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tiandaoの自由訳漢詩

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     南北朝56ー歌謠
       折楊柳歌              折楊柳歌

      健児須快馬     健児(けんじ)は須(すべか)らく快馬(かいば)なるべし
      快馬須健児     快馬は須らく健児なるべし
      駜跋黄塵下     駜跋(ひつばつ)たり  黄塵(こうじん)の下(もと)
      然後別雄雌     然(しか)る後(のち)に雄雌(ゆうし)を別(わか)つ

             ※ 三句目の 駜 は足偏に必です。
                外字になるので同音の字に変えました。

      ⊂訳⊃
              勇士には  駿馬がふさわしい

              駿馬には  勇士がふさわしい

              黄塵を蹴立てて馬を走らせれば

              勇士か臆病かの見分けはつく


     ⊂ものがたり⊃ この詩も「折楊柳歌」のひとつですが、内容は題名と関係がありません。題名は鼓角横吹曲の曲名を示すものでしょう。はじめに同語を並べ変えただけの素朴な対句が置かれており、対句の技法が北朝の歌謠に取り入れられていく形を示しています。
     騎馬を走らせて見れば、「雄雌」(勇士と臆病者)の区別はつくと、騎馬民族らしい気概を詠っています。

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     南北朝57ー歌謠
       隴頭歌            隴頭歌

      隴頭流水      隴頭(ろうとう)の流水(りゅうすい)
      流離山下      山下(さんか)に流離(りゅうり)す
      念吾一身      念(おも)う  吾(わ)れ一身
      飄然曠野      曠野(こうや)に飄然(ひょうぜん)たり

      朝発欣城      朝(あした)に欣城(きんじょう)を発し
      暮宿隴頭      暮(くれ)に隴頭(ろうとう)に宿る
      寒不能語      寒くして語(かた)る能(あた)わず
      舌巻入喉      舌(した)巻いて喉(のど)に入る

      隴頭流水      隴頭の流水
      鳴声嗚咽      鳴く声  嗚咽(おえつ)す
      遥望秦川      遥かに秦川(しんせん)を望めば
      心肝断絶      心肝(しんかん)  断絶(だんぜつ)す

      ⊂訳⊃
              隴山から流れ出る水は
              山の麓を流れ去る
              思えば  この身
              ひとり曠野にさすらう

              朝に欣城の街を出て
              夕べには隴山の麓に宿る
              寒くて物が言えず
              舌は喉まで巻き上がる

              隴山から流れ出る水は
              哀しげに咽び泣く
              遥かに関中を望むと
              腸も千切れるほどだ


     ⊂ものがたり⊃ 四言四句の歌三首が一連の主題を追って連なり、孤独の心情を詠っています。北朝の歌謠が南朝的な詩に転化していく姿が示されていると言えるでしょう。「隴頭」は隴山の麓もしくは隴阪(ろうはん:甘粛省甘谷県)を意味し、隴阪は越えるのに七日を要するほどの険路でした。
     第一首は自分を隴山から流れ出る水に喩え、流浪の身であることを詠います。二首目は朝、「欣城」(不明)を発って隴山の麓で一泊しますが、寒さで口も利けないほどです。「舌巻いて喉に入る」の喩えは素朴で真実味があります。
     三首目は、はじめに一首目の冒頭の句を繰り返し、二句目を流れの音に変えています。詩の技巧の向上が見て取れる部分です。「秦川」は秦の川の沿岸の土地という意味で、隴山から東、函谷関までの関中平野を指します。これから向かおうとする「秦川」の地を望むと「心肝 断絶す」と言っており、なにか苦しみを抱えているようです。

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     南北朝58ー歌謠
       敕勒歌         敕勒の歌

      敕勒川       敕勒(ちょくろく)の川
      陰山下       陰山(いんざん)の下(もと)
      天似穹廬      天は穹廬(きゅうろ)に似て
      籠蓋四野      四野(しや)を籠蓋(ろうがい)す
      天蒼蒼       天は蒼蒼(そうそう)たり
      野茫茫       野は茫茫(ぼうぼう)たり
      風吹草低      風吹き  草低(た)れ
      見牛羊       牛羊(ぎゅうよう)  見(あらわ)る

      ⊂訳⊃
              敕勒の民の水辺の土地
              遥かに連なる陰山の麓
              大空は穹廬のように
              大平原を覆い尽くす
              天空は蒼くひろがり
              平原はどこまでもつづく
              風が吹けば  靡く草
              牛や羊の群れが現れる


     ⊂ものがたり⊃ 「敕勒」は鮮卑敕勒族のことで、北斉の皇帝が士卒を激励するために敕勒族の民歌をトルコ系の武将斛律金(こくりつきん)に歌わせたという伝承があります。もと鮮卑語であったものを北斉の言葉に翻訳し、記録されたものと思われます。三言と四言の句が混じり合い、民歌の素朴な原形をとどめている歌謠です。
     「敕勒の川」は敕勒族が遊牧する草原をいい、川は水辺の土地のことです。その地は内蒙古自治区包頭市付近とされていますので、陰山山脈の南麓、黄河の大湾曲部の北になります。遊牧民の生活が誇らしげに詠われ、天を「穹廬」(パオ)に喩え、広々とした大草原とそこに吹く風、放牧の牛羊の群れを描いて爽やかです。


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     南北朝59ー陰鏗
       渡青草湖           青草湖を渡る

      洞庭青溜満     洞庭(どうてい)  青溜(せいりゅう)満ち
      平湖錦帆張     平湖(へいこ)   錦帆(きんぱん)張る
      阮水桃花色     阮水(げんすい) 桃花(とうか)の色
      湘流杜若香     湘流(しょうりゅう)  杜若(とじゃく)の香(かおり)
      穴去茅山近     穴は茅山(ぼうざん)を去ること近く
      江連巫峡長     江(こう)は巫峡(ふきょう)と連なって長し
      帯天澄廻碧     天を帯(お)びて廻碧(かいへき)澄み
      映日動浮光     日を映じて浮光(ふこう)動く
      行舟逗遠樹     行舟(こうしゅう)  遠樹(えんじゅ)に逗(とどま)り
      度鳥息危檣     度鳥(どちょう)   危檣(きしょう)に息(いこ)う
      滔滔不可測     滔滔(とうとう)として測(はか)る可(べ)からず
      一葦詎能航     一葦(いちい)  詎(なん)ぞ能(よ)く航(こう)せん

      ⊂訳⊃
              春の洞庭湖に  水は満ち
              帆を張って    湖上を走る
              阮水は  桃源郷の花の色
              湘水は  杜若の香を放つ
              洞窟には   仙境茅山の趣きがあり
              江の流れは  遥かな巫峡と連なる
              紺碧の水は  天空とまじわり
              日に映えて  波は煌めく
              舟は進むが  遠くの樹々はいつまでも遠く
              渡り鳥が    帆柱の上で羽をやすめる
              この広々とした果てしない湖を
              一艘の小舟で  どうして渡りきれようか


     ⊂ものがたり⊃ 陳王朝を建てた武帝陳覇先(ちんはせん)は南渡の漢人ではなく、土着の家の生まれでした。建国したとき五十五歳になっており、在位二年で亡くなり、兄の子の陳蒨(ちんせん)が位を継いで文帝になります。
     武帝が嶺南(広東地方)から連れて来た兵はならず者が多かったので、政権を取ると前朝の知識人を用いて政府を運用する必要がありました。陰鏗(いんこう)はそうした知識人のひとりです。陳の建国のとき四十八歳くらいであったと見られ、前朝の法曹参軍でした。
     詩題の「青草湖」(せいそうこ)は洞庭湖の東南部をさす名称でしたが、現在は陸化してなくなっています。中四聯の対句を前後の各二句で囲む形式で、はじめ二句の状況設定は喜びと勢いに満ちています。陳が湖南地方を制したときの頌詩と考えていいでしょう。
     中四聯の対句。まず「阮水」と「湘流」、洞庭湖にそそぐ二つの大江をあげて、川の美しさを讃えます。「杜若」は楚辞に頻出する香草で、岸辺を褒めるのでしょう。つづく二聯の対句は洞庭湖の広さと美しさを描いて、繊細かつ的確な叙景です。
     結びの「一葦」は一艘の小舟の意味です。広い洞庭湖は一艘の小舟では渡りきれない、天子の軍隊の力があってはじめて渡ることができると、頌詞で結びます。
     

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     南北朝60ー江総
       閨怨篇                  閨怨篇

      寂寂青楼大道辺   寂寂(せきせき)たる青楼(せいろう)  大道(だいどう)の辺(ほとり)
      紛紛白雪綺窗前   紛紛(ふんぷん)たる白雪(はくせつ)  綺窗(きそう)の前(まえ)
      池上鴛鴦不独自   池上(ちじょう)の鴛鴦(えんおう)   独自(どくじ)ならず
      帳中蘇合還空然   帳中(ちょうちゅう)の蘇合(そごう)  還(な)お空しく然ゆ
      屏風有意障明月   屏風(びょうぶ) 意(い)有りて  明月を障(さえぎ)り
      灯火無情照独眠   灯火(とうか)   情(じょう)無く  独眠(どくみん)を照らす
      遼西水凍春応少   遼西(りょうせい)  水(みず)凍って  春(はる)応(まさ)に少なかるべし
      薊北鴻来路幾千   薊北(けいほく)   鴻(がん)来たる  路(みち)幾千
      願君関山及早度   願わくは君  関山(かんざん)を早きに及んで度(わた)れ
      念妾桃李片時妍   念(おも)え  妾(しょう)が桃李(とうり)の片時(へんじ)妍(あでや)かなるを

      ⊂訳⊃
              大道の辺に  ひっそり立つ青い楼
              白い雪が   飾り窓の前で紛々と舞う
              池の鴛鴦は  いつも寄りそい
              帳の中で   蘇合は空しく燃えている
              屏風は気を使い 月の光をさえぎるが
              灯火は無常に   ひとり寝の私を照らす
              遼西の水は凍り  春らしい日はなく
              薊州の北の雁は 旅を重ねて飛んでくる
              お願いだから  関山を越えて早く帰って来てほしい
              私の美しさは  桃李のようにはかないのです


     ⊂ものがたり⊃ 陳が江南一円を制するのは天嘉五年(564)のことで、文帝の即位後五年を要しています。文帝が亡くなると、弟の陳頊(ちんぎょく)が兄の子を廃帝にして即位し、宣帝になります。
     陳の宣帝の末年、華北では大きな変化が起きていました。北周の武将楊堅(ようけん)が力を伸ばし、幼帝に迫って禅譲を受け、隋を創始したのです。隋建国の翌年は陳の太建十四年(582)にあたり、この年、陳の宣帝が亡くなり、太子の陳叔宝(ちんしゅくほう:後主)が後を継ぎます。ときに後主は三十歳でした。
     江総(こうそう)は陳の後主の尚書令として有名ですが、すでに梁のときに尚書僕射になっており、陳が建国したとき四十歳でした。陰鏗(いんこう)と同様二朝に仕え、後主が即位したときは六十五歳の尚書令でした。
     詩は題名が示すように閨怨詩で、遼西(遼寧省西部)に遠征している夫を思う若妻の嘆きを詠っています。遼西は北朝の領域ですので、話自体が架空です。五言詩が大勢であった南朝にあって、この詩は七言十句であるところに新しさがあります。
     はじめの二句は場の設定です。若妻は大道に面した「青楼」に住んでおり、窓外に雪が降っています。中四句は身辺の風物に寄せて空閨を嘆くもので、池の「鴛鴦」だってひとりではなく、寝間の「蘇合」(西域の香、数種の香料を混ぜて作る)も空しく燃えていると詠います。
     結びの四句では夫のいる遼西の冬の寒さを思い、便りを運ぶという雁でさえ、「薊北」(北京の北)から飛んで来るのにと嘆きます。そして、早く帰って来ないと、自分の美しさも衰えてしまうと訴えるのです。宮廷の遊びの詩で、宴会の座興に披露されたものでしょう。 

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     南北朝61ー陳後主
       玉樹後庭花             玉樹後庭花

      麗宇芳林対高閣   麗宇(れいう)  芳林(ほうりん)  高閣(こうかく)に対し
      新粧豔質本傾城   新粧(しんしょう)の豔質(れいしつ)は本(もと)より城を傾く
      映戸凝嬌乍不進   戸(と)に映り嬌(きょう)を凝(こ)らして乍(たちま)ち進まず
      出帳含態笑相迎   帳(とばり)を出(い)で態(たい)を含み  笑って相迎(あいむか)う
      妖姫臉似花含露   妖姫(ようき)の臉(かお)は花の露を含めるに似たり
      玉樹流光照後庭   玉樹(ぎょくじゅ)  流光(りゅうこう)  後庭(こうてい)を照らす

      ⊂訳⊃
              壮麗な宮殿  若葉の林  高殿に向かい合う
              化粧し立ての艶やかさ   国を傾ける美しさ
              戸に映った人影は  科をつくって立ち止まり
              帷帳から出ると    媚びを含んだ笑顔を見せる
              妖艷な宮女の顔は  露に濡れた花のようで
              月の光よ玉の樹よ  後宮の庭を照らしている


     ⊂ものがたり⊃ 陳の後主陳叔宝(ちんしゅくほう)は梁の元帝の承聖三年(553)に生まれていますので、陳の建国のとき五歳でした。父親の宣帝が国を整えている時期に二十代を過ごしていますので、生まれながらの天子と言っていいでしょう。
     北に隋という強大な国家が出現したので、その圧力の不安に堪えかねて享楽に走ったとする説もありますが、建国三世代目の皇帝として国都を華やかに飾り立てることに生きがいを見出していたという解釈もできます。
     陳叔宝は即位すると、宮中に幾つもの壮麗な宮殿を建て、日夜酒宴に明け暮れたといいます。尚書令の江総(こうそう)もいっしょになって詩を賦し、国政を顧みる者はいませんでした。
     後主の作と伝えられる「玉樹後庭花」(ぎょくじゅこうていか)は寵妃の容色を讃える詩で、自作を後宮の美女に歌わせて楽しんだといいます。七言六句の詩というのも異例で、七言の詩は江総に倣ったのでしょう。七言の句は五言よりも複雑な情緒を流暢に奏でることができる詩形です。
     「傾城」は傾城傾国(けいせいけいこく)の美女という意味ですから、陳の滅亡の運命を考えると笑って済ますことはできません。中二句は寵妃の妖艷な姿を詠うもので、頽廃の美がただよっています。
     隋の開皇八年(588)十月、文帝楊堅は陳国討伐の命令を下します。明けて九年正月元日、隋軍はいっせいに長江を渡り、十二日間の戦闘で建康城内に突入します。二十日には皇城が陥落し、後主陳叔宝は寵妃と宮中の井戸に隠れているところを見つけられ、捕えられて隋の都に連行されました。


          ◎ 本日をもって南北朝の詩を終了します。次回は
             一月一日から初唐の詩人たちを取り上げます。


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     初唐1ー魏徴
        述懐               述懐          (前半八句)

      中原還逐鹿     中原(ちゅうげん) 還(ま)た鹿を逐(お)い
      投筆事戎軒     筆を投じて戎軒(じゅうけん)を事(こと)とす
      縦横計不就     縦横(じゅうおう)  計  就(な)らざるも
      慷慨志猶存     慷慨(こうがい)   志  猶(な)お存す
      杖策謁天子     策(さく)を杖(つえつ)いて天子に謁(えつ)し
      駆馬出関門     馬を駆(か)って関門(かんもん)を出(い)づ
      請纓繋南粤     纓(えい)を請(こ)うて南粤(なんえつ)を繋ぎ
      憑軾下東藩     軾(しょく)に憑(よ)って東藩(とうはん)を下さん

      ⊂やく⊃
              中原に天下を争う世となり
              筆を捨てて    戦場に赴く
              弁論の計には  成功しなかったが
              国を思う志は  いまも抱いている
              鞭を手にして  天子に謁し
              馬を駆って   関門を出る
              軮を授かって  南粤の王を繋ぎ
              軾にもたれて  東方の藩を平定しよう

                   ※ 軮(むながい) 


     ⊂ものがたり⊃ 大業十四年(618)三月、隋の煬帝(ようだい)は江都(江蘇省揚州市)で部下の将軍に殺害され、隋は二代三十八年で滅亡します。そのころ長安を占領していた唐王李淵(りえん)は五月に帝位につき、元号を武徳と定めて唐を建国します。
     当時の唐は長安を中心とする関中平野を支配するだけの政権で、各地には群雄が割拠して覇を競っていました。河南で最大の勢力を有していたのは李密(りみつ)で、はじめ魏徴(ぎちょう)は李密の挙兵に参加して動乱に投じていました。
     李密が隋の江都軍と洛陽軍の挟み撃ちに遭って破れると、李密は唐に投じ、魏徴も李密に従って唐に赴きます。李密が唐に殺されると、唐を離れて河北の竇建徳(とうけんとく)の参謀になりますが、竇建徳も唐に滅ぼされたので、再び長安に行って唐に仕えました。
     「述懐」(じゅつかい)は『唐詩選』巻一、五言古詩の巻頭に掲げられ、唐代の詩のはじまりを告げる作品です。制作年については諸説がありますが、ここでは武徳八年(625)に山東の徐世勣(じょせいせき)の巡撫を命じられ、潼関(陝西省華陰県の東)を出たときの作とする説に従います。
     詩は四句ずつ五段に分けて読むことができ、はじめの四句は導入部です。自分の人生を振り返り、国家を思う気持ちは失っていないと詠います。「中原 還た鹿を逐い」は魏徴のこの詩によって有名であり、天下の覇権を競うことです。
     つぎの四句では、出発に際しての悲壮な決意を述べるために二つの故事を引用しています。「纓を請うて南粤を繋ぎ」は、漢の武帝の命を受けた終軍(しゅうぐん)が南粤王を説得に行く故事です。『漢書』によると終軍は王の帰順に成功しますが、反対する宰相呂嘉(ろか)が兵を挙げ、南粤王とともに殺されてしまいます。
     「軾に憑って東藩を下さん」は秦末に項羽と劉邦が争っていたとき、劉邦の謀士酈食其(れいいき)が斉王田広(でんこう)を説得に行ったときの故事です。酈食其は単身敵地に乗り込み、弁舌によって斉の七十余城を帰服させますが、その直後、別働隊の韓信が斉に攻め込んできたため、激怒した斉王は酈食其を大鍋で煮殺してしまいます。
     二つとも弁舌の士が事に成功するが、思わぬ事態のために殺されてしまう例であり、魏徴も同じような運命が待ち構えているかも知れないと思うのです。魏徴の使命も死の危険と隣り合わせ、弁舌による巡撫使でした。

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     初唐2ー魏徴
        述懐               述懐         (後半十二句)

      鬱紆陟高岫     鬱紆(うつう)として高岫(こうしゅう)に陟(のぼ)り
      出没望平原     出没(しゅつぼつ)して平原を望む
      古木鳴寒鳥     古木(こぼく)   寒鳥(かんちょう)鳴き
      空山啼夜猿     空山(くうざん)  夜猿(やえん)啼く
      既傷千里目     既(すで)に千里の目を傷(いた)ましめ
      還驚九逝魂     還(ま)た九逝(きゅうせい)の魂(こん)を驚かす
      豈不憚艱険     豈(あ)に艱険(かんけん)を憚(はばか)らざらんや
      深懐国士恩     深く国士(こくし)の恩を懐(おも)う
      季布無二諾     季布(きふ)は二諾(にだく)無く
      侯嬴重一言     侯嬴(こうえい)は一言(いちごん)を重んず
      人生感意気     人生  意気(いき)に感ず
      功名誰復論     功名  誰か復(ま)た論ぜん

      ⊂訳⊃
              曲がりくねった道を辿り  山に登れば
              遥か彼方に  平原が見え隠れする
              冬の鳥は   古木の上で寒々と鳴き
              夜の山中で  猿は悲しげに啼き叫ぶ
              遠く都を望めば  目は悲しみでくもり
              魂は一夜に  九回も故郷へ飛ぶ
              任務の険しさに立ち竦むが
              国士と見込まれた恩は  心に深く刻んでいる
              季布は約束を必ず実行し
              侯嬴は一言を重んじて命を捨てた
              人生  意気に感ず
              功名手柄は論ずるに足らず


     ⊂ものがたり⊃ 後半十二句のはじめ四句は、東へ向かう途中の山道の寂しい情景を描きます。「鬱紆」や「出没」は作者の心情の喩えにもなっています。つづく四句は前段を受けて不安や郷愁、心中の葛藤を述べます。
     「千里の目」は遠くを望み見ることであり、「九逝の魂」は一夜に九回も故郷へ飛ぶ夢をみることです。任務の困難を思うと立ち竦む思いですが、思い直して「国士の恩」に酬いたいと考えます。
     国士の恩は『史記』刺客列伝の豫譲(よじょう)の説話を踏まえるもので、豫譲は智伯(ちはく)の恩に酬いるために、智伯を殺した趙襄子(ちょうじょうし)の命をつけ狙い切りつけます。唐に抗した李密(りみつ)と竇建徳(とうけんとく)に仕えていた自分を用いてくれた高祖李淵(りえん)の恩に酬いたいという思いを述べるものでしょう。
     結びの四句では「季布」と「侯嬴」の故事を挙げ、自分も彼らに倣うつもりであると決意を述べます。二人とも『史記』に出てくる人物で、季布は項羽に仕えていましたが、項羽の死後、劉邦に重用され、約束を違えることのない人物として有名でした。
     侯嬴は戦国時代の魏の隠者で、魏の公子信陵君が秦に包囲されている趙を援けるために出陣するとき、戦略を授けました。そして、自分は年老いて従軍できないので命をはなむけにしますと言って自刎しました。主君に誠実な人物として挙げるもので、自分も彼らのように誠実でありたいと述べるものです。結びの二句は有名で、後世に箴言のように用いられていますので、ご存じの方も多いでしょう。
     唐の創業まもないこのころは新しい詩風は現れておらず、もっぱら南朝の宮体詩を追うものが一般的でした。魏徴の詩は時代に先駆けて突出しており、建安文学の風骨に勝るものがあります。乱世を生き抜いてきた魏徴の苦難に満ちた人生が、この秀作を生み出したと言っていいでしょう。

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     初唐3ー虞世南
        蝉                 蝉

      垂緌飲清露     緌(すい)を垂(た)れて清露(せいろ)を飲み
      流響出疏桐     響(ひび)きを流して疏桐(そとう)より出(い)づ
      居高声自遠     高きに居(お)りて声(こえ)自(おのず)から遠し
      是非藉秋風     是(こ)れ秋風(しゅうふう)を藉(か)るに非(あら)ず

      ⊂訳⊃
              蝉は嘴を伸ばして  清らかな露を飲み

              蝉の鳴き声は    桐の梢から流れ出る

              高い所にいるから  遠くまで届く

              秋風の力を借りて  届くのではない


     ⊂ものがたり⊃ 魏徴が東藩の説諭に出かけた翌年の武徳九年(626)六月四日早朝、長安で大事件が起きました。その朝、秦王李世民(りせいみん)は妻の兄の長孫無忌(ちょうそんむき)ら九人を率いて玄武門(宮城の北門)を押さえ、入朝して来た兄で太子の李健成(りけんせい)と弟の斉王李元吉(りげんきつ)を殺害しました。
     急を知って駆けつけた東宮府の兵を撃退し、高祖が避難していた海池(かいち)に勇将の尉遅敬徳(うっちけいとく)を差し向けて父親を拘束します。史上「玄武門の変」と言われるクーデターの発生です。李世民は「玄武門の変」三日後の六月七日に太子の位につき、二か月後の八月八日に父帝の譲りを受けて即位します。二十九歳の皇帝太宗の誕生です。
     太宗の即位翌年は改元されて貞観元年(627)になり、太宗の政事を「貞観(じょうかん)の治」といいます。房玄齢(ぼうげんれい)や杜如海(とじょかい)といった賢臣たちが太宗の政事を輔け、魏徴もそのひとりでした。太宗の名君振り、君臣の交わりは『貞観政要』にまとめられています。
     政事の安定とともに、宮廷では応制の詩や朝臣間の贈答の詩が作られるようになり、虞世南(ぐせいなん)もそのひとりです。虞世南(558ー638)は越州余姚(浙江省余姚県)の人。陳の武帝時代に江南で生まれ、陳が滅亡したとき三十二歳でした。隋に仕え、隋の滅亡後に唐に仕えて太宗のブレーン「十八学士」のひとりでした。
     虞世南の「蝉」は有名は詠物詩で、以後、蝉は詠物詩の代表的な主題になります。この詩では前半二句で蝉を描き、後半二句で寓意を説きます。「緌」は蝉の嘴が冠の紐のように垂れていることをいい、蝉は高い所に棲み露を飲んで生きていると信じられていましたので、高潔な人格に喩えられます。
     「疏桐」は高くて大きな桐のこと。高い木の上で鳴く蝉に託して、立派な人の名声は他人の力によって世に知られるのではなく、そのひと自身の力によると説き、自分もそのようにありたいと述べています。

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     初唐4ー虞世南
        春夜               春夜

      春苑月裴回     春苑(しゅんえん)  月(つき)裴回(はいかい)
      竹堂侵夜開     竹堂(ちくどう)    夜を侵(おか)して開く
      驚鳥排林度     驚鳥(きょうちょう) 林を排(ひら)いて度(わた)り
      風花隔水来     風花(ふうか)    水を隔てて来たる

      ⊂訳⊃
              春の庭に  月の光が満ちあふれ

              真夜中に  竹林の堂を出る

              林の鳥は  驚いて飛び立ち

              風に吹かれた花びらが  川を越えて飛んでくる


     ⊂ものがたり⊃ 詩中の「苑」は御苑と解すると宮中の庭になりますが、ここでは自宅の庭と解します。春の夜、月の美しさに誘われて思わず庭に出て歩きまわったのでしょう。後半の二句は対句になっており、動きのある瞬間を捉えています。
     貞観期の唐の宮廷では盛んに詩が作られていましたが、南朝の宮体詩の影響が強く、虞世南の五言四句の詩以外に見るべきものは残されていない言われています。貞観十二年(638)、虞世南は八十一歳の高齢で亡くなりました。

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     初唐5ー王積
       野望              野の望め

      東皐薄暮望     東皐(とうこう)  薄暮(はくぼ)に望み
      徙倚欲何依     徙倚(しい)     何(いず)くに依(よ)らんと欲する
      樹樹皆秋色     樹樹(じゅじゅ)  皆(み)な秋色(しゅうしょく)
      山山唯落暉     山山(さんさん)  唯(た)だ落暉(らくき)
      牧人駆犢返     牧人(ぼくじん)  犢(こうし)を駆(か)って返り
      猟馬帯禽帰     猟馬(りょうば)  禽(とり)を帯(お)びて帰る
      相顧無相識     相顧(あいかえり)みるに相識(そうしき)無く
      長歌懐采薇     長歌(ちょうか)して  采薇(さいび)を懐(おも)う

      ⊂訳⊃
              東の丘に登り  夕暮れの野原を眺める
              私はいったい  どこに身を寄せようとしているのか
              樹々はみな  秋の気配を帯び
              山はやがて  落日に映えて輝くだろう
              牧人は    子牛を追って家に帰り
              猟師は馬で  獲物を下げて帰る
              あたりを見まわすが  みな知らない人ばかり
              だから私は詩を吟じ  伯夷・叔斉を思うのだ


     ⊂ものがたり⊃ 貞観期の宮廷詩は南朝の宮体詩の影響の強いものでしたが、むしろ政事の世界を嫌って野に隠れた知識人の詩に新しい詩の芽生えが見られます。王積(おうせき)はそのひとりです。
     王積(585ー644)は絳州龍門(山西省河津県)の人。隋末の儒者王建(おうけん)の弟で、長じて隋に仕えましたが天下の乱れを嫌い、官を辞して故郷に帰りました。唐になると召し出されて門下省の侍詔になりますが、再び職を辞して黄河の近くに隠棲しました。
     王積の詩は五言律詩の初期の作例を示すものとして注目されています。中四句二組の対句を前後の二聯で囲む形式で、はじめの二句は場面の設定です。「東皐」(東の丘)に登って日暮れの野原を「望(なが)め」、拠り所の定まらない不安な心情を示します。
     中四句のはじめ二句は丘から見える秋の景色。つぎの二句は家路を急ぐ人々で、陶淵明の詩の影響があります。結びの二句は孤独感の表明であり、「采薇」は『史記』伯夷伝の伯夷・叔斉のことです。この故事の引用から王積が太宗の即位の在り方になじめないものを感じ、隠退を決意したのかも知れないという事情を窺うこともできるでしょう。

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     初唐6ー王積
       独坐              独り坐す

      問君樽酒外     君に問う  樽酒(そんしゅ)の外(そと)
      独坐更何須     独坐(どくざ)  更(さら)に何をか須(もち)いん
      有客談名理     客の名理(めいり)を談(だん)ずる有り
      無人索地租     人の地租(ちそ)を索(もと)むる無し
      三男婚令族     三男  令族(れいぞく)に婚(こん)し
      五女嫁賢夫     五女  賢夫(けんぷ)に嫁(か)す
      百年随分了     百年  分(ぶん)に随って了(おわ)る
      未羨陟方壺     未(いま)だ方壺(ほうこ)に陟(のぼ)るを羨(うらや)まず

      ⊂訳⊃
              ひとり坐して   酒さえ飲めれば
              ほかに何をか  求めることがあろう
              論理を語る   客はあっても
              地租を求める  役人は来ない
              三人の息子は  家柄の娘をもらい
              五人の娘は   勝れた夫に嫁入った
              分に従って    一生を終われば
              仙人の世界を  羨ましがることもない


     ⊂ものがたり⊃ 詩は五言律詩のおもむきを備えており、中四句二聯の対句を前後の二句で囲んでいます。内容的に陶淵明の影響が顕著であり、子女の婚姻に触れているのも隠遁者ならではの率直さです。
     結びの「百年」は一生の慣用の言い方であり、「方壺」は渤海の東にあるとされている島の名で、神仙の棲む世界と考えられていました。諧謔の奥に枯淡の境地を秘めた作品と思います。

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     初唐7ー上官儀
       入朝洛堤歩月     朝に入らんとして洛堤にて月に歩む

      脈脈広川流     脈脈(みゃくみゃく)として広川(こうせん)流る
      駆馬歴長洲     馬を駆(か)って長洲(ちょうしゅう)を歴(ふ)
      鵲飛山月曙     鵲(かささぎ)飛んで   山月(さんげつ)曙(あ)け
      蝉噪野風秋     蝉(せみ)噪(さわ)いで 野風(やふう)秋なり

      ⊂訳⊃
              どこまでも  流れる広い川

              馬に乗って  川原を過ぎる

              鵲が飛び   山に夜明けの月の影

              蝉が鳴き   野を吹く風に秋を知る


     ⊂ものがたり⊃ 貞観十七年(643)一月に魏徴が死んだころから、貞観の治に揺らぎが生じて来ます。太宗には皇后長孫氏とのあいだに三人の子がいましたが、長子の太子を廃嫡し、十六歳の李治(りち)を太子にします。
     貞観二十三年(649)二月、太宗は病に倒れ、長孫無忌・房玄齢・李世勣らに後事を託して亡くなりました。享年五十二歳です。二十二歳の太子李治が即位して高宗になります。
     高宗の治世三十四年のうち前半の十五年ほどは、前代の元勲たちの輔翼によって政事はおおむね平穏に推移しますが、高宗は凡庸な君主でした。やがて父太宗の才人(正五品の女官)であった武照(ぶしょう)を寵愛するようになり、永徽六年(655)皇后王氏を廃して武照を皇后にすえます。のちの則天武后です。
     武皇后は長安を嫌い、皇居を東都洛陽に遷し、そこで垂簾政事を行うようになります。上官儀(じょうかんぎ:608?ー664)は太宗・高宗に仕え、弘文館学士から西台侍郎に進みました。高宗時代には宮中の詩の指導者になり、その詩は後世「上官体」と称されます。
     詩題の「朝」(ちょう)は朝廷のことで、月明りのもと「洛堤」(洛水の堤)にそって騎馬で参内するときの詩ですので、皇居が洛陽に移ってからの作品になります。中国では役人は夜明けと共に宮門を入って勤務につくのが慣わしでした。
     洛陽城の中央を横切って洛水が東に流れ、宮城は流れの北の高台にあります。宮門の前には天津橋が架かっており、夜は鎖で閉ざされ通行禁止になっています。だから橋の手前の堤上で、鎖が解かれるのを待っているのです。
     詩は二組の対句からなり、前半は道ゆきを述べます。後半は橋の手前で待つ間、あたりの情景を描きます。「蝉」は高潔な人格の喩えですので、それが騒いでいるというのは武后の政治介入を批判する気持ちが隠されているとも考えられます。
      

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     初唐8ー郭震
       子夜春歌            子夜春歌

      陌頭楊柳枝     陌頭(はくとう)  楊柳(ようりゅう)の枝
      已被春風吹     已(すで)に春風(しゅんぷう)に吹かる
      妾心正断絶     妾(しょう)が心  正(まさ)に断絶(だんぜつ)す
      君懐那得知     君が懐(おも)い 那(なん)ぞ知るを得(え)ん

      ⊂訳⊃
              道のほとりの柳の枝も

              春風に吹かれて揺れている

              それを見ると  わたしの心はつぶれそう

              あなたの気持ちがわからないから


     ⊂ものがたり⊃ 郭震(かくしん)は生没年、経歴不詳ですが、南朝民歌風の詩を残しています。町娘になりかわって恋心を詠うもので、高宗時代の平和な雰囲気を伝えるものでしょう。
     平和と言っても高宗の時代、高句麗との戦争が十年以上もつづいていました。唐が新羅と連携して百済を滅ぼすと、倭(大和政権)は百済の再興を支援して水軍を派遣しました。龍朔三年(663)九月、唐と新羅の連合軍は白村口(白村江)で倭の水軍と戦い、全滅させます。
     翌麟徳元年(664)、武后が道士を宮中に出入りさせて厭勝(えんしょう)を行っているという噂が広がりました。怒った高宗は武后を廃位にしようとしますが、武后の知るとろとなり、事は頓挫します。
     このとき上官儀は高宗の命を受けて廃后の詔勅の起草をしていました。そのため陰謀の罪に問われて死刑に処せられ、家族は宮廷の奴隷に貶されます。
     

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     初唐9ー王勃
        詠風              風を詠む

      肅肅涼景生     肅肅(しゅくしゅく)として涼景(りょうけい)生じ
      加我林壑清     我(わ)が林壑(りんがく)に清きを加う
      駆煙尋礀戸     煙を駆(か)りて礀戸(かんこ)を尋ね
      巻霧出山楹     霧を巻いて山楹(さんえい)に出(い)づ
      去来固無跡     去来(きょらい)  固(もと)より跡(あと)無く
      動息如有情     動息(どうそく)  情(じょう)有るが如し
      日落山水静     日(ひ)落ちて山水(さんすい)静まり
      為君起松声     君が為に松声(しょうせい)を起こす

      ⊂訳⊃
              秋の気配は  厳しさを増し
              林や谷間は  いちだんと清らかになる
              靄を払って  風は谷間の家に吹き
              霧を巻いて  尾根に出る
              吹く風は    さまざまに姿を変え
              風に心が   あるように吹く
              日が落ちて  あたりが静かになると
              松風の音が  君の心を癒してくれる


     ⊂ものがたり⊃ 廃后事件によって太宗以来の旧臣の多くを流罪に処した武后は権力を強め、高宗は在って無きがごとき存在になります。宮廷では南朝風の詩が作られていましたが、新味のあるものはなく、むしろ宮廷の出世コースから外れた者の作品に新しい詩の芽生えがありました。
     王勃・煬炯・盧照粼・洛賓王は後世「初唐の四桀」と称されています。
     王勃(650?ー676?)は絳州龍門(山西省河津県)の人。隋末の儒者王建の孫で、高宗の永徽元年(650)ころに生まれました。若くして天才の誉れが高く、二十歳足らずで都に召され、沛王(はいおう)に仕えました。ところが、当時、宮廷で流行っていた闘鶏を批判して高宗の怒りを買い、追放されて蜀地を放浪するはめになります。
     今回掲げた詩は詠物詩の傑作として知られています。題に「風を詠む」とあるだけで、詩中に風という語はひとつも使わずに風の諸相を描き切っています。はじめの二句で秋の清涼さを詠って場を設定し、あとはすべて風のことです。
     五句目の「跡無く」は形のないものがさまざまに変化することで、その息づかいは風に心があるようだと詠います。詠物詩は宴会の席などで披露するものですから、蜀に追放される前の若いころの作品でしょう。

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     初唐10ー王勃
       送杜少府           杜少府の任に蜀 
       之任蜀川           川に之くを送る

      城闕輔三秦     城闕(じょうけつ)  三秦(さんしん)に輔(ほ)たり
      風煙望五津     風煙(ふうえん)  五津(ごしん)を望む
      与君離別意     君と離別(りべつ)の意(い)
      同是宦游人     同じく是(こ)れ宦游(かんゆう)の人
      海内存知己     海内(かいだい)に知己(ちき)存せば
      天涯若比粼     天涯(てんがい)も比隣(ひりん)の若(ごと)し
      無為在岐路     為(な)す無かれ  岐路(きろ)に在りて
      児女共霑巾     児女(じじょ)と共に巾(きん)を霑(うるお)すことを

      ⊂訳⊃
              長安の城は  関中を護って聳え
              雲煙の彼方  蜀地を望む
              君と同じく   私も宮仕えの身
              別れを惜しむ気持ちはよくわかる
              だが  天下に理解し合える友がいれば
              遠く離れて住もうとも隣人にひとしい
              岐路に立って  嘆くのはやめよう
              涙で巾を濡らすのは  めめしことだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「杜少府」(としょうふ)は杜という姓の県尉のことですが、経歴は不詳です。「蜀川」(しょくせん)は蜀地に西川と東川の別があり、蜀というのに同じです。蜀のどこかの県に尉となって赴任する友人を送る詩でしょう。
     「三秦」は項羽が秦を滅ぼしたとき、関中の地を三分して秦の三人の降将を封じました。そのことから関中(陝西省長安一帯)のことを「三秦」といいます。「五津」は蜀地を流れる岷江に五つの渡し場があったことから蜀の別称として用いたものです。
     五句目の「知己」は、自分のことを君の理解者だと言っているのであり、理解し合える友がいれば、地の果てに離れて住もうと隣近所にいるようなものだと励まします。王勃はこのとき、自分が蜀地に追放される身になるとは夢にも思っていませんでした。

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     初唐11ー王勃
        蜀中九日            蜀中九日

      九月九日望郷台   九月九日  望郷台(ぼうきょうだい)
      他席他郷送客杯   他席他郷  客を送る杯(はい)
      人情已厭南中苦   人情 已(すで)に厭(いと)う 南中(なんちゅう)の苦(く)
      鴻雁那従北地来   鴻雁(こうがん)那(なん)ぞ  北地(ほくち)より来たる

      ⊂訳⊃
              重陽の節句に  その名も望郷台

              他郷の宴席で  送別の酒を飲む

              南の土地に   わたしは飽いてしまったのに

              雁たちは     何で北から飛んでくるのか


     ⊂ものがたり⊃ 詩題に「蜀中」とあり、蜀に追放されてからの作品です。九月九日の重陽の節句に、誰かの送別宴に招かれたときの作品でしょう。「望郷台」という名の宴会の場所に望郷の思いをかけており、望郷台は玄武山にあったことが、のちに出てくる盧照粼(ろしょうりん)の詩で分かります。
     なお、この詩は七言絶句を思わせますが、このころはまだ絶句の形式は整っておらず、前後に二つの対句を並べています。 

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     初唐12ー王勃
       別薛華            薛華に別る

      送送多窮路     送り送れば窮路(きゅうろ)多く
      遑遑独問津     遑遑(こうこう)として  独り津(しん)を問う
      悲涼千里道     悲涼(ひりょう)   千里の道
      凄断百年身     凄断(せいだん)  百年の身
      心事同漂泊     心事(しんじ)    同じく漂泊(ひょうはく)
      生涯共苦辛     生涯(しょうがい) 共に苦辛(くしん)
      無論去与住     去ると住(とど)まるとを論ずること無かれ
      倶是夢中人     倶(とも)に是(こ)れ  夢中(むちゅう)の人

      ⊂訳⊃
              君を送ってここまで来たが  険しい道が多かった
              これからはひとりぼっちで  行くべき道を探さねばならぬ
              君は悲しくてつらい  千里の道
              私は寂しくて苦しい  生涯の身
              寄る辺ない心でさまよい歩き
              共に苦労の人生を送るであろう
              旅立つ者と留まる者  気にするのはやめにしよう
              夢の中ではお互いに  また会うことができるのだ


     ⊂ものがたり⊃ この詩も送別詩ですが、苦渋の色を湛えています。詩題の「薛華」(せっか)は親友と思われますが、経歴は不詳です。詩は中四句を前後の二句で囲む形式で五言律詩に通じる形式美を備えています。
     はじめの二句は導入部で、当時は親しい友が旅立つとき、なごりを惜しんで途中まで同行し、ある場所まで来ると最後の別れの宴をひらくならわしでした。「津を問う」は『論語』微子篇を踏まえており、行くべき道を問うことです。
     中四句、二組の対句は重要です。まず相手と自分、お互いの今後の境遇や心境を憂えます。つぎの二句の「心事」は心の中で思っていることで、共に「漂泊」(拠り所のない)苦労の多い人生を送るであろうと、悲観的な未来を予想します。送別の詩でこんなことを言うのは異例です。だから結びの二句では、気持ちを取り直すように、夢の中ではまた会えるのだからと慰めるのです。

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     初唐13ー王勃
         滕王閣              滕王閣

      滕王高閣臨江渚   滕王(とうおう)の高閣  江渚(こうしょ)に臨み
      佩玉鳴鸞罷歌舞   佩玉(はいぎょく) 鳴鸞(めいらん)  歌舞  罷(や)みぬ
      画棟朝飛南浦雲   画棟(がとう)    朝(あした)に飛ぶ南浦(なんぽ)の雲
      珠簾暮捲西山雨   珠簾(しゅれん)  暮(くれ)に捲(ま)く西山の雨
      ?雲潭影日悠悠   閑雲(かんうん)  潭影(たんえい)  日に悠悠(ゆうゆう)
      物換星移幾度秋   物(もの)換(か)わり星移りて幾度の秋ぞ
      閣中帝子今何在   閣中(かくちゅう)の帝子  今(いま)何(いずこ)にか在る
      檻外長江空自流   檻外(かんがい)の長江  空しく自(おのず)から流る

      ⊂訳⊃
              滕王の楼閣は  川の渚を見おろして立つ
              佩玉や鈴を鳴らして  集まった人の姿はない
              棟木の絵には  朝ごとに南浦の雲がただよい
              珠簾を巻けば  西山の日暮れの雨が望まれた
              流れゆく雲    淵の影  万物は日々に移ろい
              歳月は流れて  幾度の秋を迎えたことか
              楼閣に遊んだ天子の御子は  今いずこ
              欄干の向こうに大河の水が  ひとり空しく流れている


     ⊂ものがたり⊃ 王勃は蜀にいたとき、官の奴隷が罪を犯して逃亡したのを匿いましたが、そのことが発覚するのが恐くなり、殺してしまいます。罪により死刑になるところを、大赦によって赦されましたが、父親の王福畤(おうふくじ)は息子の罪に連座して交阯(コーチ:ベトナム・ハノイ付近)に流されてしまいます。
     赦されて獄を出た王勃は、高宗の上元二年(675)九月、父を訪ねて交阯に向かいます。その途中、洪州(江西省南昌市)に立ち寄り、重陽の節句に行われた「滕王閣」(とうおうかく)修復の祝宴に列席しました。
     詩はこのとき洪州都督の求めに応じて作ったものです。七言八句の詩は、当時はまだ珍しいものでした。滕王閣は高祖の二十二番目の子、滕王李元嬰(りげんえい)が洪州都督のときに建てたもので、洪州城の西門(章江門)の外、贛江(かんこう)東岸の高台に朱塗りの楼閣が建っていました。
     詩ははじめの四句で創建当時の滕王閣の栄華のようすを詠います。「佩玉 鳴鸞」は貴人の帯びる佩玉と車飾りの鸞鳥につけられた鈴のことで、貴人の往来で賑合ったさまを示し、それも今は止んだと詠います。
     つぎの一組の対句では、周囲の自然と融け合う滕王閣の美しさを幽玄に描きます。「南浦」(南の入江)は楚辞の用例から送別の地を意味しています。後半の四句は歳月の無常を詠うもので、月日の流れのなかでかつての栄華は失われ、欄干の向こうを贛江だけが空しく流れていると結びます。
     この詩は高官である洪州都督におもねるところがなく、「閣中の帝子 今何にか在る」と滕王すら突き放したような書き方になっています。王勃の屈折した感情を反映するものでしょう。王勃はこのあと旅をつづけ、船で南海(南シナ海)を渡る途中、海に落ちて死んだといいます。二十七歳の若さでした。 

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     初唐14ー楊炯
        従軍行              従軍行

      烽火照西京     烽火(ほうか)  西京(せいきょう)を照らし
      心中自不平     心中(しんちゅう)  自(おのず)から平(たい)らかならず
      牙璋辞鳳闕     牙璋(がしょう)  鳳闕(ほうけつ)を辞し
      鉄騎繞龍城     鉄騎(てっき)   龍城(りゅうじょう)を繞(めぐ)る
      雪暗凋旗画     雪暗くして旗画(きが)凋(しぼ)み
      風多雑鼓声     風多くして鼓声(こせい)を雑(まじ)う
      寧為百夫長     寧(むし)ろ百夫(ひゃっぷ)の長と為(な)らんも
      勝作一書生     一書生(いちしょせい)と作(な)るに勝(まさ)れり

      ⊂訳⊃
              長安の都に   烽火が届くと
              おのずから   心は奮い立つ
              割符を奉じて  宮城を辞し
              鉄甲の騎馬が  龍城を囲む
              雪は暗澹と舞って  旌旗は垂れ
              風は猋々と吹いて  太鼓の音とまじり合う
              たとえ  百人の長となろうとも
              書生となるよりは  まだましだ


     ⊂ものがたり⊃ 楊炯(ようけい:650ー695)は華州華陰(陝西省華陰県)の人。王勃と同じころに生まれ、十二歳のときに科挙の神童科に及第しました。二十七歳で校書郎になり、三十二歳のとき崇文館学士になります。
     高宗の時代は東に高句麗遠征を行うとともに、西にも兵を出し、顕慶二年(657)に西突厥を滅ぼしています。龍朔二年(663)には吐蕃を討ち、六月に吐谷渾を滅ぼしました。この年は百済の白村江で倭の水軍を破っていますので、唐は東西で戦っていたことになります。
     詩題の「従軍行」(じゅうぐんこう)は楽府題で、本来は出征兵士の苦労を嘆く民謡でした。その詩題に功名心に燃えて出陣しようとする兵士の気持ちを盛り込みました。詩中に「西京」とあるのは洛陽から見て西にある長安のことで、洛陽からの視線です。
     全体は漢代を借りており、変事を報せる烽火が都に届き、心が奮い立つとまず述べます。「牙璋」は軍の出動を命じる割符のことで、牙は本営を意味しますので将軍が携える牡契でしょう。「龍城」は漢代の匈奴の根拠地をいい、城があったわけではありません。
     つぎの二句は戦場のようすを描くものですが、様式化された表現であり、作者が戦場に行ったわけではないことを示しているでしょう。従って結びの二句も兵士を励ます言葉と考えるべきです。
     楊炯は時代に忠実な官吏でしたが、高宗没後の光宅元年(684)、李敬業(りけいぎょう)の挙兵があったとき、連座して梓州(四川省三台県)の司法参軍に左遷されます。のちに婺州盈川(浙江省衢県)の県令に移され、武后の証聖元年(695)に任地で亡くなりました。享年四十六歳です。

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