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tiandaoの自由訳漢詩

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     南北朝36ー謝朓
       遊東田              東田に遊ぶ

      慼慼苦無悰     慼慼(せきせき)として悰(たの)しみ無きを苦しみ
      携手共行楽     手を携(たずさ)えて共に行楽(こうらく)す
      尋雲陟累榭     雲を尋ねて累榭(るいしゃ)に陟(のぼ)り
      随山望菌閣     山に随って菌閣(きんかく)を望む
      遠樹曖仟仟     遠樹(えんじゅ)  曖(あい)として仟仟(せんせん)たり
      生煙紛漠漠     生煙(せいえん) 紛(ふん)として漠漠(ばくばく)たり
      魚戲新荷動     魚戲(たわむ)れて  新荷(しんか)動き
      鳥散余花落     鳥散(さん)じて  余花(よか)落つ
      不対芳春酒     芳春(ほうしゅん)の酒に対せず
      還望青山郭     還(かえ)って青山(せいざん)の郭(かく)を望む

      ⊂訳⊃
              鬱々として  楽しいこともないので
              友と一緒に  山野に遊ぶ
              高みを目指して  幾つもの台榭に上り
              山路をたどって  楼閣の美を楽しむ
              遠くの樹々は   うっすらと霞んで茂り
              あたり一面に   靄が色濃く立ちこめる
              池の魚は   咲いたばかりの蓮を動かし
              枝の小鳥は  花を散らして飛び立っていく
              春の旨酒を楽しむよりは
              山里の村の景色を眺めていたい


     ⊂ものがたり⊃ 建康城の東北、鐘山(紫金山)の東に謝朓の山荘がありました。それを「東田」(とうでん)というのでしょう。五言十句のうち中三聯はすべて対句になっており、道ゆき、あたりの様子、魚鳥の動きが捉えられています。
     「累榭」は重なり合った台榭(うてな)のことで、版築の土台の上に亭が建っています。「菌閣」の菌は香草のことで、楼閣の美しさをいうものです。三番目の魚鳥の対句は謝朓の繊細な観察眼が示されていて秀句とされています。そして、酒を飲むよりは山里の景色を眺めている方がいいと結びます。
     謝朓が三十一歳になった永明十三年(494)七月に斉の武帝が崩じます。後継をめぐって斉の宗室は大混乱に陥り、騒動は十月までつづきます。その後も宋末のような惨状がつづき、謝朓は政事の混乱の中、王位をめぐる政争に巻き込まれて投獄され、三十六歳の若さで獄死しました。

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     南北朝37ー陶弘景
       詔問山中何所      山中に何の有る所ぞと詔問
       有賦詩以答        せられ 詩を賦して以て答う

      山中何所有     山中(さんちゅう)  何の有る所ぞ
      嶺上多白雲     嶺上(れいじょう)  白雲(はくうん)多し
      只可自怡悦     只(た)だ自ら怡(たのし)み悦(よろこ)ぶ可(べ)し
      不堪持寄君     持(じ)して君に寄するに堪(た)えず

      ⊂訳⊃
              山の中に何があるか

              峰の上に   多くの白雲が浮かんでいます

              ただそれは  私が見て楽しむだけで

              陛下にお届けすることはできません


     ⊂ものがたり⊃ 斉の混乱がつづくなか、同族の武将蕭衍(しょうえん)が即位して梁(南朝梁)を建国し、年号を天監(元年は502)と定めます。武帝蕭衍の父蕭順之(しょうじゅんし)は斉の建国者蕭道成(しょうどうせい)の族弟であり、創業の功臣のひとりでした。宗室に繋がる蕭衍は恵まれた環境の中で育ち、文武両道にわたる教養を身につけ、当代一流の詩人とも交わっていました。
     即位すると武帝は、親しかった沈約を尚書令に任じ、埋もれた人材を登用して意欲的に民生の回復に努めます。しかし、なかには召しに応じなかった知識人もいました。陶弘景(とうこうけい)はそのひとりです。
     陶弘景は斉のとき一時任官したことがありますが、永明十年(492)に辞任し、句曲山に隠棲して華陽隠居と称していました。梁になってたびたび武帝の召しを受けますが固辞し、野にあって国家の諮問に与かったので「山中宰相」と称されました。
     詩は武帝に対するものではないとされていますが、皇帝の問いに答える形で書かれており、隠者の心意気を示して爽やかです。唐代には、この詩を模した詩がいくつも作られています。   

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     南北朝38ー王籍
       入若耶渓           若耶渓に入る

      艅艎何汎汎     艅艎(よこう)   何ぞ汎汎(はんはん)たる
      空水共悠悠     空水(くうすい)  共に悠悠(ゆうゆう)たり
      陰霞生遠岫     陰霞(いんか)  遠岫(えんしゅう)に生じ
      陽景逐囘流     陽景(ようけい) 回流(かいりゅう)を逐(お)う
      蝉噪林逾静     蝉噪(さわ)いで 林 逾々(いよいよ)静かに
      鳥鳴山更幽     鳥(とり)鳴いて  山 更に幽(ゆう)なり
      此地動帰念     此の地  帰念(きねん)を動かし
      長年悲倦遊     長年(ちょうねん)  倦遊(けんゆう)を悲しむ

      ⊂訳⊃
              美しい船が  流れに乗って走り
              空の景色   水の景色が広がっていく
              遥かな山に  雲と霧がかかり
              逆巻く流れを 陽の光が追ってくる
              蝉の鳴き声で  林はいっそう静かになり
              小鳥の囀りで  山はいっそう深くなる
              こんな世界に身を置けば  隠棲への心が動き
              任地をめぐる宮仕えが   嫌になる


     ⊂ものがたり⊃ 梁の武帝の一族は武門の出といっても、ほとんど貴族化していました。武帝自身も詩を作ったし、長子の昭明太子蕭統(しょうとう)は詩人であると同時に『文選』(もんぜん)を編纂し、「陶淵明伝」も書いています。『文選』は以後、詩人必読の書になり、日本にも早くに伝来しています。
     また、劉勰(りゅうきょう)の『文心雕龍』(ぶんしんちょうりょう)は魏晋以来の文学理論を集大成したもので、唐代の詩に大きな影響を与えました。
     王籍(おうせき)は武帝時代初期の詩人で、謝霊雲の詩風を慕い山水詩を得意としました。「若耶渓に入る」の詩は湘東王諮議参軍のとき、会稽郡(浙江省紹興市)に行ったときの作です。詩題の「若耶渓」(じゃくやけい)は会稽郡の南辺にあった雲門天柱山の渓流で、その風景が気に入って数か月帰るのを忘れたと言われています。
     詩は対句をつらねる形式になっており、首聯の「艅艎」は綺麗に飾り立てた舟、その舟に乗って流れを下っていくと、空と水の美しい景色が展開していきます。頷聯は景色の拡がりをさらに細かく描くもので、「陽景 回流を逐う」には謝霊雲流の繊細な観察眼が窺われます。
     頷聯の対句は、当時「文外独絶」と賞讃された名句で、後代の手本になりました。そうした美しい自然に囲まれていると、「帰念」(隠棲を願う心)が湧いてきて、「倦遊」(地方を転々と勤務して歩くことの倦怠感)を覚えると詠います。

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     南北朝39ー庾信
       詠画屏風詩二十五首   画屏風を詠ずるの詩 二十五首 
       其四             其の四

      昨夜鳥声春     昨夜(さくや)  鳥声(ちょうせい)春なり
      驚鳴動四隣     驚鳴(けいめい)  四隣(しりん)を動かす
      今朝梅樹下     今朝(こんちょう)  梅樹(ばいじゅ)の下
      定有詠花人     定(さだ)めて花を詠ずるの人有らん
      流星浮酒泛     流星(りゅうせい) 酒泛(しゅはん)に浮かび
      粟瑱遶杯唇     粟瑱(ぞくてん)   杯唇(はいしん)を遶(めぐ)る
      何労一片雨     何ぞ労せん  一片の雨
      喚作陽台神     喚(よ)んで陽台(ようだい)の神と作(な)すを

      ⊂訳⊃
              昨夜の頃から  鳥の声も春めいて
              高い鳴き声が  あたりに響く
              今朝になれば  梅の木の下に
              花詠む人が   大勢やってくるだろう
              きらめく瞳は   杯の酒に映って浮かび
              眉の飾りや耳飾りが  杯のまわりを囲む
              こんな美女がいるならば  一面の雨に呼びかけて
              巫山の神女に  お出ましを願う必要はない


     ⊂ものがたり⊃ 庾信(ゆしん)は宮廷詩人として有名な庾肩吾(ゆけんご)の子として、梁の武帝の天監十二年に生まれました。成人して詩人として活躍するようになります。
     詩は屏風に描かれた絵を題材に詠う題画詩で、宴会などに招かれたとき、求められて作る場合が多かったようです。題画詩を二十五首も残しているというのは、庾信が当時の貴族や高官らの社交界で詩の名手として持て囃されていたことを示しています。
     この詩の絵柄としては春の日、屋敷の窓辺で女性が杯を手に庭を眺めています。庭の梅の木に花が咲き、枝に小鳥がとまっています。その絵に連想を加えた詩を賦し、いかに情感を盛り上げるかが詩人の腕のみせどころでした。
     詩は二句ずつ四段にわかれ、はじめの二句は絵に描くことのできない鳥の声を想像で加えます。つぎの二句も想像で、大勢の客が花見にやって来るであろうと梅の木を褒めます。宴会自体が花見の宴であったかもしれません。
     三番目の二句は対句になっていて、「流星」は瞳の喩え、その瞳が手にした杯に映っていると細かく想像します。「粟瑱」は眉飾りと耳飾りのことで、それが杯のまわりを囲むと詠います。つまり、女性が杯に唇を寄せる動作を加えるのでしょう。
     そして結びの二句では、巫山の神女伝説を用いて、絵の中の女性のような美女がいるならば、巫山の神女も不要であると褒めあげます。当時の庾信はそのころ流行の甘美な宮廷詩に勝れた才能を示していました。  

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     南北朝40ー庾信
       擬詠懐二十七首      詠懐に擬す 二十七首 
       其三              其の三

      爼豆非所習     爼豆(そとう)は習(なら)う所に非(あら)ず
      帷幄復無謀     帷幄(いあく)は復(ま)た謀(はか)ること無し
      不言班定遠     言(おも)わず  班定遠(はんていえん)のごとく
      応為万里侯     応(まさ)に万里の侯(こう)に為(な)るべしと
      燕客思遼水     燕客(えんきゃく)は遼水(りょうすい)を思い
      秦人望隴頭     秦人(しんひと)は隴頭(ろうとう)を望む
      倡家遭強聘     倡家(しょうか)  強聘(きょうへい)に遭(あ)い
      質子値仍留     質子(しつし)   仍(な)お留(とど)めらるるに値(あ)う
      自憐才智尽     自ら才智(さいち)の尽(つ)くるを憐(あわ)れみ
      空傷年鬢秋     空(むな)しく年鬢(ねんびん)の秋を傷(いた)むのみ

      ⊂訳⊃
              私は政事のことに暗く
              軍事の才能もない
              だからあの班超のように
              定遠侯になろうとは思わない
              燕から来た旅人は 故郷の川を思い
              秦から来た人は   故郷の山を懐かしむ
              妓楼の女のように  無理に招かれ
              人質のように     止め置かれる
              このようにして  才智の尽きるのを悲しみ
              むなしく老いて  白髪になるのを嘆くのだ


     ⊂ものがたり⊃ 梁の武帝は三十九歳のときに国を建て、在位は四十八年にわたります。政事は安定し、経済も発展し、都建康には堂塔伽藍が立ち並びました。ところが治世の半ばごろから仏教を篤く信仰するようになり、六十三歳のときから八十四歳までの間に四度も捨身を行いました。
     捨身というのは仏寺に投じて仏に仕えることですが、皇帝が寺に行ってしまっては政事が成り立ちません。群臣は仏寺に多額の喜捨をして皇宮への帰還を請願するありさまでした。
     そのころ北朝の北魏は、十年に及ぶ混乱のあと東西に分裂していました。梁は東魏と和平条約を結んでいましたが、東魏に内紛が起こり、有力武将の侯景(こうけい)が梁に帰属を求めてきました。
     梁は侯景の申し出を受け入れ、侯景を河南王に封じて後援します。反対する東魏は兵を出し、梁と侯景の連合軍は破れて敗走します。窮鼠猫を咬むといいますが、寿春(安徽省寿県)に逃げ帰った侯景は、梁が東魏と和睦して自分を東魏に引き渡すのではないかと恐れ、兵を率いて梁都建康に攻め寄せて来ました。
     地方の貧窮の民が合流したため侯景の軍は大軍となり、梁都は四か月の籠城の末に陥落します。八十六歳の武帝は侯景に捕えられ、二か月後に憤死します。梁都を占領した侯景は大宝二年(551)に即位して漢帝を称しますが、荊州(湖北省江陵県)の王僧弁(おうそうべん)の軍と広州(広東省広州市)の陳覇先(ちんはせん)の軍に攻められて滅びます。史上「侯景の乱」と称される動乱は終了しますが、都建康は荒れ果ててしまいました。
     そのころ四十一歳になっていた庾信は、梁の使者として西魏の長安に赴きます。ところが、長安滞在中に西魏が滅んで北周になるという政変に遭遇し、長安に抑留されてしまいます。そのとき梁でも、実力者の陳覇先が梁の敬帝に禅譲をせまって陳王朝が成立します。そのため、庾信は故郷に帰ることができなくなりました。
     そのご、庾信は知識人としての教養を認められて北周に仕えるようになり、以後、望郷の思いを詩につづるようになります。杜甫が高く評価するのは、北朝に仕えるようになってからの庾信の詩です。
     詩題の「詠懐に擬す」は魏の阮籍(げんせき)の詠懐詩(2月23日のブログ参照)に倣うという意味ですが、政事的偽装でしょう。其の三の詩は四、四、二句に区分して読むことができ、はじめ四句の「爼豆」は祭事に用いる器のこと、政事を意味します。「帷幄」は天幕のことで軍事を指します。この二句は自分は政事にも軍事にも向いていないというのです。「班定遠」は西域制覇の功績で定遠侯に封ぜられた後漢の班超(はんちょう)のことです。自分は班超のような人物になろうとは思わないと詠います
     つぎの四句では、燕の旅人や秦の人が故郷の川「遼水」や山「隴頭」を慕うのは当然のことといい、自分は故郷から引き離され、「倡家」(妓女を置く家)の女か「質子」(人質の子)のように無理やりに抑留されていると詠います。最後の二句は以上を総括して、自分の運命を嘆くのです。

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     南北朝41ー庾信
       擬詠懐二十七首      詠懐に擬す 二十七首 
       其七              其の七

      楡関断音信     楡関(ゆかん)   音信(おんしん)断(た)たれ
      漢使絶経過     漢使(かんし)   経過(けいか)絶ゆ
      胡笳落涙曲     胡笳(こか)     落涙(らくるい)の曲
      羌笛断腸歌     羌笛(きょうてき)  断腸(だんちょう)の歌
      繊腰滅束素     繊腰(せんよう)  束素(そくそ)を滅じ
      別涙損横波     別涙(べつるい)  横波(おうは)を損(そこ)なう
      恨心終不歇     恨心(こんしん)  終(つい)に歇(や)まず
      紅顔無復多     紅顔(こうがん)  復(ま)た多きこと無し
      枯木期填海     枯木(こぼく)    海を填(う)めんことを期し
      青山望断河     青山(せいざん)  河(か)を断(た)たんことを望む

      ⊂訳⊃
              楡関からの  夫の便りは途絶え
              漢の使節の  往来も絶えました
              胡笳の曲は  涙を誘い
              羌笛の音は  断腸の歌を奏でます
              白絹の腰は  束ねたように細くなり
              悲しい涙で  目はみにくく曇ります
              この恨みは  とどめようがなく
              私の若さも  永くはつづかないでしょう
              枯木の枝で  海を埋め立て
              山を崩して  黄河を堰き止めたいと思います


     ⊂ものがたり⊃ 其の七の詩では閨怨詩の手法を借り、夫と別れて暮らす妻の立場に立って思いを述べます。時代は漢、場所は長安に設定し、五聯全部が対句になっているのは注目すべき手法です。
     はじめの四句、「楡関」(陝西省楡林県の東)は戦国時代の関所で、長安の北の辺境にありました。夫は楡関に行ったまま音信が絶えたというのは、故国との繋がりを失くした自分を暗喩するものでしょう。「胡笳」も「羌笛」も西北異民族の笛で、夫はその曲を聞いて涙を流しているであろうと想像します。それは、庾信が胡族の北朝に捕らえられている悲しみを暗にいうものでしょう。
     つぎの四句は妻自身のようすを描き、将来を悲観する気持ちを述べます。「束素」は束ねた白い練り絹のことで、細い腰がいっそう細くなったといいます。「横波」は楚辞以来、女性の綺麗な眼差しの喩えで、美しい瞳も悲しみの涙で曇っていると詠います。「紅顔」は若々しさの喩えで、それも永くはつづかないであろうと嘆きます。
     最後の二句は気を取り直して自分を励ますもので、「枯木 海を填めんことを期し」は『山海経』にみえる精衛(せいえい)という鳥の伝説です。枯れ枝で海を埋め立て、山を崩して黄河を堰き止めるような努力をしても、私は夫に会うつもりだと結んで、帰国の志の固いことを述べるのです。

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     南北朝42ー庾信
       寄王琳            王琳に寄す

      玉関道路遠     玉関(ぎょくかん)  道路(どうろ)遠く
      金陵信使疏     金陵(きんりょう)  信使(しんし)疏(まれ)なり
      独下千行涙     独り千行(せんこう)の涙を下(くだ)し
      開君万里書     君が万里(ばんり)の書(しょ)を開く

      ⊂訳⊃
              玉門関への道は遠く

              金陵の使者はめったに来ない

              私はひとり   とめどなく涙を流し

              万里の彼方  君から届いた書を開く


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「王琳」(おうりん)は梁の将軍で、侯景の乱の平定に功績がありました。その王琳からの書信に答える詩です。詩は二組の対句からなっており、前半の「玉関」は玉門関(甘粛省敦煌の西)のことです。庾信は現実には長安にいるわけですので、遠い異国にいることを強調していることになります。もしくは、長安の名を避けて詠っているとも考えられます。
     「金陵」は南朝の都建康の古名であり、梁の使者もめったに来ないと、故国との連絡が途絶えたことを嘆きます。後半二句は簡潔な対句表現で、涙を流しながら王琳からの書信を開いたと詠うのです。

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     南北朝43ー庾信
        梅花                梅花
     
      当年蝋月半     当年(とうねん)  蝋月(ろうげつ)半(なか)ばにして
      已覚梅花闌     已(すで)に覚(おぼ)ゆ  梅花(ばいか)の闌(たけなわ)なるを
      不信今春晩     信ぜず  今春(こんしゅん)の晩(おそ)きを
      倶来雪裏看     倶(とも)に来たって  雪裏(せつり)を看(み)る
      樹動懸冰落     樹(き)動いて懸冰(けんぴょう)落ち
      枝高出手寒     枝(えだ)高くして手を出(い)だせば寒し
      早知覓不見     早(つと)に  覓(たず)ぬるも見えずと知らば
      真悔著衣単     真(まこと)に著衣(ちゃくい)の単(ひとえ)なるを悔(く)ゆ

      ⊂訳⊃
              かつては   十二月も半ばになれば
              梅の花は   盛りを過ぎたと思ったものだ
              こんなにも  春が遅いと思わずに
              友を誘って  雪の中の梅を見る
              木が動けば つららが落ち
              高い枝に   手を伸ばすと凍えそうだ
              梅見には   早過ぎると知らなかったので
              単衣の服で 出てきたのが悔やまれる


     ⊂ものがたり⊃ 「梅花」の詩では北国の春の遅いことを詠い、南朝で過ごした往時を懐かしみます。四句ずつ前後に分かれ、「当年」は昔のことです。つまり、江南では「蝋月半ば」(陰暦十二月半ば)には梅の花は盛りを過ぎたものだと回顧します。そして、北国では春がこんなに遅いとは思わなかったので、友人と雪の中を梅見にやって来た状況を設定します。
     後半は雪中の梅見のみじめさを詠うもので、木が動けば花びらの代わりに氷柱(つらら)が落ち、昔やったように梅の枝に手を伸ばすと、手が凍えそうになると詠います。最後は薄着をして出て来たのが悔やまれると結んで、自分の運命を嘆くのです。
     庾信は北周の建国後二十五年間も北朝に仕え、驃騎大将軍、開府同三司にいたります。しかし、ついに帰国できないまま長安で亡くなりました。享年六十九歳でした。
          

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     南北朝44ー王褒
        渡河北             河北に渡る

      秋風吹木葉     秋風(しゅうふう)  木葉(もくよう)を吹けば
      還似洞庭波     還(ま)た洞庭(どうてい)の波に似たり
      常山臨代郡     常山(じょうざん)  代郡(だいぐん)に臨み
      亭障遶黄河     亭障(ていしょう)  黄河を遶(めぐ)る
      心悲異方楽     心は異方(いほう)の楽(がく)を悲しみ
      腸断隴頭歌     腸(はらわた)は隴頭(ろうとう)の歌に断(た)たる
      薄暮臨征馬     薄暮(はくぼ)  征馬(せいば)に臨み
      失道北山阿     道を北山(ほくざん)の阿(くま)に失う

      ⊂訳⊃
              秋風が木の葉を散らす様子は
              洞庭湖の波に似ている
              常山の関所は   代郡を見おろし
              黄河に沿って   砦が並ぶ
              異国の楽の音は 私を悲しませ
              「隴頭の歌」には  断腸の思いが募る
              日暮れに   馬を進めていると
              北の山間で  帰りの道が分からなくなった


     ⊂ものがたり⊃ 西魏に拘束され、そのまま北周に仕えて帰国できなかった南朝の知識人は庾信だけではありませんでした。王褒(おうほう)もそのひとりです。王褒(513?ー576)は琅琊の王氏一族の末裔で、生まれたのは庾信とほぼ同じです。梁の武帝にときに南昌県侯に封ぜられ、梁の末期には左僕射として江陵の元帝の宮廷に仕えていました。承聖三年(554)、西魏の大軍が江陵に押し寄せて来て、江陵は占領されます。
     王褒はこのとき捕えられて長安に連行され、北周が西魏を滅ぼすと、知識人として北周に重く用いられます。累進して車騎大将軍・少司空になり、亡くなったのは庾信よりも早く、享年六十四歳と推定されています。
     「河北に渡る」は王褒の代表作とされており、北朝の辺塞の光景を詠い、望郷の思いを吐露しています。北周で軍務についていたときの作でしょう。中四句を前後の各二句で囲む形式で、はじめの二句は楚辞「九歌」湘夫人の句を踏まえ、故郷の洞庭湖の秋を偲びます。
     中四句の「常山」は漢の代郡(河北省東北)にあった二関のひとつ常山関を指すとみられ、漢代の北の守りです。「亭障」は辺塞(国境の砦)のことで、黄河に沿って並んでいるというのも漢代の北の守りをいうのでしょう。「隴頭の歌」は梁の鼓角横吹曲のひとつで、隴山・隴阪(甘粛省甘谷県付近)の険路を詠うものです。
     結びの二句は魏の曹操の「苦寒行」(今年1月24日ー26日のブログ参照)の句を下敷きにしていますが、「道を北山の阿に失う」というのは北からもどれなくなった自分の運命を比喩的に詠うものでしょう。

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     南北朝45ー歌謠
       子夜歌              子夜歌

      落日出前門     落日(らくじつ)  前門(ぜんもん)に出(い)でて
      瞻瞩見子度     瞻瞩(せんしょく)するに  子(きみ)の度(わた)るを見る
      冶容多姿鬢     冶容(やよう)   姿鬢(しびん)多く
      芳香已盈路     芳香(ほうこう)  已(すで)に路(みち)に盈(み)てり
        〇                 〇
      芳是香所為     芳(ほう)は是(こ)れ香(こう)の為(な)す所
      治容不敢当     治容(やよう)は敢(あえ)て当たらず
      天不奪人願     天は人の願いを奪わず
      故使儂見郎     故(ゆえ)に儂(われ)をして郎(ろう)に見(まみ)えしむ

      ⊂訳⊃
              門前に立って  眺めていると
              夕映えの中を  君がやってくる
              豊かな髪    あでやかな姿
              道いっぱいに  よい香りが満ちわたる
                     〇
              よい香りって  香料のせいですよ
              艷やかなんて  とんでもありません
              神さまが  私の願いを聞きとどけ
              あなたに  会わせてくださいました


     ⊂ものがたり⊃ 南朝最後の王朝陳にはいる前に、歌謠をいくつか取り上げます。詩はもともと民間の歌謠が知的に洗練されて生み出されてもので、『詩経』国風はその最初のアンソロジーと言っていいでしょう。
     南北朝時代になると、知識人のつくる詩とは別に民間歌謡が盛んに作られるようになりました。その一部が知識人の手によって記録され、後世に残されます。歌謠に五言四句のものが多いのは、この時代になると庶民の生活感覚が農民的な四言のリズムから騎馬民族的な五言のリズムに変化したためだと説明されています。
     歌謠は一般に作者名がない、というより特定されていません。「子夜歌」(しやか)はもと呉歌と呼ばれる江南の民謡の一種であったようです。「子夜」という名の女性に始まったという伝えもあり、ほとんどが恋の歌です。
     掲げた二首は『楽府詩集』所載の四十二首のうちの一組で、男女の問答体になっています。二首は「冶容」と「芳香」が相関語(懸け言葉)になっていて、つながりが示されています。問答で見るかぎり、ロマンチックな男性に対して、女性の応答は醒めており、現実的です。なお、二首目の「儂」は呉地方の方言で、男女共に用いる自称です。

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     南北朝46ー歌謠
       子夜四時歌         子夜四時の歌 (春)

      春林花多媚     春林(しゅんりん)  花  媚(みめよ)きこと多く
      春鳥意多哀     春鳥(しゅんちょう) 意  哀しみ多し
      春風復多情     春風(しゅんぷう)  復(ま)た情(じょう)多く
      吹我羅裳開     我(わ)が羅裳(らしょう)を吹いて開かしむ

      ⊂訳⊃
              春の林に咲く花は   ほんとうに美しく

              春の小鳥の鳴く声は  哀しく哀しく聞こえます

              春風は  なんていたずら者でしょう

              薄絹の裳裾を吹いて  ひろげるわ


     ⊂ものがたり⊃ 「子夜四時の歌」(しやしいじのうた)は子夜歌の影響を受けて生まれた歌謠で、東晋から宋・斉までの作七十五首が『楽府詩集』に収録されています。季節を四季に取っているのが特徴で、各季節から一首を選び、四回に分けて掲げます。
     掲げる春の歌は女性の立場に立つ作です。春の林のなかをうっとりとして歩いていると、「多情」(気が多い)な春風が吹いて来て、裳裾を吹き上げたというコミカルな歌です。

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     南北朝47ー歌謠
       子夜四時歌         子夜四時の歌 (夏)

      春桃初発紅     春桃(しゅんとう)  初めて紅(くれない)を発し
      惜色恐儂摘     色(いろ)を惜(お)しんで儂(わ)れの摘むを恐る
      未夏花落去     未(いま)だ夏ならざるに花(はな)落ち去らば
      誰復相尋覓     誰か復(ま)た  相尋(あいたず)ね覓(もと)めん

      ⊂訳⊃
              春に色づく桃の花

              美人だからと頭が高い

              夏になる前  花が散り

              誰も訪ねて来なくなる


     ⊂ものがたり⊃ 夏の歌は男性の立場に立つ歌です。自分を相手にしてくれない美女に、花が散ってしまえば誰も訪ねては来ないと恨みごとを言っています。

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     南北朝48ー歌謠
       子夜四時歌         子夜四時の歌 (秋)

      秋風入窗裏     秋風(しゅうふう)  窗裏(そうり)に入り
      羅帳起飄颺     羅帳(らちょう)   起こりて飄颺(ひょうよう)す
      仰頭看明月     頭(こうべ)を仰(あ)げて明月を看(み)
      寄情千里光     情(じょう)を千里の光(ひかり)に寄す

      ⊂訳⊃
              窓から秋風が吹いてきて

              絹の帳をひるがえす

              顔を上げて  明月を仰ぎ

              千里の彼方  想いのたけを届けてほしい


     ⊂ものがたり⊃ 秋の歌は男女共に通用する歌です。明月を見上げて、遠いところにいる恋人に自分の想いを届けてほしいと詠います。

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     南北朝49ー歌謠
       子夜四時歌         子夜四時の歌 (冬)

      昔別春草緑     昔(きのう)  別れしとき春草(しゅんそう)緑なりき
      今還墀雪盈     今(きょう)   還(かえ)るや  墀雪(ちせつ)盈(み)つ
      誰知相思老     誰か知らん  相思(そうし)に老い
      玄鬢白髪生     玄鬢(げんびん)に白髪(はくはつ)の生ずるを

      ⊂訳⊃
              前にお別れしたときは  若草茂る春でした

              やっと今お帰りになり   庭には雪が積もっています

              恋にやつれたこの思い  誰がわかってくれるでしょう

              黒髪も  白髪まじりになりました


     ⊂ものがたり⊃ 春に旅に出た夫、もしくは恋人が冬になって帰ってきました。さんざん待たされた女性が恨みごとを言っています。庶民が旅に出るのは商業のためと思われます。「墀」は石を敷き詰めた庭のことですので、農家ではないでしょう。

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     南北朝50ー歌謠
       長干曲                長干曲

      逆浪故相邀     逆浪(げきろう)    故(ことさら)に相邀(あいむか)う
      菱舟不怕揺     菱舟(りょうしゅう)  揺るるを怕(おそ)れず
      妾家揚子住     妾(しょう)が家    揚子(ようし)に住み
      便弄広陵潮     便(すなわ)ち広陵(こうりょう)の潮(うしお)を弄(ろう)す

      ⊂訳⊃
              私はあえて  逆巻く波に立ち向かう

              菱摘み舟が  揺れてもこわくはありません

              私の家は   揚子にあって

              揚州の波を  自由自在に操れます


     ⊂ものがたり⊃ 曲名の「長干」(ちょうかん)は首都建康の長江沿岸にあった町で、船運を利用する商業の盛んな港町でした。長干のあたりで作られた民謡を長干曲といいます。
     歌は建康よりも下流の揚州付近に揚子という渡津があり、そこに家のある娘が菱摘み舟を操る腕前を自慢しています。当時は小舟を操って菱の実を摘む作業は、若い娘の仕事でした。歌には働く女性の気っぷのよさが出ています。長干の男に自分を売り込んでいるのでしょうか。
     なお「広陵」は揚州の古名で、このころの長江は揚州に近いところで海に注いでいましたので、波が荒かったようです。

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     南北朝51ー歌謠
       読曲歌             読曲歌

      千葉紅芙蓉     千葉(せんよう)の紅芙蓉(こうふよう)
      照灼緑水辺     緑水(りょくすい)の辺(ほとり)に照り灼(かがや)く
      余花任郎摘     余花(よか)は郎(ろう)が摘むに任(まか)すも
      慎莫罷儂蓮     慎(つつし)んで儂(わ)が蓮(れん)を罷(ゆす)ること莫(なか)れ

      ⊂訳⊃
              池のほとり   緑のなかに照り映えて

              くれないの   蓮の花が咲いている

              ほかの花は   いくら摘んでもいいですが

              私の蓮だけは 揺り落とさないでくださいね


     ⊂ものがたり⊃ 「読曲」(どくきょく)というのは楽器の伴奏なしに低音で吟ずるという意味で、内容的には子夜歌の一種です。宋代のものとして八十九首があり、掲歌は女性の立場に立つもの、「蓮」は憐(恋)に通じます。「郎」(男性)は浮気者であったらしく、浮気はしても私だけは捨てないでと言っています。

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     南北朝52ー歌謠
       読曲歌              読曲歌

      柳樹得春風     柳樹(りゅうじゅ)  春風(しゅんぷう)を得(え)て
      一低復一昂     一低(いってい)  復(ま)た一昂(いっこう)す
      誰能空相憶     誰か能(よ)く空(むな)しく相憶(あいおも)い
      独眠度三陽     独り眠って三陽(さんよう)を度(わた)らん

      ⊂訳⊃
              春風に吹かれた柳

              上へ下へと揺れ動く

              恋しいあなたを  想いつづけて春三月

              ひとりで過ごすことなど  できません


     ⊂ものがたり⊃ この歌も女性の立場に立つものです。「柳樹」はこの種の歌によく出てくる比喩で、春風(男性)に吹かれて揺れる柳を女心に喩えています。「三陽」は春の三か月のことで、足が遠のきはじめた恋人に訴える歌でしょう。


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     南北朝53ー歌謠
       企喩歌             企喩歌

      男児欲作健     男児(だんじ)は健(けん)ならんと欲す
      結伴不須多     伴(つれ)を結ぶに多きを須(もち)いず
      鷂子経天飛     鷂子(ようし)    天を経(へ)て飛べば
      群雀両向波     群雀(ぐんじゃく) 両向(りょうこう)に波だつ

      ⊂訳⊃
              男子たる者   強くありたい

              大勢の仲間を つくる必要はない

              鳶が大空を   ひと飛びすれば

              雀の群れは   さっと両側へ散っていく


     ⊂ものがたり⊃ 今回から北朝の歌謠に移ります。北朝の歌謠のほとんどは、南朝梁の鼓角横吹曲で歌うものであったようです。「企喩歌」(きゆか)は鮮卑族の馬上楽で、四百首も残されているといいます。そのなかの一首ですが、南朝の歌謠から一変して男性的、武人的です。

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     南北朝54ー歌謠
       瑯琊王歌           瑯琊王の歌

      新買五尺刀     新たに五尺の刀(かたな)を買って
      懸著中梁柱     中梁(ちゅうりょう)の柱に懸著(けんちゃく)す
      一日三摩娑     一日に三(み)たび摩娑(まさ)し
      劇於十五女     十五の女(むすめ)よりも劇(はなは)だし

      ⊂訳⊃
              五尺の刀を買い求め

              真ん中の梁柱に吊り下げる

              一日に幾度も撫でさすり

              十五の娘よりも可愛いほどだ


     ⊂ものがたり⊃ 「瑯琊王の歌」(ろうやおうのうた)も南朝梁の鼓角横吹曲で歌うものです。八首中の一首で、歌中に数詞が多く素朴な感じのする男性歌です。

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     南北朝55ー歌謠
       折楊柳歌             折楊柳歌

      遥看孟津河     遥かに孟津河(もうしんか)を看(み)れば
      楊柳鬱婆娑     楊柳(ようりゅう)  鬱(うつ)として婆娑(ばさ)たり
      我是虜家児     我(わ)れは是(こ)れ虜家(りょか)の児(こ)
      不解漢児歌     漢児(かんじ)の歌を解(かい)せず

      ⊂訳⊃
              遥かに孟津の渡しを見れば

              こんもりと   楊柳が茂る

              おれは北虜 胡人の子だ

              漢人の歌など知ってはいない


     ⊂ものがたり⊃ 詩題の「折楊柳歌」(せつようりゅうか)は、本来は旅の別れの歌ですが、そんな南朝の文化に反発しています。「孟津河」は孟津(河南省孟県)にあった黄河の渡し場で、そこに「楊柳」が茂っています。南人には風情のある楊柳も「鬱として婆娑たり」です。
     「虜」は漢人が胡人を呼ぶときの蔑称で、作者は渡し場に茂る楊柳を見て、おれは胡人の子だ、漢人のセンチメンタルな別れの歌などに興味はないと言っています。

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