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tiandaoの自由訳漢詩

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     初唐15ー盧照粼
       九月九日登玄武山     九月九日 玄武山に登る

      九月九日眺山川   九月九日  山川(さんせん)を眺め
      帰心帰望積風塵   帰心(きしん)帰望(きぼう)  風塵(ふうじん)積(つ)む
      他郷共酌金花酒   他郷  共(とも)に酌(く)む  金花(きんか)の酒
      万里同悲鴻雁天   万里  同(とも)に悲しむ  鴻雁(こうがん)の天

      ⊂訳⊃
              重陽の節句  山川の景色を眺め

              帰郷を願い  歳月は過ぎていく

              ともに飲む  他郷の酒は金花の酒

              空飛ぶ雁と  流離の想いを共に悲しむ


     ⊂ものがたり⊃ 盧照粼(ろしょうりん:634?ー680?)は幽州范陽(河北省涿県)の人。高宗のころに宗室の?王(とうおう)に仕えて詩才を認められ、新都(四川省成都市の北)の県尉になりました。同じころ追放されて蜀地にきていた王勃と交わり、交流を深めました。
     盧照粼は王勃より十六歳も年長でしたが、親しく交わり、幾つかの唱和の詩を残しています。「九月九日 玄武山に登る」は王勃の「蜀中九日」(1月13日のブログ参照)に和する作と見られ、玄武山上に望郷台がありました。詩は二組の対句からなり、形式を王勃の詩に合わせて望郷の思いを唱和しています。

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     初唐16ー盧照粼
       梅花落              梅花落

      梅嶺花初発     梅嶺(ばいれい) 花  初めて発(ひら)くも
      天山雪未開     天山(てんざん)  雪  未(いま)だ開かず
      雪処疑花満     雪処(せっしょ)  花の満つるを疑い
      花辺似雪廻     花辺(かへん)   雪の廻(めぐ)るに似たり
      因風入舞袖     風に因(よ)って舞袖(ぶしゅう)に入り
      雑粉向妝台     粉(おしろい)に雑(まじ)って妝台(しょうだい)に向かう
      匈奴幾万里     匈奴(きょうど)  幾万里(いくばんり)
      春至不知来     春(はる)至るも  来(き)たるを知らず

      ⊂訳⊃
              梅嶺の梅は  はやくも咲きはじめ
              天山の雪は  まだ融けないままでしょう
              雪は満開の花のように積もり
              梅は雪のように散っている
              花びらは    風に吹かれて袖に入り
              白粉に混じって鏡台の前に落ちてくる
              匈奴の地は  ここから幾万里
              春になってもお帰りのご沙汰はありません


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「梅花落」(ばいからく)は楽府題で、もとは梅の花の散るのを見て、親しい人や故郷と別れて暮らす悲しみを歌う民謡でした。盧照粼はその主題に五言律詩という新しい形式をあてはめ、閨怨詩を作りました。
     詩は前後二段に分かれ、前半は妻の立場から想像を交えてお互いの境遇を詠います。「梅嶺」は大庾嶺(だいゆれい:江西・湖南両省の南端を東西に走る山脈)のことで、梅の木が多いことから梅嶺と呼ばれました。その地で夫の帰りを待つという設定です。
     「天山」(新疆ウイグル自治区にある山脈)は夫が出征している地であり、梅嶺の梅は咲きはじめたが天山の雪はまだ融けないでしょうと呼びかけます。そして、積もっている雪と梅の散るさまを交差させて思いを告げるのです。
     後半は四句目の「花辺」を受けて、もっぱら自分(妻)の状況と心境を詠います。花びらは風に吹かれて袖に入り、鏡台の前に落ちてくると詠うことによって、夫の帰郷を切望する気持ちをあらわします。結びの「匈奴 幾万里」はこの詩が高宗時代の西方遠征を背景とする詩であることを示しています。
     盧照粼は才能豊かな詩人でしたが病気になり、職を辞して長安にもどり、太白山(陝西省眉県の東南)に籠もって養生に努めます。そのころ古詩の大作を書いていおり、かなりの力量を備えた詩人でした。しかし、次第に片手と足が動かなくなり、具茨山(河南省禹県)の麓に田畑を買って隠者の生活を送るようになりました。だが、疾に勝てず、家の前を流れる潁水(えいすい)に身を投じて亡くなりました。享年は四十七歳くらいです。 

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     初唐17ー駱賓王
        詠鵝              鵝を詠ず

      鵝 鵝 鵝      鵝(が)  鵝  鵝
      曲項向天歌     項(うなじ)を曲(ま)げて天に向かって歌う
      白毛浮緑水     白毛(はくもう)   緑水(りょくすい)に浮かび
      紅掌撥清波     紅掌(こうしょう)  清波(せいは)を撥(はら)う

      ⊂訳⊃
              が  が  が  が  が

              項を曲げて  天に向かって鵝鳥は鳴く

              白い羽毛を  緑の水に浮かべているが

              紅の足は   しきりに波を掻き分ける


     ⊂ものがたり⊃ 駱賓王(らくひんのう:640?ー684?)は婺州義烏(浙江省義烏県)の人。少年のころから詩才を謳われ、神童と称されました。長じて宗室の道王(どうおう)に仕え、武功(陝西省武功県)の主簿になります。
     「鵝を詠ず」は少年時代の作とされており、詠物詩ですが初句に奇抜さが見られ、神童の名に恥じない作品でしょう。加えて、結びの「紅掌 清波を撥う」は鵞鳥が水中でひっきりなしに足を動かして、隠れた努力をしていることを描いており、深みのある見識を示しています。

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     初唐18ー駱賓王
       在獄詠蝉          獄に在りて蝉を詠ず

      西陸蝉声唱     西陸(せいりく)   蝉声(せんせい)唱(とな)え
      南冠客思深     南冠(なんかん)  客思(かくし)深し
      那堪玄鬢影     那(なん)ぞ堪(た)えん  玄鬢(げんびん)の影の
      来対白頭吟     来たりて白頭吟(がくとうぎん)に対するに
      露重飛難進     露(つゆ)重くして 飛ぶも進み難く
      風多響易沈     風多くして  響き沈み易(やす)し
      無人信高潔     人(ひと)の  高潔(こうけつ)を信ずる無くんば
      誰為表予心     誰(た)が為にか予(よ)が心を表さん

      ⊂訳⊃
              秋の日に   蝉の声
              獄舎の私は  望郷の思いに沈む
              つやのある  黒い蝉がやってきて
              白髪の私に唱和する  堪えがたいことだ
              露に濡れて  蝉は飛ぼうにも飛べず
              風が強くて  鳴き声もとぎれがち
              私の潔さを  信じる人がいないとすれば
              誰に向かって  私は訴えたらいいのだろうか


     ⊂ものがたり⊃ 駱賓王(らくひんのう)は『唐詩選』に「帝京篇」という七言古詩の大作を残しており、詩人として活躍していました。官途も累進して侍御史になりますが、高宗末の儀鳳三年(678)に上書の内容が武后の怒りに触れ、「貪臓」(どんぞう)の罪で投獄されます。詩は獄中での詠物詩です。
     蝉は高潔な人物の喩えですので、それを詠うことでみずからの潔白を訴えています。まずはじめの二句で、自分の境遇を述べます。「西陸」は秋の日の意味です。「南冠」は『春秋左氏伝』の故事を踏まえており、戦国楚の鍾儀(しょうぎ)が晋に捕らえられていたとき故郷を思って楚冠を被りつづけていました。そこから故郷を思いつづける捕虜という意味になります。
     中四句は蝉を描くもので、「玄鬢」はつやのある黒い鬢のことで、蝉を指します。「白頭吟」は楽府の曲名で、蝉の黒と自分の白髪を対比します。「露重くして」と「風多くして」は蝉を苦しめているものですが、それは逆境にある自分の比喩でもあります。そして結びで、無実を信じてくれる人がいないならば、誰に訴えたらいいのかと苦衷の思いを述べます。詠物詩が自己表白の詩に転化していることに注目すべきでしょう。
     そのご赦されて臨海(浙江省臨海県)の県丞に左遷されますが、受けずに辞職します。高宗没後の光宅元年(684)に李敬業(りけいぎょう)が反武后の兵を挙げたとき、駱賓王は挙兵に参加し、檄文を起草しました。反乱が失敗すると消息を断ち、伝説では杭州(浙江省杭州市)の霊隠寺に隠れたといいます。
       

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     初唐19ー劉希夷
       代悲白頭翁         白頭を悲しむ翁に代る       (前四句)

      洛陽城東桃李花   洛陽城東   桃李(とうり)の花
      飛来飛去落誰家   飛び来たり  飛び去って誰(た)が家にか落つる
      洛陽女児惜顔色   洛陽の女児 顔色(がんしょく)を惜(お)しみ
      行逢落花長歎息   行々(ゆくゆく)  落花に逢(あ)うて長歎息す

      ⊂訳⊃
              洛陽城の東に  咲きほこる桃李の花よ
              風に吹かれて  いったいどこに落ちるのか
              洛陽の小女は  容色の移ろうさまに胸を痛め
              道を行きつつ  落花を浴びてため息をつく


     ⊂ものがたり⊃ この時代の長大な七言古詩の幾つかを割愛してきましたが、どうしても取り上げたい作品があります。劉希夷(りゅうきい:651ー679?)は汝州(河南省臨汝県)の人。上元二年(675)に二十五歳で進士に及第し、容色端麗、弁舌にすぐれ、酒を好み、琵琶に巧みであったと言われています。
     『唐詩選』七言古詩の白眉「白頭を悲しむ翁に代る」は二十八歳のときの作品とされており、先行する盧照粼や駱賓王の歌行体の作品よりも情緒や詠嘆にすぐれ、詩情に深化が見られると評されています。七言二十六句の詩は四、十、八、四句に分けて読むことができ、はじめの四句は序です。
     唐代洛陽の東には、後漢と北魏の都であった洛陽の遺跡がありましたので、「洛陽城東」と言った場合、繁栄と滅亡、二色のイメージを呼び起こすことになります。そこに咲いている「桃李の花」はともに春の花、紅花と白花です。その紅白の花は風に吹かれてどこに落ちるのか。落花のたよりなさを詠い、「顔色」(容色)の衰えるのを憂えている「女児」(乙女、小女)を登場させます。

     

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     初唐20ー劉希夷
       代悲白頭翁         白頭を悲しむ翁に代る      (中?十句)

      今年花落顔色改   今年(こんねん)   花落ちて顔色(がんしょく)改まり
      明年花開復誰在   明年(みょうねん)  花開いて復(ま)た誰(たれ)か在る
      已見松柏摧為薪   已に見る  松柏(しょうはく)の摧(くだ)かれて薪と為(な)るを
      更聞桑田変成海   更に聞く  桑田(そうでん)の変じて海と成るを
      古人無復洛城東   古人(こじん)   洛城(らくじょう)の東に復(かえ)ること無く
      今人還対落花風   今人(こんじん)  還(ま)た落花(らっか)の風に対す
      年年歳歳花相似   年年歳歳  花  相似(あいに)たり
      歳歳年年人不同   歳歳年年  人  同じからず
      寄言全盛紅顔子   言(げん)を寄(よ)す   全盛(ぜんせい)の紅顔子(こうがんし)
      応憐半死白頭翁   応(まさ)に憐れむべし 半死(はんし)の白頭翁(はくとうおう)

      ⊂訳⊃
              今年  花が落ちれば  容色はさらに衰え
              明年  花が咲いても  誰がこの世にいるだろう
              墓地の松柏は  切り倒されて薪となり
              桑畑もやがて  海になるというではないか
              昔の人は  洛陽城の東にもどることなく
              今の人は  落花の風に向かって佇んでいる
              年年歳歳  咲く花は似ているが
              歳歳年年  花見る人は同じではない
              聞きたまえ    いまを盛りの娘たちよ
              憐れむべきは  半死半生の白頭翁だ


     ⊂ものがたり⊃ 中?の十句では小女の歎きを説明し、強調します。まず人生の無常に言及し、「松柏の摧かれて薪と為るを」と詠います。この句には典拠があり、「古詩十九首」の其の十四に「古墓は犂(す)かれて田と成り 松柏は摧かれて薪となる」とあるのを受けています。
     「桑田の変じて海と成る」にも故事があり、後漢の桓帝のとき、仙人の王方平(おうほうへい)が仙人の麻姑(まこ)を招くと、十八、九の美少女に見えました。王方平が怪しむと、麻姑は「この前お会いしてから、東の海が桑畑にかわり、また海になったのを三度見ました」と言って笑ったといいます。この伝説を踏まえて人の世の変転の激しいことに喩えるのです。
     つぎの対句「年年歳歳 花 相似たり 歳歳年年 人 同じからず」は詩中でもっとも有名な句です。元代の『唐才子伝』によると、「おじ」の宋之問(そうしもん)がこの句を気に入って自分に譲ってくれと頼み込みます。劉希夷はいったん承知したものの惜しくなり、自作として発表してしまいます。怒った宋之問は召使いに命じて劉希夷を殺してしまったというのです。
     名句のあと白頭翁が登場して、「紅顔子」(若く美しい人)に向かって「応に憐れむべし 半死の白頭翁」と呼びかけます。ここまでが前半です。
       

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     初唐21ー劉希夷
       代悲白頭翁         白頭を悲しむ翁に代る      (中?八句)

      此翁白頭真可憐   此の翁(おう)  白頭(はくとう)  真(まこと)に憐れむ可し
      伊昔紅顔美少年   伊(こ)れ昔   紅顔の美少年
      公子王孫芳樹下   公子王孫  芳樹(ほうじゅ)の下(もと)
      清歌妙舞落花前   清歌妙舞  落花(らっか)の前
      光禄池台開錦繡   光禄(こうろく)の池台  錦繡(きんしゅう)を開き
      将軍楼閣画神仙   将軍の楼閣(ろうかく)  神仙(しんせん)を画(えが)く
      一朝臥病無相識   一朝(いっちょう)    病に臥(ふ)して相識(そうしき)無く
      三春行楽在誰辺   三春の行楽(こうらく)  誰が辺(へん)にか在る

      ⊂訳⊃
              白髪頭の老人こそ  まことに哀れ
              だがこれでも昔は  紅顔の美少年
              公子王孫の若者だ  美しい木蔭  落花の中で
              清らかに舞い歌う  青春の時もあったのだ
              光禄大夫の邸宅は  池台に錦繡の華やかさ
              大将軍の楼閣には  神仙の像が描かれていた
              だが一たび病に臥すと  訪ねてくる友はなく
              春の行楽の日は消えて  どこにいったかわからない


     ⊂ものがたり⊃ 中?の八句は白頭翁の人生の紹介です。まず、この白髪の老人も昔は「紅顔の美少年」であったと詠います。「公子王孫」は裕福な家柄、名門の若者を示す決まり文句で、華やかな青春時代を送ったのだと言います。
     「光禄」は光禄勲のことで、漢の外戚光禄勲王根(おうこん)は邸内の池に台を築き、豪華な建物を建てたと言われています。「将軍」は後漢の大将軍梁冀(りょうき)のことで、皇后の兄、広大な邸宅を建て、その壁に神仙の絵を描かせて贅美を尽くしたと言います。
     そうした貴門に出入りしていた自分も、ある日突然病の床に臥してからというもの、知人たちも訪ねて来なくなり、「三春」(春の三か月)の行楽も無縁なものになった歎きます。

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     初唐22ー劉希夷
       代悲白頭翁         白頭を悲しむ翁に代る       (後四句)

      宛転蛾眉能幾時   宛転(えんてん)たる蛾眉(がび)   能(よ)く幾時(いくとき)ぞ
      須臾鶴髪乱如糸   須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ) 乱れて糸の如し
      但看古来歌舞地   但(た)だ看(み)る     古来(こらい)歌舞の地
      惟有黄昏鳥雀悲   惟(た)だ黄昏(こうこん) 鳥雀(ちょうじゃく)の悲しむ有るのみ

      ⊂訳⊃
              美貌の小女よ  美しさがいつまでつづくと思うのか
              すぐに白髪が  みだれた糸のように絡みつく
              見渡せば  歌舞遊楽の地はたそがれて
              悲しげな  小鳥の声がするばかり


     ⊂ものがたり⊃ 最後の四句は、小女に向かって教訓を述べ結びとします。「蛾眉」は『詩経』の時代から美女の喩えです。「須臾」は短い時間のことで、美女もすぐに「鶴髪」(白髪)になってしまうと言います。
     そして歌舞遊楽の地であった洛陽城東の地も、日暮れに小鳥が囀るだけの寂れた土地になってしまう。人生も世の中も、みんなそんなものだと言って一首を終えるのです。
     劉希夷はこの詩を書いて一年もたたないうちに不慮の死を遂げますので、不吉な予感が働いてこの詩を書いたという説もあります。

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     初唐23ー杜審言
       送崔融              崔融を送る

      君王行出将     君王(くんのう)  行(まさ)に出(い)でて将(しょう)たり
      書記遠従征     書記(しょき)   遠く征(せい)に従う
      租帳連河闕     租帳(そちょう) 河闕(かけつ)に連なり
      軍麾動洛城     軍麾(ぐんき)  洛城(らくじょう)を動かす
      旌旗朝朔気     旌旗(せいき)  朝(あした)には朔気(さくき)
      笳吹夜辺声     笳吹(かすい)  夜には辺声(へんせい)
      坐覚煙塵掃     坐(そぞ)ろに覚ゆ  煙塵(えんじん)の掃(はら)わるるを
      秋風古北平     秋風(しゅうふう)   古北平(こほくへい)

      ⊂訳⊃
              わが君は今  征旅に発とうとし
              書記の君は  遠征の軍に従う
              壮行の宴は  河岸につらなり
              将軍の旗は  洛陽の城にどよめく
              あしたには  朔北の寒気にはためき
              夜になれば  胡笳の哀しい声を聞く
              気がつけば  古北平の秋風が
              戦場の塵を  吹き払っているだろう


     ⊂ものがたり⊃ 劉希夷の死後四年、弘道元年(683)十二月に高宗が崩じました。太子李顕(りけん)が即位しますが、中宗は父親に似て凡庸な君主でした。即位するとすぐに皇后韋氏の父を侍中(門下省の長官)にしようとしたので武后の怒りに触れ、廃位されます。
     ついで中宗の弟李旦(りたん)が帝位につきますが、睿宗は別殿にとどまって政事に関与しませんでした。武后が簾中から政事を行います。宮中はすでに洛陽に移っていましたが、武后は洛陽を神都と定め、事実上の首都にしました。
     建国の功臣李世勣(りせいせき)の孫李敬業(りけいぎょう)はそのころ揚州(江蘇省揚州市)にいましたが、武后打倒の兵を挙げます。武后は三十万の大軍を送って鎮圧します。このあと宗室の諸王の挙兵がいくつか起こりますが、すべて打倒され、天授元年(690)九月、武后は睿宗を廃位してみずから即位、国号を周と改めました。新しい国を立てて女帝になったのです。
     則天武后は旧臣にかわる廷臣として、寒門出身の科挙及第者を積極的に登用しました。そのため、それまで陽の当らなかった人材が競って武后のために働くようになりました。文運も盛んになり、則天武后時代に活躍した崔融(さいゆう)・杜審言(としんげん)・蘇味道・李嶠を後世「文章の四友」と称します。
     杜審言(646?ー708)は杜甫の祖父です。高宗の咸享元年(670)に進士に及第し、官途に就きます。武后の万歳通天元年(696)五月に契丹族が反乱を起こし、討伐軍が派遣されますが、杜審言の友人崔融が幕下の秘書として遠征に従軍することになりました。詩は崔融の送別の宴で詠われたものです。「古北平」は漢代の右北平郡のことで、唐初は平州と称されていました。そこが討伐軍の目的地でした。

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     初唐24ー杜審言
       和晋陵陸丞          晋陵の陸丞の
       早春遊望            「早春遊望」に和す

      独有宦遊人     独り宦遊(かんゆう)の人(ひと)有り
      偏驚物候新     偏(ひと)えに驚く  物候(ぶっこう)の新たなるに
      雲霞出海曙     雲霞(うんか)    海を出(い)でて曙(あ)け
      梅柳渡江春     梅柳(ばいりゅう)  江(こう)を渡りて春なり
      淑気催黄鳥     淑気(しゅくき)   黄鳥(こうちょう)を催(うなが)し
      晴光転緑蘋     晴光(せいこう)   緑蘋(りょくひん)に転ず
      忽聞歌古調     忽(たちま)ち古調(こちょう)を歌うを聞き
      帰思欲沾巾     帰思(きし)  巾(きん)を沾(うるお)さんと欲す

      ⊂訳⊃
              地方めぐりの者だけが
              気候風物の変化に敏感だ
              雲や霞が  海に湧いて夜明けとなり
              梅の花  柳の新芽が  江を渡れば北も春
              春の気配は   黄鳥の鳴く音を促し
              春のひざしが  浮き草の上できらめく
              このとき君の  古詩の声調を耳にして
              望郷の思いに  布は涙で濡れてしまう


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「晋陵」(江蘇省武進県)は江南の地です。「陸丞」は陸という姓の県丞と解され、陸県丞が「早春遊望」という詩を贈ってきたので、和して返した詩です。都にいる杜審言が「宦遊」(地方勤務)中の陸某の詩に同感し、励ます意味も込めて作ったものと思われます。
     はじめ二句で、中央勤めの者よりも地方勤めの人の方が感覚鋭敏だと相手の詩心を褒めます。中四句は江南の春の麗しさを詠うもので、「梅柳 江を渡りて春なり」と梅の開花や柳の芽吹きが長江を越えてはじめて北も春になると、江南の春の訪れの早いことを寿ぎます。結び二句の「古調」は古詩の声調という意味で、陸県丞の詩のことです。その望郷の思いに接して、自分の布も涙で一杯になりそうだと相手を慰めます。
     杜審言も事に坐して吉州(江西省吉安市)に左遷されたことなどがありますが、のち武后に用いられて著作佐郎、膳部員外郎などを歴任しました。詩は中央にいたころの作品と思われます。
     武后が失脚した神龍元年(705)の政変のとき、連座して峰州(ベトナム・ハノイ付近)に流されますが、赦されて都にもどり国子主簿になります。中宗復帰後の景龍二年(708)には修文館直学士を加えられ、まもなく亡くなりました。享年六十三歳。杜甫が誕生する四年前のことです。

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     初唐25ー蘇味道
       正月十五夜          正月十五の夜

      火樹銀花合     火樹(かじゅ)  銀花(ぎんか)合(がっ)し
      星橋鉄鎖開     星橋(せいきょう)  鉄鎖(てつさ)開く
      暗塵随馬去     暗塵(あんじん)   馬に随って去り
      明月逐人来     明月(めいげつ)   人を逐(お)うて来たる
      游伎皆穠李     游伎(ゆうぎ)は皆  穠李(じょうり)
      行歌尽落梅     行歌(こうか)は尽(ことどと)く落梅(らくばい)
      金吾不禁夜     金吾(きんご)     夜を禁ぜず
      玉漏莫相催     玉漏(ぎょくろう)   相催(あいうなが)すこと莫(なか)れ

      ⊂訳⊃
              元宵の灯籠が  白銀の花のように街を彩り
              宮門の橋にも  灯籠が列なって通行は自由だ
              闇に舞う塵は  馬の歩みとともに消え
              空の名月は   道ゆく人を追ってくる
              妓女たちは   李(すもも)の花のようにそぞろ歩いて
              歩きつつ唄う  歌はことごとく「梅花落」
              金吾の役人も  夜歩きを咎めたりはしない
              水時計よ    今夜はどうかゆっくりと進んでくれ


     ⊂ものがたり⊃ 則天武后の治下で登用された進士及第者は、自分たちが所を得ているという幸福感に包まれていたようです。蘇味道(そみどう:648?ー705?)は趙州欒城(河北省)の人。高宗の乾封二年(667)に二十歳の若さで進士に及第し、累進して武后の延歳元年(694)に鳳閣舎人(中書舎人)になります。
     詩題の「正月十五夜」は上元節、元宵の夜です。上元節には戸外に灯籠を飾る習わしがあり、龍や鶏などいろいろな形をした灯籠を樹木や傘などの形をした棚に吊り下げました。それを「火樹 銀花合し」というのです。
     当時は城内での夜間外出は禁止されていましたが、上元節の前後三日間だけは夜間外出が許され、一晩中酒を飲み歌いかつ踊って楽しみました。洛陽の宮城前にある橋も夜間の通行が許され、そこにも灯籠が飾られていました。
     中四句では馬に乗った貴人や道路を歩く人々を描きます。元宵の夜は若い娘たちも着飾って外出し、歩きながら歌うのは「梅花落」の歌です。結びの二句では、元宵の夜の楽しさを強調します。「金吾」は宮城や都内の治安に当たる金吾衛の兵のことで、この夜だけは夜歩きを咎めたりしません。宮中の水時計よ、ゆっくりと進んでくれと元宵の夜が終わるのを惜しむのです。

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     初唐26ー蘇味道
       使嶺南聞崔馬二      嶺南に使いして崔・馬二御史の
       御史並拝台郎        並に台郎に拝せらるるを聞く

      振鷺纔飛日     振鷺(しんろ)   纔(はじ)めて飛ぶ日
      遷鶯遠聴聞     遷鶯(せんおう)  遠く聴聞(ちょうぶん)す
      明光共待漏     明光(めいこう)  共に漏(ろう)を待ち
      清覧各披雲     清覧(せいらん)  各々(おのおの)雲を披(ひら)けり
      喜得廊廟挙     廊廟(ろうびょう)の挙(きょ)を得たるを喜び
      嗟為台閣分     台閣(たいかく)の分(ぶん)を為(な)すを嗟(なげ)く
      故林懐柏悦     故林(こりん)   柏悦(はくえつ)を懐(おも)い
      新握阻蘭薫     新握(しんあく)  蘭薫(らんくん)を阻(へだ)つ
      冠去神羊影     冠(かん)は去る  神羊(しんよう)の影
      車迎瑞雉群     車(くるま)は迎う  瑞雉(ずいち)の群(むれ)
      独憐南斗外     独り憐(あわ)れむ 南斗(なんと)の外(そと)
      空望列星文     空しく列星(れつせい)の文(ぶん)を望むを

      ⊂訳⊃
              二羽の鷺が  連れだって飛ぶ日を
              枝の鶯は   遠くの地で伝え聞く
              明光殿で   拝謁の時を待つ
              清いお姿は  雲間に青天を見るようだ
              お二人が   特に選ばれて朝議に与かるのは嬉しいが
              勤めを共に  できないのが残念である
              御史台の柏の林が茂るように  昇進され
              新しい任務に就くお二人から  私は隔てられている
              御史の印の  神羊の冠は消え
              雉の群れが  車を出迎えることだろう
              それを思えば  南斗の星のかなたで
              列なる星座を  眺めるだけの身がいたわしい


     ⊂ものがたり⊃ 唐代に限らず中国王朝の官僚は常に左遷の憂き目にさらされています。蘇味道が「嶺南」(広州方面)に左遷されていたとき、「崔・馬二御史」(伝不明)が「台郎」(相台の郎中)に昇進しました。蘇味道はさっそく詩を贈って祝意を伝えるとともに、自分のことを忘れないでくれと縁故を求めます。題に「嶺南に使いして」とありますが、実際は左遷されたときと解されています。
     「振鷺」は連れ立って飛ぶ鷺のこと。『詩経』に基づいており、崔・馬二御史の栄転を祝う言葉です。「遷鶯」も『詩経』に基づいており、鳥が互に鳴き交わすように人も良友を得て楽しむべきであるという意味です。「明光」は漢代の明光殿のこと。「漏を待ち」は水時計の時を待つことで、拝謁を待つ意味になります。
     以下すべての句が、何らかの典故を踏まえており、対偶整斉、当時流行の詩の典型を示しています。博識で相手をうならせ、自分を売り込む詩です。
     蘇味道はほどなく赦されて都にもどり、栄進して宰相の職にあること数年に及びましたが、新しいことは何ひとつせず、迎合に終始したと言われています。新龍元年の政変に遇って益州大都督長史に左遷されますが、赴任する前に亡くなりました。享年五十八歳です。

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     初唐27ー李嬌
        雀                雀

      大厦初成日     大厦(たいか)  初めて成(な)るの日
      嘉賓集杏梁     嘉賓(かひん)  杏梁(きょうりょう)に集まる
      銜書表周瑞     書を銜(ふく)んで周瑞(しゅうずい)を表し
      入幕応王祥     幕(とばり)に入りて王祥(おうしょう)に応ず
      暮宿空城裏     暮(くれ)に空城(くうじょう)の裏(うち)に宿し
      朝游漣水傍     朝(あした)に漣水(れんすい)の傍(かたわ)らに游ぶ
      願斉鴻鵠志     願わくは鴻鵠(こうこく)の志を斉(ひと)しくせん
      希逐鳳凰翔     希(こいねが)わくは鳳凰(ほうおう)の翔(と)ぶを逐(お)わん

      ⊂訳⊃
              大廈高楼が完成したこの日
              めでたい雀が  杏の横木に集まっている
              周の瑞祥を   口にくわえて飛んできて
              部屋に入って  王祥の悩みに応える
              日暮れには   静かな街中でやすみ
              朝になると    さざ波の川辺の上を飛びまわる
              雀たちよ     鴻鵠の志を持とうではないか
              鳳凰の後について  大空高く飛びたいものだ


     ⊂ものがたり⊃ 李嬌(りきょう)は趙州賛皇(河北省)の人。名家に生まれ二十歳になる前に進士に及第し、高宗のときに嶺南の夷族を説諭した功によって給事中になります。一時、潤州(江蘇省鎮江市)の司馬に左遷されますが、武后時代になると優遇され重要な文書の起草に与かるようになります。
     李嬌は武后・中宗期に栄達を遂げ、多くの宮中侍宴応制の詩を作っています。日本では詠物詩が有名で、平安・鎌倉・南北朝時代に流行しました。
     雀は中国では縁起の良い鳥とされ、ここでは「嘉賓」(大切な客)に擬されています。初句の「大厦」は大きな建築物のことで、宮殿か邸宅が完成し、その祝賀の宴で披露した詩でしょう。
     まず、祝賀の客が「杏梁」(杏の木で作った梁)に集まっていると、貴人高官たちの居並ぶさまを描きます。つぎの二句は雀に関する故事を踏まえており、周王朝が始まるときに雀が瑞祥を咥えて飛んで来たことを詠います。武后は唐を周に変えましたので、即位の後であれば、武周革命を祝賀していることになります。
     「王祥」は継母への孝行で知られ、継母が雀の炙り肉を食べたいというので思案に暮れていると、雀が何十羽も飛んできて王祥の孝心に応えたといいます。つぎの二句は雀(宮廷人)の生活を描き、夜は「空城」(静かな街中)で休み、朝は餌をさがして川辺で飛びまわるといいます。宮中に集う官吏を比喩的に描くものでしょう。
     そして結びでは、「鴻鵠」「鳳凰」といっためでたい鳥を出してきて祝賀の気分を盛り上げます。詠物詩といっても、雀を題材にしながら列席者に呼びかける形で、自分の祝意を述べる宮廷詩です。
     

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     初唐28ー李嬌
        柳                 柳

      揚柳鬱氳氳     揚柳(ようりゅう)  鬱(うつ)として氤氳(いんうん)
      金堤総翠氛     金堤(きんてい)  総(すべ)て翠(みどり)の氛(ふん)
      庭前花類雪     庭前(ていぜん)  花は雪に類(たぐい)し
      楼際葉如雲     楼際(ろうさい)   葉は雲の如し
      列宿分龍影     列宿(れつしゅく) 龍影(りゅうえい)を分かち
      芳池写鳳文     芳池(ほうち)    鳳文(ほうぶん)を写す
      短簫何以奏     短簫(たんしょう)   何を以て奏(そう)せん
      攀折為思君     攀折(はんせつ)し  為(ため)に君を思う

      ⊂訳⊃
              柳の木には  鬱とした気がやどり
              宮城の堤に  みどりの靄が立ち込める
              庭に柳絮は  雪のように舞い
              楼閣の側で  葉は雲のように茂る
              空の星宿は  龍影を分けて居並び
              美しい池に  鳳凰の模様を映す
              どんな心で  短簫を吹けばいいのだろうか
              枝を折って  君を見送るときのように


     ⊂ものがたり⊃ 詩は「柳」という詠題を与えられて、楽府題の「折揚柳」に結びつけて詠っています。前半の四句で「金堤」(宮城を囲む堤)に生えている揚柳を描きます。「花」というのは春に舞う柳絮(りゅうじょ)のことで、雪のように空中を舞って散ります。
     後半はじめの二句は、詠題を与えられたときの宮殿のようすでしょう。「列宿」は夜空に並ぶ星宿のことで、それが龍(皇帝)の座を挟んで居並んでいます。廷臣が居並ぶことを星宿に喩え、庭の池には「鳳文」(鳳凰の文様)が映っていると寿ぎます。
     そして最後は、心の友を見送るときの歌「折揚柳」になぞらえて締めくくるのです。こうした配慮のゆきとどいた詩が当時の宮中の詩でした。
     武后朝の最後、李嬌は神龍元年の政変で地方へ流されますが、数か月で都に呼びもどされ、中宗朝で趙国公・兵部尚書同中書門下三品にまで栄進します。大変な出世です。しかし、玄宗皇帝が即位すると、中宗時代に書いた上書に咎を発見されて死刑になるところでした。減刑されて虔州ついで廬州に流され、その地で亡くなりました。享年は七十歳です。
     
     

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     初唐29ー陳子昂
        軒轅台             軒轅台

      北登薊丘望     北のかた  薊丘(けいきゅう)に登りて望み
      求古軒轅台     古(いにしえ)の軒轅台(けんえんだい)を求む
      応龍已不見     応龍(おうりゅう)  已(すで)に見えず
      牧馬空黄埃     牧馬(ぼくば)  空しく黄埃(こうあい)
      尚想広成子     尚(な)お想う  広成子(こうせいし)
      遺跡白雲隈     遺跡(いせき)  白雲(はくうん)の隈(くま)

      ⊂訳⊃
              北のかた  薊丘に登って
              かつての  軒轅台に思いを馳せる
              応龍の神の姿は見えず
              放牧の馬が埃を立てているだけだ
              広成子のような賢者を求めて  見わたすが
              遺跡は白雲の隈にあるようで  ぼんやりしている


     ⊂ものがたり⊃ 「文章の四友」と同時代の詩人に陳子昂(ちんすごう)がいます。陳子昂は「文章の道弊(すた)れて五百年なり。漢魏の風骨は、晋宋伝うる莫(な)し」と書いて、そのころ流行っていた南朝風の詩を批判しました。
     陳子昂(661?ー702?)は梓州射洪(四川省射洪県)の人。地方の豪家に生まれ、十七、八歳のころから経史書百卷を読み、高宗の調露元年(679)ころに都に出て来ました。永淳元年(682)に二十二歳くらいで進士に及第し、武后に認められて右拾遺になります。
     万歳通天元年(696)、建安王武攸宜(ぶゆうぎ)の契丹討伐に参謀として従軍し、平州(北京の東方)に赴きました。詩はそのときのものです。
     詩題の「軒轅台」は黄帝が蚩尤(しゆう)を虜にした場所とされ、神話の世界のことです。「薊丘」は戦国時代に燕が都を置いたところで、丘に登って軒轅台はどこにあったのだろうかとあたりを見まわします。
     「応龍」は蚩尤を殺した神。そうした勇敢な神の姿は見えず、放牧の馬が黄色い埃を立てて走っているだけだと詠います。実はこのとき陳子昂は武将軍に契丹攻撃の戦略を進言しましたが、聞き入れられず、逆に参謀から軍曹に降格されていました。そうしたことへの不満が、古代の神話を借りて述べられていると解されます。五言六句は珍しい詩形です。


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     初唐30ー陳子昂
        燕昭王             燕の昭王

      南登碣石館     南のかた  碣石館(けつせきかん)に登り
      遥望黄金台     遥かに黄金台(おうごんだい)を望む
      丘陵尽喬木     丘陵  尽(ことごと)く喬木(きょうぼく)
      昭王安在哉     昭王  安(いず)くに在りや
      覇図悵已矣     覇図(はと)  悵(ちょう)として已(や)んぬるかな
      駆馬復帰来     馬を駆って  復(ま)た帰り来たる

      ⊂訳⊃
              南のかた   碣石館の跡に登り
              はるかに   黄金台の方角を望む
              見渡す丘は  巨木に蔽われ
              燕の昭王は  どこへ行ってしまったのか
              痛ましくも   覇業の跡は消え去り
              馬を走らせ  来た道をまたもどる


     ⊂ものがたり⊃ 「燕の昭王」は「軒轅台」と同じく「薊丘覧古」七首の一首で、戦国時代の燕(えん)の昭王(しょうおう)の遺跡を訪ねたときの詩です。薊丘(けいきゅう)の南にある碣石館の跡に登って黄金台の方を眺めると、丘陵には「喬木」(高い木)が生い茂っています。
     「碣石館」は燕の昭王が稷下(しょっか)の学者鄒衍(すうえん)を招いて師事したところ。「黄金台」は天下の賢者を招くために昭王が建てたとされる台で、台上に千金を置いて賢者への贈り物としたと伝えられます。
     そんな昭王の覇業の地も、いまは喬木に覆い尽くされ消えてしまっています。結びの「馬を駆って 復た帰り来たる」の一句に、時代に対する陳子昂の深い失望感が刻まれているようです。

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     初唐31ー陳子昂
       登幽州台歌       幽州の台に登るの歌

      前不見古人      前(さき)に古人(こじん)を見ず
      後不見来者      後(のち)に来者(らいしゃ)を見ず
      念天地之悠悠    天地の悠悠(ゆうゆう)たるを念(おも)い
      独愴然而涕下    独り愴然(そうぜん)として涕(なんだ)下(くだ)る

      ⊂訳⊃
              古の人の姿は見えず

              後ろにつづく者もいない

              悠久の天地に思いを致せば

              ひとり悲しみに打たれ  涙は流れる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「幽州」(北京)は戦国燕の都薊のあった所で、薊丘に登ると言っても同じです。詩は前半二句で孤独を訴えますが、それは「古人」「来者」の二語によって、過去・現在・未来にわたる時間軸のなかの孤独として示されます。
     詩は簡潔を極めており、陳子昂の名句として有名です。そして人の世の変転の中で天と地はいつまでも変わることなくつづくことを思い、「愴然」(いたみ悲しむさま)として涙を流します。
     この詩は「薊丘覧古七首」と同時期に作られたと見られており、五言二句六言二句というのも他に類がありません。南朝以来の詩の伝統に挑戦する陳子昂の姿勢が示されており、声調は切々として重い内容と響き合い、迫力のある情感を生み出しています。
     詩が個人の内面を詠うものであるとすれば、個性的な詩の表現がまだ未確立であった初唐の時期に作られたこの詩は陳子昂の代表作と言ってよく、盛唐期になると、陳子昂は新しい詩の先駆者として心ある詩人の尊崇を集めます。 

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     初唐32ー陳子昂
       晩次楽郷県          晩に楽郷県に次る

      故郷杳無際     故郷(こきょう)  杳(よう)として際(はて)無し
      日暮且孤征     日暮(にちぼ)   且(しばら)く孤征(こせい)す
      川原迷旧国     川原(せんげん) 旧国に迷い
      道路入辺城     道路(どうろ)   辺城(へんじょう)に入る
      野戍荒煙断     野戍(やじゅ)   荒煙(こうえん)断え
      深山古木平     深山(しんざん)  古木(こぼく)平らかなり
      如何此時恨     如何(いかん)せん  此の時の恨(うら)み
      噭噭夜猿鳴     噭噭(きょうきょう)として夜猿(やえん)鳴く

      ⊂訳⊃
              古里は限りなく遠く果てしない
              日暮れの道を  ひとりあてもなく旅をする
              楚の国の  川沿いの野で道に迷い
              片田舎の  鄙びた町にはいる
              砦に昇る  炊煙も途絶え
              深い山に  古木の林がつらなっている
              旅の悲しみを  どうしたらいいのだろうか
              闇で鳴く猿の  かん高い声


     ⊂ものがたり⊃ この詩の制作時期については二説あり、詩題中の「楽郷県」(らくきょうけん)についても二か所が比定されています。ここでは都から故郷へ帰るときの作と考え、「楽郷県」は湖南省松滋県説を取ります。
     契丹討伐軍に従軍したあとの聖歴元年(698)ころ、陳子昂は父親の老齢のために官を辞して故郷に帰ります。詩は全体として失意に満ちており、志を得ないで都を去る無念の思いがあったのでしょう。詩は分かりやすく、五言八句の詩ですが、当時流行の宮廷詩とは全く違っています。
     「孤征」の征は旅を意味しており、ひとり旅です。「川原」は川の両岸にひろがる平野のこと。「旧国」は故郷の意味に用いる場合が多いのですが、ここでは古い国、戦国楚と解されます。「辺城」は国境の城の意味に用いられることもありますが、ここでは片田舎の町でしょう。
     松滋県は長江が湖北平野に流れ出るところりにあり、西には三峡の山々が列なっています。江南に棲んでいる猿は手長猿の一種で、夜に鳴く叫び声は旅人の胸を引き裂くように哀しげであると言います。「如何せん 此の時の恨み」の一句には、都での立身出世を諦めて故郷に帰る陳子昂の無念の思いが込められているようです。
     故郷に帰った陳子昂は漢唐の間の歴史について著述をすすめていましたが、父親の死に遇います。射洪県令の段簡(だんかん)という者が陳家の財産に目をつけ、陳子昂を罪に陥れて獄に投じました。身代金を出したが赦されず、獄中で亡くなりました。享年四十二歳くらいです。
     

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     初唐33ー杜審言
        渡湘江               湘江を渡る

      遅日園林悲昔遊   遅日(ちじつ)    園林(えんりん)  昔遊(せきゆう)を悲しむ
      今春花鳥作辺愁   今春(こんしゅん) 花鳥(かちょう)  辺愁(へんしゅう)を作(な)す
      独憐京国人南竄   独り憐れむ  京国(けいこく)の人(ひと)南竄(なんざん)せられ
      不似湘江水北流   湘江(しょうこう)の水の北流するに似(に)ざることを

      ⊂訳⊃
              麗らかな春の園林で  遊んだ昔が懐かしい

              今年咲く花  鳥の声  辺土の愁いとなるばかり

              湘江の水は北へ流れ  都びとの私は南へ流される

              いつ北へ帰れるのか  ひとりわが身を憐れんでいる


     ⊂ものがたり⊃ 史書は武后の末年、張易之・張昌宗兄弟への武后の寵愛を伝えています。そうでなくても、唐朝の臣にとって武后の周王朝は許しがたいものでした。
     聖歴元年(698)に武后は七十歳くらいになっていたと推定されます。高齢であり、体も弱って来ていたので、後継者を決める必要がありました。狄仁傑(てきじんけつ)ら大官は廬陵王に貶とされ配所にいた廃帝中宗を召還して太子に立てることに成功しました。
     武后の病は長安年間の末には重篤になり、神龍元年(705)正月、寒門出身の宰相張柬之(ちょうかんし)ら有志数人が張兄弟の誅滅を決意します。皇太子中宗を奉じて宮中に攻め入り、張兄弟を殺害しました。中宗は監国に就任しますが、すぐに武后から譲位され、即位して国号を唐に復しました。武后は洛陽の離宮上陽宮に移され、その年の十一月に亡くなります。
     神龍元年の政変によって、武后に用いられていた文人の多くが張兄弟に阿付した罪に問われて貶謫されます。「文章の四友」も罪に問われ、杜審言は峰州(ベトナム・ハノイ付近)に流されます。
     詩題の「湘江」は湖南を北流して洞庭湖に注ぐ川で、杜審言はこの川を遡って峰州に向かいました。「遅日」は『詩経』豳風「七月」に「春日遅遅」とあるのに基づき、麗らかな春の日です。「昔遊」はかつての行楽、都の日々を懐かしんでいるのでしょう。「辺愁」は辺境の地にあることの憂いであり、流謫の身を嘆きます。

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     初唐34ー杜審言
       旅寓安南           安南に旅寓す

      交趾殊風候     交趾(こうし)  風候(ふうこう)殊(こと)なり
      寒遅暖復催     寒(かん)遅くして  暖  復(また)た催(もよお)す
      仲冬山果熟     仲冬(ちゅうとう)  山果(さんか)熟し
      正月野花開     正月(しょうがつ)  野花(やか)開く
      積雨生昏霧     積雨(せきう)   昏霧(こんむ)を生じ
      軽霜下震雷     軽霜(けいそう)  震雷(しんらい)を下(くだ)す
      故郷踰万里     故郷(こきょう)  万里を踰(こ)え
      客思倍従来     客思(かくし)   従来に倍(ばい)す

      ⊂訳⊃
              安南の地は  気候風土が異なり
              寒さは遅く   暖かになるのは早い
              冬のさ中に  山の木の実が熟し
              正月には   野草の花が咲く
              長雨が    濃い霧をもたらし
              霜が降れば  雷が鳴る
              故郷は    万里の彼方
              春が来れば  旅の愁いはいや増すのだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「安南」(あんなん)はベトナム北部の地名で、「交趾」はその別名です。はじめの二句でベトナム北部の地は寒くなるのが遅く、暖かくなるのは早いと気候を概観します。中四句は華北との気候風土の違いを敷衍するもので、「仲冬」(冬十一月)に木の実が熟し、正月には野の花が咲いていると詠います。
     洛陽の住人杜審言にとって、北との気候の違いはとても印象的であったのでしょう。気候を紹介して、結びでは望郷の思いを述べますが、宮廷詩特有の煩瑣な表現はなくなり、個人的な詩に変化しています。

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