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ティェンタオの自由訳漢詩 清ー黄遵憲(1)

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 清50ー黄遵憲
    日本雑事詩            日本雑事詩

  抜地摩天独立高   地を抜き  天を摩(ま)して  独り立つこと高し
  蓮峰湧出海東濤   蓮峰(れんぽう)  湧出(ゆうしゅつ)す  海東の濤(なみ)
  二千五百年前雪   二千五百年前(まえ)の雪
  一白茫茫積未消   一白(いっぱく)  茫茫(ぼうぼう)  積みて未(いま)だ消えず

  ⊂訳⊃
          大地を抜け出て独り  天空に届くほど高く聳える

          蓮の花のような峰は  東海の波から湧き出たのか

          二千五百年前の雪が  いちめんに白く積ったまま

          どこまでもつづき    消えないでいる


 ⊂ものがたり⊃ アヘン戦争は前後二回行われました。一回目は道光二十一年(1841)二月、イギリスへの宣戦布告ではじまり、翌年八月、イギリス艦隊が南京に迫ったことで降伏します。南京条約が結ばれ、香港の割譲、広州・厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の開港などが決定し、不平等条約のもとで門戸を開くことになります。
 道光三十年(1850)に道光帝が崩じ、三月に愛新覚羅奕(えきちょ)が即位して咸豊帝となります。そのころ広西では天地会系の結社の反乱が激化していました。広西金田(広西壮族自治区桂平県金田村)で挙兵した拝上帝会の洪秀全(こうしゅうぜん)は、咸豊元年(1851)三月に天王を称し、湖南へむかって進撃を開始します。咸豊三年(1853)三月、南京を占領して天京と改め、太平天国を樹立しました。
 洪秀全は五月には北伐の軍を発し、太平天国軍は天津郊外に達しましたが清軍に押しもどされました。しかし、清軍にはそれ以上南進して太平天国を鎮圧する力はありませんでした。曾国藩は母親の喪で故郷の湘郷(湖南省湘郷県)にもどっていたとき太平天国の乱に遭遇します。朝廷の呼びかけに応じて地元で義勇軍を組織し、湖南を奪いかえします。曾国藩の軍は湘軍とよばれ、西から太平天国を攻めました。
 このような状勢下、広州でアロー号事件が発生します。咸豊六年(1856)十月、香港船籍のアロー号がアヘン密輸の疑いで官憲の立ちいり検査を受けたとき、イギリス国旗が引き下ろされたというのが口実になり、イギリスはフランスに共同出兵をもちかけ、第二次アヘン戦争(アロー戦争)が勃発します。
 英仏連合軍は広州を占領し、海路北上して咸豊八年(1858)五月、天津の大沽(タークー)砲台を占領します。清朝は和平交渉にはいり天津条約が締結されますが、条約批准のために北京にむかっていた英仏米の公使を撃退します。怒った英仏両国は大艦隊を派遣し、咸豊十年(1860)十月、北京に入城して円明園を破壊します。熱河の避暑山荘に避難していた咸豊帝は弟の恭親王奕訢(えききん)を北京に派遣して北京条約が結ばれました。
 咸豊十一年(1861)八月、咸豊帝は熱河で崩じ、六歳の皇太子愛新覚羅載淳(さいじゅん)が即位して同治帝になります。同治帝の側近であった粛順が輔相になりますが、十一月に同治帝の生母西太后(せいたいごう)と恭親王奕訢がクーデターを起こし、粛順は処刑されて西太后の垂簾聴政が始まりました。
 そのころ太平天国は内部の権力争いを繰り返しながらも江南に進出し、上海を攻めようとしていました。清朝は曾国藩の湘軍を江南にむけようとしましたが、曾国藩は合肥(安徽省合肥市)の李鴻章(りこうしょう)に淮軍を組織させ、上海の救援にあたらせます。太平天国軍は敗れて退き、同治三年(1864)六月、天王洪秀全が病死すると内部分裂を起こし、七月、湘軍が天京に攻めこんで太平天国は滅亡しました。
 同治帝の時代は洋務派の時代です。従来「夷務」とよばれていた外交は「洋務」に改められ、外交だけでなく西欧化政策も洋務に含められます。洋務を積極的に推進する者が洋務派であり、その筆頭は淮軍をひきいる李鴻章でした。湘軍は左宗棠(さそうとう)が引きついでおり、かれらは地方の総督に任じられ、任地で兵器工場や艦艇造船所を建設し、軍備の西欧化を推進しました。
 同治九年(1870)に李鴻章が直隷総督・北洋大臣に任命されると、洋務運動は軍備の西欧化とともに産業の近代化一般へと拡がっていきます。それまで卑賤な者の生業とされていた商業や生産活動に士大夫階層が乗り出すことになり、近代化がはじまります。日本は同治十年(明治四年)九月に日清修好条規を締結して清と平等な国交を開始します。
 同治十三年(1874)、十九歳になっていた同治帝は嗣子のないまま崩じ、十二月に三歳の愛新覚羅載湉(さいてん)が即位して光緒帝となります。載湉は咸豊帝の弟醇親王奕譞(えきけん)の王子で、生母は西太后の妹でした。幼児の甥を皇帝にした西太后の地位は安定し、垂簾聴政は維持されます。
 しかし、その時期は清の辺境や隣接国をめぐってイギリス・ロシア・フランス・日本との対立が激化し、戦争に発展する時代でした。黄遵憲(こうじゅんけん)は光緒年間のはじめに外交官になり、日本のほかアメリカ、イギリスで生活しました。海外の新しい思想や文化に触れ、それらを旧来の韻文形式に盛りこんで詩の近代化に貢献しました。
 黄遵憲(1848―1905)は嘉応州(広東省梅県)の人。第一次アヘン戦争が終わった六年後の道光二十八年(1848)に客家(ハッカ)の家に生まれました。光緒元年(1875)、二十八歳のときに挙人にあげられ、科挙に及第して外交官になります。光緒三年(1877・明治十年)、清朝は条約主要国に外交使節を派遣することになり、黄遵憲は最初の駐日公使何如璋(かじょしょう)の参賛(参事官)に任じられ、東京に赴任しました。
 五年間の滞日のあと、光緒八年(1882)にサンフランシスコ総領事になって米国に赴任し、駐英参賛官などをへて帰国します。康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)ら変法派の人々と大同思想を鼓吹し、光緒二十四年(1898)六月、戊戌の変法に参画します。保守派のクーデターによって変法が不発に終わると免職になり、故郷に帰って著述に専念しました。清末の詩の改革者の名をえて光緒三十一年(1905)になくなりました。享年五十八歳です。
 黄遵憲は日本在任中に書いた詩を、光緒五年(1879)、三十二歳のときに『日本雑事詩』百五十四首にまとめました。のち光緒二十四年(1898)、五十一歳のときに増補改訂版『日本雑事詩』をだし、二百首を収めて完本としています。掲げる詩はそのなかの一首で、富士山を主題とします。
 富士山の素晴らしさを褒めたたえており、前半は独立峰としての高さを強調します。承句の「蓮峰」は富士山頂の峰の形で、江戸時代からの喩えです。それが「湧出す 海東の濤」と東の海から湧き出してそこにあるのかと面白い想像をしています。後半は富士山の大きさ、悠久の荘厳さを強調します。「二千五百年前」は皇紀を用いており、国のはじめからといった感じになります。昔からの雪が一面に広がって消えずに残っていると詠います。

 清51ー黄遵憲
   不忍池晩遊 其十五    不忍池 晩遊  其の十五

  山色湖光一例奇   山色(さんしょく)  湖光(ここう)  一例  奇(き)なり
  莫将西子笑東施   西子(せいし)を将(もっ)て  東施(とうし)を笑う莫(なか)れ
  即今隔海同明月   即今(そっこん)  海を隔(へだ)てて明月を同じうす
  我亦高吟三笠辞   我れも亦(ま)た高吟(こうぎん)せん  三笠(みかさ)の辞(じ)

  ⊂訳⊃
          不忍池の山も湖水も  すべてすぐれている

          西湖を持ちだして    東の西湖を笑ってはいけない

          日本にいる私はいま  海を隔てておなじ明月をみている

          ならば私も声高らかに  三笠山を吟じるとしよう


 ⊂ものがたり⊃ 詩は上野の不忍池で夕べの舟遊びをし、地の端の料亭かなにかで宴会があり、その席で披露したものでしょう。十五首連作の最後の一首です。「山色 湖光」は不忍池のまわりの山の風情と池の水面の輝きのこと。「一例」はすべての意味で、どれも「奇」(勝れている)と褒めています。承句はその美しさを杭州の西湖に喩えるもので、「西子」は春秋時代の越の美女西施のこと。西施自体が西湖の喩えです。「東施」は東方の西施という意味で、不忍池のこと。「東施」は「西子」に劣らないと詠います。
 後半は当座の感懐を詠うものです。夜空に月が出ていたのでしょう。故国の人とおなじ月を見ていると望郷の思いをのぞかせます。「三笠の辞」は奈良時代に留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂の望郷の歌「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」のことで、その歌を吟じようといいます。実際に吟じたかもしれませんが、その宴席には日本人も同席していたと思われますので、日中交流のようすが窺われる詩です。

 清52ー黄遵憲
     新聞紙               新聞紙

  一紙新聞出帝城   一紙(いっし)の新聞  帝城(ていじょう)に出(い)で
  伝来令甲更文明   令甲(れいこう)を伝え来たって   更(さら)に文明
  曝簷父老私相語   簷(のきば)に曝(ひなたぼこ)せる父老(ふろう)  私(ひそか)に相語(あいかた)り
  未敢雌黄信口評   未(いま)だ敢(あ)えて雌黄(しこう)  口に信(まか)せて評せず

  ⊂訳⊃
          ひとつの新聞が  帝都にでると

          国の法令を伝え  文明開化の記事を載せる

          日当りのよい軒先で老人が  なにやら語り合っているが

          けっして記事をけなしたり   勝手に批判したりはしないのだ


 ⊂ものがたり⊃ この詩も『日本雑事詩』中の一首で、新聞の役割に言及しています。日本でも新聞は始まったばかりでした。漢詩で「城」というと城壁に囲まれた街の意味になり、「帝城」は首都東京のことです。「令甲」は政令、「文明」は当時流行の文明開化をさし、新聞の役割を端的に詠います。当時の新聞は雑誌に近いスタイルでした。
 後半は日あたりのよい家の軒先で新聞を読んでいる老人を目にしたのでしょう。新聞を手になにやら談笑しています。「雌黄」は黄色の顔料で、中国ではインク消しの役割がありました。だから文の誤りを抹消する意味になります。結句は政府の政策や新聞記事を従順に受けいれている人々といった風刺がこめられているようです。この詩は光緒二十四年の完本では削除され、つぎのように改訂されました。

  欲知古事読旧史   古事(こじ)を知らんと欲せば   旧史(きゅうし)を読め
  欲知今事看新聞   今事(こんじ)を知らんと欲せば  新聞(しんぶん)を看(み)よ
  九流百家無不有   九流(きゅうりゅう)百家(ひゃくか) 有(あ)らざるは無く
  六合之内同此文   六合(りくごう)の内  此の文を同じくせん

  ⊂訳⊃
          昔のことを知りたければ   史書を読むべきだ

          今のことを知りたいなら   新聞を見るがよい

          いまの世の学説や主張は  なんでも備わっており

          やがて世界は  至高の文明論で統合されるであろう


 光緒二十二年(1896)八月、黄遵憲は梁啓超(りょうけいちょう)らと上海で『時務報』を発刊しました。その二年後に改訂された『日本雑事詩』中の「新聞紙」です。新聞は儒学で尊重される「旧史」とならんで重要であると、まず新聞の役割を評価します。「九流百家」はこの世のあらゆる学説や主張のことです。「六合」は宇宙・世界。「此の文」は斯文(しぶん)のことで、聖人君子の教えですが、ここでは文明開化の論をさして至高の教えといっているのです。(2016.9.21)

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー黄遵憲(2)

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 清53ー黄遵憲
   海行雜感十四首 其七    海行雑感 十四首  其の七

  星星世界徧諸天   星星(せいせい)の世界    諸天(しょてん)に徧(あまね)し
  不計三千与大千   計らず  三千と大千(だいせん)と
  倘亦乗槎中有客   倘(も)し亦(ま)た槎(いかだ)に乗り  中(うち)に客(かく)有らば
  回頭望我地球円   頭(こうべ)を回(めぐ)らして  我が地球の円(まど)かなるを望まん

  ⊂訳⊃
          星々の世界は  すべての国の空にひろがる

          世界がどれだけ多かろうと  関係ないのだ

          もし今の世に   筏に乗って空を飛ぶ人がいるとすれば

          頭を回らして   地球が丸いのを眺めるであろう


 ⊂ものがたり⊃ サンフランシスコ総領事になって船でアメリカに赴任する途中、三十五歳のときの作です。前半二句で満天の星空をみての感懐を詠います。「諸天」はすべての国の空でしょう。「三千与大千」は三千大千世界という仏教語を踏まえるもので、あらゆる世界の意味です。転句は晋の張華の『博物誌』に出てくる伝説で、毎月八日になると筏に乗って天の河を旅する人がいるといいます。その話を持ちだし、そんな人がいるならば地球が丸いのを空から眺めることができるだろうと結びます。

 清54ー黄遵憲
    重 霧               重  霧

  碌碌成何事     碌碌(ろくろく)  何事(なにごと)をか成(な)す
  有船吾欲東     船(ふね)有らば  吾(われ)  東(ひがし)せんと欲す
  百憂增況瘁     百憂(ひゃくゆう)  況瘁(きょうすい)を増し
  独坐屢書空     独り坐して  屢々(しばしば)空(くう)に書(しょ)す
  霧重城如漆     霧(きり)重くして  城  漆(うるし)の如く
  寒深火不紅     寒(かん)深くして  火  紅(くれない)ならず
  昂頭看黄鵠     頭(こうべ)を昂(あ)げて黄鵠(こうこく)を看(み)れば
  高挙扶天風     高く挙(あ)がって天風(てんぷう)に扶(よ)る

  ⊂訳⊃
          時は無為に過ぎて  なにを成そうとしているのか
          船があるならば   祖国へ帰りたい
          さまざまな悩みで  やつれはひどくなり
          ひとり坐りこんで   虚空に字を書くだけの毎日だ
          霧は重く立ちこめ  街は漆を塗ったように暗く
          寒さは厳しくて    煖炉の火も赤くならない
          頭を上げて   黄鵠をみると
          高く上がって  天の風に乗っている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「重霧」(ちょうむ)は重く垂れこめる霧。霧の都ロンドンでの感懐です。黄遵憲は四十歳代のはじめロンドンにいて、朝鮮をめぐる日清の紛争を遠くから心配して眺めていました。そのときの心情を反映する作品と思われます。
 はじめの二句はロンドンで空しい日々を過ごしていることを詠い、「東せんと欲す」と東の祖国へ帰りたいといいます。中四句はその理由です。
 「況瘁」はやつれたさま。「空に書す」は南北朝時代の故事を踏まえており、自分にふさわしい地位にいないことの表明です。ついで寒くて暗い秋のロンドンを描きます。「城」は街、「火」は暖炉の火です。結び二句の「黄鵠」は黄色い白鳥のことで、漢代からめでたい鳥として詩に用いられてきました。空飛ぶ鳥をみて、自由への願望をのべるのです。

 清55ー黄遵憲
     哀旅順              旅順を哀しむ

  海水一泓烟九点   海水(かいすい)  一泓(いちおう)  煙九点(きゅうてん)
  壮哉此地実天険   壮(さか)んなる哉(かな)  此の地  実に天険(てんけん)なり
  炮台屹立如虎闞   砲台(ほうだい)  屹立(きつりつ)して  虎の闞(うかが)うが如く
  紅衣大将威望儼   紅衣(こうい)の大将   威望(いぼう)儼(おごそ)かなり
  下有窪池列巨艦   下に窪池(わち)有りて  巨艦(きょかん)を列(つら)ね
  晴天雷轟夜電閃   晴天に雷(いかずち)轟(とどろ)き  夜は電(いなずま)閃(きらめ)く
  最高峰頭縦遠覽   最高峰頭(さいこうほうとう)  遠覧(えんらん)を縦(ほしいまま)にし
  龍旗百丈迎風颭   龍旗(りゅうき)百丈(ひゃくじょう)  風を迎えて颭(ひるがえ)る
  長城万里此為塹   長城万里  此(ここ)に塹(ざん)と為(な)る
  鯨鵬相摩図一啖   鯨鵬(げいほう)相摩(あいま)して  一啖(いったん)を図(はか)る
  昂頭側睨何眈眈   頭(かしら)を昂(あ)げて側(かたわら)より睨(にら)むこと  何ぞ眈眈(たんたん)たる
  伸手欲攫終不敢   手を伸ばして攫(つか)まんと欲するも終(つい)に敢(あえ)てせず
  謂海可塡山易撼   謂(おも)えらく  海  塡(うず)む可(べ)し  山  撼(うご)かし易(やす)し
  万鬼聚謀無此胆   万鬼(ばんき)聚(あつま)り謀(はか)るも  此の胆(たん)無からん  と
  一朝瓦解成劫灰   一朝(いっちょう)にして瓦解(がかい)し  劫灰(ごうかい)と成る
  聞道敵軍蹈背來   聞道(きくな)らく  敵軍は背(はい)を蹈(ふ)んで来たれりと

  ⊂訳⊃
          大海原の彼方に  中国が望まれる
          この地こそ実に  天険というべきだ
          聳え立つ砲台は  身構えている虎のようで
          阿蘭陀の砲には  威厳がある
          したの湾内には  巨大な軍艦がつらなり
          晴れた日に雷鳴  夜には稲妻が煌めく
          最高峰に立てば  遠くまで見わたすことができ
          百丈の黄龍旗は  風をうけて翻る
          万里の長城は   旅順の塹壕であり
          列強は迫って    ひと呑みにしようとする
          間近に頭をあげ  虎視眈眈とねらい
          手を伸ばして    掴みかかろうとするができずにいた
          「海は埋められもしよう   山は動かすこともできよう
          だが謀議を凝らしたとて  攻める勇気はあるまい」と
          甘くみていたら   またたくまに崩れて灰になる
          聞けば敵軍は   背後を突いて攻めてきたそうだ


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「旅順」(りょじゅん)は遼寧省遼東半島先端の旅順口。甲午の役(日清戦争)における旅順口の陥落を嘆く詩です。日本軍は明治二十七年(光緒二十年)十月二十一日に旅順攻撃を開始し、四日後の二十五日には攻略しました。詩は翌光緒二十一年(1895)、四十八歳のときの作です。
 二、六、四、四句にわけて読むことができ、はじめの二句で旅順口が天険の要害であることを詠います。「烟九点」は九州というのとおなじ意味で中国をさします。つづく六句は天険であることに加えて防備も万全であると詠います。
 「紅衣大将」の「紅衣」はオランダ人のことで、明の万暦二十九年(1601)にオランダ船が澳門(マカオ)に到着したとき、船員がみな紅い服を着、髪も髯も赤かったので、オランダ人を紅毛、紅衣(紅夷)とよびました。「大将」は明の崇禎四年(1631)にオランダ式大砲が鋳造され、それを「天佑助威大将軍」と名づけて砲身に刻んだことに由来します。大砲製造の技術は清に伝えられ、オランダ式大砲のことを紅衣の大将といいました。
 「窪池」は湾のことです。旅順口には北洋艦隊の基地があり、「雷」と「電」は艦砲の轟く音と夜間発射の閃光です。「最高峰頭」は旅順口を取り巻く山の峰のことで、そこから遠くまで見わたせ、「龍旗」(清国の軍旗)が風にはためいていたと詠います。
 つぎの四句は列強諸国が旅順口を狙っている状況です。まず、万里の長城は旅順口の塹壕の役割を果たしているといいます。「鯨鵬」は長鯨と大鵬で、列強諸国を意味します。中国をひと呑みにしようと虎視眈眈と窺っており、手を伸ばして掴みかかろうとしますができずにたと詠います。
 つぎの二句は清朝政府の油断の指摘です。「万鬼」は有象無象の鬼たち、洋鬼(ヤンコイ)であり、彼らはよつてたかって謀議を凝らしているが、攻めかかる勇気のある者はいないだろうと思っていたといいます。
 ところが最後の二句。「劫灰」は仏教用語で世界が滅亡するときに起こった劫火の灰のことです。旅順口は「一朝にして瓦解」してしまいますが、聞けば敵が背後を突いて攻めこんで来たそうだと伝聞を伝えます。敵(日本)の卑怯な攻め方によって陥落したといっていますが、伝聞になっているのは外国にいたからでしょう。

 清56ー黄遵憲
    己亥雑詩             己亥雑詩

  我是東西南北人   我れは是(こ)れ東西南北の人
  平生自号風波民   平生(へいぜい)   自(みずか)ら風波(ふうは)の民と号す
  百年過半洲遊四   百年 半(なか)ばを過ぎ  洲(しゅう)は四つに遊び
  留得家園五十春   留(とど)め得たり  家園(かえん)五十の春

  ⊂訳⊃
          私は東西南北を飛びまわってきた男だ

          かねてから自分を  「風波の民」と称している

          一生の半分以上を  四大洲に遊び

          五十歳になってやっと  故郷の春を楽しんでいる


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「己亥」(きがい)は光緒二十五年(1899)、五十二歳のときの作品です。職を免じられて故郷に帰っていたとき、龔自珍と同題で八十八首を詠みました。そのなかの一首です。「東西南北の人」は外交官として東奔西走したことをいいます。「風波」には苦難の時代という意味がこめられています。
 後半二句の「百年」は人の一生の意味です。「洲は四つに遊び」は五大洲のうち大洋洲を除く四大洲に勤務したことです。そしていま五十歳になって、やっと昔のままの故郷の春を楽しんでいると詠います。(2016.9.25)

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー王国維

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 清57ー王国維
     欲 覓                覓めんと欲す

  欲覓吾心已自難   吾(わ)が心を覓(もと)めんと欲するも  已(すで)に自(おのず)から難(かた)し
  更従何処把心安   更に何(いず)れの処(ところ)従(よ)り  心の安きを把(と)らんや
  詩縁病輟弥無頼   詩は病に縁(よ)りて輟(や)め  弥々(いよいよ)頼るもの無く
  憂与生来詎有端   憂(うれ)いは生と与(とも)に来たりて   詎(なん)ぞ端(たん)有らん
  起看月中霜万瓦   起ちて看(み)る  月中(げつちゅう)  霜  万瓦(ばんが)
  臥聞風裏竹千竿   臥(ふ)して聞く   風裏(ふうり)  竹  千竿(せんかん)
  滄浪亭北君遷樹   滄浪亭北(そうろうていほく)   君遷(くんせん)の樹(き)
  何限棲鴉噪暮寒   何限(かげん)の棲鴉(せいあ)  暮寒(ぼかん)に噪(さわ)ぐ

  ⊂訳⊃
          自分の心を尋ね求めるが    そのことがすでに難しい
          これ以上の心の落ち着きを   どこに求めようというのか
          病のために詩作もやめて    いよいよ頼るものもなく
          生きているだけで悩みは湧き  切っかけなどは要らない
          立って見れば  霜が降りたように月下で煌めく無数の瓦
          寝て聞くのは   風に吹かれてざわめくたくさんの竹の音
          滄浪亭の北に  君遷の樹がある
          塒に帰る鴉が  夕暮れの寒さのなかで騒いでいる


 ⊂ものがたり⊃ 光緒九年(1883)、ベトナムを巡って清仏戦争がおこり、翌十年までつづきます。その十二月に朝鮮で甲申政変がおこり、日清両国は朝鮮に出兵しました。光緒二十年(1894・明治二十七年)に日清戦争がはじまりますが、戦ったのは主として李鴻章の淮軍と北洋艦隊でした。翌年四月、日本と李鴻章のあいだで日清講和条約(下関条約)が結ばれます。
 公羊学派の学者であった康有為(こうゆうい)は明治維新を成し遂げた日本の改革に注目し、梁啓超(りょうけいちょう)らと政事改革のための理論に取り組み、しばしば上書して「変法自強」を訴えました。租借という名の領土侵略に危機感を抱いていた光緒帝は、光緒二十四年(1898)六月、「国是を定めるの詔」を下して変法の実施を明らかにし、康有為を総理衙門章京(ジャンチン:大臣補佐)に任命して矢継ぎばやに上諭を公布しました。
 九月七日には変法に批判的であった李鴻章を総理衙門大臣から罷免します。すると保守派は西太后を擁してクーデターを起こし、九月二十一日、光緒帝は幽閉され、康有為と梁啓超は日本へ亡命します。変法自強運動の挫折です。
 光緒二十五年(1899)十二月、山東西部で義和団の乱が発生します。義和団は「扶清滅洋」のスローガンをかかげて翌年四月には天津・北京に迫る勢いになります。清朝は義和団を乱民とみるか義民とみるかで逡巡していましたが、西太后は義和団の排外主義に乗じて列強に宣戦布告をします。しかし、八か国連合軍が北京に入城するにおよんで西太后は光緒帝をともなって西安に逃げ、李鴻章を広州から呼びだして講和を結ばせます。
 光緒二十七年(1901)北京にもどった西太后は光緒の新政と呼ばれる改革に乗り出しました。その内容は二年前にみずから排斥した変法運動を復活させるものでした。軍の近代化がすすめられ、六個師団からなる北洋新軍が編成され、その中心になったのは武衛右軍をひきいる山東巡撫の袁世凱(えんせいがい)でした。この年、李鴻章が死去したので、袁世凱はその後任として北洋大臣・直隷総督に任命され、清朝最大の実力者にのしあがります。
 中国東北部の権益をめぐって日露戦争がはじまるのは、光緒三十年(1904・明治三十七年)二月のことです。清朝は局外中立を宣言し、戦争は日本の勝利に帰して翌年九月、日露講和条約がポーツマスで調印されます。
 日本が大国ロシアに勝利したのは中国にとって驚きでした。日本にならって中国でも欽定憲法を制定し、政事改革を進めるべきであるという声が高まり、光緒三十四年(1908)九月に明治憲法をモデルにした憲法草案が示されました。九年以内に国会を召集することも約束されましたが、その年の十一月十四日に光緒帝が崩じ、つづいて西太后が死去したのです。
 西太后は病に倒れた十三日、光緒帝の弟醇親王載灃(さいほう)の王子愛新覚羅溥儀(ふぎ)を皇太子に指名し、載灃を摂政王に任じました。十二月二日、二歳の溥儀は即位して宣統帝となります。
 清朝が日本へ留学生を派遣するのは日清戦争後の光緒二十二年(1896)からです。王国維(おうこくい)は初期の日本留学生で学者として終始しますが、最後は清朝に殉じて自殺したので清の最後の詩人といえるでしょう。
 王国維(1877―1927)は海寧(浙江省海寧県)の人。光緒三年(1877)に生まれ、光緒二十七年(1901・明治三十四年)、二十五歳のときに来日して物理学を学びます。翌年には帰国し、蘇州で哲学や心理学を講じます。
 宣統三年(1911)、三十五歳のとき辛亥革命に遭遇し、翌民国元年に清は滅亡します。以後、清朝の遺老をもって任じ、羅振玉(らしんぎょく)にしたがって日本に亡命します。京都で古文字学(甲骨文・金文)や中国古代史の研究に従事し、西洋の哲学・文学・美術を学びます。帰国後、清華研究院や北京大学に迎えられましたが、民国十六年(1927)、国民革命軍の北京入城をまえに頤和園の昆明湖に入水して自殺しました。享年五十一歳です。
 詩題の「覓(もと)めんと欲す」は探し求めたい、探しあてたいという心の欲求をいいます。日本留学から帰って江南にいた二十八歳の冬の作品です。中四句二聯の対句を前後の二句で囲む七言律詩で、まず自分の不安な心境から詠いだします。王朝の衰退をまえにして自分はこれからどうしたらいいのか、心の拠りどころさえわからないと詠います。
 中四句のはじめの対句では、その不安定な気持ちをさらに強調します。病気のために詩作もやめてしまった。不安、心配、悩みは、後から後から湧き起こってきます。つぎの対句では視点をかえて叙景に移ります。立ちあがってみると、見えるのは「月中 霜 万瓦」、横になって聞こえるのは「風裏 竹 千竿」であり、情景は蒼然とした心情をうかがわせます。
 最後の二句は結びで、不吉な予感に満ちています。作者は滄浪亭にいて、その北に「君遷の樹」(豆柿の木)が生えています。豆柿は柿科の植物で、君主が遷るという寓意があります。あたりには「何限の棲鴉」(塒に帰ろうとする鴉)が夕暮れの冷えこみのなかでしきりに鳴いています。その声は清朝が瓦解するのではないかという予感、そうした予感を感じる人々のざわめく声のようでもありました。

 清58ー王国維
    観紅葉一首             紅葉を観る 一首

  漫山塡谷漲紅霞   漫山(まんざん)  塡谷(てんこく)  紅霞(こうか)漲(みなぎ)る
  点綴残秋意太奢   残秋(ざんしゅう)を点綴(てんてい)して  意(い)  太(はなは)だ奢(おご)る
  若問蓬萊好風景   若(も)し蓬萊(ほうらい)の好風景(こうふうけい)を問わば
  為言楓葉勝桜花   為に言わん  楓葉(ふうよう)は桜花(おうか)に勝(まさ)ると

  ⊂訳⊃
          山を覆い谷を埋めて  紅の霞が満ちわたる

          晩秋の山野を彩って  まことにあでやかだ

          もしあなたが  蓬萊の国のみどころを尋ねるならば

          楓の紅葉こそ  桜の花にまさるとお答えしよう


 ⊂ものがたり⊃ 辛亥革命のあと日本に亡命して京都に住んでいたときの作です。秋の紅葉の美に心をうたれて、宴会の席かそれに類する場で披露したものでしょう。はじめの二句は「漫山 塡谷」、山や谷を埋めつくす紅葉を「紅霞漲る」と詠い、「意 太だ奢る」とほめます。「奢る」は艶やかさが目立つという意味です。
 後半二句は感懐で、「蓬萊」は中国の東の海にあるという伝説の島。仙人の棲みかとされますが、ここでは日本をさします。日本の景色のみどころはどこかと尋ねられたら、楓(かえで)の紅葉こそ桜の花にまさると答えましょうと詠います。(2016.9.27)

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー魯 迅

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 清59ー魯 迅
    自題小像              自ら小像に題す

  霊台無計逃神矢   霊台(れいだい)  神矢(しんし)を逃るるに計(けい)無く
  風雨如磐闇故園   風雨  磐(いわお)の如くにして故園(こえん)を闇(やみ)とす
  寄意寒星荃不察   意を寒星(かんせい)に寄(よ)するも  荃(せん)  察せず
  我以我血薦軒轅   我れは我が血を以って  軒轅(けんえん)に薦(すす)めん

  ⊂訳⊃
          祖国は異国の攻撃を逃れる策もないままに

          風雨は岩のように押し寄せて  国は闇となる

          朝廷の要人に期待をよせるが  皇帝陛下はお察しにならない

          ならば私は自分の血を流して  黄帝に捧げよう


 ⊂ものがたり⊃ 西太后を失った清朝は、もはや旧来の専制主義を維持できませんでした。清の支配は急速に揺らぎ、革命派の動きが活発になります。宣統三年(1911)十月十日、武昌(湖北省武漢市武昌区)の新軍将兵が蜂起すると、報せは中国全土に伝わり、各地で革命派や新軍が反乱を起こして十三の省が独立を宣言しました。この事態に中央政府はなす術もなく、遠ざけていた袁世凱を北京によびもどして欽差大臣に任じ、十一月には親貴内閣を廃止して、袁世凱を内閣総理大臣に任命しました。
 孫文はそのころ国外で革命運動を指揮していましたが、十二月二十一日に香港に到着し、二十五日には上海で熱烈な歓迎をうけます。翌民国元年(1912)正月元日、孫文は南京で中華民国の建国を宣言し、みずから臨時大総統に就任します。しかし、中国の現状からして内戦は避けるべきと考え、「清帝が退位して、袁世凱が共和制に賛成するのであれば、臨時大総統の地位を袁に譲ってもよい」との声明を発表しました。袁世凱は光緒帝の皇后を説得して、二月十二日に宣統帝の退位が発表されます。
 清朝は時代の風雨のなかで倒れた老木といってよく、秦の始皇帝以来二千年にわたってつづいた専制王朝の終焉でもありました。だが、袁世凱は共和制への移行を推進せず、中華民国の動乱がはじまります。軍閥抗争の時代に文筆活動を始めた魯迅(ろじん)は、中国近代文学の第一人者になりますが、清末には国を憂える一人の若者でした。
 魯迅(1881―1936)は本名を周樹人(しゅうじゅじん)といい、紹興(浙江省紹興市)の人です。光緒七年(1881)に生まれ、生家は裕福な官家でしたが幼少のころには没落していました。光緒二十八年(1902・明治三十五年)、二十二歳のときに国費留学生として来日し、仙台医学専門学校に学びます。在学中に文学を志すようになり、宣統元年(1909)に帰国して故郷の紹興で教師になります。
 三十一歳のとき武昌蜂起がおこりますが、紹興の政事になんの変化もなく、翌民国元年に紹興をでて北京の教育部社会教育課長になります。民国七年(1918)六月、雑誌『新青年』に「狂人日記」を発表し、翌年には「孔乙己(コンイーチー)」「薬」を発表、中国人の暗部をえぐりだします。
 北京大学の非常勤講師であった民国十年(1921・大正十年)に代表作「阿Q正伝」を発表、中国社会のゆがみに切りこんでいきます。北京女子師範の非常勤講師をしていた民国十五年(1926・大正十五年)三月十八日、連合国の内政干渉に憤激した学生が天安門広場で抗議集会をひらき、軍隊が発砲して三・一八事件がおきました。進歩的知識人への圧迫も強まり、魯迅は家族を北京にのこし、前年に知りあった女子大生の許広平(きょこうへい)らと北京を離れ、九月に厦門(アモイ)大学に身をよせます。
 ほどなく広州の中山大学に移りますが、民国十六年(1927)四月十二日に上海でおこった共産党弾圧事件が広州に波及し、左派学生の逮捕や大学職員の罷免がおこります。それに反対した魯迅は辞表を提出し、九月に許広平と上海の共同租界に移りました。許広平とのあいだには息子周海嬰(かいえい)が生まれていました。魯迅は国民党政権と対立し、南京政府の追及を避けながら文筆活動をつづけ、民国二十五年(1936・昭和十一年)に上海でなくなります。享年五十六歳です。
 詩題の「小像」は肖像写真のことです。日本に留学していた二十三歳のとき、自分の写真に詩を書きつけました。前半二句は中国の現状描写です。「霊台」は周の辟雍(へきよう:神宮)に付設されていた建物で、転じて祖国をあらわします。「神矢」は異国の神が放つ矢のことで、具体的には西欧諸国の侵略行為でしょう。「風雨」は困難や逆境の喩えで、岩のように押しよせる苦難に「故園」(故郷・祖国)は闇に閉ざされていると詠います。
 後半では自分の心境と決意をのべます。「寒星」は『楚辞』にもとづく語で賢臣を意味し、「荃」も『楚辞』にもとづく語で皇帝をいいます。つまり皇帝陛下や朝廷は頼みにならない。だから自分は自分自身の血を注いで祖国の神に捧げようと結ぶのです。「軒轅」は黄帝のことで、漢民族の祖神として崇められていました。

 清60ー魯 迅
     自 嘲                  自ら嘲る

  運交華蓋欲何求   運(うん)  華蓋(かがい)に交わりて  何(なに)をか求めんと欲する
  未敢翻身已碰頭   未(いま)だ敢て身を翻(ひるがえ)さざるに  已(すで)に頭(こうべ)を碰(う)つ
  破帽遮顔過鬧市   破帽(はぼう)   顔(かんばせ)を遮(さえぎ)って鬧市(どうし)を過ぎ
  漏船載酒泛中流   漏船(ろうせん)  酒を載(の)せて中流に泛(うか)ぶ
  横眉冷対千夫指   眉(まゆ)を横たえて冷やかに対す  千夫(せんぷ)の指
  俯首甘為孺子牛   首(こうべ)を俯(ふ)して甘んじて為(な)る  孺子(じゅし)の牛
  躱進小楼成一統   小楼に躱(のが)れ進みて一統(いっとう)を成(な)さん
  管牠冬夏与春秋   牠(か)の冬夏(とうか)と春秋(しゅんじゅう)とに管(かん)せんや

  ⊂訳⊃
          私は華蓋の運に出あって  なにをしようしているのか
          進む方向を変えない内に  頭をぶつけてしまったようだ
          敗れた帽子で顔を隠し   繁華な街を通り抜けるような
          破れた船に酒を載せて   流れに浮かぶような日々だった
          これからは眉をあげて    冷静に千人の敵にむかいあい
          謙虚な態度で子供と遊び  牛の役目も喜んでつとめよう
          小さな家に身を隠して    一家の者をまもり
          季節の移ろい世の変化に  かかわり合うのはやめにしよう


 ⊂ものがたり⊃ 詩題「自嘲」はみずからを嘲ることです。亡くなる四年前、民国二十一年(1932)の作品です。上海に移って五年目、魯迅は五十二歳になっていました。前年九月に満洲事変が起こり、南京の蒋介石は東北軍閥の張学良に隠忍自重を求めました。つづくこの年の一月に上海事変がおこり、魯迅の書斎にも弾丸が飛来し、家族とともに内山書店に避難しました。三月には満洲国が建国します。
 七言律詩のはじめ二句は現在の心境です。「華蓋」は占星術の用語で、僧侶にめぐりあうと栄達するが凡人にであうと八方塞がりになる星です。まだ進路を変えようとしないうちに「碰頭」(頭打ち)になると詠います。
 中四句二聯の対句のはじめ二句は、これまでの不安定な生活を総括します。比喩をもちいて描いていますが、国民党政権の追及を逃れて暮らす日々でした。つづく対句は今後の生き方についての抱負です。「千夫の指」は千人の人の指、多くの敵のことです。「孺子の牛」は子供の遊び相手の牛で、わが子と遊ぶとき牛になって子供を喜ばせてやろうといいます。逃げ隠れせずに論戦し、家庭ではよい父親になろうと詠うのです。
 最後の二句では今後の生き方について重ねてのべ、「牠の冬夏と春秋とに管せんや」と結びます。「冬夏」は季節の移りかわり、「春秋」は史書の『春秋』をさし、時代の変転です。「牠の……に管せんや」と詠い、悠然とした生き方をしようといっていますが、満洲の成りゆきに失望を隠せない魯迅です。(2016.9.29)

     ※ 以上で、清代を終わります。閲覧ありがとうございました。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧103ー106

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 杜牧ー103
     秋浦途中               秋浦の途中

  蕭蕭山路窮秋雨   蕭蕭(しょうしょう)たり  山路(さんろ)   窮秋(きゅうしゅう)の雨
  浙浙渓風一岸蒲   浙浙(せきせき)たり  渓風(けいふう)  一岸(いちがん)の蒲(がま)
  為問寒沙新到雁   為(ため)に問う  寒沙(かんさ)  新たに到れる雁(がん)に
  来時還下杜陵無   来たる時  還(は)た杜陵(とりょう)に下りしや無(いな)やと

  ⊂訳⊃
          山路に  晩秋の雨は降りやまず

          谷風は  岸辺の蒲に寂しげに吹く

          寒い水辺の砂浜に  降りたばかりの雁たちよ

          ここへ来るときに   わが杜陵に寄ってきたのか


 ⊂ものがたり⊃ 不満ではあっても官吏の身、告身(辞令書)にさからうことはできません。杜牧は任地に赴かざるを得ず、すぐに黄州を発ちます。詩題の「秋浦」(しゅうほ)は池州の治所のある秋浦県のことで、池州に赴任する途中の作です。
 「山路」を越えてゆくのは、大別山南麓の丘を越えてゆくのでしょう。やがて水辺に到着し、岸辺の砂浜に降り立った雁に、都に立ち寄ってきたのかと問いかけます。「杜陵」は長安の東南郊外にあって、京兆府の杜氏の本拠の地です。杜牧は岸辺の雁にことよせて、都への恨みの言葉をつぶやくのでした。

 杜牧ー104
   哭李給事中敏         李給事中敏を哭す

  陽陵郭門外     陽陵(ようりょう)   郭門(かくもん)の外
  坡陁丈五墳     坡陁(はた)たり   丈五(じょうご)の墳(ふん)
  九泉如結友     九泉(きゅうせん)  如(も)し友を結ばば
  茲地好埋君     茲(こ)の地  君を埋(うず)むるに好(よろ)し

  ⊂訳⊃
          陽陵県城の門外に

          小さな盛土   一丈五尺の墓がある

          あの世で君が  誰かと友になるのなら

          朱雲と一緒に  葬ってこそ似つかわしい


 ⊂ものがたり⊃ 杭州刺史の李中敏(りちゅうびん)が任地で亡くなったという報せを聞いたのは、このころのことでしょう。李中敏は杜牧が江西観察使沈伝師(しんでんし)に仕えていたころの同僚で、文宗側近の鄭注(ていちゅう)を批判して職を免ぜられたほどの硬骨漢でした。
 甘露の変後、赦されて尚書省吏部の司勲員外郎に召され、累進して門下省の給事中に登用されましたが、そこでまた宦官の仇士良(きゅうしりょう)と衝突しました。左遷されて婺州(ぶしゅう:浙江省金華市)刺史から杭州刺史になっていましたが、任地で没してしまいました。
 詩中にある「陽陵」は平陵のあやまりで、漢代の朱雲(しゅうん)の墓は昭帝の平陵のほとりにありました。朱雲は権勢を恐れなかったことで有名な人物でしたので、その近くに葬るのがふさわしいと、李敏中の死を悼むのでした。

 杜牧ー105
   江上雨寄崔碣        江上の雨 崔碣に寄す

  春半平江雨     春の半(なか)ば  平江(へいこう)に雨ふり
  円文破蜀羅     円文(えんぶん)  蜀羅(しょくら)を破る
  声眠篷底客     声は篷底(ほうてい)の客を眠らせ
  寒湿釣来蓑     寒さは釣来(ちょうらい)の蓑(みの)を湿(うるお)す
  暗澹遮山遠     暗澹(あんたん)として 山を遮(さえぎ)りて遠く
  空濛着柳多     空濛(くうもう)として   柳に着(つ)いて多し
  此時懐一恨     此の時  一恨(いっこん)を懐(いだ)く
  相望意如何     相望む  意(こころ)は如何(いかん)と

  ⊂訳⊃
          春の半ば   満ちて流れる長江の
          水の面に   雨は蜀羅の波紋を描く
          雨の音は   篷の客の眠りをさそい
          冷たい雨は  釣りびとの蓑に沁みいる
          小暗い雨で  遠くに山はかすんでみえ
          霧雨は    岸の柳をしとどに濡らす
          そのときひとつ  無念の思いが湧いてきた
          心境はいかんと  遠くにあなたを望み見る


 ⊂ものがたり⊃ 池州に赴任して明けた会昌五年(845)、春を迎えた杜牧はしきりに人恋しい気持ちになっていたようです。崔碣(さいけつ)という友人に詩を送っています。崔碣はそのころ長安にいて中書省右拾遺(従八品上)の任にありました。
 杜牧は霧雨の降るあたりの風景に託して、自分の淋しい思いを詠っています。「此の時 一恨を懐く」と痛烈な一句を挟んでいますが、「一恨」は思うように任用されない恨みでしょう。しかし、結びは静かに、いかかがですかと相手の心境を問いかけています。

 杜牧ー106
    池州清渓              池州の清渓

  弄渓終日到黄昏   渓(けい)に弄(あそ)びて終日  黄昏(こうこん)に到る
  照数秋来白髪根   照らして数(かぞ)う  秋来(しゅうらい)  白髪(はくはつ)の根(こん)
  何物頼君千遍洗   何物か君に頼りて  千遍(せんぺん)洗わるる
  筆頭塵土漸無痕   筆頭(ひっとう)の塵土(じんど)  漸く痕(あと)無し

  ⊂訳⊃
          終日 清渓に遊び  黄昏どきになった

          秋に増えた白髪を  水鏡で数える

          清渓が清めてくれたもの  それは何であったろうか

          筆先についた穢れ それもようやく消え去った


 ⊂ものがたり⊃ そのころ江南では、江賊の害が目立つようになっていました。江賊とは二、三艘の舟に分乗して江上を移動する群盗で、当時盛んになりはじめていた江淮の草市(そうし)を襲いました。草市は水陸交通の要衝に発生した小さな市(いち)で、それまで城内の市に限られていた交易の場所が城外の地にひろがって町を形成するようになっていたのです。草市には富商、大戸と称される者も肆(みせ)を出すようになり、江賊の的になっていました。
 杜牧は「李太尉に上りて江賊を論ずる書」を上書し、兵船をととのえて治安を安定させるべきであると進言しました。しかしそのころ、長安では武宗の廃仏騒動の最中で、李徳裕は江賊どころではありませんでした。武宗は会昌元年(841)に道士を宮中に入れ、道教に帰依するようになっていましたが、次第に道教以外の宗教を弾圧するようになり、会昌五年(845)七月には廃仏は最高潮に達していました。廃された寺院は四千六百寺、還俗させられた僧尼は二十六万五百人に及んだといいます。
 こうした状況のもと、杜牧の「江賊を論ずる書」は問題にもされず葬り去られます。詩題の「池州の清渓」は池州の壁下を流れる川で、九華山の西から出て西北に流れ、秋浦水と合して長江に注ぎます。杜牧は増えた白髪に苦笑しながら、「筆頭の塵土 漸く痕無し」とあきらめの境地を詠います。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧107ー110

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 杜牧ー107
    独 酌               独  酌

  窗外正風雪     窓外(そうがい)  正(まさ)に風雪(ふうせつ)
  擁炉開酒缸     炉(ろ)を擁して  酒缸(しゅこう)を開く
  如何釣船雨     如何(いずれ)ぞや  釣船(ちょうせん)の雨
  篷底睡秋江     篷底(ほうてい)  秋江(しゅうこう)に睡(ねむ)るに

  ⊂訳⊃
          窓の外は  大嵐

          炉端で酒を飲むことと

          雨降る秋の江上の  舟の苫屋で眠ること

          いずれが勝っているだろうか


 ⊂ものがたり⊃ 詩中の「風雪」は国字(こくじ)の嵐のことで、必ずしも雪が降っているわけではありません。詩は秋の作で、「窓外 正に風雪」は廃仏のあらしのことであるとも言えるでしょう。秋の夜に杜牧は炉端の酒と釣舟の苫屋の眠りとを比べていますが、答えは次回の同題の詩に示されています。

 杜牧ー108
    独 酌               独  酌

  長空碧杳杳     長空(ちょうくう)  碧(みどり)杳杳(ようよう)たり
  万古一飛鳥     万古(ばんこ)   一飛鳥(いちひちょう)
  生前酒伴閑     生前(せいぜん)  酒  閑(かん)に伴(ともな)う
  愁酔閑多少     愁(うれ)い酔えば  閑は多少(いくばく)ぞ
  烟深隋家寺     烟(けむり)は深し  隋家(ずいか)の寺
  殷葉暗相照     殷葉(あんよう)   暗(ひそ)かに相照らす
  独佩一壷遊     独り一壷(いっこ)を佩(お)びて遊べば
  秋毫泰山小     秋毫(しゅうごう)  泰山(たいざん)を小なりとす

  ⊂訳⊃
          大空は碧く  澄み切って奥深い
          万古千秋は  鳥のように飛び去る
          暇があれば  酒を相手の暮らしだが
          憂さ晴らし   閑雅とはほど遠い
          隋の寺に   霞が立ちこめ
          紅葉は  いつしか私に照り映える
          ひと壷の酒を携え  ひとり歩けば
          泰山も  秋毫よりは軽いと思う


 ⊂ものがたり⊃ 勝負の軍配は酒にあがり、「秋毫 泰山を小なりとす」と持ち上げています。この句は『荘子』を踏まえており、天下に秋毫(秋に生え変わる細い獣毛)よりも大きいものはなく、泰山も小さいと言っています。
 杜牧は「独酌」という詩題を好んでいるようですが、州へは妻子とともに赴任してきていますので、独身ではありません。心から語り合える友がいないという意味です。隠者への思いも心をよぎりますが、廃仏の嵐も届かない江南で、州刺史杜牧は孤独を酒に紛らして過ごす毎日であったようです。
 「隋家の寺」は隋代創建の古い寺でしょう。廃仏は華北ではかなり広範囲に行われたようですが、江南の寺にまでは及んでいなかったようです。

 杜牧ー109
   九日斉山登高           九日 斉山に登高す

  江涵秋影雁初飛   江(こう)は秋影(しゅうえい)を涵(ひた)して  雁(がん)初めて飛び
  与客携壷上翠微   客と壷を携(たずさ)えて  翠微(すいび)に上る
  塵生難逢開口笑   塵生(じんせい)  逢い難し 口を開いて笑うに
  菊花須插満頭帰   菊花(きくか)  須(すべか)らく満頭(まんとう)に挿(さしはさ)みて帰るべし
  但将酩酊酬佳節   但(た)だ酩酊を将(も)って   佳節(かせつ)に酬(むく)いん
  不用登臨恨落暉   用(もち)いず  登臨(とうりん)して落暉(らくき)を恨むを
  古往今来只如此   古往(こおう)今来(こんらい)  只(た)だ此(か)くの如し
  牛山何必独霑衣   牛山(ぎゅうざん)  何ぞ必ずしも  独り衣(ころも)を霑(うるお)さん

  ⊂訳⊃
          秋景色を映して川は流れ  初雁も飛んできた
          客といっしょに酒壷をさげ  小高い山に登る
          人の世に  心から笑えるときはめったになく
          今日こそは頭一杯  菊をかざして帰ろうではないか
          折角の節句の日だ  おおいに飲んで酩酊し
          高い処で  沈む夕陽を嘆くのはよそう
          人生とは  昔も今もこんなもの
          牛山で衣をぬらした君公の  涙のあとは辿るまい


 ⊂ものがたり⊃ 寂しい心境の晩秋九月、丹陽(江蘇省丹陽県)に住む張祜(ちょうこ)が杜牧を訪ねてきました。丹陽は潤州の南、運河に沿った町です。張祜は杜牧よりも十二、三歳年長で、詩才を謳われて穆宗の長慶年間に都に上りましたが、任用されず、以来、丹陽に隠棲して処士でした。
 詩題の「九日」(きゅうじつ)は九月九日の重陽節のことで、二人は「斉山」(せいざん)に登ります。杜牧は心を許し合える友の来訪に久し振りにうきうきとして、歓びの詩を詠います。斉山は池州城の東南郊にあった高さ二十八丈(約87m)の小高い丘で、斉の山ではありません。逆に「牛山」は斉の都臨淄の南にあった山です。
 春秋時代、斉の景公は牛山に登って国見をしました。そのとき、なぜこの美しい国土を残して死んでいかなければならないのかと、人生の無常を嘆いたといいます。杜牧は景公の故事を引いて、人生を嘆きながら過ごすのはよそうと言っています。「登高」(とうこう)して酒を飲み、人生を語り合ったとき、杜牧はむしろ自戒の言葉として、この句を入れたような気がします。

 杜牧ー110
   登池州九峯楼寄張祜    池州の九峰楼に登りて張祜に寄す

  百感中来不自由   百感  中(うち)より来たりて  自由ならず
  角声孤起夕陽楼   角声(かくせい)孤(ひと)たび起こる  夕陽(せきよう)の楼
  碧山終日思無尽   碧山(へきざん)  終日  思い尽くること無く
  芳草何年恨即休   芳草(ほうそう)  何(いず)れの年か  恨み即ち休(や)まん
  睫在眼前長不見   睫(まつげ)は眼前に在れども  長(つね)に見えず
  道非身外更何求   道は身外(しんがい)に非(あら)ざれば  更に何(いずく)にか求めん
  誰人得似張公子   誰人(たれひと)か似たるを得ん  張公子(ちょうこうし)に
  千首詩軽万戸侯   千首の詩は軽(かろ)んず  万戸(ばんこ)の侯(こう)を

  ⊂訳⊃
          様々に憶いは溢れて  どうしようもない
          夕陽に映える九峰楼  角笛は鳴りわたる
          碧山に隠れ棲む君を  終日思いつづけ
          香り草の恨みは     何時になったら消えるのだろうか
          目の前に睫はあるが  見ることはできず
          真理はこの身にあり  外に求める必要はない
          いったい貴君を  誰と比べられようか
          万戸の侯よりも  詩を重んずる生き方よ
              
            
 ⊂ものがたり⊃ この詩は張祜(ちょうこ)が池州(ちしゅう)を訪ねてきたあと、張祜に送った詩とされています。詩題にある「九峯楼」(きゅうほうろう)は池州城の東南隅にあった城楼で、日暮れになると刻(とき)を告げる角笛を鳴らしました。
 「芳草」は屈原が楚辞のなかでしばしば用いる比喩で、世に隠れ住む才能、もしくは貞臣(正しい心を持った臣下)などをいいます。「何れの年か 恨み即ち休まん」と言っていますので、ここでの芳草は杜牧自身のことでしょう。張祜も芳草に比すべき人で、「千首の詩は軽んず 万戸の侯を」と、世俗を捨てて詩作に打ち込んでいる張祜の孤高の生き方を、比べることのできない生き方であると褒めています。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧112ー116

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 杜牧ー112
   題池州貴池亭           池州の貴池亭に題す

  勢比凌歊宋武台   勢いは比(ひ)す  凌歊(りょうきょう)  宋武(そうぶ)の台
  分明百里遠帆開   分明(ぶんめい)に  百里  遠帆(えんぱん)開く
  蜀江雪浪西江満   蜀江の雪浪(せつろう)  西江(せいこう)に満ち
  強半春寒去却来   強半(きょうはん)   春寒(しゅんかん)  去りて却(ま)た来たる

  ⊂訳⊃
          貴池亭の眺めは  宋の武帝の凌歊台に劣らず

          百里彼方の舟の帆も  はっきりと見分けられる

          蜀江の逆巻く流れは  眼下の長江に満ちて

          はつ春の寒さが  ぶり返してきたようだ


 ⊂ものがたり⊃ 詠われている「貴池亭」(きちてい)は、昨年秋に張祜(ちょうこ)と登った斉山の頂きにある亭です。そこからは長江の流れを望むことができ、長江は池州の西を東北方向に流れていますので「西江」とも言うのです。
 この冬は特に寒かったらしく、蜀(しょく)の雪山から流れて来る雪解け水は冷たく、仲春の二月というのに初春の寒さがぶり返してきたようでした。春になっても寒々とした暮らしに、杜牧の気分は晴れることがありません。

 杜牧ー113
   春末題池州弄水亭     春末 池州の弄水亭に題す

  使君四十四     使君(しくん)は 四十四
  両佩左銅魚     両(ふたた)び左銅魚(さどうぎょ)を佩(お)ぶ
  為吏非循吏     吏(り)と為(な)るも  循吏(じゅんり)に非(あら)ず
  論書読底書     書を論ずるも  底(なん)の書をか読む
  晩花紅艶静     晩花(ばんか)  紅艶(こうえん)静かに
  高樹緑陰初     高樹(こうじゅ) 緑陰(りょくいん)初(はじ)まる
  亭宇清無比     亭宇(ていう)  清きこと比(たぐい)無く
  渓山画不如     渓山(けいざん)  画(え)も如(し)かず
  嘉賓能嘯詠     嘉賓(かひん)  能(よ)く嘯詠(しょうえい)し
  官妓巧粧梳     官妓(かんぎ)  巧(たく)みに粧梳(しょうそ)す
  逐日愁皆砕     日を逐(お)って   愁い皆(みな)砕け
  随時酔有余     時(とき)に随って  酔うこと余り有り
  偃須求五鼎     偃(えん)は須(すべか)らく五鼎(ごてい)を求むべく
  陶祗愛吾廬     陶(とう)は祗(た)だ吾(わ)が廬(ろ)を愛するのみ
  趣向人皆異     趣向(しゅこう)は  人(ひと)皆(みな)異(こと)なれり
  賢豪莫笑渠     賢豪(けんごう)   渠(かれ)を笑うこと莫(な)かれ

  ⊂訳⊃
          刺史のわたしは  四十四歳
          左銅魚を佩びて  二度の勤めだ
          役人になったが  循吏でもなく
          書を読んだが   いったい何処を読んだのか
          遅咲きの花は   赤くあでやかに咲き
          大木は   茂った葉で木蔭をつくる
          弄水亭は  類いまれな清らかさ
          山も川も  絵のように美しい
          客たちは  巧みに詩を詠い
          妓女達は  みやびやかに粧い侍る
          愁いは   日ごとに消え去り
          飲む酒は  いつでも酔うのに充分だ
          主父偃は  ひたすら出世を求めたが
          陶淵明は  閑雅な廬の日々を愛した
          好みはそれぞれ違っているが
          賢明な諸公よ  彼らを笑ったりしないでくれ


 ⊂ものがたり⊃ 会昌六年(846)の春、杜牧は四十四歳になっていました。詩題に「春末」(しゅんまつ)とあるのは春三月のことで、「弄水亭」(ろうすいてい)は杜牧が池州城通遠門(南門)外の景勝の地に建てた亭台です。
 詩はこの亭の壁に書きつけたもので、「吏と為るも 循吏に非ず 書を論ずるも 底の書をか読む」と謙遜とも自嘲ともつかない詠い方をしています。とはいっても、地元の客を呼んで新亭を披露したときの詩ですので、「亭宇 清きこと比無く」と褒めています。
 後半の八句は宴のようすです。「官妓」は州の役所に所属する妓女のことで、州刺史は個人的とみられる遊宴の場に、官の妓女を侍らすことができました。「偃」は漢の武帝時代の主父偃(しゅほえん)のことで、ひたすら功名富貴を追い求めたと言われています。「陶」は東晋末の陶淵明(とうえんめい)のことで、有名ですので説明の必要はないでしょう。杜牧は対照的な生き方の二人を挙げて「趣向は 人皆異なれり 賢豪 渠を笑うこと莫かれ」と、酒宴の場らしく洒落のめして結んでいます。
 不遇ではありますが、杜牧は何といっても唐代の貴族です。素顔がのぞいても責めることはできないでしょう。杜牧は池州刺史のころ侍妾をかかえていたらしいことも伝えられています。杜荀鶴(とじゅんかく)は唐末から五代にかけての詩人ですが、池州石埭(せきたい:安徽省太平県)の生まれとされています。伝えでは杜牧が池州にいたときの侍妾の子で、侍妾は子が生まれる前に州人の杜筠(といん)という者に嫁し、杜荀鶴は杜筠の子として生まれたといいます。杜牧が聖人君子でなかったことは確かです。

 杜牧ー115
    新定途中              新定の途中

  無端偶効張文紀   端(はし)無くも偶(たま)たま効(なら)う  張文紀(ちょうぶんき)
  下杜郷園別五秋   下杜(かと)の郷園  別るること五秋(ごしゅう)
  重過江南更千里   重ねて江南を過ぐ  更に千里
  万山深処一孤舟   万山(ばんざん)の深き処  一孤舟(いちこしゅう)

  ⊂訳⊃
          はからずも  張文紀をまねてしまった

          古里の下杜を離れて  はや五年

          江南を過ぎ  千里の旅を重ねている

          無数の山々  深い谷 心に沁みいる孤独の舟


 ⊂ものがたり⊃ 弄水亭の披露も済み、春三月も過ぎようとするころ、都で異変が起きました。不老長生の仙薬を飲み過ぎたのがもとで、武宗が亡くなったのです。皇太子が即位して宣宗となりますが、皇太子といっても宣宗は武宗の祖父憲宗の十三番目の子で、穆宗の弟になります。皇位が叔父に移ったわけで、正常な継承ではありません。
 宣宗も宦官が擁立した天子で、当然に政変が起こります。廃仏の責任を問われた李徳裕は四月に失脚し、荊南節度使に貶され、牛党の翰林学士承旨白敏中(はくびんちゅう)が登用されます。牛党の牛僧孺と李宗閔は貶謫地から都に近い任地に移されますが、中途半端な異動です。二人はすでに高齢で、世代交替が明瞭です。
 杜牧は新しい人事をみて、悪い予感を覚えました。果せるかな九月になると、杜牧のもとに睦州(ぼくしゅう)刺史に任ずる告身(辞令書)が届きます。杜牧が李徳裕に送ったさまざまな提言が、李党への加担、牛党への裏切りと目されたのは明らかでした。
 転任地の睦州(浙江省建徳市梅城県)は、杭州から浙江を南に百八十里(約100km)ほど遡ったところにあります。南は閩地(びんち)につらなる僻遠の地です。杜牧は流刑になったような気持ちで告身を受けたでしょう。
 会昌六年(846)冬十月、杜牧は池州を発って長江を下り潤州に停泊します。そこから少しまわり道をして揚州に行き、弟杜(とぎ)を見舞いました。しかし、盲目の弟と語り合う言葉もなく、在り来たりの慰めの言葉を残して別れたでしょう。睦州へは運河を南下して杭州に着き、そこからさらに浙江を南へ遡ってゆくのです。
 詩題の「新定」(しんてい)は睦州の郡名で、「張文紀」は後漢の張綱のことです。張綱は侍御史として在任していたとき、外戚で権勢者の大将軍梁冀(りょうき)兄弟を弾劾しました。しかし、順帝に聴き入れられず、広陵の太守に左遷されます。「端無くも偶たま効う」は思いがけず同じ轍を踏んでしまったという意味で、杜牧は自分を張綱にたとえて後悔しています。
 都を出て五年になるというのに、江南の中でも最南端の睦州に赴くはめになった。そのことを嘆きながら、冬の船上で身に沁みるのはどうしようもない孤独感です。

 杜牧ー116
      雨                 雨

  連雲接塞添迢逓   雲に連なり塞(とりで)に接して  迢逓(ちょうてい)を添え
  灑幕侵灯送寂寥   幕に灑(そそ)ぎ灯(ともしび)を侵して  寂寥(せきりょう)を送る
  一夜不眠孤客耳   一夜  眠らず  孤客(こかく)の耳
  主人窓外有芭蕉   主人の窓外に  芭蕉(ばしょう)有り

  ⊂訳⊃
          雨は雲に連なって辺塞につづき  故郷はいよいよ遠ざかる

          降りこむ雨に灯は陰り  わびしい旅心が湧いてくる

          耳にまつわる雨の音   眠れないまま夜はあけ

          窓辺に近く  芭蕉の茂る宿だった


 ⊂ものがたり⊃ この詩も睦州へ赴任する途中の作でしょう。「塞」は辺塞であり、国境の意味もあります。雨は船の帳幕のあたりまで降り込み、灯火も消えそうです。物淋しい冬の旅、眠れない一夜を明かすと、「窓外に 芭蕉有り」の宿でした。
 僻地への赴任とはいっても官行(官吏としての旅行)ですから、上陸して渡津の駅亭に泊まることもあったようです。冬十二月、杜牧は最果ての地、睦州に着任しました。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧117ー121

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 杜牧ー117
   睦州四韻             睦州四韻

  州在釣台辺     州は釣台(ちょうだい)の辺(ほとり)に在り
  渓山実可憐     渓山(けいざん)  実に憐れむ可し
  有家皆掩映     家(いえ)有りて   皆掩映(えんえい)し
  無処不潺湲     処(ところ)として潺湲(せんえん)たらざるは無し
  好樹鳴幽鳥     好樹(こうじゅ)に  幽鳥(ゆうちょう)鳴き
  晴楼入野煙     晴楼(せいろう)に  野煙(やえん)入る
  残春杜陵客     残春(ざんしゅん)  杜陵(とりょう)の客
  中酒落花前     酒に中(あた)る   落花の前

  ⊂訳⊃
          睦州は   釣台の近くにあって
          山紫水明  まことに美しい
          家々は   木立に隠れてちらほら見え
          谷川は   いたるところでさらさらと流れる
          木の間隠れに   鳥は鳴き
          晴れた高楼に   霞は淡く流れ入る
          晩春の花散る中  杜陵の客は
          いつしか酔いに  身をまかす


 ⊂ものがたり⊃ 冬が去れば、睦州(ぼくしゅう)にも春がめぐってきます。睦州は江南でも最南端に近い土地ですので、春はどこよりも早く来たと言うべきでしょう。山間の春の姿は、思いもよらない美しさでした。
 浙江は下流を銭塘江、中流を富春江、上流を新安江といいます。南から流れて来る東陽江が西から流れて来る新安江と合流する地点に睦州はあります。この合流点の北が富春江で、すこし下ったところに「釣台」がありました。
 釣台は富春江西岸にある平たい岩で、後漢の高士厳光(げんこう)が釣り糸を垂れたことで有名でした。厳光は光武帝の旧友で後漢の創業に功績がありましたが、光武帝の勧めを辞退して任官せず、富春山の山麓に隠棲しました。厳光はこの地で悠悠自適の生活を送り、釣台で釣り糸を垂れる毎日であったといいます。
 「杜陵の客」は杜牧自身であり、大中元年(847)の春、晩春の花吹雪のなか、杜牧は酒に酔い痴れる毎日でした。

 杜牧ー118
     寓 言              寓  言

  暖風遅日柳初含   暖風(だんぷう)  遅日(ちじつ)  柳(やなぎ)初めて含む
  顧影看身又自慙   影を顧み  身を看(み)て  又た自ら慙(は)ず
  何事明朝独惆悵   何事ぞ明朝(めいちょう)に  独り惆悵(ちゅうちょう)する
  杏花時節在江南   杏花(きょうか)の時節  江南に在り

  ⊂訳⊃
          暖かい風  のどかな春よ  おぼろに霞む柳の木

          改めてわが身を顧みれば  悔いる思いが湧いてくる

          聖明の御代に  どうして悲しみにくれているのか

          杏の花咲く宴の季節に  遠く離れた江南の地で


 ⊂ものがたり⊃ 春は貢挙の季節であり、都長安の杏園(きょうえん)で新進士たちの祝宴がひらかれる季節でもあります。かつて杜牧も、新進士として希望に燃えていた時期がありました。それがどうしてこんな惨めな状態になってしまったのかと、「自慙」し「惆悵」する杜牧です。
 この年の閏三月、宣宗は廃仏の停止を命じ、仏寺の復興を許しました。武宗の政策、つまりはそれを推進した李党の政策はつぎつぎに否定され、党争は牛党の完全な勝利に帰したかのようでした。長安では老いた牛党の指導者に代わって白敏中(白居易の二従兄弟)をはじめとする牛党の若手が宰相になり、李党の官僚を排斥しています。しかし、睦州の杜牧には都からの音沙汰はありません。

 杜牧ー119
      猿                 猿

  月白煙青水暗流   月(つき)白く  煙青くして   水(みず)暗(あん)に流る
  孤猿銜恨叫中秋   孤猿(こえん)  恨みを銜(ふく)んで   中秋(ちゅうしゅう)に叫ぶ
  三声欲断疑腸断   三声(さんせい)  断(た)えんと欲して  腸(はらわた)断ゆるかと疑う
  饒是少年須白頭   饒(たと)い是れ少年なりとも  須(すべか)らく白頭なるべし

  ⊂訳⊃
          青い靄のなかの白い月  ひそやかに水は流れ

          中秋の孤猿の鳴き声が  恨むように聞こえてくる

          三声まさに絶えんとし   腸も千切れるほどだ

          その悲しげな啼き声に   若い黒髪も白髪となる


 ⊂ものがたり⊃ この詩を含め、次回と次々回の三首は制作年不明の詩ですが、三首に際立っている特徴は「月白」「白頭」「白髪」「雪」と白の基調がつづくことです。白は衰退を予感させる語で、杜牧は自分の未来に希望をなくしているようです。
 江南の猿の鳴き声は、李白も杜甫も詠っています。その音色の違う三つの泣き声は、はらわたが千切れるほどに悲痛なもので、杜牧は若者の黒い髪も白髪になるほどだと言っています。

 杜牧ー121
    初冬夜飲               初冬の夜飲

  淮陽多病偶求懽   淮陽(わいよう)多病  偶(たま)たま懽(かん)を求む
  客袖侵霜与燭盤   客袖(かくしゅう)  霜に侵されて  燭盤(しょくばん)に与(むか)う
  砌下梨花一堆雪   砌下(せいか)の梨花(りか)   一堆(いったい)の雪
  明年誰此凭欄干   明年  誰(たれ)か此(ここ)に  欄干(らんかん)に凭(よ)らん

  ⊂訳⊃
          淮陽の太守は疾がち 酒を飲んで憂さを晴らす

          旅人に寒気は厳しく  燭台に向かって坐している

          石階にうず高い雪   梨花のように真っ白だ

          来年いまごろ欄干に  寄りかかるのは誰だろう


 ⊂ものがたり⊃ 詩題に「初冬」(しょとう)とありますので冬十月の作でしょう。冬を詠う作品は少ないので、この年の冬に作られた可能性が高いと思います。
 起句の「淮陽多病」は、漢代の汲黯(きゅうあん)が病弱を理由に淮陽太守の職を辞した故事をさします。汲黯は景帝・武帝に仕え、直言してはばからぬ剛直の士でした。東海太守に任ぜられたときは、郡内がよく治まったといいますが、のちに淮陽の郡守に任ぜられたときは疾を理由に断りました。しかし、聴き入れられず、赴任して任地で亡くなったといいます。
 杜牧は自分を汲黯に重ね合わせて詠っており、「石階」(きざはし)の上の「一堆の雪」には不吉なものさえ感じます。江南で大雪が積もるのは珍しかったかもしれません。気温の急激な低下は、温暖化の場合と同様、自然災害の原因となり、農業の不振をもたらします。江南の大雪は中国の治安が乱れる予兆であったかもしれません。
 そうした冬のさなかの十二月、李徳裕が潮州(広東省潮州市)司馬に流されたという報せが届きました。李徳裕は従六品上に落とされたはずで、流刑に等しい異動です。ここに李党の息の根は完全に止められたと言っていいでしょう。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧125ー128

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 杜牧ー125
   秋晩早発新定        秋の晩 早に新定を発す

  解印書千軸     印(いん)を解く    書(しょ)千軸(せんじく)
  重陽酒百缸     重陽(ちょうよう)  酒(さけ)百缸(ひゃくこう)
  涼風満紅樹     涼風(りょうふう)  紅樹(こうじゅ)に満ち
  暁月下秋江     暁月(ぎょうげつ)  秋江(しゅうこう)を下る
  巌壑会帰去     巌壑(がんがく)に 会(かなら)ず帰り去らん
  塵埃終不降     塵埃(じんあい)に 終(つい)に降(お)りず
  懸纓未敢濯     纓(えい)を懸(か)けんとして  未だ敢(あえ)て濯(あら)わず
  厳瀬碧淙淙     厳瀬(げんらい)   碧(みどり)淙淙(そうそう)たり

  ⊂訳⊃
          腰の印綬をはずせば  千巻の書がある
          重陽の節句に乗じて  たっぷり酒を飲む
          紅葉の樹々に       涼しい風が満ち
          有明の月に照らされ  晩秋の川をくだる
          いつかきっと  山水の間を住居としよう
          いつまでも   俗塵に塗れるつもりはない
          隠退の思いは募るが  冠はまだそのままだ
          厳陵瀬のあたりに    淙々と水はながれて碧色


 ⊂ものがたり⊃ 睦州(ぼくしゅう)を発つときの詩です。杜牧は晩秋の朝早く舟を出して、富春江をくだります。「巌壑に 会ず帰り去らん 塵埃に 終に降りず」と、杜牧は隠退への思いを口にしますが、隠退に踏み切ることのできない自分であることもわかっています。
 杜牧を乗せた舟は流れを下ってゆき、釣台(ちょうだい)の前に差しかかります。釣台の前の早瀬を厳陵瀬(げんりょうらい)といい、碧色(みどりいろ)の水が淙々と流れています。杜牧は厳光(げんこう)の悠々自適の生活の象徴として厳陵瀬を描いているのであり、結びの一句には冠をつけたままの杜牧の尽きせぬ思いが込められているように思います。

 杜牧ー126
   夜泊桐廬 先寄       夜 桐廬に泊し 先ず
   蘇台盧郎中          蘇台の盧郎中に寄す

  水檻桐廬館     水檻(すいかん) 桐廬(とうろ)の館(かん)
  帰舟繋石根     帰舟(きしゅう)  石根(せきこん)に繋(つな)ぐ
  笛吹孤戍月     笛は吹く  孤戍(こじゅ)の月
  犬吠隔渓村     犬は吠ゆ  渓(けい)を隔(へだ)つる村
  十載違清裁     十載(じつさい)  清裁(せいさい)に違(たが)い
  幽懐未一論     幽懐(ゆうかい)  未(いま)だ一(ひと)たび論ぜず
  蘇台菊花節     蘇台(そだい)    菊花(きくか)の節(せつ)
  何処与開     何(いず)れの処にか  与(とも)に(そん)を開かん

  ⊂訳⊃
          水辺の欄干  桐廬の館
          岸の岩根に  舟をつなぐ
          月は昇り   塞に笛の音は流れ
          対岸の村で  犬がしきりに吠えている
          この十年   会えないままに過ぎ
          胸中の思い  伝えずにきた
          蘇州に着くころは重陽の節句
          何処かで酒を飲みながら  つもる話をしよう


 ⊂ものがたり⊃ 桐廬(浙江省桐廬県)は、新定の城から五十余里(約30km)ほど川を下ったところにあります。舟で二日以内の行程です。杜牧は桐廬の駅亭に一泊し、そこから蘇州刺史の盧簡求(ろかんきゅう)に詩を送りました。詩題に「盧郎中」とあるのは、盧簡求が中央にいたときの官名で呼んだものです。
 風景の描写は暗く寂しげですが、杜牧にはまだ政事を論ずる気持ちはあります。「蘇台」(蘇州)に着くころは、九月九日の「菊花節」(重陽節)のころになるので、久し振りに会って、つもる話をしようではないかと友を懐かしむ気持ちを伝えます。盧簡求と過ごした蘇州の夜は楽しいものであったでしょう。

 杜牧ー127
    江南懐古              江南懐古

  車書混一業無窮   車書(しゃしょ)混一(こんいつ)  業(ぎょう)窮(きわ)まり無く
  井邑山川古今同   井邑(せいゆう)   山川(さんせん)  古今(きんこ)同じ
  戊辰年向金陵過   戊辰(ぼしん)の年 金陵(きんりょう)を過ぎ
  惆悵閑吟憶庾公   惆悵(ちゅうちょう)閑吟して  庾公(ゆこう)を憶(おも)う

  ⊂訳⊃
          天下一統の大業は  永く保たれ

          村里城邑  山川の姿に変わりはない

          いままさに戊辰の年   金陵の地を過ぎながら

          悲運の庾信を思いやり  静かに詩を口ずさむ


 ⊂ものがたり⊃ 蘇州をあとにした舟は、潤州で長江に達します。この古い城邑で、杜牧は江南の地を懐古します。「車書混一」は車軌と文字を同一にすることで、天下統一を意味します。ここまでは唐のことで、天下は統一され、村里城邑山川の姿に変わりはありません。
 潤州には東晋時代に北府が置かれ、都建康(金陵)の防衛拠点でした。当時、潤州は長江最大の渡津であり、金陵渡(きんりょうと)とも呼ばれていました。そこから潤州を「金陵」ともいうのです。
 大中三年(848)は「戊辰年」で、その三百年前にあたる南朝梁(りょう)の武帝の戊辰年に侯景(こうけい)の乱が起きました。南朝梁の詩人庾信(ゆしん)は乱を避けて江陵(湖北省江陵県)に逃れ、そののち北朝の西魏に使いしました。ところが使者として西魏にいるときに梁が滅亡し、帰国できなくなります。
 庾信はやむなく北朝に仕え、異郷で生涯を終えました。杜牧は蘇州刺史盧簡求と、侯景の乱や梁の滅亡、庾信のことなどを話題にしたのかもしれません。潤州で庾信の不運に思いを馳せ、詩を口ずさむのです。

 杜牧ー128
    汴河阻凍            汴河にて凍れるに阻まる

  千里長河初凍時   千里の長河(ちょうが)  初めて凍(こお)る時
  玉珂瑤珮響参差   玉珂(ぎょくか)  瑤珮(ようはい)  響き参差(しんし)たり
  浮生恰似冰底水   浮生(ふせい)は恰(あたか)も似たり  冰底(ひょうてい)の水に
  日夜東流人不知   日夜東流して  人(ひと)知らず

  ⊂訳⊃
          遠く連なる汴河の水が   いま凍りはじめ

          凍る音は  玉珂瑤珮と川面にひびく

          人生は   氷のしたの水のように

          昼夜わかたず東に流れ  人に知られることもない


 ⊂ものがたり⊃ 都への旅の途中の九月、杜牧は李徳裕が潮州司馬からさらに遠く州(海南省海口市)の司戸参軍に再貶されたことを耳にします。かつて正二品の宰相であった李徳裕は、辺境州の従七品下、諸曹参軍に落とされてしまったのです。杜牧は人生の有為転変に粛然とした気持ちにならざるを得ません。
 潤州から揚州までは長江を渡ってすぐです。杜牧は弟杜(とぎ)の住まいに立ち寄ります。揚州の杜の家には弟夫婦と一男一女のほかに、李氏に嫁いで寡婦となった妹が子供を連れて同居していました。二家族六人は杜牧の仕送りによって質素な暮らしをしていました。
 杜牧は弟の眼病を見舞い、都へ帰ったら今度は大郡の太守になって江南にもどってくる。そうなったらお前の医薬や家族の衣食、妹一家の面倒もいまよりはましにみることができるだろう、心配するなと励まします。杜牧は眼医の名人の噂などもして杜夫婦に希望を持たせ、三十日間ほど滞在して北へ向かいました。
 冬の運河をつたって北上する途中、汴河(べんが)を通ります。杜牧が冬の汴河を通過するのは、このときだけです。この冬は、汴河の水も凍るほどの寒さでした。詩題の「凍れるに阻まる」は、氷結のために航行できなかったことを意味します。
 「玉珂瑤珮」は馬のおもがいにつける玉製の飾りと腰に下げる佩玉のことで、いずれも高位の人を示すものです。汴河の氷結する音が玉珂瑤珮の触れ合う音のように響いたと言うことで、富貴の人々の豪奢な生活に警鐘を鳴らしているとも受け止められますが、杜牧は氷の下を流れる水の永遠の流れに目を向けています。結句の「日夜東流して 人知らず」は、杜牧自身のことを言っているのかも知れません。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧129ー134

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 杜牧ー129
    長安雪後               長安 雪後

  秦陵漢苑参差雪   秦陵(しんりょう)  漢苑  参差(しんし)として雪なり
  北闕南山次第春   北闕(ほくけつ)  南山  次第に春なり
  車馬満城原上去   車馬(しゃば)   城に満ちて  原上(げんじょう)に去(ゆ)く
  豈知惆悵有閑人   豈に知らんや   惆悵(ちゅうちょう)として閑人(かんじん)有るを

  ⊂訳⊃
          驪山の陵や上林苑  雪はあたりに舞い散るが

          北の皇居や終南山  こちらはようやく春めいてきた

          馬車は城内に溢れ  楽遊原へ繰り出してゆく

          人々は気づくまい   暇人がここに憂えていることを


 ⊂ものがたり⊃ 旅の途中、杜牧は牛僧孺が都で亡くなったことを聞きました。享年六十九歳であったと言われています。杜牧の生涯に少なからず影響を与えた党争の指導者は、牛李双方とも都から消えてしまったのです。
 杜牧が長安に着いたのは、冬十二月でした。司勲員外郎・史館修撰として、すぐに大明宮の尚書省に出仕をはじめます。明けて大中三年(849)、杜牧は四十七歳になりますが、依然として従六品上の員外郎です。この年は春になっても雪が降るほど寒気が厳しく、長安は年が明けても冬景色でした。
 起句の「秦陵」は驪山の北麓にある秦の始皇帝陵かも知れませんが、つぎに「漢苑」とありますので、秦漢を借りる技法でしょう。春の雪もようやく止んで長安に春が訪れ、人々は城内の行楽地楽遊原(らくゆうげん)へと繰り出してゆきますが、杜牧はそれを斜(はす)に眺めています。

 杜牧ー130
   春晩題韋家亭子        春の晩 韋家の亭子に題す

  擁鼻侵襟花草香   鼻を擁(ふさ)ぎ襟(きん)を侵して  花草(かそう)香(かんば)し
  高台春去恨茫茫   高台(こうだい)  春去りて  恨み茫茫たり
  蔫紅半落平池晩   蔫紅(えんこう)半(なか)ば落つ   平池(へいち)の晩(くれ)
  曲渚飄成錦一張   曲渚(きょくしょ)飄(ただよ)い成(な)す  錦一張(きんいっちょう)

  ⊂訳⊃
          草花のむせる香が 鼻を塞ぎ襟に満ち

          高楼にのぼれば   過ぎゆく春の恨みはつきない

          夕闇のせまる池に  花くれないはあでやかに散り

          花びらは入江に漂って  一張の錦のようだ


 ⊂ものがたり⊃ 憂い顔の杜牧ですが、勤めは暇です。杜牧はかねて研究していた『孫子』十三篇に注をほどこす仕事をはじめました。『孫子』は兵書であると同時に経国の書でもあります。
 長安の人々は暖かくなると楽遊原へ繰り出しますが、杜牧は郊外の樊川(はんせん)に出かけます。樊川は川の名前ではありません。川は当時、水(すい)と呼ばれ、川沿いの土地を川(せん)と言っていました。
 詩題の「韋家(いか)の亭子(ていし)」は杜氏と並ぶ名門韋氏の別墅(べつしょ:別荘)のことで、樊川の韋曲(いきょく)にありました。野山には草花がむせかえるような香りを放って咲き乱れていました。杜牧は近くの朱坡(しゅは)にあった祖父杜佑の別墅も訪れたでしょう。春の自然の華やかさのなかで、すべては荒れ果ててしまっていました。

 杜牧ー131
   過田家宅           田家の宅を過ぐ

  安邑南門外     安邑(あんゆう)  南門の外
  誰家板築高     誰(た)が家か   板築(はんちく)高き
  奉誠園裏地     奉誠園裏(ほうせいえんり)の地
  牆缺見蓬蒿     牆(しょう)缺(か)けて  蓬蒿(ほうこう)を見る

  ⊂訳⊃
          安邑坊の坊門を  南へゆくと

          だれが住むのか  高々と塀をめぐらす

          豪奢な馬燧の邸宅は  奉誠園となり

          土塀は崩れ  茂っているのは蓬だけ


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は久し振りの長安城内を歩いてみます。注意して見ると、城内には新しい大きな邸宅もあり、荒れた邸の跡もあります。「安邑」は長安東街の安邑坊のことで、その南の坊門から少し南へ行ったところとは宣平坊のあたりでしょう。
 長安城内の南部の坊は、城内とはいっても農家や寺院、農地や林地などが多く、詩題の「田家(でんか)の宅」というのは、そうした城内の田園地帯の家のことです。宣平坊は楽遊原のある台地を背にした微高地にあり、緑の多い地帯でした。そのあたりが高級官吏の住む新しい住宅地になっていて、「板築高き」、つまり板築で高く築いた塀の邸ができていたりしました。
 安邑坊は東市の南に隣接する坊で、「奉誠園」は安邑坊内にありました。もとは馬燧(ばすい)の邸宅でしたが、馬燧の死後、半ば強制的に朝廷に献上させられました。豪奢な建物は解体されて宮中に運ばれ、跡地は奉誠園になっていましたが、それもいまは板築の土塀も崩れ、蓬蒿の茂る荒れ地になっていたのです。

 杜牧ー132
    過勤政楼             勤政楼に過る

  千秋佳節名空在   千秋(せんしゅう)の佳節(かせつ)  名(な)空(むな)しく在り
  承露糸嚢世已無   承露(しょうろ)の糸嚢(しのう)  世(よ)已(すで)に無し
  唯有紫苔偏称意   唯だ紫苔(したい)のみ  偏(ひと)えに意(こころ)に称(かな)う有りて
  年年因雨上金鋪   年年  雨に因(よ)りて  金鋪(きんぽ)に上る

  ⊂訳⊃
          玄宗の千秋節も  いまはその名を残すだけ

          承露嚢の習慣も  絶えてしまった

          はびこっているのは  赤むらさきの苔

          毎年雨が降るたびに  門環の金具へはいあがる


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は若いころ、楊貴妃事件を題材として幾つかの詠史詩を書きましたが、それとは違う感じの懐古詩を残しています。それらは、このころの杜牧の褪めた感情を反映する作品と思われます。
 詩題の「勤政楼」(きんせいろう)は玄宗皇帝の勤政務本楼のことで、興慶宮の西南隅にありました。そこからは、にぎやかな春明門街と東市を見下ろすことができました。
 「千秋の佳節」は開元十七年(729)に設けられた祝日で、玄宗の誕生日(八月五日)を祝うものです。その日には「承露の糸嚢」を贈答し合う習慣がありましたが、それも廃れてしまい、目立つのは興慶宮の「金鋪」(門環の金の台座)まで這い上っている赤い苔です。盛唐の都は物心ともに荒れ果てようとしていました。

 杜牧ー133
    村舎燕                村舎の燕

  漢宮一百四拾五   漢宮(かんきゅう)  一百四拾五(いっぴゃくししゅうご)
  多下朱簾閉瑣窗   多く朱簾(しゅれん)を下して  瑣窓(さそう)を閉ざす
  何処営巣夏将半   何れの処にか巣を営んで   夏(なつ)将(まさ)に半ばならんとす
  茅簷煙裏語双双   茅簷(ぼうえん)の煙裏(えんり)  語(かた)ること双双(そうそう)

  ⊂訳⊃
          漢の都城の内外に  一百四拾五の宮殿がある

          多くは珠簾をおろし  飾り窓を閉じている

          夏の半ばというのに  燕はどこに巣をかけた

          茅屋にたなびく炊煙  燕が軒端で鳴いている


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は長安城の内外を歩きまわります。宮殿は多くが閉鎖され、荒廃していました。燕が巣をかける場所もなく、つがいの燕が農家の軒端で鳴いているのでした。この詩は中唐の劉禹錫(りゅううしゃく)「烏衣巷」(ういこう)を踏まえていると思われますので参照してください。

 杜牧ー134
     宮人               宮人塚

  尽是離宮院中女   尽(ことごと)く是(こ)れ  離宮院中(いんちゅう)の女(じょ)
  苑牆城外累累   苑牆(しょうえん)城外  塚(つか)累累(るいるい)たり
  少年入内教歌舞   少年にして入内(にゅうだい)し  歌舞(かぶ)を教えらるるも
  不識君王到老時   君王を識(し)らずして  老時(ろうじ)に到る

  ⊂訳⊃
          この墓はみな  離宮の院中に仕えた女たち

          宮苑のそとに重なり合って  累々とつづく

          幼くして宮中に召し出され  歌や踊りを教えられたが

          君公に知られることもなく   年老いてしまう


 ⊂ものがたり⊃ 城外のかつて離宮のあったあたりを歩いてみると、宮苑の牆外に残っているのは、名もない宮女たちの墓だけです。彼女たちは幼いころに宮中に召し出され、天子にまみえることもなく年老いてしまいました。そしていまは、墓だけが累々とつらなっています。
 杜牧は樊川の朱坡にもたびたび出かけました。杜牧6(本年7月16日のブログ参照)に掲げた「朱坡に遊びしを憶う四韻」も、この年の秋の作品と思われます。懐かしい樊川の地を幾度も訪ねて、今を昔にもどせないことは分かっていますが、できれば祖父の別墅を修復したいと思うのでした。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧135ー138

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 杜牧ー135
   将赴呉興 登          将に呉興に赴かんとして 
   楽遊原一絶           楽遊原に登る 一絶

  清時有味是無能   清時(せいじ)に味わい有るは  是(こ)れ無能(むのう)
  愛孤雲静愛僧   閑(かん)は孤雲(こうん)を愛し  静(せい)は僧を愛す
  欲把一麾江海去   一麾(いっき)を把(と)りて  江海(こうかい)に去(ゆ)かんと欲し
  楽遊原上望昭陵   楽遊原上  昭陵(しょうりょう)を望む

  ⊂訳⊃
          泰平の世を  楽しく暮らす能なしよ

          ぽっかり浮かぶちぎれ雲  僧侶と語る閑雅がよい

          今まさに一本の旗を持ち  江南の海辺へゆこうとし

          楽遊原上   はるかに昭陵を眺めやる


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は『孫子注』三巻を書き上げると、それを宰相周墀(しゅうち)に献上しました。杜牧の軍備・用兵・戦術、経世済民の思想を集大成したもので、心を込めて書いたものですが、受納され書庫に納められただけでした。
 杜牧は次第に官途への関心を失いはじめていました。大州の刺史になってもどってくるという弟杜との約束も思い出され、閏十月に杜牧は「宰相に上りて杭州を求める啓」を上書しました。杭州刺史への転出を願い出たのですが、聴き入れる返事はありませんでした。
 十二月になって李徳裕が山の任地で病没したという報せが届きましたが、杜牧にはもはや何の感慨もありません。この年、従兄の杜悰(とそう)も再度の剣南西川節度使に任ぜられ、都をあとにしました。
 年が明けて大中四年(850)になり、杜牧は吏部員外郎の告身を受けました。吏部員外郎は文官の職事官の人事を行う部署ですので、万人の望む地位でしたが、杜牧にはいまさらという感情があります。家長として家属のために収入の増加をはかる必要も肩に重くのしかかっていました。
 そのころ杜牧は、湖州刺史が満期になるのを知りました。吏部員外郎であれば、当然知りえる情報です。湖州は友人の張文規(ちょうぶんき)がかつて赴任した地であり、その地の豊かな土地柄については耳にしていましたので、杜牧は意を決して「宰相に上りて湖州を求める啓」を上書しました。希望地を杭州よりも一段下げての転出願いです。
 それが聴き入れられないとみるや、第二啓、第三啓と立てつづけに上書をし、最後には揚州にいる家属の面倒をみなければならないという個人的な理由まで持ち出して請願しました。その結果、願いは秋七月になってやっと認められ、湖州にゆくことになりました。
 掲げた詩は、湖州への出発を前にして、初秋の楽遊原に登り、長安の都を一望したときの作品です。詩題で「呉興」(ごこう)と言っているのは湖州のことです。起句で「無能」と言っていますが杜牧自身のことで、自分を能なしと嗤い、「閑は孤雲を愛し 静は僧を愛す」と隠者への思いを詠います。しかし、現実には刺史の旗を立てて江南へ赴く身です。
 「昭陵」は唐の太宗李世民(りせいみん)の眠る陵で、杜牧は楽遊原の高台から北に望む皇陵を祈るような気持ちで眺めます。杜牧は国家の将来について不安を感じていたようです。

 杜牧ー136
    登楽遊原            楽遊原に登る

  長空澹澹孤鳥没   長空(ちょうくう)澹澹(たんたん)として  孤鳥(こちょう)没す
  万古銷沈向此中   万古(ばんこ)銷沈(しょうちん)して    此中(ここ)に向(あ)り
  看取漢家何似業   看取(かんしゅ)せよ  漢家(かんか)  何似(いか)なる業(ぎょう)ぞ
  五陵無樹起秋風   五陵  樹(き)の  秋風(しゅうふう)を起こす無し

  ⊂訳⊃
          果てしない空の彼方  一羽の鳥が消え去った

          悠久の時は流れて   ここに埋まっている

          見よ  漢の王朝も   いかなる功業を残したのか

          五陵のあたり秋の風  樹々を揺るがすこともない


 ⊂ものがたり⊃ この詩も湖州への出発を前にして楽遊原に登ったときの作品と思われます。空の果てに消えた「孤鳥」とは、杜牧自身の姿もしくは心でしょう。杜牧は楽遊原に登って、みずからの人生をかえりみ、漢を借りて唐朝の衰亡に思いを馳せるのです。
 「五陵」(ごりょう)は漢の皇帝の陵墓の集中する地区ですが、遠くに五陵のあるあたりを望み見て、「五陵 樹の 秋風を起こす無し」と、胸には虚ろな感慨、茫々とした思いが湧いてくるのでした。

 杜牧ー137
   将赴湖州           将に湖州に赴かんとして
   留題亭菊           亭菊に留題す

  陶菊手自種     陶菊(とうきく)  手自(てずか)ら種(う)え
  楚蘭心有期     楚蘭(そらん)  心に期する有り
  遥知渡江日     遥かに知る   江(こう)を渡るの日
  正是擷芳時     正(まさ)に是(こ)れ  芳(ほう)を擷(つ)むの時なるを

  ⊂訳⊃
          陶淵明が愛した菊は  自分で庭に植え

          屈原のゆかりの蘭に  やがて会うのが楽しみだ

          長江を渡るころには  菊の花も摘みごろだろう

          菊花の節句は  はるか遠くから偲ぶとしよう


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は湖州への出発に際し、陶淵明の生き方や屈原の運命に思いをいたし、自宅の庭に菊の種をまきました。やがて咲くであろう菊の花に題して、留別の詩を残します。
 長江を渡るころには重陽の節句になっており、菊の花も摘みごろに育っているであろうと詠います。自分で希望した地方勤めとはいえ、中央での出世をあきらめて出てゆくような転勤ですので、杜牧の心にはひそかな哀惜の思いがあったでしょう。

 杜牧ー138
    汴河懐古                汴河懐古

  錦䌫龍舟隋煬帝   錦䌫(きんらん)の龍舟(りゅうしゅう)は  隋の煬帝(ようだい)
  平台複道漢梁王   平台(へいだい)の複道(ふくどう)は  漢の梁王(りょうおう)
  遊人閑起前朝念   遊人(ゆうじん)閑(すず)ろに起こす  前朝の念(ねん)
  折柳孤吟断殺腸   折柳(せつりゅう)孤(ひと)たび吟ずれば 腸(はらわた)を断殺す

  ⊂訳⊃
          錦䌫の龍舟  栄華をきわめる隋の煬帝

          平台の複道  贅美をつくした漢の梁王

          汴河を往けば   かつての御代を想い出し

          折楊柳の一曲に  私の腸は千切れるようだ


 ⊂ものがたり⊃ 長安を発った杜牧は、船で江南へ向かいます。汴河(べんが)は江南への運河に連なる水路で、滎陽(けいよう:河南省滎陽県)で黄河とわかれ、黄河の南を併行して東へ流れています。一昨年の冬に西へたどった水路を、今度は秋おそく東へ下るのです。
 杜牧は揚州の街を築いた煬帝を評価していた時期もありました。しかし、いまは亡国の帝王という思いを強く感じています。煬帝は「龍舟」に乗って運河をゆききしたと詠い、漢の「梁王」は雎陽(すいよう:河南省商丘市の南)の景勝地に梁園や平台を設け、詩人たちを集めて贅沢を極めたと詠います。そうした王侯貴族の栄華のさまを想うにつけ、杜牧は唐朝の未来に、はらわたが千切れるような不安を覚えるのでした。
 湖州への途中、杜牧は揚州の杜の家に立ち寄りますが、杜はもはや光を感ずることができず、すっかり老いて弱々しくなっていました。杜牧は弟を励まし、妹に世話を頼んで、冬十一月に湖州に着きました。    

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧139ー144

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 杜牧ー139
   春日茶山 病不       春日の茶山 病みて酒を飲
   飲酒 因呈賓客       まず 因りて賓客に呈す

  笙歌登画船     笙歌(しょうか)  画船(がせん)に登(のぼ)る
  十日清明前     十日(じゅうじつ) 清明(せいめい)の前
  山秀白雲膩     山秀(ひい)でて  白雲(はくうん)膩(つやや)かに
  渓光紅粉鮮     渓(たに)光りて  紅粉(こうふん)鮮かなり
  欲開未開花     開かんと欲して  未だ開かざる花
  半陰半晴天     半ば陰(くも)り  半ば晴れたる天(てん)
  誰知病太守     誰(たれ)か知らん  病太守(びょうたいしゅ)も
  猶得作茶仙     猶(な)お茶仙(ちゃせん)と作(な)るを得たり

  ⊂訳⊃
          音曲も賑やかに画船に乗る
          あと十日で  清明節だ
          山はひいで  白雲は空につややか
          谷川は煌めいて流れ  歌姫の紅もあざやか
          咲こうとして  いまだ開かぬ花々よ
          半ばはくもり  半ばは晴れの青空だ
          誰も知るまい この病身の太守殿
          酒仙はだめでも  茶仙になれる


 ⊂ものがたり⊃ 明ければ大中五年(851)の春です。湖州の春を杜牧はやすらかな気持ちで迎えました。中国における飲茶の風習は、このときから百年ほど前に民間に拡がったもので、安史の乱後になります。
 江南の山間地は茶の自生地として有名ですが、なかでも湖州産の茶は最高とされ、湖州の西北五十里余(約30km)のところにある顧渚山(こしょさん:湖州市長興県の北)は別名茶山と称され、紫筍茶(しじゅんちゃ)の産地として知られていました。
 紫筍茶は深山幽谷に自生する茶で、宮廷用の貢茶(こうちゃ)に指定されていました。毎年二月になると、現地に入って献上茶の採取と製造を監督するのが、湖州刺史の役目のひとつでした。
 杜牧は清明節も近い二月中旬、湖に画船(彩色した遊覧船)を浮かべて賓客をもてなしました。杜牧はこのころ消渇(しょうかち)の疾、つまり糖尿病を患っていて酒をつつしんでいました。だから船上での酒宴の座興に詩を呈し、酒仙はだめだが「茶仙」にはなれると詠って、一座の気分を盛り立てます。船上には州廨(州の役所)の歌妓もはべり、にぎやかな音楽が演奏されます。

 杜牧ー140
   入茶山下 題水        茶山の下に入り 水口の
   口草市 絶句          草市に題す 絶句

  倚渓侵嶺多高樹   渓(たに)に倚(よ)り嶺(みね)を侵して  高樹多し
  誇酒書旗有小楼   酒(さけ)を誇り旗(はた)に書して  小楼有り
  驚起鴛鴦豈無恨   驚起(けいき)せる鴛鴦(えんおう)  豈(あ)に恨み無からんや
  一双飛去却廻頭   一双(いっそう)飛び去り  却(ま)た頭(こうべ)を廻(めぐ)らす

  ⊂訳⊃
          谷川から山の上  木立は繁り

          旗に銘酒の名前  小さな酒楼がある

          人の影に驚いて  鴛鴦が飛び立った

          つがいの鳥は去りながら  恨めしそうに振りかえる


 ⊂ものがたり⊃ 茶山に入るには、谷川の径を登って山間に分け入らなければならなりません。詩題の「水口」(すいこう)は水口鎮(浙江省長興県の西北)のことで、茶山の麓にある郷村です。そこの「草市」(そうし:村市場)に酒屋があり、銘酒の名前を書いた旗がなびいています。
 「却た頭を廻らす」のは飛び立った「鴛鴦」(おしどり)ではなく、好きな酒を飲めない杜牧自身でしょう。この詩は自分を材料におどけてみせる社交の詩と思います。

 杜牧ー141
   茶山下作            茶山の下にて作る

  春風最窈窕     春風(しゅんぷう)  最も窈窕(ようちょう)たり
  日晩柳村西     日は晩(く)る  柳村(りゅうそん)の西
  嬌雲光占岫     嬌雲(きょううん)  光りて岫(みね)を占め
  健水鳴分渓     健水(けんすい)  鳴りて渓(たに)を分かつ
  燎巌野花遠     巌(いわお)を燎(や)いて  野花(やか)遠く
  戛瑟幽鳥啼     瑟(しつ)を戛(う)って  幽鳥(ゆうちょう)啼く
  把酒坐芳草     酒を把(と)りて  芳草(ほうそう)に坐せば
  亦有佳人攜     亦(ま)た佳人(かじん)の携(たずさ)うる有り

  ⊂訳⊃
          軽やかに  春風は吹き
          夕陽は   村の西にかたむく
          茜の雲は  峰に照り映え
          流れは迸つて  谷川に轟きわたる
          野の花は  岩山に紅く燃え
          葉陰では  鳥が瑟を掻き鳴らす
          草むらに坐して  酒杯を把れば
          そばに寄りそう  美女がいる


 ⊂ものがたり⊃ 貢茶監督の一行は、すでに茶山の近くに到着しています。「柳村」は水口鎮の東にあり、柳の美しい小村でした。製品になった紫筍茶は、ここで船に積み込まれて運び出されます。杜牧ら監督官の一行は官妓をともなっており、晩春の野で酒宴がひらかれます。「亦た佳人の携うる有り」と、そばに美人を寄りそわせているのです。
 杜牧はいささか浮かれ過ぎていたようです。茶山に滞在していたとき、揚州の弟杜の死去の報せが届きました。享年四十五歳でした。眼疾のため一生をなすところなく過ごした杜の死は二月のことで、報せは杜牧の出張先に届いたのです。杜牧は愕然として、しばらくは口をひらくことができませんでした。

 杜牧ー142
    題禅院                 禅院に題す

  觥船一棹百分空   觥船(こうせん)一棹(いっとう)すれば  百分(ひゃくぶん)空(むな)し
  十歳青春不負公   十歳の青春   公(こう)に負(そむ)かず
  今日鬢糸禅榻畔   今日(こんにち)  鬢糸(びんし)  禅榻(ぜんとう)の畔(ほとり)
  茶煙軽颺落花風   茶煙(ちゃえん)軽く颺(あが)る  落花(らっか)の風

  ⊂訳⊃
          杯をぐいと飲めば  酒はたちまち空になる

          青春の日々を十年  赴くままに生きてきた

          両鬢もいまは衰え  禅寺の椅子に坐す

          立ち昇る茶の煙に  落花の風が吹いている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「禅院」は柳村にあったかも知れません。また水口鎮の吉祥院の東廊には貢茶院も設けられていたといいますので、吉祥院にあったかも知れません。
 「觥船」は舟の形をした大杯で、酒を断っていた杜牧は、それを一気にぐいと飲み干します。「十歳の青春 公に負かず」であった自分の人生を思えば、飲まずにはいられない心境であったでしょう。茶釜からは茶を煮る湯気が立ち昇り、風に落花が舞っていました。
 この詩からは、弟の死に遇った杜牧の落胆の憶いが切々と伝わってきます。茶山のつとめがまだ終わっていませんので、杜牧は揚州に行って弟の仮埋葬に立ち会うこともできません。つとめが終わっていても、州刺史はみだりに任地の外に出るのを禁ぜられていましたので、送金をして埋葬させたかも知れません。

 杜牧ー144
     歎花                 花を歎く

  自恨尋芳到已遅   自ら恨む  芳(ほう)を尋ねて  到ること已(はなは)だ遅きを
  往年曾見未開時   往年曾(かつ)て見る  未だ開かざるの時
  如今風擺花狼藉   如今(じょこん)  風擺(ふる)いて  花狼藉(ろうぜき)たり
  緑葉成陰子満枝   緑葉(りょくよう)  陰(かげ)を成して  子(み)  枝に満つ

  ⊂訳⊃
          かつてみそめた美しい花  花の蕾を

          年へて尋ねると  恨みは深い

          風は吹き荒れて  無残に花は散り

          緑の葉陰に  実がいっぱいついている


 ⊂ものがたり⊃ この詩については『太平広記』に引く『唐闕史』につぎのような話が載せられているそうです。「杜牧は宣州の幕中にいた若いころ、湖州に遊び、十余歳の美少女を見かけて、その母親に会い、結納金を渡して約束した。私は十年も経たないうちに、ここの長官(州刺史)となる。もし十年たっても来なかったならば、他の人に嫁がせてよいと。その後、諸州の長官を歴任し、ようやく湖州刺史になったときは、すでに十四年が過ぎていた。約束の娘は三年前に嫁ぎ、三人の子を生んでいた。そこで詩を賦(つく)りて曰く…」。
 この話のようなことがあったかも知れませんが、巷間の雑書に載せられたこの種のお話は作り話とみるのが無難でしょう。この詩は杜牧が自分自身のこと顧みて詠んだと考えるのが、湖州時代の杜牧ににふさわしいと思います。
 自分は若いときから詩に目覚め、生涯に作った詩(子)は枝に満ちているが、「往年」の詩と比べてすぐれていると思う作品がどれだけあるだろうかと、「花狼藉」ともいうべき自分の生涯に憶いを馳せた作品と考えるのが適当でしょう。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧145ー149

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 杜牧ー145
    途中一絶               途中の一絶

  鏡中糸髪悲来慣   鏡中(きょうちゅう)の糸髪(しはつ)  悲しみ来たるに慣(な)れ
  衣上塵痕払漸難   衣上(いじょう)の塵痕(じんこん)   払うこと漸く難(かた)し
  惆悵江湖釣竿手   惆悵(ちゅうちょう)す  江湖(こうこ) 釣竿(ちょうかん)の手
  却遮西日向長安   却(かえ)って西日(せいじつ)を遮りて  長安に向かうを

  ⊂訳⊃
          鏡のなかの  白髪頭の嘆きにも慣れ

          染みついた浮世の塵も  払えないとわかってきた

          それが何と  釣り竿になじんだ手を挙げて

          西の陽ざしを遮りつつ  都長安へ向かうのだ


 ⊂ものがたり⊃ 大中五年の仲秋八月に、杜牧は考功郎中・知制誥に任命する告身を受け取ります。先の在京のときの員外郎から郎中になるのですから出世です。弟杜が亡くなってみれば、江南にとどまる理由もありませんので、杜牧は再び運河を伝い、秋の陽ざしの中を長安へ向かいます。
 杜牧は「衣上の塵痕 払うこと漸く難し」と悟っています。閑雅に暮らそうと思っていたけれども、それがまたもや長安をめざして舟行しているのです。隠棲は口でいうほど簡単ではありません。汴河のゆくて、西のかた長安はまぶしすぎると、釣り竿に馴染んだ手を挙げて、西日をさえぎるのでした。

 杜牧ー146
     隋堤柳              隋堤の柳

  夾岸垂楊三百里   岸を夾(はさ)む垂楊(すいよう)   三百里
  秖応図画最相宜   秖(た)だ応(まさ)に図画(とが)に  最も相宜(あいよろ)しかるべし
  自嫌流落西帰疾   自ら嫌(いと)う  流落(りゅうらく)  西帰(せいき)の疾(はや)きを
  不見東風二月時   見ず  東風(とうふう)  二月の時

  ⊂訳⊃
          両岸にしだれ柳はつづく  数百里

          絵にふさわしい  美しさ

          志を遂げずに   西へ帰るのは残念だ

          春二月の東風に  揺れる柳を見ないまま


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧はこれまでに幾度か汴河を航行しましたが、春二月に通ったことは一度もありません。春になって芽吹くころの汴河の柳を見ることもなく終わったが、岸の柳もこれが見納めだろうと思いながら、「自ら嫌う 流落 西帰の疾きを」と嘆きます。船上に坐した杜牧を乗せて、舟はゆっくりと進み、冬のはじめに長安に着きました。

 杜牧ー147
    歳日朝迴             歳日 朝より迴る

  星河猶在整朝衣   星河(せいが)猶(な)お在りて  朝衣(ちょうい)を整え
  遠望天門再拝帰   遠く天門(てんもん)を望んで  再拝して帰る
  笑向春風初五十   笑って春風(しゅんぷう)に向かう  初めて五十
  敢言知命且知非   敢(あ)えて言わんや  命(めい)を知り  且つ非(ひ)を知ると

  ⊂訳⊃
          星の瞬く夜明け前  礼服をまとって参内し

          遥かに玉座を望み  二度跪いて帰ってきた

          本日 私は五十歳  笑って春風に向かう

          知命知非というが  聖人のようにはいかないものだ


 ⊂ものがたり⊃ 考功郎中は尚書省吏部考功曹の郎中で、杜牧ははじめて五品の品階を得ました。中国の王朝では、五品と六品との間に大きな身分の差があり、五品と四品は大夫(たいふ)、三品以上は卿(けい)と称します。六品までは士身分であり、五品以上は貴族の身分といえます。五品以上の官人については同居の親族にも公課(租税と兵役)が免除され、子孫は貢挙を経ずに官吏になれる特権があります。
 杜牧はさらに知制誥(ちせいこう)を帯びており、制誥は詔書や用命の草案を起草することです。制誥は中書舎人の重要な役目で、知とあるのはその見習いを仰せつかったことになります。才能があれば中書舎人に登用するという意味が含まれているのです。
 杜牧は着任すると、その冬、樊川の祖父の別墅を修復して、年来の望みを達しました。しかしこの年、宰相の周墀(しゅうち)が亡くなり、有力な理解者を失います。明ければ大中六年(852)の春、杜牧は五十歳になりました。
 新春元旦には大明宮の含元殿で荘重な元会(げんかい)の儀式が催されます。百官は星のまたたく早朝から儀式に参列し、天子を拝します。参内後、杜牧は帰宅しますが、帰宅したのはどの家でしょうか。杜牧は安仁坊の祖父の邸を回復したと言われていますが、はっきりしたことは分かりません。
 「知命」は孔子の「五十にして天命を知る」であり、「知非」は春秋衛の大夫遽伯玉(きょはくぎょく)の故事で、「年五十にして、四十九年の非有り」を指します。杜牧は自分の五十年の人生を省みて、聖人のように悟りきるのは難しいと春風の中で苦笑いするのでした。

 杜牧ー148
    逢故人             故人に逢う

  年年不相見     年年(ねんねん)  相見(あいみ)ず
  相見却成悲     相見れば  却(かえ)って悲しみを成す
  教我涙如霰     我をして  涙  霰(あられ)の如く
  嗟君髪似糸     君が髪の  糸に似たるを嗟(なげ)かしむ
  正傷攜手処     正に傷む  手を携(たずさ)う処(ところ)
  况値落花時     况(たまた)ま値(あ)う  落花の時
  莫惜今宵酔     惜(お)しむ莫(な)かれ  今宵(こんしょう)の酔い
  人間忽忽期     人間(じんかん)  忽忽(こつこつ)たる期(き)なれば

  ⊂訳⊃
          幾年も会わずにいると
          会えば却って悲しくなる
          霰のように  涙はほとばしり
          衰えた君の白髪が  嘆かわしい
          連れだって歩くと   胸は痛むが
          いままさに  落花の季節
          今夜は  おおいに飲もうではないか
          人生は  あっというまに過ぎ去るのだ


 ⊂ものがたり⊃ 大中六年(852)の二月、杜牧は弟杜の遺骨を揚州から郷里の万年県洪原郷陵の先祖の墓地に改葬しました。すでに妹と弟妹の家族は引き取っていたでしょう。それが家長としての務めです。
 晩春の落花の季節に、杜牧は街で「故人」(旧知の友)に出会いました。それが誰であるかは分かりませんが、「惜しむ莫かれ 今宵の酔い」と消渇(しょうかち)の疾であることも忘れて、おおいに飲みました。
 杜牧の揚州時代の友人韓綽(かんしゃく)は、その後の経歴が不詳ですが、杜牧が三十一歳から三十二歳のころ、揚州の妓楼でともに遊んだ仲間です。その韓綽と十八年振りに長安の街で再会したとも考えられます。

 杜牧ー149
     哭韓綽               韓綽を哭す

  平明送葬上都門   平明(へいめい)  葬(そう)を送る   上都(じょうと)の門
  紼翣交横逐去魂   紼翣(ふつしょう)交横(こうおう)して  去魂(きょこん)を逐(お)う
  帰来冷笑悲身事   帰来(きらい)冷笑す  身事(しんじ)を悲しむを
  喚婦呼児索酒盆   婦(ふ)を喚(よ)び児(こ)を呼んで  酒盆(しゅぼん)を索(もと)む

  ⊂訳⊃
          薄明かりの朝はやく   長安城門で葬列を送り

          紼や翣は千々に乱れ  去りゆく君の霊魂を思う

          帰宅して不遇を嘆き   苦い笑いを噛みしめ

          大声で妻子を呼んで  大杯の酒を運ばせた


 ⊂ものがたり⊃ 長安で再会したのが韓綽であるとすれば、韓綽はほどなく死亡したことになります。というのも「上都の門」は都の城門ですから、韓綽は長安で亡くなったことになるからです。
 韓綽が長安にいれば、友人思いの杜牧は生前に会っているはずです。前回の詩「故人に逢う」に「正に傷む 手を携う処」とありますので、故人(旧友)は韓綽である可能性が高く、連れ立って歩くのも傷ましいほどにやつれていたのです。
 「紼翣」(つな・はねかざり)は柩車を引く綱と棺の両側に立てる羽根飾りのことで、葬列のさまを示しています。杜牧は不遇に終わった友の人生を思い、またみずからの人生を顧みて悲しむのです。だが、そういう自分の感情も気に入らず、そんな複雑な気持ちを払い除けようと、つい大きな声を出して妻子を呼び、大杯の酒をかたむけるのでした。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧150ー151

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 杜牧ー150
   秋晩与沈十九舎人    秋の晩 沈十九舎人と期して
   期 遊樊川不至      樊川に遊ばんとするも至らず

  邀侶以官解     侶(とも)を邀(むか)うも  官を以て解かれ
  泛然成独遊     泛然(はんぜん)として  独遊(どくゆう)を成す
  川光初媚日     川光(せんこう)  初めて日に媚(うるわ)しく
  山色正矜秋     山色(さんしょく) 正(まさ)に秋に矜(おごそ)かなり
  野竹疎還密     野竹(やちく)   疎(まば)らに還(ま)た密(しげ)く
  巌泉咽復流     巌泉(がんせん) 咽(むせ)びて復(ま)た流る
  杜村連潏水     杜村(とそん)は  潏水(けつすい)に連なる
  晩歩見垂鉤     晩(くれ)に歩めば  垂鉤(すいこう)を見る

  ⊂訳⊃
          友を招いたが   仕事でだめと言ってきた
          そこで気ままに  ひとりでゆく
          川の面に  きらめく光
          山の姿は  おごそかに深まる秋の色
          竹林は   疎らと思えば生い茂り
          岩の泉は  咽ぶと思えば急流となる
          潏水のほとり    下杜の村里よ
          日暮れに歩めば  悠々自適の人に逢う


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧はこのころ中書舎人(正五品上)に昇進しました。中書舎人は文士の極官と称され、政事の中枢に達したことになります。しかし、政事に対する往年の熱意も冷め、自分の病気が思わしくないことにも気づいていました。杜牧は仕事を休んで樊川の別墅に出かけることが多くなります。
 詩題の「沈十九舎人」は恩人沈伝師(しんでんし)の息子で、沈詢(しんじゅん)といいます。このとき杜牧と同じ中書舎人でした。杜牧は沈詢を野遊びに誘い、いっしょに出かける約束をしていましたが、沈詢は仕事が忙しくて行けなくなったと断ってきました。だからひとりで樊川(はんせん)に出かけたのです。
 朱坡のあたりは自然が豊かで、杜牧は下杜(かと)の村里の野径をゆっくりと歩きながら、秋の田園の美しい風景を描きます。日暮れになって、小川で釣り糸を垂れている人を目にしました。「垂鉤」は隠者の表象であり、杜牧はそうしたものに心惹かれる自分を描くのです。

 杜牧ー151
    読韓杜集             韓杜の集を読む

  杜詩韓筆愁来読   杜詩(とし)  韓筆(かんぴつ)  愁い来たりて読めば
  似倩麻姑癢処抓   麻姑(まこ)に倩(こ)いて  癢(かゆ)き処を抓(か)くに似たり
  天外鳳凰誰得髄   天外(てんがい)の鳳凰  誰か髄(ずい)を得ん
  無人解合続弦膠   人の  解(よ)く続弦膠(ぞくげんこう)を合わす無し

  ⊂訳⊃
          寂しいときに  杜甫と韓愈の詩文を読めば

          麻姑の手のように    痒いところにゆきとどく

          天外にひそむ鳳凰よ  その精髄を手に入れて

          続弦膠を作れる者は  もはやどこにもいないのだ


 ⊂ものがたり⊃ 都に帰った杜牧は、自分の詩文稿の整理を手がけていました。詩文は千百稿ほどあったといいますが、そのうち十分の二、三を残して、あとは焼却したといいます。精選した詩文稿を甥(姉の子)の裴延翰(はいえんかん)に託して、『樊川集』の編纂を依頼しました。
 十一月になると、杜牧は自分の墓誌銘を撰しました。その中に妻は「若干時先」に死んだとあり、妻裴氏は杜牧よりすこし前に亡くなったようです。十二月ごろ杜牧は安仁坊の自宅で病没したと史書は記しています。実は杜牧の正確な卒年月日は不明で、翌大中七年に五十一歳で亡くなったという説もあります。
 杜牧は杜甫のように戦乱に巻き込まれ、妻子をともなって流浪することもありませんでした。また、名門の出でしたので、寒門出身の韓愈のように任官に苦労することもありませんでした。しかし、官への流入の時期が、牛李の党争の最盛期にあたっていたのは不運でした。
 杜牧の生涯については、すでに述べましたが、杜牧が詩文の模範を杜甫と韓愈に見出していたことは、掲げた詩によって分かります。「杜詩 韓筆」というのは杜甫の詩と韓愈の文章という意味です。「麻姑」は仙女の名で、手の爪が鳥の爪のように長く伸びていたので痒いところに届いたといいます。
 「続弦膠」とは切れた弓の弦をつなげるほど強力な膠のことで、鳳凰の嘴と麒麟の角を合わせて煮た膏であったといいますので、伝説の膠でしょう。言語の精髄を選び出して、それを続弦膠でつなぎ合わせるように緊密な揺るぎのない詩に仕上げる。そのような詩を創り出せる詩人は、もはやどこにもいないと杜牧は嘆いています。ですが、杜牧こそが唐代最後の「解く続弦膠を合わす」詩人であったかもしれません。
 では、同時代の詩人は杜牧をどのように見ていたのでしょうか、杜牧よりは九歳ほど若い李商隠につぎの詩があります。
 
    杜司勲              杜司勲

  高楼風雨感斯文   高楼の風雨   斯文(しぶん)に感ず
  短翼差池不及群   短翼(たんよく)  差池(しち)として群(ぐん)するに及ばず
  刻意傷春復傷別   刻意(こくい)   春を傷(いた)み  復(ま)た別れを傷む
  人間惟有杜司勲   人間(じんかん) 惟(た)だ有り    杜司勲(としくん)

  ⊂訳⊃
          吹きやまぬ高楼の嵐  あなたの作に感動し

          非才のわたくしは     共に飛ぶことができません

          惜春の詩  贈別の歌  こころは深く刻まれて

          世の哀楽を知りわれを知るのは  ただあなただけ


 ⊂ものがたり⊃ 李商隠は大中二年の冬に蟄厔(ちゅうしつ:陝西省周厔県)の県尉に任ぜられていますので、李商隠がの杜牧を訪ねたのは、出張して都に出てきたたときと思われます。なお、「蟄厔」の蟄は外字になるので同音の字に変えてあります。本来は丸の部分が攵、虫の部分が皿です。
 起句の「高楼の風雨」は、世の乱れやこの世の苦労を四語で冒頭に置いたものでしょう。時代の危機意識を捉えながら、「斯文」は文学作品を強く特定する語ですので、あなたの作品には常々感動していましたと賞讃するのです。「差池」は等しくないことで、才能の及ばないことを謙遜して言っています。
 転句の「惜春」の詩も「 贈別」の詠も杜牧の作品にありますが、ここでは杜牧の詩の方向性を述べているものでしょう。「人間 惟だ有り 杜司勲」と結んで杜牧の詩業を賞讃しています。   
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