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ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧103ー106

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 杜牧ー103
     秋浦途中               秋浦の途中

  蕭蕭山路窮秋雨   蕭蕭(しょうしょう)たり  山路(さんろ)   窮秋(きゅうしゅう)の雨
  浙浙渓風一岸蒲   浙浙(せきせき)たり  渓風(けいふう)  一岸(いちがん)の蒲(がま)
  為問寒沙新到雁   為(ため)に問う  寒沙(かんさ)  新たに到れる雁(がん)に
  来時還下杜陵無   来たる時  還(は)た杜陵(とりょう)に下りしや無(いな)やと

  ⊂訳⊃
          山路に  晩秋の雨は降りやまず

          谷風は  岸辺の蒲に寂しげに吹く

          寒い水辺の砂浜に  降りたばかりの雁たちよ

          ここへ来るときに   わが杜陵に寄ってきたのか


 ⊂ものがたり⊃ 不満ではあっても官吏の身、告身(辞令書)にさからうことはできません。杜牧は任地に赴かざるを得ず、すぐに黄州を発ちます。詩題の「秋浦」(しゅうほ)は池州の治所のある秋浦県のことで、池州に赴任する途中の作です。
 「山路」を越えてゆくのは、大別山南麓の丘を越えてゆくのでしょう。やがて水辺に到着し、岸辺の砂浜に降り立った雁に、都に立ち寄ってきたのかと問いかけます。「杜陵」は長安の東南郊外にあって、京兆府の杜氏の本拠の地です。杜牧は岸辺の雁にことよせて、都への恨みの言葉をつぶやくのでした。

 杜牧ー104
   哭李給事中敏         李給事中敏を哭す

  陽陵郭門外     陽陵(ようりょう)   郭門(かくもん)の外
  坡陁丈五墳     坡陁(はた)たり   丈五(じょうご)の墳(ふん)
  九泉如結友     九泉(きゅうせん)  如(も)し友を結ばば
  茲地好埋君     茲(こ)の地  君を埋(うず)むるに好(よろ)し

  ⊂訳⊃
          陽陵県城の門外に

          小さな盛土   一丈五尺の墓がある

          あの世で君が  誰かと友になるのなら

          朱雲と一緒に  葬ってこそ似つかわしい


 ⊂ものがたり⊃ 杭州刺史の李中敏(りちゅうびん)が任地で亡くなったという報せを聞いたのは、このころのことでしょう。李中敏は杜牧が江西観察使沈伝師(しんでんし)に仕えていたころの同僚で、文宗側近の鄭注(ていちゅう)を批判して職を免ぜられたほどの硬骨漢でした。
 甘露の変後、赦されて尚書省吏部の司勲員外郎に召され、累進して門下省の給事中に登用されましたが、そこでまた宦官の仇士良(きゅうしりょう)と衝突しました。左遷されて婺州(ぶしゅう:浙江省金華市)刺史から杭州刺史になっていましたが、任地で没してしまいました。
 詩中にある「陽陵」は平陵のあやまりで、漢代の朱雲(しゅうん)の墓は昭帝の平陵のほとりにありました。朱雲は権勢を恐れなかったことで有名な人物でしたので、その近くに葬るのがふさわしいと、李敏中の死を悼むのでした。

 杜牧ー105
   江上雨寄崔碣        江上の雨 崔碣に寄す

  春半平江雨     春の半(なか)ば  平江(へいこう)に雨ふり
  円文破蜀羅     円文(えんぶん)  蜀羅(しょくら)を破る
  声眠篷底客     声は篷底(ほうてい)の客を眠らせ
  寒湿釣来蓑     寒さは釣来(ちょうらい)の蓑(みの)を湿(うるお)す
  暗澹遮山遠     暗澹(あんたん)として 山を遮(さえぎ)りて遠く
  空濛着柳多     空濛(くうもう)として   柳に着(つ)いて多し
  此時懐一恨     此の時  一恨(いっこん)を懐(いだ)く
  相望意如何     相望む  意(こころ)は如何(いかん)と

  ⊂訳⊃
          春の半ば   満ちて流れる長江の
          水の面に   雨は蜀羅の波紋を描く
          雨の音は   篷の客の眠りをさそい
          冷たい雨は  釣りびとの蓑に沁みいる
          小暗い雨で  遠くに山はかすんでみえ
          霧雨は    岸の柳をしとどに濡らす
          そのときひとつ  無念の思いが湧いてきた
          心境はいかんと  遠くにあなたを望み見る


 ⊂ものがたり⊃ 池州に赴任して明けた会昌五年(845)、春を迎えた杜牧はしきりに人恋しい気持ちになっていたようです。崔碣(さいけつ)という友人に詩を送っています。崔碣はそのころ長安にいて中書省右拾遺(従八品上)の任にありました。
 杜牧は霧雨の降るあたりの風景に託して、自分の淋しい思いを詠っています。「此の時 一恨を懐く」と痛烈な一句を挟んでいますが、「一恨」は思うように任用されない恨みでしょう。しかし、結びは静かに、いかかがですかと相手の心境を問いかけています。

 杜牧ー106
    池州清渓              池州の清渓

  弄渓終日到黄昏   渓(けい)に弄(あそ)びて終日  黄昏(こうこん)に到る
  照数秋来白髪根   照らして数(かぞ)う  秋来(しゅうらい)  白髪(はくはつ)の根(こん)
  何物頼君千遍洗   何物か君に頼りて  千遍(せんぺん)洗わるる
  筆頭塵土漸無痕   筆頭(ひっとう)の塵土(じんど)  漸く痕(あと)無し

  ⊂訳⊃
          終日 清渓に遊び  黄昏どきになった

          秋に増えた白髪を  水鏡で数える

          清渓が清めてくれたもの  それは何であったろうか

          筆先についた穢れ それもようやく消え去った


 ⊂ものがたり⊃ そのころ江南では、江賊の害が目立つようになっていました。江賊とは二、三艘の舟に分乗して江上を移動する群盗で、当時盛んになりはじめていた江淮の草市(そうし)を襲いました。草市は水陸交通の要衝に発生した小さな市(いち)で、それまで城内の市に限られていた交易の場所が城外の地にひろがって町を形成するようになっていたのです。草市には富商、大戸と称される者も肆(みせ)を出すようになり、江賊の的になっていました。
 杜牧は「李太尉に上りて江賊を論ずる書」を上書し、兵船をととのえて治安を安定させるべきであると進言しました。しかしそのころ、長安では武宗の廃仏騒動の最中で、李徳裕は江賊どころではありませんでした。武宗は会昌元年(841)に道士を宮中に入れ、道教に帰依するようになっていましたが、次第に道教以外の宗教を弾圧するようになり、会昌五年(845)七月には廃仏は最高潮に達していました。廃された寺院は四千六百寺、還俗させられた僧尼は二十六万五百人に及んだといいます。
 こうした状況のもと、杜牧の「江賊を論ずる書」は問題にもされず葬り去られます。詩題の「池州の清渓」は池州の壁下を流れる川で、九華山の西から出て西北に流れ、秋浦水と合して長江に注ぎます。杜牧は増えた白髪に苦笑しながら、「筆頭の塵土 漸く痕無し」とあきらめの境地を詠います。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧107ー110

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 杜牧ー107
    独 酌               独  酌

  窗外正風雪     窓外(そうがい)  正(まさ)に風雪(ふうせつ)
  擁炉開酒缸     炉(ろ)を擁して  酒缸(しゅこう)を開く
  如何釣船雨     如何(いずれ)ぞや  釣船(ちょうせん)の雨
  篷底睡秋江     篷底(ほうてい)  秋江(しゅうこう)に睡(ねむ)るに

  ⊂訳⊃
          窓の外は  大嵐

          炉端で酒を飲むことと

          雨降る秋の江上の  舟の苫屋で眠ること

          いずれが勝っているだろうか


 ⊂ものがたり⊃ 詩中の「風雪」は国字(こくじ)の嵐のことで、必ずしも雪が降っているわけではありません。詩は秋の作で、「窓外 正に風雪」は廃仏のあらしのことであるとも言えるでしょう。秋の夜に杜牧は炉端の酒と釣舟の苫屋の眠りとを比べていますが、答えは次回の同題の詩に示されています。

 杜牧ー108
    独 酌               独  酌

  長空碧杳杳     長空(ちょうくう)  碧(みどり)杳杳(ようよう)たり
  万古一飛鳥     万古(ばんこ)   一飛鳥(いちひちょう)
  生前酒伴閑     生前(せいぜん)  酒  閑(かん)に伴(ともな)う
  愁酔閑多少     愁(うれ)い酔えば  閑は多少(いくばく)ぞ
  烟深隋家寺     烟(けむり)は深し  隋家(ずいか)の寺
  殷葉暗相照     殷葉(あんよう)   暗(ひそ)かに相照らす
  独佩一壷遊     独り一壷(いっこ)を佩(お)びて遊べば
  秋毫泰山小     秋毫(しゅうごう)  泰山(たいざん)を小なりとす

  ⊂訳⊃
          大空は碧く  澄み切って奥深い
          万古千秋は  鳥のように飛び去る
          暇があれば  酒を相手の暮らしだが
          憂さ晴らし   閑雅とはほど遠い
          隋の寺に   霞が立ちこめ
          紅葉は  いつしか私に照り映える
          ひと壷の酒を携え  ひとり歩けば
          泰山も  秋毫よりは軽いと思う


 ⊂ものがたり⊃ 勝負の軍配は酒にあがり、「秋毫 泰山を小なりとす」と持ち上げています。この句は『荘子』を踏まえており、天下に秋毫(秋に生え変わる細い獣毛)よりも大きいものはなく、泰山も小さいと言っています。
 杜牧は「独酌」という詩題を好んでいるようですが、州へは妻子とともに赴任してきていますので、独身ではありません。心から語り合える友がいないという意味です。隠者への思いも心をよぎりますが、廃仏の嵐も届かない江南で、州刺史杜牧は孤独を酒に紛らして過ごす毎日であったようです。
 「隋家の寺」は隋代創建の古い寺でしょう。廃仏は華北ではかなり広範囲に行われたようですが、江南の寺にまでは及んでいなかったようです。

 杜牧ー109
   九日斉山登高           九日 斉山に登高す

  江涵秋影雁初飛   江(こう)は秋影(しゅうえい)を涵(ひた)して  雁(がん)初めて飛び
  与客携壷上翠微   客と壷を携(たずさ)えて  翠微(すいび)に上る
  塵生難逢開口笑   塵生(じんせい)  逢い難し 口を開いて笑うに
  菊花須插満頭帰   菊花(きくか)  須(すべか)らく満頭(まんとう)に挿(さしはさ)みて帰るべし
  但将酩酊酬佳節   但(た)だ酩酊を将(も)って   佳節(かせつ)に酬(むく)いん
  不用登臨恨落暉   用(もち)いず  登臨(とうりん)して落暉(らくき)を恨むを
  古往今来只如此   古往(こおう)今来(こんらい)  只(た)だ此(か)くの如し
  牛山何必独霑衣   牛山(ぎゅうざん)  何ぞ必ずしも  独り衣(ころも)を霑(うるお)さん

  ⊂訳⊃
          秋景色を映して川は流れ  初雁も飛んできた
          客といっしょに酒壷をさげ  小高い山に登る
          人の世に  心から笑えるときはめったになく
          今日こそは頭一杯  菊をかざして帰ろうではないか
          折角の節句の日だ  おおいに飲んで酩酊し
          高い処で  沈む夕陽を嘆くのはよそう
          人生とは  昔も今もこんなもの
          牛山で衣をぬらした君公の  涙のあとは辿るまい


 ⊂ものがたり⊃ 寂しい心境の晩秋九月、丹陽(江蘇省丹陽県)に住む張祜(ちょうこ)が杜牧を訪ねてきました。丹陽は潤州の南、運河に沿った町です。張祜は杜牧よりも十二、三歳年長で、詩才を謳われて穆宗の長慶年間に都に上りましたが、任用されず、以来、丹陽に隠棲して処士でした。
 詩題の「九日」(きゅうじつ)は九月九日の重陽節のことで、二人は「斉山」(せいざん)に登ります。杜牧は心を許し合える友の来訪に久し振りにうきうきとして、歓びの詩を詠います。斉山は池州城の東南郊にあった高さ二十八丈(約87m)の小高い丘で、斉の山ではありません。逆に「牛山」は斉の都臨淄の南にあった山です。
 春秋時代、斉の景公は牛山に登って国見をしました。そのとき、なぜこの美しい国土を残して死んでいかなければならないのかと、人生の無常を嘆いたといいます。杜牧は景公の故事を引いて、人生を嘆きながら過ごすのはよそうと言っています。「登高」(とうこう)して酒を飲み、人生を語り合ったとき、杜牧はむしろ自戒の言葉として、この句を入れたような気がします。

 杜牧ー110
   登池州九峯楼寄張祜    池州の九峰楼に登りて張祜に寄す

  百感中来不自由   百感  中(うち)より来たりて  自由ならず
  角声孤起夕陽楼   角声(かくせい)孤(ひと)たび起こる  夕陽(せきよう)の楼
  碧山終日思無尽   碧山(へきざん)  終日  思い尽くること無く
  芳草何年恨即休   芳草(ほうそう)  何(いず)れの年か  恨み即ち休(や)まん
  睫在眼前長不見   睫(まつげ)は眼前に在れども  長(つね)に見えず
  道非身外更何求   道は身外(しんがい)に非(あら)ざれば  更に何(いずく)にか求めん
  誰人得似張公子   誰人(たれひと)か似たるを得ん  張公子(ちょうこうし)に
  千首詩軽万戸侯   千首の詩は軽(かろ)んず  万戸(ばんこ)の侯(こう)を

  ⊂訳⊃
          様々に憶いは溢れて  どうしようもない
          夕陽に映える九峰楼  角笛は鳴りわたる
          碧山に隠れ棲む君を  終日思いつづけ
          香り草の恨みは     何時になったら消えるのだろうか
          目の前に睫はあるが  見ることはできず
          真理はこの身にあり  外に求める必要はない
          いったい貴君を  誰と比べられようか
          万戸の侯よりも  詩を重んずる生き方よ
              
            
 ⊂ものがたり⊃ この詩は張祜(ちょうこ)が池州(ちしゅう)を訪ねてきたあと、張祜に送った詩とされています。詩題にある「九峯楼」(きゅうほうろう)は池州城の東南隅にあった城楼で、日暮れになると刻(とき)を告げる角笛を鳴らしました。
 「芳草」は屈原が楚辞のなかでしばしば用いる比喩で、世に隠れ住む才能、もしくは貞臣(正しい心を持った臣下)などをいいます。「何れの年か 恨み即ち休まん」と言っていますので、ここでの芳草は杜牧自身のことでしょう。張祜も芳草に比すべき人で、「千首の詩は軽んず 万戸の侯を」と、世俗を捨てて詩作に打ち込んでいる張祜の孤高の生き方を、比べることのできない生き方であると褒めています。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧112ー116

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 杜牧ー112
   題池州貴池亭           池州の貴池亭に題す

  勢比凌歊宋武台   勢いは比(ひ)す  凌歊(りょうきょう)  宋武(そうぶ)の台
  分明百里遠帆開   分明(ぶんめい)に  百里  遠帆(えんぱん)開く
  蜀江雪浪西江満   蜀江の雪浪(せつろう)  西江(せいこう)に満ち
  強半春寒去却来   強半(きょうはん)   春寒(しゅんかん)  去りて却(ま)た来たる

  ⊂訳⊃
          貴池亭の眺めは  宋の武帝の凌歊台に劣らず

          百里彼方の舟の帆も  はっきりと見分けられる

          蜀江の逆巻く流れは  眼下の長江に満ちて

          はつ春の寒さが  ぶり返してきたようだ


 ⊂ものがたり⊃ 詠われている「貴池亭」(きちてい)は、昨年秋に張祜(ちょうこ)と登った斉山の頂きにある亭です。そこからは長江の流れを望むことができ、長江は池州の西を東北方向に流れていますので「西江」とも言うのです。
 この冬は特に寒かったらしく、蜀(しょく)の雪山から流れて来る雪解け水は冷たく、仲春の二月というのに初春の寒さがぶり返してきたようでした。春になっても寒々とした暮らしに、杜牧の気分は晴れることがありません。

 杜牧ー113
   春末題池州弄水亭     春末 池州の弄水亭に題す

  使君四十四     使君(しくん)は 四十四
  両佩左銅魚     両(ふたた)び左銅魚(さどうぎょ)を佩(お)ぶ
  為吏非循吏     吏(り)と為(な)るも  循吏(じゅんり)に非(あら)ず
  論書読底書     書を論ずるも  底(なん)の書をか読む
  晩花紅艶静     晩花(ばんか)  紅艶(こうえん)静かに
  高樹緑陰初     高樹(こうじゅ) 緑陰(りょくいん)初(はじ)まる
  亭宇清無比     亭宇(ていう)  清きこと比(たぐい)無く
  渓山画不如     渓山(けいざん)  画(え)も如(し)かず
  嘉賓能嘯詠     嘉賓(かひん)  能(よ)く嘯詠(しょうえい)し
  官妓巧粧梳     官妓(かんぎ)  巧(たく)みに粧梳(しょうそ)す
  逐日愁皆砕     日を逐(お)って   愁い皆(みな)砕け
  随時酔有余     時(とき)に随って  酔うこと余り有り
  偃須求五鼎     偃(えん)は須(すべか)らく五鼎(ごてい)を求むべく
  陶祗愛吾廬     陶(とう)は祗(た)だ吾(わ)が廬(ろ)を愛するのみ
  趣向人皆異     趣向(しゅこう)は  人(ひと)皆(みな)異(こと)なれり
  賢豪莫笑渠     賢豪(けんごう)   渠(かれ)を笑うこと莫(な)かれ

  ⊂訳⊃
          刺史のわたしは  四十四歳
          左銅魚を佩びて  二度の勤めだ
          役人になったが  循吏でもなく
          書を読んだが   いったい何処を読んだのか
          遅咲きの花は   赤くあでやかに咲き
          大木は   茂った葉で木蔭をつくる
          弄水亭は  類いまれな清らかさ
          山も川も  絵のように美しい
          客たちは  巧みに詩を詠い
          妓女達は  みやびやかに粧い侍る
          愁いは   日ごとに消え去り
          飲む酒は  いつでも酔うのに充分だ
          主父偃は  ひたすら出世を求めたが
          陶淵明は  閑雅な廬の日々を愛した
          好みはそれぞれ違っているが
          賢明な諸公よ  彼らを笑ったりしないでくれ


 ⊂ものがたり⊃ 会昌六年(846)の春、杜牧は四十四歳になっていました。詩題に「春末」(しゅんまつ)とあるのは春三月のことで、「弄水亭」(ろうすいてい)は杜牧が池州城通遠門(南門)外の景勝の地に建てた亭台です。
 詩はこの亭の壁に書きつけたもので、「吏と為るも 循吏に非ず 書を論ずるも 底の書をか読む」と謙遜とも自嘲ともつかない詠い方をしています。とはいっても、地元の客を呼んで新亭を披露したときの詩ですので、「亭宇 清きこと比無く」と褒めています。
 後半の八句は宴のようすです。「官妓」は州の役所に所属する妓女のことで、州刺史は個人的とみられる遊宴の場に、官の妓女を侍らすことができました。「偃」は漢の武帝時代の主父偃(しゅほえん)のことで、ひたすら功名富貴を追い求めたと言われています。「陶」は東晋末の陶淵明(とうえんめい)のことで、有名ですので説明の必要はないでしょう。杜牧は対照的な生き方の二人を挙げて「趣向は 人皆異なれり 賢豪 渠を笑うこと莫かれ」と、酒宴の場らしく洒落のめして結んでいます。
 不遇ではありますが、杜牧は何といっても唐代の貴族です。素顔がのぞいても責めることはできないでしょう。杜牧は池州刺史のころ侍妾をかかえていたらしいことも伝えられています。杜荀鶴(とじゅんかく)は唐末から五代にかけての詩人ですが、池州石埭(せきたい:安徽省太平県)の生まれとされています。伝えでは杜牧が池州にいたときの侍妾の子で、侍妾は子が生まれる前に州人の杜筠(といん)という者に嫁し、杜荀鶴は杜筠の子として生まれたといいます。杜牧が聖人君子でなかったことは確かです。

 杜牧ー115
    新定途中              新定の途中

  無端偶効張文紀   端(はし)無くも偶(たま)たま効(なら)う  張文紀(ちょうぶんき)
  下杜郷園別五秋   下杜(かと)の郷園  別るること五秋(ごしゅう)
  重過江南更千里   重ねて江南を過ぐ  更に千里
  万山深処一孤舟   万山(ばんざん)の深き処  一孤舟(いちこしゅう)

  ⊂訳⊃
          はからずも  張文紀をまねてしまった

          古里の下杜を離れて  はや五年

          江南を過ぎ  千里の旅を重ねている

          無数の山々  深い谷 心に沁みいる孤独の舟


 ⊂ものがたり⊃ 弄水亭の披露も済み、春三月も過ぎようとするころ、都で異変が起きました。不老長生の仙薬を飲み過ぎたのがもとで、武宗が亡くなったのです。皇太子が即位して宣宗となりますが、皇太子といっても宣宗は武宗の祖父憲宗の十三番目の子で、穆宗の弟になります。皇位が叔父に移ったわけで、正常な継承ではありません。
 宣宗も宦官が擁立した天子で、当然に政変が起こります。廃仏の責任を問われた李徳裕は四月に失脚し、荊南節度使に貶され、牛党の翰林学士承旨白敏中(はくびんちゅう)が登用されます。牛党の牛僧孺と李宗閔は貶謫地から都に近い任地に移されますが、中途半端な異動です。二人はすでに高齢で、世代交替が明瞭です。
 杜牧は新しい人事をみて、悪い予感を覚えました。果せるかな九月になると、杜牧のもとに睦州(ぼくしゅう)刺史に任ずる告身(辞令書)が届きます。杜牧が李徳裕に送ったさまざまな提言が、李党への加担、牛党への裏切りと目されたのは明らかでした。
 転任地の睦州(浙江省建徳市梅城県)は、杭州から浙江を南に百八十里(約100km)ほど遡ったところにあります。南は閩地(びんち)につらなる僻遠の地です。杜牧は流刑になったような気持ちで告身を受けたでしょう。
 会昌六年(846)冬十月、杜牧は池州を発って長江を下り潤州に停泊します。そこから少しまわり道をして揚州に行き、弟杜(とぎ)を見舞いました。しかし、盲目の弟と語り合う言葉もなく、在り来たりの慰めの言葉を残して別れたでしょう。睦州へは運河を南下して杭州に着き、そこからさらに浙江を南へ遡ってゆくのです。
 詩題の「新定」(しんてい)は睦州の郡名で、「張文紀」は後漢の張綱のことです。張綱は侍御史として在任していたとき、外戚で権勢者の大将軍梁冀(りょうき)兄弟を弾劾しました。しかし、順帝に聴き入れられず、広陵の太守に左遷されます。「端無くも偶たま効う」は思いがけず同じ轍を踏んでしまったという意味で、杜牧は自分を張綱にたとえて後悔しています。
 都を出て五年になるというのに、江南の中でも最南端の睦州に赴くはめになった。そのことを嘆きながら、冬の船上で身に沁みるのはどうしようもない孤独感です。

 杜牧ー116
      雨                 雨

  連雲接塞添迢逓   雲に連なり塞(とりで)に接して  迢逓(ちょうてい)を添え
  灑幕侵灯送寂寥   幕に灑(そそ)ぎ灯(ともしび)を侵して  寂寥(せきりょう)を送る
  一夜不眠孤客耳   一夜  眠らず  孤客(こかく)の耳
  主人窓外有芭蕉   主人の窓外に  芭蕉(ばしょう)有り

  ⊂訳⊃
          雨は雲に連なって辺塞につづき  故郷はいよいよ遠ざかる

          降りこむ雨に灯は陰り  わびしい旅心が湧いてくる

          耳にまつわる雨の音   眠れないまま夜はあけ

          窓辺に近く  芭蕉の茂る宿だった


 ⊂ものがたり⊃ この詩も睦州へ赴任する途中の作でしょう。「塞」は辺塞であり、国境の意味もあります。雨は船の帳幕のあたりまで降り込み、灯火も消えそうです。物淋しい冬の旅、眠れない一夜を明かすと、「窓外に 芭蕉有り」の宿でした。
 僻地への赴任とはいっても官行(官吏としての旅行)ですから、上陸して渡津の駅亭に泊まることもあったようです。冬十二月、杜牧は最果ての地、睦州に着任しました。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧117ー121

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 杜牧ー117
   睦州四韻             睦州四韻

  州在釣台辺     州は釣台(ちょうだい)の辺(ほとり)に在り
  渓山実可憐     渓山(けいざん)  実に憐れむ可し
  有家皆掩映     家(いえ)有りて   皆掩映(えんえい)し
  無処不潺湲     処(ところ)として潺湲(せんえん)たらざるは無し
  好樹鳴幽鳥     好樹(こうじゅ)に  幽鳥(ゆうちょう)鳴き
  晴楼入野煙     晴楼(せいろう)に  野煙(やえん)入る
  残春杜陵客     残春(ざんしゅん)  杜陵(とりょう)の客
  中酒落花前     酒に中(あた)る   落花の前

  ⊂訳⊃
          睦州は   釣台の近くにあって
          山紫水明  まことに美しい
          家々は   木立に隠れてちらほら見え
          谷川は   いたるところでさらさらと流れる
          木の間隠れに   鳥は鳴き
          晴れた高楼に   霞は淡く流れ入る
          晩春の花散る中  杜陵の客は
          いつしか酔いに  身をまかす


 ⊂ものがたり⊃ 冬が去れば、睦州(ぼくしゅう)にも春がめぐってきます。睦州は江南でも最南端に近い土地ですので、春はどこよりも早く来たと言うべきでしょう。山間の春の姿は、思いもよらない美しさでした。
 浙江は下流を銭塘江、中流を富春江、上流を新安江といいます。南から流れて来る東陽江が西から流れて来る新安江と合流する地点に睦州はあります。この合流点の北が富春江で、すこし下ったところに「釣台」がありました。
 釣台は富春江西岸にある平たい岩で、後漢の高士厳光(げんこう)が釣り糸を垂れたことで有名でした。厳光は光武帝の旧友で後漢の創業に功績がありましたが、光武帝の勧めを辞退して任官せず、富春山の山麓に隠棲しました。厳光はこの地で悠悠自適の生活を送り、釣台で釣り糸を垂れる毎日であったといいます。
 「杜陵の客」は杜牧自身であり、大中元年(847)の春、晩春の花吹雪のなか、杜牧は酒に酔い痴れる毎日でした。

 杜牧ー118
     寓 言              寓  言

  暖風遅日柳初含   暖風(だんぷう)  遅日(ちじつ)  柳(やなぎ)初めて含む
  顧影看身又自慙   影を顧み  身を看(み)て  又た自ら慙(は)ず
  何事明朝独惆悵   何事ぞ明朝(めいちょう)に  独り惆悵(ちゅうちょう)する
  杏花時節在江南   杏花(きょうか)の時節  江南に在り

  ⊂訳⊃
          暖かい風  のどかな春よ  おぼろに霞む柳の木

          改めてわが身を顧みれば  悔いる思いが湧いてくる

          聖明の御代に  どうして悲しみにくれているのか

          杏の花咲く宴の季節に  遠く離れた江南の地で


 ⊂ものがたり⊃ 春は貢挙の季節であり、都長安の杏園(きょうえん)で新進士たちの祝宴がひらかれる季節でもあります。かつて杜牧も、新進士として希望に燃えていた時期がありました。それがどうしてこんな惨めな状態になってしまったのかと、「自慙」し「惆悵」する杜牧です。
 この年の閏三月、宣宗は廃仏の停止を命じ、仏寺の復興を許しました。武宗の政策、つまりはそれを推進した李党の政策はつぎつぎに否定され、党争は牛党の完全な勝利に帰したかのようでした。長安では老いた牛党の指導者に代わって白敏中(白居易の二従兄弟)をはじめとする牛党の若手が宰相になり、李党の官僚を排斥しています。しかし、睦州の杜牧には都からの音沙汰はありません。

 杜牧ー119
      猿                 猿

  月白煙青水暗流   月(つき)白く  煙青くして   水(みず)暗(あん)に流る
  孤猿銜恨叫中秋   孤猿(こえん)  恨みを銜(ふく)んで   中秋(ちゅうしゅう)に叫ぶ
  三声欲断疑腸断   三声(さんせい)  断(た)えんと欲して  腸(はらわた)断ゆるかと疑う
  饒是少年須白頭   饒(たと)い是れ少年なりとも  須(すべか)らく白頭なるべし

  ⊂訳⊃
          青い靄のなかの白い月  ひそやかに水は流れ

          中秋の孤猿の鳴き声が  恨むように聞こえてくる

          三声まさに絶えんとし   腸も千切れるほどだ

          その悲しげな啼き声に   若い黒髪も白髪となる


 ⊂ものがたり⊃ この詩を含め、次回と次々回の三首は制作年不明の詩ですが、三首に際立っている特徴は「月白」「白頭」「白髪」「雪」と白の基調がつづくことです。白は衰退を予感させる語で、杜牧は自分の未来に希望をなくしているようです。
 江南の猿の鳴き声は、李白も杜甫も詠っています。その音色の違う三つの泣き声は、はらわたが千切れるほどに悲痛なもので、杜牧は若者の黒い髪も白髪になるほどだと言っています。

 杜牧ー121
    初冬夜飲               初冬の夜飲

  淮陽多病偶求懽   淮陽(わいよう)多病  偶(たま)たま懽(かん)を求む
  客袖侵霜与燭盤   客袖(かくしゅう)  霜に侵されて  燭盤(しょくばん)に与(むか)う
  砌下梨花一堆雪   砌下(せいか)の梨花(りか)   一堆(いったい)の雪
  明年誰此凭欄干   明年  誰(たれ)か此(ここ)に  欄干(らんかん)に凭(よ)らん

  ⊂訳⊃
          淮陽の太守は疾がち 酒を飲んで憂さを晴らす

          旅人に寒気は厳しく  燭台に向かって坐している

          石階にうず高い雪   梨花のように真っ白だ

          来年いまごろ欄干に  寄りかかるのは誰だろう


 ⊂ものがたり⊃ 詩題に「初冬」(しょとう)とありますので冬十月の作でしょう。冬を詠う作品は少ないので、この年の冬に作られた可能性が高いと思います。
 起句の「淮陽多病」は、漢代の汲黯(きゅうあん)が病弱を理由に淮陽太守の職を辞した故事をさします。汲黯は景帝・武帝に仕え、直言してはばからぬ剛直の士でした。東海太守に任ぜられたときは、郡内がよく治まったといいますが、のちに淮陽の郡守に任ぜられたときは疾を理由に断りました。しかし、聴き入れられず、赴任して任地で亡くなったといいます。
 杜牧は自分を汲黯に重ね合わせて詠っており、「石階」(きざはし)の上の「一堆の雪」には不吉なものさえ感じます。江南で大雪が積もるのは珍しかったかもしれません。気温の急激な低下は、温暖化の場合と同様、自然災害の原因となり、農業の不振をもたらします。江南の大雪は中国の治安が乱れる予兆であったかもしれません。
 そうした冬のさなかの十二月、李徳裕が潮州(広東省潮州市)司馬に流されたという報せが届きました。李徳裕は従六品上に落とされたはずで、流刑に等しい異動です。ここに李党の息の根は完全に止められたと言っていいでしょう。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧125ー128

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 杜牧ー125
   秋晩早発新定        秋の晩 早に新定を発す

  解印書千軸     印(いん)を解く    書(しょ)千軸(せんじく)
  重陽酒百缸     重陽(ちょうよう)  酒(さけ)百缸(ひゃくこう)
  涼風満紅樹     涼風(りょうふう)  紅樹(こうじゅ)に満ち
  暁月下秋江     暁月(ぎょうげつ)  秋江(しゅうこう)を下る
  巌壑会帰去     巌壑(がんがく)に 会(かなら)ず帰り去らん
  塵埃終不降     塵埃(じんあい)に 終(つい)に降(お)りず
  懸纓未敢濯     纓(えい)を懸(か)けんとして  未だ敢(あえ)て濯(あら)わず
  厳瀬碧淙淙     厳瀬(げんらい)   碧(みどり)淙淙(そうそう)たり

  ⊂訳⊃
          腰の印綬をはずせば  千巻の書がある
          重陽の節句に乗じて  たっぷり酒を飲む
          紅葉の樹々に       涼しい風が満ち
          有明の月に照らされ  晩秋の川をくだる
          いつかきっと  山水の間を住居としよう
          いつまでも   俗塵に塗れるつもりはない
          隠退の思いは募るが  冠はまだそのままだ
          厳陵瀬のあたりに    淙々と水はながれて碧色


 ⊂ものがたり⊃ 睦州(ぼくしゅう)を発つときの詩です。杜牧は晩秋の朝早く舟を出して、富春江をくだります。「巌壑に 会ず帰り去らん 塵埃に 終に降りず」と、杜牧は隠退への思いを口にしますが、隠退に踏み切ることのできない自分であることもわかっています。
 杜牧を乗せた舟は流れを下ってゆき、釣台(ちょうだい)の前に差しかかります。釣台の前の早瀬を厳陵瀬(げんりょうらい)といい、碧色(みどりいろ)の水が淙々と流れています。杜牧は厳光(げんこう)の悠々自適の生活の象徴として厳陵瀬を描いているのであり、結びの一句には冠をつけたままの杜牧の尽きせぬ思いが込められているように思います。

 杜牧ー126
   夜泊桐廬 先寄       夜 桐廬に泊し 先ず
   蘇台盧郎中          蘇台の盧郎中に寄す

  水檻桐廬館     水檻(すいかん) 桐廬(とうろ)の館(かん)
  帰舟繋石根     帰舟(きしゅう)  石根(せきこん)に繋(つな)ぐ
  笛吹孤戍月     笛は吹く  孤戍(こじゅ)の月
  犬吠隔渓村     犬は吠ゆ  渓(けい)を隔(へだ)つる村
  十載違清裁     十載(じつさい)  清裁(せいさい)に違(たが)い
  幽懐未一論     幽懐(ゆうかい)  未(いま)だ一(ひと)たび論ぜず
  蘇台菊花節     蘇台(そだい)    菊花(きくか)の節(せつ)
  何処与開     何(いず)れの処にか  与(とも)に(そん)を開かん

  ⊂訳⊃
          水辺の欄干  桐廬の館
          岸の岩根に  舟をつなぐ
          月は昇り   塞に笛の音は流れ
          対岸の村で  犬がしきりに吠えている
          この十年   会えないままに過ぎ
          胸中の思い  伝えずにきた
          蘇州に着くころは重陽の節句
          何処かで酒を飲みながら  つもる話をしよう


 ⊂ものがたり⊃ 桐廬(浙江省桐廬県)は、新定の城から五十余里(約30km)ほど川を下ったところにあります。舟で二日以内の行程です。杜牧は桐廬の駅亭に一泊し、そこから蘇州刺史の盧簡求(ろかんきゅう)に詩を送りました。詩題に「盧郎中」とあるのは、盧簡求が中央にいたときの官名で呼んだものです。
 風景の描写は暗く寂しげですが、杜牧にはまだ政事を論ずる気持ちはあります。「蘇台」(蘇州)に着くころは、九月九日の「菊花節」(重陽節)のころになるので、久し振りに会って、つもる話をしようではないかと友を懐かしむ気持ちを伝えます。盧簡求と過ごした蘇州の夜は楽しいものであったでしょう。

 杜牧ー127
    江南懐古              江南懐古

  車書混一業無窮   車書(しゃしょ)混一(こんいつ)  業(ぎょう)窮(きわ)まり無く
  井邑山川古今同   井邑(せいゆう)   山川(さんせん)  古今(きんこ)同じ
  戊辰年向金陵過   戊辰(ぼしん)の年 金陵(きんりょう)を過ぎ
  惆悵閑吟憶庾公   惆悵(ちゅうちょう)閑吟して  庾公(ゆこう)を憶(おも)う

  ⊂訳⊃
          天下一統の大業は  永く保たれ

          村里城邑  山川の姿に変わりはない

          いままさに戊辰の年   金陵の地を過ぎながら

          悲運の庾信を思いやり  静かに詩を口ずさむ


 ⊂ものがたり⊃ 蘇州をあとにした舟は、潤州で長江に達します。この古い城邑で、杜牧は江南の地を懐古します。「車書混一」は車軌と文字を同一にすることで、天下統一を意味します。ここまでは唐のことで、天下は統一され、村里城邑山川の姿に変わりはありません。
 潤州には東晋時代に北府が置かれ、都建康(金陵)の防衛拠点でした。当時、潤州は長江最大の渡津であり、金陵渡(きんりょうと)とも呼ばれていました。そこから潤州を「金陵」ともいうのです。
 大中三年(848)は「戊辰年」で、その三百年前にあたる南朝梁(りょう)の武帝の戊辰年に侯景(こうけい)の乱が起きました。南朝梁の詩人庾信(ゆしん)は乱を避けて江陵(湖北省江陵県)に逃れ、そののち北朝の西魏に使いしました。ところが使者として西魏にいるときに梁が滅亡し、帰国できなくなります。
 庾信はやむなく北朝に仕え、異郷で生涯を終えました。杜牧は蘇州刺史盧簡求と、侯景の乱や梁の滅亡、庾信のことなどを話題にしたのかもしれません。潤州で庾信の不運に思いを馳せ、詩を口ずさむのです。

 杜牧ー128
    汴河阻凍            汴河にて凍れるに阻まる

  千里長河初凍時   千里の長河(ちょうが)  初めて凍(こお)る時
  玉珂瑤珮響参差   玉珂(ぎょくか)  瑤珮(ようはい)  響き参差(しんし)たり
  浮生恰似冰底水   浮生(ふせい)は恰(あたか)も似たり  冰底(ひょうてい)の水に
  日夜東流人不知   日夜東流して  人(ひと)知らず

  ⊂訳⊃
          遠く連なる汴河の水が   いま凍りはじめ

          凍る音は  玉珂瑤珮と川面にひびく

          人生は   氷のしたの水のように

          昼夜わかたず東に流れ  人に知られることもない


 ⊂ものがたり⊃ 都への旅の途中の九月、杜牧は李徳裕が潮州司馬からさらに遠く州(海南省海口市)の司戸参軍に再貶されたことを耳にします。かつて正二品の宰相であった李徳裕は、辺境州の従七品下、諸曹参軍に落とされてしまったのです。杜牧は人生の有為転変に粛然とした気持ちにならざるを得ません。
 潤州から揚州までは長江を渡ってすぐです。杜牧は弟杜(とぎ)の住まいに立ち寄ります。揚州の杜の家には弟夫婦と一男一女のほかに、李氏に嫁いで寡婦となった妹が子供を連れて同居していました。二家族六人は杜牧の仕送りによって質素な暮らしをしていました。
 杜牧は弟の眼病を見舞い、都へ帰ったら今度は大郡の太守になって江南にもどってくる。そうなったらお前の医薬や家族の衣食、妹一家の面倒もいまよりはましにみることができるだろう、心配するなと励まします。杜牧は眼医の名人の噂などもして杜夫婦に希望を持たせ、三十日間ほど滞在して北へ向かいました。
 冬の運河をつたって北上する途中、汴河(べんが)を通ります。杜牧が冬の汴河を通過するのは、このときだけです。この冬は、汴河の水も凍るほどの寒さでした。詩題の「凍れるに阻まる」は、氷結のために航行できなかったことを意味します。
 「玉珂瑤珮」は馬のおもがいにつける玉製の飾りと腰に下げる佩玉のことで、いずれも高位の人を示すものです。汴河の氷結する音が玉珂瑤珮の触れ合う音のように響いたと言うことで、富貴の人々の豪奢な生活に警鐘を鳴らしているとも受け止められますが、杜牧は氷の下を流れる水の永遠の流れに目を向けています。結句の「日夜東流して 人知らず」は、杜牧自身のことを言っているのかも知れません。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧129ー134

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 杜牧ー129
    長安雪後               長安 雪後

  秦陵漢苑参差雪   秦陵(しんりょう)  漢苑  参差(しんし)として雪なり
  北闕南山次第春   北闕(ほくけつ)  南山  次第に春なり
  車馬満城原上去   車馬(しゃば)   城に満ちて  原上(げんじょう)に去(ゆ)く
  豈知惆悵有閑人   豈に知らんや   惆悵(ちゅうちょう)として閑人(かんじん)有るを

  ⊂訳⊃
          驪山の陵や上林苑  雪はあたりに舞い散るが

          北の皇居や終南山  こちらはようやく春めいてきた

          馬車は城内に溢れ  楽遊原へ繰り出してゆく

          人々は気づくまい   暇人がここに憂えていることを


 ⊂ものがたり⊃ 旅の途中、杜牧は牛僧孺が都で亡くなったことを聞きました。享年六十九歳であったと言われています。杜牧の生涯に少なからず影響を与えた党争の指導者は、牛李双方とも都から消えてしまったのです。
 杜牧が長安に着いたのは、冬十二月でした。司勲員外郎・史館修撰として、すぐに大明宮の尚書省に出仕をはじめます。明けて大中三年(849)、杜牧は四十七歳になりますが、依然として従六品上の員外郎です。この年は春になっても雪が降るほど寒気が厳しく、長安は年が明けても冬景色でした。
 起句の「秦陵」は驪山の北麓にある秦の始皇帝陵かも知れませんが、つぎに「漢苑」とありますので、秦漢を借りる技法でしょう。春の雪もようやく止んで長安に春が訪れ、人々は城内の行楽地楽遊原(らくゆうげん)へと繰り出してゆきますが、杜牧はそれを斜(はす)に眺めています。

 杜牧ー130
   春晩題韋家亭子        春の晩 韋家の亭子に題す

  擁鼻侵襟花草香   鼻を擁(ふさ)ぎ襟(きん)を侵して  花草(かそう)香(かんば)し
  高台春去恨茫茫   高台(こうだい)  春去りて  恨み茫茫たり
  蔫紅半落平池晩   蔫紅(えんこう)半(なか)ば落つ   平池(へいち)の晩(くれ)
  曲渚飄成錦一張   曲渚(きょくしょ)飄(ただよ)い成(な)す  錦一張(きんいっちょう)

  ⊂訳⊃
          草花のむせる香が 鼻を塞ぎ襟に満ち

          高楼にのぼれば   過ぎゆく春の恨みはつきない

          夕闇のせまる池に  花くれないはあでやかに散り

          花びらは入江に漂って  一張の錦のようだ


 ⊂ものがたり⊃ 憂い顔の杜牧ですが、勤めは暇です。杜牧はかねて研究していた『孫子』十三篇に注をほどこす仕事をはじめました。『孫子』は兵書であると同時に経国の書でもあります。
 長安の人々は暖かくなると楽遊原へ繰り出しますが、杜牧は郊外の樊川(はんせん)に出かけます。樊川は川の名前ではありません。川は当時、水(すい)と呼ばれ、川沿いの土地を川(せん)と言っていました。
 詩題の「韋家(いか)の亭子(ていし)」は杜氏と並ぶ名門韋氏の別墅(べつしょ:別荘)のことで、樊川の韋曲(いきょく)にありました。野山には草花がむせかえるような香りを放って咲き乱れていました。杜牧は近くの朱坡(しゅは)にあった祖父杜佑の別墅も訪れたでしょう。春の自然の華やかさのなかで、すべては荒れ果ててしまっていました。

 杜牧ー131
   過田家宅           田家の宅を過ぐ

  安邑南門外     安邑(あんゆう)  南門の外
  誰家板築高     誰(た)が家か   板築(はんちく)高き
  奉誠園裏地     奉誠園裏(ほうせいえんり)の地
  牆缺見蓬蒿     牆(しょう)缺(か)けて  蓬蒿(ほうこう)を見る

  ⊂訳⊃
          安邑坊の坊門を  南へゆくと

          だれが住むのか  高々と塀をめぐらす

          豪奢な馬燧の邸宅は  奉誠園となり

          土塀は崩れ  茂っているのは蓬だけ


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は久し振りの長安城内を歩いてみます。注意して見ると、城内には新しい大きな邸宅もあり、荒れた邸の跡もあります。「安邑」は長安東街の安邑坊のことで、その南の坊門から少し南へ行ったところとは宣平坊のあたりでしょう。
 長安城内の南部の坊は、城内とはいっても農家や寺院、農地や林地などが多く、詩題の「田家(でんか)の宅」というのは、そうした城内の田園地帯の家のことです。宣平坊は楽遊原のある台地を背にした微高地にあり、緑の多い地帯でした。そのあたりが高級官吏の住む新しい住宅地になっていて、「板築高き」、つまり板築で高く築いた塀の邸ができていたりしました。
 安邑坊は東市の南に隣接する坊で、「奉誠園」は安邑坊内にありました。もとは馬燧(ばすい)の邸宅でしたが、馬燧の死後、半ば強制的に朝廷に献上させられました。豪奢な建物は解体されて宮中に運ばれ、跡地は奉誠園になっていましたが、それもいまは板築の土塀も崩れ、蓬蒿の茂る荒れ地になっていたのです。

 杜牧ー132
    過勤政楼             勤政楼に過る

  千秋佳節名空在   千秋(せんしゅう)の佳節(かせつ)  名(な)空(むな)しく在り
  承露糸嚢世已無   承露(しょうろ)の糸嚢(しのう)  世(よ)已(すで)に無し
  唯有紫苔偏称意   唯だ紫苔(したい)のみ  偏(ひと)えに意(こころ)に称(かな)う有りて
  年年因雨上金鋪   年年  雨に因(よ)りて  金鋪(きんぽ)に上る

  ⊂訳⊃
          玄宗の千秋節も  いまはその名を残すだけ

          承露嚢の習慣も  絶えてしまった

          はびこっているのは  赤むらさきの苔

          毎年雨が降るたびに  門環の金具へはいあがる


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は若いころ、楊貴妃事件を題材として幾つかの詠史詩を書きましたが、それとは違う感じの懐古詩を残しています。それらは、このころの杜牧の褪めた感情を反映する作品と思われます。
 詩題の「勤政楼」(きんせいろう)は玄宗皇帝の勤政務本楼のことで、興慶宮の西南隅にありました。そこからは、にぎやかな春明門街と東市を見下ろすことができました。
 「千秋の佳節」は開元十七年(729)に設けられた祝日で、玄宗の誕生日(八月五日)を祝うものです。その日には「承露の糸嚢」を贈答し合う習慣がありましたが、それも廃れてしまい、目立つのは興慶宮の「金鋪」(門環の金の台座)まで這い上っている赤い苔です。盛唐の都は物心ともに荒れ果てようとしていました。

 杜牧ー133
    村舎燕                村舎の燕

  漢宮一百四拾五   漢宮(かんきゅう)  一百四拾五(いっぴゃくししゅうご)
  多下朱簾閉瑣窗   多く朱簾(しゅれん)を下して  瑣窓(さそう)を閉ざす
  何処営巣夏将半   何れの処にか巣を営んで   夏(なつ)将(まさ)に半ばならんとす
  茅簷煙裏語双双   茅簷(ぼうえん)の煙裏(えんり)  語(かた)ること双双(そうそう)

  ⊂訳⊃
          漢の都城の内外に  一百四拾五の宮殿がある

          多くは珠簾をおろし  飾り窓を閉じている

          夏の半ばというのに  燕はどこに巣をかけた

          茅屋にたなびく炊煙  燕が軒端で鳴いている


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は長安城の内外を歩きまわります。宮殿は多くが閉鎖され、荒廃していました。燕が巣をかける場所もなく、つがいの燕が農家の軒端で鳴いているのでした。この詩は中唐の劉禹錫(りゅううしゃく)「烏衣巷」(ういこう)を踏まえていると思われますので参照してください。

 杜牧ー134
     宮人               宮人塚

  尽是離宮院中女   尽(ことごと)く是(こ)れ  離宮院中(いんちゅう)の女(じょ)
  苑牆城外累累   苑牆(しょうえん)城外  塚(つか)累累(るいるい)たり
  少年入内教歌舞   少年にして入内(にゅうだい)し  歌舞(かぶ)を教えらるるも
  不識君王到老時   君王を識(し)らずして  老時(ろうじ)に到る

  ⊂訳⊃
          この墓はみな  離宮の院中に仕えた女たち

          宮苑のそとに重なり合って  累々とつづく

          幼くして宮中に召し出され  歌や踊りを教えられたが

          君公に知られることもなく   年老いてしまう


 ⊂ものがたり⊃ 城外のかつて離宮のあったあたりを歩いてみると、宮苑の牆外に残っているのは、名もない宮女たちの墓だけです。彼女たちは幼いころに宮中に召し出され、天子にまみえることもなく年老いてしまいました。そしていまは、墓だけが累々とつらなっています。
 杜牧は樊川の朱坡にもたびたび出かけました。杜牧6(本年7月16日のブログ参照)に掲げた「朱坡に遊びしを憶う四韻」も、この年の秋の作品と思われます。懐かしい樊川の地を幾度も訪ねて、今を昔にもどせないことは分かっていますが、できれば祖父の別墅を修復したいと思うのでした。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧135ー138

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 杜牧ー135
   将赴呉興 登          将に呉興に赴かんとして 
   楽遊原一絶           楽遊原に登る 一絶

  清時有味是無能   清時(せいじ)に味わい有るは  是(こ)れ無能(むのう)
  愛孤雲静愛僧   閑(かん)は孤雲(こうん)を愛し  静(せい)は僧を愛す
  欲把一麾江海去   一麾(いっき)を把(と)りて  江海(こうかい)に去(ゆ)かんと欲し
  楽遊原上望昭陵   楽遊原上  昭陵(しょうりょう)を望む

  ⊂訳⊃
          泰平の世を  楽しく暮らす能なしよ

          ぽっかり浮かぶちぎれ雲  僧侶と語る閑雅がよい

          今まさに一本の旗を持ち  江南の海辺へゆこうとし

          楽遊原上   はるかに昭陵を眺めやる


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は『孫子注』三巻を書き上げると、それを宰相周墀(しゅうち)に献上しました。杜牧の軍備・用兵・戦術、経世済民の思想を集大成したもので、心を込めて書いたものですが、受納され書庫に納められただけでした。
 杜牧は次第に官途への関心を失いはじめていました。大州の刺史になってもどってくるという弟杜との約束も思い出され、閏十月に杜牧は「宰相に上りて杭州を求める啓」を上書しました。杭州刺史への転出を願い出たのですが、聴き入れる返事はありませんでした。
 十二月になって李徳裕が山の任地で病没したという報せが届きましたが、杜牧にはもはや何の感慨もありません。この年、従兄の杜悰(とそう)も再度の剣南西川節度使に任ぜられ、都をあとにしました。
 年が明けて大中四年(850)になり、杜牧は吏部員外郎の告身を受けました。吏部員外郎は文官の職事官の人事を行う部署ですので、万人の望む地位でしたが、杜牧にはいまさらという感情があります。家長として家属のために収入の増加をはかる必要も肩に重くのしかかっていました。
 そのころ杜牧は、湖州刺史が満期になるのを知りました。吏部員外郎であれば、当然知りえる情報です。湖州は友人の張文規(ちょうぶんき)がかつて赴任した地であり、その地の豊かな土地柄については耳にしていましたので、杜牧は意を決して「宰相に上りて湖州を求める啓」を上書しました。希望地を杭州よりも一段下げての転出願いです。
 それが聴き入れられないとみるや、第二啓、第三啓と立てつづけに上書をし、最後には揚州にいる家属の面倒をみなければならないという個人的な理由まで持ち出して請願しました。その結果、願いは秋七月になってやっと認められ、湖州にゆくことになりました。
 掲げた詩は、湖州への出発を前にして、初秋の楽遊原に登り、長安の都を一望したときの作品です。詩題で「呉興」(ごこう)と言っているのは湖州のことです。起句で「無能」と言っていますが杜牧自身のことで、自分を能なしと嗤い、「閑は孤雲を愛し 静は僧を愛す」と隠者への思いを詠います。しかし、現実には刺史の旗を立てて江南へ赴く身です。
 「昭陵」は唐の太宗李世民(りせいみん)の眠る陵で、杜牧は楽遊原の高台から北に望む皇陵を祈るような気持ちで眺めます。杜牧は国家の将来について不安を感じていたようです。

 杜牧ー136
    登楽遊原            楽遊原に登る

  長空澹澹孤鳥没   長空(ちょうくう)澹澹(たんたん)として  孤鳥(こちょう)没す
  万古銷沈向此中   万古(ばんこ)銷沈(しょうちん)して    此中(ここ)に向(あ)り
  看取漢家何似業   看取(かんしゅ)せよ  漢家(かんか)  何似(いか)なる業(ぎょう)ぞ
  五陵無樹起秋風   五陵  樹(き)の  秋風(しゅうふう)を起こす無し

  ⊂訳⊃
          果てしない空の彼方  一羽の鳥が消え去った

          悠久の時は流れて   ここに埋まっている

          見よ  漢の王朝も   いかなる功業を残したのか

          五陵のあたり秋の風  樹々を揺るがすこともない


 ⊂ものがたり⊃ この詩も湖州への出発を前にして楽遊原に登ったときの作品と思われます。空の果てに消えた「孤鳥」とは、杜牧自身の姿もしくは心でしょう。杜牧は楽遊原に登って、みずからの人生をかえりみ、漢を借りて唐朝の衰亡に思いを馳せるのです。
 「五陵」(ごりょう)は漢の皇帝の陵墓の集中する地区ですが、遠くに五陵のあるあたりを望み見て、「五陵 樹の 秋風を起こす無し」と、胸には虚ろな感慨、茫々とした思いが湧いてくるのでした。

 杜牧ー137
   将赴湖州           将に湖州に赴かんとして
   留題亭菊           亭菊に留題す

  陶菊手自種     陶菊(とうきく)  手自(てずか)ら種(う)え
  楚蘭心有期     楚蘭(そらん)  心に期する有り
  遥知渡江日     遥かに知る   江(こう)を渡るの日
  正是擷芳時     正(まさ)に是(こ)れ  芳(ほう)を擷(つ)むの時なるを

  ⊂訳⊃
          陶淵明が愛した菊は  自分で庭に植え

          屈原のゆかりの蘭に  やがて会うのが楽しみだ

          長江を渡るころには  菊の花も摘みごろだろう

          菊花の節句は  はるか遠くから偲ぶとしよう


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は湖州への出発に際し、陶淵明の生き方や屈原の運命に思いをいたし、自宅の庭に菊の種をまきました。やがて咲くであろう菊の花に題して、留別の詩を残します。
 長江を渡るころには重陽の節句になっており、菊の花も摘みごろに育っているであろうと詠います。自分で希望した地方勤めとはいえ、中央での出世をあきらめて出てゆくような転勤ですので、杜牧の心にはひそかな哀惜の思いがあったでしょう。

 杜牧ー138
    汴河懐古                汴河懐古

  錦䌫龍舟隋煬帝   錦䌫(きんらん)の龍舟(りゅうしゅう)は  隋の煬帝(ようだい)
  平台複道漢梁王   平台(へいだい)の複道(ふくどう)は  漢の梁王(りょうおう)
  遊人閑起前朝念   遊人(ゆうじん)閑(すず)ろに起こす  前朝の念(ねん)
  折柳孤吟断殺腸   折柳(せつりゅう)孤(ひと)たび吟ずれば 腸(はらわた)を断殺す

  ⊂訳⊃
          錦䌫の龍舟  栄華をきわめる隋の煬帝

          平台の複道  贅美をつくした漢の梁王

          汴河を往けば   かつての御代を想い出し

          折楊柳の一曲に  私の腸は千切れるようだ


 ⊂ものがたり⊃ 長安を発った杜牧は、船で江南へ向かいます。汴河(べんが)は江南への運河に連なる水路で、滎陽(けいよう:河南省滎陽県)で黄河とわかれ、黄河の南を併行して東へ流れています。一昨年の冬に西へたどった水路を、今度は秋おそく東へ下るのです。
 杜牧は揚州の街を築いた煬帝を評価していた時期もありました。しかし、いまは亡国の帝王という思いを強く感じています。煬帝は「龍舟」に乗って運河をゆききしたと詠い、漢の「梁王」は雎陽(すいよう:河南省商丘市の南)の景勝地に梁園や平台を設け、詩人たちを集めて贅沢を極めたと詠います。そうした王侯貴族の栄華のさまを想うにつけ、杜牧は唐朝の未来に、はらわたが千切れるような不安を覚えるのでした。
 湖州への途中、杜牧は揚州の杜の家に立ち寄りますが、杜はもはや光を感ずることができず、すっかり老いて弱々しくなっていました。杜牧は弟を励まし、妹に世話を頼んで、冬十一月に湖州に着きました。    

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧139ー144

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 杜牧ー139
   春日茶山 病不       春日の茶山 病みて酒を飲
   飲酒 因呈賓客       まず 因りて賓客に呈す

  笙歌登画船     笙歌(しょうか)  画船(がせん)に登(のぼ)る
  十日清明前     十日(じゅうじつ) 清明(せいめい)の前
  山秀白雲膩     山秀(ひい)でて  白雲(はくうん)膩(つやや)かに
  渓光紅粉鮮     渓(たに)光りて  紅粉(こうふん)鮮かなり
  欲開未開花     開かんと欲して  未だ開かざる花
  半陰半晴天     半ば陰(くも)り  半ば晴れたる天(てん)
  誰知病太守     誰(たれ)か知らん  病太守(びょうたいしゅ)も
  猶得作茶仙     猶(な)お茶仙(ちゃせん)と作(な)るを得たり

  ⊂訳⊃
          音曲も賑やかに画船に乗る
          あと十日で  清明節だ
          山はひいで  白雲は空につややか
          谷川は煌めいて流れ  歌姫の紅もあざやか
          咲こうとして  いまだ開かぬ花々よ
          半ばはくもり  半ばは晴れの青空だ
          誰も知るまい この病身の太守殿
          酒仙はだめでも  茶仙になれる


 ⊂ものがたり⊃ 明ければ大中五年(851)の春です。湖州の春を杜牧はやすらかな気持ちで迎えました。中国における飲茶の風習は、このときから百年ほど前に民間に拡がったもので、安史の乱後になります。
 江南の山間地は茶の自生地として有名ですが、なかでも湖州産の茶は最高とされ、湖州の西北五十里余(約30km)のところにある顧渚山(こしょさん:湖州市長興県の北)は別名茶山と称され、紫筍茶(しじゅんちゃ)の産地として知られていました。
 紫筍茶は深山幽谷に自生する茶で、宮廷用の貢茶(こうちゃ)に指定されていました。毎年二月になると、現地に入って献上茶の採取と製造を監督するのが、湖州刺史の役目のひとつでした。
 杜牧は清明節も近い二月中旬、湖に画船(彩色した遊覧船)を浮かべて賓客をもてなしました。杜牧はこのころ消渇(しょうかち)の疾、つまり糖尿病を患っていて酒をつつしんでいました。だから船上での酒宴の座興に詩を呈し、酒仙はだめだが「茶仙」にはなれると詠って、一座の気分を盛り立てます。船上には州廨(州の役所)の歌妓もはべり、にぎやかな音楽が演奏されます。

 杜牧ー140
   入茶山下 題水        茶山の下に入り 水口の
   口草市 絶句          草市に題す 絶句

  倚渓侵嶺多高樹   渓(たに)に倚(よ)り嶺(みね)を侵して  高樹多し
  誇酒書旗有小楼   酒(さけ)を誇り旗(はた)に書して  小楼有り
  驚起鴛鴦豈無恨   驚起(けいき)せる鴛鴦(えんおう)  豈(あ)に恨み無からんや
  一双飛去却廻頭   一双(いっそう)飛び去り  却(ま)た頭(こうべ)を廻(めぐ)らす

  ⊂訳⊃
          谷川から山の上  木立は繁り

          旗に銘酒の名前  小さな酒楼がある

          人の影に驚いて  鴛鴦が飛び立った

          つがいの鳥は去りながら  恨めしそうに振りかえる


 ⊂ものがたり⊃ 茶山に入るには、谷川の径を登って山間に分け入らなければならなりません。詩題の「水口」(すいこう)は水口鎮(浙江省長興県の西北)のことで、茶山の麓にある郷村です。そこの「草市」(そうし:村市場)に酒屋があり、銘酒の名前を書いた旗がなびいています。
 「却た頭を廻らす」のは飛び立った「鴛鴦」(おしどり)ではなく、好きな酒を飲めない杜牧自身でしょう。この詩は自分を材料におどけてみせる社交の詩と思います。

 杜牧ー141
   茶山下作            茶山の下にて作る

  春風最窈窕     春風(しゅんぷう)  最も窈窕(ようちょう)たり
  日晩柳村西     日は晩(く)る  柳村(りゅうそん)の西
  嬌雲光占岫     嬌雲(きょううん)  光りて岫(みね)を占め
  健水鳴分渓     健水(けんすい)  鳴りて渓(たに)を分かつ
  燎巌野花遠     巌(いわお)を燎(や)いて  野花(やか)遠く
  戛瑟幽鳥啼     瑟(しつ)を戛(う)って  幽鳥(ゆうちょう)啼く
  把酒坐芳草     酒を把(と)りて  芳草(ほうそう)に坐せば
  亦有佳人攜     亦(ま)た佳人(かじん)の携(たずさ)うる有り

  ⊂訳⊃
          軽やかに  春風は吹き
          夕陽は   村の西にかたむく
          茜の雲は  峰に照り映え
          流れは迸つて  谷川に轟きわたる
          野の花は  岩山に紅く燃え
          葉陰では  鳥が瑟を掻き鳴らす
          草むらに坐して  酒杯を把れば
          そばに寄りそう  美女がいる


 ⊂ものがたり⊃ 貢茶監督の一行は、すでに茶山の近くに到着しています。「柳村」は水口鎮の東にあり、柳の美しい小村でした。製品になった紫筍茶は、ここで船に積み込まれて運び出されます。杜牧ら監督官の一行は官妓をともなっており、晩春の野で酒宴がひらかれます。「亦た佳人の携うる有り」と、そばに美人を寄りそわせているのです。
 杜牧はいささか浮かれ過ぎていたようです。茶山に滞在していたとき、揚州の弟杜の死去の報せが届きました。享年四十五歳でした。眼疾のため一生をなすところなく過ごした杜の死は二月のことで、報せは杜牧の出張先に届いたのです。杜牧は愕然として、しばらくは口をひらくことができませんでした。

 杜牧ー142
    題禅院                 禅院に題す

  觥船一棹百分空   觥船(こうせん)一棹(いっとう)すれば  百分(ひゃくぶん)空(むな)し
  十歳青春不負公   十歳の青春   公(こう)に負(そむ)かず
  今日鬢糸禅榻畔   今日(こんにち)  鬢糸(びんし)  禅榻(ぜんとう)の畔(ほとり)
  茶煙軽颺落花風   茶煙(ちゃえん)軽く颺(あが)る  落花(らっか)の風

  ⊂訳⊃
          杯をぐいと飲めば  酒はたちまち空になる

          青春の日々を十年  赴くままに生きてきた

          両鬢もいまは衰え  禅寺の椅子に坐す

          立ち昇る茶の煙に  落花の風が吹いている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「禅院」は柳村にあったかも知れません。また水口鎮の吉祥院の東廊には貢茶院も設けられていたといいますので、吉祥院にあったかも知れません。
 「觥船」は舟の形をした大杯で、酒を断っていた杜牧は、それを一気にぐいと飲み干します。「十歳の青春 公に負かず」であった自分の人生を思えば、飲まずにはいられない心境であったでしょう。茶釜からは茶を煮る湯気が立ち昇り、風に落花が舞っていました。
 この詩からは、弟の死に遇った杜牧の落胆の憶いが切々と伝わってきます。茶山のつとめがまだ終わっていませんので、杜牧は揚州に行って弟の仮埋葬に立ち会うこともできません。つとめが終わっていても、州刺史はみだりに任地の外に出るのを禁ぜられていましたので、送金をして埋葬させたかも知れません。

 杜牧ー144
     歎花                 花を歎く

  自恨尋芳到已遅   自ら恨む  芳(ほう)を尋ねて  到ること已(はなは)だ遅きを
  往年曾見未開時   往年曾(かつ)て見る  未だ開かざるの時
  如今風擺花狼藉   如今(じょこん)  風擺(ふる)いて  花狼藉(ろうぜき)たり
  緑葉成陰子満枝   緑葉(りょくよう)  陰(かげ)を成して  子(み)  枝に満つ

  ⊂訳⊃
          かつてみそめた美しい花  花の蕾を

          年へて尋ねると  恨みは深い

          風は吹き荒れて  無残に花は散り

          緑の葉陰に  実がいっぱいついている


 ⊂ものがたり⊃ この詩については『太平広記』に引く『唐闕史』につぎのような話が載せられているそうです。「杜牧は宣州の幕中にいた若いころ、湖州に遊び、十余歳の美少女を見かけて、その母親に会い、結納金を渡して約束した。私は十年も経たないうちに、ここの長官(州刺史)となる。もし十年たっても来なかったならば、他の人に嫁がせてよいと。その後、諸州の長官を歴任し、ようやく湖州刺史になったときは、すでに十四年が過ぎていた。約束の娘は三年前に嫁ぎ、三人の子を生んでいた。そこで詩を賦(つく)りて曰く…」。
 この話のようなことがあったかも知れませんが、巷間の雑書に載せられたこの種のお話は作り話とみるのが無難でしょう。この詩は杜牧が自分自身のこと顧みて詠んだと考えるのが、湖州時代の杜牧ににふさわしいと思います。
 自分は若いときから詩に目覚め、生涯に作った詩(子)は枝に満ちているが、「往年」の詩と比べてすぐれていると思う作品がどれだけあるだろうかと、「花狼藉」ともいうべき自分の生涯に憶いを馳せた作品と考えるのが適当でしょう。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧145ー149

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 杜牧ー145
    途中一絶               途中の一絶

  鏡中糸髪悲来慣   鏡中(きょうちゅう)の糸髪(しはつ)  悲しみ来たるに慣(な)れ
  衣上塵痕払漸難   衣上(いじょう)の塵痕(じんこん)   払うこと漸く難(かた)し
  惆悵江湖釣竿手   惆悵(ちゅうちょう)す  江湖(こうこ) 釣竿(ちょうかん)の手
  却遮西日向長安   却(かえ)って西日(せいじつ)を遮りて  長安に向かうを

  ⊂訳⊃
          鏡のなかの  白髪頭の嘆きにも慣れ

          染みついた浮世の塵も  払えないとわかってきた

          それが何と  釣り竿になじんだ手を挙げて

          西の陽ざしを遮りつつ  都長安へ向かうのだ


 ⊂ものがたり⊃ 大中五年の仲秋八月に、杜牧は考功郎中・知制誥に任命する告身を受け取ります。先の在京のときの員外郎から郎中になるのですから出世です。弟杜が亡くなってみれば、江南にとどまる理由もありませんので、杜牧は再び運河を伝い、秋の陽ざしの中を長安へ向かいます。
 杜牧は「衣上の塵痕 払うこと漸く難し」と悟っています。閑雅に暮らそうと思っていたけれども、それがまたもや長安をめざして舟行しているのです。隠棲は口でいうほど簡単ではありません。汴河のゆくて、西のかた長安はまぶしすぎると、釣り竿に馴染んだ手を挙げて、西日をさえぎるのでした。

 杜牧ー146
     隋堤柳              隋堤の柳

  夾岸垂楊三百里   岸を夾(はさ)む垂楊(すいよう)   三百里
  秖応図画最相宜   秖(た)だ応(まさ)に図画(とが)に  最も相宜(あいよろ)しかるべし
  自嫌流落西帰疾   自ら嫌(いと)う  流落(りゅうらく)  西帰(せいき)の疾(はや)きを
  不見東風二月時   見ず  東風(とうふう)  二月の時

  ⊂訳⊃
          両岸にしだれ柳はつづく  数百里

          絵にふさわしい  美しさ

          志を遂げずに   西へ帰るのは残念だ

          春二月の東風に  揺れる柳を見ないまま


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧はこれまでに幾度か汴河を航行しましたが、春二月に通ったことは一度もありません。春になって芽吹くころの汴河の柳を見ることもなく終わったが、岸の柳もこれが見納めだろうと思いながら、「自ら嫌う 流落 西帰の疾きを」と嘆きます。船上に坐した杜牧を乗せて、舟はゆっくりと進み、冬のはじめに長安に着きました。

 杜牧ー147
    歳日朝迴             歳日 朝より迴る

  星河猶在整朝衣   星河(せいが)猶(な)お在りて  朝衣(ちょうい)を整え
  遠望天門再拝帰   遠く天門(てんもん)を望んで  再拝して帰る
  笑向春風初五十   笑って春風(しゅんぷう)に向かう  初めて五十
  敢言知命且知非   敢(あ)えて言わんや  命(めい)を知り  且つ非(ひ)を知ると

  ⊂訳⊃
          星の瞬く夜明け前  礼服をまとって参内し

          遥かに玉座を望み  二度跪いて帰ってきた

          本日 私は五十歳  笑って春風に向かう

          知命知非というが  聖人のようにはいかないものだ


 ⊂ものがたり⊃ 考功郎中は尚書省吏部考功曹の郎中で、杜牧ははじめて五品の品階を得ました。中国の王朝では、五品と六品との間に大きな身分の差があり、五品と四品は大夫(たいふ)、三品以上は卿(けい)と称します。六品までは士身分であり、五品以上は貴族の身分といえます。五品以上の官人については同居の親族にも公課(租税と兵役)が免除され、子孫は貢挙を経ずに官吏になれる特権があります。
 杜牧はさらに知制誥(ちせいこう)を帯びており、制誥は詔書や用命の草案を起草することです。制誥は中書舎人の重要な役目で、知とあるのはその見習いを仰せつかったことになります。才能があれば中書舎人に登用するという意味が含まれているのです。
 杜牧は着任すると、その冬、樊川の祖父の別墅を修復して、年来の望みを達しました。しかしこの年、宰相の周墀(しゅうち)が亡くなり、有力な理解者を失います。明ければ大中六年(852)の春、杜牧は五十歳になりました。
 新春元旦には大明宮の含元殿で荘重な元会(げんかい)の儀式が催されます。百官は星のまたたく早朝から儀式に参列し、天子を拝します。参内後、杜牧は帰宅しますが、帰宅したのはどの家でしょうか。杜牧は安仁坊の祖父の邸を回復したと言われていますが、はっきりしたことは分かりません。
 「知命」は孔子の「五十にして天命を知る」であり、「知非」は春秋衛の大夫遽伯玉(きょはくぎょく)の故事で、「年五十にして、四十九年の非有り」を指します。杜牧は自分の五十年の人生を省みて、聖人のように悟りきるのは難しいと春風の中で苦笑いするのでした。

 杜牧ー148
    逢故人             故人に逢う

  年年不相見     年年(ねんねん)  相見(あいみ)ず
  相見却成悲     相見れば  却(かえ)って悲しみを成す
  教我涙如霰     我をして  涙  霰(あられ)の如く
  嗟君髪似糸     君が髪の  糸に似たるを嗟(なげ)かしむ
  正傷攜手処     正に傷む  手を携(たずさ)う処(ところ)
  况値落花時     况(たまた)ま値(あ)う  落花の時
  莫惜今宵酔     惜(お)しむ莫(な)かれ  今宵(こんしょう)の酔い
  人間忽忽期     人間(じんかん)  忽忽(こつこつ)たる期(き)なれば

  ⊂訳⊃
          幾年も会わずにいると
          会えば却って悲しくなる
          霰のように  涙はほとばしり
          衰えた君の白髪が  嘆かわしい
          連れだって歩くと   胸は痛むが
          いままさに  落花の季節
          今夜は  おおいに飲もうではないか
          人生は  あっというまに過ぎ去るのだ


 ⊂ものがたり⊃ 大中六年(852)の二月、杜牧は弟杜の遺骨を揚州から郷里の万年県洪原郷陵の先祖の墓地に改葬しました。すでに妹と弟妹の家族は引き取っていたでしょう。それが家長としての務めです。
 晩春の落花の季節に、杜牧は街で「故人」(旧知の友)に出会いました。それが誰であるかは分かりませんが、「惜しむ莫かれ 今宵の酔い」と消渇(しょうかち)の疾であることも忘れて、おおいに飲みました。
 杜牧の揚州時代の友人韓綽(かんしゃく)は、その後の経歴が不詳ですが、杜牧が三十一歳から三十二歳のころ、揚州の妓楼でともに遊んだ仲間です。その韓綽と十八年振りに長安の街で再会したとも考えられます。

 杜牧ー149
     哭韓綽               韓綽を哭す

  平明送葬上都門   平明(へいめい)  葬(そう)を送る   上都(じょうと)の門
  紼翣交横逐去魂   紼翣(ふつしょう)交横(こうおう)して  去魂(きょこん)を逐(お)う
  帰来冷笑悲身事   帰来(きらい)冷笑す  身事(しんじ)を悲しむを
  喚婦呼児索酒盆   婦(ふ)を喚(よ)び児(こ)を呼んで  酒盆(しゅぼん)を索(もと)む

  ⊂訳⊃
          薄明かりの朝はやく   長安城門で葬列を送り

          紼や翣は千々に乱れ  去りゆく君の霊魂を思う

          帰宅して不遇を嘆き   苦い笑いを噛みしめ

          大声で妻子を呼んで  大杯の酒を運ばせた


 ⊂ものがたり⊃ 長安で再会したのが韓綽であるとすれば、韓綽はほどなく死亡したことになります。というのも「上都の門」は都の城門ですから、韓綽は長安で亡くなったことになるからです。
 韓綽が長安にいれば、友人思いの杜牧は生前に会っているはずです。前回の詩「故人に逢う」に「正に傷む 手を携う処」とありますので、故人(旧友)は韓綽である可能性が高く、連れ立って歩くのも傷ましいほどにやつれていたのです。
 「紼翣」(つな・はねかざり)は柩車を引く綱と棺の両側に立てる羽根飾りのことで、葬列のさまを示しています。杜牧は不遇に終わった友の人生を思い、またみずからの人生を顧みて悲しむのです。だが、そういう自分の感情も気に入らず、そんな複雑な気持ちを払い除けようと、つい大きな声を出して妻子を呼び、大杯の酒をかたむけるのでした。

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧150ー151

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 杜牧ー150
   秋晩与沈十九舎人    秋の晩 沈十九舎人と期して
   期 遊樊川不至      樊川に遊ばんとするも至らず

  邀侶以官解     侶(とも)を邀(むか)うも  官を以て解かれ
  泛然成独遊     泛然(はんぜん)として  独遊(どくゆう)を成す
  川光初媚日     川光(せんこう)  初めて日に媚(うるわ)しく
  山色正矜秋     山色(さんしょく) 正(まさ)に秋に矜(おごそ)かなり
  野竹疎還密     野竹(やちく)   疎(まば)らに還(ま)た密(しげ)く
  巌泉咽復流     巌泉(がんせん) 咽(むせ)びて復(ま)た流る
  杜村連潏水     杜村(とそん)は  潏水(けつすい)に連なる
  晩歩見垂鉤     晩(くれ)に歩めば  垂鉤(すいこう)を見る

  ⊂訳⊃
          友を招いたが   仕事でだめと言ってきた
          そこで気ままに  ひとりでゆく
          川の面に  きらめく光
          山の姿は  おごそかに深まる秋の色
          竹林は   疎らと思えば生い茂り
          岩の泉は  咽ぶと思えば急流となる
          潏水のほとり    下杜の村里よ
          日暮れに歩めば  悠々自適の人に逢う


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧はこのころ中書舎人(正五品上)に昇進しました。中書舎人は文士の極官と称され、政事の中枢に達したことになります。しかし、政事に対する往年の熱意も冷め、自分の病気が思わしくないことにも気づいていました。杜牧は仕事を休んで樊川の別墅に出かけることが多くなります。
 詩題の「沈十九舎人」は恩人沈伝師(しんでんし)の息子で、沈詢(しんじゅん)といいます。このとき杜牧と同じ中書舎人でした。杜牧は沈詢を野遊びに誘い、いっしょに出かける約束をしていましたが、沈詢は仕事が忙しくて行けなくなったと断ってきました。だからひとりで樊川(はんせん)に出かけたのです。
 朱坡のあたりは自然が豊かで、杜牧は下杜(かと)の村里の野径をゆっくりと歩きながら、秋の田園の美しい風景を描きます。日暮れになって、小川で釣り糸を垂れている人を目にしました。「垂鉤」は隠者の表象であり、杜牧はそうしたものに心惹かれる自分を描くのです。

 杜牧ー151
    読韓杜集             韓杜の集を読む

  杜詩韓筆愁来読   杜詩(とし)  韓筆(かんぴつ)  愁い来たりて読めば
  似倩麻姑癢処抓   麻姑(まこ)に倩(こ)いて  癢(かゆ)き処を抓(か)くに似たり
  天外鳳凰誰得髄   天外(てんがい)の鳳凰  誰か髄(ずい)を得ん
  無人解合続弦膠   人の  解(よ)く続弦膠(ぞくげんこう)を合わす無し

  ⊂訳⊃
          寂しいときに  杜甫と韓愈の詩文を読めば

          麻姑の手のように    痒いところにゆきとどく

          天外にひそむ鳳凰よ  その精髄を手に入れて

          続弦膠を作れる者は  もはやどこにもいないのだ


 ⊂ものがたり⊃ 都に帰った杜牧は、自分の詩文稿の整理を手がけていました。詩文は千百稿ほどあったといいますが、そのうち十分の二、三を残して、あとは焼却したといいます。精選した詩文稿を甥(姉の子)の裴延翰(はいえんかん)に託して、『樊川集』の編纂を依頼しました。
 十一月になると、杜牧は自分の墓誌銘を撰しました。その中に妻は「若干時先」に死んだとあり、妻裴氏は杜牧よりすこし前に亡くなったようです。十二月ごろ杜牧は安仁坊の自宅で病没したと史書は記しています。実は杜牧の正確な卒年月日は不明で、翌大中七年に五十一歳で亡くなったという説もあります。
 杜牧は杜甫のように戦乱に巻き込まれ、妻子をともなって流浪することもありませんでした。また、名門の出でしたので、寒門出身の韓愈のように任官に苦労することもありませんでした。しかし、官への流入の時期が、牛李の党争の最盛期にあたっていたのは不運でした。
 杜牧の生涯については、すでに述べましたが、杜牧が詩文の模範を杜甫と韓愈に見出していたことは、掲げた詩によって分かります。「杜詩 韓筆」というのは杜甫の詩と韓愈の文章という意味です。「麻姑」は仙女の名で、手の爪が鳥の爪のように長く伸びていたので痒いところに届いたといいます。
 「続弦膠」とは切れた弓の弦をつなげるほど強力な膠のことで、鳳凰の嘴と麒麟の角を合わせて煮た膏であったといいますので、伝説の膠でしょう。言語の精髄を選び出して、それを続弦膠でつなぎ合わせるように緊密な揺るぎのない詩に仕上げる。そのような詩を創り出せる詩人は、もはやどこにもいないと杜牧は嘆いています。ですが、杜牧こそが唐代最後の「解く続弦膠を合わす」詩人であったかもしれません。
 では、同時代の詩人は杜牧をどのように見ていたのでしょうか、杜牧よりは九歳ほど若い李商隠につぎの詩があります。
 
    杜司勲              杜司勲

  高楼風雨感斯文   高楼の風雨   斯文(しぶん)に感ず
  短翼差池不及群   短翼(たんよく)  差池(しち)として群(ぐん)するに及ばず
  刻意傷春復傷別   刻意(こくい)   春を傷(いた)み  復(ま)た別れを傷む
  人間惟有杜司勲   人間(じんかん) 惟(た)だ有り    杜司勲(としくん)

  ⊂訳⊃
          吹きやまぬ高楼の嵐  あなたの作に感動し

          非才のわたくしは     共に飛ぶことができません

          惜春の詩  贈別の歌  こころは深く刻まれて

          世の哀楽を知りわれを知るのは  ただあなただけ


 ⊂ものがたり⊃ 李商隠は大中二年の冬に蟄厔(ちゅうしつ:陝西省周厔県)の県尉に任ぜられていますので、李商隠がの杜牧を訪ねたのは、出張して都に出てきたたときと思われます。なお、「蟄厔」の蟄は外字になるので同音の字に変えてあります。本来は丸の部分が攵、虫の部分が皿です。
 起句の「高楼の風雨」は、世の乱れやこの世の苦労を四語で冒頭に置いたものでしょう。時代の危機意識を捉えながら、「斯文」は文学作品を強く特定する語ですので、あなたの作品には常々感動していましたと賞讃するのです。「差池」は等しくないことで、才能の及ばないことを謙遜して言っています。
 転句の「惜春」の詩も「 贈別」の詠も杜牧の作品にありますが、ここでは杜牧の詩の方向性を述べているものでしょう。「人間 惟だ有り 杜司勲」と結んで杜牧の詩業を賞讃しています。   




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