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tiandaoの自由訳漢詩

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     晩唐43ー韓偓
         曲江秋日              曲江秋日

      斜煙縷縷鷺鷥棲   斜煙(しゃえん)縷縷(るる)として  鷺鷥(ろし)棲(す)み
      藕葉枯香折野泥   藕葉(ぐうよう)香(こう)を枯らして  野泥(やでい)に折(お)る
      有箇高僧入図画   箇(こ)の高僧(こうそう)有りて    図画(とが)に入り
      把経吟立水塘西   経(きょう)を把(と)りて吟じ立つ   水塘(すいとう)の西

      ⊂訳⊃
              煙は細く斜めに伸び  白鷺が棲んでいる

              蓮の葉は枯れ  泥土の上で折れ曲がる

              溜池の西に   高僧が立って経巻を読む

              まるで一幅の  絵画のなかにいるように


     ⊂ものがたり⊃ 若いころ艷詩に興じた韓偓も、時代の激変に遭って変わらざるをえません。詩は滅びゆく唐の栄華の跡を詠い、寂しさに満ちかつ美しいものに一転します。
     詩題の「曲江」(きょくこう)は唐の華やかな時代の象徴です。秋の一日、曲江を訪ねると、農家の炊煙が細くたなびき、あたりは鷺の棲みかになっていました。曲江の池の蓮も枯れて、泥土のうえで折れ曲がっています。
     鄙びた「水塘」(溜池)の西の堤で、吟じるような声で経典を読んでいる僧がいました。その姿はまるで絵画のなかにいるように、あたりの寂しい風景にとけ込んでいました。曲江はもはや華やかな遊宴の場ではなくなっていました。 

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     晩唐44ー韓偓
         重遊曲江            重ねて曲江に遊ぶ

      鞭梢乱払暗傷情   鞭梢(べんしょう)乱れ払い  暗(あん)に情(じょう)を傷む
      蹤跡難尋露草青   蹤跡(しょうせき)尋ね難く  露草(ろそう)青し
      猶是玉輪曾輾処   猶(な)お是(こ)れ玉輪の曾(かつ)て輾(ひ)きし処(ところ)
      一泓秋水漲浮萍   一泓(いっこう)の秋水(しゅうすい)  浮萍(ふひょう)を漲(みなぎ)らす

      ⊂訳⊃
              小枝を払いつつ  ひそかに心は傷む

              露草は青く茂り  御幸の迹もわからない

              ここがかって    玉輪の通った場所なのか

              水溜りのような秋の池に  浮き草が満ちている


     ⊂ものがたり⊃ 再び「曲江」を訪れてみました。「鞭梢」は細く尖った枝先で、雑木が繁っています。「蹤跡」は足あと、行動の痕跡のことで、ここでは行幸をいいます。鳳輦の跡も見分けにくく、露草が茂っているだけです。「泓」は水溜り、「萍」は浮き草で、水溜りのような池の水面を浮き草が覆いつくしています。

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     晩唐45ー韓偓
        尤渓道中               尤渓道中

      水自潺潺日自斜   水は自(おのず)から潺潺(せんせん)  日は自から斜めなり
      尽無鶏犬有鳴鴉   尽(ことごと)く鶏犬(けいけん)無く鳴鴉(めいあ)有り
      千村万落如寒食   千村(せんそん)万落(ばんらく)  寒食(かんしょく)の如し
      不見人煙空見花   人煙(じんえん)を見ず  空(むな)しく花を見る

      ⊂訳⊃
              水はさらさらと流れ  日は西に傾く

              鶏や犬の姿はなく   鴉の鳴き声だけが聞こえる

              いずこの村も  寒食節のようだ

              炊煙は見えず  花だけが咲いている


     ⊂ものがたり⊃ 韓偓が唐の滅亡を耳にしたのは、流浪の旅の途中であったと思われます。唐がいずれ倒壊することは分かっていました。天祐四年(907)四月、朱全忠が梁(後梁)を建国すると、呉王銭鏐(せんきゅう)は五月に呉越国を建て、翌年を天宝元年と定めました。
     つづいて蜀王王建(おうけん)は九月に蜀国(前蜀)を建て、翌年を武成元年と定めます。福州(福建省福州市)の武威軍節度使王審知(おうしんち)は閩王に封じられ、梁の開平三年(909)四月に閩国を建てます。年号は梁の年号を用いました。
     梁と呉越・蜀・閩は同盟関係にあったと思われ、敵国は楊行密(ようこうみつ)の呉国です。そのご各国は興亡し、五代十国の分裂時代になります。
     詩題の「尤渓道中」(ゆうけいどうちゅう)は「沙県(しゃけん)より尤渓県に抵(いた)り 泉州の軍過ぎて後 村落皆空しきに値(あ)い 因って一絶(いちぜつ)有り」を縮めたものといいます。なお「此の後庚午(こうご)の年」の自注があり、後梁の開平四年(910)、閩の建国二年目ということになります。詩題中にある地名、沙県・尤渓県・泉州はともに福建省にありますので、福建を流浪していたときの作品でしょう。
     「潺潺」は水の流れる音。歳月や水の流れだけが何事もなかったように過ぎてゆき、村には鶏や犬の姿さえなく、鴉だけが鳴いています。泉州の軍隊が通過したからで、まるで「寒食」(寒食節)のようだと詠います。寒食節は清明節の前二日間、火を断ち煮炊きをしない習慣でした。村々は無人となって炊煙ものぼらず、花だけが空しく咲いていると詠います。 

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     晩唐46ー韓偓
         野塘                 野塘

      侵暁乗涼偶独来   暁(あかつき)を侵(おか)し  涼(りょう)に乗じて偶々(たまたま)独り来たる
      不因魚躍見萍開   魚(うお)の躍(おど)るに因(よ)らずして  萍(ひょう)の開くを見る
      捲荷忽被微風触   捲荷(けんか)   忽(たちま)ち微風(びふう)の触るるを被(こうむ)り
      瀉下清香露一杯   瀉(そそ)ぎ下す  清香(せいこう)の  露一杯(つゆいっぱい)

      ⊂訳⊃
              明け方の涼しさに誘われて  たまたま一人でやってきた

              魚が跳ねたのでもないのに  浮草が動いて水面が顔をだす

              朝の風がかすかに吹くと   蓮の花がゆれ

              爽やかな香りといっしょに   朝露がころげ落ちる


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「野塘」(やとう)は野の堤です。朝の散歩の途中、野原の池の堤で偶然目にした光景を詠います。「萍」は浮草。浮草が一面に池を覆っていて、なにかの拍子で動き水面が顔を出しました。「捲荷」は蓮の葉のくるっと捲いたもの、その葉がそよ風に揺れて葉の上の朝露がこぼれ落ちます。
     きわめて細やかな描写であり、すべてを棄てたあとの静謐な心境を反映するものでしょう。韓偓は朱全忠によって濮州司馬に左遷された翌年、昭宗の天復四年(904)に職を辞したあと、死ぬまでの十九年間、庶士として過ごしました。官職に右顧左眄することのない晩年であり、晩唐の最後を飾るのにふさわし詩人であると思います。

         ☆ 本日をもって晩唐を終了します。次回は4月21日(火)から
           「北宋の詩人たち」をはじめます。
            なお、厖大なブログのため、ローカルディスク(C:)の
           空き領域がわずかになり、ブログの一部を削除して空き
           領域を拡大しないとつづけられません。すでに、
              ・漢詩を楽しもう (1ー130) は削除しています。
            北宋をはじめる前に、魏晋と南北朝を削除しますので、
           ご了承ください。
              ・魏晋   (1568ー1638)
              ・南北朝 (1800ー1860)

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     号外
        北宋の代表的詩人「蘇軾」(蘇東坡) については、すでに生涯を
        取り扱っており、つぎのブログをご覧ください。
          
           ティェンタオの自由訳漢詩 1304-1450
                 平成24年(2012) 4月1日ー8月25日

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     北宋1ー李
       搗練子令 其一        搗練子令  其の一

      雲鬢乱         雲鬢(うんびん)   乱れ
      晩粧残         晩粧(ばんしょう)  残(ざん)す
      帯恨眉児遠岫攢   恨(うら)みを帯ぶる眉児(まゆ)は遠岫(えんしゅう)攢(ひそ)め
      斜託香顋春筍嫩   斜めに香顋(こうさい)を託して春筍(しゅんじゅん)嫩(わか)し
      為誰和涙倚欄干   誰(た)が為にか涙と和(とも)に  欄干(らんかん)に倚(よ)る

      ⊂訳⊃
              豊かな髪はみだれ
              夜の化粧もくずれている
              恨みを秘めた眉は  遠くの峰のようにしかめられ
              頬に添えた指は   春の筍のように柔らかそうだ
              一体誰のために涙にくれて  欄干に凭れているのか


     ⊂ものがたり⊃ 唐の滅亡後、五代十国の分裂時代が五十三年間つづきます。五代は華北に起こった五つの王朝をいいますが、その五番目の王朝周(後周)の皇帝世宗(柴栄)は五代きっての名君と称せられます。だが、在位五年半、三十九歳の若さで亡くなります。
     後周の殿前都点検・帰徳軍節度使趙匡胤(ちょうきょういん)は世宗の有力武将で、顕徳七年(960)正月、配下の将兵に擁立されて宋(北宋)を建国し、年号を建隆に改めます。太祖趙匡胤は中華統一の軍をすすめ、開宝八年(975)に江南の富裕国南唐を滅ぼします。
     李(りいく:937ー978)は南唐最後の天子です。二十五歳で即位し、滅ぼされたときは三十九歳でした。宋軍に捕らえられた李は宋都汴京(べんけい:河南省開封市)に連行され、違命侯の称号をあたえられて抑留生活を送りました。三年後の太平興国三年(978)に宋都で亡くなり、享年四十二歳でした。
     詩題の「搗練子」(とうれんし)は練り絹を搗くという意味で、歌詞をつけて歌うための令(曲)です。一見して宮女の嘆きを詠う閨怨詩のように見えますが、実は美人画の内容を描く画題詩です。南朝時代に成立した画題詩が、ここでは詞となり、晩唐の温庭筠(おんていいん:平成27.1.28-2.4のブログ参照)の艷詞に似た趣を呈しています。
     絵は眠れないまま夜中に欄干にでて、憂わしげに佇む女性を描いたもので、結い上げた髪はみだれ、化粧もくずれています。眉をひそめ、指を斜めに頬にあてて涙ぐんでいるようすを「誰が為にか涙と和に 欄干に倚る」と問いかけて結びとします。

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     北宋2ー李
       搗練子令 其二        搗練子令  其の二

      深院静          深院(しんいん)  静かにして
      小庭空          小庭(しょうてい)  空(むな)し
      断続寒砧断続風   断続(だんぞく)の寒砧(かんちん)  断続の風
      無奈夜長人不寝   奈(いか)んともする無し夜(よる)長くして人寝(い)ねず
      数声和月到簾櫳   数声(すうせい)  月と和(とも)に  簾櫳(れんろう)に到る

      ⊂訳⊃
              奥の座敷は静まりかえり
              小さな庭には人影もない
              とぎれとぎれの砧の音  吹く風の息づかい
              どうしたらいいの     長い夜を眠れずに
              月の明りと寂しい音が  ともに窓辺におりてくる


     ⊂ものがたり⊃ 其の二の詞は美人画の画面からさらに想像をふくらませて、絵からは聞こえるはずのない音を描写します。「深院」は庭の奥の部屋、絵の舞台であり、女性の部屋です。「小庭 空し」は庭にひとけがないことで、女性を訪ねて来る人がいません。砧の音がとぎれとぎれに聞こえてくるだけです。
     四句目と五句目は女性の嘆きの声であり、秋の夜長を眠ることができず、寂しい音が月の光といっしょに窓辺を訪れるだけだと、思う人の来ないのを悲しむのです。

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     北宋3ー李
         虞美人                虞美人

      春花秋月何時了    春花(しゅんか)  秋月(しゅうげつ)  何(いず)れの時にか了(おわ)らん
      往時知多少       往時(おうじ)  知(し)んぬ  多少(たしょう)ぞ
      小楼昨夜又東風    小楼  昨夜  又(ま)た東風(とうふう)
      故国不堪回首月明中 故国  首(こうべ)を回(めぐ)らすに堪えず  月明(げつめい)の中(うち)

      雕欄玉砌依然在    雕欄(ちょうらん)  玉砌(ぎょくせい)  依然(いぜん)として在り
      只是朱顔改       只(た)だ是(こ)れ 朱顔(しゅがん)のみ改まる
      問君都有幾多愁    君(きみ)に問う   都(すべ)て幾多の愁い有りやと
      恰似一江春水向東流 恰(あたか)も似たり  一江(いっこう)の春水(しゅんすい)の東に向かって流るるに

      ⊂訳⊃
              春の花や秋の月は  変わることなくつづいていく
              私はこれまで  どれほどの経験をしたことか
              小さな高楼に  昨夜また東の風が吹き
              月明りのなか  故国をふりかえるのは辛いことだ

              豪華な欄干玉の階  宮殿はいまもそのままあるだろう
              変わり果てたのは  若かったかつての私の容貌だけだ
              お前はいったい  どれほどの悲しみを抱えているのか
              それはあたかも  長江の春水が東へ流れつづけるのに似ている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「虞美人」(ぐびじん)は曲名で、項羽の寵妃虞美人の故事を歌った歌曲です。詞は上片と下片に分かれ、同じ曲で歌います。注目すべきは、上片で「往時 知んぬ 多少ぞ」と作者自身がこれまでに経験したことはどれくらいであったろうか、いろいろなことがあったと自分のことを回想していることです。そして「首を回らすに堪えず」と、滅んでしまった故国南唐のこと、つまりみずからの亡国の嘆きを詞にしていることです。
     下片のはじめ二句では唐都金陵の豪華な宮殿はいまもそのまま残っているだろうか、私の「朱顔」(若々しい容貌)だけがこのように変わり果ててしまったと顧みます。最後の二句は自問自答で、自分が抱え込んでしまった悲しみを春になって水かさの増した長江が東へ東へと流れつづけるのに喩えます。
     閨怨詩にしろ艷詞にしろ、これまでは男性が女性になりかわって詠う想像の詩でした。それが李の詞では自分自身の運命への嘆きに変化しています。このことは詞の主題が一歩前に進んだことを意味しています。

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     北宋4ー李
        浪淘沙令             浪淘沙令

      簾外雨潺潺      簾外(れんがい)  雨  潺潺(せんせん)
      春意闌珊        春意(しゅんい)  闌珊(らんさん)たり
      羅衾不耐五更寒   羅衾(らきん)は耐えず 五更(ごこう)の寒きに
      夢裡不知身是客   夢裡(むり)に    身は是(こ)れ客(かく)なるを知らずして
      一晌食歓        一晌(いっしょう)  歓(かん)を食(むさぼ)る

      独自莫凭闌      独り自(みずか)ら闌(おばしま)に凭(よ)る莫(なか)れ
      無限江山        限り無き江山(こうざん)
      別時容易見時難   別るる時は容易にして見(まみ)ゆる時は難(かた)し
      流水落花帰去也   流水(りゅうすい)  落花(らっか)  帰り去(ゆ)くなり
      天上人間        天上(てんじょう)  人間(じんかん)

      ⊂訳⊃
              簾の外で  雨はしとしとと降りつづけ
              春の趣は  やがて尽き果て消えていく
              薄絹の布団は  明け方の寒さに耐えず
              夢の中で  旅にある身を忘れ
              ひと時の  楽しい思いに耽っていた

              欄干に  ひとりで身を寄せるのはよそう
              どこまでもつづく   山と川
              人生に別れは多く  出会いのときは少ない
              流れる水よ  散る花びらよ  どこへ行ってしまったのか
              天上界と人間界   その大きなへだたり


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「浪淘沙」(ろうとうさ)は川の波が砂を選り分けるという意味の民謡で、中唐のころから好まれている曲(令)です。その曲を用いて幽閉生活の嘆きを詠います。
     上片は雨の降る晩春の夜、「五更」(午前四時ごろ)の寒さにめざめ、夢のなかでかつての楽しかったころを思い出したのですが、それも「一晌」(短い時間)のことであったと嘆きます。下片は自分自身へ言い聞かせているもので、人生への諦め、救いのない無常感が詠われます。結びの「天上 人間」は天上界と人間界のへだたりの大きさをさしており、もうすべては終わりだと諦めるのです。
     この詞は李が宋都汴京に抑留されていたときの最後の作品とされ、宋代はじめにつくられました。しかし、李は五代十国末、後唐の皇帝であり、厳密には宋の詩人とは言えないでしょう。五代十国はおおむね武人の支配する国であり、詩文は衰退していました。そのなかで、後唐の三代目皇帝李だけが後世に認められる詞を残しました。

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     北宋5ー柳開
         塞上               塞上

      鳴骹直上一千尺   鳴骹(めいこう)  直(ただ)ちに上る一千尺
      天静無風声更乾   天静かに風無く  声  更に乾く
      碧眼胡児三百騎   碧眼(へきがん)の胡児(こじ)  三百騎
      尽提金勒向雲看   尽(ことごと)く金勒(きんろく)を提(ひきし)めて雲に向かって看(み)る

      ⊂訳⊃
              鏑矢が一千尺の高みに上ると

              空は静か  風もなく  乾いた矢音が鳴りわたる

              碧眼の胡兵三百騎は

              馬の銜を引きしめて  雲のかなたを振り仰ぐ


     ⊂ものがたり⊃ 宋の太祖趙匡胤は、五代の王朝が短命に終始したのは武力を持った節度使の存在にあることを知りつくしていました。だから節度使の兵権を削って禁軍(皇帝の親衛軍)の強化をはかり、あわせて中央の官制をととのえていきます。
     隋唐の科挙を復活し、中央の官職のほとんどに文官を用い、中央集権的な文治体制をととのえていきます。省試の上に天子みずから合否を判定する殿試を追加し、進士とのつながりを強化します。ついで太宗は科挙の合格枠を拡大し、科挙文官が宋の政事をになうようになります。
     進士をめざす知識人は詩作を学ぶことになりますが、宋代初期の詩は唐代に倣うものがほとんどでした。そんななか柳開(りゅうかい)と王禹偁が独自性を示します。
     柳開(947ー1000)は大名(河北省大名県)の人。五代後漢の天福二年(947)に生まれ、宋建国の建隆元年(960)に十四歳でした。太祖の開宝六年(973)、二十七歳で進士に及第しますが官歴は不明です。
     柳開は中唐の韓愈らの古文復興運動に感銘し、古文の復興を提唱します。しかし、当時の文壇ではまだその機が熟しておらず、古文復興の機運がたかまるのは死後二十余年たった仁宗の世になってからです。柳開は北宋における古文復興運動の先駆者と称されますが、本人は夢を果たせないまま真宗の咸平三年(1000)、孤独のうちに亡くなります。享年五十四歳です。
     詩題の「塞上」(さいじょう)は砦のほとり。太祖は南唐を征した翌年、開宝九年(976)に北漢攻撃の軍を起こします。ときに柳開は三十歳でした。詩はこのときに作られた可能性がありますが、制昨年は不明です。「鳴骹」(鏑矢)は北方騎馬民族の通信手段で、胡族が砦の空高く開戦の合図の矢を放つと碧眼の胡兵は馬の銜を引きしめて空を見上げると戦闘開始の場面を詠います。
     唐代の辺塞詩に似ていますが、詠っているのは敵方の状況です。戦闘開始の緊張感に詩を感じた作品と思われますが、このときの北漢攻撃は太祖の崩御によって先送りになりました。

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     北宋6ー王禹偁
       畬田詞五首 其一       畬田の詞 五首  其の一

      大家斉力劚孱顔   大家(たいか)  力を斉(ひと)しくして孱顔(せんがん)を劚(き)る
      耳聴田歌手莫   耳に田歌(でんか)を聴き  手に(いとま)莫(な)し
      各願種成千百索   各々(おのおの)願わくは  種(う)えて千百索(せんひゃくさく)を成し
      豆萁禾穂満青山   豆萁(とうき)   禾穂(かすい)  青山(せいざん)に満つることを

      ⊂訳⊃
              みなさんは  力を合わせて山の斜面を切りひらく

              民謡を歌いつつ  手は休みなく動いている

              皆の願いは  広い畑を作ること

              豆や穀物が  山いっぱいに稔ること


     ⊂ものがたり⊃ 王禹偁(おううしょう:954ー1001)は済州鉅野(山東省鉅野県)の人。農家に生まれ、宋の建国のとき七歳でした。太宗の太平興国八年(983)、三十歳で進士に及第します。王禹偁は農民身分から進士に及第し、政府高官になりました。こうした例は唐代にはみられなかったことで、宋代の官吏任用の新しさを体現する人物といえます。
     累進して礼部員外郎・知制誥になりますが、直言して宰相と衝突し、三度も左遷されます。最後は靳州(きんしゅう:湖北省)に移され、真宗の咸平四年(1001)に配地で亡くなりました。享年四十八歳です。
     詩題の「畬田」(しゃでん)は焼き畑農業のことで、「詞」とありますが七言絶句です。このころ王禹偁は左遷されて商州(陝西省商県)にあり、禅寺に住んでいました。その地で焼き畑農業をみて農家の働き振りを賞讃します。
     「大家」は呼びかけの言葉で、「皆さん」と農家の人々に呼びかけます。「孱顔」は山が険しくそそり立つさま。農民が協力し合って山腹を切りひらき焼き畑をつくっています。後半は働く農民の気持ちを推しはかりながら励ましの言葉をおくります。農民の労働に共感する七言絶句は珍しく、農民の気持ちに寄り添った分かりやすい詩です。 

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     北宋7ー王禹偁
        畬田詞五首 其四       畬田の詞 五首  其の四

      北山種了種南山   北山(ほくざん)  種(う)え了(おわ)りて南山に種う
      相助力耕豈有偏   相助け   力耕して  豈(あ)に偏(へん)有らんや
      願得人間皆似我   願わくは  人間(じんかん)  皆  我(われ)に似るを得んことを
      也応四海少荒田   也(ま)た応(まさ)に四海(しかい)  荒田(こうでん)少なかるべし

      ⊂訳⊃
              北の山に種を撒いたら  南の山に撒き

              助け合って農耕に励み  決して分けへだてをしない

              世の人々が われらと同じように心を合わせるなら

              きっとこの広い国土に  荒れた畑はなくなるはずだ


     ⊂ものがたり⊃ 其の四の詩では農民の一致協力の精神をたたえ、農民に成りかわって世の人々に呼びかけます。皆が自分たちと同じように一致団結して働くならば、「四海」(広い国土)に荒れた土地などなくなるだろうと詠います。
     この詩は五代時代の混乱のために荒れた土地が多かったことと、農家出身の政府高官に建国初期の健全な精神がやどっていたことを示しています。

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     北宋8ー王禹偁
        日長簡仲咸           日 長し 仲咸に簡す

      日長何計到黄昏   日  長ければ  何の計ありてか黄昏(こうこん)に到らん
      郡僻官閑昼掩門   郡  僻(かたよ)れば  官  閑(かん)にして  昼  門を掩(おお)う
      子美集開詩世界   子美(しび)の集は開く    詩の世界
      伯陽書見道根源   伯陽(はくよう)の書は見る  道の根源
      風騒北院花千片   風  北院(ほくいん)に騒げば  花  千片(せんぺん)
      月上東楼酒一樽   月  東楼(とうろう)に上れば  酒  一樽(いっそん)
      不是同年来主郡   是(こ)れ同年(どうねん)の来たりて郡に主(しゅ)たるならざれば
      此心牢落共誰論   此の心  牢落(ろうらく)  誰(たれ)と共にか論ぜん

      ⊂訳⊃
              春の日は長くて  日暮れまで過ごすのがむずかしい
              商州は辺鄙な所  仕事は暇で昼から門を閉じている
              杜甫の詩集は   素晴らしい詩の世界を開いてくれ
              老子の書物は   天地万物の本質をみせてくれる
              北の庭で風が吹けば   無数の花びらが散り
              東の高楼に月が昇れば  一樽の酒の出番だ
              同期の君が  州知事としてここにいなければ
              きっと侘びしいことだろう  語り合う友がいないのだから


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「日 長し」は詩の冒頭の二語を取って題とするもので、無題と同じです。「仲咸(ちゅうかん)に簡(かん)す」は添え書きで、進士同期の馮伉(ふうこう:字は仲咸)に書簡を送ったときにつけた詩という意味です。馮伉は王禹偁が商州に左遷されたとき商州の知州事でした。
     詩は中四句二組の対句を前後の二句で囲む七言律詩で、はじめの二句は最近の生活をおおまかに述べて序とします。「郡」は州の古い言い方で商州のことです。中四句のはじめの対句は読書。「子美」は杜甫、「伯陽」は老子のことです。つぎの対句は風流の世界で、落花を眺め月が昇れば酒を楽しみます。
     最後の二句は馮伉への誘いの言葉です。同期の君がいなかったら語り合う友もなく、心は「牢落」(寂しいさま)したままであろうと、来訪を誘うのです。杜甫の詩はまだ一般に評価されていなかった時期ですから、王禹偁が杜甫の詩集を愛読していたのは注目されます。 

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     北宋9ー寇準
         夏 日                夏 日

      離心杳杳思遅遅   離心(りしん)   杳杳(ようよう)として 思い遅遅(ちち)たり
      深院無人柳自垂   深院(しんいん)  人無くして柳自(おのず)から垂る
      日暮長廊聞燕語   日暮(ひぼ)    長廊(ちょうろう)  燕語(えんご)を聞く
      軽寒微雨麦秋時   軽寒(けいかん)  微雨(びう)  麦秋(ばくしゅう)の時

      ⊂訳⊃
              別れの悲しみは深く  思いはいつまでも心にのこる

              奥の庭に人の影なく  柳は枝をたれているだけ

              日暮れになって     廊下のあたりで燕の声

              肌寒い小雨が降って  麦も色づく季節です


     ⊂ものがたり⊃ 天下統一を成し遂げた宋には二つの問題が残されていました。北の強国遼(りょう)が領有する燕雲十六州の帰属問題と河套(オルドス)南部の夏州(内モンゴル自治区統万城跡)に拠っていた党項(タングート)族拓抜李氏の存在です。
     宋は燕雲十六州を奪い返そうと遼に戦いを挑みます。これに応じた遼は、宋の真宗の景徳元年(1004)、大軍をもよおして南下して来ました。宋軍は澶州(河南省濮陽県)に兵を出し、黄河を渡って遼軍と対峙します。
     このとき宋側には強硬論と和平論がありました。議論の末、遼の燕雲十六州の領有を認め、兄(宋)・弟(遼)の礼を約して講和します。史上「澶淵(せんえん)の盟」といわれる和約によって宋は平和を保ち、経済発展に向かうことになります。
     寇準(こうじゅん:961ー1023)は華州下邽(陝西省下邽県)の人。宋建国の翌年に生まれ、太宗の太平興国四年(979)に十九歳で進士に及第します。累進して真宗の景徳元年、四十四歳で宰相に任じられ、遼の侵攻に際しては強硬論をとなえます。
     澶淵の論に敗れて一時宰相を免ぜられますが、天禧のはじめ(1017頃)ふたたび宰相になり、莢国公にも封じられました。しかし、最後は政争に敗れ、雷州(広東省海康県)の司戸参軍に流されます。ついで衡州(湖南省衡陽県)に移され、そこで亡くなりました。享年六十三歳です。
     詩題の「夏日」(かじつ)は詩中に「麦秋」とあるので陰暦四月、初夏です。詩の主人公は女性で、唐代の閨怨詩の流れを受けています。「深院」は奥庭のことで、そこに「人無くして柳自から垂る」と柳の別れのイメージを借りています。「燕」にはつがいのイメージがあり、ひとり身の自分を思うのです。
     硬派の政治家が小粋な閨怨詩の作者であるのはちぐはぐな感じですが、詩人として切実な感懐を詠っているのではなく、宴会の席かなにかで作ってみせたものでしょう。宴会での遊びとして、こういう詩が喝采を博したという状況が考えられます。

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     北宋10ー寇準
         江南春              江南の春

      杳杳煙波隔千里   杳杳(ようよう)たる煙波(えんぱ)  千里を隔て
      白蘋香散東風起   白蘋(はくひん)  香(こう)散じて東風(とうふう)起こる
      日落汀洲一望時   日は落つ  汀洲(ていしゅう)  一望の時
      愁情不断如春水   愁情(しゅうじょう)断たれず   春水(しゅんすい)の如し

      ⊂訳⊃
              靄のような波が立ち込め  遥かに千里を隔てる

              水草の花の香りが広がり  春風が吹きはじめる

              夕暮れに  川の中洲で一望すれば

              悲しみは絶えることなく   春川の流れのように満ちている


     ⊂ものがたり⊃ 詩題「江南の春」も唐代になじみのテーマです。この詩も女性が主人公の閨怨詩と解されますが、起句が「杳杳たる煙波 千里を隔て」とあることによって、晩年に左遷されたときの作とする考えもなりたちます。その場合は閨怨詩のスタイルに自分の悲しみを込めたと考えられます。
     「白蘋」は江南の水草、「東風」は春の到来を告げる風で、春風が吹いて水草の香りがひろがるのです。「春水」は雪解けによって水かさの増した春の川。全体として唐代のモチーフにたよっていますが、硬派の政治家の作としてみると、繊細な感性がうかがえます。

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     北宋11ー魏野
       書友人屋壁         友人の屋壁に書す

      達人軽禄位     達人(たつじん)  禄位(ろくい)を軽(かろ)んじ
      居処傍林泉     居処(きょしょ)  林泉(りんせん)に傍(そ)う
      洗硯魚呑墨     硯(すずり)を洗えば  魚は墨を呑み
      烹茶鶴避煙     茶を烹(に)れば   鶴は煙を避く
      閑惟歌聖代     閑にして惟(ただ)  聖代(せいだい)を歌い
      老不恨流年     老いて流年(りゅうねん)を恨(うら)みず
      静想閑来者     静かに想う  閑来(かんらい)の者
      還応我最偏     還(ま)た応(まさ)に  我  最も偏(へん)なるべし

      ⊂訳⊃
              達観している君は   官職を軽くみて
              林の近く泉の傍らに  住んでいる
              硯を洗えば   池の魚が墨を飲みこみ
              茶を立てれば  庭の鶴が湯気を避ける
              閑雅な境地で  太平の世を詩に詠い
              老いても     過ぎゆく歳月を惜しみはしない
              私は思うのだが  君を訪ねて来る者のなかで
              一番の偏屈者は  やはりこのわたしであろう


     ⊂ものがたり⊃ 都の高官で詩人である王禹偁や寇準らと同時代に、在野の詩人で唐代の詩に範をとる人々がいました。魏野(ぎや)・潘閬・林逋といった人々で、在朝の詩人とあわせて晩唐派と呼ばれています。詩はむしろ在野の詩人の方に見るべきものがあります。
     魏野(960ー1019)はもと蜀(四川省)の人。陝州(河南省三門峡市陝県)に移り住み、生涯を布衣(ほい)として過ごしました。なんによって生活を維持していたのかは不明ですが隠者ではありません。在野の名士として政府ともつながりがあり、詩名は北方の遼にとどくほど有名でした。推薦する人もいましたが、入朝は断わったという逸話があります。真宗の天禧三年(1019)になくなり、享年六十歳です。死後に秘書省著作郎を贈られました。
     詩題を「逸人兪大中(ゆだいちゅう)の屋壁(おくへき)に書す」とするテキストがあり、詩中で「達人」と呼ばれている人物は「兪大中」(経歴不詳)という名とみられます。隠者のように描かれていますが、当時は唐代の貴族や高官の末裔で、没落していても生活するのに充分な荘園をもち、官職につかず閑雅をこととする者がいました。「兪大中」もそのような人物でしょう。
     五言律詩、はじめの二句は導入部です。まず「達人」(物事を達観している人)と呼んで、友人の暮らしぶりを紹介し、中四句でその暮らしぶりをいろんな角度から描きます。最初の対句で取り上げる硯と茶は風雅な暮らしの象徴です。「魚は墨を呑み」「鶴は煙を避く」という着想は警抜で、傑作として有名です。つぎの対句では閑雅な境地で詩をつくり、齷齪せずに生きている姿を褒めます。
     結びの二句は友人の達観した生き方に触発されて思う自分自身のことで、君を訪ねて来る者のなかで、私がやはり世俗から一番遠い人間だなあと友人の生き方に共感してみせるのです。 

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     北宋ー潘閬
        宿霊隠寺             霊隠寺に宿す

      繞寺千千万万峯   寺を繞(めぐ)る  千千万万(せんせんばんばん)の峰
      満天風雪打杉松   満天の風雪(ふうせつ)   杉松(さんしょう)を打つ
      地炉火煖黄昏睡   地炉(ちろ)  火(ひ)煖(あたた)かに  黄昏(こうこん)に睡(ねむ)る
      更有何人似我慵   更に  何人(なんびと)か  我が慵(よう)に似たる有らんや

      ⊂訳⊃
              寺のまわりには  無数の峰がつらなり

              風雪は空に満ち  杉や松の木に吹きつける

              囲炉裏の日は暖かく  日暮れに居眠りをする

              この世の俺ほど  けだるい気分の者がいるだろうか


     ⊂ものがたり⊃ 潘閬(はんろう)は生没年不詳。魏州(河北省大名県)の人です。洛陽で薬売りをしていましたが、太宗の侍従長王継恩(おうけいおん)の推薦をうけて科挙に応じ、進士の資格を与えられます。
     王禹偁、寇準らと交流しますが、性格に狂妄なところがあり、法に触れて亡命します。杭州の林逋と交流するのはこのときでしょう。真宗のとき捕らえられ、赦されて滁州(安徽省滁州市)の参軍になりますが、再び法に触れ、泗水(江蘇省北部の川)のほとりで亡くなりました。
     詩題の「霊隠寺」(りんいんじ)は杭州(浙江省杭州市)にある禅宗の名刹です。西湖の西側、霊隠山の麓にあり、周囲は西湖の北、西、西南につらなる山々に囲まれています。はじめの二句で山に囲まれた霊隠寺の環境を詠います。
     後半二句は自己主張で、「地炉」は地面に掘って造った炉。「慵」はものうい、面倒くさいといった意味の語で、白居易の「重ねて題す」(2010.12.5のブログ参照)の詩に「日高く眠り睡り足るも猶お起くるに慵し」の句があります。囲炉裏端で日暮れに居眠りをする自分を描いて、齷齪と生きている世間の人々と違う自分の生き方を主張します。

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     北宋13ー林逋
        秋江写望            秋江 望を写す

      蒼茫沙觜鷺鶿眠   蒼茫(そうぼう)たる沙觜(さし)   鷺鶿(ろじ)眠る
      片水無痕浸碧天   片水(へんすい)  痕(あと)無く  碧天(へきてん)を浸(ひた)す
      最愛蘆花経雨後   最(もっと)も愛す  蘆花(ろか)  雨を経(へ)たる後(のち)
      一蓬煙火飯漁船   一蓬(いっぽう)の煙火(えんか)  漁船の飯(はん)するを

      ⊂訳⊃
              広々とした砂洲の端  白鷺が立っている

              水たまりに波はなく  空の碧さをうつす

              好ましいのは葦の花  雨あがりに炊煙が

              舟の苫やの辺りから  ひとすじ淡く昇るさま


     ⊂ものがたり⊃ 林逋(りんぽ:967ー1028)は銭塘(浙江省杭州市)の人。生まれたのは宋建国の七年後で、十三歳のときに宋の天下統一に遭遇します。銭塘は呉越国の都でしたので、幼くして父を亡くし苦学したのは亡国の臣下の家であったからでしょうか。成人すると江淮の地を遊歴し、一生仕官せず妻帯もしませんでした。
     やがて杭州にもどり、西湖のほとり、孤山に廬を結び隠棲しました。二十年間、杭州の街に足を踏み入れなかったといいます。隠者として有名になり、「梅妻鶴子」(梅を妻とし鶴を子とする)と称されました。詩名は真宗、仁宗に聞こえ、仁宗の天聖六年(1028)に亡くなったとき和靖先生の名を贈られました。享年六十二歳です。
     詩題の「望を写す」は眺めたものを描いたという意味で、雨あがりの「秋江」(しゅうこう:秋の川)を詠います。「蒼茫」は青々として広いこと、「沙觜」は砂洲の突き出た角。そこに「鷺鶿」(白鷺)が眠っているように動かずに立っています。
     「片水」の片には小さな、孤独なという意味があり、「痕無く」は風の吹いた痕、つまり波がないという意味でしょう。転句で雨後であることが示され、岸辺の蘆花と「漁船」(釣り舟)の苫やから立ち昇る炊煙を「最も愛す」と詠って閑雅の風流を示します。       

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     北宋14ー林逋
       山園小梅二首 其一     山園の小梅 二首  其の一

      衆芳揺落独暄妍   衆芳(しゅうほう)  揺落(ようらく)して独り暄妍(けんけん)
      占尽風情向小園   風情(ふぜい)を占め尽して小園(しょうえん)に向かう
      疎影横斜水清浅   疎影(そえい)   横斜(おうしゃ)  水(みず)清浅(せいせん)
      暗香浮動月黄昏   暗香(あんこう)  浮動(ふどう)   月(つき)黄昏(こうこん)
      霜禽欲下先偸眼   霜禽(そうきん)  下らんと欲して 先(ま)ず眼(まなこ)を偸(ぬす)み
      粉蝶如知合断魂   粉蝶(ふんちょう)  如(も)し知らば  合(まさ)に魂(こん)を断つべし
      幸有微吟可相狎   幸いに微吟(びぎん)の  相狎(あいな)る可(べ)き有り
      不須檀板与金尊   須(もち)いず  檀板(たんぱん)と金尊(きんそん)とを

      ⊂訳⊃
              花が散っても  梅だけは咲きほこり
              風雅な装いで  わが家の庭に立っている
              浅いが清らかな池の面に  まばらな影が斜めに映り
              仄かに花のかおりが漂い  月はおぼろに照っている
              冬の小鳥は  地上に降りようとしてはっと目をとめ
              蝶が知れば  胸がつぶれるほどに悲しむであろう
              幸いにもここには  梅にふさわしい私の詩がある
              だから豪華な酒宴など  必要としないのだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「山園」(さんえん)は西湖の畔、孤山の麓にあった廬の庭で、そこに咲いている梅を詠っています。梅を詠った詩のなかでは千古の絶唱と称されています。はじめの二句は導入部で、梅が他を圧して咲きほこるさまを紹介します。
     中四句、はじめの対句は梅の描写で、「疎影」は梅の枝の影。それが浅いが清らかな池の水に斜めに映っています。「暗香」は仄かな香り。梅の花の香りがただよい、月が朧に照っています。「黄昏」とあり、たそがれどきでしょう。
     つぎの対句は梅に対する周囲の反応で、小鳥と蝶が擬人化して詠われます。「霜禽」は霜のおりる季節の鳥、冬鳥でしょう。鳥は地上に降りようとして「先ず眼を偸み」、気おくれした視線でおずおずと偸みみるのです。「粉蝶」は二文字で造語する名詞で蝶のこと。蝶はまだ現れていませんので、蝶が梅の花のすばらしさを知ったら「魂を断つべし」、胸が潰れるほど悲しむであろうと想像します。
     この二句は比喩を含むと考えてよく、梅があまりにも気高いので鳥は遠慮して近づかないし、花を愛する蝶は時を同じくすることができないのを悲しむと、ひとり隠棲して孤高を持している自分を暗にいうのでしょう。
     結びの二句は、幸いにも梅のためには私がいると梅への共感を詠います。「微吟」は小声で詩歌を吟詠すること。自分の詩を謙遜しながらも、ここには梅にふさわしい私の詩があるといいます。だから「檀板と金尊」、騒がしい音楽や豪華な酒樽など大宴会はいらないと結ぶのです。 

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     北宋15ー楊億
         漢 武                漢 武

      蓬萊銀闕浪漫漫   蓬萊(ほうらい)の銀闕(ぎんけつ)   浪  漫漫(まんまん)
      弱水囘風欲到難   弱水(じゃくすい)  囘風(かいふう)  到らんと欲するも難(かた)し
      光照竹宮労夜拝   光は  竹宮(ちくきゅう)を照らして  夜拝(やはい)を労(ろう)し
      露溥金掌費朝餐   露は  金掌(きんしょう)に溥(あまね)く  朝餐(ちょうさん)に費(ついや)す
      力通青海求龍種   力は  青海(せいかい)に通じて   龍種(りょうしゅ)を求め
      死諱文成食馬肝   死は  文成(ぶんせい)を諱(さ)けて   馬肝(ばかん)を食(くら)うと
      待詔先生歯編貝   詔(しょう)を待つ先生   歯は貝を編(あ)む
      忍令索米向長安   米(こめ)を索(もと)めて  長安に向かわ令(し)むるに忍びんや

      ⊂訳⊃
              蓬萊山の神仙の宮は  海上はるか
              海と疾風に阻まれて  行くのはむずかしい
              天から降る夜の光を  竹宮から遥かに拝し
              仙人掌で集めた露を  朝ごとにお飲みになる
              遠く青海の果てに  兵を発して名馬をもとめ
              文成将軍を殺して  馬の肝を食べて死んだとおっしゃる
              東方朔の歯並びは  貝を編んだように美しいが
              飢えて長安の街を  歩くようなことはご免と嘆願させる


     ⊂ものがたり⊃ 第三代真宗の時代(997ー1021)に政事は安定し、経済が発展しはじめます。それにともなって新しい文化が芽生えてきます。詩の分野でまず登場するのは、楊億(ようおく)、劉筠、銭惟演ら西崑派(せいこんは)の詩人です。
     三人は秘書閣(帝室図書館)の同僚であったころ詩を応酬しあい、大中祥府元年(1008)に『西崑酬唱集』を発表しました。その詩風は西崑体と称され、初期の宋詩に一時代を画します。西崑派の詩人は政府高官が多く、典故を多用した詩を作って知識を顕示する傾向がありました。晩唐の李商隠を学び、華麗な措辞によって暗示的、象徴的な詩風を生み出しました。「西崑」は崑崙山の群玉山策府(仙界の書庫)を意味します。
     楊億(974ー1020)は建州浦城(福建省浦城県)の人。太祖の開宝七年(974)、南唐滅亡の前年に閩地の北辺で生まれました。才能を認められて、十一歳のときに秘書省正字の官を授けられました。十九歳で進士出身の資格を与えられ、真宗のとき翰林学士兼史館修撰になり、『太宗実録』の編纂などに腕を振るいました。真宗の天禧四年(1020)に亡くなり、享年四十七歳でした。
     詩題の「漢武」(かんぶ)は漢の武帝のことです。詩中に「漢武」の語を用いず、すべての句で武帝の行状を皮肉まじりに詠います。「蓬萊」は東の海上にあるという伝説の神山(島)で、「銀闕」は仙人のいる宮殿です。「弱水」は蓬萊山へ通じる海で、はじめの二句は武帝が不老長寿の仙薬を求めたことをいいます。
     「竹宮」は『漢書』礼楽志に典故があり、正月上辛の日に神仙を祭ると神光が流星のように祠壇にあつまり、武帝はそれを竹宮から望拝したといいます。「金掌」は武帝が作らせた掌露銅盤(しょうろどうばん)のことで、上に仙人掌があり、それで受けた露に玉屑を混ぜて飲んだといいます。以上四句は武帝が方士の言を信じて不老長生に心がけたことを皮肉るものです。
     「龍種」は武帝が西域に兵を発して大宛の善馬数十頭を得たことをいいます。「文成」は方士李少君(りしょうくん)のことで、文成将軍の位を与えましたが、のちに誅しました。そしてあれは馬の肝を食べて死んだのだと誤魔化したそうです。「待詔先生」は東方朔のことで、歯並びが美しかったけれど俸禄が少なかったといいます。だから献策が採用されなくても俸禄だけは削らないでほしいと嘆願したそうです。すべての句で武帝が愚かな帝王であったことを詠っています。

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