であり、その筆頭は淮軍をひきいる李鴻章でした。湘軍は左宗棠(さそうとう)が引きついでおり、かれらは地方の総督に任じられ、任地で兵器工場や艦艇造船所を建設し、軍備の西欧化を推進しました。
同治九年(1870)に李鴻章が直隷総督・北洋大臣に任命されると、洋務運動は軍備の西欧化とともに産業の近代化一般へと拡がっていきます。それまで卑賤な者の生業とされていた商業や生産活動に士大夫階層が乗り出すことになり、近代化がはじまります。日本は同治十年(明治四年)九月に日清修好条規を締結して清と平等な国交を開始します。
同治十三年(1874)、十九歳になっていた同治帝は嗣子のないまま崩じ、十二月に三歳の愛新覚羅載湉(さいてん)が即位して光緒帝となります。載湉は咸豊帝の弟醇親王奕譞(えきけん)の王子で、生母は西太后の妹でした。幼児の甥を皇帝にした西太后の地位は安定し、垂簾聴政は維持されます。
しかし、その時期は清の辺境や隣接国をめぐってイギリス・ロシア・フランス・日本との対立が激化し、戦争に発展する時代でした。黄遵憲(こうじゅんけん)は光緒年間のはじめに外交官になり、日本のほかアメリカ、イギリスで生活しました。海外の新しい思想や文化に触れ、それらを旧来の韻文形式に盛りこんで詩の近代化に貢献しました。
黄遵憲(1848―1905)は嘉応州(広東省梅県)の人。第一次アヘン戦争が終わった六年後の道光二十八年(1848)に客家(ハッカ)の家に生まれました。光緒元年(1875)、二十八歳のときに挙人にあげられ、科挙に及第して外交官になります。光緒三年(1877・明治十年)、清朝は条約主要国に外交使節を派遣することになり、黄遵憲は最初の駐日公使何如璋(かじょしょう)の参賛(参事官)に任じられ、東京に赴任しました。
五年間の滞日のあと、光緒八年(1882)にサンフランシスコ総領事になって米国に赴任し、駐英参賛官などをへて帰国します。康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)ら変法派の人々と大同思想を鼓吹し、光緒二十四年(1898)六月、戊戌の変法に参画します。保守派のクーデターによって変法が不発に終わると免職になり、故郷に帰って著述に専念しました。清末の詩の改革者の名をえて光緒三十一年(1905)になくなりました。享年五十八歳です。
黄遵憲は日本在任中に書いた詩を、光緒五年(1879)、三十二歳のときに『日本雑事詩』百五十四首にまとめました。のち光緒二十四年(1898)、五十一歳のときに増補改訂版『日本雑事詩』をだし、二百首を収めて完本としています。掲げる詩はそのなかの一首で、富士山を主題とします。
富士山の素晴らしさを褒めたたえており、前半は独立峰としての高さを強調します。承句の「蓮峰」は富士山頂の峰の形で、江戸時代からの喩えです。それが「湧出す 海東の濤」と東の海から湧き出してそこにあるのかと面白い想像をしています。後半は富士山の大きさ、悠久の荘厳さを強調します。「二千五百年前」は皇紀を用いており、国のはじめからといった感じになります。昔からの雪が一面に広がって消えずに残っていると詠います。
日本雑事詩 日本雑事詩
抜地摩天独立高 地を抜き 天を摩(ま)して 独り立つこと高し
蓮峰湧出海東濤 蓮峰(れんぽう) 湧出(ゆうしゅつ)す 海東の濤(なみ)
二千五百年前雪 二千五百年前(まえ)の雪
一白茫茫積未消 一白(いっぱく) 茫茫(ぼうぼう) 積みて未(いま)だ消えず
⊂訳⊃
大地を抜け出て独り 天空に届くほど高く聳える
蓮の花のような峰は 東海の波から湧き出たのか
二千五百年前の雪が いちめんに白く積ったまま
どこまでもつづき 消えないでいる
⊂ものがたり⊃ アヘン戦争は前後二回行われました。一回目は道光二十一年(1841)二月、イギリスへの宣戦布告ではじまり、翌年八月、イギリス艦隊が南京に迫ったことで降伏します。南京条約が結ばれ、香港の割譲、広州・厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の開港などが決定し、不平等条約のもとで門戸を開くことになります。
道光三十年(1850)に道光帝が崩じ、三月に愛新覚羅奕(えきちょ)が即位して咸豊帝となります。そのころ広西では天地会系の結社の反乱が激化していました。広西金田(広西壮族自治区桂平県金田村)で挙兵した拝上帝会の洪秀全(こうしゅうぜん)は、咸豊元年(1851)三月に天王を称し、湖南へむかって進撃を開始します。咸豊三年(1853)三月、南京を占領して天京と改め、太平天国を樹立しました。
洪秀全は五月には北伐の軍を発し、太平天国軍は天津郊外に達しましたが清軍に押しもどされました。しかし、清軍にはそれ以上南進して太平天国を鎮圧する力はありませんでした。曾国藩は母親の喪で故郷の湘郷(湖南省湘郷県)にもどっていたとき太平天国の乱に遭遇します。朝廷の呼びかけに応じて地元で義勇軍を組織し、湖南を奪いかえします。曾国藩の軍は湘軍とよばれ、西から太平天国を攻めました。
このような状勢下、広州でアロー号事件が発生します。咸豊六年(1856)十月、香港船籍のアロー号がアヘン密輸の疑いで官憲の立ちいり検査を受けたとき、イギリス国旗が引き下ろされたというのが口実になり、イギリスはフランスに共同出兵をもちかけ、第二次アヘン戦争(アロー戦争)が勃発します。
英仏連合軍は広州を占領し、海路北上して咸豊八年(1858)五月、天津の大沽(タークー)砲台を占領します。清朝は和平交渉にはいり天津条約が締結されますが、条約批准のために北京にむかっていた英仏米の公使を撃退します。怒った英仏両国は大艦隊を派遣し、咸豊十年(1860)十月、北京に入城して円明園を破壊します。熱河の避暑山荘に避難していた咸豊帝は弟の恭親王奕訢(えききん)を北京に派遣して北京条約が結ばれました。
咸豊十一年(1861)八月、咸豊帝は熱河で崩じ、六歳の皇太子愛新覚羅載淳(さいじゅん)が即位して同治帝になります。同治帝の側近であった粛順が輔相になりますが、十一月に同治帝の生母西太后(せいたいごう)と恭親王奕訢がクーデターを起こし、粛順は処刑されて西太后の垂簾聴政が始まりました。
そのころ太平天国は内部の権力争いを繰り返しながらも江南に進出し、上海を攻めようとしていました。清朝は曾国藩の湘軍を江南にむけようとしましたが、曾国藩は合肥(安徽省合肥市)の李鴻章(りこうしょう)に淮軍を組織させ、上海の救援にあたらせます。太平天国軍は敗れて退き、同治三年(1864)六月、天王洪秀全が病死すると内部分裂を起こし、七月、湘軍が天京に攻めこんで太平天国は滅亡しました。
同治帝の時代は洋務派の時代です。従来「夷務」とよばれていた外交は「洋務」に改められ、外交だけでなく西欧化政策も洋務に含められます。洋務を積極的に推進する者が洋務派であり、その筆頭は淮軍をひきいる李鴻章でした。湘軍は左宗棠(さそうとう)が引きついでおり、かれらは地方の総督に任じられ、任地で兵器工場や艦艇造船所を建設し、軍備の西欧化を推進しました。
同治九年(1870)に李鴻章が直隷総督・北洋大臣に任命されると、洋務運動は軍備の西欧化とともに産業の近代化一般へと拡がっていきます。それまで卑賤な者の生業とされていた商業や生産活動に士大夫階層が乗り出すことになり、近代化がはじまります。日本は同治十年(明治四年)九月に日清修好条規を締結して清と平等な国交を開始します。
同治十三年(1874)、十九歳になっていた同治帝は嗣子のないまま崩じ、十二月に三歳の愛新覚羅載湉(さいてん)が即位して光緒帝となります。載湉は咸豊帝の弟醇親王奕譞(えきけん)の王子で、生母は西太后の妹でした。幼児の甥を皇帝にした西太后の地位は安定し、垂簾聴政は維持されます。
しかし、その時期は清の辺境や隣接国をめぐってイギリス・ロシア・フランス・日本との対立が激化し、戦争に発展する時代でした。黄遵憲(こうじゅんけん)は光緒年間のはじめに外交官になり、日本のほかアメリカ、イギリスで生活しました。海外の新しい思想や文化に触れ、それらを旧来の韻文形式に盛りこんで詩の近代化に貢献しました。
黄遵憲(1848―1905)は嘉応州(広東省梅県)の人。第一次アヘン戦争が終わった六年後の道光二十八年(1848)に客家(ハッカ)の家に生まれました。光緒元年(1875)、二十八歳のときに挙人にあげられ、科挙に及第して外交官になります。光緒三年(1877・明治十年)、清朝は条約主要国に外交使節を派遣することになり、黄遵憲は最初の駐日公使何如璋(かじょしょう)の参賛(参事官)に任じられ、東京に赴任しました。
五年間の滞日のあと、光緒八年(1882)にサンフランシスコ総領事になって米国に赴任し、駐英参賛官などをへて帰国します。康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)ら変法派の人々と大同思想を鼓吹し、光緒二十四年(1898)六月、戊戌の変法に参画します。保守派のクーデターによって変法が不発に終わると免職になり、故郷に帰って著述に専念しました。清末の詩の改革者の名をえて光緒三十一年(1905)になくなりました。享年五十八歳です。
黄遵憲は日本在任中に書いた詩を、光緒五年(1879)、三十二歳のときに『日本雑事詩』百五十四首にまとめました。のち光緒二十四年(1898)、五十一歳のときに増補改訂版『日本雑事詩』をだし、二百首を収めて完本としています。掲げる詩はそのなかの一首で、富士山を主題とします。
富士山の素晴らしさを褒めたたえており、前半は独立峰としての高さを強調します。承句の「蓮峰」は富士山頂の峰の形で、江戸時代からの喩えです。それが「湧出す 海東の濤」と東の海から湧き出してそこにあるのかと面白い想像をしています。後半は富士山の大きさ、悠久の荘厳さを強調します。「二千五百年前」は皇紀を用いており、国のはじめからといった感じになります。昔からの雪が一面に広がって消えずに残っていると詠います。