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tiandaoの自由訳漢詩

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     中唐90ー柳宗元
       衡陽与夢得            衡陽にて夢得と路
       分路贈別              を分かち 贈別す

      十年憔悴到秦京   十年  憔悴(しょうすい)して秦京(しんけい)に到る
      誰料翻為嶺外行   誰か料(はか)らん  翻(ひるがえ)って嶺外(れいがい)の行(こう)を為(な)さんとは
      伏波故道風煙在   伏波(ふくは)の故道(こどう)    風煙(ふうえん)在り
      翁仲遺墟草樹平   翁仲(おうちゅう)が遺墟(いきょ) 草樹(そうじゅ)平らかなり
      直以慵疏招物議   直(ただ)ちに慵疏(ようそ)を以て物議(ぶつぎ)を招く
      休将文字占時名   文字(もんじ)を将(もつ)て時名(じめい)を占むるを休(や)めよ
      今朝不用臨河別   今朝(こんちょう)   河(か)に臨みて別るるを用いず
      垂涙千行便濯纓   涙を垂(た)るること千行(ちすじ)にして便(すなわ)ち纓(ひも)を濯(あら)う

      ⊂訳⊃
              十年間の貶謫に    疲れ果てて都に着いたが
              衡山の南に来るとは  思いもしなかった
              伏波将軍の旧道に   砂塵が舞い
              崩れた墓の石像は   草木に覆われている
              都では反省不足と   物議を招き
              文章で目立つのは   やめにしよう
              今朝  湘水に臨んで  別れる必要はない
              流す涙が千筋となり  冠の纓を洗ってくれる


     ⊂ものがたり⊃ 憲宗の治世の元和十五年間、特にはじめの十年間は唐の中興の時代と呼ぶのにふさわしい時期でした。憲宗は安史の乱後、歴代の問題であった不順藩鎮の討平に手をつけます。不順藩鎮の勢力の強い河北を避け、河北から離れた辺境藩鎮から手をつけていったので、成果は確実に上がっていきました。
     政事情勢が好転するにしたがって文運も向上してきます。当時、韓愈は古文復興運動の指導者として都ではなやかな活動をしていました。白居易は元和元年の「長恨歌」につづいて元和四年(809)には「新楽府」五十首(平成22.9.30ー10.14のブログ参照)の大作を発表し、人生最高の時を迎えていました。
     そうした元和中興の時代に、柳宗元は古文の文章家としても詩人としても充分に活躍する能力を持ちながら、思わぬ不運のために永州貶謫という不遇のなかで過ごすことになったのです。文芸的に考えれば、韓愈・白居易と柳宗元は元和中興時代の表と裏の関係にあると言えるでしょう。
     北還の命を受けて、柳宗元がいよいよ自分も都の表舞台で活躍できると期待に胸を膨らませたとしても不思議ではありません。二月、都に着くと永貞の政変によって貶謫された八司馬のうち五人が呼びもどされていました。しかし、翌三月になって発令されたのは地方の刺史でした。憲宗には永貞の八司馬を都で用いる気はなかったのです。
     地方勤務を命ぜられた官吏は、すぐに都門を出なければまりません。柳州(広西壮族自治区柳州市)刺史になった柳宗元と連州(広東省連県)刺史になった劉禹錫は連れ立って長安を離れ、春に勇んで上京してきた同じ道を無念の思いで南へ下ってゆきました。二人は衡陽で左右に別れなければなりません。
     詩題の「夢得」(ぼうとく)は劉禹錫の字(あざな)です。希望を胸にたどった北還の旅は、衡陽の地に再来したいま、疲れだけが残っています。そしてこれから、思いもしなかった嶺外の地に赴こうとしているのです。
     「伏波」は漢の武帝が設けた伏波将軍のことですが、ここでは後漢の名将馬援をさし、劉禹錫が向かう道です。「翁仲」は秦の巨人の名ですが、のちに銅像もしくは墓道の石像を意味するようになりました。柳宗元が向かう柳州への道に石人の遺跡がありました。いずれも人の通らない道の比喩です。
     頚聯の二句で柳宗元は再度追放にひとしい処遇になった理由について述べています。「慵疏」はぼんやりして怠けているという意味で、反省が足りないということでしょう。「文字を将て時名を占むるを休めよ」と言っており、永州で書いた詩文が都で問題になり、再貶の理由になったと解されています。柳宗元は詩文で名声をえようと思うのはやめようと思うのでした。
     尾聯は悲しみの表現で、流す涙が川になって冠の纓を洗うから川のほとりを別れの場所にする必要はないと詠うのです。

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     中唐91ー柳宗元
        重別夢得           重ねて夢得に別る

      二十年来万事同   二十年来  万事(ばんじ)同じ
      今朝岐路忽西東   今朝(けさ)  路(みち)を岐(わか)てば忽(たちま)ち西と東
      皇恩若許帰田去   皇恩(こうおん)  若(も)し帰田(きでん)し去るを許さば
      万歳当為隣舎翁   晩歳(ばんさい)  当(まさ)に隣舎(りんしゃ)の翁(おう)と為(な)るべし

      ⊂訳⊃
              二十年この方  何もかも一緒であった

              この朝  行く道を分ければ東西の別れ

              皇帝が  故郷に帰るのを許して下さるなら

              晩年は  隣同志の翁になろう


     ⊂ものがたり⊃ 柳宗元は別れの詩を三首つくり、劉禹錫も応える詩をつくっています。柳宗元と劉禹錫は貞元九年(793)に揃って進士に及第し、ともに王叔文の改革運動に加わって永貞の政変に遭い、貶謫の憂き目に逢いました。
     いま再び南遷の厄に逢って西と東に別れようとしていますが、もし官職を辞して故郷に帰ることが許されるなら、隣同士に住んで晩年を過ごそう詠います。だが、柳宗元は柳州で亡くなる運命にありました。 

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     中唐92ー柳宗元
       登柳州城楼寄          柳州の城楼に登り
       漳汀封連四州          漳汀封連四州に寄す

      城上高楼接大荒   城上(じょうじょう)の高楼は大荒(だいこう)に接す
      海天愁思正茫茫   海天(かいてん)の愁思(しゅうし)  正(まさ)に茫茫(ぼうぼう)
      驚風乱颭芙蓉水   驚風(けいふう)  乱れて颭(ゆる)がす芙蓉(ふよう)の水
      密雨斜侵薜荔牆   密雨(みつうん)  斜めに侵(おか)す薜荔(へいれい)の牆(かき)
      嶺樹重遮千里目   嶺樹(れいじゅ)  重なって遮(さえ)ぎる千里の目
      江流曲似九回腸   江流(こうりゅう) 曲りて九回の腸(ちょう)に似たり
      共来百越文身地   共に百越文身(ひゃくえつぶんしん)の地に来たりて
      猶自音書滞一郷   猶(な)お自(おのず)から音書(たより)は一郷(いっきょう)に滞(とどこお)る

      ⊂訳⊃
              城壁の楼は  世界の果ての地に臨み
              広大な空に  果てしなく愁いは拡がる
              突風が     蓮の花咲く水面をゆすり
              篠突く雨は  蔓に被われた壁面に斜めに注ぐ
              山の木々は  重なり合って視界をさえぎり
              川の流れは  くねくねと腸のように曲がっている
              ともに     百越文身の地にやって来ながら
              音信は絶え  ひとつの所に漂っているのか


     ⊂ものがたり⊃ 元和十年(815)六月、柳宗元は柳州(りゅうしゅう)に到着します。妻子のほか従弟の柳宗直と柳宗一を伴なっていましたが、翌七月、柳宗直が亡くなりました。永州でも生活を共にした従弟の死は、片腕を捥ぎ取られたような打撃でした。一方、永州で娶った後妻がこの年、次女を生んでいます。北還南逐の間にも家族は形成されてゆきます。
     柳州は永州よりも南、五嶺を越えた南蛮の地です。刺史であり、司馬のような冗官(じょうかん)ではありませんが、僻遠の地に再貶された柳宗元ははじめのころ心穏やかではありませんでした。
     詩題の「漳汀封連四州」は漳州・汀州・封州・連州のことで共に辺境州の刺史になった四人に送った詩です。中国では都から遠く隔たった地を荒服(こうふく)といい、「大荒」は世界の果てを意味します。柳宗元は僻遠の地に来たことを悲しみ、つづく四句であたりの情景を描きます。
     目に映る山川はあらあらしく、作者の悲痛な心境を反映しているようです。「百越文身の地」は風俗の異なる異民族の地ということで、このような地に来たというのに互に便りも交わさず、ひとつところに閉じこもっているのかとかつての同志にむかって歎くのでした。 

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     中唐93ー柳宗元
       柳州二月榕樹         柳州二月 榕樹落ち
       落尽偶題            尽くして偶々題す

      宦情羇思共悽悽   宦情(かんじょう) 羇思(きし)  共に悽悽(せいせい)
      春半如秋意転迷   春半(なか)ばなるに秋の如く  意(い)  転(うた)た迷う
      山城過雨百花尽   山城(さんじょう)の過雨(かう)  百花(ひゃくか)尽き
      榕葉満庭鶯乱啼   榕葉(ようよう)   庭に満ちて鶯は乱れ啼(な)く

      ⊂訳⊃
              官途の思い地方勤め ともに悲しく

              春の半ばというのに  秋のように心は滅入る

              山沿いの町に通り雨  ことごとく花は散り

              榕葉も庭に散り敷き  鶯はやたらと鳴いている


     ⊂ものがたり⊃ 柳州に着いたはじめのころ、僻遠の地への赴任を嘆いていた柳宗元の心境は次第に変化してゆきます。詩は柳州着任の翌年、元和十一年(816)春二月の作と見られています。
     「宦情」は役人としての心、「羇思」は旅(地方勤め)の思い、「悽悽」は傷み悲しむさまで、心は憂いに満ちています。春も半ばの季節というのに、秋のように揺れ動く心境です。転結の二句は、そうしたときの即目の情景で、柳州の町に通り雨が降り、花も散りつくしました。
     「榕葉」は南国特有の木「ガジュマル」の葉でしょう。その葉が庭一面に散り敷いて、鶯が「乱啼」、乱れ啼きます。この乱には耳障りなという否定の感情が含まれており、作者の荒れた心を貶謫の地の自然に映して見るような詩です。しかし、望郷の思いは永州時代のようにあからさまには詠われていません。

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     中唐94ー柳宗元
       登柳州峨山        柳州の峨山に登る

      荒山秋日午     荒れた山  秋の日の午(まひる)
      独上意悠悠     独り上る  意(い)  悠悠(ゆうゆう)
      如何望郷処     如何(いかん)  郷(きょう)を望む処(ところ)
      西北是融州     西北は是(こ)れ融州(ゆうしゅう)

      ⊂訳⊃
              荒れた山の  秋の日の真昼どき

              ひとり登り   つきぬ思いに苛まれる

              どうだろう   故郷を望むこの場所は

              西北はるか  融州の町がある


     ⊂ものがたり⊃ 元和十一年(816)に長男周六が生まれ、一方、従弟の柳宗一が柳州を離れました。また、刺史としての仕事もあり、井戸を開鑿して住民の飲料水の不便を解消したりしています。ささやかではあっても実務に携わることによって、柳州が自分に与えられた生きる場所という諦念も生まれて来るのでした。故郷を思っても永州時代のような激しい心の葛藤は生じなくなるのでした。
     詩題の「峨山」(がざん)は柳州の西にある山で、山頂に鵞鳥の形をした岩があったところから鵞山とも呼ばれました。「荒山」とあるので岩山でしょう。元和十一年の秋、柳宗元は真昼の陽ざしをあびて山頂に立ちました。「悠悠」は『詩経』周南「関雎」の詩句を引くもので、思いが尽きないことの形容です。
     山頂から故郷の方角を望みますが、見えるのは「融州」(広西壮族自治区融県の西南)の町だけだと詠います。融州は柳州の北やや西寄りにあり、直線距離で約100kmほどです。長安ははるか1000kmのかなたにあり、故郷を思いみても、いまはただその隔たりを眺めるだけです。

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     中唐95ー柳宗元
        酬曹侍御過          曹侍御の象県を過って
        象県見寄            寄せられしに酬ゆ

      破額山前碧玉流   破額山前(はがくさんぜん)  碧玉(へきぎょく)の流れ
      騒人遥駐木蘭舟   騒人(そうじん)  遥かに駐(とど)む  木蘭(もくらん)の舟
      春風無限瀟湘意   春風(しゅんぷう)限り無し  瀟湘(しょうしょう)の意(い)
      欲采蘋花不自由   蘋花(ひんか)を采(と)らんと欲するも自由ならず

      ⊂訳⊃
              破額山麓に  碧玉色の澄み切った流れ

              風雅の士が  木蘭の舟を駐めて詩をくだされた

              春風のような暖かい心  屈原のような憂国の思い

              せめては浮草の花を摘もうとするが  思うにまかせぬ私です


     ⊂ものがたり⊃ 元和十二年(817)、四十五歳になった柳宗元は盗賊を平定し、奴婢を解放し、寺を復興して孔廟を修理するなど刺史としての仕事に励んでいます。そこには住民の福祉に心を配る地方官の姿があります。
     詩は制昨年不明ですが、春の作です。詩題の「曹侍御」(そうじぎょ)は伝不明、御史台の侍御史(従六品下)でしょう。その曹侍御が柳州にほど近い「象県」(しょうけん:広西壮族自治区象州県)を通りかかり、詩を贈ってきました。「酬」とあるので感謝の気持ちを込めて答える詩です。
     「破額山」は柳州を流れる柳江のほとりにあり、象県は柳江の下流、東南50km余のところにあります。「騒人」は屈原の詩『離騒』に基づく語で、風雅を解する人の意味です。「木蘭の舟」の木蘭は屈原の詩にしばしば出てくる佳木であり、ここでは舟の美称として用いてあります。楚辞の雅語をならべて曹侍御が詩を寄せてくれたことに感謝の意を示すのです。
     転句は曹侍御の詩の内容を暗にいうもので、そこには春風のような暖かい心と「瀟湘の意」、つまり屈原の詩のような憂国の思いが示されていました。「蘋花」(浮草の花)も屈原の好む佳花であり、国家のために役に立とうと思うが、辺境州の刺史の身ではそれも思うように任せないと歎きます。刺史は管内の行政を自由におこない、行動も自由ですので、「自由ならず」は国家の問題については発言できないという意味です。 

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     中唐96ー柳宗元
       与浩初上人同看         浩初上人と同に山を看
       山寄京華親故          て 京華の親故に寄す

      海畔尖山似剣鋩   海畔(かいはん)の尖山(せんざん)  剣鋩(けんぼう)に似たり
      秋来処処割愁腸   秋(あき)来たりて  処処(しょしょ)  愁腸(しゅうちょう)を割(さ)く
      若為化得身千憶   若為(いかん)ぞ   身を千憶に化(か)し得て
      散上峰頭望故郷   散じて峰頭(ほうとう)に上りて故郷を望まん

      ⊂訳⊃
              川辺に切り立つ山々は  剣の切っ先のようだ

              秋が来ると  愁いに満ちた腸はずたずたに切り裂かれる

              どうしたら  この身を千憶に振り分けて

              すべての山の頂に登り  故郷を望むことができるだろうか


     ⊂ものがたり⊃ 詩は元和十三年(818)秋の作とみられています。詩題の「浩初上人」(こうしょしょうにん)は潭州(湖南省長沙市)の人。龍安海禅師の弟子で、柳宗元とは永州で知り合った仲でした。柳州に訪ねてきた上人と山を見たときの感懐をつづり、都の親戚や友人に送った作品です。
     「海畔の尖山」とありますが、柳州の山を見たのであれば川岸になります。尖った山の峰は剣の「鋩」(切っ先)のようで、秋になると愁いに満ちた私の心をずたずたに切り裂くと詠います。かなり激しい表現ですが、比喩を用いているところに心の余裕があります。
     転句の「若為」はどうしたらできるのかという問いかけの語で、つぎの結句にかかる言葉です。「身千憶」という言い方は仏典に由来し、仏陀に帰依する心をいいます。ここでは千憶の体に分身して、すべての山の頂に登って故郷を望むにはどうしたらいいかと自分に問いかけ、また「京華の親故」(けいかのしんこ)に問いかけるのです。
     仏教の言葉を引用した大げさな表現で望郷の思いを伝えようとしていますが、永州時代のような痛切なひびきは見られません。 

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     中唐97ー柳宗元
       柳州城西北隅           柳州城の西北隅
       種甘樹               に甘樹を種う

      手種黄甘二百株   手(て)ずから種(う)う  黄甘(こうかん)二百株(しゅ)
      春来新葉徧城隅   春来たりて新しき葉  城隅(じょうぐう)に徧(あまね)し
      方同楚客憐皇樹   方(まさ)に同じ  楚客(そきゃく)の皇樹(こうじゅ)を憐れむに
      不学荊州利木奴   学(まな)ばず   荊州(けいしゅう)の木奴(ぼくど)を利するを
      幾歳開花聞噴雪   幾歳(いくとせ)か  花を開きて雪を噴(ふ)くのを聞かん
      何人摘実見垂珠   何人(なんびと)か  実を摘(つ)みて珠(たま)を垂るるを見ん
      若教坐待成林日   若(も)し坐(い)ながら林と成る日を待たしめば
      滋味還堪養老夫   滋味(じみ)還(ま)た老夫を養うに堪(た)えん

      ⊂訳⊃
              蜜柑を二百本  自分で植える
              春になれば   城には新しい葉が満ちわたる
              屈原が      天界の樹を愛したのと同様であり
              荊州の李衡が  蜜柑を植えたのとはわけが違う
              何年たったら  雪のような白い花が咲き
              どんな人が    たわわに稔る実を摘むのだろうか
              林となるまで   このまま待たせてもらえるなら
              老いの身を養うのに  充分な滋養があるだろう


     ⊂ものがたり⊃ 柳宗元はやがて現実を受け入れ、長安と断絶して生きる覚悟を固めていきます。たとえ柳州で生涯を終えることになっても、それを運命として受け入れようという思いを育ててゆくのです。そんな思いを詠う植樹の詩です。
     「黄甘」は蜜柑の一種で、詩題の「甘樹」(かんじゅ)はその木です。柳宗元は城内の西北隅に黄甘の木二百本を植えました。詩は植え終わっての感懐を詠うものです。
     頷聯の対句「方に同じ 楚客の皇樹を憐れむに」は楚辞「九章」の「橘頌」を念頭においており、「楚客」は屈原のことです。「橘頌」に「后皇(こうこう)の嘉樹 橘(たちばな)徠(きた)り服す」の詩句があり、屈原が橘を愛でたのと同じ気持ちであると詠うのです。つぎの「学ばず 荊州の木奴を利するを」は三国呉の丹陽太守李衡(荊州襄陽の人)が治産の目的で「木奴」(柑橘の異名)千株を植えたのを真似るのではないということです。
     ついで頚聯の対句では、黄甘が大きく育ち、花が咲き、実がなるさまを想像します。どんな人がその実を摘むのかと問い、黄甘の木が林のようになるまでこのままここで生きていけるのなら、おいしい実で老後を養うことができるであろうと未来を楽しんでいます。そこには長安の荘園を懐かしむ詩句はかけらもありません。

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     中唐98ー柳宗元
       種柳戲題           柳を種えて戲れに題す

      柳州柳刺史     柳州(りゅうしゅう)の柳刺史(りゅうしし)
      種柳柳江辺     柳(やなぎ)を種(う)う 柳江(りゅうこう)の辺(ほとり)
      談笑為故事     談笑(だんしょう)    故事(こじ)と為(な)り
      推移成昔年     推移して昔年(せきねん)と成る
      垂陰当覆地     陰(かげ)を垂れて当(まさ)に地を覆うべし
      聳幹会参天     幹(みき)を聳えさせて会(かなら)ず天に参(まじ)わるべし
      好作思人樹     好(よ)し人と思う樹(き)と作(な)るに
      慚無恵化伝     慚(は)ずらくは恵化(けいか)の伝(でん)無きを

      ⊂訳⊃
              柳州の柳刺史が
              柳江のほとりに  柳を植える
              楽しい語らいは  過去となり
              時は移って    昔のこととなる
              地を覆う  日陰を垂れよ
              幹を伸ばして天にも届け
              よき人と  私を思うよすがになってほしいが
              恵みを垂れたという  伝えのないのが残念だ


     ⊂ものがたり⊃ 詩は柳宗元がほどなく柳州でなくなるころに作られたと見られています。詩題に「戲れに題す」とあるのは謙遜もしくは韜晦しているのであって、自分の生涯を総括する重要な詩です。人は真面目であるから戯れのポーズをとり、戯れのポーズによって自己を客観視します。
     まず冒頭の二句十語中に「柳」が四回も出て来ます。この語呂合わせによって駄洒落のおかしさを演出し、軽味を出します。同時に「柳」は陶淵明の「五柳先生伝」を思い出させる仕掛けになっており、田園帰居の生き方を理想とする態度を暗示しています。
     「談笑」は柳州の民との語らいであり、ここでも近隣農夫との交流を楽しんだ陶淵明の多くの詩が想起されます。同時に柳州の柳刺史が柳江のほとりに柳を植えたという可笑しな話がやがて故事となり、むかし話になるとおどけて見せていると解せます。「故事」となり「昔年」となるというのは、死後のことを想定しているのです。
     後半、詩の調子は一変します。頚聯の対句では天にも届くほど大きくなり、大地に涼しい陰を落とすようになれと柳に呼びかけます。「垂陰」も陶淵明の詩の随所に出てくる情景であり、柳宗元は自分も木陰に憩う穏やかな心境になったと思うと同時に、刺史として柳州の民を案じる気持ちが永く後世に残ることを期待しているのです。
     尾聯の「好し人と思う樹と作るに」は『春秋左氏伝』定公九年の条に「其の人を思いて 猶お其の樹を愛す」とあるのに基づいています。「其の樹」は『詩経』召南の「甘棠」に出てくる甘棠のことで、周の召公は甘棠の樹下に野宿して民の訴えを聴いたといいます。村人は召公の死後もその恩徳をしたって甘棠の木を敬ったという故事があり、柳宗元は召公の甘棠のように柳の木が自分を「よき人」と思うよすがになってほしいと願うのです。そして、自分には「恵化」(善政)を施したという伝えもなく、そのことが恥かしいと結びます。
     柳宗元は柳州四年の在任のあと、元和十四年(819)十月五日に任地で病没しました。劉禹錫と韓愈に遺書を残し、幼い子供の行く末を頼み、劉禹錫には遺稿の編集を依頼したといいます。なお、柳宗元の文学については岡山大学大学院下定雅弘教授の『柳宗元』(勉誠出版)があり、多くをこの著によったことを付記します。

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     中唐99ー李紳
       憫農二首 其一     農を憫む 二首  其の一

      春種一粒粟     春に一粒(いちりゅう)の粟(ぞく)を種(う)え
      秋収万顆子     秋に万顆(ばんか)の子(み)を収む
      四海無閑田     四海(しかい)  閑田(かんでん)無きに
      農夫猶餓死     農夫(のうふ)  猶(な)お餓死す

      ⊂訳⊃
              春に一粒の籾を蒔けば

              秋には無数の実が収穫できる

              広いこの世に   休耕田などひとつもないが

              それでも農夫は  飢えて死ぬ


     ⊂ものがたり⊃ 柳宗元が永州で貶謫の悲哀と痛苦にあえいでいたころ、白居易は都でのちに諷諭詩と名づける代表作をつくっていました。しかし、社会の現状を批判する社会詩は元和前期の自由な雰囲気が衰えるとともに、新楽府運動の推進者に不利な影響をあたえます。
     元和十年(815)、柳宗元が柳州再貶の憂き目をみた年の六月三日未明、ときの宰相武元衡(ぶげんこう)と御史中丞裴度(はいど)が登朝の途中を暴漢に襲われるという事件が発生しました。そのとき太子左善大夫(従四品上)の職にあった白居易は、ただちに上書して犯人の早急な逮捕を具申しました。新楽府運動を嫌悪していた守旧派は、これを東宮官の越権行為として弾劾し、白居易は江州(江西省九江市)司馬に流されることになります。
     李紳(りしん:772ー846)は潤州無錫(江蘇省無錫市)の人。白居易と同じ年に生まれ、元和元年(806)、三十五歳で進士に及第し、翰林学士などを歴任します。白居易とともに新楽府運動の唱導者として活躍しますが、詩のほとんどは散逸しています。
     李紳は憲宗、穆宗、敬宗、文宗、武宗の五代に仕えて立身出世を遂げ、会昌二年(842)には宰相になっています。そのため若いころの社会詩は破棄したという説があります。晩年には白居易と親しく交わり、武宗が崩じた会昌八年(846)に享年七十五歳でなくなりました。
     詩は新楽府運動に参加していた若いころの作品で、詩題の「憫農」は農家への同情をあらわしています。分かりやすくストレートな詩で、はじめの二句で農家の働きを述べます。後半は「四海」(世の中全体)に遊んでいる田畑はひとつもないのに、農夫は飢えて死んでいくと税の苛酷を批判します。

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     中唐100ー李紳
       憫農二首 其二      農を憫む 二首  其の二

      鋤禾日当午     禾(か)を鋤(たがや)して  日  午(ご)に当たる
      汗滴禾下土     汗(あせ)   禾下(かか)の土に滴(したた)る
      誰知盤中飧     誰か知らん  盤中(ばんちゅう)の飧(そん)
      粒粒皆辛苦     粒粒(りゅうりゅう)  皆  辛苦(しんく)

      ⊂訳⊃
              稲の手入れをしていると  真昼になり

              稲のまわりの土に  汗が滴る

              大皿に盛った飯の  ひと粒ひと粒が

              農家の汗の結晶だ  そのことを肝に銘じよ


     ⊂ものがたり⊃ 其の二の詩では農民の辛苦をさらに具体的に描きます。前半、農民は炎天下、汗を滴らせて働きますが、その結果として後半、「盤中の飧」(大皿の飯)があります。転句の「誰か知らん」は二句全体にかかり、そのことをいったい誰が知っているのか、知るべきであると強調します。
     李紳は没年も白居易と同じで、白居易が東都洛陽に閑職をえて隠居していたので、李紳も晩年、洛陽に居を移し、ふたりは親しく交わったといいます。

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     中唐101ー元稹
       遺悲懐三首 其一      悲懐を遺る 三首 其の一

      謝公最小偏憐女   謝公(しゃこう)の最小  偏(ひとえ)に憐むの女(じょ)
      自嫁黔婁百事乖   自(みずか)ら黔婁(けんろう)に嫁して百事(ひゃくじ)乖(たが)う
      顧我無衣捜藎篋   我れに衣(ころも)無きを顧(かえり)みれば藎篋(じんきょう)を捜(さぐ)り
      泥他沽酒抜金釵   他(かれ)に酒を沽(か)わんことを泥(ねだ)れば金釵(きんさい)を抜く
      野蔬充膳甘長藿   野蔬(やそ)    膳(ぜん)に充ちて長藿(ちょうかく)を甘しとし
      落葉添薪仰古槐   落葉(らくよう)   薪(たきぎ)に添えんとして古槐(こかい)を仰ぐ
      今日俸銭過十万   今日(こんにち)  俸銭(ほうせん)  十万を過ぎ
      与君営奠復営斎   君が与(ため)に奠(てん)を営み   復(ま)た斎(さい)を営む

      ⊂訳⊃
              君は謝安の末娘  ことのほか愛されて育つ
              黔婁の妻となり   暮らしは一変した
              ろくな衣服しかないのを見て  自分の衣装箱を探し
              酒が欲しいと君に言えば    簪を抜いて工面した
              野菜だらけの食事のときでも 豆の葉っぱを好きだといい
              落ち葉を薪の足しにしようと  槐の古木を見上げていた
              やっと今  俸禄十万銭の身になったが
              その金を  君の葬式と供養に使うことになってしまった


     ⊂ものがたり⊃ 白居易より七歳の年少ですが、無二の親友として名高い詩人に元稹(げんじん)がいます。元稹(779ー831)は河南洛陽(河南省洛陽市)の人。若くして秀才のほまれ高く、十五歳で科挙の明経科に及第しました。貞元十六年(800)、二十二歳のとき、白居易と同年で進士に及第し、二人は生涯の友となります。
     元和元年(806)、二十八歳で左拾遺になりますが、しばしば天子に上書したため権臣に憎まれ、河南の県尉に左遷されます。そのご左遷と復帰をくりかえしますが、長慶二年(823)二月には同中書門下平章事(宰相)になります。しかし六月には罷免され、同州(陝西省大荔県)刺史となり、最後は武昌軍節度使になって文宗の太和五年(831)に武昌で亡くなりました。享年五十三歳です。
     元稹は二十歳になった貞元十四年(789)に四歳年少の韋叢(いそう)と結婚しますが、七年後の貞元二十一年(805)に二十三歳の若い妻を亡くしました。詩は愛妻を亡くした悲しみを詠うものです。
     「謝公」は東晋の名士謝安のことで、次句で自分のことを「黔婁」と称しているのと同じ比喩です。妻を立派な父親の「最小」(末娘)といい、「黔婁」は春秋斉の隠者。『列女伝』にみえる黔婁の妻の言「貧賤に戚戚(せきせき)たらず、富貴に汲汲たらず」は有名です。自分のような貧乏書生の妻になったために、それまでの妻の暮らしは一変したと詠います。
     中四句、二組の対句で生前の妻を偲びます。「無衣」はろくな衣服しかないこと、「長藿」は豆の葉のことで、「甘」は好む意味です。妻の死の二年前、貞元十九年(803)に元稹は秘書省校書郎(正九品上)になっていますので、「俸銭 十万を過ぎ」はその身分のことでしょう。生活もこれからすこしは楽になるというときに妻を亡くし、「奠」(葬式)と「斎」(供養)に使うことになってしまったと嘆くのです。

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     中唐102ー元稹
       遺悲懐三首 其二      悲懐を遺る 三首 其の二

      昔日戲言身後意   昔日(せきじつ)  戲(たわむ)れに  身後(しんご)の意(い)を言いしが
      今朝皆到眼前来   今朝(こんちょう)  皆  眼前(がんぜん)に到り来たる
      衣裳已施行看尽   衣裳(いしょう)は已(すで)に施して  行々(ゆくゆく)尽くるを看(み)んも
      針線猶存未忍開   針線(しんせん)は猶(な)お存して   未(いま)だ開くに忍びず
      尚想旧情憐婢僕   尚(な)お旧情(きゅうじょう)を想って婢僕(ひぼく)を憐れみ
      也曾因夢送銭財   也(ま)た曾(かつ)て夢に因(よ)って銭財(せんざい)を送る
      誠知此恨人人有   誠(まこと)に知る  此の恨(うら)み人人(にんにん)に有り
      貧賤夫妻百事哀   貧賤(ひんせん)の夫妻は百事(ひゃくじ)哀し

      ⊂訳⊃
              むかし冗談に  死んだあとのことなど語り合ったが
              今朝はそれが  目の前に押し寄せる
              お前の衣裳は分けてやり  やがてなくなるだろう
              針や糸がそのままなのは  箱を開けるのがつらいからだ
              優しかった心根を汲んで  召使いたちに憐れみをかけ
              夢にお前が描いたように  金品などを分けてやる
              諦め切れない悲しみは   この世の常とわかっているが
              貧しく暮らした夫婦には   すべてが哀しい思い出である


     ⊂ものがたり⊃ 其の二の詩は生前の妻が慈悲深い女性であったことを偲び、貧乏のために思うような生活をさせてやれなかったことを嘆きます。
     「身後」は死後のことで、どちらかが先に死んだとき、死に遅れた者はどんな気持ちだろうと話し合ったことがありました。若い二人であるので、愛情を確認し合うような気持ちで話し合ったのでしょう。そんな思い出が現実のこととして目の前に押し寄せてきます。
     中四句二組の対句では、妻の遺品や形見分けなどを通じて死んだ妻を懐かしみます。「旧情」は生前の妻の気持ち、「曾夢」はかねての妻の夢、願いでしょう。「婢僕」(男女の召使い)にも慈しみの心を持っていた妻の気持ちを汲んで、召使いたちにも金品を分けてやったと詠います。
     尾聯の「人人」はひとびとというのに等しく、妻を亡くした悲しみはこの世の常であるけれど、貧しい夫婦の場合にはあらゆることが哀しみの種になると、若くして逝った妻を悼みます。

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     中唐103ー元稹
        聞楽天授             楽天の江州司馬を
        江州司馬             授けらるるを聞く

      残燈無焔影幢幢   残燈(ざんとう)  焔(ほのお)無くして影(かげ)幢幢(とうとう)
      此夕聞君謫九江   此の夕(ゆうべ)  君が九江(きゅうこう)に謫(たく)せらるるを聞く
      垂死病中驚坐起   垂死(すいし)の病中  驚いて坐起(ざき)すれば
      暗風吹雨入寒窓   暗風(あんぷう)  雨を吹いて寒窓(かんそう)に入る

      ⊂訳⊃
              灯も消えかけ  影はゆらゆらと揺れている

              そんな夜中に  君の江州流謫を聞く

              重い病の身を  驚いて坐り直すと

              寂しい窓から  雨まじりの風が吹いて来た


     ⊂ものがたり⊃ 元和四年(809)に元稹は監察御史になっていましたが、その年の秋、洛陽でひとりの学生が自殺しました。この自殺に関して河南府の尹(長官)の過剰な問責が原因とする見解があり、調べに当たった元稹は府尹の罷免を上申しました。しかし、このことは監察御史としては越権行為であり、事実を調べて報告するだけでよかったのです。
     府尹の訴えによって元稹は長安に呼びもどされ、ただちに江陵府の士曹参軍に貶謫になりました。五年間の江陵(湖北省江陵県)勤務のあと、元和十年(815)正月に都に呼びもどされましたが、三月二十五日に通州(四川省達県)司馬に再貶となりました。柳宗元・劉禹錫ら五司馬の再貶とおなじ時期です。
     元稹が通州司馬に貶された直後の十年六月、こんどは白居易が越権の罪に問われて江州(江西省九江市)司馬に流されました。その報せを通州で聞いたとき、元稹は瘧(マラリア)に侵されて重病の床に臥していました。
     「幢幢」はゆらゆらと揺れ動くさまで、幢は旗の一種です。報せを聞いて元稹は寝床の上にがばと起き上がり、坐り直したのでしょう。悲報に胸を打たれるようすが、残・無・影・死・暗・風・雨・寒と暗いイメージの語を多用した詩句で描かれています。

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     中唐104ー元稹
        得楽天書            楽天の書を得

      遠信入門先有涙   遠信(えんしん)  門に入って先(ま)ず涙有り
      妻驚女哭問如何   妻は驚き女(むすめ)は哭(な)いて  如何(いかん)と問う
      尋常不省曾如此   尋常には曾(かつ)て此(かく)の如きを省(み)ざりき
      応是江州司馬書   応(まさ)に是(こ)れ江州(こうしゅう)の司馬(しば)の書なるべし

      ⊂訳⊃
              遠方からの便りがあり  家に入るや涙があふれる

              妻は驚き娘は泣き出し  どうなさったのと尋ねる

              こんなことは  これまで一度もなかったわ

              きっと江州の  司馬さまからのお手紙よ


     ⊂ものがたり⊃ 白居易の江州貶謫を知ったあと、白居易自身の書信が届いたのでしょう。元稹の涙はあまりに激しく、妻が「如何と問う」て心配するほどでした。転結の二句は妻と娘がささやき合っている言葉で、元稹の悲嘆は「尋常には曾て此の如きを省ざりき」でした。  

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     中唐105ー薛濤
       春望四首 其三      春望 四首 其の三

      風花日将老     風(ふう)  花(か)  日に将(まさ)に老いんとす
      佳期猶渺渺     佳期(かき)  猶(な)お渺渺(びょうびょう)たり
      不結同心人     結ばず    同心(どうしん)の人
      空結同心草     空しく結ぶ  同心の草

      ⊂訳⊃
              吹く風に    花は散ろうとしているが

              約束の日は  遥かかなたに消えてゆく

              愛する人を  結びもせず

              同心草は   野にむなしく揺れるだけ


     ⊂ものがたり⊃ 白居易や元稹が活躍していた貞元から元和にかけて名を馳せた女流詩人に、薛濤(せっとう)がいます。薛濤(768?ー831?)は長安(陝西省西安市)の人。良家の子女でしたが、父の転勤によって蜀(四川省東部)に移住し、父親の没後、零落して妓女となりました。
     詩に巧みで女校書とよばれ、成都を訪れた白居易や元稹など多くの文人と交流しました。晩年には杜甫の旧居の地、浣花渓に住み、深紅色の紙箋をつくり、いまも薛濤箋の名で知られています。生年は推定ですが、元和元年(806)に三十九歳くらいでした。文宗の太和五年(831)ころになくなり、享年六十四歳くらいです。
     詩題の「春望」(しゅうぼう)は春の眺めという意味で、花も散ろうとする晩春です。この詩には佐藤春夫の支那歴朝名媛詩鈔『車塵集』(昭和四年 武蔵野書院)に雅語による訳がありますので、つぎに掲げます。
           つみ草
       しづこころなく散る花に
       長息(なげき)ぞながきわがたもと
       なさけをつくす君をなみ
       摘むやうれひのつくづくし
     な音とつ音で情緒をかもし出し、名訳として名高いのですが、訳には原詩にない「たもと」と「つくづくし」がでてきます。つくづくしは土筆のことで早春の草です。「つくづくし」に情をつくす意をかけたのかもしれませんが、かなりの翻案になっています。
     「佳期」はめでたい時期、転じて結婚や逢引の日をいいます。「同心」は心を同じくすること、男女が約束を交わすことです。「同心草」という草は不明ですが、「同心結」は恋文の意味です。だからこの詩は、下さった恋文、あれはなんだったのですかと、たよりないわが身を野草と重ね合わせて嘆く詩になります。
       

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     中唐106ー薛濤
         送友人              友人を送る

      水国蒹葭夜有霜   水国(すいこく)の蒹葭(けんか)  夜  霜(しも)有り
      月寒山色共蒼蒼   月(つき)寒く  山色(さんしょく)  共に蒼蒼(そうそう)たり
      誰言千里自今夕   誰か言う    千里  今夕(こんせき)よりし
      離夢杳如関塞長   離夢(りむ)   杳如(ようじょ)として関塞(かんさい)長し

      ⊂訳⊃
              水郷の秋の夜  岸辺の葦に霜がおり

              空に寒月     山々は蒼く静まりかえる

              今夜かぎりで  千里のかなたに離れても

              憶いはきっと夢のなか  国境までも届きます


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「友人」は男性で、秋の夕暮れ、遠くに旅立つ恋人を渡津で見送る詩です。前半二句は『詩経』秦風「蒹葭」の冒頭の句「蒹葭 蒼蒼たり 白露(はくろ) 霜と為(な)る」を踏まえています。「水国」は水郷のことで、成都の近郊をいうのでしょう。月に照らされて山々は蒼く静まりかえっています。
     「誰か言う」は後半全体にかかり、人は言うけれど私は信じない、という問いかけの否定です。直訳すれば、今夜限りで千里のかなたに離ればなれになってしまえば、夢のなかで想っても遠い「関塞」(国境の砦)までは届かないと人は言うけれど、私は信じませんになります。

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     中唐107ー薛濤
         十離詩             十離の詩
         筆離手             筆 手を離る

      越管宣毫始称情   越管(えつかん)宣毫(せんごう)  始め情に称(かな)い
      紅箋紙上撒花瓊   紅箋(こうせん)紙上(しじょう)   花瓊(かけい)を撒(ま)く
      都縁用久鋒頭尽   都(すべ)て用うること久しく鋒頭(ほうとう)尽きしに縁(よ)り
      不得羲之手裏   羲之(ぎし)の手裏(しゅり)に(ささ)げらるるを得ず

      ⊂訳⊃
              越の竹と宣州の毫  始はまことに使いよく

              紅箋の上に   花を撒くように書くことができる

              だが使う内に  筆の穂先はちびて

              王羲之の手に  もはや握ってもらえないのだ


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「十離(じゅうり)の詩」は頼りにしているものから離れる(捨てられる)辛さを十首の詩につづったものです。小題「筆 手を離る」は筆が捨てられる話。
     「越管宣毫」は越(浙江省)の竹と宣州(安徽省宣城県)の毫(極細の毛)で作った筆のことで、名品でした。「紅箋」は薛濤作と伝えられる紙で、そのうえに玉の花を撒くように書けるというのです。「鋒頭」は筆の穂先のことで、名品の筆も永く使っているうちに穂先がちびて、「羲之」(書の名人王羲之)の手に握ってもらえなくなると詠います。
     老いて容色の衰えた自分を、すげなくしないでほしいと詠うのでしょう。王羲之といっているので、相手は名のある文人・詩人かもしれません。

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     中唐108ー張祜
        宮詞            宮詞

      故国三千里     故国(ここく)    三千里
      深宮二十年     深宮(しんきゅう)  二十年
      一声河満子     一声(いっせい)  河満子(かまんし)
      双涙落君前     双涙(そうるい)   君が前に落つ

      ⊂訳⊃
              故郷を離れて三千里

              後宮に仕えて二十年

              河満子の曲の一声で

              涙は君前をかまわずに流れ落ちる


     ⊂ものがたり⊃ 元和十五年(820)正月二十七日、憲宗が急死します。中興の英主と言われる憲宗は、晩年、仙薬を服用するようになって粗暴な振るまいが多くなり、危険を感じた宦官に殺害されたという伝えもあります。翌閏正月三日に二十六歳の青年皇帝穆宗(ぼくそう)が即位します。
     張祜(ちょうこ:792?ー852?)は清河(河北省清河県)の人とも南陽(河南省南陽市)の人ともいいます。はじめ姑蘇(江蘇省蘇州市)に住み、宮廷を題材とした楽府題の詩で名をあげました。
     元和十五年(820)、二十九歳のころ令孤楚(れいこそ)に推挙されて長安に上りました。令孤楚は若いころの李商隠を支援した高官で、当時、宰相の地位にいたのですが、元稹(げんじん)の反対にあって採用にならなかったといいます。
     張祜はやがて都をはなれ、淮南地方を遊歴して名勝・名刹を訪ね詩作にふけります。のち丹陽(江蘇省鎮江市丹陽県)に隠棲し、宣宗の大中六年(852)ころ庶士のまま生涯を終えます。享年六十歳くらいです。
     詩題の「宮詞」(きゅうし)は宮廷の歌という意味です。遠い故郷から召し出されて後宮に二十年も仕えた女性の歎きを詠います。「河満子」は歌曲の名で、「断腸詞」ともいいます。開元のころ滄州(そうしゅう)の河満子という歌手が罪をえて処刑されようとしたとき、死を贖おうとして作った曲といわれています。その曲を聞けば、君前であるのもかまわずに涙が流れると詠うのです。宮女の苛酷な人生を描く社会詩です。

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     中唐109ー張祜
         雨淋鈴             雨淋鈴

      雨淋鈴夜却帰秦   雨淋鈴(うりんれい)の夜  却(かえ)って秦(しん)に帰る
      猶是張徽一曲新   猶(な)お是(こ)れ張徽(ちょうき)   一曲新たなり
      長説上皇垂涙教   長(つね)に説(と)く 上皇 涙を垂れて教えしを
      月明南内更無人   月明(げつめい)の南内(なんだい)  更に人無し

      ⊂訳⊃
              しとしとと雨降る夜の鈴の音  都に帰り

              張徽の奏する曲を聞くにつれ  思いはあらた

              涙をながしつつ    上皇様は教えて下された

              月影明るい南内に  かつての人の姿はないと


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「雨淋鈴」は楽府題ですが、玄宗皇帝がつくった曲と伝えられています。安禄山の乱のとき、玄宗は馬嵬駅で楊貴妃を殺し、蜀道を越えて益州(四川省成都市)に蒙塵しました。
     蜀の桟道を越えるとき雨がつづき、霧のなか馬の鈴の音が山々にこだましました。玄宗はその鈴の音をもとに楊貴妃を悼む曲をつくり、「雨淋鈴」と名づけたといいます。その曲を宮廷楽士の張徽に与え、乱が収まって長安に帰ったのちも張徽に演奏させて涙にむせんだと伝えられています。
     詩はその物語をそのまま描いていますが、曲名「雨淋鈴」を巧く詩中に織り込んでいます。結句の「南内」は興慶宮のことで、北の大明宮に対して南内といいます。興慶宮は玄宗が楊貴妃と愛の日々を送った宮殿であり、「更に人無し」はもはや楊貴妃の姿はないと嘆くのです。

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