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ティェンタオの自由訳漢詩 明ー徐渭

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明33ー徐渭
   夜宿丘園            夜 丘園に宿す

  老樹拏空雲     老樹(ろうじゅ)   空雲(くううん)を拏(とら)え
  長藤羅渓翠     長藤(ちょうとう)  渓翠(けいすい)を羅(あみ)す
  碧火冷枯根     碧火(へきか)   枯根(ここん)に冷(ひや)やかに
  前山友精崇     前山(ぜんざん)  精崇(せいすう)を友(とも)とす
  或為道士服     或るもの      道士(どうし)の服(ふく)を為(な)し
  月明対人語     月明(げつめい)  人に対して語(かた)る
  幸勿相猜嫌     幸(さいわ)いに  相猜嫌(あいせんけん)すること勿(なか)れ
  夜來談客旅     夜来(やらい)   客旅(かくりょ)を談(だん)ぜん

  ⊂訳⊃
          老木は  夜空の雲をつかみ取るように立ち
          蔦葛は  谷川の水に網をかけるように広がる
          青い鬼火が  枯れた木の根元に冷たく光り
          前方の山は  妖怪変化が潜んでいるようだ
          そこに何者か  道士の服を着た者があらわれ
          月の光の中で  わたしに語りかける
          どうか私を  怪しまないでくれ
          夜も更けた  旅の話でもしようではないか


 ⊂ものがたり⊃ 穆宗隆慶帝が在位七年、三十六歳の若さで急死すると、十歳の皇太子朱翊鈞(しゅよくきん)が跡をついで神宗万暦帝になります。宰相張居正が病没すると神宗は贅沢と遊蕩に耽るようになり、政事は乱れて党派の対立が激しくなりました。
 宦官寄りの閹党(えんとう)と反宦官の官僚は激しく対立し、反宦官派の吏部侍郎顧憲成(こけんせい)は皇太子の冊立をめぐって神宗の怒りに触れ免職されます。故郷の無錫(江蘇省無錫市)に帰った顧憲成は、親しい友人たちと東林学院を興して講学につとめました。朱子学を講じ、朝政を論じて宦官の悪事を批判したので、多くの士大夫の支持を集めました。閹党の者はかれらを東林党と呼んで憎みますが、東林党の流れは明末の在野の批判勢力として力を伸ばしていきます。
 古文辞派「後七子」の詩も神宗の万暦年間になるとマンネリ化して、擬古主義の弊害が出てきます。そこに王守仁の流れを汲む陽明学左派の李贄(りし:字は卓吾(たくご))が出てきて、個の重視、心の尊重をとなえました。
 李贄(1527ー1602)は世宗の嘉靖六年(1527)に泉州晋江(福建省泉州市)で生まれ、嘉靖中期に挙人にあげられました。穆宗が即位した嘉靖四十五年(1566)には四十歳になっており、思想家・文芸評論家として活躍します。それまで詩よりも低く見られていた演劇や小説、特に『水滸伝』を高く評価し、庶民文化の重要性を訴えます。宰相張居正がいなくなると政事は乱れ、過酷な刑罰が横行しました。農民蜂起に同情的であった李贄は迫害をうけるようになり、万暦三十年(1602)に獄中で自殺します。享年七十六歳です。
 古文辞派の詩が批判されるなか、詩壇とは離れたところから個性的な詩人があらわれます。徐渭(じょい)は在野の画家・著述家で、湯顕祖は異色の詩人・劇作家です。二人は個性派とよばれる人々の先駆者と目されています。
 徐渭(1522ー1595)は山陰(浙江省紹興市)の人。世宗即位の翌年、嘉靖元年(1522)の生まれですが庶子でした。父親は徐渭が生まれた年になくなり、実母は十歳のときに徐家から追いだされます。義母も徐渭が十代半ばのときになくなり家は没落します。六歳のころから教育をうけ、文才に恵まれていましたが科挙には及第できませんでした。
 二十歳で結婚しますが、その妻も五、六年でなくなるという不幸にあいます。壮年期に浙江総督胡宗憲(こそうけん)の幕下に書記として勤めますが、胡宗憲が逮捕されると連座を恐れるあまり精神不安定になり自殺をはかります。のちに後妻を殺して獄に投ぜられ、釈放後は山水に隠れて詩酒書画を友としました。晩年は著述に励み、神宗の万暦二十三年(1595)になくなります。享年七十四歳です。
 詩題の「丘園」(きゅうえん)は丘の上の庭園です。作者が三十代のころ南を旅行し、丘の上にある大きな屋敷に泊りました。そのときの作品です。夜、眠れなかったのか庭を散歩し、その感懐を幻想的に詠います。
 四句ずつ前後に分かれ、はじめの四句で庭の雰囲気を描きます。大きな老木が聳え立ち、「長藤」(長い蔦葛)が谷川の水に網をかけるように広がっています。「碧火」は鬼火のことで、鬼火が枯れ木の根元で冷たくひかり、前方の山は「精崇」(もののけ、妖怪)が潜んでいるような雰囲気です。薄気味の悪い導入部です。
 後半の四句では、突如、道士の服装をした人物があらわれて「人」(私)に語りかけます。結びはその言葉で、「幸いに……勿れ)」は願うという意味になり、「猜嫌」は疑う、嫌がるという意味です。どうか私を怪しまないでくれ。夜も更けたので旅の話でもしようではないか、と道士の服装をした者がいいます。一種の物語詩で怪奇小説の雰囲気をただよわせる詩です。

 明34ー徐渭
    題葡萄圖             葡萄の図に題す

  半生落魄已成翁   半生(はんせい)    落魄(らくたく)  已(すで)に翁(おきな)と成り
  独立書斎嘯晩風   独り書斎に立ちて  晩風(ばんぷう)に嘯(うそぶ)く
  筆底明珠無処売   筆底(ひつてい)の明珠(めいしゅ)  売るに処(ところ)無し
  閑抛閑擲野藤中   閑に抛(なげう)ち  閑に擲(なげう)たん  野藤(やとう)の中(うち)

  ⊂訳⊃
          わが半生は落ちぶれたまま  すでに老人になり

          ひとり書斎のまえに立ち    夕風になかで詩を吟じる

          わたしの描く葡萄の実は    どこに行っても売れないから

          心静かに投げ込んでやろう   蔦葛のなかに


 ⊂ものがたり⊃ 詩は自作の「墨葡萄図」に書きつけた題画詩です。五十三、四歳のころの作品で、不遇の人生を振りかえります。はじめの二句は自分の姿。「落魄」(落托(らくたく))は落ちぶれてがっかりするようすであり、老いてひとり書斎のまえに立ち詩を吟じています。
 後半の二句は感慨で、「筆底の明珠」は絵筆でかいた葡萄の実。その絵が売れないので、「閑に抛ち 閑に擲たん」と嘆いて結びます。自分の絵が評価されないのなら心静かに、この葡萄の絵のなかに自分の画才を思う存分注ぎこむことにしようと、居直った心情を詠うのでしょう。(2016.7.10)

ティェンタオの自由訳漢詩 明ー湯顕祖

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 明35ー湯顕祖
   秋発庾嶺            秋 庾嶺を発す

  楓葉沾秋影     楓葉(ふうよう)   秋影(しゅうえい)沾(うるお)い
  涼蝉隠夕暉     涼蝉(りょうせん)  夕暉(せきき)に隠(かく)る
  梧雲初暗靄     梧雲(ごうん)  初めて暗靄(あんあい)
  花露欲霏微     花露(かろ)   霏微(ひび)ならんと欲す
  嶺色随行棹     嶺色(れいしょく)  行棹(こうとう)に随(したが)い
  江光満客衣     江光(こうこう)   客衣(かくい)に満つ
  徘徊今夜月     徘徊(はいかい)す  今夜の月
  孤鵲正南飛     孤鵲(こじゃく)   正(まさ)に南飛(なんぴ)す

  ⊂訳⊃ 
          秋になって   楓の葉はなんだか湿っぽい
          夕陽のなか  蝉はやがていなくなる
          桐の木立は  夕靄におおわれはじめ
          花の露も    霞んで見えなくなろうとする
          舟が進むにつれて  峰のおもむきはかわり
          川面の光は  旅の衣を照らしだす
          今宵の月が  空にただよい
          一羽の鵲は  いままさに南へ飛んでいく


 ⊂ものがたり⊃ 湯顕祖(とうけんそ:1550―1616)は臨川(江西省)の人。世宗の嘉靖二十九年(1550)に官家に生まれ、若くして文名をあげます。穆宗の隆慶四年(1570)に二十一歳で郷試に及第しますが、反宦官の東林党と親しかったために張居正に睨まれて迫害をうけます。その間、在野の詩人として活躍し、劇作にも手をつけます。
 神宗の万暦十年(1582)に張居正がなくなり、翌万暦十一年に三十四歳で進士に及第します。南京太常博士をへて礼部主事にすすみますが、万暦十九年(1591)、四十二歳のときに朝廷を批判して徐聞(広東省)に流されます。
 赦されて遂昌(浙江省)の知県になりますが五年で辞し、臨川県沙井巷の清遠楼玉茗堂に隠棲して演劇・詩文の執筆に従事します。明代を代表する劇作家であり、「玉茗堂四夢」(紫釵記・南柯記・牡丹亭還魂記・邯鄲記)は代表作とされています。万暦四十四年(1616)に不遇のうちになくなり、享年六十七歳です。
 詩題の「庾嶺」(ゆれい)は江西省と広東省の境にある山脈です。徐聞(広東省)に流されて嶺南におもむく途中、大庾嶺を越えました。後半に「行棹」とあるので、舟行に移ってからの詩でしょう。
 詩は舟の進行にしたがって詠いすすめられます。前半四句はあたりの景色です。「楓葉」は秋になると美しく紅葉しますが、それを湿っぽいと感じます。蝉の鳴き声も日暮れとともに聞こえなくなります。つづく二句も航路の点景で、「梧雲」は雲のように繁っている梧桐の木立のことです。「霏微」は霞んで見えなくなること。これら暗く湿った光景は作者の心情の反映でもあるでしょう。
 後半四句は「行棹」(舟がすすむこと)につれて大庾嶺の峰はたたずまいをかえ、川面に反映した夕陽が「客衣」(旅の衣)を照らしだします。日が沈み、月が昇り、結びでは夜空にただよう月と南へ渡っていく鵲の姿を描きます。ひとり流謫の地へむかう自分を鵲に喩えるのでしょう。

 明36ー湯顕祖
    聞都城渴雨            都城の渇雨を聞く
    時苦攤税             時に攤税に苦しむ

  五風十雨亦爲褒   五風十雨(ごふうじゅうう)  亦(ま)た褒(ほう)と為(な)る
  薄夜焚香沾御袍   薄夜(はくや)  香(こう)を焚(た)いて  御袍(ぎょほう)沾(うるお)う
  当知雨亦愁抽税   当(まさ)に知るべし  雨も亦た抽税(ちゅうぜい)を愁(うれ)うるを
  笑語江南申漸高   笑語(しょうご)す   江南の  申漸高(しんぜんこう)

  ⊂訳⊃
          恵みの雨は  天子のお褒めにあずかることができる

          夕暮れ時に香を焚いて  雨乞いをされているからだ

          おわかりになるべきだ  江南の申漸高が笑ったように

          雨もまた    税を取られるのが嫌いなのだ


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「渴雨」(かつう)は日照りのことです。北京周辺が旱魃に襲われていると聞き、民衆が「攤税」(たんぜい:納税)に苦しむと政府を批判します。白居易風の諷諭詩になっており、遂昌の知県を辞してまもないころの作品でしょう。
 四字熟語の「五風十雨」は五日に一度の風、十日に一度の雨、稔りをもたらす恵みの風雨です。それが「褒と為る」のは天子が雨乞い中だからです。天子の雨乞いにもかかわらず「渴雨」になったのは「当に知るべし」、雨もまた「抽税」(徴税)を嫌っているからだ皮肉ります。
 五代十国のころ南唐に「申漸高」という者がいて、都周辺に雨が降っていて都のなかに降らないのはなぜだろうと聞かれ、「雨も税金を取られるのがいやなので街の中に入って来ないのです」と答えたといいます。その故事を踏まえています。(2016.7.12)

ティェンタオの自由訳漢詩 明ー袁宏道

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 明37ー袁宏道
   病起偶題 其一      病より起ちて偶々題す 其の一

  対客心如怯     客(かく)に対して  心  怯(おび)ゆるが如く
  窺銅只自憐     銅(かがみ)を窺(うかが)って  只(た)だ自(みずか)ら憐(あわ)れむ
  負暄疎敗髪     暄(けん)を負(お)うて    敗髪(はいはつ)を疎(くしけず)り
  発篋理残篇     篋(きょう)を発(ひら)いて  残篇(ざんぺん)を理(おさ)む
  名豈儒冠悞     名は豈(あ)に儒冠(じゅかん)に悞(あやま)られんや
  病因濁酒痊     病(やまい)は濁酒(だくしゅ)に因(よ)って痊(い)ゆ
  浮生喩泡影     浮生(ふせい)  泡影(ほうえい)に喩(たと)えらる
  何以楽靑年     何(なに)を以(もっ)て青年を楽しまんや

  ⊂訳⊃
          見舞いの客にむかうと  怯えてしまう
          鏡のなかの顔を覗けば  憐れむばかりだ
          日向ぼっこをしながら   乱れた髪をくしけずり
          文箱を開けて   書きそこないの詩を直す
          儒学の勉強で  名が損なわれるはずはなく
          わたしの病は   濁り酒の力でなおったのだ
          人の一生は    泡や影のように儚いもの
          ならば若い日を  どうやって楽しもうか


 ⊂ものがたり⊃ 神宗の万暦年間(1572―1620)は四十八年におよびます。神宗の贅沢によって文華は爛熟しますが、国家財政はまたたくまに危機に陥ります。それに拍車をかけたのが内外の三大乱です。
 万暦二十年(1592)二月、モンゴル族の将軍ボバイが叛して寧夏城(寧夏回族自治区霊武県)を占領しました。鎮圧するのは九月になりますが、反乱の最中、四月に豊臣秀吉軍が朝鮮半島に攻めこんできました。文禄の役・慶長の役の始まりです。明は朝鮮に援軍を送りますが敗北を重ねます。その外寇がまだ終わっていない万暦二十五年(1597)七月、播州(貴州省遵義県)の族長楊応龍(ようおうりゅう)が叛し、鎮圧に三年を要しました。
 李贄の文学論に刺激された個性派の動きは、個性の尊重という叙情の基本に立ち返ろうとするものでしたが、政事の混迷のなか社会から眼を逸らして個人の内面に逃避する側面がありました。個性派の前半をいろどるのは袁宗道・宏道・中道の三兄弟であり、兄弟が公安(湖北省公安県)の出身であったことから公安派(三袁)と呼ばれます。代表するのは袁宏道(えんこうどう)です。
 袁宏道(1586ー1610)は公安(湖北省公安県)の人。穆宗の隆慶二年(1586)に生まれ、若くして詩才を発揮し十代半ばで詩会を結成します。神宗の万暦二十年(1592)に二十五歳で進士に及第しますが、内憂外患の時代でした。そんななか呉県(江蘇省蘇州市)の知県になって名声を博し、礼部主事などを歴任、吏部稽勛郎中に至ります。
 古文辞派が一世を風靡するなか二十四歳のときに李贄(卓吾)にあい、影響を受けて擬古主義に反対します。性霊説を唱え、詩文は真情の吐露を第一とすべきと主張し、詩語も平易なものを用いて公安派の創始者となります。しかし、病弱のため万暦三十八年(1610)になくなり、享年四十三歳です。
 詩題の「病(やまい)より起(た)ちて」は病の床を離れてという意味です。十九歳のときの作とされ、若いころから病弱でした。はじめの二句は病みあがりの精神状態で、気弱になっていることをのべます。中四句のはじめ二句は病気が治ったので身嗜みを整え、書きそこないの詩に手を加えてみたりします。「暄を負うて」は太陽の光を浴びること、日なたぼっこをすることの決まり文句です。「篋」は竹で編んだ箱、文箱として用いていたのでしょう。
 つぎの二句は病が治ったことへの感懐で、これからも儒学に励む覚悟をのべます。酒の力で病気が治ったといっているのは、これからも酒を嗜むという意味でしょうか。最後の二句は結びの感懐で、これからは無理をしないで楽しみながら生きていこうと陶淵明の考え方に倣う処世観をのべます。「浮生 泡影に喩えらる」というのは、『金剛般若経』に「世の中一切のものは夢幻泡影(むげんほうえい)」とあるのを引用しており、十九歳で仏教にも関心のある早熟の才能でした。

 明38ー袁宏道
   過呉戲柬江進之     呉を過って戲れに江進之に柬す

  少年作客時     少年  客(かく)と作(な)りし時
  浸浸慕君長     浸浸(しんしん)として君長(くんちょう)を慕(した)う
  千旄絡長衢     千旄(せんぼう)  長衢(ちょうく)に絡(つづ)き
  一呵已神往     一呵(いっか)   已(すで)に神往(しんおう)す
  前者為呉令     前者(さき)には呉令(ごれい)と為(な)り
  始復羨游客     始めて復(ま)た遊客(ゆうかく)を羨(うらや)む
  覚彼白衫寛     彼(か)の白衫(はくさん)の寛(かん)なるを覚(おぼ)え
  恨我腰帯窄     我が腰帯(ようたい)の窄(せま)きを恨(うら)みき
  今日過呉下     今日(こんにち)  呉下(ごか)を過(よぎ)る
  客来官已了     客として来たり  官は已(すで)に了(おわ)る
  從頭細忖量     頭(はじめ)より細(こま)やかに忖量(そんりょう)するに
  客比官較好     客は官に比して較好(ややよ)し
  客是一尺雪     客は是(こ)れ一尺の雪
  官是一窟塵     官(かん)は是れ一窟(いっくつ)の塵(ちり)
  欲得客兼勢     客にして兼ねて勢(せい)を得んと欲すれば
  同年作主人     同年(どうねん)は主人(しゅじん)と作(な)れり

  ⊂訳⊃  
          若いころ  旅暮らしのときは
          役人を羨ましいと思っていた
          旗をつらねて大通りをゆく
          先駆の一声に見惚れていた
          ところが先年  呉の県令になって
          あらためて   旅する人を羨ましいと思う
          ゆったりした  白の上衣が好ましく
          官服の帯の   窮屈なのは嫌いである
          今度 呉の城下に立ち寄り
          仕事はやめて  旅人としてやってきた
          よくよく考えてみると
          役人よりは  旅人の方がましだ
          旅人を一尺の雪だとすれば
          役人などは穴蔵の中の塵芥
          旅の自由と権勢を  ともに得たいと思うなら
          同期生よ   君はすでに成し遂げている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「江進之」(こうしんし)は進士の同年で友人です。公安派の詩人でした。万暦二十五年(1597)、三十歳のころに遊歴の途中かつて県令をしたことのある「呉」(江蘇省蘇州市)に立ち寄りました。そのとき書信に添えて送った詩で、みずから「戲(たわむ)れに」といっていますが、官僚を批判しています。
 前半八句で過去の体験と感想をのべます。「少年」は自分のことで二十代であることをしめします。若いころ「客」(旅)をしていたときは、「君長」(偉い役人)を羨ましいと思っていました。「千旄」は多くの旗さしもの、「長衢」は街の大通り、「一呵」は一声、先払いの声でしょう。その声に「神往」(魂を打たれる)したといいます。
 つぎの四句は自分が「呉令」(呉の県令)になったときのことです。役人になってみると、「游客」(自由に旅する人)が羨ましくなります。「白衫」は無位無官の者の着る白い上衣、「腰帯」は役人のつける腰おびで、そこに印綬をつるしています。役人の窮屈な生活が嫌になったというのです。
 後半八句は現在の感想で、「呉下」は蘇州の城下のことです。「官は已に了る」といっていますが、辞官していたわけではなく役目を一時離れていたことの詩的誇張でしょう。よくよく「忖量」(おしはかる)してみると、役人より旅人の方がましのようだといいます。そのことをつぎの対句で直喩して、旅人の潔白と役人の汚職を対比します。旅人の自由と役人の権勢を同時に持とうと思うなら、君はそれを成し遂げていると江進之を褒めます。「同年」は科挙の同年及第者が互いに相手を呼ぶときの言い方で、親戚以上の親しみがありました。

 明39ー袁宏道
   聴朱生説水滸伝      朱生が水滸伝を説くを聴く

  少年工諧謔     少年  諧謔(かいぎゃく)に工(たく)みに
  頗溺滑稽伝     頗(すこぶ)る   滑稽(こっけい)の伝(でん)に溺(おぼ)る
  後来読水滸     後来(こうらい)  水滸(すいこ)を読み
  文字益奇変     文字(もんじ)    益々(ますます)奇変(きへん)
  六経非至文     六経(りくけい)  至文(しぶん)に非(あら)ず
  馬遷失組練     馬遷(ばせん)は組練(それん)に失(しっ)す
  一雨快西風     一雨(いちう)  快西風(かいせいふう)
  聴君酣舌戰     君(きみ)が   酣舌戦(かんぜつせん)を聴(き)く

  ⊂訳⊃ 
          若いころから  洒落に巧みで
          『史記』の滑稽列伝に読みふける
          やがて『水滸伝』を読むと
          文章はいっそう勝れ 変化に富んでいる
          儒教の経典は     最高の名文とはいえず
          司馬遷の文章は   つくりものめいている
          さっと降るにわか雨  心地よい西の風
          あなたの語り口は   そんな感じがいたします


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「朱生」(しゅせい)は当時の有名な講談師でしょう。『水滸伝』は元末明初の施耐庵(したいあん)が書きはじめたものを同時代の作家羅貫中(らかんちゅう)が完成したとされ、梁山泊につどう豪傑たちの活躍を描く長篇白話小説です。農民蜂起を題材にした中国最初の作品といわれ、李贄は二種類の評点本を書き、「宇宙内五大文章」のひとつと讃えています。明代には講談として語られ、大衆的な人気を博しました。
 詩は前半四句で自分の読書体験をのべます。「少年」は自分のことで、若いころから「諧謔」(面白おかしい表現、機転の利いた表現)が上手だったといいます。『史記』の滑稽列伝を読みふけり、やがて『水滸伝』を読むようになりましたが、『史記』よりも『水滸伝』の方が面白かったといいます。
 後半の四句は中国古典の評価で「六経」は儒教の経典のことです。それを「至文」(最高の名文)にあらずと批判します。「馬遷」は司馬遷のことで、『史記』を意味します。「組練」は組み立てたり練り合わせたりすることで、『史記』の文章はうまく出来ていないと貶すのです。最後の二句は朱生への褒め言葉です。「一雨快西風」「酣舌戦」のようだと最高の褒め言葉を贈ります。李贄や公安派の反権力的は側面を窺わせる作品です。(2016.7.16)

ティェンタオの自由訳漢詩 明ー鐘惺

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 明40ー鐘惺
   答彦先雨夜見柬二首     彦先の 雨夜 柬せらるるに答う 二首    
   其一               其の一

  蕭然形影自為雙   蕭然(しょうぜん)として  形影(けいえい)  自(おのず)から双(そう)を為(な)す
  旅況郷心久客降   旅況(りょきょう)  郷心(きょうしん)   久客(きゅうかく)降(くだ)る
  歴尽厳霜如落葉   厳霜(げんそう)を歴尽(れきじん)して  落葉(らくよう)の如く
  聴多寒雨只疎窓   寒雨(かんう)を聴(き)くこと多くして   只(た)だ疎窓(そそう)

  ⊂訳⊃ 
          うらぶれた姿で       私と私の影が並んでいる

          旅の境遇 望郷の思い  旅人の心も落ちつく

          冷たい霜にうたれて    落ち葉のようにしおれ

          氷雨の音を聴きながら  窓辺に寄り添うばかりです


 ⊂ものがたり⊃ 公安派につづく竟陵派は公安派の平俗を批判して、より深刻な境地を求めました。平俗を批判して新奇で晦渋な表現にむかい、高踏的な詩風に陥ります。個性派の個性回帰が社会の現実からの逃避という側面を持っていたことと通底する現象でしょう。この派の詩風を代表する鍾惺(しょうせい)と潭元春がともに竟陵(きょうりょう)の出身であったことから竟陵派と称されます。
 鍾惺(1572―1624)は竟陵(湖北省天門市)の人。神宗即位の隆慶六年(1572)に生まれ、万暦年間の進士です。官は福建提学僉事に至ります。古文辞派の詩に反対して、個性の発揮を主張。公安派と歩調を同じくしましたが、公安派が平俗に流れたのにあき足らず、深さと独創性を追求して竟陵派と称されます。熹宗の天啓四年(1624)に亡くなり、享年五十三歳です。
 詩題の「彦先」(げんせん)は友人の名です。「柬」(かん)は書簡のことですが、ここでは動詞として用いられており、雨の夜、彦先の手紙に答える詩です。起句の「形影」は自分の体とその影、淋しくうらぶれた姿です。承句の「久客降る」の降は心が落ちつくこと。久しく旅にある自分の心が落ちついたと、手紙をくれた彦先に感謝するのです。転句と結句はそれまでの状態をさらに詳しくのべるもので、「歴尽」は経験しつくすこと。「寒雨」(氷雨)の音だけを聴きながらひたすら窓辺に寄り添っていたが、あなたの手紙によって慰められたと礼をのべるのです。

ティェンタオの自由訳漢詩 明ー譚元春

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 明42ー譚元春
    甁 梅               瓶  梅

  入甁過十日     瓶(かめ)に入りて十日(じゅうじつ)を過ぎ
  愁落幸開遅     落つるを愁(うれ)うるも  幸(さいわ)いに開くこと遅し
  不借春風発     春風(しゅんぷう)を借(か)りずして発(ひら)き
  全無夜雨欺     全(まった)く夜雨(やう)に欺(そむ)かるること無し
  香来淸浄裏     香(こう)は清浄(せいじょう)の裏(うら)に来たり
  韻在寂寥時     韻(いん)は寂寥(せきりょう)の時(とき)に在り
  絶勝山中樹     絶(はなは)だ勝(まさ)る  山中の樹(き)の
  遊人或未知     遊人(ゆうじん)  或(ある)いは未(いま)だ知らざるに

  ⊂訳⊃
          瓶に活けられて十日が過ぎ
          散るのを心配したが 幸いにも遅く咲いた
          春風の力を借りずに咲き
          夜の雨にうたれることもない
          香りは清らかなままに流れ
          もの静かな姿を保っている
          山中の樹の中で  梅が一番と
          知らない人も    いるのではなかろうか


 ⊂ものがたり⊃ 譚元春(たんげんしゅん:1586―1637)は竟陵(湖北省天門市)の人。神宗の万暦十四年(1586)に生まれ、同郷の先輩鍾惺とともに竟陵派を創始します。熹宗の天啓七年(1627)、四十二歳で郷試に解元(首席)で及第しますが、それは鍾惺の没後三年のことでした。毅宗の崇禎十年(1637)に亡くなり、享年五十二歳です。
 詩題の「甁梅」(へいばい)は花瓶の梅。はじめ六句は瓶に活けられた梅の思いを叙する形になっています。瓶梅は家のなかに置かれているので、風雨にさらされることもありません。頚聯の「韻は寂寥の時に在り」は「香」の句と対句になっていますので、「韻」は風韻、趣のある姿の意味でしょう。それが「寂寥」(寂しくもの静か)の時を保っています。尾聯の二句は作者の問いかけでしょう。「甁梅」が山中の樹から採って来たものであることを窺わせます。

ティェンタオの自由訳漢詩 明ー王彦泓

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 明43ー王彦泓
   余旧詩悉已遺忘      余が旧詩 悉く已に遺忘す 而して
   而韜仲皆為存録展    韜仲 皆 存録を為す 展閲一過
   閲一過 覚無端往     無端の往事 交々胸懐に集まるを
   事交集胸懐恨然久    覚え 恨然 之れを久しゅうす
   之 因呈四韻        因って四韻を呈す

  不堪重対旧詩篇   堪(た)えず  重ねて旧詩篇(きゅうしへん)に対するに
  潦倒歓場二十年   歓場(かんじょう)に潦倒(ろうとう)すること  二十年
  多為微辞猜宋玉   多く微辞(びじ)を為(な)して宋玉(そうぎょく)を猜(はか)り
  敢持才語傲非煙   敢(あえ)て才語(さいご)を持(じ)して非煙(ひえん)に傲(おご)る
  春風鬢影弾琴看   春風(しゅんぷう)  鬢影(びんえい)  琴を弾(だん)じて看(み)
  夜月歌声隔巷隣   夜月(やげつ)  歌声(かせい)   巷(こう)を隔(へだ)てて隣(とな)る
  今日掩門梅雪下   今日(こんにち)  門を掩(おお)う  梅雪(ばいせつ)の下(もと)
  薬炉声沸臥床前   薬炉(やくろ)   声(こえ)は沸(わ)く  臥床(がしょう)の前(まえ)

  ⊂訳⊃
          昔の詩を読み返すのは  やりきれない
          歓楽の巷に入りびたり  二十年が過ぎた
          微妙ないいまわしで  宋玉の再来かといわれ
          気の利いた詩句で   妓女たちを唸らせる
          春風に琴を弾きつつ  美女のおくれ毛を眺め
          月明り  夜の歌声は  道巾ほどの近さであった
          いまは門扉を閉じて  白梅の花咲く下
          炉で薬を煎じる音が  枕元で湧きおこる
 

 ⊂ものがたり⊃ 万暦四十八年(1620)に神宗が崩じると皇太子朱常洛(しゅじょうらく)が即位して光宗泰昌帝になりますが、在位一か月でなくなります。毒殺されたという疑いも伝えられています。光宗の長子十六歳の少年朱由校(しゅゆこう)が即位して熹宗天啓帝になりますが、熹宗は明朝随一の暗君と称せられ、宦官魏忠賢(ぎちゅうけん)が専権を振るいます。
 恐怖政事のもと無為無策の八年が過ぎて熹宗が崩じると、異母弟の信王朱由検(しゅゆけん)が位をついで毅宗崇禎帝になります。毅宗は帝国再建の志を抱き、政局の転換に着手し、魏忠賢は自殺して東林党の生きのこりが登用されますが、すでに有力な指導者の大半は失われていました。
 明では英宗の正統年間(1436―1446)から農民や都市細民の暴動が頻発するようになり、くわえて遼東の女真族(ジュルチンぞく)が統一を果たし、後金国を立てて勢力を拡大してきました。そのため外防の軍事費もかさむことになります。毅宗即位の天啓七年(1627)、陝西の延安地方を中心に大飢饉があり、暴動はたちまち陝西全域に拡大しました。李自成(りじせい)ら明末の反乱については歴史書を参照してください。
 崇禎年間(1628―1644)を生きた詩人に王彦泓(おうげんこう)と陳子龍がいます。二人の詩風、生き方はまったく方向を異にしていました。王彦泓(?―1642)は金壇(江蘇省)の人。科挙に及第せず、毅宗の崇禎年間に華亭訓導として終わります。詩は耽美的で晩唐の香奩体をつぐ優艶な詩を復活しました。国家衰亡のなか悲愁の色は深く、虚無にかたむいています。崇禎十五年(1642)に亡くなり、享年は不明です。
 詩題は長い詞書(ことばがき)です。「韜仲」(とうちゅう:伝不詳)は友人でしょうが、字(あざな)か号と思われます。その韜仲が王彦泓の詩を保存していてくれた。それを「展閲一過」(紐解いてひととおり読む)と「無端往事」(思いがけない昔のこと)が胸にこみ上げてきました。そこで「恨然」(しょんぼり)して「四韻」(律詩)を贈ると経緯をのべます。
 首聯で「歓場に潦倒すること 二十年」といっていますので、晩年の作品と思われます。「潦倒」は入りびたること、「歓場」は歓楽の巷です。そのころの詩をみせられて、読み返すのはやり切れないと謙遜します。謙遜しながらも過ぎ去った二十年は懐かしく、中四句でそのころの華やかな生活を思いだします。「微辞」は微妙ないいまわしのこと。「宋玉」は戦国楚の文人、屈原と並ぶ詩人です。「才語」は才知のある言葉、気の利いた詩句でしょう。「非煙」は唐代の伝奇に出てくる文学少女の名ですが、つづく二句から妓女をさすと思われます。
 頚聯の二句は紅楼の巷で妓女たちと過ごした日々の想い出です。「巷」は街中の路地を意味しますので、妓女たちの歌声が聞こえるほどの近いところに住んでいたということです。尾聯は一転して現在のことです。「梅雪」は雪のように白い梅の花。門を閉じて人と交際せず、「臥床前」(寝台の前)では囲炉裏で薬を煎じる音が湧きおこっていると、自嘲気味に詠うのです。

ティェンタオの自由訳漢詩 明ー陳子龍

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 明44ー陳子龍
     小車行              小車の行(うた)

  小車斑斑黄塵晩   小車(しょうしゃ)  斑斑(はんはん)たり  黄塵(こうじん)の晩(ばん)
  夫為推  婦為挽   夫(おっと)は為(ため)に推(お)し   婦(ふ)は為に挽(ひ)く
  出門何所之      門を出(い)でて  何の之(ゆ)く所ぞ
  青青者楡療吾飢   青青(せいせい)たる者  楡(にれ)  吾(わ)が飢(うえ)を療(いや)さん
  願得楽土共哺糜   願わくは楽土(らくど)を得て  共に糜(かゆ)を哺(くら)わん
  風吹黄蒿        風は黄蒿(こうこう)を吹き
  望見墻宇        墻宇(しょうう)を望見(ぼうけん)す
  中有主人当飼汝   中(なか)に主人有りて  当(まさ)に汝(なんじ)を飼(か)うべし
  叩門無人室無釜   門を叩(たた)くも人(ひと)無く  室(しつ)に釜(かま)無し
  躑躅空巷涙如雨   空巷(くうこう)を躑躅(てきちょく)して  涙  雨の如し

  ⊂訳⊃
          一輪車はごとごと進む 黄塵の舞う日暮れ
          夫は車を後ろから押し 妻は綱を挽く
          「家を出て 行くあてでもあるのですか」
          「青く繁った楡の木で  飢えをいやそう
          安住の地をえて 粥をたんまり食べたいものだ」
          風は枯れ蓬の野原を吹きぬけ
          遥かに土塀と屋根がみえる
          「あそこには旦那がいて  食を恵んで下さるだろう」
          門を叩くが誰も出てこず  部屋には鍋釜もない
          無人の路地でおろおろし 涙は雨のように流れ落ちる


 ⊂ものがたり⊃ 陳子龍(ちんしりゅう:1608―1674)は華亭(江蘇省上海市松江県)の人。神宗の万暦三十六年(1608)に生まれ、毅宗の崇禎十年(1637)に三十歳で進士に及第し兵科給事中になります。朝廷の腐敗に失望して故郷に帰り、「幾社」を設立して古文運動に携わります。
 古文辞派「後七子」の主張を継承して公安派・竟陵派に反対し、明詩の殿軍(しんがり)と称されています。「復社」につどう詩人たちとも呼応して慷慨の気にとむ社会詩を書きますが、三十七歳のとき明の滅亡に遭います。清(女真族)の関内侵入に抗して軍を起こそうとしますが逮捕され、順治四年(1647)に入水して自殺しました。享年四十歳です。
 詩題の「小車」(しょうしゃ)は一輪車のこと。杜甫の「兵車行」は出征兵士を見送る詩ですが、こちらは飢饉に遭って逃亡する流民の苦しみを詠います。詩中に会話を含む雑言古詩です。はじめの二句は状況の設定です。「斑斑」は点々とまだらなさまで、あちらこちらに小車が動いているとも解されますが、杜甫の「兵車行」が「車轔轔(りんりん)」と擬音になっていますので小車のすすむ擬音と考えました。
 一輪車は人がうしろから押すタイプの車で、夫が押し、妻は車の前につけた綱を挽きます。つぎの二句は夫婦の会話で、妻の問いに夫が答えます。「青青たる者 楡」という言い方は『詩経』に多い表現で、夫の答えは全体として詩経風です。楡の樹皮や葉は救荒食物であり、飢えを癒やすことができました。
 つぎの四言二句で枯れた蓬の野原を過ぎ、前方に「墻宇」(村を囲む土塀と屋根)がみえてきました。つぎの一句は句中に「汝」とありますので、通行人の言葉でしょう。結びは家に着いたところで、「門を叩くも人無く 室に釜無し」です。「空巷」は人っ子ひとりいない路地のことで、無人の村でした。「躑躅」はゆきつもどりつすることで、おろおろしながら失望の涙を流すのです。

 明45ー陳子龍
    春日早起             春日 早(つと)に起く

  独起凭欄対暁風   独り起ち   欄(らん)に凭(よ)って  暁風(ぎょうふう)に対す
  満渓春水小橋東   満渓(まんけい)の春水(しゅんすい)  小橋(しょうきょう)の東
  始知昨夜紅楼夢   始めて知る  昨夜  紅楼(こうろう)の夢
  身在桃花万樹中   身は桃花(とうか)   万樹(ばんじゅ)の中(うち)に在り

  ⊂訳⊃
          ひとり起きて欄干に凭れ  明け方の風に吹かれる

          谷川にみなぎる春の水は  小橋の東へ流れてゆく

          やっとわかった   紅楼でみた昨夜の夢は

          桃の花咲く林の中  桃源境であったのだ


 ⊂ものがたり⊃ 詩題は「春の日に朝早く起きる」ということで、川辺の高楼のようなところに泊った翌朝の作品でしょう。前半二句は状況。ひとり起き出して回廊の欄干に凭れ、明け方の風に吹かれています。「満渓の春水」は春の雪解け水で増水した谷川のことで、水は谷川に架かる小さな橋のしたを東へ流れています。
 後半二句は妓楼での華やかな宴の一夜を回想する詩とも解されますが、この二句には「始めて知る」が懸かりますので、これまでの自分の生活、そしてまた明の全盛期そのものが桃源境で酔い痴れていたようなものだったと、祖国滅亡の危機を予感する詩と解することができます。明が滅亡する前後につくられた作品で、亡国の危機に直面した者の痛切な反省の心を詠っていると見ることができます。(2016.7.22)

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー銭謙益(1)

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 清1ー銭謙益
     柳 枝                 柳  枝

  離別経春又隔年   離別(りべつ)して春を経(へ)  又(ま)た年を隔(へだ)つ
  揺青漾碧有誰憐   青を揺るがし碧(みどり)を漾(ただよ)わすも  誰有ってか憐れまん
  春来羞共東風語   春来(き)たって  東風(とうふう)と共に語るを羞(は)ず
  背却桃花独自眠   桃花(とうか)に背却(はいきゃく)して  独り自(みずか)ら眠る

  ⊂訳⊃ 
          お前と別れてから春が過ぎ  年もかわる

          緑の葉を揺るがせているが  誰が憐れんでくれるものか

          春が来て  春風と語りあうのも恥ずかしく

          二人とも桃の花に背をむけて  ひとり淋しく眠っている


 ⊂ものがたり⊃ 遼東の長白山地を住地としていた建州女真(ジュルチン)族の愛新覚羅(アイシンギョロ)ヌルハチは、明の万暦十一年(1583)、二十五歳のとき撫順関外の興京付近で自立しました。戦うこと三十余年、女真族の大半を旗下に収め、万暦四十四年(1616)正月にカーンに推戴されます。
 ヌルハチの後金軍と明軍の攻防、明における李自成(りじせい)の大順軍の興起、李自成の北京包囲と毅宗の自殺、山海関の守将呉三桂(ごさんけい)と後金改め清の摂政王ドルゴンの北京入城などについては、歴史書をお読みください。
 清の順治元年(1644)九月、ドルゴンは幼帝フリンを北京に迎えて即位式を行ない、清朝政権の成立を宣言します。しかし、清による統治は少数者による統治に過ぎません。ドルゴンは北京入城の翌月、六月のはじめ、清に服している証しとして薙髪を求める布告を出しますが、漢人の猛反発をうけて二十日ほどで布告を緩和します。だが、南京を占領すると改めて薙髪令をだし、十日以内に辮髪にせよと命じました。
 この布告は国中に衝撃をあたえ、江南では反清の抵抗運動が高まります。浙江では魯王朱以海(しゅいかい)が擁立され、南京を逃れた唐王朱聿鍵(しゅいつけん)は福建で即位して年号を隆武と定めますが、たちまち清軍に鎮圧されました。ついで順治三年(1646)十二月、広州(広東省広州市)の肇慶で桂王朱由榔(しゅゆうろう)が即位し、永暦の年号を立てます。
 嶺南が清の支配に組み入れられていくなか桂王政権は雲南に移り、永暦十六年(1662)、追いつめられてビルマに逃げこんだところをビルマ人に捕らえられました。桂王は雲南に進出していた呉三桂の軍に引き渡されて殺され、十六年間の亡命政権で終わりました。
 明末の崇禎二年(1629)、江南にあった文社(志や趣味を同じくする文人サークル)十数社が連合して「復社」が設立されました。中心となったのは雲間(上海市松江県)の「応社」の指導者で「婁東の二張」と称された張傅(ちょうふ)と張采(ちょうさい)です。「応社」は古学を復興し、有為の人材の育成を目標に掲げて社会にコミットする詩を重んじました。基本的には古文辞派に親近感を抱いていましたが、張傅は『漢魏六朝百三家集』を編纂して盛唐にこだわらない広い視野の持ち主でした。
 「復社」に参加した明末の詩人陳子龍・呉偉業・顧炎武・黄宗羲らのほとんどは明清の王朝交代を経験することになります。陳子龍は「幾社」の主宰者で「復社」にも参加していましたが、反清運動のなかで自殺するので明詩の殿軍(しんがり)といわれます。
 清代初期の詩人は東林党や「復社」の流れをくむ明の知識人が主流であり、国家の滅亡と異民族の支配という激動の時代を生きた人々です。まず挙げられるのは銭謙益(せんけんえき)と呉偉業(ごいぎょう)で、龔鼎孳(きょうていじ)と合わせて「江左の三大家」と称されます。なかでも銭謙益は竟陵派の鍾惺よりも十年遅れて生まれ、陳子龍や呉偉業よりは二十六、七歳の年長でした。明清交替の動乱期にこの年齢差は大きいのですが、一時、清に仕え、清代を生きて長命であったので清の詩人に数えられます。
 銭謙益(1582ー1664)は常熟(江蘇省常熟県)の人。明の神宗の万暦十年に生まれます。二十代のはじめから東林党に属し、万暦三十八年(1610)、二十九歳で進士に及第、翰林院編修になります。十年後に神宗が崩じ、あとを継いだ光宗は在位一か月で急死して熹宗の代になり、明朝は大きく揺れます。混乱のつづくなか、宦官に反対してしばしば獄に投じられ、毅宗の崇禎二年(1629)四十八歳のとき、礼部侍郎で罷免されます。
 六十三歳のときに明が滅亡し、南京に拠った福王に招かれて礼部尚書になります。翌順治二年(1645)、南京が清軍に包囲されると城を開いて降服し、清に仕えて礼部右侍郎になります。この行為は裏切りとして非難をあび、半年後に職を辞して故郷に隠棲することになります。康煕三年(1664)になくなり、享年八十三歳です。
 詩題の「柳枝」(りゅうし)は柳の枝。明の崇禎二年(1629)、四十八歳のときに罷免されて故郷に帰る途中、柳に託してみずからを憐れんだ作です。はじめの二句は柳によびかける言葉で、「青を揺るがし碧を漾わすも 誰有ってか憐れまん」は自問自答です。後半二句は感慨で、結句の「桃花」は華やかなものの比喩。ここでは官界での出世でしょう。そうしたものに「背を向けて」孤独であると詠うのです。

 清2ー銭謙益
    舟 中               舟   中

  断岸蘆抽白     断岸(だんがん)  芦(あし)は白きを抽(ひきだ)し
  斜陽蓼褪紅     斜陽(しゃよう)   蓼(たで)は紅(あか)きを褪(ぬ)ぐ
  舟行秋色裏     舟は秋色(しゅうしょく)の裏(うち)を行き
  人在水声中     人は水声(すいせい)の中(なか)に在り
  掠燕経残雨     掠燕(りゃくえん)  残雨(ざんう)を経(へ)
  吟蝉趣晩風     吟蝉(ぎんせん)  晩風(ばんふう)を趣(うなが)す
  陰虫休切切     陰虫(いんちゅう) 切切(せつせつ)たるを休(や)めよ
  已是白頭翁     已(すで)に是(こ)れ白頭翁(はくとうおう)

  ⊂訳⊃
          切り立つ崖  芦は白い穂をのぞかせ
          蓼の紅花は  夕陽のなかで色あせる
          舟は  秋景色のなかをゆき
          私は  水の音に包まれている
          燕は  降りのこしの雨を掠めて飛び
          蝉は  夕風を促すように鳴いている
          秋の虫よ  切々と鳴くのはよしてくれ
          私はもう  白髪頭の老人なのだ


⊂ものがたり⊃ 詩題の「舟中」(しゅうちゅう)は舟のなかでの作という意味です。「柳枝」とおなじく崇禎二年に罷免されて故郷に帰る途中の作で、運河をゆく舟旅です。季節は秋。岸辺の芦は白い穂をだし、蓼の紅い花も色あせています。中四句のはじめの対句は秋景色のなかをゆく舟と乗っている人(自分)。聞こえるのは水の音だけです。
 つぎの対句の燕と蝉は秋になると消えていくもので、都を追われる身に喩えるのでしょう。結びの「陰虫」は秋に鳴く虫のことで、鈴虫や蟋蟀の類です。夜になって虫の声が聞こえてきます。切々と鳴く声に堪えがたい思いがして、鳴くのはよしてくれと呼びかけるのでした。

 清3ー銭謙益
    獄中雑詩               獄中雑詩

  夜拆驚呼夢亦便   夜拆(やたく)  驚呼(きょうこ)して  夢も亦(ま)た便(あわ)く
  昼応如夜夜如年   昼は応(まさ)に夜の如く  夜は年(とし)の如かるべし
  都将永日鎖長繋   都(すべ)て永日(えいじつ)を将(もっ)て  鎖(くさり)長く繋ぎ
  只倚孤魂伴独眠   只(た)だ孤魂(ここん)に倚(よ)って  独眠(どくみん)に伴(ともな)う
  画獄脚跟還有地   獄を画(かく)して  脚跟(きゃくこん)  還(なお)地(ち)有り
  覆盆頭上不多天   覆盆(ふくぼん)頭上(とうじょう)  多(おお)からざるの天
  此中未悟逍遥理   此の中(うち)  未(いま)だ悟(さと)らず  逍遥(しょうよう)の理(り)
  枉読南華第一篇   枉(むな)しく読む  南華(なんか)の第一篇

  ⊂訳⊃
          夜廻りの拍子木の音に  驚かされて夢も覚めやすく
          昼は夜のように暗く    夜は一年のようにながい
          来る日も来る日も     鎖につながれ
          孤独な眠りの供は     夢だけだ
          狭く区切った獄房だが  踵の先にはまだ隙間があり
          盆を頭に被せたように  空は少ししかみえない
          こんななかでいまだに   「逍遥遊」の道理を悟らぬとは
          『荘子』冒頭の一篇を   読み過ごしてしまったのか


 ⊂ものがたり⊃ 崇禎九年(1636)に故郷にいたとき、銭謙益は不法行為を摘発され都に連行されて訊問をうけました。詩は翌崇禎十年、北京の獄中での作です。はじめの二句は獄中での日夜です。「夜拆」(夜廻りの叩く拍子木)の音に驚いて目をさまします。昼も夜も長く遅々としています。
 中四句で獄中生活をさらに詳しく描きます。獄中では鎖に繋がれていたようです。「孤魂」の魂は夢のことで、魂は夢になって現れると考えられていました。「脚跟」は踵(かかと)のこと、獄房は足を伸ばして踵のさきに隙間がある程度の広さでした。空もわずかしかみえない暗い閉ざされた空間です。
 最後の二句は感懐で、「逍遥」は『荘子』冒頭の「逍遥遊」のことです。唐の玄宗皇帝の時代に『荘子』を尊んで『南華真経』と称しましたので、「南華第一篇」というのです。獄中にあって『荘子』になにものにも捉われない自由の境地のあることを思いだし、そんな境地になれない自分を嘆くのです。(2016.8.3)

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー銭謙益(2)

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 清4ー銭謙益
   燈下看内人挿甁花      燈下に内人の瓶花を挿すを看て
   戲題四絶句 其一       戲れに四絶句を題す  其の一
            
  水仙秋菊並幽姿   水仙(すいせん)  秋菊(しゅうぎく)  幽姿(ゆうし)を並ぶ
  挿向磁缾三両枝   挿(さ)して磁缾(じへい)に向(あ)り  三両枝(さんりょうし)
  低亞小牕燈影畔   低亜(ていあ)す  小牕(しょうそう)  燈影(とうえい)の畔(はん)
  玉人病起薄寒時   玉人(ぎょくじん)  病(やまい)より起(た)つ  薄寒(はくかん)の時(とき)

  ⊂訳⊃
          水仙の花と秋菊の花を   奥ゆかしくならべる

          磁器の花瓶にいけられた  二三本だ

          病の床を離れたその人は  うすら寒い秋の日に

          小さな窓 灯火のそばで  身をかがめている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「内人」(ないじん)は家の者。妻や愛人をさす言葉です。ここでは有名な妓女であった柳如是(りゅうにょぜ)のことで、銭謙益が柳如是と暮らし始めたのは五十九歳のときでした。ときに柳如是は二十三歳です。同棲してしばらくたった六十歳代になってからの作品とみられています。
 詩題から「玉人」(大切な人、美しい人)は灯火のそばで花瓶に花をいけています。それを窓越しにみながら絶句四首を作ったことがわかります。詩は後半二句から見ていく方がわかりやすく、「低亞」は前かがみのことです。小さな窓のむこう灯火のそばで、前かがみになっている姿が窓を通してみえます。それは病の床から離れた柳如是です。「薄寒時」(薄ら寒い日)といっているので、秋深いころでしょう。
 窓を通してみえる情景がはじめの二句で、「水仙 秋菊 幽姿を並ぶ」とあるうち、水仙は春の花ですので柳如是のことでしょう。水仙には仙人という意味があり、仙女のように美しい柳如是にふさわしい表現です。その柳如是が菊の花を花瓶にいけています。「幽姿並ぶ」といっているのは、秋菊とおなじく柳如是も自分がわが家に活けた花であるといっていると解されます。

 清5ー銭謙益
   河間城外柳二首 其一     河間の城外の柳二首 其の一

  日炙塵霾轍迹深   日炙(あぶ)り  塵霾(つちふ)りて  轍迹(てつせき)深し
  馬嘶羊触有誰禁   馬嘶(いなな)き  羊触(ふ)るる  誰(たれ)有りてか禁ぜん
  劇憐春雨江潭後   劇(はなは)だ憐れむ  春雨(しゅんう)  江潭(こうたん)の後(のち)
  一曲清波半畝陰   一曲(いっきょく)の清波(せいは)  半畝(はんぽ)の陰(いん)

  ⊂訳⊃
          照りつける日ざし    舞う砂埃  轍の跡も深く

          馬が嘶き羊が柳にぶつかるが   とめる者はいない

          私は心を動かされる  春雨のあとの川の淀み

          小さな柳の木の陰で  波が清らかに揺れたのに


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「河間城」(かかんじょう)は河北省河間県の城です。街はずれに柳の木があり、二首の詩をつくりました。制作時期は不明ですが、柳の木に自分の人生行路を重ねて詠っていますので、半年で清朝を辞して故郷に帰るときの詩かもしれません。詩中に「春雨」とあるので、晩春の暑い日でしょう。
 冒頭の「日炙り 塵霾りて」は日がじりじりと照りつけ、黄砂の舞い降りる日であったことをしめしています。路には車の轍の跡が深く刻まれており、いらいらした感じの出だしです。二句目は柳の木の描写で、馬が嘶き、羊が柳の木にぶつかりますが、とめようとする者もいないと嘆きます。この句は清朝を辞する自分と周囲との関係を比喩したものと思われます。
 後半二句はふと目にとめた自然の小さな動きの描写で、「劇だ憐れむ」、つまり深く心を動かされたとまずのべます。春雨が降ったあと、川の淀んだところに柳が小さな木陰をつくっています。そこに清らかなさざ波が立ちました。ここに詠われている心情は、悔しさとそれを乗り越えようとする心の深いところでの煌めきでしょう。

 清6ー銭謙益
   丙申春  就醫秦淮寓   丙申(へいしん)の春 医に秦淮に就き 丁
   丁家水閣浹兩月臨行   家の水閣に寓すること両月に浹(あまね)し 
   作絶句三十首留別留   行くに臨んで絶句三十首を作り留別留題す 
   題  不復論次  其三   復た次を論ぜず  其の三

  舞榭歌台羅綺叢   舞榭(ぶしゃ)  歌台(かだい)  羅綺(らき)の叢(そう)
  都無人跡有春風   都(すべ)て人跡(じんせき)無くして春風(しゅんぷう)有り
  踏青無限傷心事   踏青(とうせい)  限り無し   傷心の事
  倂入南朝落炤中   併せて入(い)る  南朝(なんちょう)  落炤(らくしょう)の中(うち)

  ⊂訳⊃
          歌舞音曲の舞台   着飾った美女たち

          今は人の気配なく  春風だけが吹いている

          春の野辺に遊べば  悲しみは限りない

          南朝の都を照らす夕日のなかに  心は溶けて消えていく


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「丙申の春」は清の順治十三年(1656)、作者七十五歳の春です。題詞によると「病気の診療を受けるために南京の秦淮地区に行き、二か月あまり丁家の水辺の館に泊った。辞去するに当たって絶句三十首を作り、名ごり惜しい気持ちを書き止めて置き土産とした。作品の順序には拘らない」とあります。
 其の三の詩は南朝の都建康をしのぶ気持ちに託して、明の滅亡を悼む思いをのべたものでしょう。前半二句は華やかだった都の跡も、いまは人影もなく春風が吹いているだけだと今昔の感を詠います。後半の「踏靑」は清明節の日におこなう野遊びのことです。野遊びにでてみたけれど、湧いてくるのは悲しい気持ちだけです。そしてその悲しみも古都を照らす夕陽のなかに溶けこんでいったと寂寥感のみなぎる結びになっています。(2016.8.6)

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー呉偉業(1)

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 清7ー呉偉業
     自 信                 自ら信ず

  自信平生懶是真   自(みずか)ら信ず  平生(へいせい)  懶(らん)は是(こ)れ真なりと
  底須辛苦踏春塵   底(なん)ぞ須(もち)いん  辛苦(しんく)  春塵(しゅんじん)を踏むを
  毎逢墟落愁戎馬   墟落(きょらく)に逢(あ)う毎(ごと)に   戎馬(じゅうば)を愁え
  却聴風濤話鬼神   却(かえ)って風濤(ふうとう)を聴いて  鬼神(きしん)を話(かた)る
  濁酒一杯今夜酔   濁酒(だくしゅ)  一杯   今夜(こんや)酔い
  好花明日故園春   好花(こうか)   明日(みょうにち)  故園(こえん)の春
  長安冠蓋知多少   長安の冠蓋(かんがい)  知らず多少(いくばく)ぞ
  頭白江湖放散人   頭白(かしらしろ)し  江湖(こうこ)放散(ほうさん)の人

  ⊂訳⊃ 
          怠け癖が  おれの本当の姿とわかってきた
          苦労して  俗塵にまみれることはないのだ
          荒れた村をみるたびに  戦争の惨禍を愁えるが
          風波の音を聴きながら  怪談にも興じている
          今夜は今夜で   一杯の濁り酒に酔い
          明日は明日で   故郷の春の花を楽しむ
          都の出世仲間が  どれほどいるか知らないが
          頭も白くなった   田舎で気ままに暮らすのがよい


 ⊂ものがたり⊃ 呉偉業(ごいぎょう:1609ー1671)は太倉(江蘇省太倉県)の人。明の万暦三十七年(1609)に生まれ、明末の復社に参加して反体制運動にたずさわります。崇禎四年(1631)、二十三歳のときに状元(首席)で進士に及第。翰林院編修から東宮侍読、南京国子監司業を歴任します。だが、明末の動乱に遭遇し、三十六歳のときに明は滅亡します。
 南京で福王に仕えましたが、当局と合わず故郷に隠棲します。十年をへた順治十年(1653)、四十五歳のときに強く要請されて清に仕え、秘書院侍講、国子監祭酒になりますが、二年で母の喪にあい帰郷します。二朝に仕えたことを生涯の恥として、康煕十年(1617)に亡くなります。享年六十三歳です。
 自分自身を語り、「自ら信ず」と題します。制作時期は不明ですが、故郷に隠棲していたときの作でしょう。政事に関心を抱いていますが、自分は怠惰な人間であり、縛られない自由な生活を望んでいると詠います。
 はじめの二句で隠棲している自分の立場をのべます。「春塵」は春に舞う砂埃ですが、通常「塵」は世俗の塵、官界の汚濁に喩えます。中四句はさらに踏みこんだ自己認識で、「戎馬」(兵馬・戦争)の惨禍には心を傷めるのですが、一方では「風濤」(風と波)、つまりこの世の嵐の音を聴きながら、「鬼神」(霊魂や死者)について語ることも好んでいます。夜は酒を飲み、翌日は花を眺めて楽しむのです。「故園」は故郷といった意味です。
 尾聯は結びの感懐で、「長安」は都北京のこと。「冠蓋」は冠と車の幌で、政府高官のことです。昔の仲間の何人が都でときめいているかは知らないが、自分は頭も白くなった。「江湖放散の人」で終わるつもりだと強がってみせます。「江湖」は朝廷に対する在野を意味し、地方で気ままに暮らすつもりと詠うのです。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー呉偉業(2)

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 清10ー呉偉業
     自 歎               自ら歎ず

  誤尽平生是一官   平生(へいせい)を誤り尽くすのは  是(こ)れ一官(いっかん)
  棄家容易変名難   家を棄(す)つるは容易なるも  名を変ゆるは難(かた)し
  松筠敢厭風霜苦   松筠(しょういん)  敢(あえ)て風霜(ふうそう)の苦しみを厭(いと)わんや
  魚鳥猶思天地寛   魚鳥(ぎょちょう)  猶(な)お天地の寛(ひろ)きを思う
  鼓枻有心逃甫里   枻(せつ)を鼓(こ)して  甫里(ほり)に逃(のが)るる心有りしに
  推車何事出長干   車を推(お)して  何事ぞ  長干(ちょうかん)を出(い)でし
  旁人休笑陶弘景   旁人(ぼうじん)  笑うを休(や)めよ  陶弘景(とうこうけい)が
  神武当年早挂冠   神武(しんぶ)に当年  早く冠(かん)を挂(か)けしを

  ⊂訳⊃
          生涯を台なしにしたのは  ただ一度の宮仕え
          出家するのは易しいが   名を変えるのは難しい
          松や竹のように  風霜の苦に耐えるのを嫌がったわけではない
          魚や鳥のように  広い天地に遊びたい気持ちもあった
          舟に乗って     甫里に隠れたいと思っていたのに
          どうして私は    車に乗って南京を出てきたのか
          諸君  笑わないでくれ    むかし陶弘景が
          神武門に冠を掛けたように  役人をやめて帰ったのだ


 ⊂ものがたり⊃ わずか二年間でしたが、清朝に仕えたことが終生の悔いでした。はじめ二句の「一官」は、順治十年(1653)に清朝の国子監祭酒になったことをいいます。「家を棄つる」は清朝の薙髪令(辮髪の強制)に服さない者は出家して僧になるよりほかなかったことをさします。
 中四句は時世に対する本心をのべるもので、「松筠」(松と竹)は固く節操を守ることの喩えで、「枻を鼓して」はリズムをつけて櫂を漕ぐことです。「甫里」は蘇州の東南にあって、晩唐の詩人陸亀蒙(りくきもう)が隠棲した地です。「長干」は南京南郊の渡津で南京をさします。隠棲する気持ちさえあったのに、どうして車に乗って南京を出てきたのかと後悔するのです。
 尾聯の二句は二朝に仕えたことを批難する者に対する作者の言い訳です。。「陶弘景」は南朝斉・梁の隠者で、斉の高帝に招かれて諸王(皇帝の皇子たち)の侍読になりましたが、朝服を神武門に掛けて官を辞し、句曲山に隠れたと伝えられます。「神武」は神武門のことで、自分も陶弘景のように清の官を辞して帰ってきたのだと訴えるのです。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー顧炎武

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 清13ー顧炎武
    精 衛              精   衛

  万事有不平     万事(ばんじ)  平(たい)らかならざる有るに
  爾何空自苦     爾(なんじ)    何ぞ空(むな)しく自ら苦しむ
  長将一寸身     長(たけ)    一寸の身を将(もっ)て
  銜木到終古     木を銜(くわ)えて終古(しゅうこ)に到る
  我願平東海     我れ東海(とうかい)を平らかにするを願い
  身沈心不改     身(み)  沈むも  心  改めず
  大海無平期     大海(たいかい)  平らかなるの期(とき)無くば
  我心無絶時     我が心  絶ゆるの時(とき)無し
  嗚呼君不見     嗚呼(ああ)   君見ずや
    西山銜木衆鳥多  西山(せいざん)に木を銜(くわ)うる衆鳥は多し
  鵲来燕去自成窠  鵲(かささぎ)は来たり  燕は去り  自ら窠(す)を成す

  ⊂訳⊃
          なにごとにも   うまくいかないことがあるというのに
          お前はなぜに  自分自身を苦しめているのか
          一寸ほどの   小さなからだで
          小枝をはこび  いつまでも止めないつもりのようだが
          私は東の海を  埋めてしまいたいと思い
          疲れ果てて   海に沈もうとも心は変えません
          大海原が    埋めつくされる時がないならば
          わたしの心の  おさまる時はないのです
          木の枝を銜えて飛ぶ鳥は  西の山にもたくさんいるが
          鵲だろうと燕だろうと     自分の巣をつくっているだけだよ


 ⊂ものがたり⊃ 反清運動のつづくなか摂政王ドルゴンは鎮圧の戦をすすめ、ほぼ成果をあげた順治七年(1650)、三十九歳の若さで急死します。しかし、ドルゴンは死去と同時に弾劾にあいます。このとき順治帝は十三歳の少年でしたが、叔父ドルゴンの廟を破壊して断固とした親政の実をしめします。明からつづく後宮を粛清し、宦官の政事介入を厳禁しました。
 順治帝は北京に来てからの七年間に深く中国文化に親しみ、感化されていたといいますが、その行動には儒教道徳と東林党的な反宦官の思想がうかがえます。北京ではすでに順治三年(1646)に科挙が再開されており、漢人知識人の任用がはじまっていました。これらの人々の言説が十三歳の皇帝に影響をあたえたかもしれません。
 ドルゴンは死の前年の順治六年(1649)に内三院制を定めて中央の政事態勢をととのえていましたが、順治帝は順治十五年(1658)に内三院制を内閣制に改め、明代の中央官制をほとんどそのまま踏襲しました。明の統治制度のいいところを取りいれ、悪いところを切り捨てるという清の政事姿勢は順治帝に始まるのです。
 清の支配体制がととのえられていくなか、呉偉業より少し遅れて明の万暦三十八年(1610)以降に江南で生まれた顧炎武(こえんぶ)と黄宗羲は、反清運動には挫折しますが、あくまで清に仕えず在野の学者としての志をつらぬきます。一方、反清運動のさかんであった江南から少し離れたところにいた宋琬と施閏章は清の科挙に応じ、任官して新しい詩風を築きます。明の文化を引きつぐ遺臣たちも二つの道に分かれて歩むことになるのです。
 顧炎武(1613―1682)は崑山(江蘇省崑山県)の人。明の万暦四十一年(1603)に生まれ、若くして「復社」に参加して反体制運動にたずさわります。三十二歳のときに明が滅亡し、南下する清軍に抗して反清運動に加わりますが成功しませんでした。以後、各地を遍歴して学問をつづけ、明代の空理空論を排して実証と経世の学を重んじました。『日知録』などの著作を著わし、考証学の基礎を打ち立てます。その学名は高く、しばしば清朝に招かれましたが応ぜず、明の遺民として生涯を送ります。康煕二十一年(1682)に亡くなり、享年七十歳です。
 詩題の「精衛」(せいえい)は神話の鳥です。神農氏炎帝の娘女娃(じょあい)が東海で溺れて死に、化して小鳥になりました。死んだ恨みを晴らすために、朝から晩まで小枝や小石を口に銜えて運び、海を埋め立てようとしました。そのことから固い信念、諦めない努力の比喩となります。
 詩は四、四、二句にわけて読むことができ、はじめの四句は作者から精衛への問いかけです。「終古」は永久に、いつまでもという意味で、海を埋め立てようとしても所詮無駄なことではないかと問いかけます。つぎの四句は精衛の答えです。初句と同じ「平」が使われていますが、さきの平は「やすらか」、あとの平は「たいらか」であり、埋め立てて平らにすることです。
 最後の二句は十二言と七言の雑言になっており、精衛の信念(執念)をうけた作者のコメントです。西の山には木の枝を銜えて飛んでいる鳥がたくさんいるが、鵲だって燕だって子育てのために巣を造っているだけだといいます。この結びは逆説を含んでおり、自分は精衛のように漢民族の国の再興を諦めないといっていることになります。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー黄宗羲

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 清14ー黄宗羲
     徐 夕               徐   夕

  病骨支牀耐五更   病骨  牀(しょう)を支えて五更(ごこう)に耐(た)う
  春来山鳥冷同聲   春(はる)来たって  山鳥(さんちょう)  冷やかに声を同じうす
  無端世俗浮名重   端無(はしな)くも  世俗(せぞく)に浮名(ふめい)重きも
  可験衰年道力軽   験(けん)す可し   衰年(すいねん)にして道力(どうりょく)軽(かろ)し
  十岳平生虚夢想   十岳(じゅうがく)   平生(へいぜい)  虚(むな)しく夢想(むそう)し
  六経注脚未分明   六経(りくけい)の注脚(ちゅうきゃく)  未(いま)だ分明(ぶんめい)ならず
  明朝九十方開帙   明朝(みょうちょう)  九十  方(まさ)に帙(ちつ)を開き
  老眼還思傍短檠   老眼(ろうがん)    還(ま)た思う  短檠(たんけい)に傍(そ)わんことを

  ⊂訳⊃
          病んだ体を寝台に委ね  夜明けの時を過ごし
          春を迎えた山鳥の声を  冷やかな思いで聞いている
          思いがけなく   はかない名声をえたが
          もはや老衰して  道を求める力も弱まった
          仙人の境地を   虚しく夢にみていたために
          経典の注釈も   いまだ理解できないでいる
          明日からは九十への道  いまこそ書物をひらき
          老いた眼もはばからず  ちびた灯火のしたで読書に励もう


 ⊂もpのがたり⊃ 黄宗羲(こうそうぎ:1610―1695)は余姚(浙江省余姚県)の人。明の万暦三十八年(1610)に生まれ、若いころから行動派でした。父親は東林党に属し、迫害されて獄死しました。ときに十七歳であった黄宗羲は、二年後に上京して父親の仇を討ったといいます。復社に属して反宦官運動に参加し、三十五歳のときに明が滅びます。
 清軍が南下してくると義勇軍を組織し、日本の長崎へいって援軍を求めます。三代将軍家光のころでしたが日本は出兵せず、援軍の求めは不成功に終わって中国に帰ります。清への抵抗は失敗し、以後、郷里で教育や著作にたずさわります。学者・思想家として名を成し、清朝の招きを受けますが応ぜず、隠居して著述活動に専念します。康煕三十四年(1695)に亡くなり、享年八十六歳でした。
 詩題の「徐夕」(じょせき)は大晦日の晩のことです。ただし、詩では夜明けになっていますので、元日の朝早くになります。八十一歳のときの作と推定され、自分の過去を振りかえり、これからの決意をのべます。
 はじめの二句は現在の自分の姿。病気で寝台に凭れているのでしょう。「五更」は午前四時くらいの時刻です。新春を寿ぐように山の鳥が鳴いていますが、作者はそれを冷やかな思いで聞いています。
 中四句では自分のこれまでの人生を振りかえります。はじめの対句の「端無くも」は思いがけなくという意味で、最近の気力の衰えをのべます。「験す可し」は証拠がある、明確にわかる意味で、「道力」は道(儒教の教え)を求める意志でしょう。つぎの対句では学問一筋ではなく雑念の多かった自分を反省します。「十岳」は十の岩山で仙人の棲む世界です。仙人の境地になることなどを夢みていたために、「六経」(儒教の経典)の注釈の意味も充分には理解できないありさまだと謙遜します。
 最後の二句は新年を迎えるに際しての覚悟です。「明朝九十」というのは九十歳へ一歩近づくという意味で、八十一歳になることです。「帙を開き」は書物を包んである紙を開くこと、読書をすることです。「短檠」は短い灯火、老眼もはばからずに読書に励もうと決意を詠います。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー宋 琬

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 清15ー宋 琬
   舟中見猟犬有感二首     舟中にて猟犬を見て感有り 二首
   其一               其の一

  秋水蘆花一片明   秋水(しゅうすい)  蘆花(ろか)  一片(いっぺん)の明(めい)
  難同鷹隼共功名   鷹隼(ようじゅん)と同(とも)に   功名(こうみょう)を共にし難し
  檣辺飯飽垂頭睡   檣辺(しょうへん)  飯(はん)に飽(あ)き  頭(こうべ)を垂れて睡(ねむ)る
  他似英雄髀肉生   他(ま)た似(に)たり  英雄  髀肉(ひにく)の生ずるに

  ⊂訳⊃
          秋の川岸一面に  芦の穗が明るくひろがっている

          飛べない犬は   空飛ぶ鷹や隼のようにはいかない

          餌を食べ飽きて  帆柱のそばでうなだれている

          その姿は勇士が  腿の贅肉を嘆くのに似ている


 ⊂ものがたり⊃ 宋琬(そうえん:1614―1673)は萊陽(山東省萊陽県)の人。万暦四十二年に生まれ、三十一歳のとき明の滅亡に遇います。清の順治四年(1647)、三十四歳で進士に及第し、累進して吏部郎中に至ります。しかし、讒言にあい下獄して三年、冤罪が晴れ、釈放されて故郷に帰ります。施閏章(しじゅんしょう)らと詩の応酬をおこない「燕台七子」と称されます。康煕十一年(1672)に四川按察使に起用されますが、翌康煕十二年(1673)になくなりました。享年六十歳です。
 舟旅をしているとき猟犬をつれた舟客にあいました。その猟犬をみての感慨を詠います。季節は秋、詩は岸辺の眺めから始まります。「蘆花」は葦の秋穗、「一片」は一面に広がるようすです。
 承句は猟犬をみての感想で、舟中の犬は獲物を追って走ることができず、空飛ぶ鷹や隼のような活躍の場がありません。このとき鷹や隼が飛んでいたわけではなく、地上を走る犬と飛ぶ鳥を比較したのです。そのことは活躍の場に制約のある人、自由でない人との対比でもあります。
 後半二句は舟上の猟犬の描写です。犬は餌を食べ飽きて「檣辺」(帆柱のそば)で手持ち無沙汰に首をうなだれています。その姿は「英雄」(勇士)が平和な世に「髀肉(もも肉)の嘆」をかこつのに似ていると詠います。この結びには、自分が用いられないことへの不満もこめられていると思われます。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー施閏章

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 清16ー施閏章
    山 行             山   行

  野寺分晴樹     野寺(やじ)  晴樹(せいじゅ)を分(わか)ち
  山亭過晩霞     山亭(さんてい)  晩霞(ばんか)過(す)ぐ
  春深無客到     春深くして  客(かく)の到(いた)る無く
  一路落松花     一路(いちろ)   松花(しょうか)落つ

  ⊂訳⊃
          見わたせば  夕映えの樹々のなかに野の寺がはっきりと見え

          見上げれば  山頂の東屋のまえを夕靄が流れている

          春たけなわだが  訪れてくる人もなく

          山にひと筋の路  黄色い花が散っている


 ⊂ものがたり⊃ 施閏章(しじゅんしょう:1618―1683)は宣城(安徽省宣城県)の人。明の万暦四十六年(1618)に生まれ、二十七歳のときに明の滅亡に遇います。清の順治六年(1649)、三十二歳で進士に及第し、康煕十八年(1679)に召されて博学鴻詞科を受験します。翰林院侍講に任じられて『明史』の編纂に従事し、景泰(代宗)・天順(英宗)二朝の列伝を執筆しました。そのご累進して侍読学士に至ります。
 詩は宣城体という詩風を確立して宋琬とならび称され、「南施北宋」とよばれます。尊唐派の領袖になり、数十年にわたって東南詩壇を主宰しました。康煕二十二年(1683)になくなり、享年六十六歳です。
 詩題の「山行」(さんこう)は山歩きのことです。季節は晩春、日暮れ時です。起句の「野寺」は山路から見た野の寺と考えられ、「晴樹」は夕陽に映える樹々、「分ち」はくっきり見える、見分けられるという意味です。承句の「山亭」は山の頂にある東屋で、見上げたのでしょう。
 転句の「客」は観光客のことで、旅人ではありません。山にひとすじの路が延び、路のうえには「松花」(黄色い花)が点々と落ちていました。スケッチ風の掬い取ったような作品ですが、五言絶句の限られた詩句のなかに周到な配慮がほどこされており、こうした簡潔で清澄な詩風を「宣城体」というのでしょう。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー朱彛尊

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 清17ー朱彛尊
   雨後卽事              雨後即事

  暑雨涼初過     暑雨(しょう)   涼(りょう)  初めて過(よ)ぎり
  高雲薄未帰     高雲(こううん)  薄くして未(いま)だ帰らず
  泠泠山溜遍     泠泠(れいれい)として山溜(さんりゅう)遍(あまね)く
  淅淅野風微     淅淅(せきせき)として野風(やふう)微(かす)かなり
  日気晴虹断     日気(にっき)   晴虹(せいこう)断え
  霞光白鳥飛     霞光(かこう)   白鳥(はくちょう)飛ぶ
  農人乍相見     農人(のうじん)  乍(たちま)ち相見(あいみ)て
  歓笑款柴扉     歓笑(かんしょう)して柴扉(さいひ)を款(たた)く

  ⊂訳⊃
          夏のにわか雨  涼しさがさっと通り過ぎ
          空の薄雲は   まだ消えずに浮かんでいる
          辺りの山では  すがすがしい水が流れ落ち
          野を吹く風の   かすかな音が聞こえる
          照りつける太陽に  虹の橋は断ち切られ
          かすむ光のなかを  白鳥が飛んでいく
          農夫たちは  顔を見合わせて喜び
          笑いながら  わたしの家の門を敲くのだ


 ⊂ものがたり⊃ 順治十八年(1661)正月、順治帝は二十四歳の若さで急死します。天然痘にかかって死んだとされていますが、寵愛する董貴妃(とうきひ)の死を悼んで出家し、五台山清涼寺にはいったという伝えもあります。ただちに八歳の愛新覚羅玄燁(げんよう)が即位して康熙帝となります。
 康煕八年(1669)、十六歳になった康熙帝は輔政大臣を排して親政に移ります。清は中国全土を支配下においていましたが、華南の海岸部と西南内陸部には建国に協力した明の降将を王に封じて藩鎮としていました。福建の靖南王耿継茂(こうけいも)とその後継者の耿精忠(こせいちゅう)、広州の平南王尚可喜(しょうかき)とその子の尚之信(しょうししん)、雲南の平西王呉三桂(ごさんけい)の三将です。なかでも雲南の呉三桂は北京から遠隔の地にあり、隣接するチベットと交易をおこなって自立の傾向がありました。
 康煕十二年(1673)、広州の尚可喜が引退して地位を子の尚之信に譲りたいという願いを朝廷に提出しました。中央集権の強化を目論んでいた二十歳の康熙帝は、地位の世襲を許さず撤藩を命じました。他の二藩にも撤藩を命じましたので、呉三桂は天下都招討兵馬大元帥と称して反清の兵をあげます。翌十三年には福建の耿精忠も反清の旗をかかげ、十五年には広州の尚之信が父親の屋敷をかこんで憤死させ、呉三桂に組しましたた。
 康熙帝は大胆にも漢兵からなる三藩討伐の軍をだし、まず広州の尚之信をくだし、康煕十六年(1677)には福建の耿精忠も降伏させます。呉三桂は雲南から湖南に進出し、康煕十七年三月には衡州(湖南省衡陽市)を首都として帝位に就きましたが、八月に死去しました。孫の呉世璠(ごせいはん)は帝位を継いで雲南に引き揚げますが、追い詰められて康煕二十年(1681)に自殺します。
 康熙帝の治世六十一年のはじめ二十年間、江南以北では安定した政事がおこなわれ、漢人知識人で清朝に仕えて詩人として名をあげる者が出てきます。後世「南朱北王」と称される朱彛尊(しゅいそん)と王士禛の年齢は五歳しか違いませんが、経歴は江南生まれと華北生まれの差をしめして歴然としています。
 古学を尊重する姿勢は共通であっても、江南生まれの朱彛尊は反清から同化へとむかう過渡期の姿をとどめており、華北生まれの王士禛は「宣城体」の詩風を打ちたて古淡や余韻を愛する自由で余裕のある抒情をよみがえらせます。しかし、反清抵抗時代の激しさは影をひそめていくのです。
 朱彛尊(1629―1709)は秀水(浙江省嘉興県)の人。明の崇禎二年(1629)に生まれ、十六歳のときに明の滅亡にあいます。官途を志さず、各地を遊歴して古学を修め、在野の学者・詩人として名をあげます。康煕十八年(1679)、五十一歳のときに博学鴻詞科の試験に応じて及第し、布衣の身からいきなり翰林院検討に任じられます。『明史』の編纂に従事し、経史の学は顧炎武とならび称されるようになります。詩は王士禛とともに「南朱北王」と称され、康煕四十八年(1709)に亡くなります。享年八十一歳です。
 詩題の「即事」(そくじ)は見たままをその場で詠うことです。順治四年(1647)、十九歳のときの作とされており、盛夏、夕立のあとの田園風景を描きます。中四句二聯の対句を前後の各二句で囲む五言律詩で、冒頭の「暑雨」は夏の雨。はじめの二句で雨後の清涼感を描写します。
 中四句のはじめの対句は「山溜」(山から流れ落ちる水)と雨後の「野風」をとらえ、つづく対句は雨後の虹の消えていくようすと靄のなかを飛ぶ白鳥を描きます。そして結びの二句で滋雨を喜ぶ農民の姿を出しているのは、社会に関心のある発想でしょう。「款」は款門のことで、門扉をたたくことです。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー王士禛

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 清19ー王士禛
     秋 柳                 秋   柳

  秋来何処最銷魂   秋来(しゅうらい)  何(いず)れの処か最も銷魂(しょうこん)なる
  残照西風白下門   残照(ざんしょう)  西風(せいふう)  白下(はくか)の門
  他日差池春燕影   他日(たじつ)    差池(しち)たり  春燕(しゅんえん)の影
  祗今憔悴晩煙痕   祗今(ただいま)  憔悴(しょうすい)す  晩煙(ばんえん)の痕(あと)
  愁生陌上黄驄曲   愁いは生ず  陌上(はくじょう)  黄驄(こうそう)の曲
  夢遠江南烏夜村   夢は遠し   江南(こうなん)   烏夜(うや)の村
  莫聴臨風三弄笛   聴く莫(なか)れ  風に臨む三弄(さんろう)の笛
  玉関哀怨總難論   玉関(ぎょくかん)の哀怨(あいえん)  総て論じ難し

  ⊂訳⊃
          秋になって  心をそそる場所はどこであろうか
          夕映えのなかの西の風  白門を出たあたり
          春先には燕が飛びかい  柳に影を映していたが
          いまは柳もやつれ果て  あとには夕靄がただようばかり
          野原の道の「黄驄の曲」  愁いはいっそう掻き立てられ
          江南の「烏夜の村」     鴉の話は遠い昔の夢物語
          風に流れる「三弄の笛」  聴くのはよしたほうがよい
          玉門関での哀しい思い  「折楊柳」はいうまでもない


 ⊂ものがたり⊃ 王士禛(おうししん:1634―1711)は新城(山東省桓台県)の人。崇禎七年(1634)に生まれ、十一歳のとき明の滅亡にあいます。若くして詩名高く、清の順治十五年(1658)、二十五歳で進士に及第し江南に赴任します。康熙帝の世になり、都にもどされて順調に栄進し、経筵講官、国史副総裁をへて刑部尚書に至ります。詩は王維や孟浩然の古淡、余韻を愛し、「神韻説」を唱えて清初一代の詩宗と仰がれます。康煕朝の詩壇の中心人物として活躍し、康熙五十年(1711)に亡くなりました。享年七十八歳です。
 詩題の「秋柳」(しゅうりゅう)は詠物詩の題材です。順治十四年(1657)秋、二十四歳のときに故郷に近い歴下(山東省済南市)の大明湖に遊び、宴会の席で披露したもので、詩は前後四句にわかれ、後半四句にいままでにない工夫が施されていて注目をあびました。一躍詩名が高まり、翌年進士に及第したといいます。
 前半四句は白門の柳の描写です。「銷魂」は心が消え入ることで、ここでは哀愁をそそる意味でしょう。秋の季節に心をそそる一番の場所はどこであろうかと問いかけてまず注意をひきつけます。二句目は印象語を重ねてイメージを出す手法で、「残照」(夕映え)、「西風」(秋風)、「白下の門」です。
 南京の西北門を白門といい一帯を「白下」といいました。のちに南京の別名になったほどの名所で、駅亭の柳が送別の柳として有名でした。「他日」はかつて、「差池」は『詩経』邶風「燕燕」に出てくる語で後になり先になるさま、燕の飛ぶようすです。その燕が影を落としていた柳もいまはやつれ果て、「晩煙」(夕靄)が漂っているだけだと詠います。
 後半四句はこの詩が喝采を博した眼目の部分で、四つの故事を持ち出して送別の柳を修飾します。「黄驄の曲」は唐の太宗が遼を征伐したとき、黄驄という愛馬が途上で死にました。その馬の死を悼んで作らせた曲です。「烏夜の村」(浙江省海塩県の南にある村)は東晋の宰相何充(かじゅう)の弟何準(かじゅん)が隠栖した地で、何準の娘が生まれたときと皇后に冊立されたときに烏が鳴き騒いだという伝えがあります。
 「三弄の笛」は東晋の笛の名手桓伊(かんい)が川辺の道を車で通っていたとき、舟の中から王羲之(おうぎし)の息子の王徽之(おうきし)に呼びとめられて一曲を所望されました。桓伊は車をおりて三曲を奏し、終わるとひと言も言葉を交わさずに別れたといいます。晋代の風流とはこんなものだというのでしょう。「玉関の哀怨」は王之渙の辺塞詩「涼州詞」をさし、「羌笛(きょうてき) 何ぞ須(もち)いん 楊柳を怨むを 春光(しゅんこう)度(わた)らず 玉門関」とあります。

 清20ー王士禛
     江 上               江   上

  呉頭楚尾路如何   呉頭(ごとう)  楚尾(そび)  路(みち)如何(いかん)
  烟雨秋深暗白波   烟雨(えんう)  秋深くして白波(はくは)暗し
  晩趁寒潮渡江去   晩(くれ)に寒潮(かんちょう)を趁(お)うて江を渡って去る
  満林黄葉雁聲多   満林(まんりん)の黄葉(こうよう)  雁声(がんせい)多し

  ⊂訳⊃
          呉から楚にかけての路は  どうであろうか

          霧雨の秋は深くて   白い波も暗くみえる

          日暮れに潮に乗って  長江を渡れば

          林は黄葉の真っ盛り  あちらこちらで雁の声


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「江上」(こうじょう)は長江のほとり。順治十七年(1660)八月、江南の任地へおもむく途中の作です。「呉頭 楚尾」は呉の地から西の楚の地へかかる付近のことです。このあたりの路のようすはどうであろうかと問いかけて注意を引きつけます。以下三句は江南の晩秋の風景です。「白波暗し」というのは、秋の陽が翳ったのでしょう。長江を渡れば、樹林の黄葉と雁の声が印象的です。

 清21ー王士禛
   秦淮雑詩二十首 其一    秦淮雑詩二十首 其の一

  年来腸断秣陵舟   年来  腸断(ちょうだん)す   秣陵(まつりょう)の舟
  夢遶秦淮水上楼   夢は遶(めぐ)る  秦淮(しんわい)  水上の楼
  十日雨糸風片裏   十日(じゅうじつ)の雨糸(うし)  風片(ふうへん)の裏(うち)
  濃春煙景似残秋   濃春(のうしゅん)の煙景(えんけい)  残秋(ざんしゅう)に似たり

  ⊂訳⊃ 
          長い間 心の底から  秣陵の舟遊びに憧れていた

          秦淮の川辺の楼の   大宴会を夢みていた

          十日もつづく細い雨   吹いてはやむ風のなか

          春たけなわの霧雨は  晩秋のような愁いを含む


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「秦淮」(しんわい)は南京南郊の秦淮河口付近のことです。江南の任地に着任した翌年の順治十八年(1661)の早春、念願であった南京を訪れました。華北で育った王士禛にとって、六朝の都南京は憧れの古都でした。
 起承句は「年来」(永年)の夢がかなえられた喜びを詠います。「腸断」(はらわたが千切れる思い)は、ここでは心の底から思い焦がれていたという意味で使われています。「秣陵」は南京の古い呼び名で、南京での舟遊びに憧れていたというのです。
 秦淮河口は長江の渡津で、岸辺には歓楽街がさかえていました。「水上」は川辺のことで、秦淮の岸には妓楼がひしめいていました。転結の二句では南京の雨を詠います。十日もつづく早春の細い雨、吹いてはやむ風です。結びの「濃春の煙景 残秋に似たり」は、妓楼に閉じこめられて舟遊びも思うようにならず、退屈しているのでしょう。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー査慎行

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 清23ー査慎行
   舟夜書所見        舟夜 見る所を書す

  月黒見漁燈     月(つき)黒くして  漁燈(ぎょとう)を見る
  孤光一点蛍     孤光(ここう)    一点の蛍
  微微風簇浪     微微(びび)として風は浪を簇(あつ)め
  散作満河星     散りて作(な)す   満河(まんか)の星

  ⊂訳⊃
          月のない夜に  漁り火だけが見えている

          一点の光は   一匹の蛍のようだ

          そよ吹く風が  川面にさざ波をひろげると

          光は砕けて   星屑を散らしたようになる


 ⊂ものがたり⊃ 康煕帝の時代は対外問題の処理が課題でした。そのころロシア人は黒貂の毛皮を求めてシベリアに進出しており、清はロシア人の退去を求めて軍事衝突になりました。五年間の紛争の後、康煕二十八年(1689)にネルチンスク条約を結んでロシアとの国境を画定します。
 一方、西北方ではジュンガル(西モンゴル)部のガルダンが蒙古の統一を目ざして東に兵をむけていました。康煕三十五年(1689)、康煕帝はガルダンを親征して自殺させます。ガルダンを失ったジュンガル部はそのご勢いを盛りかえし、チベットを占領しました。康煕帝は青海・四川の両道からチベットに兵をすすめ、康煕五十九年(1720)、ジュンガル勢力をチベットから一掃します。
 清は少数民族による漢族支配のために科挙制度を積極的に取り入れ、朱子学を宣揚しました。康熙帝は康煕十一年(1672)に「聖諭広訓」十六条を公布して広く民衆に礼の徳目の順守を求めます。一方、イエズス会その他によるカソリック教の布教も盛んでした。康熙帝は宣教師のもたらす科学技術の導入に積極的でしたが、康煕四十五年(1707)、中国の典礼を認めない宣教師をマカオに追放し、伝統を守る姿勢をしめしました。康煕帝は布教の自由に制限を加えましたが、もともと学問を好み詩文に親しむ知識人であり、西欧の学術導入には熱心でした。
 康煕五十五年(1716)に完成した『康煕字典』は康煕帝最大の文化事業であり、漢字の規範を確定したことの意味は大きいといわれています。しかし、征服王朝による朱子学の称揚は漢人の民族主義、「排満論」の芽を残すことになり、やがて統治上の禍根となるのです。康煕六十一年(1722)、康煕帝は死に臨んで第四子の愛新覚羅胤禛(いんしん)を後継者に指名し、十一月に雍正帝が即位します。
 査慎行(さしんこう)は康煕帝より四年はやく生まれ、明滅亡後の平和な時代を生きて晩年の康煕帝に仕えた詩人です。一方、厲鶚(れいがく)は官途をめざしますが科挙に及第できず、野にあって康煕末年から雍正帝の時代をへて乾隆まで生きた詩人です。
 査慎行(1650―1727)は海寧(浙江省海寧県)の人。順治七年(1650)に生まれ、長じて各地を歴遊して詩文にかかわります。康煕四十二年(1703)、五十四歳のとき進士に及第し、翰林院編修になって康煕帝の近くに仕えました。その二十三年後の雍正四年(1726)、七十七歳のときに弟嗣庭(してい)の筆過事件に連座して免職になり、翌年になくなります。享年七十八歳です。
 詩題の「舟夜」(しゅうや)は舟泊りの夜のことです。その夜、見たものを書くと題します。はじめの二句で闇夜に灯る漁船の篝火を描きます。魚を集めるために焚く篝火でしょう。後半の二句は、そのとき微風が吹いてきて川面にさざ波がひろがりました。すると水面の光がちりぢりに砕け、川面に星屑を散らしたようになったと詠います。
 鮮やかな叙景、繊細な詩情ですが、その背景には異民族の王朝に仕えるという屈折した思いもあったでしょう。康熙帝の時代にあっても、反満の言動は厳しく取り締まられており、政事を批判する社会詩の余地はない時代でした。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー厲 鶚

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 清24ー厲鶚
     昼 臥                昼   臥

  妄心澡雪尽教空   妄心(もうしん)   澡(あら)い雪(すす)いで尽(ことごと)く空(くう)ならしめ
  長日関門一枕中   長日(ちょうじつ)  門を関(とざ)す   一枕(いっちん)の中(うち)
  跂脚飛塵難我涴   脚(あし)を跂(つまだ)てば飛ぶ塵も  我れを涴(けが)し難(がた)く
  支頤清夢許誰同   頤(あご)を支(ささ)うる清夢(せいむ)  誰許(だれ)と同(とも)にせん
  黒驚燕子翻堦影   黒きに驚けば    燕子(えんし)の堦(きざはし)に翻える影
  涼受槐花灑地風   涼(すず)しきを受くるは  槐花(かいか)の地に灑(そそ)ぐ風
  慙愧夕陽如有意   慙愧(ありがた)し  夕陽(せきよう)   意(い)有るが如く
  醒来毎到小窓東   醒(さ)め来たれば毎(つね)に小窓(しょうそう)の東に到る

  ⊂訳⊃
          妄執を洗い流して  気分もさっぱり
          夏の日ながに    門を閉めてひと眠りする
          つま立てば      吹き飛ぶほどの塵も寄りつかず
          頬杖をついて    辿る夢路に道連れはいらない
          黒いものに驚くと  きざはしに舞う燕の影
          ひんやりしたのは  槐の花を散らして吹いた風
          ありがたいものだ  夕陽に情けがあるように
          目覚めるといつも  東の小窓のむこうに日の光が射している


 ⊂ものがたり⊃ 厲鶚(れいがく:1692―1752)は銭塘(浙江省杭州市)の人。康煕三十一年(1692)に貧家に生まれます。苦学して康熙五十九年(1720)、二十九歳のときに挙人になり、翌年会試に挑みましたが落第しました。乾隆元年(1736)、四十五歳のときに博学鴻詞に推挙されますが及第せず、挙人のまま郷里で過ごしました。富豪の援助を受けながら学問に励み、遼・宋の歴史を研究して乾隆十七年(1752)になくなります。享年六十一歳です。
 詩は康熙六十年(1721)、三十歳の夏の作です。詩題に「晝臥」(ひるね)とあるように、このとき会試に落第して郷里に帰っていました。その悔しさをみずから慰める詩です。
 はじめの二句で「妄心」(落第した悔しさ)をきれいさっぱりと洗いながし、門を閉じてひと眠りしていると状況をしめします。「長日」は夏の日ながのことです。つぎの二句は失望して孤独になっている自分の姿ですが、比喩におもしろみがあります。「許誰」については二字で「だれ」とする訓にしたがいました。
 つづく二句は寝ているまわりの情景です。黒い物が走ったと思ったら、それは燕の飛ぶ影であり、急にひんやりしたと思ったら、それは「槐花」(エンジュの花)を吹き落とした風でした。ここにも会試に落第した自分への比喩があります。
 最後の二句はみずからを慰める結びです。「慙愧」は感謝の言葉で、唐以来の俗語を用いています。「小窓の東に到る」は東の小窓のむこうに夕陽の光が射していたと解しました。夕陽に心があるように、目覚めるといつも東の小窓のむこうに日の光が射していると詠うのです。

ティェンタオの自由訳漢詩 清ー深徳潜

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 清26ー深徳潜
     過許州               許州を過ぐ

  到処陂塘決決流   到る処(ところ)の陂塘(ひとう)   決決(けつけつ)として流る
  垂楊百里罨平疇   垂楊(すいよう)  百里  平疇(へいちゅう)を罨(おお)う
  行人便覚鬚眉緑   行人(こうじん)  便(すなわ)ち覚(おぼ)ゆ  鬚眉(しゅび)の緑なるを
  一路蝉声過許州   一路(いちろ)の蝉声(せんせい)  許州(きょしゅう)を過ぐ

  ⊂訳⊃
          あちらこちらの池の堤は  爽やかにせせらぎ流れ

          柳の並木は畑をめぐって  どこまでもつづく

          旅人は鬚も眉も  緑に染まった気分になり

          蝉の鳴く声の中  一路許州を過ぎていく


 ⊂ものがたり⊃ 清朝二百六十八年のうち、康煕・雍正・乾隆の三代は全盛期と称されています。中国の人口は宋代から明代にかけておおむね一億人程度でしたが、清朝になってから二百年を経た乾隆末年には三億人を超え、明代の三倍になりました。その背景には農業生産力の増強があり、産業の発展と平和な生活がありました。
 ただし、支配民族である満州族の人口は百万人程度であったと推定されており、三百分の一の少数支配でした。そのため康熙帝の時代においても漢族の夷狄思想には厳しい目がそそがれ、反満的な言動・詩文に対しては極刑が科されました。「文字の獄」と称され、漢族文人にとっては大きな制約のある時代でした。
 清朝が抱えていたもうひとつの問題は、皇位継承法が確立していなかったことです。康熙帝には十七人の皇子があり、それぞれの皇子を擁して後継者争いが激しくなりました。雍正帝は即位の翌年、「太子密建」の法を宣言します。これはつぎの皇帝となる皇太子の名を公表せず、その名を記した親書を箱に封じて、紫禁城の乾清宮に掲げてある「正大光明」と書かれた扁額の裏に置くというものです。
 このような定めをしたにもかかわらず、雍正帝は主な兄弟七名を幽閉し、雍正帝の死後、生きて釈放された者は二名に過ぎませんでした。雍正帝の治世は十三年と短く、おおむね康熙帝の政策を引きつぐものでした。大きな外征もおこなわず、全盛期の王朝を満喫した皇帝でした。
 雍正十三年(1735)に雍正帝が崩じると、八月に二十五歳の愛新覚羅弘暦(こうれき)が即位して乾隆帝になります。乾隆帝の時代になってからも二十年間は大きな外征がなかったので、三十余年にわたる平和がつづきました。乾隆二十年(1755)になると清はジュンガルに遠征し、伊犁(いり:新疆ウイグル自治区伊寧市)地方を制圧します。以後、タリム盆地・台湾・チベット・ベトナム・ビルマなどへも兵を向け、遠征軍はネパールのカトマンズの近くまで達したといいます。
 乾隆帝の時代に清は最大の版図になりますが、清の支配に服したモンゴル、チベット、ジュンガル(東トルキスタン)は漢族の中国に服したのではなく征服王朝である清に服したのであり、これら内陸アジアの民族に対して清は「中華の礼」を求めず、皇帝もチベット仏教の保護者として臨んだのです。清は複数の民族を各個に支配する征服王朝でした。
 外征のつづくなか北京では『四庫全書』の編纂がすすめられ、十五年を費やして乾隆四十七年(1782)に完成します。「四庫」とは儒学・史学・哲学・文学のことで、あらゆる分野の古今の書籍を精選して筆写させ、良書に題と解説を付けました。収録された書籍は三千四百五十八種に達し、八万巻におよぶ一大文化事業でした。しかし、それは同時に思想調査の意味も持っており、反満的とみられる書籍の多くが禁書焚書になりました。「文字の獄」は乾隆帝の時代になって一段と厳しいものになりました。
 深徳潜(しんとくせん)、鄭燮(ていしょう)、紀昀(きいん)の三人は乾隆盛世の官僚詩人です。生年に大きなへだたりがありますが、それはこの時代、官僚として詩を作ること、いい詩を残すことが如何に困難であったかをしめしています。三人のなかで一番若い紀昀は『四庫全書』総纂官になり、『四庫全書総目提要』の校閲補筆をしています。
 深徳潜(1673―1769)は長洲(江蘇省蘇州市)の人。康煕十二年(1673)に生まれ、若いころから詩人として知られていましたが、三年に一度の科挙に二十回近く落第し、乾隆四年(1789)に六十七歳で進士に及第します。乾隆帝に詩を指導して宮廷詩人になり、内閣学士から礼部侍郎にすすみます。
 詩論家としては「格調説」を唱え、詩は詩心と同時に格調(高度な構成意識)が大切であるとし、情に流されて形のはっきりしない詩を批判しました。乾隆期前半の詩壇の中心的存在として名声を保ち、乾隆三十四年(1769)になくなります。享年九十七歳でした。
 詩題の「許州」(きょしゅう)の州治は河南省許昌県にあり、公用で許州を訪れたときに地元人士の宴会に招かれて軽く一首を披露したものでしょう。許州は河南の中央部に位置しており、広々とした田園地帯です。前半二句はその田園のさまを的確、簡潔に描きます。「平疇」は平らに広がる耕地のことです。
 後半二句は、そうした地方にやってきた「行人」(旅人である私)の感懐です。緑いっぱいの夏の眺めのなか、鬚も眉も緑に染まった気分になると詠い、「一路の蝉声 許州を過ぐ」と結びます。蝉の鳴く声がいっぱいのひと筋の道、その許州を過ぎてゆくと表現に無駄がありません。
 「蟬」は昔から高潔な人物の喩えとして用いられていますので、許州の人々を褒めている、もしくは正しい政事をやりなさいといっていると取ることができます。歯切れのよい詠いぶりのなかに周到な配慮がなされている詩です。
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