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tiandaoの自由訳漢詩

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     元9ー馬祖常
        河湟書事            河湟にて事を書す

      波斯老賈度流沙   波斯(はし)の老賈(ろうこ)  流沙(りゅうさ)を度(わた)る
      夜聴駝鈴認路賖   夜  駝鈴(だれい)を聴いて路(みち)の賖(はる)かなるを認む
      采玉河辺青石子   采玉(さいぎょく)河辺(かへん)の青石子(せいせきし)
      収来東国易桑麻   収め来たって東国に桑麻(そうま)と易(か)ゆ

      ⊂訳⊃
              ペルシャの老いた商人が  砂漠を越えてやってくる

              夜中に鈴の音を聞くと    遥かな旅路がしのばれる

              河岸で採れた青石子  宝玉を買いあつめ

              絹や麻と換えようと   東の国へやってきた


     ⊂ものがたり⊃ 元代に科挙は原則廃止されましたが、第四代仁宗のときに再開され、以後八回ほど行われます。科挙である以上、高級官僚を採用するための試験ですが、定期的に行われたのではありません。採用者も少数で、モンゴル人優先です。馬祖常(ばそじょう)は元代初の科挙及第者のひとりで、漢民族の詩文に通じるモンゴル人が現れたことをしめしています。
     馬祖常(1279ー1338)は光州(河南省潢川県)の人。モンゴル部雍古部族の出身で、父の代に光州に移り住みました。仁宗の延祐二年(1315)、三十七歳のときに郷貢と会試を第一席で及第、廷試を第二席で及第して監察御史になります。累進して礼部尚書に至り、順帝の至元四年(1338)になくなります。享年六十歳です。
     詩題の「河湟」(かこう)は青海省と甘粛省の境、黄河と湟水の合流するあたりをいい、西域交通の要路でした。「事を書す」とあるので、そこで見たものを詠ったものです。「波斯」(ペルシャ)の商人が砂漠をわたって交易にきます。夜中に「駝鈴」(駱駝につけた鈴)の音を聞いていると、遥かな旅路が偲ばれます。後半は交易の内容をいうもので、「青石子」は青い宝玉。ペルシャの商人は宝石を買い集めて「東国」(中国)の「桑麻」(絹や麻)と交換すると詠います。宝石が流入し、衣類の原料が出ていくのを憂えるのでしょう。

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     元10ー薩都刺
         雨 傘                雨  傘

      開如輪  合如束   開けば輪(わ)の如く  合(がっ)すれば束(そく)の如く
      剪紙調膏護秋竹   紙を剪(き)り  膏(あぶら)を調(ととの)えて秋竹(しゅうちく)を護る
      日中荷葉影亭亭   日中の荷葉(かよう)   影亭亭(かげていてい)
      雨裏芭蕉声簌簌   雨裏の芭蕉(ばしょう)  声簌簌(こえそくそく)
      晴天却陰雨却晴   晴天(せいてん)   却(かえ)って陰(くも)り  雨  却って晴る
      二天之説誠分明   二天(にてん)の説  誠(まこと)に分明(ぶんめい)
      但操大柄掌在手   但(た)だ大柄(たいへい)を操(と)り  掌(つかさど)ること手に在らば
      覆尽東西南北行   東西  南北を覆(おお)い尽(つ)くして行く

      ⊂訳⊃
              開けば車輪のようで  閉じれば絹の束のよう
              絹を裁ち油を塗って  竹の骨のまわりに張りつける
              日射の中の蓮の葉のように  くっきりと影をおとし
              雨の日の芭蕉の葉のように  かさかさと音をたてる
              晴れた日には日陰をつくり  雨の日には晴となり
              人に二天があるという説は  傘をみればよくわかる
              傘の太い柄を      しっかり握っていれば
              東西南北どこへでも  傘に守られて行くことができる


     ⊂ものがたり⊃ 元の元首は皇族および有力軍団長のクリルタイで選ばれ、皇位継承法が確立していませんでした。そのため権臣の新帝擁立争いが激化し、擁立に成功した権臣の専横が激しくなります。名門色目人の家に生まれた薩都刺(さっとら)はそうした政事の混迷時代を生きた詩人です。
     薩都刺(1300?ー1355?)はウイグル族タシマン(回教幹部)氏出の色目人といいますが、代々軍人の家柄で雁門(山西省代県)に住んでいました。父は世祖フビライに仕え、軍功によって山西道冀寧路雁門の鎮将になりました。
     薩都刺も雁門で生まれ、泰定帝の泰定四年(1327)に二十八歳くらいで進士に及第します。御史になりますが直言のために左遷され、淮西江北道廉訪司などの地方属官を転々とします。順帝の至元二年(1336)に閩海廉訪知事になり、福州(福建省福州市)に赴任します。中央にもどって翰林院学士になりますが、晩年は杭州(浙江省杭州市)に住んで自適の生活を送りました。
     元末の紅巾の乱は順帝の至正十六年(1356)に江北から江南に拡大します。その前年の至正十五年(1355)ころ、薩都刺は乱の拡大するのを見ながらなくなります。享年五十六歳くらいです。
     詩題の「雨傘」(うさん)は珍しい題です。詠物詩に属しますが、傘を借りて権力者への警告を述べます。七言八句の詩ですが、前後で換韻する古詩です。まずはじめの二句で傘の形やつくりを描きます。「束」は束帛(そくはく)のことで十反の絹を一束にまとめたものです。つづく対句は傘の効用で、傘は日傘にもなり雨傘にもなります。
     後半四句では作者の思いが述べられます。傘をひらけば傘の上と下では別の空間が生まれますが、そのことから「二天の説」が分明になると説きます。「二天」とは二番目の天ということで、人には天子の恩についで恩人や世話になった人の恩があります。傘の働きをみれば、天の恵みのほかに、傘はもうひとつの天のように人に便宜をあたえてくれることが分かるといい、結び二句の警告に結びつけます。
     権力を握る者が傘の柄を握るように権力をしっかりと支えていれば、人は東西南北どこへでも傘に守られて行くことができます。それは天子の恩に加えて、よい政事を行う道であると説くのです。

     元11ー薩都刺
        過居庸関             居庸関を過る

      居庸関  山蒼蒼   居庸関(きょようかん)  山は蒼蒼(そうそう)たり
      関南暑多関北涼   関南(かんなん)は暑さ多(はなは)だしく  関北(かんほく)は涼し
      天門暁開虎豹臥   天門(てんもん)  暁(あかつき)に開けば  虎豹(こひょう)臥(ふ)し
      石鼓昼撃雲雷張   石鼓(せきこ)   昼に撃(う)てば  雲雷(うんらい)張る
      関門鋳鉄半空倚   関門(かんもん)の鋳鉄(ちゅうてつ)は半空(はんくう)に倚(よ)り
      古来幾多壮士死   古来(こらい)   幾多(いくた)の壮士(そうし)死す
      草根白骨棄不収   草根(そうこん)の白骨は  棄てて収めず
      冷雨陰風泣山鬼   冷雨(れいう)陰風(いんぷう)に山鬼(さんき)泣く
      道傍老翁八十余   道傍(どうぼう)の老翁(ろうおう)  八十余
      短衣白髪扶犂鋤   短衣(たんい)  白髪(はくはつ)  犂鋤(りじょ)に扶(すが)る
      路人立馬問前事   路人(ろじん)  馬を立てて前事(ぜんじ)を問えば
      猶能歴歴言邱墟   猶(な)お能(よ)く歴歴(れきれき)と邱墟(きゅうきょ)を言う
      夜来芟豆得戈鉄   夜来(やらい)  豆を芟(か)って戈鉄(かてつ)を得たり
      雨蝕風吹半稜折   雨に蝕(むしば)まれ風に吹かれて半稜(はんりょう)折る
      鉄腥惟帯土花青   鉄腥(てつせい)  惟(た)だ土花(どか)を帯びて青く
      猶是将軍戦時血   猶(な)お是(こ)れ将軍の戦時(せんじ)の血
      前年又復鉄作門   前年  又(ま)た復(ま)た  鉄もて門を作り
      貔貅万竃如雲屯   貔貅(ひきゅう)  万竃(ばんそう)  雲の如く屯(たむろ)す
      生者有功掛玉印   生ける者は功(こう)有って玉印(ぎょくいん)を掛け
      死者誰復招孤魂   死せる者は   誰(たれ)か復(ま)た孤魂(ここん)を招かんと
      居庸関  何崢崢   居庸関  何ぞ崢崢(そうそう)たる
      上天胡不呼六丁   上天(じょうてん)  胡(なん)ぞ六丁(りくてい)を呼んで
      駆之海外消甲兵   之(こ)れを海外に駆って   甲兵(こうへい)を消さざる
      男耕女織天下平   男は耕(たがや)し女は織れば  天下は平(たいら)かにして
      千古万古無戦争   千古(せんこ)万古(ばんこ)  戦争無からん

      ⊂訳⊃
              居庸関の山は   蒼黒くそびえ
              関門の南は暑く  北は涼しい
              夜明けに門を開けると  虎や豹がうずくまり
              昼間に太鼓をたたけば  雲湧き雷は鳴りわたる
              鋳鉄の門扉は   空にそそり立ち
              幾多の戦士が   この地で死んだ
              白骨は        草の根元に捨ておかれ
              冷たい夜の風雨のなか  亡霊は哭き叫ぶ
              道端に立つ八十余歳の老翁は
              短衣白髪  鋤にすがって杖とする
              馬を止め  昔のことを尋ねると
              廃虚で起こった出来事を  事細かに話してくれた
              「昨夜  豆の収穫中  鉄の戈先を拾ったが
              風雨にさらされ     かどは半分折れていた
              鉄の錆は         土にまみれて青く
              戦のときについた    血の痕であろう
              先年は  鉄で門扉を作りなおし
              勇猛果敢な兵士が  雲のように駐屯する
              生き残った者は   手柄をたて恩賞にあずかるが
              死者の孤独な魂を  誰が祀ってくれるのか」と
              居庸関の       なんと高く険しいことか
              どうして天帝は    六丁の神に命じ
              関所を海に追放し  武器や兵士をなくさないのか
              男が耕し  女が機を織れば天下太平
              未来永劫  戦はなくなるであろう 


     ⊂ものがたり⊃ 第六代皇帝泰定帝が致和元年(1328)に上都開平府で崩じると、元には二帝が立って内戦となりました。上都で擁立された天順帝と大都で懐王を擁立した大都留守のエンテムール、武宗系との対立です。内戦は武宗系の勝利に帰し、天順帝は乱戦のなかで行方不明になります。
     ところが今度は勝利した武宗系の内部で懐王(文宗)とその兄の周王との対立が生じます。周王側から武宗系の嫡子である周王を立てるべきとの異議がおこり、文宗は兄に譲位して周王が第八代明宗になります。しかし、明宗は太師エンテムールと対立し、エンテムールに殺害されます。天暦二年(1329)八月、文宗が復位します。
     しかし、明宗の嫡子を立てようとする明宗側と文宗を擁する太師エンテムールとの対立は激化し、至順三年(1332)夏、両軍は居庸関で激突し、文宗側の勝利に帰します。詩は昔の戦争のことを物語るような書き方になっていますが、居庸関の戦争の翌年、作者三十四歳のころの作品です。
     詩題の「居庸関」は大都(北京)の西北にある関門で、長城の南に位置する軍事上の要衝です。詩は七言二十五句の長詩で四句ずつまとめて読むことができます。はじめの四句は居庸関の描写です。つぎの四句は関門の鉄扉とそのまわりの状況を描きます。散乱する白骨は前年の戦の戦死者でしょう。
     つぎの四句で「路人」(通りがかりの男)つまり作者が馬を停め、道端の畑で働いていた老人から話を聞きます。「歴歴」はひとつひとつ明らかなこと。居庸関は「邱墟」(廃墟)として示され、劇仕立てで昔話を聞くかたちになっています。
     ついで老人の語る言葉が八句つづきます。はじめの四句は豆を刈っているときに拾った武器の折片の話です。「鉄腥」は鉄錆、「土花」は土に浸食された文様のことで、それが青いのは戦争の血の痕でしょう。つづく四句は「前年」とありますが、鉄で門扉を作りなおし、戦があったことをしめします。「貔貅」は伝説上の猛獣で、勇士の喩えです。
     最後の五句は結びで、反戦の言葉です。「六丁」は道教の神で、大力の持ち主といいます。争いの元を海の彼方に追いはらい、「甲兵」(鎧と武器)を消してくれないかと願い、そうすれば農民は男も女も農業に勤しみ、戦争は未来永劫になくなるだろうと詠うのです。

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     元15ー王冕
         墨 梅               墨   梅

      我家洗硯池頭樹   我が家(いえ)  硯(すずり)を洗う  池頭(ちとう)の樹(き)
      朶朶花開淡墨痕   朶朶(だだ)   花開けば墨痕(ぼっこん)淡し
      不要人誇顔色好   要(もと)めず  人の  顔色(がんしょく)の好(よろ)しきを誇る
      只留清気満乾坤   只(た)だ留む  清気(せいき)の   乾坤(けんこん)に満つるを

      ⊂訳⊃
              わが家では  池のほとりの木の下で硯を洗う

              花が咲けば  梅の花びらに淡い墨の色

              花の色を   私は自慢したいとは思っていない

              望むのは   清らかな香気が天地に満ちることだけだ


     ⊂ものがたり⊃ 元は大都にすべての富を集める交易国家で、京師に厖大な消費需要が発生します。支配者の奢侈需要を満たすのは海外の輸入品のほか宋代に産業化された江南の特産品です。その取引を通じて江南商人が息を吹き返してきました。
     一方、南人・漢人に対する差別はつづいていたので、官途をあきらめた知識人は江南の都市富裕層の趣味や娯楽にかかわることで、文筆家・画家・書家として生きる道を求めていきます。知識人が演劇の台本作成にかかわるようになって、後世に「元曲」と称される雑劇が起こってきます。
     こうした状況下で生きた元末の詩人に王冕(おうべん)と楊維禎(よういてい)がいます。
     王冕(1287ー1359)は越州諸曁(浙江省諸曁県)の人。世祖の至元二十四年(1287)に生まれ、長じて科挙を受験しましたが及第しませんでした。以後、官途を諦めて全国を放浪します。元代を代表する画家で、花鳥図の発展に貢献しました。画題として梅の花を好み、満開の梅を華麗に表現しました。
     絵を売って生活し、晩年は会稽(浙江省紹興市)の九里山麓に庵を結び、梅花庵と名づけて隠棲しました。順帝の至正十九年(1359)になくなり、享年七十三歳です。
     詩題の「墨梅」(ぼくばい)は水墨画に描いた梅の花という意味で、自作の梅の絵につけた題画詩です。前半二句の一句目には故事があり、晋の有名な書家王羲之(おうぎし)が住んでいた会稽山の麓の池で硯や筆を洗っていたので、池の水が黒くなったといいます。その故事を踏まえて、池のほとりに咲く梅の花に淡い墨の色がにじみでると詠います。墨の濃淡で描く梅の花ということも意味しています。
     眼目は後半二句で、「顔色」は梅の花の出来栄えのことです。花の色がいいと人が「誇る」(褒めたたえる)のは「不要」だといいます。それは梅の花の「清気」(清らかな香気)が「乾坤」(天地)に満ちわたることを大切に思っているからだというのです。「墨梅」を売って暮らしているけれど、心は「清気」に満ちているというのです。

     元16ー王冕
        応教題梅           教に応じて 梅に題す

      剌剌北風吹倒人   剌剌(らつらつ)たる北風(ほくふう)  吹いて人を倒す
      乾坤無処不沙塵   乾坤(けんこん)  処(ところ)として  沙塵(さじん)ならざるは無し
      胡児凍死長城下   胡児(こじ)   凍死(とうし)す  長城の下(もと)
      誰信江南別有春   誰か信ぜん  江南(こうなん)  別に春有りと

      ⊂訳⊃
              吹きつのる北風は  人を吹き倒し

              天にも地にも  砂ぼこりが舞っている

              長城の辺では  胡族の若者が凍えて死んでいる

              誰が信じよう   江南に特別の春が来たことを


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「教(きょう)に応じて」は王族や皇太子の求めに応じて作った詩という意味で、梅の絵に書きつけた題画詩です。朱元璋(しゅげんしょう)の求めに応じたものといわれており、元末の動乱が江南に移るのは至正十六年(1356)ですので、それ以後の作品でしょう。
     前半二句は元末のひどい世相を比喩的に詠います。「剌剌」は激しい風の形容、「北風」はモンゴル兵の比喩でしょう。後半二句は河北と江南の比較です。河北では万里の長城の下で胡族の若者が凍え死にしているが、江南ではこれまでとは違う春がやってきたと、元と戦う朱元璋をたたえます。 

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     元17ー楊維禎
        廬山瀑布謡           廬山の瀑布の謡

      銀河忽如瓠子決   銀河  忽(こつ)として瓠子(こし)の決せるが如く
      瀉諸五老之峰前   諸(これ)を五老の峰前(ほうぜん)に瀉(そそ)ぐ
      我疑天仙織素練   我れ疑う  天仙(てんせん)  素練(それん)を織り
      素練脱軸垂青天   素練  軸(じく)を脱して青天(せいてん)に垂(た)るるかと
      便欲手把并州剪   便(すなわ)ち欲す  手に并州(へいしゅう)の剪(せん)を把(と)り
      剪取一幅玻璃煙   一幅(いっぷく)の玻璃煙(はりえん)を剪取(せんしゅ)せんことを
      相逢雲石子      雲石子(うんせきし)に相逢(あいあ)えば
      有似捉月仙      捉月(そくげつ)の仙に似たる有り
      酒喉無耐夜渇甚   酒喉(しゅこう)  耐うる無し  夜渇(やかつ)の甚(はなはだ)しきに
      騎鯨吸海枯桑田   鯨に騎(の)り   海を吸って桑田(そうでん)を枯れしむ
      居然化作十万丈   居然(きょぜん)  化して作(な)る  十万丈
      玉虹倒挂清冷淵   玉虹(ぎょくこう) 倒(さかしま)に挂(かか)る  清冷の淵

      ⊂訳⊃
              天の川が   瓠子で決壊したかのように
              水は流れて  五老峰の前にそそぐ
              天界の仙女が白絹を織っていて
              軸からはずれた白絹が  青空に垂れたかと思う
              そこで私は  并州の刃物を手にとって
              煌めく靄を   切りとろうと思った
              夢のなかで  雲石子に出会うと
              捉月の詩仙  李白のようだった
              酒に酔って  夜  喉の渇きに耐えきれず
              鯨に乗って海水を飲み  桑畑を枯らしてしまう
              するとどうだ  水は十万丈の瀧となり
              逆さに煌めく虹のように  清らかな淵の上にかかっている


     ⊂ものがたり⊃ 楊維禎(よういてい:1296ー1370)は山陰(浙江省紹興市)の人。南宋の都臨安陥落の二十年後、成宗の元貞二年(1296)に生まれました。泰定帝の泰定四年(1327)、三十二歳のときに進士に及第します。自由奔放な性格のために官は建徳路総管府推官にとどまりました。
     元末の動乱が江南におよぶと、乱を避けて銭塘(浙江省杭州市)に移り住みます。明が建国した翌年の洪武二年(1369)に洪武帝の召しをうけ、老齢を理由に出仕しなませんでしたが、咎めをうけずに帰郷することを赦されました。その翌年になくなり、享年七十五歳です。
     詩題の「廬山」(ろざん)は江州(江西省九江市)の南にある景勝地で、詩跡の地です。「瀑布」は瀧のことで、李白に有名な詩があることから、そのパロディを作ったのでしょう。自注に夢のなかで廬山に登って作ったとあり、奇想天外な詩であることを韜晦しています。
     前後六句に分かれ、はじめの六句はいろいろな比喩をもちいて廬山の瀧を描きます。「瓠子」は地名で、漢の武帝のとき瓠子で黄河が決壊しました。「五老之峰」は廬山の有名な峰で、五人の老人が立っているように見えることからその名があります。三句目の「我れ疑う」は錯覚すること。天上界の仙女が白絹を織っていて、それが機織り機の軸をはずれて「青天に垂るる」かと思われました。そこで「并州の剪」(太原名産の刃物)で「玻璃煙」(硝子のように煌めく靄)、つまり中空に懸かる瀧の帯を切り取りたくなったと詠います。
     後半は一転してすでに世を去った友人の「雲石子」(貫雲石)が出てきます。貫雲石はウイグル人(色目人)で、元朝に仕えましたが詩文のほか散曲にも才能を発揮しました。散曲はモンゴル系の曲、演劇場で歌われた歌曲です。夢のなかで貫雲石と出会いましたが、かれは「捉月仙」のようでした。捉月の仙とは李白のことで、李白は舟に乗って水に映った月を捉まえようとし落ちて死んだといわれています。
     李白も酒を愛しましたが、夢のなかで「雲石子」もかなり酒を飲んでいたらしく、夜中の喉の渇きに堪え切れずに鯨に乗って海の水を飲み干してしまいます。そのため桑畑も干からびます。
     最後の二句でイメージはさらに逆転します。「居然」は思いがけないことが起こるときに用いる語で、廬山の瀧を雲石子が呑みほした水の変化したものに喩えます。雲石子が水を吐き出しているというのです。この詩は「謡」とあるように舞台のうえで歌曲に合わせた劇が演じられたとみられ、パロディの面白さをみせる詩です。  

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     元21ー劉基
         春 蚕               春   蚕

      可笑春蚕独苦辛   笑う可(べ)し  春蚕(しゅんさん)の  独り苦辛(くしん)するを
      為誰成繭却焚身   誰(た)が為に繭(まゆ)を成(な)して  却(かえ)って身を焚(や)かるる
      不如無用蜘蛛網   如(し)かず   無用の蜘蛛(くも)の網の
      網尽蜚虫不畏人   蜚虫(ひちゅう)を網尽(もうじん)して  人を畏(おそ)れざるに

      ⊂訳⊃
              おかしなことだ     春の蚕はひとり齷齪と苦労して

              誰にために繭を作り  煮られてしまうのか

              蚕は蜘蛛に及ばない  蜘蛛の巣は人の役にたたず

              虫を捕らえつくして   人を恐れるようすもない


     ⊂ものがたり⊃ 元の苛政に追いつめられた農民の一部は新興宗教の白蓮教に救いを求めるようになります。順帝の至元三年(1337)二月、胡閏児(こじゅんじ)を首領とする白蓮教徒は信陽州(河南省羅山県)で蜂起しますが、ひと月あまりで鎮圧されます。しかし、至正四年(1344)に起こった黄河の大氾濫などもあり、農地は七年間も水浸しになって河南の農民はさらなる困苦に追いやられます。
     至正十一年(1351)、劉福通(りゅうふくつう)ら白蓮の徒は各地で挙兵し、河南は動乱の地と化します。この動乱のなかで生まれた各地の武装集団(そのなかには地主階級の自衛集団もありました)は、至正十六年(1356)ころから拠点を江南に移すようになります。そのなかで三雄と称されるのが朱元璋(しゅげんしょう)、張士誠(ちょうしせい)、陳有諒(ちんゆうりょう)です。
     小国の並立によって江南には一時的な平和が生まれ、元の支配から独立します。元末明初の詩人はこの動乱のなかを生き、両朝を経験するわけですが、ここでは劉基(りゅうき)と袁凱(えんがい)までを元末の詩人として扱います。
     劉基(1311ー1375)は青田(浙江省青田県)の人。仁宗が即位する至大四年(1311)に官家に生まれ、寧宗の至順四年(1333)、二十三歳で進士に及第します。この年は六月に順帝が即位し、十月には改元されて元統になります。官途についた劉基は学者、文人として名声が高まりますが、混迷する政事に嫌気がさして隠退、故郷に帰ります。
     のちに朱元璋の招きに応じてその覇業を助けました。明が建国した洪武元年(1368)に五十八歳でした。明に仕えて御史中丞兼太史令に任じられ誠意伯を贈られますが、宰相の胡惟庸(こいよう)に陥れられて洪武八年(1375)に獄中で憤死します。毒殺されたという説もあり、享年六十五歳です。
     詩題の「春蚕」は春の蚕月の蚕のこと。蚕は桑の葉を食べて繭をつくりますが、絹糸を取るために煮られてしまいます。蚕とおなじように糸をだして網を張る蜘蛛は人の役に立たず、昆虫を捕らえて平然としています。蚕のように身を擦り減らして人の役に立つよりは、人の思惑などは気にせずに自分のためだけに生きている蜘蛛の方がましな生き方ではないかと、報われない自分の人生を自嘲するのです。

     元22ー劉基
       五月十九日大雨       五月十九日 大いに雨ふる

      風駆急雨灑高城   風  急雨(きゅうう)を駆(か)って高城(こうじょう)に灑(そそ)がしめ
      雲圧軽雷殷地声   雲  軽雷(けいらい)を圧して地を殷(ふるわ)すの声
      雨過不知龍去処   雨過ぎて    龍の去る処(ところ)を知らず
      一池草色万蛙鳴   一池(いっち)  草色(そうしょく)  万蛙(ばんあ)鳴く

      ⊂訳⊃
              風は雨を駆り立て  高楼に降りそそぐ

              雲は雷を起こして  地に雷鳴を轟かす

              雨がやんで龍神は  どこへいってしまったのか

              一個の池  青い草  鳴いているのは無数の蛙


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「五月十九日」は不明です。その日に大雨が降ったのでしょう。前半二句で風雨を描きますが、寓意を含んでいます。風・雨・雲は乱世や困難な境遇の喩えで、元末の動乱をさします。転句で雨はやみ、平和がもどってきますが、龍はどこへいってしまったのかわかりません。龍は天子のことであり、元の皇帝のことでしょう。
     結句の「一池」は難解で、一はひとにぎり、わずかなの意味があり、価値観を含めてほんのわずかという感じがあります。「草色」は青で、下級官吏の衣裳の色です。「蛙」は小人物の喩えであり、龍がいなくなった小さな世界で小物が騒いでいるだけだと諷します。(2016.5.9)

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     元23ー袁凱
       京師得家書       京師にて家書を得たり

      江水三千里     江水(こうすい)  三千里
      家書十五行     家書(かしょ)   十五行
      行行無別語     行行(ぎょうぎょう)  別語(べつご)無く
      只道早帰郷     只(た)だ道(い)う   早く郷(きょう)に帰れと

      ⊂訳⊃
              長江の流れは  三千里

              届いた便りは  十五行

              どの行にも    書いてあるのはただひとつ

              はやく帰ってきてくださいと


     ⊂ものがたり⊃ 袁凱(えんがい:1316ー?)は華亭(江蘇省上海市松江県)の人。仁宗の延祐三年(1316)に生まれ、元末に府吏になります。「白燕」の詩が楊維禎に認められて詩名を高めます。五十三歳のときに明が建国し、洪武三年(1370)に監察御史になりますが、洪武帝に疎まれて病と称し故郷に隠棲します。没年は不明です。
     詩題の「京師」(けいし)は都のこと。ここでは朱元璋が建康(江蘇省南京市)においた王天府のことです。袁凱が王天府にいたとき、「家書」(家族からの書信)をえて感懐を述べた詩でしょう。「江水三千里」は遠いことの喩えで、遠くからきた妻からの手紙はたったの十五行。それでも嬉しくて幾度も読み返しますが、書いてあるのは「早く郷に帰れ」の三語だけというのです。朱元璋に仕えていても、望郷の念が強かったようです。 

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     明1ー楊基
       感懐十四首 其六        感懐十四首  其の六

      位卑諌勿直     位(くらい)卑(ひく)ければ  諌(かん)  直(ちょく)なること勿(なか)れ
      直諌君心疑     直諌(ちょくかん)すれば  君心(くんしん)疑う
      交浅言勿深     交わり浅ければ  言(げん)  深くすること勿れ
      深言友誼虧     深言(しんげん)すれば  友誼(ゆうぎ)虧(か)く
      諤諤衆所悪     諤諤(がくがく)たるは   衆(しゅう)の悪(にく)む所
      況復違逆之     況(いわ)んや復(ま)た之(こ)れに違逆(いぎゃく)するをや
      豈不利於行     豈(あ)に行いに利せんとして
      吐蘗而含飴     蘗(きはだ)を吐いて飴(あめ)を含まざらんや
      朝登千仞崗     朝(あした)に千仞(せんじん)の崗(おか)に登り
      振我身上衣     我が身上(しんじょう)の衣(ころも)を振わん
      丈夫貴自潔     丈夫(じょうふ)は自(みずか)ら潔(きよ)くするを貴(たっと)ぶ
      毋論他人非     他人の非を論ずること毋(なか)れ

      ⊂訳⊃
              位が低いときは  直接に諌言してはならない
              直諌すれば    天子の心に疑いがうまれる
              親しくない人と   立ち入った話はしないほうがよい
              立ち入った話は  友情を損なう
              遠慮会釈の無い話は  人のいやがるもの
              人の意見に逆らえば  なおさらのことだ
              自分のゆく道に  有利なように
              苦い言葉を捨て  甘い口調にこころがけよう
              朝起きたら  高い岡に登って
              自分の衣の  塵を払おう
              立派な男は  みずからを清く保つもの
              他人の失敗を論じたりしてはならない


     ⊂ものがたり⊃ 元末の紅巾の乱で、定遠(安徽省定遠県)の土豪郭子興(かくしこう)の軍に投じた朱元璋は、郭子興の死後、その部衆をひきいて江南に移り、至正十六年(1356)に集慶路(江蘇省南京市)を占領、応天府と改称して根拠地としまます。
     一方、もと泰州(江蘇省揚州市泰州県)の官塩輸送業者であった張士誠(ちょうしせい)は平江(江蘇省蘇州市)を占領し、呉王を称しました。また、沔陽(湖北省安陸県)の漁家に生まれた陳友諒(ちんゆうりょう)は紅巾の一派徐寿輝(じょじゅき)の軍に投じます。徐寿輝は江州(江西省江州市)に都を置き漢王を称しますが、陳友諒は徐寿輝を殺害してみずから漢王になります。
     元末、江南に三国が生まれますが、平江は当時、江南第一の富裕をほこり、文化の蓄積する古都でした。張士誠の呉国のもと、平江には一時的に文運が興隆し、後世「呉中四傑」と称される楊基(ようき)・張羽・徐憤・高啓(こうけい)らが活躍します。なかでも高啓は明初の大詩人と称され、通常「呉中四傑」からを明の詩人とします。
     楊基(1326ー1378)は嘉定(四川省楽山県)の人。泰平帝の泰平三年(1326)に平江呉県(江蘇省蘇州市)で生まれ、長じて張士誠に仕えます。高啓よりは十歳の年長で、呉中詩壇の指導的立場にいました。四十三歳のとき明が建国し、招かれて過湖広使、山西安察使になります。十年のあいだに幾度も左遷され、洪武十一年(1378)に配地でなくなりました。享年五十三歳です。
     詩題の「感懐」には胸の奥に秘めている思いをのべるという意味があります。左遷されたときの作とされ、はじめの四句は体験からえた処世の知恵、生きるための心がまえを述べます。「諌」は目上の者に対する諌言で、「深言すれば 友誼虧く」と合わせてかなりの人間不信です。つぎの四句では前段の処世訓を具体的に説明します。「蘗」は薬用の木の皮で、非常ににがいものです。にがい言葉はやめて甘い言葉だけを話すことが世渡りの知恵だといいます。
     結び四句の「我が身上の衣を振わん」は世俗の塵を払うこと。つまり官職への執着を断つという意味です。面倒な政事の世界とは距離を置いて、わが身を正しく持することが男らしい態度であるといい、他人の過ちや失敗を論じてはならないと激しい言葉で結びます。自戒の言葉であり、佞臣への憤りもこめられており、遺言ともいえる詩です。

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     明2ー高啓
       梅花九首 其一           梅花九首 其の一

      瓊姿只合在瑶台   瓊姿(けいし)  只(た)だ合(まさ)に瑶台(ようだい)に在るべし
      誰向江南処処栽   誰か江南に向(お)いて 処処(しょしょ)に栽(う)うる
      雪満山中高士臥   雪は山中に満ちて    高士(こうし)臥(が)し
      月明林下美人来   月は林下に明らかにして  美人来たる
      寒依疏影蕭蕭竹   寒(かん)には依(よ)る  疏影(そえい)  蕭蕭(しょうしょう)の竹
      春掩残香漠漠苔   春には掩(おお)う  残香(ざんこう)  漠漠(ばくばく)の苔
      自去何郎無好詠   何郎(かろう)の去りし自(よ)より    好詠(こうえい)無く
      東風愁寂幾回開   東風(とうふう)  愁寂(しゅうせき)   幾回(いくかい)か開く

      ⊂訳⊃
              玉のようなこの花は   仙人の棲む所にあるべきだ
              だれがこの江南の    いたるところに植えたのか
              雪が山中に積もるなか  隠者が眠っているようだ
              月が林下を照らすなか  美女が現れてくるようだ
              寒い時には疏らな影を  風に揺れる竹に映し
              春の季節には花びらが 広がる苔のうえに満つ
              梁の何遜がいなくなり  梅の佳作は絶え
              春風のなかいくたびか  寂しく花を咲かせたことか


     ⊂ものがたり⊃ 江南の応天府に拠った朱元璋は、まず陳友諒と張士誠を各個撃破する方針を立て、至正二十三年(1363)、江州の陳友諒を滅ぼし、至正二十五年(1365)から東に兵をすすめ張士誠の軍と闘います。その間、江北で元軍と闘っていた紅巾軍の小明王韓林児(かんりんじ)を謀殺し、北伐の兵を発します。
     張士誠との闘争は至正二十七年(1367)九月までつづき、敗れた張士誠は首を括って自殺しました。江南を制した朱元璋は翌年を洪武元年(1368)と定め、正月に応天府で即位し、国号を大明と称しました。その年、北伐軍は元の大都をおとし、逃げる元軍を追って上都にいたり、順帝は北に逃れて洪武三年四月になくなります。
     高啓(1336ー1374)は平江長洲(江蘇省蘇州市長洲県)の人。十六歳のころから平江の詩壇で有名になります。張士誠が平江に入った至正十六年(1356)には二十一歳でした。張士誠の平江で文名はいよいよ高くなり、明が建国した洪武元年には三十三歳になっていました。翌洪武二年に朱元璋の召しをうけ、『元史』の編纂に従事します。半年ほどで完成し、戸部右侍郎(財務次官)に起用されます。しかし、高位の官吏として重用されることに不安を感じ、ほどなく職を辞して故郷に帰りました。
     洪武七年(1374)に旧知の魏観(ぎかん)が知平江府事になって来任し、張士誠の宮殿跡を役所にしました。そのことが謀叛の意思ありと咎められ、高啓も魏観の一党とみなされます。その結果、応天府に連行されて市場で腰斬の刑に処せられます。遺体は路上に曝されました。享年三十九歳です。
     詩題に「梅花」(ばいか)とあり、詩中に梅の字はひとつもありませんが、すべて梅に関することです。はじめの二句で梅の花の世間離れした美しさを褒めます。「瓊姿」は梅の花の咲く姿です。その美しさゆえに、梅の花は「瑶台」(仙人の棲む台閣)にあるべきですが、江南のいたるところに植えてあると、江南の美しさと結びつけます。
     中四句の対句は梅の花の美しさをいろいろな角度から述べます。はじめの対句の「山中高士」は後漢の袁安(えんあん)の故事を、「林下美人」は随の趙師雄(ちょうしゆう)の故事を踏まえています。「雪は山中に満ちて」、「月は林下に明らかにして」と幻想的なイメージをだして梅花の美しさを喩えます。
     つぎの対句は梅の生えている場所とからめてその高雅な趣を描きます。北宋初期の有名詩人林逋(りんぽ)の「山園小梅二首」の句「疏影 横斜 水清浅 暗香 浮動 月黄昏」を踏まえており、林逋の梅の詩に対抗して作ったことがわかります。
     結び二句の「何郎」は南朝梁の詩人で梅の詩が得意な何遜(かそん)のことです。何遜が死んで以来「好詠無く」といっていますので、林逋や南宋陸游の梅の詩も否定していることになります。そしていまこそ、自分が梅の花の名作をつくろうという意気込みをしめします。若いころの意気軒昂なときの作品でしょう。

     明3ー高啓
        青邱子歌             青邱子の歌

      青邱子  臞而清    青邱子(せいきゅうし)  臞(や)せて清し
      本是五雲閣下之仙卿 本(も)と是(こ)れ五雲閣下の仙卿(せんけい)なり
      何年降謫在世間    何(いず)れの年か降謫(こうたく)されて世間に在り
      向人不道姓与名    人に向かって姓と名とを道(い)わず
      躡履厭遠遊       履(くつ)を躡(ふ)むも遠遊(えんゆう)を厭(いと)い
      荷鋤懶躬耕       鋤(すき)を荷(にな)うも躬耕(きゅうこう)に懶(ものう)し
      有剣任鏽澀       剣(けん)有るも鏽渋(しゅうじゅう)するに任(まか)せ
      有書任縦横       書(しょ)有るも縦横(じゅうおう)たるに任す
      不肯折腰為五斗米   腰を折って五斗米(ごとべい)の為にするを肯(がえ)んぜず
      不肯掉舌下七十城   舌(した)を掉(ふる)って七十城を下すを肯(がえ)んぜず
      但好覓詩句       但(た)だ好んで詩句を覓(もと)め
      自吟自酬賡       自(みずか)ら吟じ  自ら酬賡(しゅうこう)す
      田間曳杖復帯索    田間(でんかん)に杖を曳き  復(ま)た索(なわ)を帯とす
      傍人不識笑且軽    傍人(ぼうじん)  識(し)らず  笑い且(か)つ軽(かろ)んず
      謂是魯迂儒       謂(い)う  是(こ)れ魯(ろ)の迂儒(うじゅ)ぞ
      楚狂生          楚(そ)の狂生(きょうせい)ぞと
      青邱子聞之不介意   青邱子(せいきゅうし)  之(こ)れを聞くも意に介(かい)せず
      吟声出吻不絶咿咿鳴 吟声(ぎんせい)  吻(くち)を出(い)で  咿咿(いい)として鳴るを絶たず
      朝吟忘其飢       朝(あした)に吟じては其の飢(うえ)を忘れ
      暮吟散不平       暮(くれ)に吟じては不平を散(さん)ず

      ⊂訳⊃
              青邱子は  すらりとした優男
              もとは五雲閣にはべる仙官であった
              あるとき天上から追放され  いまは下界にいるが
              姓も名もあかさない
              履をはいても  遠くへの旅は好まず
              鋤を担いでも  畑仕事はうっとうしい
              剣はあっても  錆びるにまかせ
              書物なんぞは  ほったらかしだ
              わずかな扶持米のために  腰をかがめたり
              弁舌をふるって国を降す  とんでもないことだ
              詩句を探すのが大好きで
              みずから歌い  みずから答える
              田圃のなかを  ぶらぶら歩いて帯のかわりに縄を締める
              近所の者は   私が何者であるかを知らず
              魯の迂儒(やくたたず)
              楚の狂生(きちがい)よと あざけり笑う
              青邱子は それを聞いても気にかけず
              口から出るのは 咿(あ)とか咿(う)とかの唸り声
              朝に吟じては   飢えを忘れ
              夕べに吟じては 鬱憤をはらす


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「青邱子」は高啓(こうけい)の号です。平江(江蘇省蘇州市)の郊外呉淞(ウースン)江岸に青邱という地があり、高啓は青邱の名族周子達(しゅうしたつ)の娘と結婚し、青邱に住むことが多かったようです。この詩を作ったのは至正十八年(1358)、二十三歳のときで、平江は張士誠の治下にありました。この詩には森鷗外の雅語訳がありますが、鷗外には珍しい失敗作です。
     雑言古詩、六十六句の長詩ですので七回にわけて投稿します。まず冒頭十句のはじめ四句で、自分は咎められて下界に流された仙人であり、姓も名もいわないと韜晦します。「五雲閣」は五彩の雲のたなびく天上の仙宮であり、「仙卿」は仙人世界の高官でしょう。つづく六句は生活信条です。「鏽澀」(銹渋)は錆びつくこと、「縦横」はたてよこ、ほったらかしにすることです。
     「折腰五斗米」は陶淵明の故事を踏まえており、陶淵明は彭沢令のとき郡から派遣された督郵を迎えるのに束帯するようにと下吏からいわれ、「われ能く五斗米のために腰を折り、拳々として郷里の小人に事(つか)えんや」といって即日職を辞し故郷に帰りました。「掉舌七十城」は『史記』酈生陸賈列伝に漢の酈食其(れきいき)が弁舌をもって斉の七十余城(一国)を降したとあり、功名手柄をたてて出世しようとは思わないと詠うのです。 
     つづく十句では詩人としての生きざまを詠います。はじめの二句は詩作に没頭していること。「酬賡」は他人の詩に次韻することですが、自分の詩に次韻して応酬するのです。つぎの四句は近所の評判。「索を帯とす」は『列子』にみえる隠者栄啓期(えいけいき)の故事で、服装にかまわず歩きまわり、近所の者は自分が何者であるかを知らずに笑いものにしていると詠います。「魯迂儒」は『史記』劉敬叔孫通列伝にあり、漢の高祖劉邦の召しに応じなかった時代遅れの魯の儒者をいいます。「楚狂生」は『論語』にあり、狂をよそおって孔子を諷刺した楚の隠者接輿(せつよ)のことです。そんな嘲りを聞いても気にせず、「咿咿」(うなり声)と唸りながら朝から晩まで詩を吟じていると韜晦します。(つづく)

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     明4ー高啓
       登金陵雨花臺        金陵の)雨花台に登って大江を望む

               
      大江来従万山中   大江(たいこう)  万山(ばんざん)の中(うち)従(よ)り来たり
      山勢尽与江流東   山勢(さんせい) 尽(ことごと)く江流(こうりゅう)と与(とも)に東(ひがし)す
      鍾山如龍独西上   鍾山(しょうざん) 龍(りゅう)の如く  独(ひと)り西上(せいじょう)し
      欲破巨浪乗長風   巨浪(きょろう)を破って長風(ちょうふう)に乗(じょう)ぜんと欲(ほっ)す
      江山相雄不相譲   江山(こうざん)   相雄(あいおお)しく相譲(あいゆず)らず
      形勝争誇天下壮   形勝(けいしょう)  争い誇る  天下の壮(そう)
      秦皇空此瘞黄金   秦皇(しんこう)   空(むな)しく此(ここ)に黄金を瘞(うず)むるも
      佳気葱葱至今王   佳気(かき)葱葱(そうそう)として  今に至って王たり
      我懐鬱塞何由開   我が懐(おも)い  鬱塞(うつそく)  何(なに)に由(よ)ってか開かん
      酒酣走上城南台   酒(さけ)酣(たけなわ)にして  走って城南(じょうなん)の台に上る
      坐覚蒼茫万古意   坐(そぞ)ろに覚ゆ   蒼茫(そうぼう)  万古(ばんこ)の意
      遠自荒煙落日之中来 遠く荒煙(こうえん)  落日の中(うち)自(よ)り来たるを
      石頭城下涛声怒   石頭城下(せきとうじょうか)  涛声(とうせい)怒(いか)り
      武騎千群誰敢渡   武騎(ぶき)千群(せんぐん)  誰(たれ)か敢(あえ)て渡らん
      黄旗入洛竟何祥   黄旗(こうき)  洛(らく)に入(い)るは竟(つい)に何の祥(しるし)ぞ
      鉄鎖横江未為固   鉄鎖(てつさ)  江(こう)に横(よこ)たうるも未(いま)だ固めと為(な)さず
      前三国         前(さき)には三国(さんごく)
      後六朝         後(のち)には六朝(りくちょう)
      草生宮闕何蕭蕭   草は宮闕(きゅうけつ)に生じて何ぞ蕭蕭(しょうしょう)たる
      英雄乗時務割拠   英雄  時に乗じて割拠(かっきょ)に務(つと)め
      幾度戦血流寒潮   幾度(いくたび)か  戦血(せんけつ)  寒潮(かんちょう)に流るる
      我生幸逢聖人起南国 我れ生まれて   幸い聖人の南国に起こるに逢(あ)い
      禍乱初平事休息   禍乱(からん)  初めて平(たい)らぎ休息(きゅうそく)を事とす
      従今四海永為家   今(いま)従(よ)り四海(しかい)  永く家と為(な)り
      不用長江限南北   長江の南北に限るを用いず

      ⊂訳⊃
              長江は無数の山のあいだを流れくだり
              山の勢いは  流れとともに東にむかう
              鐘山だけは  ひとり龍のように西をむき
              波涛を破って 長大な風に乗ろうとする
              長江と鐘山は 雄々しい姿でたがいに譲らず
              われこそは   天下の景勝であると競いあう
              秦の始皇帝が  黄金を埋めて鎮めたにもかかわらず
              天子の気は湧きつづけ いまや王の都となる
              私の憶いは塞がって   どうすれば晴ればれとなるだろうかと
              酔った勢いで都城の南 雨花台にのぼる
              すると  濃い霧に包まれた夕陽のなかから
              蒼茫万古の思いが湧いてきた
              石頭城下に   波は激しく
              北の騎馬隊は 渡ることができない
              黄旗洛陽に入る予言は いかなる兆しであったのか
              鉄鎖を川に張りめぐらしても無駄であった
              さきに三国
              のちに六朝の都となるが
              いまでは草が  宮殿の跡に生えて侘びしいばかり
              英雄たちは   時に乗じて要害に拠り
              兵士の血潮は 幾たび長江の冷たい水に流れたことか
              幸いにも私は  聖人が南国に起こる御代にあい
              戦乱は収まり  人は安らぎを求めている
              これからは   天下が家族のようにひとつになり
              北と南に    分断されるようなことはない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題中の「雨花台」(うかだい)は「金陵」(江蘇省南京市)の南郊にある台地です。雨花台で宴会が開かれたときに披露した作品でしょう。高啓は明の洪武二年(1369)に応天府に召され、出仕して『元史』の編纂に従事しました。詩は勤めはじめてほどなくの作品と思われます。雑言古詩、七言二十四句(内一句は二句表示)の大作で、四句ずつにわけて読むことができます。
     はじめの四句は雨花台からの眺めです。初句の「大江 万山の中従り来たり」は長江を象徴的に捉えるもので、巴蜀の山々を抜けて東流することをいいます。実は応天府のあたりでは、長江は城の西側を北流しており、「鍾山」(紫金山)は城の東側にあります。鍾山が「独り西上し」というのは、長江に抗するものの存在をしめすのです。
     つぎの四句では古都の歴史に思いを馳せます。「江山」は長江と鍾山のことで、両者が拮抗している姿をあげ、秦の始皇帝の故事を持ちだします。始皇帝のとき金陵の地に天子の気が立ち昇っていると告げる者があり、始皇帝はその「佳気」(めでたい気)を封じこめました。しかし、天子の気は湧きつづけ、いまの世に南北統一の王都になったと洪武帝が都をおいたことを寿ぐのです。
     つぎの四句では一転して自分の心を見詰めます。「我が懐い 鬱塞 何に由ってか開かん」の「鬱塞」する憶いとはなんでしょうか。ここには高啓の本心が隠されていて、詩を読み解く鍵があります。『漢詩を読む』(平凡社)の著者宇野直人氏は「晩唐の李商隠の有名な詩が重なって来ます」といい、李商隠の「楽遊原に登る」をあげています。そして「わけのわからない心の悩みに急かされて、馬車を全速力で走らせて高台に登る、そこで彼を迎えたのは一面に広がる夕陽の光であった」(第四巻237頁)と指摘します。東流する長江に拮抗して立つ鍾山を張士誠の比喩と考えれば、張士誠の政権下、平江の有名詩人であった高啓は両勢力の狭間にあって悩むところが多かったのではないでしょうか。「坐ろに覚ゆ 蒼茫 万古の意」は楽遊原上の李商隠と重なる思いであって、応天府に仕えることになった高啓の微妙な心情がうかがえます。
     つぎの四句では再び歴史にもどり、三国時代に金陵に都をおいた呉の故事を三つあげます。まず三国魏の文帝曹丕(そうひ)が呉を攻めようとしたとき、長江の激しい流れに阻まれていったん兵を引いたことをいいます。ついで呉の予言者が「黄旗 洛に入る」、皇帝の旗が洛陽に入るといったのは何だったのかと疑問をさしはさみます。呉が北上して全国を制覇するという予言ですが、実際は魏に滅ぼされて呉王は洛陽に拉致されました。「鉄鎖」は戦国時代に秦が呉の地を攻めたとき、呉は長江に鉄鎖を張りめぐらして防ごうとしましたが役に立ちませんでした。そのように金陵が戦争によって幾度も破壊された不吉な街であることを指摘します。
     つぎの四句では、そのごも古都の周辺で戦争が繰り返されたことを強調します。「前三国」「後六朝」は一句を二分したもので、金陵には三国時代と南北朝時代に都がおかれましたが、その宮殿の跡はいまは草に埋もれて侘びしいかぎりであると詠います。元末においても英雄たちは勢いに乗じて要害に拠り、激しい戦がありました。兵士たちの血がいくたび長江の冷たい流れにまじって流れたことかと、戦争つづきの世を憂えます。
     最後の四句では一転して洪武帝を褒めたたえます。さいわいにも自分は「聖人」(洪武帝)が南国に台頭する時代に生まれあわせて、戦乱はなくなり、人々は安らぎを求めている。これからは中国が長江によって南北に分断されるような事態はないだろうと詠います。「聖人」は儒教最高の人格であり、「四海」は『論語』に「四海の内 皆 兄弟(けいてい)なり」とあるのに基づいています。儒教的な観点からの褒め言葉です。詩は暗喩によってさまざま隠蔽されていますが、朱元璋の明を信じきれない高啓の気持ちが滲みでています。高啓は重用されたにもかかわらず職を辞し、故郷に帰るのです。

     明5ー高啓 
       春日憶江上二首 其一    春日 江上を憶う二首 其の一

      一川流水半村花   一川(いっせん)の流水  半村(はんそん)の花
      旧屋南隣是釣家   旧屋(きゅうおく)の南隣  是(こ)れ釣家(ちょうか)
      長記帰篷載春酔   長(とこし)えに記す  帰篷(きほう)に春酔(しゅんすい)を載せ
      雲籠残照雨鳴沙   雲は残照(ざんしょう)を籠(こ)め  雨は沙(すな)に鳴る

      ⊂訳⊃
              広がる岸辺流れる川  村里のなかばを覆う春の花

              もといた家の南隣は  釣りする者の家だった

              私は決して忘れない  帰り舟での酔い心地

              沈む夕陽に雲は映え  雨は砂地を打って降る


     ⊂ものがたり⊃ 高啓は処刑されたために詩文は捨てられ、残された詩も多くは制昨年不明のものです。以下、それらの詩を掲げます。
     詩題の「江上」(こうじょう)は川のほとりの意味です。呉淞江岸の青邱に住んでいたころの春の思い出でしょう。平江の詩会の席で詩作の手本として披露されたものと推定されており、一句目と四句目に「句中対」(くちゅうつい)という技法が用いられています。一句が対句で構成されているもので、春の村里ののどかな風景が「一川の流水 半村の花」とリズミカルに描かれます。「一川」は川を挟んで広がる平らな土地のことで、「流水」が川です。二句目の「釣家」は漁師の家ですが、漁夫は隠者という意味にもなります。後半二句が忘れることのできない思い出で、「歸篷」は帰りの苫舟のこと。南隣の釣家と釣りにでかけたのでしょう。帰り舟での酔い心地、夕陽に映える雲や砂地を打って降る雨が忘れられないと句中対でリズミカルに詠います。

     明6ー高啓
         送呂卿             呂卿を送る

      遠汀斜日思悠悠   遠汀(えんてい)  斜日(しゃじつ)  思い悠悠(ゆうゆう)
      花払離觴柳払舟   花は離觴(りしょう)を払い      柳は舟を払う
      江北江南芳草徧   江北  江南  芳草(ほうそう)徧(あまね)く
      送君倂得送春愁   君を送って併(あわ)せ得たり  春を送るの愁い

      ⊂訳⊃
              遠くの汀  沈む夕陽  悩みは果てしない

              花びらは杯をかすめ  柳の枝は旅立つ舟をはらう

              長江の北も南も     若草で満ちあふれ

              君を送れば湧いてくる 過ぎゆく春の寂しさも


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「呂卿」(りょけい)は不詳、詩会の仲間かもしれません。その送別会の席で、高楼からの眺めと春の別れの心境を詠っています。この詩も二句目が句中対になっており、長大で力強い雑言古詩で名を馳せた高啓も、詩会などでは技巧をほどこした小粋な詩を披露していたようです。
     起承句は高殿からの眺め、夕暮れです。沈む夕陽が遠くの汀を照らしています。それを見ていると悩みは果てしありません。「悠悠」は『詩経』周南「関雎」の句を踏まえており、悩みがつきないことです。承句の近景はよく詠われる素材ですが、句中対でリズミカルにまとめています。「離觴」は別れの酒杯です。転句の「芳草」は春の若草、別れの悲しみの象徴としてよくもちいられる素材ですが、「江北江南」の句中対をかぶせて引き締めています。そして結句では、君を見送れば過ぎゆく春の寂しさも湧いてくると即興の味を効かせています。

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     明8ー高啓
       雨中臥二首          雨中臥二首  其の一

      牀隠屏風竹几斜   牀(しょう)は屏風(へいふう)に隠(よ)り  竹几(ちくき)斜めなり
      臥看新燕到貧家   臥(ふ)して看る  新燕(しんえん)の貧家(ひんか)に到るを
      居心上渾無事   閑居(かんきょ)  心上(しんじょう)  渾(す)べて事(こと)無く
      対雨唯憂損杏花   雨に対して唯(た)だ憂う  杏花(きょうか)を損(そこな)わんことを

      ⊂訳⊃
              寝床は屏風の陰にあり  竹の机は斜めに据えて

              飛んできた今年の燕を  寝ころんで眺めている

              閑居の身には    気にかかることもなく

              心配なのは杏の花  雨にうたれて傷みはせぬかと


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「雨中臥」(うちゅうかんが)は雨のふる日に閑居して寝そべっている詩の意味です。寝台は衝立に寄せて置き、「竹几斜めなり」は竹製の机が斜めになっていることでしょう。読書を怠けている、もしくは世をすねていることの喩えです。「貧家」は謙譲語で、渡り鳥の燕が飛んできたのを寝転んで眺めています。転結句は感懐で、気がかりなものはなく、心配なのは雨が杏の花を傷めはしないかということだけだ。心配なことがたくさんあるので、「心上 渾べて事無く」を強調するのでしょう。

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     明11ー于謙 
         詠石灰                石灰を詠ず

      千鎚万鑿出深山   千鎚万鑿(せんついばんさく)  深山(しんざん)より出(い)づ
      烈火焚焼若等閑   烈火の焚焼(ふんしょう)     等閑(とうかん)の若(ごと)し
      粉骨砕身渾不怕   粉骨砕身(ふんこつさいしん)  渾(すべ)て怕(おそ)れず
      要留清白在人間   要(かなら)ず清白(せいはく)を留めて  人間(じんかん)に在(あ)らしめん

      ⊂訳⊃
              叩かれ穿たれて  山の奥から掘りだされる

              炎に焼かれるが  気にしない

              粉骨砕身も     恐れることなく

              清く正しい姿で   この世にいつづけようではないか


     ⊂ものがたり⊃ 明建国の性格については歴史書によってもらいたいと思いますが、朱元璋政権の中枢は地主階級によって支えられ、伝統的な王朝復活への志向を持っていました。盟主の朱元璋だけが貧農の出身でしたので、洪武帝は内治をととのえると、自己への権力の集中にとりかかります。「古惟庸の獄」はそのはじまりです。つづく「藍玉の獄」によって建国の功臣のほとんどは粛清され、かわりに宗族の諸王が要所に分封されます。
     なかでも最大の勢力は燕王朱棣(しゅてい)でした。洪武帝は長子を皇太子に立てていましたが、皇太子が病没すると皇孫の朱允炆(しゅいんぶん)を皇位継承者に定めます。洪武三十一年(1398)に太祖洪武帝が七十一年の生涯を閉じると、二代皇帝朱允炆(恵帝)は叔父にあたる諸王の権力を削ごうとします。
     建文元年(1399)、燕王朱棣は北平府(北京市)で兵をあげ、内戦は四年間にわたってつづき、恵帝(建文帝ともいう)は応天府に火を放って自殺します。史上「靖難の変」と称される政変です。燕王朱棣は即位して永楽帝となり、翌年正月をもって永楽元年(1403)とします。つづいて五回にわたってモンゴルへ親征し、鄭和(ていわ)に命じて南海への大航海をおこない、巨大な通商国家をつくりあげます。
     国家体制がととのうなか、行政をになう文官の制度もととのい、進士出身の文官によって詩が作られるようになります。その詩は「台閣体」とよばれ、北宋初期の「西崑体」の亞流ともいうべき技巧本位のものでした。社会へ目をむける詩人があらわれのは、永楽帝の孫宣宗の時代になってからで、于謙(うけん)は詩人というよりも政事家として歴史に名をとどめています。
     于謙(1398―1457)は銭塘(浙江省杭州市)の人。恵帝の洪武三十一年(1398)、洪武帝の崩じた年に生まれました。若くして志高く、成祖の永楽十九年(1421)に二十四歳で進士に及第します。宣宗の宣徳元年(1428)八月、漢王李高煦の乱に際しては親征に従軍します。監察御史をへて宣徳五年(1430)に兵部右侍郎になり、河南や山西の巡撫として民臣の把握に努めました。英宗の正統十四年(1449)七月、モンゴル軍の侵攻に際し、王振(おうしん)の親征論に反対して獄に投じられますがほどなく釈放されます。「土木の変」が起こるや、景宗を擁立して難局を乗りきります。しかし、天順元年(1457)正月に「奪門の変」がおこり、英宗が復位すると、景宗擁立の罪を問われて処刑されました。享年六十歳です。
     詩は「石灰」(せっかい)を題材とした詠物詩です。永楽七年(1409)、十二歳のときに作った作品で、人生への抱負をのべます。はじめの二句で石灰岩が山から切りだされ、砕かれ炎に焼かれて真っ白な石灰になる過程を描きます。後半の二句はその石灰になぞらえて、たとえ自分は「粉骨碎身」されようとも、清く純白な姿をとどめて人の世を生きていくと覚悟をのべます。

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     明13ー沈周
        梔子花詩              梔子花の詩

      雪魄氷花涼気清   雪魄(せっぱく)の氷花(ひょうか)  涼気(りょうき)清らかなり
      曲欄深処艶神精   曲欄(きょくらん)  深き処(ところ)  艶(えん)にして神精(しんせい)
      一鉤新月風牽影   一鉤(いっこう)の新月  風  影を牽(ひ)き
      暗送嬌香入画庭   暗(あん)に嬌香(きょうこう)を送って  画庭(がてい)に入らしむ

      ⊂訳⊃
              雪のような白い花  さわやかで清々しい

              連なる欄干の奥に  精妙な姿で咲きほこる

              釣針のような新月  風は花影を揺りうごかし

              絵のような中庭に  よい香りを送りとどける


     ⊂ものがたり⊃ 宣宗が治世一年で崩じると、九歳の太子が即位して英宗になります。幼帝を囲んで次第に宦官が勢力を強め、王振(おうしん)が寵用されて司礼監太監になります。王振は交易のことでモンゴルと対立し、英宗の親征を強行、「土木の変」を引き起こします。英宗がモンゴルの捕虜となったのです。
     于謙は郕王(英宗の異母弟)を立てて景宗とし王振の一派を誅殺します。そしてモンゴル軍と戦いますが講和します。ところが、帰還してきた上皇英宗とわだかまりを生じ、やがて景宗が重病に罹ると、景泰八年(1457)正月、反于謙の宦官らはクーデターを起こし、英宗復位の挙にでました。景宗は病死し、于謙は捕らえられて死刑に処せられます。史上「奪門の変」とよばれる政変です。
     復位した英宗天順帝は実権を宦官に握られ、成すところなく在位七年で崩じ、皇太子朱見深(しゅけんしん)が即位して憲宗成化帝になります。憲宗の時代に万里の長城の修築が開始され、工事は百年間にわたってつづくことになるのです。
     華北で詩の不毛の時代がつづくなか、江南では市民による詩がつくりつづけられていました。都市や農村の富裕層が詩会などを通じて交流する催しがさかんになり、書画にも通じた文人が詩作の主な担い手でした。この時代の江南詩人に沈周(ちんしゅう)がいます。
     沈周(1427―1509)は長洲(江蘇省蘇州市)の人。宣宗の宣徳二年(1427)に生まれ、憲宗が即位した天順八年(1468)には三十八歳になっていました。賢良をもって推挙されますが出仕せず、郷里で生活します。詩文書画に才能を発揮し、なかでも画は唐寅・文徴明・仇英とならんで「明四家」と称されます。武宗の正徳四年(1509)になくなり、享年八十三歳です。
     詩題の「梔子花」(ししか)はくちなしの花のことです。「曲欄 深き処」、つまり屋敷の中庭の奥まったところに咲いている梔子の花を詠います。「雪魄」は雪の魂魄のことで、雪の精が舞い降りたような純白の花を咲かせているのです。見上げると空には釣針のように細い新月がかかり、夜風が吹いて、よい香りを「画庭」(山水画のように築かれた中庭)にゆき渡らせていると、巧みな比喩を駆使して繊細な詩情を詠いあげます。

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     明14ー李東陽
        游岳麓寺              岳麓寺に游ぶ

      危峰高瞰楚江干   危峰(きほう)  高く瞰(み)る  楚江(そこう)の干(ほとり)
      路在羊腸第幾盤   路は羊腸(ようちょう)  第幾盤(だいいくばん)にか在る
      万樹松杉双径合   万樹(ばんじゅ)の松杉(しょうさん)  双径(そうけい)合し
      四面風雨一僧寒   四面の風雨   一僧(いつそう)寒からん
      平沙浅草連天遠   平沙(へいさ)  浅草(せんそう)  天に連なって遠く
      落日孤城隔水看   落日(らくじつ)  孤城(こじょう)   水を隔てて看(み)る
      薊北湘南倶入眼   薊北(けいほく) 湘南(しょうなん) 倶(とも)に眼(まなこ)に入り
      鷓鴣声裏独凭欄   鷓鴣声裏(しゃこせいり)  独り欄(らん)に凭(よ)る

      ⊂訳⊃
              聳える峰  高みから湘江の岸辺をみおろす
              路はうねうねとつづき   何番目の曲がり角だろうか
              松や杉の繁る林のなか ふたつの径はあわさり
              一面の風雨のなかを   僧がひとり寒そうに歩いてきた
              平らな砂浜に連なる草  天の果てまでひろがり
              夕陽に映える城郭が   流れのむこうに望まれる
              北の燕京 湖南の故郷  ともに私の目の前にあり
              鷓鴣の声を聞きながら  ひとり欄干に寄りかかる


     ⊂ものがたり⊃ 憲宗即位の天順八年(1464)は明建国の洪武元年(1368)から数えておよそ百年です。その間、高啓なきあとの江南では詩は民間の趣味人のものとなり、河北では宮廷の知識人を中心に「台閣体」が行われていました。憲宗の時代になって宮廷の知識人に詩の不毛の時代を打破して本来の姿にもどそうとする動きがでてきます。その先駆者が李東陽(りとうよう)です。
     李東陽(1447―1516)は茶陵(湖南省)の人。英宗の正統十二年(1447)に北京で生まれます。茶陵は本貫の地で、早くから北京に住み、父親も高官でした。英宗の天順七年(1463)、憲宗即位の前年に十七歳で進士に及第し、要職を歴任します。
     憲宗の成化年間(1465―1487)から孝宗の弘治年間(1488―1505)に詩壇の指導的な地位にあり、「台閣体」の詩の改革を唱えます。その流派を出身地にちなんで「茶陵派」(さりょうは)といいます。官は礼部尚書兼文淵閣大学士に至り、武宗の正徳十一年(1516)になくなります。享年六十九歳です。
     詩題の「岳麓寺」(がくろくじ)は潭州(湖南省長沙市)にある名刹です。湘江左岸(西岸)の岳麓山上にあり、対岸に湘州城を望む地です。憲宗の成化八年(1472)、二十六歳のとき、父親とともにはじめて湖南の故郷に帰り、旅の感懐を詠いました。
     はじめ二句の「楚江」は湘江のことです。岳麓山の山路を幾曲がりしながら楚の川湘江の岸辺をみおろします。中四句のはじめ二句は岳麓寺についたところ。雨風のなか僧が寒そうに出迎えてくれました。つぎの二句は岳麓寺からの眺めです。湘江の「平沙浅草」が遠くまでつらなり、対岸には夕陽に映える湘州城(長沙城)が望まれます。
     最後の二句は結びの感懐です。都の「薊北」と「湘南」の故郷がともに目の前にあるような心地がして、心が引き裂かれたまま欄干に凭れて「鷓鴣」の鳴き声を聞いています。全体としてスケールの大きな風景を描いており、唐詩の趣を備えています。

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     明15ー李夢望
         秋 望               秋   望

      黄河水繞漢宮牆   黄河(こうが)   水は繞(めぐ)る  漢宮(かんきゅう)の牆(しょう)
      河上秋風雁幾行   河上(かじょう)  秋風(しゅうふう)  雁(がん)  幾行(いくこう)
      客子過濠追野馬   客子(かくし)   濠(ほり)を過ぎて野馬(やば)を追い
      将軍鞱箭射天狼   将軍  箭(や)を鞱(おさ)めて天狼(てんろう)を射る
      黄塵古渡迷飛挽   黄塵(こうじん)  古渡(こと)  飛挽(ひばん)迷い
      白月横空冷戦場   白月(はくげつ)  空(くう)を横ぎって戦場(せんじょう)冷(ひや)やかなり
      聞道朔方多勇略   聞道(きくなら)く  朔方(さくほう)   勇略(ゆうりゃく)多しと
      只今誰是郭汾陽   只(た)だ今  誰(たれ)か是(こ)れ  郭汾陽(かくふんよう)

      ⊂訳⊃
              黄河の水は  長安の城をめぐって流れ
              川面をわたる秋の風  南へかえる雁の群れ
              兵たちは濠を渡って  野生の馬を追い
              将軍は弓矢を携えて  天狼星を射ぬく
              黄砂の舞う渡し場で  荷役は慌ただしくうごき
              白い月は空を横切り  戦場を冷たく照らす
              朔北の地では昔から  勇ましい策戦がおこなわれた
              さて  今の世の郭将軍となるのは誰であろうか


     ⊂ものがたり⊃ 憲宗成化帝の時代に明は安定期を迎えました。成化二十三年(1487)八月、憲宗が在位二十四年で崩じると、皇太子が即位して孝宗弘治帝となります。孝宗は中興の英主とうたわれ、宦官の政事介入を排除して詩文も興隆の時代を迎えます。
     李東陽は杜甫を尊崇し、「台閣体」の詩を改革して茶陵派を形成しましたが、高官であったこともあり、詩風は穏健でした。茶陵派の穏健な詩風に反発して起こった文学革新運動が「古文辞派」(擬古派ともいいます)ですが、李東陽が唐代の詩を重んじる復古主義であった点では古文辞派の先駆者ともいえます。古文辞派は「文は必ず秦・漢、詩は必ず盛唐」と提唱し、李白・杜甫に代表される盛唐の詩を重んじました。
     古文辞派のうち憲宗の成化年間に生まれ、孝宗の時代からつぎの武宗の時代に活躍する詩人を「前七子」といいます。七子とは七人の詩人のことですが、その代表と目されるのは李夢陽(りぼうよう)と何景明です。
     李夢陽(1473ー1530)は慶陽(甘粛省慶陽県)の人。憲宗の成化九年(1473)に生まれ、孝宗の弘治六年(1493)、二十歳で進士に及第して戸部主事になります。剛直な性格で、しばしば権門の上司や同僚と対立し、下獄や免官をくりかえしました。官は江西提学副使にとどまり、世宗の嘉靖九年(1530)になくなります。享年五十八歳でした。
     詩題の「秋望」(しゅうぼう)は秋の眺めという意味です。杜甫に「春望」があるのを思わせますが内容は異なります。孝宗の弘治十三年(1500)、二十八歳のときに辺境守備の陣地を訪れ、宴会の席で披露した作品と思われます。はじめの二句で黄河の役割を大きく描きます。「漢宮」は長安の都をさすので、ここでの「黃河」は河套(オルドス)をめぐる黄河で、秋空を南へ飛んでいく雁の群れを描きます。
     中四句は辺塞の描写です。はじめ二句の「客子」は遠征の兵士のことで、城外に野生の馬を追って騎馬の訓練をしているのでしょう。将軍は弓矢を携えて「天狼を射る」、「天狼」は星の名で、異民族が攻めてくる兆しとされていました。それを射ぬくのですから異民族(ここではモンゴル)を討伐する意味になります。
     つぎの二句は前線の兵站をになう渡し場のようすです。「飛挽」は荷役の者が慌ただしく働いているようすで、夜になれば「白月」(明るく輝く月)が戦場を冷たく照らしています。結びの二句は励ましの言葉でしょう。「郭汾陽」は安史の乱のときに活躍した郭子儀(かくしぎ)のことで、功により汾陽郡王に封じられました。つまり誰が国を守る名将軍になるのかと期待をしめす結びであり、前途有為の若者の詩を思わせます。

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     明19ー何景明
         鰣 魚                鰣  魚

      五月鰣魚已至燕   五月  鰣魚(じぎょ)  已(すで)に燕(えん)に至り
      茘枝蘆橘未能先   茘枝(れいし)  蘆橘(ろきつ)  未(いま)だ能(よ)く先(さき)んぜず
      賜鮮遍及中璫第   鮮(せん)を賜(たも)うて遍(あまね)く及ぶ   中璫(ちゅうとう)の第(てい)
      薦熟応開寝廟筵   熟(じゅく)を薦(すす)めて応(まさ)に開くべし  寝廟(しんびょう)の筵(えん)
      白日風塵馳駅騎   白日(はくじつ)の風塵(ふうじん)に駅騎(えきき)馳(は)せ
      炎天冰雪護江船   炎天(えんてん)には氷雪(ひょうせつ)もて江船(こうせん)を護(まも)る
      銀鱗細骨堪憐汝   銀鱗(ぎんりん)  細骨(さいこつ)  汝(なんじ)を憐(あわ)れむに堪(た)えたり
      玉箸金盤敢望伝   玉箸(ぎょくちょ)  金盤(きんばん)  敢(あえ)て伝(つた)うるを望むとは

      ⊂訳⊃
              夏五月になると   鰣魚は都についている
              茘枝や金柑が   それにつづく
              新鮮な鰣魚は    宦官の邸に御下賜となるが
              新米や初物同様  まずは霊廟に供えるべきだ
              昼間の埃の中を  駅馬に積んではしり
              日照りのときは   氷や雪で冷やし船ではこぶ
              銀の鱗 細い骨   まことに可憐な魚であるのに
              玉の箸と金盤が   いまや遅しと待っている


     ⊂ものがたり⊃ 何景明(かけいめい:1483ー1521)は信陽(河南省信陽市)の人。憲宗の成化十九年(1482)に生まれ、孝宗の弘治十五年(1502)、二十歳で進士に及第します。李夢陽とならんで「李何」と併称されますが、のちに仲違いします。官は陝西提学副使にいたりますが、過労のために早逝しました。享年三十九歳です。
     詩題の「鰣魚」は江南に産する珍味で、初夏を旬とする高級魚です。このころ宦官の専横が激しく、宦官の贅沢を風刺します。二句ひとまとまりですすむ七言律詩で、はじめの二句は五月にはすでに鰣魚が「燕」(北京)についており、同じ江南の特産である「茘枝」や「蘆橘(ろきつ)」(金柑)よりも一足先にとどきます。
     つぎの二句では新鮮な鰣魚が「中璫の第」(宦官の邸)にとどけられます。「中璫」は冠の飾りに貂の尾と黄金の璫(耳珠)をつけていたことから宦官のことをいいます。そして、本来ならば「寝廟の筵」(先祖の霊廟)に「熟」(新米や初なりの果物)といっしょに真っ先に供えるべきものであるのだと批判します。
     つぎの二句は江南から鰣魚を運んでくる苦労を描きます。生ものであるので駅馬を乗りついで急送し、氷や雪で囲って運河を船で運ぶのです。結びは鰣魚への同情の言葉です。「銀鱗細骨」、姿も美しく可憐な魚ですが、宦官たちは「玉箸金盤」をならべていまや遅しと待ち構えていると、宦官の無慈悲をなじる社会詩です。

     明20ー何景明
        秋日雑興               秋日雑興

      柏林楓岸迥宜看   柏林(はくりん)   楓岸(ふうがん)  迥(はる)かにして看(み)るに宜(よろ)し
      楊柳芙蓉不禁寒   楊柳(ようりゅう)  芙蓉(ふよう)   寒(かん)に禁(た)えず
      最愛高楼好明月   最も愛す  高楼(こうろう)の好明月(こうめいげつ)
      莫教長笛倚闌干   長笛(ちょうてき)をして闌干(らんかん)に倚(よ)らしむること莫(なか)れ

      ⊂訳⊃  
              柏の林と楓の岸辺は   遠くからの眺めがよい

              楊柳と蓮の花もいいが  寒さに弱い

              何よりも好きなのは    高楼にかかる丸い月

              笛の上手なお隣さんに  おでまし願う必要はない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「雜興」(ざっきょう)は取りとめもなく胸にわく思いといった意味です。制昨年や詩作の背景は不明です。まず前半二句で遠景と近景、四つの植物をあげて好悪をのべます。柏と楓の林は遠景がよく、「看るに宜し」は承句にもかけて「楊柳」と「芙蓉」(蓮の花)もいいが、寒さに弱いと詠います。
     後半の二句は感想で、自分がもっとも心惹かれるのは高楼のうえにかかる秋の月、「長笛をして闌干に倚らしむること莫れ」と詠います。当時「長笛隣家」という四字熟語があって、隣の家で吹く長笛の音色は昔を懐かしむ気持ちを誘いだすという意味に用いられていました。したがってここでは、高楼の月を眺めれば充分であり、昔を懐かしむ笛の音はいらないと、機転を効かせてみせたのです。擬古派の詩人たちも絶句をつくるときは主張にこだわらず個性的な詩をつくったようです。(2016.6.23)

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     明21ー王守仁
         闕 題                闕  題

      金山一点大如拳   金山(きんざん)一点 大なること拳(こぶし)の如し
      打破維揚水底天   打破(だは)す  維揚(いよう)  水底(すいてい)の天(てん)
      酔倚妙高台上月   酔(よ)うて倚(よ)る   妙高台上(みょうこうだいじょう)の月
      玉簫吹徹洞龍眠   玉簫(ぎょくしょう)    吹徹(すいてつ)して  洞龍(どうりゅう)眠る

      ⊂訳⊃
              金山の遠景は一点  握り拳の大きさだ

              その金山が  長江の底をわって天に聳える

              酔い心地で  妙高台上の月を眺めていると

              簫の音は響き渡り  龍は洞窟で眠っている


     ⊂ものがたり⊃ 王守仁(おうしゅじん:1472ー1528)は余姚(浙江省余姚県)の人。陽明学の創始者「王陽明」として有名です。憲宗の成化八年(1472)に生まれ、父の王華(おうか)は成化十七年(1481)の科挙に状元(首席)で及第し南京吏部尚書に至りました。高級官僚の子として十歳のころから朱子学を学び、ひろく学問の世界を渉猟して南宋の思想家陸九淵(りくきゅうえん)の心学の影響をうけるようになります。
     孝宗の弘治十二年(1499)、二十八歳で進士に及第し流入しますが、宦官劉瑾(りゅうきん)に反対する運動に加わり、龍場(貴州省)の駅丞に左遷されます。この流謫の生活のなかで三年間思索をつづけ、三十七歳のときに「龍場の頓悟」に至り、朱子学の「性即理」を「心即理」に転換します。そのご劉瑾の失脚によって都に復帰し、巡撫として江西や福建の農民反乱を鎮圧します。
     武宗の正徳十四年(1519)に寧王李宸濠(りしんごう)の反乱を平定し、軍事的行政的な手腕によって南京兵部尚書に任ぜられ、官僚として充分な活動をしながら自己の新しい哲学を築きます。正徳十五年(1520)、四十九歳のときに人の心の本体を「良知」と規定し、人の行為が良知から離れるときに悪が生じると主張。ここから実践的な哲学である「知行合一」の思想が生まれます。
     王守仁は前七子の時代の自由な気風のなか、朱子学的な精神修養よりも内面の「良知・良心」の自然なあらわれを尊重し、実践こそが貴いと主張しました。詩人としてははじめ古文辞派に属していましたが、自己の新しい儒学を確立するにしたがって古文辞派の擬古主義にあきたらず、個性尊重の方向をうちだします。晩年に陽明洞に室を定めたことから王陽明と称され、世宗の嘉靖七年(1528)になくなりました。享年五十七歳でした。
     詩題に「闕題」(けつだい)とあり、もと無題であった作品に後人が注したものでしょう。十一歳のとき祖父に連れられて潤州(江蘇省鎮江市)の金山に遊んだときの作とされていますが、いずれにしろ若いころの作品です。「金山」は潤州の街の西北、長江の江心にあった海抜六十㍍の島です。島にある金山寺(通称)は江南屈指の巨刹でした。
     はじめの二句は金山の描写。「金山一点」については中唐の竇庠(とうしょう)の詩「金山寺」に「一点の青螺(せいら) 白浪の中」の句があります。金山も遠くからみると大きな拳のようだが、長江の底を割って天に聳えると豪快に詠います。「維揚」は揚州の別名で、そこを流れる長江も意味します。
     後半は金山にある「妙高台」(物見台の名)での感懐です。酔って台上の月を眺め、簫の音が流れるのを聞きますが、洞窟には龍が眠っているといいます。金山に白龍洞という洞窟があるのにかけた表現であり、自分を雌伏する龍に喩えて将来を期する心を詠っていると解釈できるでしょう。

     明22ー王守仁
       山中示諸生          山中にて諸生に示す

      渓辺坐流水     渓辺(けいへん)  流水(りゅうすい)に坐せば
      水流心共閑     水流(すいりゅう)  心と共に閑(かん)なり
      不知山月上     知らず  山月(さんげつ)の上るを
      松影落衣斑     松影(しょうえい)  衣(ころも)に落ちて斑(まだら)なり

      ⊂訳⊃
              谷川のほとり  流れをまえに静坐すれば

              水の流れは   心に和して静かである

              いつのまにか  山上に月が昇り

              松影は衣に落ちて  まだら模様になっている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題に「山中(さんちゅう)にて諸生に示す」とありますので、弟子たちにしめした作品でしょう。学者・思想家としての名も高まり、山中に道場を開いていたころの作と思われます。はじめの二句で谷川の流れをまえにして静坐していると、雑念を拭い去って静かな境地になると詠います。後半二句は詩的感興で、いつのまにか山上に月が昇り、松の木の影が衣に落ちてまだら模様を描いていると自然との合一を示唆します。禅的な境地をしめしており、擬古主義から抜けだした境地といえます。(2016.6.25)

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     明23ー唐寅
         散 歩               散   歩

      呉王城裏柳成畦   呉王(ごおう)の城裏(じょうり)  柳  畦(あぜ)を成(な)し
      斉女門前水拍堤   斉女(せいじょ)の門前(もんぜん)   水  堤を拍(う)つ
      売酒当壚人裊娜   売酒(ばいしゅ)  当壚(とうろ)  人  裊娜(じょうだ)
      落花流水路東西   落花(らくか)   流水(りゅうすい)  路  東西
      平頭衣襪和鞋試   平頭(へいとう)の衣襪(いべつ)    鞋(くつ)に和して試み
      弄舌鉤輈繞樹啼   弄舌(ろうぜつ)の鉤輈(こうちゅう)   樹を繞(めぐ)って啼く
      此是吾生行楽処   此れは是(こ)れ  吾(わ)が生(せい)  行楽(こうらく)の処(ところ)
      若為詩句不留題   若為(いかで)か詩句もて  題を留(とど)めざる

      ⊂訳⊃
              ここは呉王の都の跡  柳並木がつらなり
              斉女の家の門前には  水が岸辺を洗っている
              酒を売る声  一杯飲み屋  看板娘はたおやかで
              散る花びら  水の流れ   路は東西にのびている
              普段着に足袋をはき  藁靴で出かけてみると
              おしゃべりの鷓鴣が  樹のまわりで鳴いている
              この街こそが   人生を楽しく過ごせる場所
              どうして詩句を  書きのこさずにいられよう


     ⊂ものがたり⊃ 茶陵派というも古文辞派(擬古派)というも、それらは北京の朝廷に仕える官僚知識人の詩です。前七子と同時代に江南では在野の文人による詩がつくりつづけられていました。その代表的な詩人は唐寅(とういん)と文徴明です。ふたりは同じ年に蘇州城内の隣り合った県で生まれ、故郷を活躍の場としました。
     唐寅(1470―1523)は呉県(江蘇省蘇州市)の人。憲宗の成化六年(1470)に裕福な商家に生まれ、十代から才能を発揮します。十九歳で妻を娶りますが、二十代の前半に父母と妻をなくすという不幸にあいます。孝宗の弘治十一年(1498)、二十九歳のときに郷試の解元(首席)になりますが、試験問題の漏洩事件があり、かかわりを疑われて入牢します。郷試及第の資格も剥奪され、以後、文人として詩文書画に専念して生涯をすごしました。世宗の嘉靖二年(1523)になくなり、享年五十四歳です。
     詩題の「散歩」はいかにも在野的な題です。故郷の街を散策しながら見聞したことを詠い、蘇州讃美の詩です。はじめの二句で古都蘇州の由緒をかたります。「呉王」は春秋呉の王、呉王夫差が有名です。「斉女」は斉の国からきた女性で、春秋時代に呉が斉を破ったとき人質として若い娘が送られてきました。その斉女のために建てられた家の門前では川の波が岸辺を洗っていると、蘇州が古くから栄えた街であることを詠います。
     中四句のはじめ二句は散歩途中のスケッチです。「売酒」は酒の呼び売り、「当壚」は酒甕をおく板築の台のことで、酒屋を意味します。「裊娜」は若くてしなやかな女性の形容で、飲み屋の看板娘のことでしょう。つぎの句は落花の季節です。水路と街路が碁盤目にとおる街筋を描きます。つぎの二句は自分の散歩姿とまわりのようすです。「平頭」は平らな頭巾のことで召し使いなどの服装を意味し、「襪」は足袋、「鞋」は藁靴で、目立たない身なりで出かけたのです。すると樹のまわりで「弄舌鉤輈」が鳴いている。「鉤輈」は鷓鴣(しゃこ)の鳴き声を形容する擬音で、いかにも楽しそうな散歩の描写です。
     最後の二句は結びで、この街こそが「吾が生 行楽の処」とのべ、「若爲か詩句もて 題を留めざる」と詠います。故郷の街への愛情があふれる詩です。

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     明25ー文徴明
         閑 興                 閑   興

      酒闌客散小堂空   酒(さけ)闌(つ)き  客(かく)散(さん)じて  小堂(しょうどう)空(むな)し
      旋捲疎簾受晩風   旋(たちま)ち疎簾(それん)を捲(ま)いて  晩風(ばんぷう)を受く
      坐久忽驚涼影動   坐(ざ)久しくして忽(たちま)ち驚く  涼影(りょうえい)の動くに
      一痕新月在梧桐   一痕(いっこん)の新月(しんげつ)  梧桐(ごとう)に在り

      ⊂訳⊃
              酒はなくなり   客は帰り  部屋には誰もいなくなる

              廉を巻き上げ  夜風をいれる

              じっと坐っていると   爽やかな光の揺れにおどろく

              いま昇った新月が   桐の梢で光っていた


     ⊂ものがたり⊃ 文徴明(ぶんちょうめい:1470ー1559)は長洲(江蘇省蘇州市)の人。唐寅と同じ年に隣県(隣町に相当する)で生まれました。詩文書画にすぐれ、文人として重きをなします。世宗の嘉靖二年(1523)、五十四歳のとき、召されて翰林院待詔になりますが、三年で辞任して故郷にかえります。唐寅の死後、三十六年も長生きし、三十年以上にわたって呉中の詩壇の指導的立場にいました。世宗の嘉靖三十八年(1559)になくなり、享年九十歳でした。
     詩題の「閑興」(かんきょう)は静かなしんみりした感興という意味です。宴会が終わったあとの静かな思い、そのときふと遭遇した小さな光、自然との交流に心を動かすのです。はじめの二句で夜の宴会が終わったあとの寛いだ気分を詠います。夜風を部屋にいれながら、じっと坐って宴会の余韻を楽しんでいると、なにか爽やかな光の動くのが目にとまります。それはいま昇ったばかりの新月が「梧桐」(青桐の一種)の梢を明るく照らした光でした。

     明26ー文徴明
         太 湖                太   湖

      島嶼縦横一鏡中   島嶼(とうしょ)  縦横(じゅうおう)  一鏡(いっきょう)の中(うち)
      湿銀盤紫浸芙蓉   湿銀(しつぎん)  盤紫(ばんし)   芙蓉(ふよう)を浸(ひた)す
      誰能胸貯三万頃   誰か能(よ)く   胸に三万頃(けい)を貯(たくわ)えん
      我欲身遊七十峰   我れ身(みずか)ら七十峰(しちじっぽう)に遊ばんと欲す
      天遠洪濤翻日月   天遠くして  洪濤(こうとう)  日月(じつげつ)を翻(ひるがえ)し
      春寒沢国隠魚龍   春寒くして  沢国(たくこく)  魚龍(ぎょりゅう)を隠(かく)す
      中流彷彿聞鶏犬   中流  彷彿(ほうふつ)として鶏犬(けいけん)を聞く
      何処堪追范蠡蹤   何(いず)れの処か  范蠡(はんれい)の蹤(あと)を追うに堪(た)えんや

      ⊂訳⊃ 
              多くの島が  鏡のような太湖に浮かんでいる
              銀色の月影  赤茶色の岸が蓮の花と溶けあう
              広大な湖の夜景を  心の糧とできるのは誰か
              私は七十の島々を  自分で歩こうと思っている
              空は果てしなく広がり  波は日月を弄ぶかのようだ
              春はまだ肌寒く    魚類は湖の底に潜んでいる
              湖上であたかも    鶏犬の声を聞いたような気がした
              范蠡の後を慕って  私は何処へむかったらいいのか


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「太湖」(たいこ)は蘇州の西にある湖です。太湖のほとりで宴会があり、夜の舟遊びのあと披露した作品と思われます。固い語彙、引き締まった表現の七言律詩で、まず首聯の二句で月明りに照らされた太湖の眺めを詠います。「湿銀」は湖面に映った月の光のことで、潤んだ銀色です。「盤紫」の紫は赤茶色をいい、湖をめぐる岸辺の色です。それが岸辺につらなる「芙蓉」(蓮の花)と溶け合ってみえ、仄かな夜景です。
     頷聯では作者の志がのべられます。「三万頃」の頃は広さの単位で、太湖が広いことをいいます。誰がこの広い太湖の夜景を心の糧とすることができるだろうかと問い、つづく句でそれは自分だというのです。頚聯は遠景からはじまり、「洪濤 日月を翻し」と波の激しいことをいいます。時代の荒波を比喩しているのかもしれません。「沢国」は稔り豊かな国のことですが、ここでは太湖のことです。湖底に深く「魚龍」(魚類)を隠しているというのは、人材を蔵していることの比喩とも受けとれます。
     尾聯の「鶏犬を聞く」は『老子』にある古代の理想的な邑のことで、隠者にふさわしい世界でもあります。湖の「中流」で湧いてきた感想であり、太湖を隠者の棲むのにふさわしい場所というのでしょう。そして「何れの処か 范蠡の蹤を追うに堪えんや」と結びます。「范蠡」は春秋時代、越王勾踐の重臣として対呉戦争を勝利に導きました。そのあと越を辞して太湖のほとりに住んだという伝えもあり、范蠡の蹤を追うというのは隠者になるという意味になります。聞き入る人々に隠者を慕うポーズをしめしたのでしょう。(2016.6.30)

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     明27ー李攀龍
       寄元美二首 其二      元美に寄す 二首  其の二

      漁陽烽火暗西山   漁陽(ぎょよう)の烽火(ほうか)  西山(せいざん)に暗し
      一片征鴻海上還   一片(いっぺん)の征鴻(せいこう)  海上より還(かえ)る
      多少胡笳吹不転   多少(たしょう)の胡笳(こか)   吹いて転ぜざるに
      秋風先入薊門関   秋風(しゅうふう)  先(ま)ず入る  薊門関(けいもんかん)

      ⊂訳⊃
              漁陽の狼煙が  西山の上に黒く立ち昇っているとき

              一羽の渡鳥が  海上からはるばるとやってきた

              至る所の胡笳の曲  その音色が変わらないうちに

              秋風はひと足早く   居庸関に吹きわたる


     ⊂ものがたり⊃ 弘治十八年(1505)五月に孝宗が亡くなると、十四歳の皇太子朱厚照(しゅこうしょう)があとを継ぎ、武宗正徳帝の世となります。武宗は逸楽を好み奇行が多く、正徳五年(1510)に安化王の反乱をひき起こします。正徳十六年(1521)三月、三十一歳の若さでなくなり、孝宗の弟興献王の嗣子で十五歳の朱厚(しゅこうそう)が後嗣に立てられました。世宗嘉靖帝です。
     世宗は大学士楊廷和(ようていわ)をもちいて内治に努めますが、やがて道教に熱中するようになり、政務をかえりみなくなりました。嘉靖四十五年(1566)十二月、六十歳の世宗は不老長寿の丹薬の飲みすぎで崩じ、皇太子朱載尹(しゅさいこう)が即位して穆宗隆慶帝となります。
     穆宗は即位するや、隆慶元年(1567)に大学士張居正(ちょうきょせい)を起用して、武宗から世宗へと二代つづいた政事の乱れの立て直しに努めます。古文辞派の詩人で「後七子」とよばれる人々は武宗の後半から世宗のはじめにかけて生まれ、世宗の時代から穆宗・神宗の時代にかけて北京で活躍する詩人です。その代表と目されるのが李攀龍(りはんりゅう)と王世貞です。
     李攀龍(1514ー1570)は歴城(山東省済南市)の人。武宗の正徳九年(1514)に生まれ、家は貧しかったのですが詩歌を好みました。世宗の嘉靖二十三年(1544)、三十一歳で進士に及第し、官は陝西提学副使、河南按察使などを歴任します。前七子につづく世代として復古主義をとなえ、「前漢よりの文、天宝より後の詩に見るべきものは無い」と主張しました。盛唐の詩を尊重する『唐詩選』の選者として名高いのですが、最近の研究では誤伝とする説が有力です。穆宗の隆慶四年(1570)になくなり、享年五十七歳でした。
     詩題の「元美」(げんび)は詩友王世貞の字(あざな)で、「寄」は遠く離れた人に詩を贈ることです。王世貞が国境防衛軍の参謀として北の辺境に赴任したとき、都から贈った詩でしょう。はじめの二句で王世貞の着任を祝います。「漁陽」(河北省天津市付近)に「烽火」(のろし)が揚がるのは危険の報せです。そんなとき「一片の征鴻」は王世貞をさし、「海上」は海のほとりで、遠くから着任したことを意味します。この二句にはそれぞれ出典があり、白居易と張九齢の詩句を踏まえています。
     後半の「胡笳」は異民族の笛。それが「転ぜざるに」というのは、状況がかわらないという意味でしょう。「薊門関」は北京の北にある居庸関のことで、情勢がかわらないまま居庸関に秋風が吹きはじめたと任地の友を思いやるのです。

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     明31ー王世貞
        避暑山園             暑を山園に避く

      残杯移傍水辺亭   残杯(ざんぱい)  移し傍(そ)う  水辺(すいへん)の亭(てい)
      暑気衝人忽自醒   暑気(しょき)  人を衝(つ)いて  忽ち自(おのず)から醒(さ)む
      最喜樹頭風定後   最も喜ぶ    樹頭(じゅとう)   風(かぜ)定(さだ)まるの後(のち)
      半池零雨半池星   半池(はんち)の零雨(れいう)   半池の星

      ⊂訳⊃
              飲みかけの杯を持って  池のほとりの亭に移る

              ひどい暑さだ  酔いもたちまち醒めてしまう

              嬉しいのは   樹々の梢に夜風が吹いてはたとやみ

              池の半分に雨雫が落ち  もう半分に星影が映ること


     ⊂ものがたり⊃ 王世貞(おうせいてい:1526ー1590)は太倉(江蘇省太倉県)の人。世宗の嘉靖五年(1526)に生まれます。嘉靖二十六年(1546)、二十二歳で進士に及第し、山東副使、南京刑部尚書などを歴任します。李攀龍らとともに復古主義をとなえ、「文は必ず西漢(前漢)、詩は必ず盛唐。大暦以後の書は読む勿れ」と主張しました。
     李攀龍の死後は文壇の中心として影響力がありましたが、晩年にはやや主張を修正し、白居易や蘇軾に学びます。平淡な境地に至って神宗の万暦十八年(1590)になくなりました。享年六十五歳です。
     詩題の「山園」(さんえん)は山中の庭園のことです。山中の別荘に招かれたときの作品でしょう。はじめの二句で状況をのべます。「殘杯」は飲みかけの杯で、宴会の途中、杯をもったまま庭の池のほとりの亭へいったのでしょう。ひどい暑さで、酔いも醒めるほどです。
     後半は亭での体験です。庭の木の梢に風がさっと吹いて止んだ直後、池の半分に梢の雨雫が散り、もう半分に星の光が映っていて、なんともいえない涼しさでした。センスのある詩句ですが、結びの「半池の零雨 半池の星」は白居易の「暮江吟」にある「半江は瑟瑟 半江は紅なり」の句を踏まえており、そこが古文辞派の本領といえます。

     明32ー王世貞
       暮秋村居即時             暮秋 村居即時

      紫蟹黄鶏饞殺儂   紫蟹(しかい)   黄鶏(こうけい)  儂(われ)を饞殺(ざんさつ)す
      酔来頭脳任冬烘   酔来(すいらい)  頭脳(ずのう)  冬烘(とうこう)に任(まか)す
      農家別有農家語   農家には別に農家の語(ご)有り
      不在詩書礼楽中   詩書  礼楽(れいがく)の中(うち)に在らず

      ⊂訳⊃
              珍味の蟹や鶏が  わしの食欲をそそる

              酔うほどに  頭はぼんやりしてしまう

              農家には   農家なりの語らいがあり

              詩経や書経  礼楽にないものが存在する


    ⊂ものがたり⊃ 詩題の「即時」(そくじ)は即興の作という意味で、故郷に仮住まいしていた晩年の作でしょう。はじめに料理の名前が出てきます。「紫蟹」(赤茶色の蟹)と「黄鶏」(黄色の羽根のある鶏)は食欲をそそる食べ物であり、「饞殺」(食べ物をむさぼる)気持ちにさせます。「冬烘」は冬のかがり火のことですが、なんとなくほてる意味もあり、ここでは酔いで頭がぼんやりすることでしょう。「任」はそうなるのに任せるという意味で、役人の宴会と違って酔っぱらってもいい、ゆったりした気分で飲める会なのです。
     農家でご馳走になっているらしく、後半二句は農民との交際についての感想です。「農家には別に農家の語有り」の「語」は語り合いのことで、農家には農家なりの語らいがあると官吏の世界とは違った会話があることを指摘します。「詩書礼楽」は「詩経」「書経」「礼楽」といった儒教の規範のことで、農家にはそんなものにはない人情味のある語らいがあるのを褒めるのです。(2016.7.8)

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